
安楽死代行【最終話】創作大賞2026応募作
初めての彼氏ができたことは、誰にも秘密だった。
隣町に二人で映画を見に行った帰り、自転車で来た彼が、電車で来た私に、
「乗りなよ」
と自分の自転車の後ろに乗るように促してきた。二人乗りをするのは初めてで、荷物置きの部分に恐る恐る腰をかける。
「しっかり掴まって」
恐る恐る彼の腰に両手を回す。自分で漕ぐよりも、二人乗りの後ろの席はスピードが速く感じる。
杉本くんは家までの帰り道、まっすぐな土手でペダルを漕ぎながら、軽快に鼻歌を歌っていた。妙に楽しくなった私が、笑いながらその鼻歌に合わせて歌う。オレンジ色の夕日が差し、彼の髪も、コートも、オレンジ色に染まっていた。
「梨絵! ――――――!」
彼が少しだけ振り返り、私の名前を呼び何かを叫んだが、ちょうどその時一際強い風が吹いて、彼の言葉は聞き取れなかった。
私の家まで送ってくれたところで、
「さっき、土手のところでなんて言ってたの?」
私がそう聞くと、杉本くんは首の後ろを掻いて視線をずらす。
「別に、なんでもない」
彼の頬が赤いのは、二人乗りの自転車を漕いで、息が上がっているからだけじゃなかったんだろう。
私の額にそっとキスをした彼は、また明日な、と手を振るので、私も笑顔で手を振り返した。
そして高校の卒業式。
受験に受かった子、落ちて浪人する子と、悲喜交々だったが、私は杉本くんと目配せして、私たちが付き合ったことは誰にも言わなかった。
秘密の恋、というのがとても楽しかったのだろう。
陸上部のメンバーは大人数で集まり、胸にコサージュをつけた卒業生たちを部員が取り囲んでいた。
「東京に行っても頑張ってください」と、杉本くんは泣いている後輩たちから思いのこもったメッセージ付きの色紙をもらっていた。
私は琴美たちと卒業証書の入った筒を掲げて、得意の変顔をしながら校門で写真を撮った。
東京の大学に進学し、引っ越しをした後も杉本くんとの関係は続いた。
春休み、上京した私たちは、こんなに人が多い都会でなら手を繋ごうが誰に見られたって構わないと、渋谷のスクランブル交差点を歩いたり、原宿クレープを食べる、王道のデートをした。
違う大学に通うので、他の可愛い女の子に浮気しないか心配だなぁとクレープを食べながら不満を漏らしたら、鼻を摘まれて、ばっかじゃねぇの、と肩をすくめられた。
俺だって同じぐらい不安だよ、と拗ねる彼が、愛おしくてたまらなかった。
しかし、少しずつ私たちはすれ違っていく。
世田谷区に住む彼と、国分寺に住む私では、同じ東京とはいえ会いに行くのに電車で一時間以上かかる。
大学一年生は必修の授業が多く、一限から五限まで埋まっていて、なかなか時間に融通が効かない。
陸上のスポーツ推薦で入った杉本くんの大学は箱根駅伝の常連校で、今年も優勝が期待されていた。
区間新を取った選手が昨年卒業してしまったため、一年生から層を厚くしたいと特訓をしているらしい。
朝も早くから大学の校庭で走り、授業が五限まで終わったら放課後練習をして、土日も練習。
夏が過ぎたあとは、箱根駅伝に向けての本格的な特訓で、私たちは全然会えなかった。
一度彼の大学に見学に行ったら、メガホンを持った監督が走る選手たちと並走しながら檄を飛ばしていた。
杉本くんのランニング姿を見送りながら、彼女が応援するなんて甘い空気など出せない雰囲気をひしひしと感じた。
彼氏とディズニーシー行ったとか、サンシャイン水族館に行ったとか、同じ授業の友人たちが学食で惚気るたび、私はもっと東京の大学を謳歌できるはずだったのに、と空白のカレンダーアプリを見てはため息をつく日々。
数週間ぶりに会えても、日々の疲れで大抵は彼の家で会うだけだし、体作りをしているとのことでおしゃれなレストランも行けず、家でサラダやゆで卵やチキンを中心に食べる杉本くんにうんざりしてきた。
私と部活どっちが大事なのと、今思うとくだらない喧嘩をふっかけたこともある。不安でヒステリックな私に、彼は困ったように眉間に皺を寄せながら、
