メインコンテンツへスキップ
見出し画像

【泥と蓮】 神眼|後編 ー夏の果てー

    あらすじ

    サベルネが御嶽山へ発った夜、地下室のダムの仕込みが一斉に目覚めた。獣性に呑まれかけたサラを、救ったのは苗子だった。山頂のサベルネは雷神の試練に耐え、失ったものを授かる。戻った洋館で見たのは、傷だらけのサラと、消えた苗子の不在。西の空を視ながら、彼は赦さないと誓う。(約13,000字)

    ───

    Ⅵ. 最後の命


    サベルネが発った翌朝。

    洋館は静かだった。

    サラは居間の窓際に座っていた。庭の松が風に揺れている。蝉の声が遠くから聞こえる。穏やかな朝だった。

    足音がしない足音が近づいてくる。

    「サラ様」

    苗子が盆を手に立っていた。朝餉の膳。白い飯と味噌汁、焼き魚と漬物。

    「召し上がってください」

    サラは頷いた。膳を受け取り、箸を手に取る。

    苗子はすぐには去らなかった。縁側に腰を下ろし、庭を眺めている。サラが食べるのを、横目で見ている。

    静かな朝だった。箸が茶碗に当たる音。鳥の声。風が松を揺らす音。

    「味噌汁、少し濃かったでしょうか」

    「いいえ」

    「そうですか」

    苗子は微笑んだ。それだけだった。

    だが、その「それだけ」が、サラの胸の奥を揺らした。誰かと同じ空間で、黙って朝餉を食べる。それを見守られている。こんな朝を過ごしたことがない。

    サラは黙って味噌汁を啜った。苗子は庭を眺めていた。

    昼になった。

    苗子がサラの髪を整えていた。居間の縁側で、庭を眺めながら。

    「少し傷んでいますね」

    「そうですか」

    「旅が長かったのでしょう。櫛を通しておきます」

    苗子の指が、サラの髪を梳いていく。引っかかる箇所があると、丁寧にほどいていく。

    サラは何も言わなかった。ただ、苗子の手の動きを感じていた。

    「サラ様」

    「はい」

    「こうしていると、娘ができたような気がします」

    サラは振り向かなかった。振り向けなかった。ただ、胸の奥で何かが揺れていた。

    夕刻になった。

    苗子がお茶を淹れていた。湯気が立ち上り、茶の香りが部屋に広がる。

    「主がお戻りになるまで、あと二日ですね」

    「ええ」

    「何事もなければいいのですが」

    苗子が茶碗をサラに差し出した。サラは受け取り、一口啜る。温かい。

    「苗子」

    「はい」

    「ありがとう」

    苗子が目を見開いた。そして、微笑んだ。目尻に皺が寄る。穏やかな顔。

    「いいえ。私の方こそ」

    苗子はそれ以上言わなかった。ただ、微笑んでいた。

    ───

    夜になった。

    洋館は静まり返っている。サラは自室で横になっていた。眠れない。何かが、胸の奥で騒いでいる。

    カルナーが落ち着かない。

    胸に手を当てる。温かさがある。だが、その温かさが揺れている。不安を伝えている。

    その時、音がした。

    低い音。地鳴りのような音。地下室の方角から。

    サラは起き上がった。

    廊下を歩く。階段を下りる。地下への扉が、微かに震えている。

    扉を開ける。

    地下室への階段は狭かった。壁が迫り、天井が低い。最後の数段が湿っている。

    地下室に入った。

    広かった。広すぎた。天井が高い。白熱灯の光が届かない闇が、頭上に溜まっている。

    棚の呪物が、震えていた。

    青い古瓶が揺れている。日本人形の目が光っている。錆びた装飾鏡が軋んでいる。棚の隅の煤けた招き猫が、赤く脈動している。

    全ての呪物が、目を覚まそうとしていた。

    サラの鼻が蠢いた。匂いがする。赤い泥の匂い。サクヤンの匂い。ダムの匂い。

    前に地下室に下りた時には、こんな匂いはしなかった。いつの間に。これほど多くの仕込みを、いつの間に。

    棚から、影が溢れ出した。

    一体。二体。三体。次々と。呪物から霊体が這い出してくる。女の影。男の影。子供の影。獣の影。人の形をしていないものもいる。

    地下室が、影で埋まっていく。

    サラの顔が歪んだ。鼻筋から左右に亀裂が走る。サバイが締まりかけたが、サラは意志で緩めた。

    巨大な顎が現れた。人の胴ほどもある黒い塊が、無数の牙を剥き出しにして宙に浮かんでいた。黒い牙と白い牙が交互に並び、闇よりも深い闇がその奥に広がっている。

    影が襲いかかってきた。

    宙の顎が、最初の影に落ちた。女の影。悲鳴が響く。砕き、呑み込む。

    次。男の影が飛びかかる。だが、その上に、顎が落ちた。腕を噛みちぎる。胴を裂く。呑み込む。

    次。次。次。

    サラは喰らい続けた。影が襲いかかり、顎が落ち、噛み砕き、呑み込む。肉を裂く音。骨を砕く音。魂が引き裂かれる音。

