
Physical Superintelligence完全解説
「AI物理学者」は新しい物理法則を発見できるのか――5800万ドルで始動したPSIと、Emmy、データセンター、恒星間探査が示す次のAI競争
AIが文章を書き、画像を生成し、プログラムを書き、ロボットを動かす時代は、すでに始まっている。では、その次にAIは何をするのか。
2026年9月、米国でひとつの異色のスタートアップが正式に姿を現した。社名はPhysical Superintelligence、略してPSI。目指しているのは、AIを使って既存の物理学を便利に活用することではない。AIに仮説を立てさせ、数式を組み立てさせ、シミュレーションを走らせ、検証を繰り返し、最終的には「人間がまだ知らない物理法則」を発見させることだ。
PSIは設立発表と同時に5800万ドル超のシード資金調達を発表した。主導したのは、ビル・ゲイツが立ち上げたBreakthrough Energyの投資部門Breakthrough Energy Venturesである。シードとしては異例の大型調達だ。そして同社は、ハーバード、MIT、スタンフォード、プリンストン高等研究所に相当するInstitute for Advanced Study、Perimeter Institute、Oxford、Cornell、UCSB、Los Alamos National Laboratory、Google、NVIDIA、Metaなどにルーツを持つ25人超の研究者・エンジニアを集めたという。
その中心にあるのが「Emmy」と呼ばれるAI研究プラットフォームだ。名前は、対称性と保存則を結びつけた「ネーターの定理」で知られる数学者・理論物理学者エミー・ネーターに由来する。PSIはEmmyを単なるチャットボットではなく、「virtual physicists=仮想物理学者のチーム」と位置付ける。
さらに興味深いのは、最初の商品が量子重力や暗黒物質ではないことだ。PSIが最初に狙う商用市場は「AIデータセンター」である。電力、冷却、ネットワーク、計算機、材料、流体、熱、電磁気という複雑な物理問題をAIに同時最適化させる。そして、その収益と現場データを使って、より強力な「AI物理学者」を育てる。
さらにPSIは、Alpha Centauriを目指すFermi Explorer MissionのFounding Technical Partnerでもある。2029年末までの打ち上げを目標に、総費用1500万ドル未満、1kg以上のペイロードを載せ、約8万年という時間をかけてAlpha Centauriへ向かうという、現代版「恒星間ボトルメール」のようなプロジェクトだ。PSIはAIを使ってミッションの物理的成立性を検証し、従来案より効率的な軌道を見つけたとしている。
ここには、2026年以降のAI産業を考える上で極めて重要な論点が詰まっている。
AIは、知識を検索するだけの道具から「新しい知識を作る主体」へ移行するのか。AIは、ソフトウェアだけでなく、物理世界そのものを設計するのか。さらに、AIが自分自身を動かすデータセンター、電力システム、半導体、材料を改良するようになれば、ソフトウェアの再帰的自己改善とは別の「物理的な自己強化ループ」が生まれるのではないか。
Physical Superintelligenceは、その可能性を真正面から事業化しようとしている。
本稿では、PSIとは何者なのか、5800万ドルの意味、創業チーム、Emmyの技術思想、Autonomous Campaign、検証の仕組み、Get Physics Done、データセンター最適化、Fermi Explorer、競合、そして「AIが新しい物理法則を発見する」という壮大な主張をどこまで信じてよいのかまで、2026年9月2日時点で確認できる情報を基に整理する。
目次
まず結論
第1章 Physical Superintelligenceとは何か
第2章 なぜ今「AI×物理学」なのか
第3章 5800万ドルのシード調達は何を意味するのか
第4章 誰がPSIを作ったのか
第5章 25人超の研究チームが示す会社の正体
第6章 Emmyとは何か
第7章 なぜ名前がエミー・ネーターなのか
第8章 AI物理学者は、普通のLLMと何が違うのか
第9章 Autonomous Campaignという研究の工業化
第10章 PSIが最重要視する「Verification」
第11章 物理学にスケーリング則は成立するのか
第12章 Get Physics Done――すでに存在するオープンソースAI物理学者
第13章 最初の商品がデータセンターである理由
第14章 データセンターは巨大なMulti-Physics問題
第15章 「Intelligence per Watt」という自己強化ループ
第16章 宇宙データセンターまで狙う理由
第17章 Fermi Explorer Missionとは何か
第18章 AIが見つけたAlpha Centauriへの軌道
第19章 8万年かかる計画に何の意味があるのか
第20章 Physical AI、World Model、PSIの違い
第21章 競合は誰か――AI Scientist市場の勃興
第22章 PSIの最大の強み
第23章 PSIの最大のリスクと未検証点
第24章 日本企業にとって何が重要か
第25章 AIは「科学者」になるのか
第26章 Physical Superintelligenceが成功した世界
第27章 結論――AIの次のフロンティアは「新しい物理」かもしれない
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まず結論
PSIは2026年9月1日に正式ローンチした、マサチューセッツ州ケンブリッジのAIネイティブ物理研究所である。法人形態はPublic Benefit Corporation。
調達額は5800万ドル超。1ドル160円換算で約92.8億円。シードとしては異例の規模で、Bill GatesのBreakthrough Energyのベンチャー投資部門Breakthrough Energy Venturesが主導した。
中核プラットフォームはEmmy。エミー・ネーターに由来する「virtual physicists=仮想物理学者のチーム」で、自社で事前学習・事後学習まで持つreasoning engineと、精選されたシミュレーション目録の上に構築されている。
最初の商用領域は地上および軌道上のAIデータセンター。基礎研究の前に、電力・冷却・ネットワーク・計算が絡むマルチフィジックス最適化で売上を立てる設計になっている。
すでに動いている実物が二つある。オープンソースのagentic AI物理学者Get Physics Doneと、Alpha Centauriを目指すFermi Explorer Missionの軌道設計である。
再調査では、PSIのオープンソース組織に四つの公開リポジトリがあること、またFermi Explorer側が100〜110kg級の機体、約64%のキセノン推進剤、約77,500年の最適飛行時間まで設計値を具体化していることも確認できた。速度については出典によって示す量が異なるため、本文で区別して扱う。
ただし「新しい物理法則を発見した」という査読済み成果は、ローンチ時点では存在しない。Emmyの性能はすべて同社自身の説明であり、第三者検証は公表されていない。
第1章 Physical Superintelligenceとは何か
Physical Superintelligence PBC、略称PSIは、AIを物理学研究に直接組み込み、「AI-native physics lab=AIネイティブの物理研究所」を作ろうとしている米国スタートアップである。2026年9月1日に正式ローンチし、本拠地はマサチューセッツ州ケンブリッジ。PBCはPublic Benefit Corporationの略で、株主利益だけではなく公益目的を法人の使命に組み込む企業形態だ。
公式サイトが掲げる使命は非常に大きい。「高精度なworld modelsを構築し、人間の設計能力を超えるphysical systemsを設計し、最終的には宇宙の新しい物理法則を発見する」。一般的なAIスタートアップが「顧客対応を自動化する」「プログラミングを高速化する」「営業を効率化する」といった既存業務の生産性向上から始めるのに対し、PSIは最初から「科学的発見の方法そのもの」を作り替えると宣言している。
同社が繰り返す象徴的な問題意識が、「Our twenty-first-century civilization runs on twentieth-century physics.」、すなわち「21世紀の文明は20世紀の物理学によって動いている」という言葉である。
現在の半導体、レーザー、光通信、原子力、MRI、GPS、量子デバイス、コンピューター、インターネットを支える多くの基礎原理は、20世紀に成立した量子力学、相対性理論、固体物理、電磁気学、情報理論などから生まれた。21世紀のAI産業でさえ、その土台はトランジスタ、半導体、電力、冷却、光通信といった20世紀物理の延長線上にある。
PSIはここに「文明のボトルネック」があると考える。AIの計算能力が増えても、エネルギーが足りなければ動かせない。GPUを高密度化しても熱を逃がせなければ性能を上げられない。材料の限界を超えなければ製造できない。通信帯域が足りなければ巨大な計算機を一体として動かせない。
だから、AIの次の飛躍にはAIモデルだけではなく「物理学の飛躍」が必要になる。PSIは、このAI takeoffとphysics takeoffを接続しようとしている。
PBCという法人形態の選択も、単なる体裁ではないと同社は説明する。公式Visionには、安全性、検証、責任ある開発、広範な公共の利益の四つを定款に定めたと明記されている。「これほど大きな主張には敵対的な検証が必要だ」として、再現性、盲検測定、独立検証、実験による現実との接触をアーキテクチャの内部に置くとも書いている。
採用拠点はボストンとサンフランシスコの二か所。ラテン語のモットーはignis scientiae, illumina mundum、すなわち「科学の火よ、世界を照らせ」である。
第2章 なぜ今「AI×物理学」なのか
