
磐梯熱海温泉【戦国温泉/乱世の湯】
磐梯の霊泉
JR磐梯熱海駅に着いたときにはもうとっぷり日が暮れていた。
人影もない駅前の乗り場にはタクシーが1台だけ停まっていて、まるで灯篭のような屋根の表示灯がぽつりと明るく客を待っている。
——磐梯の熱海温泉、か
なんだか「日本のエーゲ海」みたいな響きだな……
そんなことをつれづれ思いながら、ぶらぶら歩きだそうとした途端、駅の傍らに、温泉の由緒を書いた案内板を見つけて立ち止まった。
暗い。目を慣らしながらどうやら読み進めると、この地を「熱海」と名付けたのは源頼朝の家来であった工藤祐経(すけつね)の子・伊東祐長、と書いてある。文治五年(1189)、奥州藤原氏を征伐した頼朝は、軍功のあった祐経に、現在の郡山市にあたる安積郡と安達郡を与えたという。
工藤祐経といえば、「日本三大仇討ち」に数えられる「曾我兄弟の仇討ち」の敵役のほうだ。その次男、伊東祐長が安積郡に派遣されこの地を治めていた頃、故郷である伊豆の温泉をしのんで、ここに湧く温泉を「熱海」と名付けたのだとか。
なんとここは開湯800年以上に及ぶ由緒ある温泉らしい。私はまた少しばかり知見を広げることができた。
ただ、私はもともとここへ来ることを予定していた訳ではない。
東北の秋の短い陽が落ちるまで、この近くの高玉金山跡や高玉城といった史跡を歩き、時に藪を漕ぎまわってあえいでいたからだ。そのあと手近なドライブインで急ぎ夕飯を済ませたら、もうすっかり夜になっていた。
汗ばんだ首筋を拭いつつ、さてどこか風呂に入れる所は……とスマホ片手に検索してみたら、すぐ近くにある磐梯熱海温泉がヒットしたという次第。
しかしこれは大当たりだった。灯りの少ない、ちょっと寂れた温泉街の路地に入り込んでみると、 前方に「浴場入口」と書いた看板が見えたのでさらに進む。と、「霊泉 元湯」と書いた看板の前に来た。
あ、これは入らなくても風情でわかるやつだ。いい温泉に違いないが、念のためまたスマホを取り出し検索する。

磐梯熱海温泉はアトピーなど皮膚病に効能ある名湯として知られ、温泉療養医が勧める「名湯百選」にも選ばれているのだが、中でもこの「霊泉」は、創立100年にもなる共同湯である。
実に素晴らしい。謹んで霊験をいただこう。
……おっと。
ふと表に貼られた案内紙を見ると、ここの営業時間は20時までとある。腕時計をのぞくと時刻はまさに20時になったところだった。
……致し方ない。
すぐ近くの「紅葉館きらくや」に変更しよう。そちらは日帰り入浴可で、21時まで開いてるそうだ。
紆余曲折の末、私はようやく風呂にありつくことができたのだった。
「こんばんはー」
明かりを抑えた館内のロビーには、はじめ誰もいなかったが、少し待つ間、初老の男性が一人出て来てくれた。
聞けば今は、男湯の客は私だけとのこと。入浴料を支払い、脱衣場を通過すると、大浴場は期待通り貸切だった。大小2つある浴槽のうち、目立たない小浴槽のほうをふと見ると、小さなプレートに「熱海のぬる湯」と書いてある。
あとで調べたら、磐梯熱海温泉はその名の通り一般的には熱い湯(50℃前後)なのだが、泉源によってはこうした「ぬる湯」もあって、ここは希少な「ぬる湯」を引いている施設だったようだ。
まずは身体を洗って、この「ぬる湯」に浸かってみよう。

——くはー……
湯温は体温よりわずかに高いくらいだろうか。肌を舐めるような絶妙の湯だ。
アルカリ性単純温泉。いわゆる「美人の湯」である。神経痛や関節痛だけでなく、切り傷や皮膚病に効能がある。