    一体。また一体。また一体。

    地下室の影が、少しずつ減っていく。サラの体に、いつもと違う何かが宿っていた。目つきが据わり、獰猛な躍動が体に宿っている。動きは止まらなかった。

    十体。二十体。三十体。

    全てを喰らった。

    地下室は静まり返っている。棚の呪物は沈黙している。影は消えた。

    サラは息を吐いた。裂けた口が閉じていく。

    ──喰らい尽くした。

    そう思いかけた、その瞬間だった。

    煤けた招き猫が、真っ赤に光った。

    地下室全体が震えた。棚が倒れる。呪物が床に散らばる。天井から埃が落ちてくる。

    そして、何かが、目を覚まそうとしていた。

    床から。壁から。天井から。喰い残しの呪気が集まっていく。散らばった呪物から、黒い霧が立ち上る。霧が絡み合い、融合し、形を取り始める。

    これまでの霊体とは、全く違うもの。これまでサラが喰らってきた何十体もの影が、前触れに過ぎなかったと知らせる、別格の気配。地下室の空気が、その存在の重みで歪み始めていた。

    黒い影が、ゆっくりと形を取っていく。

    一つの体ではなかった。何体もの体が、無理やり押し込められたような形。腕が、胴から不自然な角度で生えている。顔が、複数の場所から覗いている。それぞれの顔が、それぞれの方向を見ている。喰われた者たちの怨念が、一つの肉体に凝縮されていた。

    無数の腕。無数の牙。無数の顔。地下室の天井に届くほどの巨体。サラの何倍も大きい。

    その体に、赤い文様が刻まれていた。サクヤン。ダムの呪術。

    ダムの真の仕込み。

    これまでの霊体は、全て、これに辿り着くための前触れに過ぎなかった。

    サラは再び口を開こうとした。喰らおうとした。

    だが、牙が空を噛んだ。

    サクヤンの文様が光り、サラの裂けた口を焼いている。牙が軋む。肉が焦げる匂いがする。喰えない。噛み砕けない。

    サラの足元から、黒い影が這い出した。泥から生まれた影。槍のように鋭く伸び、無数の腕を突き刺そうとする。

    赤い光が走った。サクヤンの文様が影に絡みつき、焼いていく。影が悲鳴を上げるように縮み、灰になって崩れ落ちた。

    体が引き裂かれようとしている。

    巨体の腕が伸びた。

    サラの体を掴んだ。

    ──カルナー。

    心の中でしか、その名を呼べなかった。

    引きずり倒される。床に叩きつけられる。背中に衝撃が走る。息が詰まる。

    腕が、サラの足を掴んだ。別の腕が、腕を掴んだ。また別の腕が、首を掴んだ。

    引き裂かれそうになる。

    四肢が、違う方向に引っ張られている。関節が軋む。筋が伸びる。骨が悲鳴を上げる。

    牙が、サラの肩に食い込んだ。

    肉が裂ける。血が噴き出す。

    また別の牙が、脇腹に。また別の牙が、太腿に。全身を噛みちぎられていく。

    声にならない悲鳴。痛みが全身を駆け巡る。

    口を開こうとする。だが、開かない。首を掴まれている。

    サバイが、限界まで張っていた。これまで何度も、内側からサラの獣性を押さえ、外側からダムの呪術を撥ねてきた白い布が、今、震えながら張り詰めている。カルナーの祈りが、最後の一糸まで、サラを守ろうとしていた。

    だが、足りなかった。

    巨体の力の方が、強い。サバイの白い光が、少しずつ薄れていく。

    血が流れる。床が赤く染まっていく。

    意識が薄れていく。

    胸の奥で、カルナーの声が聞こえた。遠い。かすかな声。

    ──サラ、ここに居ては、いけません。

    逃げられない。動けない。

    ──サラ。

    もう一度、名前だけが、響いた。

    警告ではなかった。指示でもなかった。ただ、名前を呼ぶ。失われそうなものを、繋ぎ止めるように。

    牙が、サラの首に迫った。喉笛を狙っている。喉笛を裂かれたら、終わる。

    サラの奥歯が、軋んだ。

    悔しかった。

    涙が滲んだ。歯を食いしばった。だが、痛みは止まらなかった。

    牙が肩を裂く。脇腹を抉る。太腿を噛みちぎる。一箇所、また一箇所、肉が引き剥がされていく。

    痛みが、思考を焼いた。噛みちぎられ、喰われていく。

    サラの頭の中が、白く、そして、黒くなった。

    喉の奥で、低い唸り声が漏れた。

    サラの声ではなかった。

    肌の色が、変わり始めた。人の肌色が、薄く灰色に染まっていく。手の甲に、ひび割れが走った。乾いた泥が、皮膚の下から浮き上がってくる。

    その時、首元で、何かが熱を持った。

    数珠だった。黒檀の珠が、サラの肌の上で、微かに脈動していた。インタキンの形見。土に還った師が、最期にこの数珠に残していた、ほんの一筋の光が、サラの肌の上で、ゆっくりと動いていた。

