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刑事を辞めた私が、山伏になり、軽井沢で蕎麦を打つ。バラバラな人生が「一線」に繋がった日。



    ここに書くことは、フィクションではありません。


    なぜ軽井沢に、消された歴史があるのか?

    なぜ、その記憶は語られてこなかったのか?

    ――その答えは、まだ誰も知らない。

    だが、もしその断片が、今もこの土地に残っているとしたら——

    私は2027年、この地に小さな飲食店をつくろうとしています。

    刑事を辞め、数々の挫折を味わい、導かれるように山伏となった私の、人生の集大成といえる挑戦です。

    ですが、これは単なるお店の開業記録ではありません。

    私にとっての本当のスタートは、2043年にあります。

    これからお話しするのは、現代の「避暑地・軽井沢」の影に眠る、澄んだ水と共に生きてきた古き時代の人々の物語です。

    読み終える頃、あなたはこの土地で「食べる」ことの意味を、きっと理解しているでしょう。

    そして同時に、気づくはずです。

    この物語の本当の主人公は、私ではないということに。

    軽井沢に眠る歴史や文化の話をする前に、まずは私自身についてお話しさせてください。

    第一章:正義と挫折の果てに

    私は、軽井沢町発地(ほっち)にある「杉瓜(すぎうり)」という小さな集落で生まれ育ちました。

    軽井沢は、そのエリアごとに全く異なる表情を持っています。

     華やかな別荘地として知られる旧軽井沢や新軽井沢。

    そして、私の故郷がある南軽井沢には、農と歴史の原風景が残っています。

    杉瓜は、この南軽井沢の一角にあります。

    私が生まれた約40年前、杉瓜は本当に小さな集落で、同い年の子供は一人もいませんでした。そのため、山の中が私の遊び場であり、一人で山中のお堂へ行くことが日常の風景でした。

    やがて大学進学と共に軽井沢を離れ、私は警察官という道を選びました。

    帰る場所を失った日 刑事として直面した「正義のジレンマ」

    私は警察官として10年のキャリアを積みました。そのうち半分は刑事として、企業犯罪や詐欺、薬物などの事件を担当していました。

    警察には「民事不介入」という原則があります。一般の方からすれば明らかに「詐欺」だと思えるお金の貸し借りも、多くは民事事件として扱われ、警察が介入することは極めて難しいのが現実です。また、逮捕はできても、その後の裁きは検察や裁判所の判断に委ねられます。

    特に複雑な詐欺事件では、確かな証拠がなければ最後は「言った、言わない」の平行線。

    「被害者は泣いているのに、助けることができない」

    このジレンマが積み重なっていくことは、私にとって大きな苦痛でした。

    当時の生活は、常に極限の眠気の中にありました。深夜の呼び出し、膨大な書類作成。月間の超過勤務は200時間を超え、それが半年近く続きました。そこで身をもって学んだのは、**「人間は2日間寝なくても仕事はできる」**という、笑えないほどリアルな教訓でした。

    この過酷な状況が、自分のキャリアを見直すきっかけとなりました。一度きりの人生、法律の下で正義を貫くだけでなく、もっと直接的に人々を幸せにできる道はないか。そう悩み抜いた末、私は初めて「もう刑事を続けられません」と正直な思いを口にしました。

    「食」の道への転身と、あっけない挫折

    なぜ「食」だったのか。それは、美味しいものを食べた瞬間、人は誰でも等しく幸せになれると確信したからです。

    学生時代、フランス・パリへ旅行したときのこと。日本食から離れて数週間、たまたま入った店でラーメンを食べました。その瞬間、鮮やかなパリの街角にいるはずの自分が、まるで日本にいるかのような錯覚を覚えました。

    食はまるでタイムマシーンのように記憶を呼び起こし、一瞬で人を幸せにする力がある。そう強く確信し、私は10年続けた警察官の職を辞め、食の世界へ飛び込みました。

    どうせやるなら世界レベルの店で学びたい。そう覚悟して厳しい修行先を選びました。

    そこで学んだことは計り知れません。「いいものを作るには、膨大な時間がかかる」ということ。プロの現場では段取りこそがすべてであること。

    しかし、その厳しい修行先を、私はわずか1年で去ることになります。

    とどめを刺したのは、飲食経験10年のベテランとして入ってきた後輩が、わずか3ヶ月で辞めていったことでした。「自分は1年続いた」という思いを区切りに、私はその場所を離れました。

    覚悟を決めて飛び込んだ世界で、私はあっけなく挫折しました。「途方に暮れる」という言葉の意味を、これほど痛感したことはありません。

     

