
閉館後の図書館で episode3
東京に残ることを決めた時、母は反対した。
正確には、東京にいることそのものではなく、先の見えない生活を続けることを心配していたのだと思う。
大学を卒業してしばらく経った、初夏の夜だった。
古い携帯電話を耳に当てながら、わたしは小さなアパートの床に座っていた。
窓の外から、遠く車の走る音が聞こえる。
受話器の向こうには、実家の音があった。
テレビの音。
父が新聞をめくる音。
台所で食器を洗う音。
その生活の気配が、当時のわたしには少し遠いものに感じられた。
「詩織」
母の声がした。
「いつまで東京にいるつもりなの」
責めるような声ではなかった。ただ、疲れたような声だった。
「仕事、決まったって言っても契約なんでしょう?」
「うん」
「それだったら、こっちに帰ってきてもいいんじゃないの」
わたしは黙った。
「宮城だって仕事がないわけじゃないよ。役所の臨時職員だってあるし、事務の仕事だって探せばあるでしょう」
母は少し間を置いた。
「東京で一人で暮らして、苦しい思いをするくらいなら……」
その続きを、わたしは聞きたくなかった。
「帰ってきなさい」
優しい言葉だった。
だからこそ、胸の奥に刺さった。
「……帰れないよ」
気づくと、そう言っていた。
「どうして」
「だって……」
言葉が詰まる。
帰れない理由なんて、本当は簡単だった。 東京に来た意味がなくなる気がしたから。
十八歳の自分が、あれほど期待して飛び出してきた場所を、何も成し遂げないまま離れることが怖かったから。
「東京の大学まで行かせてもらったのに、結局帰ってきたって思われるのが嫌なの」
口にした瞬間、自分でも驚いた。
母に対して怒っているようで、実は違った。
怖かったのだ。自分自身に失望することが。
「誰もそんなこと思わないよ」
母は静かに言った。
「お母さんも、お父さんも、詩織が元気でいてくれればそれでいいんだから」
その言葉を聞いて、胸が苦しくなった。
母は何も悪くない。
わかっていた。わかっていたのに、素直に受け取れなかった。
「でも、わたしは帰りたくない」
小さな声で言った。
「まだ、ここでやれることがあるから」
電話の向こうで、しばらく沈黙が続いた。やがて母が小さく息を吐いた。
「……無理だけはしないでね」
「うん」
「ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
「嘘つかないの。食費削って、本買ってるんじゃないの」
その言葉に、少しだけ笑った。
母はいつもそうだった。何歳になっても、わたしを子ども扱いする。
それが昔は嫌だった。
でも今なら少しわかる。
心配するということは、相手の人生を自分のものとして抱えてしまうことなのかもしれない。
電話を切った後、しばらく動けなかった。
狭い部屋の中に、自分の呼吸だけが響いていた。
帰らないと決めた。東京で生きていくと決めた。
それが正しい選択だったのかは、今でもわからない。
でも、あの日のわたしには、それしか選べなかった。
翌朝から、また仕事へ行った。
事務机に向かい、書類を整理した。
夜は司書資格の勉強をした。
眠くても、疲れていても、本を開いた。
図書館で働く未来だけを見ていた。
いつか、自分が誰かの居場所を作る側になれるように。
そう願っていた。
そして今。
わたしは確かに、図書館にいる。
毎朝、緑色のエプロンを身につけて、利用者を迎えている。
夢だった場所に立っている。
ただ――。
夢が叶った後の人生が、必ずしも思い描いた形になるわけではないことを、四十二歳になったわたしは知っていた。
都立の公務員試験を何度受けても受からず、ついに採用試験の年齢制限を越えてしまったわたしは、派遣会社に登録し、そこから派遣された契約社員として上野の森図書館に勤務することになったのだ。
見た目は公務員で、公務員としてのふるまいを求められて、税金泥棒などとカスハラされても文句も返せない、ただの契約社員。
こういうの、官製ワーキングプアって言うんだっけ……。
それでも翌朝になれば、わたしはまた緑色のエプロンを身につけ、あの扉の向こうへ向かう。
空調の低い音が響く、あの静かな場所へ。