
日出ずる処の天子の構図【四天王寺さんミステリーツアー(2)】
聖徳太子と推古天皇
推古天皇の弟が用明天皇(三十一代)で、その皇太子が上宮皇子または厩戸皇子、つまり、聖徳太子です。
推古天皇から見ると太子は甥(おい)であり、
娘の貝蛸皇女(かいたこのひめみこ)が嫁いでいるので、義理の息子の関係でもありました。
そんな関係もあって、推古天皇は、行政・司法を補佐する摂政(せっしょう)に聖徳太子を就かせました。
ヒメヒコ制の当時でいうと、
ヒメの推古天皇は宗教祭祀を司り、
本来、ヒコ(天皇)の役割であった行政・司法を、聖徳太子に一任したのです。

このヤヤコシイ系図を頭に入れておかないと、
日本史の中でも、まれに見る、激しい権力闘争があった古墳時代から飛鳥時代への激動期を
理解することは難しいです。
推古天皇は、その激しい権力闘争前半の主人公で、
敏達天皇の崩御後は、事実上の太后院政を敷いていました。
なぜなら、まだ幼かった息子の竹田皇子を、
天皇に就かせることが、人生最後の目的だったからです。
敏達天皇の後の、用明天皇(587年病死)、崇峻天皇(592年暗殺)は、いずれも短命政権で、
その後に、ついに、自ら高御座(たかみくら)に座りました。
用明天皇の「病死」も怪しく、この件は後ほど触れます。
崇峻天皇は日本史で唯一の暗殺された天皇として知られています。
聖徳太子と仏教
用明天皇は、祖父の欽明天皇の御世に、公式に渡来した仏教を熱心に信仰しました。
帰依(きえ)したともいわれます。
もちろん聖徳太子も、その影響を大きく受けました。
幼い頃から、御所の仏像に触れてきた聖徳太子は、
国を治める新しい思想として、仏教を受け容れました。
聖徳太子の危うい立場
ここで、聖徳太子の立場から考えてみます。
最高権力者の叔母は、バリバリの古神道のヒメミコ。
父親は熱心な仏教信者。
自分も仏教を深く信仰・理解している。
そして、叔母は自分の息子を天皇に据えたいと考え、自分には天皇になる目はほとんどない。
いや、むしろ、そんな時代に、
自ら天皇の座を目指すことは、
命に関わるリスクになることを、身をもって知っていたと考える方が自然です。
物部守屋の暴走と丁未の乱(587年)
父上の用明天皇は、在位二年で病で急逝(587)ましたが、
神道派・物部守屋の御所襲撃(仏像破壊が目的)によって起きた火災で殉死したと言う「ウラ伝説」があります(出雲伝承など)
用明天皇の崩御の直後に丁未の乱(ていびのらん)が起きるのですが、
まだ青年だった聖徳太子が敵将・守屋を討つ、つまり、日本古代史において最有力だった豪族・物部宗家を滅亡させるという凄まじい結果となりました。
あくまでも個人的な推理ではありますが、
今では聖人とされる太子が、若い頃とはいえ、古墳時代中期以降、ニ百年近く続いた中央の最有力家を滅ぼすという「怨念」の量を考えると、
記紀には書かれなかったウラ伝説が、あながち「ウラ」ではなかった気がします。
飛び立つ鳥の飛鳥時代の始まり(593年)
丁未の乱で物部守屋が討たれ、神道派の首魁であった物部宗家は途絶えますが、
それ以降、後の「神仏習合」思想がひとつの解になるまでのしばらくの間、日本社会は大混乱に陥ります。
古墳時代に、軍事・経済を牛耳っていた物部氏の残党が日本中に散らばっていたほか、
朝廷でも、崇峻天皇の暗殺が起きるなど、政治的にも経済的にも動揺していた中、
聖徳太子は徐々に力を持ち、新時代(ポスト物部時代)への変革に取り組みます。
四天王寺の創建(593年)
推古天皇(豊御食炊屋姫、とよみけかしきやひめ)が日本初の女性天皇に就いた593年に、
副首都(外交首都)であった大阪の海辺に、大寺・四天王寺を創建します。
(当時の海岸線は、四天王寺の西門のすぐそばまで来ていました)
「日出づる処の天子」の構図(東西の軸線)
西の瀬戸内海(大阪湾)から上陸して来る外交使節団の視点では、
日出ずる処、「東の新しい国家」を体感させる、
飛鳥時代の始まりのシンボルとしての巨大建築物だったことでしょう。

実は、この東西の軸線は、
前回お話した、豊御食炊屋姫の日奉(ひまつり)の春分・秋分の儀式の軸線と、重なります。
四天王寺伽藍は、南北の軸線に金堂と五重塔が並びますが、
春分・秋分には、西側から見て、ちょうど二つの建物の真ん中、
つまり、伽藍中心の転法輪石の向こうから太陽が昇る構図です。
聖徳太子が随の煬帝を激怒させたと言われる、
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや」
という国書(607年)の書き出しの一文は、
四天王寺のこの構図から生まれた可能性があります。