AIと科学研究の組み合わせ自体は新しくない。機械学習はすでに創薬、材料探索、気象予測、天文学、核融合制御、流体解析、量子化学などで使われている。しかしPSIが狙うのは、AIを個別の予測モデルとして使うことではない。
従来の科学AIは、多くの場合「人間が問題を定義し、人間がモデルを設計し、AIが一部分を高速化する」という構造だった。たとえば分子の性質を予測する、タンパク質構造を予測する、流体の近似計算を高速化する、といった使い方である。
PSIは研究プロセス全体をAI化しようとしている。
研究課題を定義する。文献を理解する。仮説を生成する。仮説を複数の枝に分解する。必要な数式を導く。コードを書く。シミュレーションを走らせる。矛盾を探す。別のAIが検算する。物理法則、次元解析、保存則、対称性、形式証明、デジタルツイン、実測値と照合する。うまくいかなければ仮説を捨て、別の仮説を試す。
これを人間の研究者1人ではなく、「数千の仮想的な研究スレッド」で並列化する。
ここでAIが生み出す本当の価値は、知識量ではなく探索量にある。
人間の研究者は、一度に数個から数十個程度の仮説を深く検討することはできても、数万、数十万の仮説空間を体系的に探索することは難しい。AIは、候補を大量に生成し、計算機を使って高速に棄却し続けることができる。
科学のボトルネックが「アイデア不足」から「検証不足」に変わる。PSIはそこに着目している。
第3章 5800万ドルのシード調達は何を意味するのか
PSIは2026年9月1日、5800万ドル超の資金調達を発表した。1ドル160円換算で約92.8億円となる。しかもシリーズAやシリーズBではなくシードラウンドである。
主導したのはBreakthrough Energy Ventures。Bill Gatesが立ち上げたBreakthrough Energyのベンチャー投資部門で、気候変動、エネルギー、材料、産業技術など「物理世界を変えるディープテック」に長期資金を供給してきたことで知られる。
ここで注意したいのが名称である。日本語の要約では「ビル・ゲイツの気候ファンドBreakthrough Energyが主導」と書かれることが多いが、Breakthrough Energyは傘全体の名称で、出資したのはそのベンチャー投資部門Breakthrough Energy Venturesである。公式発表でコメントを出しているのも、同社のCarmichael Robertsだ。
Robertsのコメントは、投資理由を端的に示している。AIは科学的発見の速度を根本から変える可能性があり、物理学はその影響が最も大きくなり得る領域のひとつである。PSIは世界水準のチームを集めており、エネルギー、計算、材料といった基盤技術にまたがる新しい可能性を開くと同時に、物理研究の進め方そのものの新しいモデルを作ろうとしている、という趣旨だ。
つまりBEVは、PSIを「AI企業」としてではなく、エネルギーと材料の制約を動かす可能性のあるディープテックとして評価している。
参加投資家としてPSI公式サイトおよび発表資料に挙げられているのは、Dragon Global、Solari Capital、Robot Ventures、Susa Ventures、Variant Fund、SV Angel、Valkyrie、021T、Balaji Srinivasan、Anthony Scaramucciなどである。
ここで注意したいのが、「OpenAI、NVIDIA、Oracle、Hugging Faceが出資した」という言い方だ。公式発表は、これら企業そのものが投資家として参加したとは書いていない。正確には「OpenAI、NVIDIA、SoftBank Energy、Oracle、Hugging Face、JUMP Capital、a16z Scout Fundなどの関係者・個人投資家が参加」とされている。
この違いは重要である。OpenAIやNVIDIAの戦略投資案件として発表されたわけではない。一方で、AI、半導体、クラウド、エネルギー、オープンソースAIの現場にいる個人が初期段階で資金を入れていることは、PSIのネットワークの広さを示している。
5800万ドルという規模は、研究者採用だけの資金ではない。PSIは資金使途として、物理・AI研究者の採用、Emmyのモデル・シミュレーション・検証基盤の開発、energy-to-compute stackにわたる研究開発を挙げている。
つまり資金は「モデルを1つ訓練する」ためではなく、研究所そのものをソフトウェア化・計算機化するために投入される。
第4章 誰がPSIを作ったのか
PSIの公式Leadershipには、Matthew Pines、Dr. Alexander Wissner-Gross、Alex Klokus、Dr. Alessandro Morariの4人が並ぶ。
Matthew PinesはCEO。経歴が異色である。Johns Hopkins大学で物理学と哲学を学び、London School of Economicsで公共政策の修士号を取得した。全米科学財団で経済学分野の助成プログラムを2年支援したのち、国家安全保障のコンサルティングへ移る。政府向けに最悪シナリオの想定や新興技術の評価、運用実験を担当してきた。
その後、SentinelOne傘下の戦略アドバイザリー部門PinnacleOneで情報部門ディレクターを務め、多国籍企業や重要技術企業に対する地政学・政策・スパイ活動リスクの助言を率いた。並行してBitcoin Policy Instituteに関わり、2025年には事務局長に就任している。安全保障と先端技術の評価に十三年超の経験を持つ人物だ。
物理学出身の国家安全保障ストラテジストがAI企業のCEOになる、という経路である。PSIが「エネルギーから計算までのスタック」「主権的な推論エンジン」という言葉を使う背景には、この経歴が反映されていると考えてよい。
Alexander Wissner-GrossはChief Scientist and Chief of Strategyであり、共同創業者。PSIの技術思想を理解する上で最重要人物のひとりである。
MITで物理学、電気工学、数学の三重専攻を修めた。この制度が廃止される前の最後の学生だったとされる。2007年にHarvardで物理学の博士号を取得。2013年にはCameron Freerとの共著でPhysical Review Lettersに「causal entropic forces(因果的エントロピー力)」の論文を発表し、将来の行動の自由度を最大化するよう駆動される系は、明示的な目的関数なしに目的志向に見える振る舞いを生み出せると論じた。この論文は大きな注目と同時に批判も集めた。
起業経験もある。2007年にY Combinator出資のCO2Statsを創業し、ウェブサイト利用にともなう二酸化炭素排出量を計測する事業を手掛けた。
Alex KlokusはPresident。New York UniversityのStern経営大学院を卒業し、テクノロジーメディアFuturismを共同創業した。2017年にはForbes 30 Under 30のメディア部門に選出されている。現在はSALT fundの創業パートナーでもあり、SALT iConnections会議やWorld Government Summitでモデレーターを務めてきた。PSIでは事業展開、パートナーシップ、組織形成を支える。
Alessandro MorariはCTO。スーパーコンピューティングとAIの交点で十五年以上のキャリアを持つ。
NVIDIAでは次世代GPUプログラミングモデルCuTileの性能評価戦略を主導し、GPUカーネルの最適化を率いた。IBM ResearchではWatson Code Assistantを研究から量産まで持ち上げ、SummitとSierraという世界最上位級スーパーコンピューター向けのHPCシステムにも関わった。PNNLで構築した分散グラフエンジンは、のちにTrovaresとして事業化されている。バルセロナのUniversitat Politècnica de Catalunyaで計算機アーキテクチャの博士号を取得し、論文30本超、特許15件超。
この人選が示すのは、PSIが単なるLLM企業ではないということだ。大規模シミュレーション、GPUカーネル最適化、数値計算、HPC、検証基盤まで自前で持とうとしている。
この4人の組み合わせを見ると、PSIの狙いがわかりやすい。物理学だけでもAIだけでもなく、科学研究、AI推論、HPC、工学、事業化を同じ組織に閉じ込めるのである。
第5章 25人超の研究チームが示す会社の正体
PSI公式サイトによれば、チームは25人超の研究者・エンジニアで構成される。出身・所属経験としてHarvard、MIT、Stanford、Institute for Advanced Study、Perimeter Institute、Oxford、Cornell、UCSB、Los Alamos National Laboratory、Google、NVIDIA、Metaなどが挙げられている。
重要なのは人数そのものではない。
PSIが集めようとしているのは、LLMエンジニアだけではない。物理学者、AI研究者、実験科学者、エンジニア、HPC人材を同じ組織に入れようとしている。
新しい物理を本当に発見しようとすれば、言語モデルだけでは足りない。モデルが提案した仮説を数式にし、数値計算し、既知の物理法則と矛盾しないか調べ、シミュレーションし、可能なら実験する必要がある。
つまりPSIに必要なのは「巨大モデル」だけではなく「巨大な科学工程」である。
そのため、PSIをAIスタートアップとして見るだけでは不十分だ。むしろ、国立研究所、ARPA型研究組織、AIラボ、HPCセンター、工学コンサルティングを混ぜたような組織を目指していると考える方が近い。
第6章 Emmyとは何か
PSIの中核プラットフォームがEmmyである。
名前はAmalie Emmy Noetherから取られている。EmmyはPSIが「team of virtual physicists」と呼ぶシステムであり、単一のAIモデルではない。