「梨絵のことが大切だけど、スポーツ推薦で入ったから、部活をサボると退学になるんだよ。わかってくれ」
と抱きしめてくれたけれど、それでも不安な心を埋めるには足りなかった。
一年生の俺が駅伝のメンバーになれるかもしれないんだ、それまで頑張りたい、という彼の話を、上の空で聞いていた。
卒業アルバムを作る、二人きりの教室。
自転車に二人で乗り、風を切っていた。
あのわくわくしてたまらない時間を、もう一度過ごしたいだけだったのに。
冬休みに入り、年末年始は実家に帰って家族と過ごすことにした。
去年は、まだ付き合っていなかったのに年が変わる十二時ぴったりにメールを送り合ったな、なんて思いながら、一月一日の昼、私はテレビをつけた。箱根駅伝が始まる時間だったからだ。
「お、今年も駅伝は白熱してるな」
新聞を読んでいた父さんが画面を見て呟いた。
梨絵が自分から駅伝つけるなんて珍しいな、という声に空返事をする。キッチンでは、母さんがお雑煮を作っているのかお出汁と柚子の香りがほのかにした。
そうだ、杉本くんが選手として出ているに違いない。
わざわざ高校までスカウトのコーチが彼の走りを見にきていたし、期待の一年生としスポーツ推薦で入ったし。
何より、大学入学してから十ヶ月、ほとんど恋人らしいデートをできないほど特訓に特訓を重ねてきていたんだろうから、結果を残すに決まっている。
テレビでは彼の大学は二位で、しかし一位の大学と数十秒差でかなり競っており、実況のアナウンサーは一位と二位の走る選手を熱く応援している。
第三区、上り坂を登り切ったところに次の区間の選手たちが順位順に待っている。
その走者の青年も、杉本くんではなかった。
彼の大学の選手が、白い息を吐きながら次の選手に襷を渡した。未だ二位の順位は変わらない、白熱した場面。
その瞬間、青いベンチコートを着た道路脇に控えていた学生たちが、今まさに襷を渡して自分の区間を完走し切った走者の青年に駆け寄っていた。
その控えの一人に、杉本くんがいたのだ。
私はその時、本当に失望した。
胃の奥に重い鉛のようなものがずしっと落ちてくるような感覚。
私と会う時間がないぐらい練習に時間を費やしていたくせに、駅伝のランナーに選ばれてないじゃない。
名門校に入ってベンチ選手になれるだけでも、きっと凄いことだろうに、私はなんだかとても腹が立って、テレビ画面越しの彼を睨みつけてしまった。
箱根の山道を駆け抜け、今まさに襷を次の選手に渡した学生は、ベンチコートを着た杉本くんに肩を支えられながら、スポーツドリンクを喉に流し込んでいた。
ヘトヘトで今にも倒れそうなその選手に、何やら激励の言葉をかけながら背中を叩いている杉本くん。
二人で東京の大学出てきて、さぞかし楽しい恋愛が待っていると思っていたのに。
控えでドリンク渡すぐらいなら、私と遊園地行ったり夏祭り行ったり、楽しく過ごしたってよかたんじゃないの。
クリスマスは最後の追い込みだと、会うことさえできず、一人で寂しく家でチキンを食べていた一週間前の私が、心で泣きながら彼に訴えかけていた。
ぼんやりとその画面を眺めていたら、今まさに走っている次の区の選手の姿に場面が切り替わってしまった。
そこで、おせち食べるわよ、という母親の声が食卓から聞こえ、私はテレビに背を向けた。
なんだろうな。
一生懸命本気で頑張っている人に向ける感情ではないことはわかっているけれど、普通の大学生として、当たり前の楽しい恋愛ができると思っていたのに。
彼が走者として走っていたら、家族に向かってこの人が私の彼氏だよ、と自慢げに報告するつもりだったのに。
なんだろう、悲しいな。
いつの間にか弟に正月特番のお笑い番組にチャンネルを変えられてしまい、杉本くんの姿を見たのは、テレビ画面越しのそれが最後だった。
* * *
私の頭の中に、彼との一年半が一瞬で駆け巡っていた。
アルバムを二人で作ったこと、朝練に付き添って自転車を漕いだこと、バレンタインに告白したこと、一緒に上京したこと、そして、勝手に盛り上がって勝手に失望して、最後は自然消滅だったこと。
