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荒墓(アラハカ)とは?【四天王寺さんミステリーツアー(5)】

    荒陵とは?

    前回、

    『四天王寺建立の時点で、そこには「土師氏=古墳」のこん跡があった』

    という立場で考えると書きましたが、

    その根拠が「荒陵、アラハカ」です。

    四天王寺の山号は荒陵山。

    山「あらはかやま」または「こうりょうざん」と読みます。

    陵(みささぎ)は王墓のことで、古墳時代(中期)においては、大きな前方後円墳を指す言葉です。

    それに「荒」がついているわけですから、

    「荒れ果てた大王の墓」と解釈することができます。


    ただし、古神道では「御生れ、みあれ」は、神霊の発現を表す言葉でもある点に注意が必要です。(賀茂信仰)

    古代の「アラ」には、「生まれる」「あらわれる」

    つまり「(偉大な人物の霊が)再生する・転生する」という意味もあるからです。

    前方後円墳が、◯(女)と△(男)の組み合わせ(壺、保育器)と考えるなら、

    前方後円墳は、葬られた王の再生装置として造営された可能性があります(アラハバキ信仰)

    この解釈だと、「荒陵」は「御生れの墓」として、
    前方後円墳そのものを示す言葉である可能性があります。

    荒陵に仏法最初の寺建つる

    荒陵(あらはか)に四天王寺が建立されたという伝承が、山号の由来です。

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    四天王寺かるた「あ」

    荒陵は、四天王寺近くの茶臼山古墳(墳長200m級)とする説が根強いですが、

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    茶臼山古墳全景。河底池

    築造時期・被葬者ともに不明です。

    というのは、発掘調査(1986)では、埴輪や葺石が見つからず、古墳かどうかが確認されていないからです。

    もちろん石室も確認されていません。

    墳丘に見える部分は、

    奈良時代の和気清麻呂(わけのきよまろ)が、東の湿地帯から西の海に水を逃すために堀を削った際の盛り土であるという説もあります。

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    河底池に架かる和気橋

    茶臼山は、大坂夏の陣で、徳川家康公の本陣であった所で、真田幸村公が最後の突撃をしたエピソードの方が、今では有名です。

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    大阪夏の陣 茶臼山頂上の家康公本陣跡

    長持形石棺の蓋の謎

    さてここで、前回紹介した四天王寺境内にかつてあった、長持形石棺の蓋の話です。

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    かつて宝物館玄関にあった長持形石棺の蓋

    当時の案内板には「荒陵(現在の茶臼山付近)から出土したものとされる。いつの頃からか、四天王寺境内に移されて、亀井堂東の小溝に架けられ・・・」

    と書かれていましたが、

    「出土したものとされ」「いつの頃からか」のように、

    根拠に繋がりそうな話はひとつもなく、

    どちらかと言うと「元から境内地にはなかった」ということを強調するような書かれ方でした。


    茶臼山が古墳でなかったならば、案内は間違っていますし、

    そもそも10トン(約4m✕1.5m✕0.7mの石の重さから推定)近い蓋石を、

    大王クラスの人(神霊)が眠る石棺から引き剥がし、

    わざわざ約1kmも移動させた「強い」動機が不明で、

    「移動説」は幾重にも無理がある話なのです。

    石棺の蓋は元から「そこ」にあった?

    したがって、蓋石は元から境内地にあったと考えるのが一番シンプルだと思います。

    つまり、四天王寺が建立される前、

    豊御食炊屋姫(推古天皇)が太陽祭祀を行なっていたさらにその前、

    具体的には古墳時代の中期ごろ、

    当時の上町半島の海に近い所に、

    土師氏が手掛けた、大きな前方後円墳があったという考え方です。

    その根拠が「荒陵」という山号であるほか、

    実は案内板には「石棺」に対応する「石室」らしき場所が書かれていたのです。

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    亀井堂(石室?)と石棺の蓋は至近距離にあった?

    亀井堂(亀井の水)

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    亀井堂の上水槽と下水槽(亀井の水)(大阪市)

    約5メートル四方の石囲いの約1.5m下に、

    上水槽(亀の口、▽)から下水槽(亀の甲羅、◯)へ湧水が流れる構造は、

    飛鳥の酒船石遺跡で2000年に見つかった導水施設と酷似しています。

    水の受け渡し構造(▽⇒◯)から「夫婦和合・子孫繁栄」に関するものと個人的に考えています。

    つまり、これを築造した人は、前方後円墳に代わる、「子孫繁栄(生殖)」の仕組みを、見える化したかったのかも知れません。

    現在の四天王寺では、下水槽にたまった水に経木を浮かべて供養する施設になっています(写真撮影禁止)

    亀井の水・酒船石とも、四天王寺の建立(593)より遅く、皇極または斉明期(650〜660年代。皇極=斉明)の7世紀後半の築造と考えられています。

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    酒船石遺跡の導水施設と、丘の上の酒船石(明日香村)

    亀井の水の前

    亀井の水をご覧になった方は、ピン来たでしょうか?

    中期の巨大古墳に見られる竪穴式石室の構造です。

    (古墳時代後期には横穴式が主流になります)

    もしここが石室だったとしたら、石棺の蓋があった場所は「亀井堂東の小溝」ですから、

    石室と石棺の蓋を、ワンセットで考えることができます。


    現在は聖なる宗教施設ですから、簡単な話ではないことは百も承知していますが、亀井の水の亀型水槽の下に、

    石棺の蓋に対応する石棺が埋まっている可能性は高いと考えています。

    現代は、超音波振動やレーダーを使った非破壊検査ができる時代ですから、

    考古学の専門家には是非とも、四天王寺と折衝し、実施していただきたい調査です。

    誰の古墳だったか?

    さて、では、誰の古墳だったのか?

    という疑問が湧いてきます。

    古墳時代中期で、上町台地に御所(宮)があったとされているのは、

    難波高津宮(なにわこうづのみや)の仁徳天皇(16代)。

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    高津宮 絵馬堂 仁徳天皇と皇后(高き屋に昇りて見れば煙立つ民のかまどは賑わいにけり)

    四天王寺から北約2キロの近鉄上本町駅周辺に「高津」の地名が残っている他、

    仁徳天皇を祀る東高津宮(元高津、神社)一帯が有力と考えています。


    現在の四天王寺が仁徳天皇陵であったとするならば、日本最大、いや、世界最大の大仙古墳(堺市)が仁徳天皇陵でないという話になりますが、

    ウラの日本古代史に詳しい出雲伝承では「大仙古墳は仁徳天皇陵ではない」と明確に否定しています。

    「仁徳天皇は、四天王寺あたりに陵墓を作りかけたが、水の出がひどく、断念して、堺に作り直した」

    という話を、地元の古老から聞いたことがあります。

    確かに四天王寺の亀井堂のあたりは、亀の池もあるように、水が豊富な所。


    いずれも、真偽のほどは定かではありませんが、いつか考古学的な調査が行われ、

    亀井堂の地下から石棺が見つかったり、

    境内周辺から埴輪(欠片)などが出土すれば、

    そういった昔からの噂や伝承が、現実味を帯びてきます。

    日本古代史の1ページが書き換えられる日が来るかも知れませんね。

     
     
    はじめまして。日本の古代史・神社仏閣好きが書く古代妄想記事です。7年ほど続けている「ものづくりとことだまの国」というブログは「書き散らかして来た」感じ😀。ときどき「まとめ」たいと思いnoteを始めました(202606〜)https://www.zero-position.com

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