    目が、変わった。

    鈍色だった瞳が、底まで黒くなった。瞳孔と虹彩の境目が消え、白目だけが取り残されている。サラの目ではなかった。獣の目だった。

    数珠の脈動が、強くなった。

    サラの首筋で、熱が広がっていく。だが、サラの中の獣を、押し戻すには足りなかった。

    鼻筋の亀裂が、さらに広がった。顎が、勝手にもう一段、裂けた。

    サラの輪郭が、揺らぎ始めた。

    肩の線が、ぼやけた。腕の形が、崩れかけた。すぐに集まる。すぐに崩れる。また集まる。また崩れる。

    人の形が、保てなくなっていた。

    サラの中の最も古いものが、目を覚ましていた。廃寺で、あの光の形になろうとしていた泥。

    その泥が、今、引き返そうとしていた。

    ──還れ。

    ──還れ、泥に。

    声ではなかった。サラの中の泥が、形を失う前の状態を、思い出していた。

    喉の奥が、ぐっと、せり上がった。

    温かいものが、押し上げられてくる。胸の中から、喉へ。喉から、口へ。

    サラは、それを止められなかった。

    唇が、わずかに開いた。

    開いた唇の隙間から、白い光が、零れかけた。

    ──サッベー・サッター・スキター・ホントゥ。

    パーリ語の声が、サラの胸の奥で、響いた。慈悲の経典。全ての生きとし生けるものへの、祈り。

    低い声だった。震えていた。だが、止まらなかった。

    ──サッベー・サッター・アビャーパッジャー・ホントゥ。

    続いた。

    ──サッベー・サッター・アニーガー・ホントゥ。

    もっと弱くなっていた。だが、続いていた。

    ──サッベー・サッター・スキー・アッターナン・パリハラントゥ。

    四つ目の祈りが、響いた。

    すべての者が、安らかに自らを保てますように、と。

    自らを保てぬまま崩れかけたサラの上に、その祈りは、知らずに降ってきた。

    サラの唇が、止まった。

    押し上げられていたものが、止まった。

    黒くなっていた瞳の奥で、鈍色が、薄く戻った。

    揺らいでいた輪郭が、止まった。

    喉の唸り声が、消えた。

    サラの口から、白い光は零れなかった。

    喉の奥で、何かが、ぎりぎりのところに、留まっていた。

    首元の数珠の熱が、ゆっくりと薄れていった。あの夜の光が、ここで、最後の一筋を使い果たして、消えていった。

    涙が、頬を伝った。

    なぜ泣いているのか、サラには分からなかった。

    影の牙が、サラの首に、もう一度迫った。喉笛を、また狙っている。

    もう、保たない。

    ───

    その時。

    足音がしない足音が、聞こえた。

    苗子が、地下室の入口に立っていた。

    ズタズタにされたサラを見ている。目を細めて。だが、その目に涙はない。微笑んでいる。

    苗子が歩み出した。巨体に向かって。一歩。また一歩。

    棚の隅で、煤けた招き猫が光っていた。赤い光ではない。白い光。

    苗子の体も、同じ白い光を放ち始めた。

    招き猫の光と、苗子の光が、一つに繋がった。逆手を上げた招き猫。厄災を招き寄せ、身に引き受ける呪物。

    苗子がサラと巨体の間に飛び込んだ。

    無数の腕が、苗子を掴もうとした。だが、届かない。苗子の体から溢れる白い光が、影を押し返している。

    苗子の体が、巨体を引き受け始めた。

    無数の腕が、苗子の中に吸い寄せられていく。無数の牙が、無数の顔が、白い光に呑まれていく。

    影が悲鳴を上げた。人の声ではない。何十人もの声が重なった、おぞましい悲鳴。

    苗子は止まらなかった。