「やっぱ、足怪我して選手生命絶たれたのがしんどかったのかしらね」
琴美の同情を含んだ言葉に、はっと我に返る。
ここは休日のショッピングモールで、キッズスペースの中で子どもたちが大騒ぎで遊んでいる一角、旧友の女友達と話していたことを思い出す。
「そう、だったんだ……」
都内の会社で忙しくしていた私は、高校の同級生のその後など知ろうともしなかった。琴美は、地元の同窓会で集まった、杉本くんと仲が良かった運動部の男子にそう聞いたとのことだ。
「スポーツ推薦で大学入った後、実業団でそのまま就職したらしいけど、アキレス腱断裂? 前十字靭帯損傷? みたいなので入院して、日常生活は大丈夫だけど競技として走るのは禁止されちゃったんだって」
走ることが何よりも楽しくて、この世界の果てまで、どこへでも駆けていけると思った、細く引き締まったカモシカのような脚。
朝練に付き合い、自転車で彼の後ろ姿を追いかけた、十五年前を思い出す。
「陸上で就職したから、会社もクビになるんだろうね。
働けないのに治療費もかさんで、借金もあったみたい。
でも、安楽死なんてねぇ……」
琴美は腕を組み、賛否が多くワイドショーで騒がれていた安楽死を、まさか同級生で選んだ人がいるなんて、とため息をついている。
「うちも貧乏暇なしだけど、健康が一番よね」
お腹の子も含めて三人の母の琴美が笑う。
「あ、ごめん旦那来た! 蓮、帰るよ!」
キッズスペースの入り口には、メガネにキャップを被った旦那さんと小学生の上の子が迎えに来ていて、琴美は蓮と呼んだ下の子を連れて、立ち上がった。
「これ私の連絡先。じゃ、またお茶しよ!」
レシートの裏に走り書いた連絡先のメモを渡し、大きなお腹を揺らし子供と手を繋いだ琴美は去っていった。
手を振りながら、私の頭の中は、杉本くんのことでいっぱいになっていた。
別にどうってことはない。
高校時代の恋人と、大学に入ってからはお互い環境の変化ですれ違い、自然消滅をした。それだけの、ありふれた話だ。
杉本くんには、駅伝を見たことも何もメールしなかった。
彼から何度か「今週末会える?」とか、不在着信の履歴が入っていたけれど、私は連絡を返すことはしなかった。
年末年始明け、私は必修の授業を受けに大学に行く以外は、ぼんやりと家の中で過ごし、まるで巣篭もりをして冬眠をする動物のような生活をしていた。
大学二年生に上がって、暗い顔をしている私を励まそうとした友達に誘われて、新しいサークルに入った。
オールラウンドサークルは、毎週飲み会があり、夏は海でバーベキューや映画にドライブ、冬はスノボにスポーツ観戦と、まあ大学生のモラトリアムを全てを詰め込んだようなところだったけれど、田舎から出てきて一人暮らしをしている寂しさではち切れそうな私には、ちょうどよかった。
その中の一人の男の先輩に気に入られてアタックされたし、女友達からも、地元が同じなだけで大学も違うそんな彼氏早く別れちゃいなよ、とサイゼリアでドリンクバーを飲みながら懇々と言われた。
「久しぶり。悪いんだけど、別れたい」
すっかり止まっていたトーク画面から杉本くんに連絡を送ったら、
「わかった。ごめんな」
と短い返事だけがきた。
寂しくさせてごめんな、練習ばっかで会えなくてごめんな、レギュラーになれなくてごめんな。
いろんなごめんがその文に詰まっている気がした。私はウサギがバイバイと手を振っているスタンプだけを送って、それで彼との関係は完全に終わった。
それからは彼のことを忘れていた。
部活を頑張っている彼を、純粋に応援できなかった未熟な自分への罪悪感で、忘れようとしたんだと思う。
でも、社会人になりあれから十年以上経った今も、時々ふと思い出す。
風の音で聞こえなかった、夕焼けのオレンジに染まった、自転車を漕ぐ彼の横顔。
「梨絵! ――――!」
あの時、彼はなんて言ったんだろう。
大好きだよ、とか? ずっと一緒にいような、とか?
東京に行ってもよろしくな、とか?
