
【もう一つのカルテ】
【第一章:連絡帳の数字】
家族は、連絡帳に書かれた「食事量:◯割」という数字を見て安心する。スプーン一杯でも多く口に入ることが、生への執着だと信じているからだ。
だが、毎日その身体を拭い、排泄を介助している俺の手は、その栄養がもう肉になっていないことを知っている。
食が細くなり、終末期に向かう身体は、外側の肉から順に消えていく。これは生物として終わりを迎えるための、あまりにも平等で正しいプロセスだ。
そこに無理に栄養を流し込めば、行き場を失った水分は、血流の滞った薄い皮膚を内側から圧迫して水風船のように手足を肥大化させる。実際、四肢がパンパンに膨れ上がる利用者の姿は、現場では珍しくもない。
「食べさせることが本人の負担になっているかもしれない」
そんなことは、家族だって百も承知だ。浮腫で変形していく足を見て、「これでいいのか」と夜も眠れずに葛藤している。無知だから祈っているわけじゃない。それでも、生きていてほしいと願うしか、家族には選択肢がないのだ。
【第二章:質量と重力】
関節が拘縮し、自力で寝返りも打てなくなった身体は、体重移動という協力を完全に放棄する。
重力に逆らうことをやめた肉体をベッドから抱き起こすとき、重さが頭部と臀部に完全に分散される。その結果、俺の腕にかかる負荷は、データ上の体重の倍以上になる。
それはただの物理現象だ。誰のせいでもない。
利用者は、ただ「しんどさ」から解放されることを祈り、重力に身を委ねているだけ。
家族は、その現実と戦いながら、それでも「食べてほしい」と祈る。
そして介護士は、その板挟みのストレスを抱えながら、利用者の皮膚が内側から裂けないように、ミリ単位のポジショニングと除圧に神経をすり減らす。
誰も悪くない。誰も崇高ではない。
全員が、それぞれの立場で、終わりゆく一つの命を前にして、逃げ場のない葛藤を抱えている。
【第三章:カルテの余白】
医療の記録には、安定したバイタルサインや、摂取量のパーセンテージが淡々と並ぶ。経過記録のシートには「バイタル変化なし」「四肢に浮腫あり」と、簡潔な記号となって収まる。
だが、介護士の腕に残る「倍に感じる重さ」や、手のひらが触れる「水風船のような皮膚の張り」には、その記号の裏で全員がすり減らしている、泥臭い葛藤のすべてが刻まれている。
医療の測定器には決して映らない、生物の冷徹なプロセスと、人間の割り切れない想い。
その、どこにも書き写せない余白のことまで、俺はカルテと呼びたい。