    全てを引き受けていく。影を。呪いを。ダムの仕込みを。九つ目の命を燃やして。最後の命を、全て使い切って。

    巨体が消えた。

    地下室は静まり返った。

    苗子の体が、崩れ始めた。

    サラは見ていた。動けない。声も出ない。ただ、見ていた。

    苗子が振り返った。サラを見た。微笑んでいた。

    「サラ様」

    声がかすれていた。体が薄れていく。

    「サラ様の傍に、いられて良かった」

    苗子の体が崩れていく。人の姿が薄れていく。

    その下から、別の姿が見えた。

    霧のように淡いグレーのシャム猫。細い体。青い目。九つの命を持っていた猫。八つを使い果たし、最後の一つで、サラを守った猫。

    シャム猫の姿が、光の粒子になって散っていく。

    苗子が消えていった。

    招き猫が砕けた。粉々に。そして破片が床に散らばった。

    サラの手には、何も残らなかった。

    苗子がいた場所に、何もなかった。温かさがなかった。

    サラは手を伸ばした。苗子がいた場所に。

    何もない。

    誰もいない。

    「ミ、ツ、コ」

    声が出た。かすれた声。震える声。

    返事はなかった。

    サラは動けなかった。血が流れている。体が痛い。だが、それよりも、胸が痛かった。息ができなかった。

    胸の奥で、カルナーの声が聞こえた。かすかな声。温かい声。

    ──サラ、こういうときは

    カルナーも、続きを言えなかった。

    サラは泣かなかった。泣き方を知らなかった。

    だが、頬を伝うものがあった。涙だった。自分が泣いていることに、サラは気づいていなかった。

    ただ、手を伸ばしていた。苗子がいた場所に。何もない場所に。

    温かさが、消えていた。

    地下室は静まり返っている。血だらけのサラだけが、残されていた。

    ───

    Ⅶ. 剣ヶ峰


    剣ヶ峰の山頂に、サベルネは立っていた。

    そこには、何もなかった。岩と、風と、雷雲だけ。

    だが、空気が違った。

    霊気が濃い。死者の気配ではない。もっと古い。もっと巨大な存在の気配。山そのものが、サベルネを見ていた。

    雷雲が、ゆっくりと渦を巻き始めた。

    稲妻が光った。雷雲の中に、影が見えた。巨大な影。人の形をしているが、人ではない。

    鳴雷神。

    御嶽山の雷神。この山を守る古い神。インドラの眷属。

    声は、すぐには響かなかった。

    雷雲の中の影が、サベルネを見下ろしていた。値踏みするように。タイの山から渡ってきた異国の神を、長い間、観察するように。

    サベルネは動かなかった。眼帯を押さえた手も、降ろさなかった。岩の上に立ち、左目だけで、雷雲の影を見上げていた。

    やがて、声が響いた。

    「インドラに焼かれた者か」

    低く、重い声。雷鳴のような響き。山全体から響いてくる。

    サベルネは答えなかった。答える必要がなかった。眼帯の下の空洞が、答えだった。

    雷雲の中の影が、わずかに動いた。

    「タイの山から、何故ここまで来た」

    サベルネはすぐには答えなかった。風が、巨躯の周りを吹き抜けていく。眼帯の下の空洞が、灼けるように熱い。

    「取り戻しに」

    サベルネが、ようやく口を開いた。低く、掠れた声で。

    それ以上は、言わなかった。言葉は要らなかった。何を取り戻すのか、雷神は既に知っている。

    沈黙が落ちた。風が止んだ。雷鳴さえも、一瞬途切れた。

    雷雲の中で、影が動いた。観察を終えた者の動き。判断を下す者の動き。

    「ならば」

    声が、低く響いた。

    「見せてみよ」