公式発表によれば、EmmyはPSI独自のreasoning engineと、大規模かつ精選されたsimulation inventoryを基盤とする。人間の物理学者が頭の中にひとつのモデルを持つのに対し、Emmyはより高精度なworld modelsを構築し、難しい研究課題を「検証可能な仮説の木」に分解し、並列でテストする。
ここでPSIが使う語で見落とせないのが「sovereign」である。公式発表はEmmyの推論エンジンを、自社で事前学習と事後学習を行った主権的なモデル群だと説明している。外部APIの薄いラッパーではない、という主張だ。
この一語には、いくつかの含意がある。物理研究のワークフローで得た検証データを自社のモデルにそのまま還流できる。顧客のデータセンター設計という機密性の高い情報を外部モデルに送らずに済む。そして、フロンティアLLM企業の値付けやポリシー変更に事業が左右されない。
もっとも、この主張の妥当性は現時点では外部から検証できない。モデルの規模、基盤、学習データ、ベンチマークはいずれも公開されていない。
ここで重要な表現が「tree of verifiable hypotheses」である。
たとえば「この冷却方式はAIデータセンターの消費電力を下げられるか」という研究課題があったとする。単にAIに答えを聞くのではなく、熱抵抗、液体流量、圧力損失、ポンプ消費電力、GPU温度、ラック密度、故障率、材料特性などに分解し、それぞれについて複数の仮説を作る。
その仮説を、流体シミュレーション、熱解析、電力モデル、実測データなどで落としていく。
AIが研究者であると同時に、研究チーム、計算担当、検算担当、レビュー担当を持つような構造を狙っている。
第7章 なぜ名前がエミー・ネーターなのか
エミー・ネーターは、現代数学と理論物理学に巨大な影響を残した人物である。特に物理学では「ネーターの定理」によって、自然界の対称性と保存則の関係を明らかにした。
時間並進対称性がエネルギー保存則につながり、空間並進対称性が運動量保存則につながり、回転対称性が角運動量保存則につながる。物理学者が理論を作るとき、対称性は最も強力な手掛かりのひとつである。
PSIがこの名を選んだことには象徴的な意味がある。
LLMが文章として「それらしい物理」を生成するのではなく、保存則や対称性など、物理学が持つ強い制約の中で推論する。AIの自由な生成力と、自然法則の厳しい制約を組み合わせる。それがEmmyという名前に込められた思想だと考えられる。
また、ネーターの仕事は「一見別々に見える現象を、より深い数学的構造によって統一する」ものだった。PSIの究極目標も、既知の現象の背後にある新しい構造を機械探索で見つけることにある。
第8章 AI物理学者は、普通のLLMと何が違うのか
ChatGPT、Claude、GeminiなどのフロンティアLLMに物理問題を解かせることはすでにできる。大学レベルの問題、数式の導出、プログラム作成、論文の解説もかなり高い水準で可能になっている。
しかし、それだけで「AI物理学者」と呼べるわけではない。
通常のLLMの弱点は、答えが流暢であっても真である保証がないことだ。数学記号を整然と並べ、もっともらしい証明を書き、存在しない理論や誤った近似を自然に提示できてしまう。
物理研究では、これが致命的になる。
PSIが重視するのは、言語生成能力ではなく「外部世界に負けない仕組み」である。
保存則に反していないか。次元が合っているか。対称性が壊れていないか。形式証明が通るか。シミュレーションで再現するか。別の方法で同じ結果が出るか。実測値と一致するか。
AIが自分の答えを言葉で弁護できても、自然法則は説得できない。
PSIのVisionには「Reality is the reward」という非常に短い表現がある。現実そのものを報酬関数にするという発想だ。
これはロボットAIにも通じる。ロボットは「コップをつかめた」と文章で説明しても、実際につかめなければ失敗である。物理学も同様に、外部世界に明確な評価基準が存在する。
第9章 Autonomous Campaignという研究の工業化
PSIは研究の単位を「Autonomous Campaign」と呼んでいる。
これは単なるAIエージェントのタスクではない。問題定義から、仮説生成、検証、実験、工学設計、deploymentまでを連続して走らせる長期研究プロセスだ。
人間の研究者が「この問題を解く」という目標と成功条件を与え、AIがその下で多数の研究スレッドを回す。マイルストーン、検証ゲート、応用への道筋を持ち、複数キャンペーンを同時に走らせる。
ここにPSIの「industrialize physics discovery=物理学の発見を工業化する」という言葉の意味がある。
従来の科学研究は、極端に言えば「優れた研究者が長い時間をかけて考え、偶然の発見と洞察を積み上げる」ものだった。研究費を10倍にしても、発見が10倍になる保証はない。
PSIが目指すのは、研究を「資源投入可能な工程」に変えることだ。
必要な計算資源、シミュレーション、検証器、研究AIを増やせば、探索量を増やせる。探索量を増やせば、成功確率が上がるかもしれない。
もし本当にこの関係が成立するなら、「発見」は偶然待つものから、予算を割り当てるものへ変わる。
PSI自身は、この組織構想を歴史上の二つの制度の合成として説明している。
ひとつはARPA。1950年代末のスプートニク・ショックから生まれ、少人数が重要な目標を選び、組織の壁を越えて推進する「エリートによる計画運営」を示した。もうひとつが米国の国立研究所群。マンハッタン計画が要求した産業規模の科学から生まれ、学際チーム、専用装置、長期の組織記憶によって、使命を持続的な能力に変える遂行力を示した。
この二つは20世紀の突破的物理学を担ったが、どちらも「人間のキャリアの速度」で動いていた。研究者が一人前になるまで二十五年。そのあとも助成サイクル、審査委員会、査読、合意形成が速度を決める。PSIのVisionにある一文が、この認識を最も鋭く表している。制約は人ではなかった、彼らが従っていた時計だった、と。
PSIはここに、ARPAの方向づけと国立研究所の遂行力に、AIの速度と規模を接続しようとしている。そしてもうひとつ、評価系と訓練系を単一のループにする。結果を認定した検証器が、次世代の仮想物理学者を訓練する報酬関数になる。物理法則は、モデルがそれを満たすのが上手くなっても動かない。だから報酬ハッキングが起きにくい、という論理である。
第10章 PSIが最重要視する「Verification」
生成AI時代の科学で最大の問題は、仮説の生成コストが急速に下がる一方、検証コストは下がっていないことだ。
AIが100万個の新しい仮説を作れるとしても、人間が100万個を読む必要があるなら意味がない。
したがってAI Scientistの本当のボトルネックは「Generation」ではなく「Verification」になる。
PSIはこの点を明確に認識している。
公式Visionでは、候補結果を、conservation laws、symmetry、dimensional consistency、formal proof、simulation、digital twins、physical measurementなど、AI自身が言い逃れできない複数のゲートに通すとしている。
これは非常に重要な設計思想だ。
物理学では、一つの数式が正しそうに見えても、単位が合わなければ即座に棄却できる。保存則を破っていれば特殊な説明がない限り疑わしい。解析解と数値解が一致しなければ問題がある。別の計算手法で同じ結果が出れば信頼度が上がる。
この「独立した検証手段を重ねる」ことが、AI科学の信頼性を作る。
そしてPSIは、検証器そのものを次世代AIの学習信号に使う構想も示している。つまり評価システムとトレーニングシステムが一つのループになる。
第11章 物理学にスケーリング則は成立するのか
PSIの最も大胆な主張のひとつが、「physics discoveryにもscaling lawが存在する可能性」である。
同社は初期研究から、inference-time computationを増やすことで難しい研究問題に対する性能が向上する兆候があるとしている。
これは事実として確立された自然法則ではない。PSI自身も「If it holds」と条件付きで書いている。つまり現段階では仮説である。
しかし、もし成立すれば極めて大きい。
大規模言語モデルでは、学習時の計算量、データ、パラメータなどを増やすことで性能が向上するスケーリング則がAI産業の投資判断を変えた。その結果、巨大GPUクラスターに数千億円、数兆円を投じることが合理化された。
物理研究でも「推論計算量を何倍にすると、未解決問題を解ける確率がどれだけ上がる」という経験則が見つかれば、研究予算の考え方が変わる。
たとえば、ある問題を解く成功確率が1万GPU時間で5%、10万GPU時間で20%、100万GPU時間で50%というように、計算資源と発見確率の関係が見えるようになる可能性がある。
そうなれば研究責任者は「この問題には50万ドル分の計算を投じれば、一定確率で突破できる」と判断できる。
これは科学研究の資本集約化であり、「AI研究所」が新しい産業になる可能性を意味する。
第12章 Get Physics Done――すでに存在するオープンソースAI物理学者
PSIを評価する上で見落とせないのが、Get Physics Done、略してGPDである。
GPDはPSIが公開しているオープンソースのagentic AI system for physics researchで、Apache 2.0ライセンスで公開されている。
GPDは単独の大規模モデルではない。Claude Code、Codex、Gemini CLI、GitHub Copilot CLI、OpenCodeなどのAIコーディング環境に「物理研究のワークフロー」を追加する。
研究質問を設定し、問題をスコープし、作業計画を作り、導出を行い、結果を検証し、最終成果物をまとめる。この一連の工程をエージェント型ワークフローとして実行する。
これは非常に重要な証拠である。
PSIは2026年9月に突然「AI物理学者」という言葉だけを掲げたのではない。少なくともその前から、物理研究をエージェント化するソフトウェアを公開し、実際の研究者が使える形にしてきた。
