
【福祉】認知症の方と生きる―嘘をつくのではなく、安心材料を渡すイメージをしてみる―
認知症を学ぶと、「相手の感じている世界に寄り添う」と出てきます。
現実と異なる言葉が出てきたとき、こちらがそれを訂正すれば、確かに“事実”は整います。
しかしその代わりに、不安や混乱が強まってしまうこともあります。
ノートでもしばしば書いてきましたが、実際その場に直面すると考え込んでしまうことがありました。段々とその経験を重ねるうちに、私は一つの考えに近づいてきました。
それは「嘘をつく」のではなく、「安心材料を渡す」という視点です。
相手を否定するための言葉ではなく、その人が今いる世界の中で、少しでも安心していられるための言葉へと変換する。
それは嘘やごまかしではなく、“安心材料を渡す”感覚に近いものだと感じています。
例えば、「知らない人が家にいる」と不安を訴えられたとき。
ここで「誰もいませんよ」と断言することは簡単です。けれどその言葉は、ご本人の中にある“怖さ”には届きません。
むしろ不安は否定されたことで、より強く残ることがあります。
そこで、
「私が見てきますね」「私が対応して、帰られましたよ」等と返すようにしています。
これは事実の修正ではありません。
しかし「あなたを守る」「あなたの感じている不安を放置しない」というメッセージになります。
不安そのものを消すことはできなくても、
“ひとりではない”という感覚は残せることがあります。

同じ話を何度も繰り返されるときも、同じです。
こちらの感覚ではどうしても「さっき聞いた」「またこの話だ」と感じてしまいます。
しかしその繰り返しは、単なる反復ではなく、その方の中で大事に保持されている記憶の表れでもあります。
だから私は、
「それは大事な思い出ですね」
「よく覚えていらっしゃいますね」
と受け取るようにしています。
話を止めるのではなく、その記憶の意味を一度こちらが引き受ける。
そうすることで、会話は“遮断”ではなく“共有”に変わっていきます。
繰り返しは困りごととして現れますが、見方を変えると、それは「消えかける記憶を何度も手に取って確かめている行為」なのかもしれません。

そして最も揺れるのが、「帰りたい」という言葉です。実際、外へ行こうとされることもあります。
明らかに今いる場所が家であっても、「帰りたい」と言われることがあります。
このとき、地理的な正しさを強調しても、安心にはつながらないことがあります。
「ここが家ですよ」と言うことはできても、
その人の中で失われている“帰る感覚”までは補えないからです。
そんなとき私は、
「どなたに会いたいですか?」「帰ったらどんなことをしたいですか?」と尋ねることがあります。
すると、「帰りたい場所」は建物ではなく、人や時間の記憶として現れることがあります。
母かもしれないし、子どもの頃の家かもしれません。あるいは“安心していた自分自身”なのかもしれません。また、自分の役割や楽しい思い出を取り戻したいのかもしれません。
そのとき必要なのは、場所に戻ることではなく、その「会いたい気持ち」「成したいこと」に一度寄り添うことで、その奥にある想いを、明かして下さることもあります。

難しいのは、正しさと安心が一致しない瞬間があることです。
事実を守ることと、その人の心を守ることが、同じ方向を向かないことがあります。
そのとき、どちらを選ぶかではなく、
「どうすればこの人が少しでも安心して今を過ごせるか」という視点に立ち直すことが求められるように思います。
それは決して“嘘をつこう”と騙す事ではありません。むしろ、現実の鋭さを少しやわらかくして、その人が受け取れる形に変える作業です。
正しさをそのまま渡すのではなく、
安心という形にして渡し直すこと。
その繰り返しの中で、私は「ケアとは何か」を何度も問い直している気がします。
最後までご覧頂き、ありがとうございました。