    ───

    稲妻が落ちた。

    サベルネの体を直撃した。

    白い閃光。全身を貫く激痛。あの日と同じ。インドラの雷と同じ。

    サベルネは叫んだ。声にならない叫び。膝が折れる。岩の上に崩れ落ちる。

    全身が焼けている。皮膚が。肉が。骨が。

    右目の空洞が、灼熱に満たされている。かつて目があった場所が、インドラの炎で再び焼かれている。

    記憶が蘇る。

    あの日。ドイ・ニアトスの山。インドラの雷が落ちてきた日。何も見えなくなった日。全てを失った日。

    「立て」

    鳴雷神の声が響く。

    サベルネは動けなかった。体が言うことを聞かない。痛みが、全身を支配している。

    「立てぬか。タイの山の神よ」

    声に、失望の色が混じった。

    「ならば、ここで果てよ。インドラに焼かれた者は、ここで灰になれ」

    サベルネの目の前が暗くなっていく。

    闇が迫ってくる。

    意識の中で、何かが薄れていく。痛みが、思考を覆っていく。倒れる、と体が判断する。終わる、と魂が悟りかける。

    その時。

    闇の底で、何かが揺れた。

    声ではなかった。記憶でもなかった。サベルネ自身の、最も古い場所にあった、まだ言葉になる前の何か。

    遠い昔。ドイ・ニアトスの山。雨の中で、初めて出会った尼僧。跪いた日。慈悲という言葉を、初めて知った日。

    雷に焼かれ、両目を失い、麓の寺の庭に落ちた日。

    一匹の猫に救われた日。天上の蓮の池で、左目を授かった日。

    長い年月、義眼を探し続けた日々。海を渡り、覚王山の洋館に居着いた日。

    サラに出会った日。

    それら全てが、闇の底で、薄く光っていた。

    サベルネの右手が、岩を掴んだ。

    意識ではなかった。判断でもなかった。ただ、体の奥にある、もっと深い場所が、動いた。

    体を起こす。膝が、悲鳴を上げる。全身が、焼け焦げている。

    だが、立った。

    雷雲の中の影が、わずかに揺れた。

    サベルネは顔を上げた。左目の翡翠が、緑色に揺らいでいる。眼帯の下の空洞が、もう熱を感じていない。代わりに、何か別のものが、サベルネの巨躯に宿っていた。

    退かない、という意志。

    それ以上の言葉は、要らなかった。

    二度目の稲妻が落ちた。

    サベルネの体を貫いた。

    今度は、叫ばなかった。

    両足を踏みしめ、拳を握りしめ、稲妻を受け止めた。

    全身が燃えている。魂が焼かれている。だが、倒れなかった。

    膝が震えている。視界が霞んでいる。だが、立っている。

    稲妻が、何度も落ちた。サベルネは、受け止め続けた。倒れなかった。

    体が焼け続けている。目の前が暗くなる。だが、立ち続ける。

    やがて、稲妻が止んだ。

    ───

    静寂が降りた。

    風が止んでいる。雷雲が、山頂から離れていく。

    サベルネは立っていた。焼け焦げた体で。それでも、立っていた。

    「よかろう」

    鳴雷神の声が響いた。

    「その覚悟、我は受け取った」

    雷雲の中から、影が降りてきた。巨大な影。だが、もう威圧はなかった。

    影がゆっくりと片手を掲げた。天を仰ぐように。祈りを捧げるように。

    その掌の上に、光が凝っていく。

    琥珀色の光。深みのある黄金。その中心で、赤い炎が脈動している。

    金剛雷火眼。

    サベルネは、それが何であるかを、見た瞬間に知った。阿那が告げていたもの。役小角が雷神を調伏した際、雷の直撃を受けた金剛杵の先端が溶けて固まったもの。長い年月、この山頂で守られてきた、雷火の精髄。