公開時期も追える。GPDの一般公開はステルス期間中の2026年春で、会社のローンチより半年ほど早い。v1.2.2のリリースは5月7日。GPDを引用・謝辞した論文のarXiv番号は2604番台と2605番台、つまり2026年4月と5月の投稿である。ローンチの半年前には、社外の研究者が実際に使い始めていたことになる。
公開時の発表文では、対応する物理分野も具体的に挙げられている。場の量子論、量子重力、弦理論、物性、一般相対論と宇宙論、統計力学、原子分子光学、原子核・素粒子、量子情報、流体・プラズマ、数理物理、代数的場の量子論、弦の場の理論、古典力学、ソフトマターと生物物理。理論物理のほぼ全域を名指ししている。
初期の公開時には自律実行を強く打ち出した時期もあったが、現行のGPDはむしろ監督型へ軸足を移している。2026年4月27日のv1.2.0ではデフォルトをsupervised+denseへ変更し、「GPD is a scalpel, not an autopilot」という方針をREADME、help、settingsなどに明示した。各waveの最初の重要結果でチェックポイントを置き、人間の研究者が頻繁に検証・方向修正する構成である。
これは後退というより、AI Scientistの実運用で見つかった現実的な設計変更と見るべきだ。PSIの商用Emmyは高い自律性を目指す一方、公開版GPDでは、研究者を完全に外すよりも「大学院生に仕事を任せるように実行を任せ、指導教員のように検証する」モデルを採用している。
具体的な公開状況も確認できる。2026年9月2日の再確認時点で、PSIのGitHub組織ページではGet Physics Doneは877スター、137フォークと表示されている。Issuesページなどではキャッシュ時刻の違いから138フォークと表示される場合もあるため、これらは固定値ではなく規模感を見る参考値として扱う。READMEが引用例として示す安定版はv1.2.2で、リリースは2026年5月7日。ライセンスはApache 2.0である。導入にはNode.js 20以上、Python 3.11以上に加え、Claude Code、Codex、Gemini CLI、GitHub Copilot CLI、OpenCodeのいずれかを利用する。
ワークフローは四段階に整理されている。Formulateでスコープ、仮定、記法、検証目標を詰める。Planで依存関係と成功基準を持つ段階別ロードマップを作る。Executeで導出、数値検証、文献調査、執筆の専門エージェントを走らせる。Verifyで次元整合性、極限、対称性、保存則、数値安定性を検査する。
各段階は実ファイルを吐く。PROJECT.md、REQUIREMENTS.md、ROADMAP.md、STATE.md、.texの導出、.pyの検証スクリプト、図表。プロジェクト単位で最大18の物理分野の記法と符号規約を固定し、フェーズが積み上がっても表記が揺れない仕組みも持つ。
READMEの言葉づかいにも思想が滲む。GPDは迎合よりも科学的厳密さと批判的思考を優先する、と明記されている。好ましい説明は検証すべき仮説として扱え、見つからなかった証拠や失敗した検索は捏造せず明示せよ、とも。そして「GPDはメスであってオートパイロットではない」「各ターンを大学院生の作業のように扱え。実行は信頼してよいが、検証と方向修正には関与し続けろ」。
名称の由来もREADMEに書かれている。AIネイティブなコマンドワークフローの有用性を示したGSD(Get Shit Done)にちなみ、それを物理研究向けの厳密なエージェントシステムへ作り替えたものだという。
GPDのREADMEには、GPDを利用・引用した物理論文も掲載されている。2026年9月2日時点で4本。ニューラルネットワーク場の理論におけるアノマリー、3次元超重力から見た超ヴィラソロ極小弦、ホログラフィックエンタングルメントエントロピーとWilsonループとニューラルネットワーク、ニューラルネットワーク場の理論におけるトポロジカル効果。いずれもarXivに掲載されている。これらがPSIによる新物理発見を意味するわけではないが、エージェント型研究ワークフローが現実の研究活動に接続し始めていることを示す。
そしてGPDは、第18章で扱うFermi Explorerの軌道探索にも使われている。MIT Technology Reviewによれば、Wissner-Grossがミッションの問題をこのシステムに投入した。研究課題を小さなタスクに分解し、どのシミュレーションを走らせるかを決める仕組みで、内部ではAnthropicのClaudeやOpenAIのGPTといったモデルを使う。
さらに、PSIのオープンソース組織psi-ossには、get-physics-doneのほかに三つの公開リポジトリがある。gpd-app、gpd-compute、tauri-plugin-mcpである。
このうちgpd-appは「The open source Physics agent」と説明され、デスクトップ型の研究ワークスペースにあたる。ただし正確に書いておくと、これはanomalycoのOpenCodeからのフォークであり、PSIがゼロから作ったものではない。2026年9月2日のGitHub組織ページでは独自スターは6、最終更新日は2026年7月24日。GitHub上に表示される2万件超のフォーク数は上流リポジトリから引き継いだ数字で、gpd-app自体の普及を示すものではない。
tauri-plugin-mcpがRust製であることから、Tauriベースのデスクトップアプリにモデル・コンテキスト・プロトコルを組み込む構成が見て取れる。gpd-computeはPythonでMITライセンス。いずれも活発に更新されている状態ではない。
つまりPSIのオープンソース戦略の実体は、現時点ではget-physics-doneのほぼ一点である。デスクトップ版は試作の域を出ていないと見るのが妥当だろう。
これはGPDが単なるプロンプト集から、研究プロジェクトの状態、ファイル、計算、検証、執筆をまとめて扱う「AI研究ワークスペース」へ発展していることを示す。Get Physics Done本体のREADMEにも、gpd doctorによる環境診断、gpd resumeによる研究状態の復元、gpd costによるコスト確認、Wolfram連携などが記載されている。PSIが狙っているのは、一問一答の物理チャットではなく、数日、数週間、数か月続く研究プロジェクトをAIと共同運営するためのOSに近い層だ。
つまりGPDは、社外向けの善意の公開物であると同時に、PSIが自ら実証に使っている道具でもある。
なお、オープンソースとはいえ運営はかなり中央集権的である。貢献者は全員CLA、すなわち著作権許諾契約への署名を求められる。個人はGitHub上のCLA Assistantで自動的に処理され、法人はPDFに署名してlegal@psi.incへ送る。mainブランチへの直接pushは禁止、バージョン番号の変更とリリースは機能追加のプルリクエストには許されない。
Apache 2.0で公開しつつ、権利と配布はPSIが握る。研究コミュニティに使ってもらいながら、商用のEmmyとの境界は保つ。この設計自体が、同社のオープンソース観を示している。
Emmyはおそらく、GPDよりはるかに大規模で、専用シミュレーション、独自reasoning engine、検証器、world modelsなどを統合した商用・研究用システムとして位置づけられる。GPDが公開されている一方でEmmyが非公開である、という非対称も、同社の戦略を示している。
第13章 最初の商品がデータセンターである理由
PSIが掲げる最終目標は「新しい物理法則の発見」だが、最初の商用アプリケーションはAIデータセンターである。
これは戦略的に非常に合理的だ。
第一に、AIデータセンターは急成長している巨大市場である。AI企業、クラウド企業、データセンター事業者は、GPUを調達できても電力と冷却が足りないという問題に直面している。
第二に、データセンターは非常に複雑な物理システムである。
電力変換、配電、UPS、バッテリー、冷却水、ポンプ、冷却塔、CDU、液冷、空冷、熱伝導、熱交換、ラック配置、ネットワーク配線、光通信、振動、電磁ノイズ、材料、建物構造が互いに影響し合う。
第三に、評価が定量的である。
同じ計算量をより少ない電力で処理できたか。GPU温度が何度下がったか。ラック当たりの計算密度が上がったか。PUEが改善したか。故障率が下がったか。設備投資が減ったか。
成果が数字で判定できる。
これはAI物理学者にとって理想的な訓練場である。
第14章 データセンターは巨大なMulti-Physics問題
AIデータセンターの設計を単純化すると「GPUを大量に並べればよい」と思える。しかし実際には、GPU密度を上げるほど物理制約が支配的になる。
GPUラックの消費電力が増える。発熱量が増える。冷却水の流量が必要になる。配管径やポンプ容量が変わる。ポンプ自身も電力を消費する。冷却水の温度条件が変わればチラー構成が変わる。配管が太くなればラック配置に影響する。電力系統とネットワーク系統も干渉する。
つまり、電力を最適化すると冷却が悪化し、冷却を最適化すると建築コストが増え、ラック密度を上げると保守性が下がるというトレードオフが起きる。
従来は専門分野ごとに設計して、最後に統合することが多かった。しかしAI時代の超高密度データセンターでは、領域間の相互作用が強くなりすぎている。
PSIが狙うのは、このmulti-physics optimizationをAIで一体化することだ。
Emmyが電力、熱、流体、ネットワーク、computeを同時にモデル化し、人間の設計者が試さないような大量の組み合わせを検討する。
もしここで数%でも電力効率や計算密度を改善できれば、数百MWからGW級のデータセンターでは莫大な経済価値になる。
第15章 「Intelligence per Watt」という自己強化ループ
PSIの構想で最も面白い部分のひとつが、「Intelligence per Watt」である。
データセンターの効率が上がれば、同じ電力でより多くのAI推論ができる。
より多くのAI推論ができれば、Emmyがより多くの物理仮説を探索できる。