聞こえなかったけれど、あの時の私はそれで良かった。
自転車を漕ぐ彼の腰に掴まりながら、ずっとこのままこの時が続けばいいのに、と思っていた。
大好きな彼が、私のことを大好きでいてくれている。
同じ高校の制服を着て、みんなが受験勉強をしているのに、こっそり付き合って、二人で自転車に乗っている。
こんな特別な愛おしい時間が、ずっと続けばいいのにと。
それは、三十歳を超えてもたまに思い出す。
そのあと付き合った彼氏に浮気をされ、やっぱり杉本くんにすれば良かったのかと思った時。
妊娠中、止まらない吐き気に耐えながら横になり、会社の上司に休む旨のメールをスマホで打っている時。
子供が夜中三時間毎に泣き叫ぶ中、暗闇の中胸をさらけ出し母乳を与え、寝不足と虚無感に苛まれながら赤子の背中をトントンと叩いている時。
自分にはどうしようもできないジレンマに悩み苦しんだ時、それを癒す一番の薬のように、瞼の裏はあの日のオレンジ色の夕焼けに染まった。
彼の汗ばんだ背中の体温と、見渡す限り田んぼしかない土手の風景と、自分の鼓動の速さを思い出す。
宝箱に大切にしまった宝石を、そっと眺めるかのように。
彼と走った自転車での帰り道を、何度も思い出すのだった。
きっと私の人生の中で数少ない、とても尊い、かけがえのない時間だった。
日々が忙しくなったり、悩みが解決すると、その情景はすっかり忘れてしまうのに、彼の汗や、晩秋の草木のが混じったあの香りを、きっと死ぬ時の走馬灯でまた思い出すんだろうな。
私と部活どっちが大事なの、なんて若い時特有のわがままな問いをぶつけてしまったことを、後悔していた。
彼が安楽死したと聞いた今、どうしても思ってしまうのだ。
大学生の時の私がもう少し大人で、部活を頑張る彼を支えてあげられていたら?
在学中ずっと付き合って、社会人になって杉本くんと結婚していたら?
そうしたら、彼は死を選ぶことなんてしなかったのではないか、なんて。甘ったれた妄想を。
何度も連絡をしたのに無視をして、ちゃんと別れ話もせずに自然消滅させた、ひどい元カノがよく言うよ。
きっと杉本君は、呆れてそう言うんだろうな。
片眉を上げて首を傾げる、彼のよくやるおどけた仕草を思い出す。
彼は、死ぬ瞬間に、私のことを思い出したのだろうか。
私が辛い時、ふと彼のことを思い出していたように。
なんて、自分勝手で馬鹿馬鹿しい甘えがよぎる。
「ねえママ、どうして泣いてるの? どこか、いたいの?」
友達が帰ってしまい一人になった息子の晴翔がいつの間にか隣に来ていて、私の頬を指さして心配そうに聞いてきた。
そこで初めて、私は自分が泣いていることに気がついた。
顔を伏せ、指の平でそっと拭く。
不安そうに私の顔を覗き込む晴翔のまんまるのほっぺを、愛おしいと思う。
「大丈夫、痛くないよ。そろそろ帰ろうか」
その小さい体をそっと抱き上げる。
私の濡れた頬を、心配そうにすりすりと何度も撫でる、小さい手のひら。
杉本くんを選んで彼と結婚していたら、この子、晴翔はこの世にはいないんだ。
杉本くんと別れて、就職して、合コンに行ったから今の旦那と出会ってこの子が生まれた。
いろんな選択肢があって、それが本当に正しかったかなんてわからないけれど、後悔なんてしてはいけない。
東京でのキャリアを捨て、娯楽の多い都会を諦めて地元に戻った。
旦那は激務だし、子供はまだまだ手がかかる。
終わらないルーチンワークと育児に体力は追いつかず、毎日寝落ちする日々に、自分は幸せだなんて実感は湧かなかった。
でも、この温かくも愛らしい、小さな子供がいなくなってしまう、他の人生を選ばなくて良かったんだ。
人生は点ではなく線で、杉本くんと別れた結果、今の私がある。
だから後悔はしないし、してはいけない。
でも、やっぱり寂しいな。
あなたを支えてくれる人は、私以外にいなかったのかな、なんて、身勝手なことがよぎってしまう。
努力家で、不器用で、照れ屋で、眉毛を下げて情けなく笑うあなたを、愛してくれる人は、きっと他にいたはずなのに。
「あ、パパだー!」
晴翔が指差した先には、自分の服を買ったのか紙袋を腕にかけた旦那が立っていた。手に二つのソフトクリームを持っている。
「待たせてごめんなー。
アイス買ったからママと晴翔で車で食べてね」
「やったあ!」
眩しい笑顔の晴翔と、つられて笑う旦那は、目尻がよく似ている。
いつも残業で平日は遅く、ワンオペの私は旦那に不満ばかり抱えているが、彼も妻と子供を支えるために、必死で仕事をしている。
イヤイヤ期でわがままで、まだ夜泣きをする子供も、保育園という社会の中で、この小さい頭で毎日色々悩んで成長しているんだ。
私ばっかり頑張ってる、無理して我慢してるなんて、思っちゃいけないね。
今晩は、二人の好物のすき焼きにしようと、冷蔵庫の中に卵があったことを思い出しながら、駐車場へ向かった。
私はきっと、死ぬ時まで、初恋の彼と過ごした日々をたまに思い出すだろう。
杉本くんからのメールにもっと返信していれば、彼を応援できていればという苦い後悔が、永遠に胃もたれのようにジワリと胸の奥に広がるんだろう。
でも、重ならなかった運命を嘆くことも、過去をやり直したいなんて思うことも、杉本くんのためにもしないようにしよう。
フルタイム共働きで、子持ちの主婦で、毎日寝落ちし、週末は家族サービス。
そんなありふれた退屈な日常を、当たり前だと思わずに楽しく過ごすことが、杉本くんへの餞になると願って。
きっと彼は、今も軽やかに走り続けているだろうから。
第五章 安楽死代行業務責任者
―――「安楽死代行」という会社ができて、その利用者が増えているとのことですが、どういった経緯でこの会社を作ろうと思ったのでしょうか?