    影が、光をサベルネに差し出した。

    言葉はなかった。授ける者と授かる者の間に、それ以上の言葉は要らなかった。

    サベルネは手を伸ばした。

    光に触れた瞬間、熱が走った。だが、稲妻の熱とは違う。内側から燃え上がるような熱。

    サベルネは眼帯を外した。

    右目の空洞が露わになった。インドラに焼かれた跡。何年経っても癒えない傷。

    金剛雷火眼を、その空洞に近づけた。

    宝玉が、自ら動いた。サベルネの眼窩に吸い込まれるように、滑り込んでいく。

    その瞬間。

    山全体が鳴動した。

    地面が揺れる。岩が砕ける。雷雲が再び渦を巻き、稲妻が無数に走る。

    サベルネの体から、熱が溢れ出した。

    右目の空洞が、光に満たされていく。インドラに焼かれた傷跡が、内側から焼き消されていく。痛みではない。浄化だ。

    凄まじい熱量がサベルネの体を駆け巡る。御嶽山の火山としてのエネルギー。不浄を焼き尽くす火の力。

    サベルネは叫んだ。

    今度は、痛みの叫びではなかった。解放の叫び。何年も抱えてきた傷が、癒されていく叫び。

    光が収まった。

    山が静まった。

    ───

    サベルネは立っていた。

    右目が、開いていた。

    琥珀色に輝く目。深みのある濃い黄金色の中に、溶岩のような赤い光が脈動している。まばたきをするたびに、微細な火花が散る。

    視界が変わっていた。

    左目の翡翠は、水面から見上げるような揺らぎを伴う視界。遠くの生命の拍動を捉える目。

    右目の金剛雷火眼は、熱を視る目。闇の中でも、生きとし生けるものの体温が、赤く浮かび上がって見える。

    二つの目が、一つの視界に重なっている。

    サベルネは両手を見下ろした。焼け焦げていたはずの体が、癒えている。完全ではない。傷跡は残っている。だが、もう痛みはない。

    周囲に、陽炎が立ち込めていた。サベルネの体から立ち上る熱が、空気を歪めている。足元の岩が、熱で乾いている。

    鳴雷神の影が、薄れ始めていた。

    最後に、声が響いた。

    「これより先は、汝自身の光で歩め」

    それだけだった。

    加護も、約束もなかった。雷神が告げたのは、ただの事実だった。

    影が消えていく。

    やがて、山頂には静寂だけが残った。

    サベルネは空を見上げた。青い空が広がっている。雲が切れ、陽光が差し込んでいる。

    右目が、光を捉えていた。何年も見ることができなかった、右側の世界。

    サベルネの口元に、喜びはなかった。ただ、深い場所で、何かが定まった。これでいい、と。これからのことは、自分が引き受ける、と。

    右目の奥で、赤い炎が、深く脈動していた。

    その脈動の意味を、サベルネはまだ言葉にできなかった。だが、巨躯の奥に、確かなものが沈んでいた。

    脈動に導かれるように、右目が、西を向いた。

    海の向こうに、何かがあった。サベルネの新しい右目が、そこにある熱を、捉えていた。

    洋館に、サラと苗子が待っている。

    サベルネの体が、薄れ始めた。山の気配と溶け合うように、巨躯が霞んでいく。

    風が、東へ流れた。

    帰るべき洋館へ。

    ───

    Ⅷ. 功徳


    洋館の門を潜った。

    静かだった。

    夕暮れの光が、白い壁に斜めに差している。蝉の声だけが響いている。風はない。木々も揺れていない。庭の松も、枯山水の砂も、サベルネが三日前に出ていった時のまま、止まっているように見えた。

    それが、おかしかった。

    苗子のいる洋館は、いつも、どこかに小さな音があった。茶を淹れる音。障子を開ける音。和装の衣擦れの音。足音そのものはしないが、苗子がいる気配は、館全体に染みついていた。

    その気配が、消えていた。

    サベルネは玄関の扉を開けた。

    「苗子」

    呼んだ。

    返事がなかった。

    廊下は薄暗い。いつもなら、苗子が灯りを点けている。だが、今は消えている。畳まれていない着物が、廊下の隅に置きっぱなしになっている。苗子なら、決してそうしない。

    足を踏み出した。床板が軋む。自分の足音だけが響く。

    その時、声が聞こえた。

    微かな声。祈りの声。

    地下室の方角から。

    イダン・メー・プンニャン

    ミツコ・マートゥヤー・ホートゥ

    スキター・ホートゥ

    パーリ語の祈り。カルナーの声。

    サベルネの足が止まった。

    右目の金剛雷火眼が、熱を感じていた。地下室から立ち上る熱。だが、生きている者の熱ではない。残り火のような、消えかけた熱。乾いた血の温度と、土に還りかけた何かの温度が、混じり合っている。

    嫌な予感が、胸を締めつけた。サベルネは、その予感を振り払えなかった。むしろ、自分の中の何かが、それをすでに知っているような気がした。

    地下室へ向かった。

    ───

    階段を降りた。

    匂いがした。

    血の匂いではない。泥の匂い。赤い泥の匂い。チェンマイの夜の匂いに似ている。だが、もっと古い。何かが終わった後の、乾いた静寂の匂いだった。

    地下室に入った。

    惨状だった。

    棚が倒れている。呪物が床に散乱している。白熱灯が割れ、薄闇が広がっている。壁に亀裂が走っている。サベルネが何年もかけて蒐集(しゅうしゅう)したものが、一夜にして崩れ落ちていた。

    セメントの床に、黒い染みが広がっていた。乾きかけた泥。だが、泥の中に、赤い筋が残っている。かつては血だったものが、時間を経て、泥に変わりつつある。

    棚の隅に、白い破片が散らばっていた。周囲の闇の中で、そこだけが白く浮き上がっている。煤けた招き猫の破片。粉々に砕け、床に散乱している。かつて逆手を上げていた腕の欠片が、泥の中に半ば埋もれていた。