より多くの物理探索ができれば、データセンターをさらに効率化する新しい設計、材料、冷却方式、電力変換方式を発見できる可能性が上がる。
その結果、同じ電力でさらに多くのAI推論が可能になる。
AIがAIインフラを改善し、その改善されたインフラがさらに強いAIを可能にする。
これはソフトウェアだけのRecursive Self-Improvementとは少し違う。「physical recursive improvement」とでも呼ぶべき構造である。
AIがコードを書き換えて自分を改善するだけでは、最終的にGPU、電力、熱、材料の限界にぶつかる。PSIがもし物理層まで改善できるなら、その限界線自体を動かせる可能性がある。
この点でPSIは、AIの自己改善を「計算機科学」から「物理世界」へ拡張する会社と見ることもできる。
第16章 宇宙データセンターまで狙う理由
PSIの公式発表では、最初の商用対象として「terrestrial and orbital data centers」、つまり地上データセンターと軌道上データセンターが明記されている。
宇宙データセンターはまだ主流の産業ではないが、2025年以降、AI計算需要、電力需要、冷却、土地、送電網の制約から、宇宙での大規模計算を検討する動きが強まっている。
宇宙では太陽エネルギーを長時間利用できる可能性がある一方、熱の捨て方は地上とまったく異なる。真空中では空気による対流冷却が使えないため、放射で熱を捨てる巨大なラジエーターが必要になる。打ち上げ質量、軌道、放射線、保守、通信、構造、太陽光発電なども同時に解く必要がある。
まさにmulti-physics問題の塊である。
PSIが宇宙データセンターを対象に含めるのは、単なる話題性だけではない。極端な物理制約がある環境ほど、AIによる大量設計探索が価値を持つ可能性があるからだ。
また、PSIにとって宇宙はデータセンター最適化とFermi Explorerを結ぶ技術領域にもなっている。
この接続は、比喩ではなく人的なものである。
Fermi Explorer Missionの共同創業者兼社長Philip Johnstonは、軌道上データセンターのスタートアップStarcloudの共同創業者兼CEOでもある。Johnstonは軌道上データセンターの最も強力な提唱者の一人として知られる人物だ。
Starcloudは軽く扱える会社ではない。2024年設立、拠点はFermi Explorerと同じワシントン州レドモンド。Y Combinator出身で、デモデイから17か月で評価額10億ドルに到達した。これはYC史上最速である。2026年4月に1億7,000万ドルを調達して評価額11億ドル、同年8月にはシリーズAの追加として2億5,000万ドルを調達し、評価額は23億ドル、1ドル160円換算で約3,680億円になった。設立以来の累計調達額は4億5,000万ドル、約720億円。
技術的な実績もある。2025年11月、SpaceXの打ち上げでStarcloud-1を軌道に投入した。約59kgの衛星に、NVIDIA H100を1基搭載している。地上データセンター用のGPUを軌道上で動かしたのは同社が初で、そのうえで軌道上で言語モデルの訓練にも成功した。訓練したのはAndrej KarpathyのnanoGPTである。12月にはGeminiの一種を軌道上で動かしてもいる。冷却には国際宇宙ステーションの排熱技術を転用した。
次のStarcloud-2は発電能力が100倍で、NVIDIA Blackwell B200を搭載し、顧客のワークロードを走らせる計画である。8月の増資では新規投資家としてNVIDIA自身とCisco Investmentsが参加した。
そのNVIDIAが、この分野を正面から取りに来ている。
2026年3月16日、サンノゼで開かれたGTC 2026の基調講演で、NVIDIAは軌道上データセンター向けの計算プラットフォーム「Space-1 Vera Rubin Module」を発表した。Vera Rubinプラットフォームの宇宙適格版で、Vera CPU、Rubin GPU、NVLink 6 Switch、ConnectX-9 SuperNIC、BlueField-4 DPU、Spectrum-6 Ethernet Switchの6種のチップで構成される。宇宙での推論性能はH100比で最大25倍とされる。
導入を表明したのは6社。Aetherflux、Axiom Space、Kepler Communications、Planet Labs、Sophia Space、そしてStarcloudである。IGX ThorとJetson Orinはすでに提供中だが、Space-1モジュール本体の出荷は後日とされている。
ここでJensen Huangが述べた一文が、本稿の文脈では決定的である。宇宙には対流がない、あるのは放射だけだ、だからどう冷やすかを考えなければならない、と。
これは比喩ではなく、そのまま熱力学の問題である。地上のデータセンターは空気と水に熱を渡せる。真空中ではそれができず、放射でしか熱を捨てられないため、巨大なラジエーターが要る。ラジエーターを大きくすれば質量が増え、打ち上げコストが上がる。冷却、質量、発電、放射線耐性、構造が同時に効いてくる。
PSIが「Emmyでマルチフィジックス最適化を解く」と言っているのは、まさにこの種の問題だ。世界最大の半導体企業のCEOが基調講演で「まだ解けていない」と認めた領域を、創業直後のスタートアップが最初の商品にしている。市場の存在は疑いようがない。解けるかどうかが問われている。
ここで、PSIとStarcloudの関係を冷静に見ておく価値がある。
PSIは商用第一弾に「地上および軌道上のデータセンター」を掲げている。その軌道上データセンターの最先端を走っているのが、PSIに恒星間ミッションの物理問題を持ち込んだ人物の会社である。両社が事業契約を結んだという発表は2026年9月2日時点で確認できないが、PSIのEmmyが解こうとしている問題、すなわち真空中の排熱、放射線、打ち上げ質量、太陽光発電、構造の同時最適化は、Starcloudが今まさに直面している問題そのものだ。
この符合をどう読むかは読者の判断に委ねるが、PSIが「軌道上」を最初の商用領域に含めた理由の一端は、ここにあると見ておいてよい。
日本の読者にとっては、PSIとStarcloudの近接は、宇宙データセンターが単なる遠い構想ではなく、AI、GPU、熱設計、軌道工学が交差する現実の産業テーマになり始めたことを示している。ベゾスがVivaTechで語った宇宙データセンター構想とも同じ座標に置ける動きである。地上では電力と土地と系統が制約になり、軌道上では熱の捨て方と打ち上げ質量が制約になる。どちらも、AIによる大量設計探索が価値を持ち得る領域だ。
第17章 Fermi Explorer Missionとは何か
PSIの初期実績として最も話題性が高いのがFermi Explorer Missionである。
Fermi Explorerは非営利の民間プロジェクトで、Alpha Centauri方向へ宇宙機を送り出すことを目標にしている。法人形態は501(c)(3)、拠点はワシントン州レドモンド。シアトルの東隣で、マイクロソフト本社のある町である。資金は個人の民間寄付でまかなわれている。
共同創業者は3人。社長を務めるPhilip Johnston、Ezra Feilden、Adi Olteanで、いずれも軌道上データセンター企業Starcloudの共同創業者である。プログラムマネージャーはGarrett Jameson。Johnstonは英国出身の数学者・物理学者だ。
始まりは雑談だったという。ある会議でJohnstonは、引退後に10億ドルを恒星間探査機に投じるつもりだという創業者と話した。Johnstonは「1,000万ドルか1,500万ドルでできる」と答え、相手は「できない」と返した。時間軸をどこまで伸ばすかによる、というのがJohnstonの立場だった。そこから証明作業が始まり、本人いわく「思っていたよりはるかに難しかった」。
公式サイトが掲げる4つの主要条件は明確だ。
第一に、Alpha Centauriまでの距離の99%以上を8万年以内に進むこと。
第二に、10cm×10cm×10cmの体積に、少なくとも1kgのペイロードを搭載すること。
第三に、2029年末までに打ち上げること。
第四に、設計、製造、打ち上げ、運用まで含む総費用を1500万ドル未満に抑えること。
これはBreakthrough Starshotのように数十年でAlpha Centauriへ到達しようとする超高速探査機とは発想が違う。
現在利用できる技術と比較的小さな予算で、「人類が意図的に別の恒星系へ向けて送り出した最初の人工物」を実現しようとしている。
PSIはこのミッションのFounding Technical Partnerとして、物理的成立性の分析、軌道探索などを担当している。さらに、飛行から得られる研究価値を高めるための科学観測機器も追加提供するとしている。
設計上、最も割り切りが効いているのは通信である。
Fermiチームは、打ち上げから1年程度で地球との無線通信を失うことを織り込んでいる。アンテナを大きくすれば通信距離は伸びるが、その質量が推進性能を食う。だから通信を捨てる。位置の追跡は、機体に載せたretroreflectorへ地上からレーザーを当てて行う。
Johnstonの言葉が、この設計思想を端的に表している。基本的に12年間の自律運用であり、太陽系を出たあとは、ただ進むだけだ。すべての電源が落ちて、あとは行くだけになる、と。
通常の宇宙ミッションは、探査機からデータが返ってくることを前提に設計される。Fermi Explorerはその前提を捨てている。この割り切りが、1,500万ドルという予算を成立させている大きな要因のひとつだ。
なお、このミッションの「成功」の定義は8万年後ではない。Johnstonにとっての成功は、正しい軌道で太陽系を離脱することであり、それは12年で判定できる。この12年は、Voyager 1が約35年、Voyager 2が約40年かけて恒星間空間に到達したことと比べれば速い。