古くからそう思われていたであろうことは、「萩姫」の伝説からもわかる。
今からおよそ700年前の南北朝時代、都の公卿・万里小路重房には萩姫という娘がいたが、長く病の床に伏していた。あるとき姫の夢枕に不動明王があらわれ、「都の東北、京から数えて五百本目の川のたもとに霊泉あり」と告げて消えた。姫はさっそく従者と共に旅に出て、都から数えて五百本目となる川のたもとに湧く温泉にたどり着いた。
それが、磐梯熱海温泉。湯に浸かった姫の病はたちまち快癒し、川の名は五百川と名付けられた……
鎌倉の昔、伊東祐長に「熱海」命名されたこの温泉も、はじめは知る人ぞ知る山あいの秘湯で、土地の権力者らがひそかに楽しむ程度のものだっただろう。それが次第に世に広まるなかには、そうした伝説や伝承が広報役を果たすことはよくあることだ。萩姫も実在の人物とは思われない。
湯の中でゆったりと身体を伸ばし、目を閉じて深呼吸をしてみると、想いははるか時空を超えて、往時の情景がうっすら浮かんでくる。
むろん私だけに見える幻影だが、なにせ開湯800年の霊泉である。これもひとつの霊験かも知れぬ。
私の幻影によると、磐梯熱海温泉が大きく発展したのは戦国時代で、当地が輩出したひとりの戦国武将が深く関わっている。いや、直接そういう事を書いた資料があるわけではないが、そう推測できる歴史的状況もあって私は確信している。
では、この温泉にまつわる戦国乱世の物語を辿ってみよう。
蘆名の黄金
天文(1532~1555)の昔、南奥州の天地には米沢の伊達氏、会津の蘆名氏、二本松の畠山氏など群雄が割拠して混沌の中にあった。
その頃、会津には蘆名盛氏という英主が出て、周辺の諸豪族を圧倒し強大な勢力圏を築きつつあった。
盛氏にとってただ一つの不安といえば、一人息子の盛興以外に男子を授からぬことであったが、それも伊佐須美神社や地蔵権現へ深い祈願の甲斐あってか、盛興は両親の慈しみを受けてすくすくと成長した。
よろこんだ盛氏は永禄4年(1561)、15歳になった盛興に家督と会津黒川の居城を譲り、自らは向羽黒山に新城を築いて隠居した。
蘆名家の家督交代を聞いた群雄たちはさっそく会津に使者を送り、笑みの裏に牙を隠して祝意を述べた。むろん元服したばかりの盛興ではなく、背後に控える盛氏の顔を窺ってのことである。
それは盛氏も十分わかっていたから、隠居後も進んで盛興の盾となり、いざ合戦となれば自ら軍勢を率いて負けることがなかった。
天正元年(1573)。立秋のころ。
最後の足利将軍が京から追放されたこの年、奥州安積郡(現在の福島県郡山市内)で金鉱脈が発見された。高玉金山である。
見つけたのは流れ者の山師あたりに違いないが、山師は当地の支配者である蘆名家に注進に及んだ。なぜなら山師が欲しいのは発見者の栄誉ではなく、採掘の権利だからだ。
一報を受けたのは会津黒川(会津若松)城主で蘆名家17代・盛興。当時27歳である。
「蘆名中興の祖」と謳われた父はいまだ向羽黒山に健在で、現当主である盛興も父譲りの智勇を噂されてはいたものの、父の威望の前に全くかすんでいる。
さらに問題は、どうしたわけか少年の頃に覚えた飲酒癖である。これが多年にわたって度が過ぎるようになり、この頃にはもう盃を持つ手がかすかに震えるほどになってしまっていた。
心配した父・盛氏は息子に直接忠告を加えただけでなく、領内で2度にわたる禁酒令まで布告したというから相当である。