    サベルネは、その破片から目を逸らせなかった。

    逆手の招き。厄災(やくさい)を招き寄せ、身に引き受ける呪物。その招き猫が、ここまで砕けるほどの何かが、起きたのだ。

    そして、泥の中に、人影があった。

    うつ伏せに倒れている。黒い髪。紺色のワンピース。傷だらけの腕。傷だらけの足。

    サラだった。

    サベルネは駆け寄った。巨体が、倒れた呪物を踏み越えていく。胸の奥で、何かが叫んでいた。間に合ってくれ。生きていてくれ。

    膝をついた。サラの体に触れた。

    温かい。

    息をしている。

    生きている。

    サベルネは目を閉じた。安堵の波が、巨体を貫いた。だが、その安堵の底に、すぐに別の感情が滑り込んできた。

    サラが生きている。なら、苗子は。

    胸の奥から、カルナーの祈りが続いていた。

    ひたすら祈っている。他には何も言わない。ただ、祈り続けている。

    その祈りが、答えだった。

    「サラ」

    サベルネが呼んだ。

    低い声。だが、優しい声。娘に呼びかけるように。自分でも、こんな声が出せるとは思っていなかった。

    サラの瞼が、微かに震えた。

    「サラ」

    もう一度、呼んだ。

    サラの目が、ゆっくりと開いた。

    鈍色の瞳が、サベルネを見上げた。焦点が合っていない。だが、見えている。

    「師、か」

    掠(か)れた声。

    「動けるか」

    サラは首を振ろうとした。だが、動かなかった。体が言うことを聞かない。

    サベルネはサラの体を起こした。泥まみれの体を、自分の膝に乗せた。傷の深さが、巨体の指先に伝わってきた。肩。脇腹。太腿。何度も、何度も、噛みちぎられた跡。サラはこれを耐えて、生き延びたのだ。

    サラの目が、サベルネの顔を見つめていた。

    眼帯がない。

    いつもの黒い眼帯がない。代わりに、右目がある。

    琥珀色に輝いている。見たことのない目。深い黄金の中で、赤い炎が脈動している。まばたきをするたびに、微細な火花が散っている。

    だが、サベルネだと分かる。

    「苗子は」

    サベルネが問うた。

    ある程度は、分かっているような声だった。

    サラは口を開いた。だが、声が出なかった。喉が、まだ言葉を覚えていなかった。

    「苗子は」

    もう一度、問うた。

    サラの唇が、震えた。

    「苗子は」

    ぽつりと、言葉が出た。

    「消えました」

    沈黙が落ちた。カルナーの祈りだけが、続いている。地下室の闇の中で、その祈りだけが、生きている音だった。

    「九つ目の命で」

    サラの声が、少しずつ強くなっていく。一語ずつ、自分に確かめるように。

    「私を守ってくれました」

    吐き出すように。

    「ダムが仕込んだものを、全部抱えて」

    涙が、目尻に溜まっていく。

    「消えました」

    声が震えていた。

    「最後の命で、私を守ってくれました」

    涙が、頬を伝った。サラは泣いていた。自分が泣いていることに、今度は気づいていた。地下室で初めて流した涙の続きが、今、サベルネの前で零(こぼ)れていた。

    「霧のように淡いグレーの。細い体。青い目」

    サラは続けた。

    「タイの猫でした」

    サベルネの動きが、止まった。

    時間が、巨体の中で、一瞬、流れを変えた。

    あのシャム猫だ。

    遠い昔の、あの夜。インドラの雷に焼かれた日。瀕死の体で麓の寺に落ちた時。傍らにいた猫。霧のように淡いグレーのシャム猫。傷だらけの自分を見つめていた、青い目。

    あの夜、自分は死にかけていた。全身を焼かれ、麓の寺の庭に落ちた。もう終わりだと思った。だが、インドラの最後の雷は落ちてこなかった。雨の中、誰かが自分を守ってくれた。目が見えなかったから、分からなかった。後にインタキンの祠に身を寄せた時、一匹の猫が現れた。霧のように淡いグレーのシャム猫。その猫に導かれ、天上の蓮の妖精のもとへ辿り着き、左目を得た。あの猫は、深く疲れた目をしていた。まるで、命を削った後のような。

    あの猫が、自分を救ったのだ。そう悟った。だが、猫はすぐに姿を消した。追う力もなかった。

    その後、日本に渡り、覚王山の洋館に住み着いた。気づけば、苗子という女中がそこにいた。足音のしない女。シャム猫のような青い目をした女。雨に濡れた毛並みのような、少し寂しくて温かい匂いのする女。

    薄々、気づいていた。

    だが、確かめなかった。確かめることが、怖かった。

    問えば、苗子はこの館から消えてしまう気がした。それが、苗子のためなのか、自分のためなのか、サベルネには分からなかった。ただ、確かめないことが、二人の間の暗黙の約束のようになっていた。

    九つの命を持つ猫。タイの伝承にある、聖なる猫。一つの命を使うたびに、少しずつ消えていく猫。

    あの夜、自分を救うために、八つ目の命を使ったのだ。

    そして今、サラを救うために、最後の命を。

    サベルネの巨体が、微かに震えた。

    声は出さなかった。だが、琥珀色の右目に、熱いものが滲んでいた。雷神の試練を受けても流さなかった涙が、今、零れていた。

    もっと早く、確かめていれば。

    もっと早く、帰っていれば。

    インタキンの時と同じだ。あの時も、間に合わなかった。義兄弟が泥に還される瞬間に、自分はそこにいなかった。すぐに駆けつけていれば、何かが違ったかもしれない。今度もまた、間に合わなかった。