搭載物も具体的だ。1kg以上のペイロードは、遮蔽された10cm角の箱に収められる。中身には寄付者のメッセージ、科学的ペイロード、芸術的ペイロード、そして1977年にNASAがVoyager 2機に載せたゴールデンレコードの複製が含まれる。この複製はデジタル化してマイクロエッチングした形で搭載される。世界中の子どもたちから集めたメッセージも積む予定だという。
科学・芸術ペイロードは公募される。3か月の提案受付期間を設け、実現可能性やコストを基準に選定するとしている。
資金調達の方法も現代的だ。100ドルを寄付すると、機体に自分の名前を刻んでもらえる。8万年のあいだ星間空間を漂う物体に名前を残す権利が、100ドルで売られている。
Fermi Explorer側は、計画を単なる概念研究で終わらせず、主要な衛星メーカーを対象にオープン入札を行う方針も示している。2026年9月2日時点の公式FAQでは、50回超のミッション成功実績を持つ米国の衛星バスメーカーから、総額1500万ドル未満で実行する提案をすでに受け取っているとしている。企業名や契約締結はまだ公表されていないため、「実現が確定した」と解釈するのは早いが、少なくとも予算制約に対して具体的な産業側の応答が始まっている。
科学ペイロード候補も意外に現実的である。初期航行中の軌道を地上から測るcorner-cube retroreflector、長期間の宇宙線履歴を残すCR-39やLexanの核飛跡検出器、総放射線量を蓄積するTLD/OSL結晶、微小隕石衝突痕を残すwitness plateやaerogel dust trap、数万年後に経過時間を推定できるradioisotope clockなどが候補として挙げられている。
多くの計測結果は地球へ送信されず、将来、探査機そのものを回収した文明が読み出すことを前提にする。通常の宇宙科学とは異なり、「八万年後の研究者へ物理的データを渡す」という時間カプセル型の科学ミッションでもある。
第18章 AIが見つけたAlpha Centauriへの軌道
Ars Technicaなどの報道によれば、Fermi Explorerの初期案はそのままでは成立しにくかった。そこでPSIのAIシステムに質量、予算、推進、打ち上げ条件などを与えて探索させたところ、81ページのtechnical feasibility assessmentが生成され、新しいミッションプロファイルが提案された。
ポイントは、地球からいきなりAlpha Centauriへ向かうのではないことだ。
まず相乗り打ち上げで地球低軌道に入り、太陽の周りを逆行方向の弧を描いて角運動量を落としていく。近日点を地球軌道の1AUから約0.42AUまで縮め、そのあとは順行方向の推進を近日点付近に集中させる。
近日点付近では二つの利得が同時に効く。太陽光の強度が上がるため、太陽電池の出力は1AU時の1倍から4倍になる。さらに軌道速度が高いため、同じ推力を与えても軌道エネルギーの増え方が大きい。いわゆるOberth effectである。この二つを重ねる操作を、PSIの報告書は「perihelion pump」と呼んでいる。
この設計の要点は、推進を太陽近傍に限定できることだ。だから太陽電池パネルを小さく、機体を軽くできる。1,500万ドルという予算と1kg級のペイロードが両立する理由がここにある。
報告書が示す最良の噴射スケジュールは、初期加速度2.5×10のマイナス4乗m/s²の条件で、12.0年の飛行時間のうちほとんどを慣性飛行に充てながら、23.98km/sの速度増分を得るというものである。2029年打ち上げなら2043年ごろに太陽系を離脱する。ミッション全体の98%以上は推進を使わない慣性飛行になる。
約24km/sは人間の感覚では非常に速いが、光速に比べれば約0.008%にすぎない。そのためAlpha Centauri付近まで数万年単位の時間が必要になる。
Fermi Explorer公式FAQでは、さらに具体的な設計値が示されている。最適ケースではAlpha Centauri AB付近への到達は約77,500年後で、同系の重心から約2,600AU以内を通過する計画。最終的な太陽中心巡航速度は23.64km/sとされる。
ここで速度の数字が四つ出てくるので、混同しないよう整理しておく。PSIの技術報告書が示す23.98km/sと、Fermi Explorer公式FAQの23.97km/sは、どちらもperihelion pumpによって獲得する速度増分、すなわちdelta-vである。同じ量を指しており、差は丸めの違いにすぎない。一方、公式FAQの23.64km/sは、太陽系離脱後の最終的な太陽中心巡航速度。そしてGeekWireなどの報道は巡航中の速度を24.2km/sと伝えている。いずれも桁は同じだが、意味する量と出典が違う。記事で引用する際は、どの数字がどの量なのかを明示したほうがよい。
もうひとつ、到着時の数字もある。Alpha Centauri系を通過する際の相対速度は17.9km/sとされる。2015年のNew Horizonsによる冥王星フライバイより約25%速い。8万年後の一瞬の通過だが、その一瞬の速度まで設計されている。
打ち上げはGTO、すなわち静止トランスファー軌道への相乗りが優先案で、ここからなら地球脱出に必要なdelta-vを4.24km/sまで抑えられる。LEOしか確保できない場合は、約1.5年をかけた地球脱出スパイラルに7.6km/sのdelta-vが必要になる。
GTO開始案では、打ち上げ時のwet massは約100〜110kg、その約64%をキセノン推進剤が占める想定である。推進系は比推力2400〜2800秒級の実証済みgridded-ion thrusterを想定し、約13年の動力飛行期間のうち、実際に推力を出す時間は約1.3年に集約される。PSIが提案したperihelion pumpは、単に「太陽に近づく」案ではなく、電力、推進、機体質量、熱制約、予算を同時に成立させるための設計になっている。
報告書は感度分析も載せている。近日点での想定熱入力の上限を半分にしても結果は成立するが、速度増分は約1.9km/s失われ、噴射期間は15.1年から19.7年へ延びる。これは質量収支の前提となる12年の枠を超える。制約が厳しくなればどこが破綻するかを、あらかじめ数字で示している形だ。
ここで重要なのは「AIがワープ航法を発見した」ことではない。
既存の物理法則、既存に近い推進技術、厳しい予算制約の中で、人間チームが採用していなかった軌道設計をAIが探索・提案したという点である。Fermi Explorer公式FAQは「生成AIが実飛行予定のミッションに向けて新しい軌道を独立に考案した最初の例かもしれない」と主張するが、これは現時点ではFermi Explorer/PSI側の自己評価であり、歴史上の「世界初」として第三者に確定されたものではない。
ではAIはどこまで自力でやったのか。ここは記事の書き手として最も注意すべき部分だが、PSI側が具体的に語っている。
MIT Technology Reviewによれば、システムはほぼ自律で3日間動き、約10億トークンを消費した。その間、PSIに所属する天体物理学者が一人ついて、ミッション要件に沿うよう誘導し、コスト分析と図表の改善を要求し、出力の誤りを点検した。完全な無人ではない。
CEOのPinesは、驚いたのは結果そのものより「Fermiチームが検討していなかった、まったく別のミッションプロファイルを出してきたこと」だと語っている。既知の軌道機動の組み合わせ方が新しかった、という性質の発見である。
同じ発言の中で、Pinesは限界も認めている。モデルには人間の研究者が持つ判断力と趣味がない。どの問題が面白いか、どの筋が追う価値があるかを信頼できる形で持たないため、行き止まりを追い続けたり、別の筋を探索し損ねたりする。「そうしたものをモデルが内部でどう表現できるのか、我々はまだ分かっていない」。
自社の看板案件を語る場でこれを言っているのは、記事としては重要な材料である。
報告書そのものの設計も、この自己認識を反映している。表題は「Interstellar Precursor Mission to Alpha Centauri」、日付は2026年7月。分析は四本の脚で構成され、いずれもFermi Explorer側とモデルもコードも共有しない。独立検証はpumping機構をゼロから再構成したとされる。ただし、この報告書は査読を経ていない。
第19章 8万年かかる計画に何の意味があるのか
「8万年後に到着する宇宙機に意味があるのか」という疑問は当然である。
Fermi Explorer側も、これは現在の人類がAlpha Centauriへ行く実用輸送手段ではないと理解している。
むしろ目的は「恒星間航行を抽象的な未来論から、実際の工学プロジェクトへ変える」ことにある。
人類はVoyager 1やVoyager 2など、太陽系外へ向かう人工物をすでに持っている。しかしそれらは特定の恒星を目標にして設計されたミッションではない。
Fermi Explorerは、最初から別の恒星系をターゲットとして設計、製造、打ち上げる。
さらに面白いのは、8万年後までに人類がもっと高速な恒星間宇宙機を開発すれば、後から出発した宇宙機がFermi Explorerを追い越す可能性が高いことだ。
つまりFermi Explorerは「最初に出発するが、最初に到着するとは限らない」。Johnston自身の言葉では、Alpha Centauriに最初に出発し、最後に到着する存在でありたい、となる。千年後のエンジンが今より2割速ければ、その時点で出発した機体がFermiの探査機を1万年以上先んじて到着する、という計算も示している。
これは技術史上のタイムカプセルであり、文明の意思を宇宙に刻むプロジェクトでもある。
そしてミッション名が示すとおり、動機の中心にはフェルミのパラドックスがある。銀河には数千億の恒星があり、その多くは太陽より古い。恒星間をゆっくり移動する文明でも数百万年あれば銀河全体に広がれる。それは銀河の年齢に比べれば一瞬だ。にもかかわらず、我々は何の痕跡も見ていない。
説明は二つに絞られる。他の恒星に到達することが難しすぎるのか、他の知的種がそもそもやろうとしないのか。Fermiの探査機が飛び立てば、人類は「到達しようとし、かつ到達できる文明」になる。すると、どちらの説明も成り立たなくなる。