近侍の者たちも盛氏からきつく注意を受けていたから、この頃は盛興も、以前ほど大っぴらに杯を重ねることはできないでいた。
だから奉行に連れられた山師が報告にあがったときも、盛興は脇息にもたれ、顔を伏せて黙っていた。が、しばらくすると、
「……なに、金?」
と、むくんだ顔をあげ、ようやく興味を示した。
「は、左様で……」
と平伏した奉行がふたたび頭を上げた時には、盛興はもう立ち上がって歩き出していた。そして庭に這いつくばる山師を縁から見下ろし、「案内せよ」と下知をとばした。
高玉金山発見の報は、会津の領内のみならず近隣諸国を駆け巡った。領内は身分の上下にかかわらずゴールドラッシュに沸き立ち、領民たちは好況をもたらしたこの金山を、
——御屋形様の黄金
と呼んで讃えたのには理由がある。
会津は北に吾妻連峰、西に飯豊山、東に磐梯山と猪苗代湖、南に会津駒ケ岳と、名だたる名峰景勝に囲まれた、山水の恵み豊かな大盆地である。同時に奥州と関東、さらには日本海側を結ぶ交通・軍事・物流の要衝であった。
実際、戦国から幕末にかけて、会津を押さえる者は南奥州の主導権に深く関与することができた。
その会津を地盤とする蘆名家は、今まで盛氏という偉大な存在によって確立された支配圏を保ってきた。
が、それがいつまで続くのか。英雄の死去とともに家が没落する例など、この時代には掃いて捨てるほどある。盛氏の偉業が大きければ大きいほど、それを引き継いで保証する者が必要とされた。
すなわち盛興である。今まで父の陰に隠れてはいたが、盛興の才覚によって蘆名家はさらに発展するであろう。
高玉金山はその象徴となるはずであった。
酒毒
「……いずこから来られた」
揺れる湯気の向こうから男の声がする。低音だがよく通る錆のきいた声だ。
顔はかすんでよく見えないが、肩から下を湯面に浸し、頭上に重そうな巾着袋を乗せて顎紐でくくっている。
「いや、聞くまい。わしとて流れ者の金堀。人に語るほどの身ではないわ」
はは、と短く笑うと少し黙り、男はまた独り言のように語りはじめる。
「山を掘ると湯が湧いて出ることがある。だがここは逆じゃな。湯のある山に黄金の筋が出た」
「金堀」とは昔、金銀銅など鉱物の採掘に携わった者のことで、過酷な肉体労働に従事した人足から、専門技術をもつ山師までを指す広い意味の言葉だ。只者と思えぬ雰囲気と見識を感じさせるこの男は、おそらく山師のほうだろう。
山師は鉱脈を見極めて探し当て、採掘から精錬までおこなう知識技術を持っている。戦国の時代、多くの軍資金を必要とした大名たちは競って彼らを招き、好条件で雇い入れることも多かった。
「金堀どもは間歩(坑道)で稼いだ財をこの湯に落とす。じゃからここには湯ばかりではない、懐目当ての商人や遊女まで湧いておる」
高玉金山と磐梯熱海温泉は距離にして一里ほどしか離れておらず、昔の感覚でいえばほぼ同エリア内である。金堀人足や山師が麓の温泉地で療養、遊興するのは必然だった。
そうした山稼ぎの労働者らを相手に商売する者が集まってくるのもまた自然の摂理で、この時期、磐梯熱海の湯場はかつてない賑わいを見せている。
言われてみれば、先ほどから湯音に混じって微かに聞こえるのは、博打をめぐる怒号や悲鳴、遊女の嬌声なのかも知れぬ。それに気のせいか、湯屋のまわりに漂う油灯の臭いまで、微かに流れてこんでくるようだ。
「蘆名の殿もたびたび通っておられるようじゃ。儂もあの殿にはずいぶん褒美を頂戴した。しかし……」
ちゃぷん、と男は首筋あたりに手をやって湯をあびせ、ひと呼吸おいた。