    守るべき者を、また守れなかった。

    サベルネは目を閉じた。琥珀色の右目と、翡翠の左目が、同時に閉じられた。

    カルナーの祈りが、続いていた。

    闇の中で、その祈りだけが、苗子という存在をこの世に繋ぎ止めているように、サベルネには感じられた。

    ───

    サベルネはサラを抱き上げた。

    軽かった。傷だらけで、泥まみれで、それでも軽かった。サラがこんなに小さかったとは、知らなかった。

    階段を上り始めた。一段。また一段。サラを抱いたまま、地下室から出ていく。倒れた呪物の山を踏み越え、亀裂の走った壁の間を抜け、薄闇から、上の世界へ。

    サラは何も言わなかった。サベルネの胸に顔を埋めていた。涙が止まらなかった。

    廊下に出た。窓から光が差し込んでいる。夕暮れの光。茜色が、廊下の床板に細く伸びている。

    苗子が掃いていた廊下。苗子が灯りを点けていた廊下。今は、誰もいない。

    サベルネは、ゆっくりと歩いた。サラを抱いたまま。一歩ごとに、自分の足音だけが響く。苗子の足音のしない足音は、もう、どこにもない。

    サベルネが口を開いた。

    「よく生き残ってくれた」

    低い声。掠れた声。涙の滲んだ声。

    「もういい。休め」

    その言葉で、サラの目から新しい涙が溢れた。止まらなかった。声を上げて泣いた。生まれて初めて、誰かの腕の中で泣いた。サベルネの胸が、サラの涙で濡れていく。サベルネはそれに気づいていた。気づいていたが、何も言わなかった。

    サベルネは何も言わなかった。ただ、サラを抱いていた。

    胸の奥から、カルナーの声が聞こえた。

    ──イダン・メー・プンニャン。

    ──ミツコ・マートゥヤー・ホートゥ。

    ──スキター・ホートゥ。

    パーリ語の祈り。慈悲の経典の中の、功徳廻向の一節。功徳を、母なる存在に捧げる祈り。サベルネの胸に抱かれたサラの中で、カルナーは、消えた苗子のために、その祈りを唱え続けていた。

    ───

    夜が訪れた。

    洋館は静まり返っている。苗子のいない洋館。

    苗子が茶を淹れていた台所。苗子が朝餉(あさげ)の膳を運んでいた廊下。苗子が髪を整えてくれた縁側。苗子が「主がお戻りになるまで、私がお傍におります」と微笑んだ玄関。すべての場所に、苗子の不在が、薄く沈殿している。足音のしない足音は、もう、聞こえない。

    だが、三人が、残されていた。サベルネ。サラ。そして、胸の中のカルナー。

    カルナーの祈りは、まだ続いている。功徳を母ミツコに捧げる祈り。その祈りが届く場所は、もう、ここにはない。だが、祈りは止まらない。届かない祈りこそが、最も深い祈りなのだと、サラはぼんやりと感じていた。

    サベルネは縁側に立っていた。サラを部屋で休ませてから、独りで、夜の庭を眺めている。

    琥珀色の右目が、西を向いていた。

    何年も見ることのできなかった右側の世界。その視界の遥か向こうに、海がある。海の向こうに、タイがある。チェンマイがある。そこに、あの男がいる。

    ダム。

    サベルネの右目の奥で、赤い炎が脈動した。金剛雷火眼。不浄を焼き尽くす火の力。

    インタキンを失った。苗子を失った。同じ男の手で。同じ手のひらの上で踊らされて。

    二度は、許さない。

    声には出さなかった。だが、巨体の奥で、低い声が響いていた。山が唸るような、岩が軋むような、サベルネ自身にしか聞こえない声。

    サラもまた、自室の窓辺に座って、西を見ていた。傷だらけの体に、苗子が用意してくれていた寝間着が掛かっていた。最後の世話だった。袖から覗く腕に、噛みちぎられた跡が幾筋も残っている。だが、それより深い場所に、別の傷があった。

    舌の奥に、微かな味が残っていた。地下室であの仕込みを浴びた時に染み込んだ味。冷たく計算された呪術の痕跡。湿った土の匂い。土留めが崩れる前の匂い。

    ダムの匂い。

    サラの胸の奥で、カルナーの祈りが続いていた。母ミツコのために。安らかでありますように。

    その祈りに、サラは静かに加えた。声には出さず、ただ心の中で。

    苗子のために。インタキンのために。

    そして、ダムを赦さない、わたしのために。

    窓の外で、蝉が鳴いている。

    夏は、まだ終わらない。

    だが、夏の先に、何かが待っていた。

    ───

    【泥と蓮】神眼 (了)


    【マガジン】

     
     

    清邁

     
     
    怪談と、不思議な話が好きです。静かな恐怖と、ときに穏やかな救済を。

    あなたへのおすすめ