残るのはより不穏な可能性だ。我々のような生命が想像を絶するほど稀なのか。あるいは知的生命は珍しくないが、広がる前に絶えてしまうのか。Johnstonは後者について、こう述べている。理由のひとつは、超知能に到達すると、何らかの理由でそれが自己破壊的である、ということかもしれない。今後50年のうちに、すべての知的文明が通過できない「グレートフィルター」があるのかもしれない、と。
超知能を掲げる研究所が技術パートナーを務めるミッションの動機が、超知能による自己破壊への懸念である。この構図は、記事の読者に長く残るはずだ。
PSIにとっては、これがAI研究システムを現実の極端な物理制約にぶつける公開実験となる。
第20章 Physical AI、World Model、PSIの違い
Physical Superintelligenceという名前を見ると、Tesla Optimus、Figure、Unitree、Physical Intelligenceなどのロボット企業を連想しやすい。
しかしPSIの「Physical」は、ヒューマノイドロボットという意味ではない。
Physical AIは一般に、AIがセンサーやロボット身体を通じて現実世界を理解し、行動する領域を指す。VLA、ロボット基盤モデル、世界モデル、模倣学習などが中心になる。
一方PSIは、物理世界の「法則」を推論・発見・設計対象にする。
ロボットが「この箱をどう持ち上げるか」を学習するのに対し、PSIは「この材料、構造、熱、電磁場、エネルギー系をどう設計すれば、従来の限界を超えられるか」を研究する。
World Modelにも違いがある。
World Labsなどが空間、映像、3D世界を生成・再構築するworld modelを追求するのに対し、PSIのworld modelは、熱力学、流体力学、電磁気、材料など、物理挙動を忠実に再現する方向に重心がある。
前者を「見える世界のモデル化」とするなら、PSIは「働いている自然法則のモデル化」を狙っている。
第21章 競合は誰か――AI Scientist市場の勃興
PSIは非常に独自性の高い会社だが、「AIによる科学研究」という大きな市場では競争相手が増えている。
Google DeepMindはAlphaFoldをはじめ、数学、材料、気象などの科学AIで巨大な存在感を持つ。Microsoft Researchも科学計算、材料、量子、AIエージェントなどを広く研究する。Lila SciencesはAIを使った自律科学研究プラットフォームを狙う。FutureHouseは生物学研究を中心にAI scientistを展開している。Sakana AIはAI Scientistの自動論文生成・研究ワークフローを示してきた。
さらに大手フロンティアAI企業も、数学、コード、科学推論を重要な能力領域として強化している。
ではPSIの差別化は何か。
第一に「physics専業」であること。
第二に、言語推論だけでなくsimulationとverificationを中核にしていること。
第三に、実際の工学システム、特にデータセンターをcommercial proving groundに置いていること。
第四に、基礎研究と商用最適化を同じループにしようとしていること。
第五に、GPDのようなオープンソース研究ワークフローをすでに公開していること。
AI Scientist市場は今後、「汎用AIがすべてをやる」方向と、「物理、化学、生物、材料など領域ごとに深いツールチェーンを持つ」方向の両方が伸びる可能性が高い。PSIは後者の代表候補である。
第22章 PSIの最大の強み
PSIの最大の強みは、ビジョンの大きさではない。
「商用問題」と「基礎研究」を同じ改善ループに置いたことだ。
新しい物理法則の発見だけを目指すスタートアップでは、研究成果が出るまで売上が立ちにくい。基礎研究は成功時の価値が巨大でも、タイミングが予測できない。
PSIはそこでデータセンターを最初の市場に選んだ。
データセンター最適化は顧客価値を測りやすい。電力、冷却、計算密度、CAPEXなど改善指標が明確である。さらに顧客現場から得られる実データはEmmyのworld modelsとverificationを強化する。
つまり顧客案件そのものがAI物理学者の訓練データになる。
これはロボット会社が工場にロボットを導入し、運用データを集めてVLAを改善する構造と似ている。
商売をすればするほど研究AIが強くなる。その研究AIが強くなれば、さらに価値の高い商用案件を解ける。
このflywheelが回るかどうかが、PSIの企業価値を決める。
第23章 PSIの最大のリスクと未検証点
PSIには非常に魅力的な物語があるが、現段階で確認できていないことも多い。
第一に、「新しい物理法則を発見した」という査読済みの決定的成果は、ローンチ時点では確認できない。
PSIは「ultimately discovering new physical laws」を目標として掲げているのであって、それをすでに達成したと考えるべきではない。
Fermi Explorerの軌道に関する81ページの技術報告書も査読を経ていない。報告書自体は独立検証を四本立てで設計し、Fermi Explorer側とモデルもコードも共有しないという配慮を見せているが、それはPSIが自ら設計した検証である。外部の軌道力学の専門家による検証はこれからだ。
第二に、Emmyの性能を第三者が評価できるベンチマークはまだ限られる。
どの物理問題で、人間研究者や既存AIに対してどの程度優位なのか。推論コストはいくらなのか。どの程度再現可能なのか。ここは今後の論文、顧客事例、公開評価を待つ必要がある。
第三に、データセンター最適化の実績も、ローンチ段階では具体的な顧客名や改善率が広く公開されているわけではない。
PSIは地上・軌道上データセンターを「最初のproving ground」と明示しているが、2026年9月2日時点で、PSIがどのデータセンター事業者と有償契約を結んだのか、PUE、ラック密度、冷却電力、CAPEXなどが何%改善したのかを示す公開事例は確認できない。したがって「最初の商品はデータセンター最適化」と「すでにデータセンター事業で商用成果を出した」は分けて書く必要がある。
「計算密度が何%上がった」「エネルギー使用量が何%減った」「CAPEXが何%改善した」といった数値が出てくれば、一気に評価しやすくなる。
第四に、「物理学のスケーリング則」はまだ仮説である。
AIベンチマーク問題と、本当に新しい理論物理の発見では難易度がまったく違う。推論計算量を増やせば既知問題に対する正答率は上がっても、「未知の自然法則の発見確率」まで同じように上がるとは限らない。
第五に、シミュレーションにはモデル誤差がある。
AIがいくら大量に探索しても、シミュレーター自体が現実を取り違えていれば、間違った最適解を大量に作るだけだ。
だから最終的には実験・実測が必要になる。
PSI自身がverificationとphysical measurementを強く主張しているのは、この問題を理解しているからだ。
第六に、AIに研究上の判断力がない点である。
これは外部の批判ではなく、CEOのPines自身がローンチ時のインタビューで認めた限界だ。モデルはどの問題が面白いかを判断できず、行き止まりを追い続ける。PSIの設計思想が「人間が問題を選び、AIが実行する」という分業になっているのは、この欠落を前提にしているからである。
裏返せば、PSIの主張する自律性には天井がある。Autonomous Campaignという言葉は「人間の関与なしに発見が進む」ことを意味しない。少なくとも現時点では、優れた研究ディレクターの数がスループットの上限を決める。25人超という組織規模は、その意味で小さくはないが無限でもない。
第24章 日本企業にとって何が重要か
PSIの動きは、日本企業にとってかなり重要な示唆を持つ。
日本はAI基盤モデルでは米国勢、中国勢に大きく先行されたが、物理世界の技術では依然として強い領域が多い。
精密機械、モーター、減速機、ベアリング、センサー、光学、半導体材料、電子部品、パワー半導体、工作機械、空調、熱管理、冷却、化学材料、電池、計測器などである。
AI物理学者が本当に実用化するなら、これら日本企業の設計・製造データは極めて価値の高い学習・検証資産になる。
たとえば冷却分野であれば、ダイキンなどの熱・流体技術。モーターや電源では日本電産系やパワーエレクトロニクス企業。センサーではキーエンス、オムロン、ソニーなど。材料では信越化学、AGC、住友系、積水系、TDK、村田製作所など、多数の候補がある。
AI時代の競争力は「一番大きなLLMを持っているか」だけでは決まらない。
AIが現実世界を設計する時代には、物理データ、実験装置、製造設備、材料データ、故障データ、熟練者の知識が重要になる。
日本企業がこれらを単なる社内ノウハウとして閉じ込めるのか、AIが扱える構造化データへ変換し、物理AIと接続するのかで、2030年代の競争力は大きく変わる可能性がある。
第25章 AIは「科学者」になるのか
AIが科学者になるという議論では、「AIに創造性があるのか」「AIは本当に理解しているのか」という哲学的な議論に入りやすい。
しかし産業的には、別の評価軸が重要である。
人間が思いつかなかった仮説を作れるか。正しい予測を出せるか。新しい装置を設計できるか。実験で再現できるか。従来より低コストで問題を解けるか。
もしこれらができるなら、そのAIが人間と同じ意味で「理解」しているかどうかに関係なく、研究能力として価値がある。
PSIの考え方もそこに近い。
人間科学者は問題選択、価値判断、研究の方向性に集中し、AIは仮説探索と検証の膨大な作業を担う。
公式サイトは「Human scientists direct the missions. Virtual physicists carry out the research.」と表現する。
この構造では、人間科学者が消えるというより役割が変わる。
科学者は「自分で一つひとつ計算する人」から、「どの未知を探索すべきかを決めるResearch Director」へ近づく。
これはプログラミングで起きている変化と似ている。AI Coding Agentが普及すると、プログラマーの価値は一行ずつコードを書く能力だけではなく、アーキテクチャ、要件、評価、意思決定へ移る。