    占い、そして「刑事の勘」による裏取り

    そんな時、家の近くの神社に占いの巫女さんがいることを知りました。

    刑事時代の私なら「インチキだ」と一蹴していたでしょう。しかし、どん底にいた私は「新しい視点がもらえればいい」という軽い気持ちで足を運びました。

    巫女さんは、軽井沢に帰ること、次の仕事は蕎麦屋であることを話した私に、こう言いました。

    「軽井沢に戻れば、きっとうまくいく」

    「あなた、ソバが向いているよ」

    「店ができる頃、名前を考えてあげるから、またおいで」

    根拠のない言葉。けれど、その言葉は私に勇気をくれました。

    2021年、私は軽井沢に戻りました。そして蕎麦打ちの修行と共に、占いに興味を持ち、占いの書籍を読み漁り始めました。「巫女さんの言葉に、ロジックはあるのか?」という裏取りを始めたのです。

    そこで気づいたのは、占いは未来を当てる超能力ではなく、**「人が決断するための道具」**であるということでした。占いには必ず体系的なロジックがあり、それは先人が「後世の人にどう生き方を伝えるか」を考え抜いた知恵の結晶でした。

    占いは未来を決定づけるものではなく、指針を示すものです。

    人はなぜ占いに頼るのか。それは、自分一人では決断できないほど追い詰められているからです。

    あなたも、どうすればいいか分からなくなって、誰かにすがりたくなった夜が、一度はあるのではないでしょうか。

    そんなとき、答えを求めて自己啓発の本を手に取っても、

    「結局は自分で決めなければならない」

    「行動しないといけないよね」

    とわかっていることを自分に言い聞かせて、本を閉じる。

    私も、同じでした。

    多くの人を占っていると辛い時期に辛い時期ですよと伝えるだけで、人は涙することがあります。

    人は、

    「今は辛い時期だ」と言われるだけで、

    心が軽くなることがあるのです。

    2022年、私はバーで隣り合った人を占ってみました。本の知識を伝えただけでしたが、9割の人が「当たっている」と喜んでくれました。そこから占いへのめり込む中で、私には不思議な力はありませんが、「人にはそれぞれのリズムがある」というパターンが見えるようになってきたのです。

    それと同時に、多くの人が「自分には何が向いているのか」「何をするべきなのか」に迷っていることにも気づきました。

    占いは答えではないですが、ヒントを与えてくれる道具です。

    私の中で点が繋がり始めた


    占いや暦(こよみ)を学ぶ過程で、私は「パワースポット」の本質に辿り着きました。

    古来、パワースポットで重要視されていたのは「水」です。きれいな水を飲み、浴び、その水で育った土地のものを食べる。それこそが、その土地の恩恵を授かること。

    その事実に気づいたとき、バラバラだった私の思いが一気に結びつきました。

    子供の頃に一人で遊んだ、あのお堂。

    休耕地となってしまった、故郷・発地の畑。

    警察官を辞め、地元へ恩返しをしたいという願い。

    「休耕地を耕し、土地の水を活かした食を提供し、お堂の歴史を再生する」

    私の歩んできた道、そしてこれから歩む道が、一本の確かな「線」となって、繋がった瞬間でした。


    次の章では、この土地に眠る歴史や文化。

    そして、本当の主人公であるあなたについて書いていきます。


    あなたは、この土地と、どう関わるだろうか。


     第二章:金の観音様と、巡りゆく周期

     金の観音様伝説

    江戸時代初期。軽井沢町杉瓜地区の、巨岩がそびえる山林でのこと。一人の子供が草むらの中に光るものを見つけました。それは、身の丈およそ十センチほどの、黄金に輝く観音様でした。

    杉瓜の人々はこの観音様を守り本尊とし、現れた場所にお堂を建てて大切に祀りました。

    その噂は瞬く間に広まり、地元の佐久平一帯はもとより、遠く群馬の高崎や甘楽(かんら)からも、人々は険しい和美峠(わみとうげ)を越えて参拝に訪れたといいます。その賑わいは凄まじく、お賽銭はいつも大きな四斗樽(しとだる)に溢れんばかりだったと伝えられています。

    しかし、ある時、何者かがこの金の観音様を盗み出し、質に入れてしまいました。それを境に、あれほどいた参拝者は次第に姿を消してしまったのです。

    黄金の像自体は失われましたが、観音様という存在そのものは、今も杉瓜地区の氏神様として静かに祀られ続けています。そして江戸後期の西暦一八四三年、この観音堂の大規模な修繕が行われました。