「あの殿は長くない」
思わずぎょっとするようなことを言う。
私は幻影と知りつつ、もう少しこの男の話を聞いてみたいと思ったが、ふと時間が気になってうす目を開けたばかりに、男は湯気の向こうにかき消えていなくなった。
天正2年(1574)4月。
蘆名盛興は伊達氏を助けて二本松の畠山義国と合戦に及び、勝ちを収めて凱旋の途中、磐梯熱海に立ち寄った。
このところ盛興は顔色すぐれず、戦陣の中でさえ食欲を示さぬことが多かったのだが、高玉金山に近い磐梯熱海は盛興にとっていわば吉所である。主従ともどもこの湯に入って戦の疲れを癒すことを喜び、夜は宿所で酒宴と相成った。
黄金と戦勝をもたらした若い当主の来湯に、磐梯熱海の民たちも大いに沸いた。宿の者は総出でもてなし、土地の者から献上された旬の稚鮎などが膳にのぼった。
さらにぬるめの湯は、戦勝後の疲れと高揚した気分にちょうど良い癒しの効果を与え、盛興は久方ぶりに食欲旺盛であった。合戦中は節制していた酒も浴びるほど飲んだが、いつもなら自制を促す近臣たちも、この時は主の上機嫌に水を差すことを恐れて何も言わなかった。
が、その夜半、盛興は突然嘔吐を繰り返したかと思うと、にわかに失神した。
まもなく意識を取り戻したものの、周囲の者は驚いて会津黒川から侍医を呼びよせようとした。が、盛興がそれを制止した。
「湯に入れば治る」
確かに入湯後の盛興は顔色もよくなり、体調を回復させたかのように見えた。むろん、これは温浴効果による一時的な回復感であって本復ではないが、当時の人々が指摘し得るはずもない。
盛興は湯に浸かっては酒ばかりあおり、諌める者があれば蹴倒さんばかりの勢いで叱責するようになった。
近臣らは困惑した。もはや尋常の様子ではない。
手討ちさえも覚悟して隠居の盛氏に急報し、助けを求めることで衆議一決したが、その日、盛興は胃を震わせて水のような嘔吐を繰り返した挙句、ついに吐血した。
顔色をみれば幽鬼のごとく白く、眉間から目元にかけて深い影が落ちている。容体が急変したことは明らかであった。
近臣らは盛興を介抱しつつ駕籠に押し込むと、自分たちで担いで慌ただしく走り去った。
同年6月5日。
黒川城内にて蘆名盛興は死去した。享年28歳。
『会津四家合考』などの史料によると、死因は「酒毒」と記されている。
読書室
さてと。名残惜しいがそろそろ出る準備をしなければならない。
湯上がりに売店のアイスボックスをのぞいてみたら、「べこ印」のご当地アイスキャンデーを発見して即買いした。
売店の横に「読書室」と書かれた場所があって、湯上がりの休憩スペースになっている。誰もいない空間をしばし独り占めしてアイスをほおばる。
室内に設置された書棚には懐かしいマンガのラインナップも見えたが、せっかくなので椅子にすわり、当地の歴史資料などを読んでみた。

江戸時代に入ると磐梯熱海温泉は二本松藩領となり、湯治客で賑わったらしい。明治時代には旅籠屋を営む者が19人いたそうだから、温泉街としてもそれなりの規模だったのだろう。
3種類の源泉はいずれも「皮膚病の名泉」として知られたというから、いま私の肌がすべすべなのもその効能に違いない。
閉館時間が迫ってきた。番台の方にお礼を言い、明るい読書室から再び夜空の下へ出る。
いい温泉と出会えた……
金山帰りの入湯を好んだであろう蘆名盛興と、少し気分がシンクロしたような気もしたが、酒を飲まない私には、彼がここで癒そうとした憂いや苦しみまでは察することができなかったかも知れない。
(了)