科学でも同じことが起こる可能性がある。
第26章 Physical Superintelligenceが成功した世界
PSIが成功した世界を想像すると、その影響はデータセンター業界を超える。
まずAIがデータセンターを効率化する。冷却、電源、光通信、ラック、材料を最適化し、同じ電力でより多くの計算を可能にする。
次に、その増えた計算能力を使ってさらに大規模な物理探索を行う。
AIが新しい冷却材料を発見する。新しいパワー半導体構造を見つける。新しい光通信方式を設計する。新しい電池材料を探す。新しい核融合材料、新しいセンサー、新しい計算素子を作る。
その発見によって計算インフラがさらに強くなる。
これが繰り返されれば、「AI→物理発見→新インフラ→より強いAI→さらに物理発見」というサイクルになる。
これはAI産業における極めて重要な転換である。
現在、多くの議論はモデル能力、パラメータ、データ、推論時間、エージェントの自己改善に集中している。しかしAIが本当に文明の基盤技術になるなら、最後は必ずエネルギー、材料、半導体、熱、通信という物理制約にぶつかる。
その物理制約自体をAIが押し広げ始めれば、AIの成長曲線はもう一段変わる可能性がある。
第27章 結論――AIの次のフロンティアは「新しい物理」かもしれない
Physical Superintelligenceの最大の魅力は、その社名でも、5800万ドルという資金調達額でもない。
「科学的発見をスケール可能な計算工程にできるのではないか」という仮説を、会社そのものとして実験している点にある。
これまでのAI革命は、デジタル世界から始まった。
文章。画像。音声。動画。コード。検索。業務エージェント。
次にロボット、自動運転、製造などを通じてPhysical AIが現実世界へ出始めた。
PSIが狙っているのは、そのさらに深い層だ。
物体を動かすだけではない。
物体が従う法則を理解する。
既存の工学を最適化するだけではない。
人間がまだ知らない設計空間を探索する。
そして最終的には、人類がまだ知らない自然法則を見つける。
もちろん現時点で、「AIが新しい物理法則を発見した」と断言するのは早い。Emmyの性能、データセンターでの改善率、新物理の査読成果、スケーリング則の再現性など、PSIがこれから証明しなければならないことは多い。
しかし会社の構造は非常に興味深い。
5800万ドルの大型シード。25人超の科学・AI・HPCチーム。Breakthrough Energy Venturesの支援。Emmyというvirtual physicists。Autonomous Campaignという研究工程。外部検証を中心に置く設計思想。Get Physics Doneというオープンソース実装。AIデータセンターという巨大な商用訓練場。そしてFermi Explorerという現実の宇宙工学プロジェクト。
これらを一本につなぐと、PSIが作ろうとしているものが見えてくる。
それは「すごく賢いチャットボット」ではない。
人工的に増殖できる研究組織である。
20世紀の科学研究所は、人、建物、実験装置、予算によってスケールした。
21世紀の科学研究所は、人間の研究ディレクター、AI研究者、GPU、シミュレーター、検証器、ロボット実験装置によってスケールするのかもしれない。
そのとき「天才」は個人の希少資源ではなく、計算インフラになる。
PSIは公式Visionで「For most of human history, genius was the rarest thing on Earth. It is becoming infrastructure.」という趣旨を掲げている。
これこそがPhysical Superintelligenceという会社を最もよく表している。
もしAIが本当に物理学を加速できるなら、次に起こるのは単なるAI性能競争ではない。
新しいエネルギー。新しい材料。新しい半導体。新しい計算機。新しい宇宙航行。新しい製造技術。そして、まだ名前すら付いていない新しい物理学。
「21世紀の文明は20世紀の物理学によって動いている」。
PSIが挑戦しているのは、その一文を過去形にすることなのだ。
情報の扱いについて
本稿は2026年9月3日時点で公開されているPSI公式サイト、PSI Vision、公式プレスリリース、Get Physics Doneの公開リポジトリ、Fermi Explorer公式FAQ、NVIDIA公式発表、および主要報道を突き合わせて作成した。
PSI公式プレスリリースと現行公式サイトでは投資家表記に一部差がある。プレスリリースではOracleを含む企業の「個人投資家」が列挙される一方、現行psi.incのBacking欄ではOracleの表記がなく、Variant Fundと021Tが機関投資家側に加わっている。そのため本稿では、企業そのものの出資と所属個人の出資を区別した。
Institute for Advanced Studyはニュージャージー州プリンストンに所在する独立研究機関であり、Princeton Universityとは別法人である。
Fermi Explorerの軌道設計値は、Fermi Explorer公式FAQとPSIの技術報告書に基づく。perihelion pumpによるheliocentric delta-vは、技術報告書では23.98km/s、公式FAQでは23.97km/sと表記されており、同じ量の丸め違いである。23.64km/sは最終的な太陽中心巡航速度であり、delta-vとは別の量である。技術報告書は査読前である。
Emmyの性能、物理学のスケーリング則、データセンター最適化の効果については、現時点ではPSI自身の説明が中心であり、第三者による包括的な性能検証や公開された顧客改善率は確認できていない。
Get Physics DoneのGitHubスター数、フォーク数などは日々変動するため、本稿では2026年9月2日の再確認値を参考値として示した。
主要リンク
Physical Superintelligence 公式サイト
https://psi.inc/
PSI Vision
https://www.psi.inc/vision/
HPCwireによるPSIローンチ・資金調達記事
https://www.hpcwire.com/off-the-wire/physical-superintelligence-raises-58m-to-develop-ai-physics-platform/
Get Physics Done GitHub
https://github.com/psi-oss/get-physics-done
Physical Superintelligence Open Source GitHub Organization
https://github.com/psi-oss
GPD Desktop / Physics Agent(OpenCodeからのフォーク)
https://github.com/psi-oss/gpd-app
GeekWire Fermi Explorer解説
https://www.geekwire.com/2026/fermi-explorer-alpha-centauri-80000-years/
Starcloud 公式サイト Starcloud-1
https://www.starcloud.com/starcloud-1
Starcloud 2億5,000万ドル調達(評価額23億ドル)
https://www.businesswire.com/news/home/20260821884035/en/Starcloud-Raises-$250-Million-at-$2.3-Billion-Valuation-to-Scale-AI-with-Orbital-Data-Centers
NVIDIA Space-1 Vera Rubin Module 発表報道(CNBC)
https://www.cnbc.com/2026/03/16/nvidia-chips-orbital-data-centers-space-ai.html
NVIDIA Space-1 Vera Rubin Module 発表報道(SpaceNews)
https://spacenews.com/nvidia-unveils-ai-computing-module-for-space-based-data-centers/
Fermi Explorer Mission 公式サイト
https://www.fermiexplorer.org/
Fermi Explorer FAQ
https://www.fermiexplorer.org/faqs
Ars Technica Fermi Explorer解説
https://arstechnica.com/space/2026/09/private-group-wants-to-launch-cheapest-possible-mission-to-alpha-centauri/
PSI技術報告書 Interstellar Precursor Mission to Alpha Centauri(2026年7月・査読前)
https://fermiexplorer.github.io/PSI.pdf
MIT Technology Review How AI plotted an interstellar journey to Alpha Centauri
https://www.technologyreview.com/2026/09/01/1143247/ai-interstellar-journey-alpha-centauri/
Payload Fermi Explorer Wants to Reach Another Star for $15M
https://payloadspace.com/fermi-explorer-wants-to-reach-another-star-for-15m/
PSI 採用ページ
https://jobs.ashbyhq.com/psi
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