    これが、杉瓜に伝わる「金の観音様」の伝説です。

    かつては金運アップの神様として、また農村地域を守る守護神として絶大な信仰を集めていた場所。土地の水を活かした食を摂り、そのエネルギーを体に取り込むことは、この観音様の力を得ることと、不思議なほど調和するのです。

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    杉瓜観音堂

    たまたまが三つ揃うとき

    「どうすれば、かつてのように再び多くの人が訪れるようになるだろうか」

    そう考えた私は、2022年に杉瓜観音堂の清掃活動を始めました。

    観音堂は、山の奥深くにあります。

    一人で掃除をしていると、ふと思うことがあります。なぜ昔の人たちは、わざわざこの場所に立派なお堂を建てたのか。なぜここに、これほど鮮やかな伝説を遺したのか。

    その正解は分かりません。しかし確かなのは、当時の人々が村の繁栄を願い、祈りを捧げていた。その積み重ねが、今もこの場所に残っているように感じるのです。

    清掃活動を続ける中で、私の中ではもう一つの探求――占いの研究も深まっていきました。

    そこで見えてきたのは、生年月日や名前といった「数字」にまつわる不思議なご縁です。あなたにも、なぜか引いてしまう番号や、自分にとって特別な数字があるのではないでしょうか。

    私の場合、それは「18」でした。

    10月18日生まれの私は、昔からこの数字に縁を感じていましたが、調べてみると18日は「観音様の縁日」であることが分かりました。

    さらに、観音堂の前回の修繕は1843年。

    人の流れにも、出来事の流れにも、「周期」というものがあります。短いものから長いものまで、その流れを読むことで、次に起こる変化を見ていきます。

    1843年から180年後は、2023年。

    さらに200年後は、2043年。

    たまたま杉瓜に生まれた私が。

    たまたま観音様の縁日に生まれ。

    たまたま2023年という節目の年に、再生の活動を始めた。

    この三つの「たまたま」が揃ったとき、私はそこに不思議な力が働いていることを確信しました。

    2043年に何かが起きるとしたら——それは偶然ではないのかもしれない。


     山伏としての「生まれ変わり」

    とはいえ、一人の人間ができる活動には限界があります。周囲に想いを話しても、なかなか理解は得られませんでした。

    「自分に何か、活動を前面に押し出せる『身分』があれば」と悩みましたが、今さら出家してお坊さんになるわけにもいきません。

    迎えた2025年。私の占いでは、この年は「生まれ変わる」という運気が出ていました。

    そんな折に出会ったのが「山伏」という存在です。山伏は本来の仕事を続けながら修行する「在家得度(ざいけとくど)」という道があり、得度すると新しい名前を授かることができます。

    新しい名前をもらうこと、それはすなわち「生まれ変わり」です。

    バラバラだった点が、

    また一つ、線で繋がりました。

    私は導かれるように情報を集め、奈良県吉野町の大峯山(おおみねさん)にある菩提寺で得度することを決意しました。

    その本堂に祀られていた仏様の名は、役行者(えんのぎょうじゃ)。

    役行者は、弘法大師空海や安倍晴明があこがれた人物と噂されるほどの強い祈りと咒(まじない)の力を持った修行者として知られています。

    このとき私は初めて、伝説の修行者・役行者とのご縁を結ぶことになったのです。


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    第三章:浅間山に宿る、失われた息吹

    ​浅間山と山伏の深い縁

    ​2025年9月。私は奈良県吉野町で役行者と縁を結び、得度することになりました。

    軽井沢に戻り、山伏としての修行の一環として真っ先に浅間山へ登りました。その頃、地元の図書館である一冊の本に出会います。それは「浅間山信仰」について記されたものでした。

    ​ページをめくると、そこには浅間山と山伏の驚くほど深い繋がりが記されていました。

    そして、私が吉野でご縁を結んだ「役行者」の伝説が、目の前に現れたのです。かつて浅間山で暴れ回っていた鬼を鎮め、人々の暮らしを守ったという修行者の姿が、故郷の山と重なりました。

    ​私はさらなる手がかりを求め、追分郷土館(おいわけきょうどかん)へ足を運びました。そこで目にした一節に、私は息を呑みました。

    江戸時代の追分の道は、「京都」そして「奈良・吉野」へと続く道である――。

    そこには、ピンポイントで「吉野」という地名が刻まれていました。

    ​私が山伏になるとき、他の地方を選ぶこともできました。しかし、たまたま奈良の吉野を選び、狙ったわけでもなくたまたま役行者と縁を結んだ。

    その選択が、かつての軽井沢の人々が祈りを捧げた聖地への道筋と、まるで導かれるように重なっていたのです。

    この“たまたま”を、あなたは偶然だと思いますか。

    これもまた、ご縁だったのかもしれません。

    その後に知ったことですが、在家得度は山伏に限らず、宗派によっては誰でも受けられる道でもありました。



    ​明治維新で消された「最強の山伏」

    ​私は、軽井沢の文化とは明治維新以降、別荘地の開拓によって作られたものだと教わって育ちました。

    実際、現在の軽井沢の華やかなイメージは明治以降のものです。それ以前の歴史、特に「祈り」に関する記録はほとんど残っていません。なぜなら明治維新の際、神仏習合という日本古来の信仰のかたちが、国の方針によって激しく塗り替えられてしまったからです。

