
短編|記憶
引き戸引くと湿った空気がふわっと身体を包みこんだ。
番台に2人分のお金を置き、女湯と書かれた暖簾をくぐる。
『あら、恵美ちゃんこんばんは。かおりちゃんもこんばんは。』
いつものお姉さんが微笑みかける。お姉さんも今来たところだという。衣服を綺麗に畳んで脱衣カゴに重ねている。白くて指の長い手。
『あら、かおりちゃん、髪を切ったの?』
お姉さんの声に、わたしの隣でかおりがはにかみながらコクっと頷いた。小さな手で私の指を握りながら。
ふふっと、微笑んでお姉さんは浴場の扉を引く。湯気と石鹸の匂いが一気に満ちてくる。わたしたちも手早く衣服を脱いで畳み、かおりの手を引いてお姉さんに続いた。
昭和50年も半ば。もう家庭風呂が一般的な時代になった。現に、姉たちの家族も、かおりの幼稚園のお友達も、みんな家に風呂がある。でも私たちの住む文化住宅には風呂はない。だからこうやって毎日銭湯に通っている。
銭湯で出会う女の人たちはみんな優しい。次々にかおりに声をかけてくれる。脱衣所でも浴場でも、さりげなく目をやり気を配ってくれる。特にわたしが洗髪していて一瞬目を離れるときなどは誰かが必ず見ていてくれている。
お姉さんはわたしより少し年上で、子どもはいないのだそうだ。かおりのことをとても気にかけて、なぜかとても可愛がってくれている。
先日のかおりの誕生日には、ケースに入った日本人形を送ってくれた。繊細で優しい顔立ちのお人形はまるでお姉さんそのもののようだった。
髪を洗い、顔を洗い、身体を洗い、ゆっくり湯船に浸かる。かおりは小さい声で。先日幼稚園で習った歌をうたっている。横にいたお婆さんがニコニコしながらその様子を見ていた。
浴場を出ると、かおりがリンゴジュースや牛乳の並ぶ保冷ケースに目をやっていた。かおりはめったにあれがほしいこれがほしいと言わない子だ。こんなに小さいのに人に気を遣ってばかりいる。
『リンゴジュース飲もうか』
かおりに声をかけるとうれしそうに頷いた。
お金を払い、リンゴジュースの瓶を受け取る。ぶら下がったキリのようなもので蓋をあけてやってから、かおりに手渡した。
薄い茶色とオレンジの間のようなリンゴジュースをかおりは嬉しそうに両手で抱え、手近なところにある籐の椅子に座ってゆっくり飲んでいる。天井では大きくて細長い羽根を持つファンが優雅に回っていた。
『じゃあ、恵美ちゃん、かおりちゃん、またあしたね』
お姉さんはそう言って帰って行った。すれ違いざまにシャンプーのお花と石鹸が混ざったようなほんのり甘い香りがした。
私たちも引き戸を開けて帰ることにした。夕方の風が心地いい。西の空が淡いオレンジ色に染まっていて、あちこちの家から夕飯の匂いがした。お気に入りの洗面器を持ち、かおりは上機嫌だった。
もうすぐわたしたちはこの土地から引っ越す。
新しい家にはお風呂がついている。だからこの銭湯に通うのも、もうあと少しだけ。
かおりは、この日々のことを忘れていくのだろうか。
お姉さんのことも、優しい女湯のお客さんたちのことも。湯船で歌ったことも、リンゴジュースも、大きくて優雅に回る天井のファンも、引き戸を開けた時の夕焼けも。
新しい家では、大好きなおもちゃを浮かべて長風呂をし、わたしに早く上がろうねと言われて渋々お風呂から出るだろう。リンゴジュースではなく、麦茶を飲んでから夕食のテーブルに着く。それがこれから彼女の日常になる。こうしてお風呂の記憶は上書きされて消えていく。
わたしは上を向いて大きく息を吸った。何かわからない鳥が2羽、頭上を飛んでいくのが見えた。
忘れてしまっても構わない。わたしが全部、覚えているから。この子が忘れた景色のぶんまで、わたしが。
でも、この子が、いつかどこかで、甘いお花や石鹸の香りとすれ違ったとき、リンゴジュースを手にしたとき、天井を回る大きなファンを見たとき…。胸の奥に少し火が灯るような、そんな小さな魔法になってくれたらいい。
「…お母さん」
隣でかおりが上目遣いにこちらを見る
「明日も、リンゴジュース、飲んでもいい?」
「いいよ。お引っ越しするまで、毎日飲もうね」
小躍りするように小さく飛び跳ねるかおりの手を引き、夕闇が迫る中、わたしたちはゆっくりと文化住宅へと帰っていく。