退職代行が流行った時に、ああ、これはよく考えたなと思ったんです。
辞めるのさえも億劫で、二度と会わない会社の同僚にさえ気が引けてしまうなんて、日本人らしい奥ゆかしさや謙虚さを、うまく考えたビジネスだな、と。
そして安楽死が制定された時に、ピンときたんですよね。
まさに、日本人は「勝手に死ぬことさえも申し訳ない」と思う国民性だ、と。
―――ビジネスチャンスだと思ったわけですね。身近な方が安楽死をしたというきっかけなどはあったのですか?
私のプライベートに関してはノーコメントにさせていただきます。
また、依頼者に関しても守秘義務がありますので。
―――失礼いたしました。それでは、業務内容について批判も多いと聞きますが、そこのところはいかがでしょうか。
賛否があるのは致し方がないでしょう。
そもそも、安楽死自体にまだまだ反感や違和感を抱く方は多いですから。
しかし、制度が制定されてしまった以上、それを選択する人は出てきます。
人は、自分のわからないものに畏怖の念を抱くと聞きます。
まだ、安楽死がなかった頃の記憶が新しいので、みなさん恐怖を抱いたり反発をしているのでしょう。感染症が流行りパンデミックになった時、未知のワクチン接種に対して反発する方も多かったですしね。
これから先、安楽死制度が当たり前のように浸透した頃には、「そういうのを選ぶ人もいるよね」、「その代行業務をやる会社があるのもありかもね」と、少しずつ人の心も変わっていくでしょう。慣れる、と言った方が正しいのかもしれませんね。
―――なるほど。確かにまだセンセーショナルでセンシティブな話題、だという認識がありますね。しかし人々はいずれ慣れる、と。
安楽死を選ぶ方々の動機は様々です。
死んで楽になりたい、家族に迷惑かけたくない、もしくは、自分が死ぬことによって今まで自分を苦しめた人や世間に一矢報いたい。人の数ほど理由があります。その思いは計り知れません。
ですから私は、この安楽死代行業務は、残された方々のためにあると思っています。
会社の退職や家の退去、葬式や墓の手配、遺産相続は非常に面倒で憂鬱な作業です。
残された方々が故人のことを偲び、自分は死ぬまでどう生きるかを、しっかりと考える時間を、少しでも取れるようにしたいのです。
――――なるほど、死に逝く人ではなく、残された人のための仕事だと。
はい。
気がついてあげられなくてごめんと嘆くのか、自分もいつか死ぬのだから楽しく生きようと思うのか、自分はそうはなりたくないと姿勢を正すのか、自分が手を差し伸べていたら運命が変わったかと後悔するか。……残された人の心も、人により様々です。
どうかゆっくり故人を偲び、悩み、思い出して、そしていずれは前を向いて欲しいですね。
そのために、必要な業務だと思っております。
――――貴重なご意見をありがとうございました。
こちらこそ。
* * *
都内の小さなオフィスビルの一角、ブラインドを下げた窓から光が差し込む中、男は自分のデスクで広げた週刊誌を読んでいた。
サイフォンで淹れたコーヒーの香りが漂い、男は優雅にそれを口に含みながら、編集部から届いた見本誌の中の、先日受けたインタビュー記事の文字を追う。
三十代後半から四十代前半の痩せた男は、足を組みながら、よく手入れのされた靴で床を数回トントンと踏む。
自分の言いたかったことは言えた、よいインタビュー記事だな、と男は思う。
「小野寺さん、依頼者の方からお電話です」
女性社員が隣のフロアから入ってきたので、ゆっくりと視線を動かし、手元の受話器を握る。
「お電話変わりました。
株式会社レストインピース、安楽死代業務担当の小野寺です」
男は目を細めて、すらすらと定型文を口にする。
「それはご家族のことを考えての、尊い判断ですね」
そう言って、受話器の前で微笑んだ。
どうかあなたに、安らかな最期を。
残された人たちには、前向きな明日を。
終
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