    ​かつて、軽井沢や佐久地域一帯には、山伏の文化が色濃く息づいていました。「浅間修験」と呼ばれる山伏たちは、あの最強と名高い武田信玄の軍勢において重用され、戦勝を願う加持祈祷(かじきとう)の大役を任されるほどの実力と権威を持っていました。

    ​しかし、修験道廃止の令により、彼らの活動や記録の多くは歴史の闇へと消されました。杉瓜観音様の公式な記録が180年前で途絶えているのも、偶然ではないでしょう。おそらく、神仏分離の荒波の中で、かつての輝かしい信仰もろとも「消されてしまった」のです。

    ​浅間修験という名の祈りの火は、150年前に一度は絶えたかに見えました。

    それでも今、その息吹が再び、この土地で静かに始まろうとしています。

    杉瓜観音様の清掃を続けていると、不思議な変化が起き始めています。

    わずかな仲間たちが訪れるようになってきて、協力者も少しずつ増えてきています。

    かつて途絶えたはずの祈りは、いま再び、この土地で静かに息を吹き返そうとしているのかもしれません。

    第四章:すべての点は、「一線」で結ばれる

    ​「金の観音様」と「役行者」

    一見、時代も場所も離れているように見える二つの伝説は、実は深い場所で固く結ばれています。どちらの物語も、軽井沢という土地を舞台に、町や国の繁栄を願い、その祈りを後世へ繋ごうとした人々の思いが形になったものだからです。

    ​明治維新という時代の荒波によって、多くの歴史は消されてしまいました。しかし、記録は失われても、この土の上に確かに「祈り」が存在したという事実は、決して消えることはありません。

    ​私はよく周りからこう言われます。

    「占い師で、蕎麦職人で、山伏……一体、何を目指しているのか分からない、ブレている人だ」と。

    確かに、現代の物差しで見れば、これらは全く別々の「点」にしか見えないかもしれません。

    ​ですが、山伏の歴史を紐解けば、その実像は明確です。彼らは加持祈祷や占いを行い、山で得た薬草や食の智慧をもって人々を癒やす集団でした。私が行っていることは、何一つ矛盾していません。すべては山伏という生き方において、一つの線で繋がっているのです。

    ​それは、過去・現在・未来という時間の流れにおいても同じことです。

    ​難しい理屈は、一度横に置いておきましょう。

    私はただ、もっとシンプルに。

    その土地で育ったものの味、香り、風景、温度、そして音。

    五感のすべてを通じて、軽井沢という土地の本質を感じてもらえれば、それでいいと思っています。

    あなたにも、誰かに語られることなく消えてしまった記憶が、きっとあるはずです。

    2027年。

    私はこの地に、故郷で育った食材で作るお蕎麦を中心とした、日本料理の店を開きます。

    あらゆる人が同じ地平に立ち、生命の源である「食」を真っ直ぐに感じられる場所。かつて私がパリの街角で食べたあの一杯のラーメンのように、時空を超えて、過去から未来へと心を繋ぐような蕎麦を打ちたいと願っています。

    刑事時代、私は心身ともに削り取られ、自分がどこにいるのかさえ分からなくなっていました。そして挫折した時、私は自分の『帰り道』を失いました。

    帰り道を失ったある女性の話

    多くの人を占う中で気づいたのは、かつての私と同じように、自分の中心からズレてしまい、どこへ『帰れば』いいのか分からずに、必死で自分を『整えよう』ともがいている人があまりにも多いということです。

    ある女性は、海外でワーホリをすると決めていました。ところが恋愛をきっかけにその選択を変え、やがて別れ、夢だった場所へも戻れないまま、連絡が途絶えました。彼女の「帰る場所」は、どこだったのでしょうか。

    あなたにも、気づかないうちに、自分の中心からズレてしまった瞬間があるのではないでしょうか。

    ​私は、そんな人たちがふと立ち止まり、本来の自分に、あるいはこの土地の記憶に帰っていける場所をつくりたい。

    バラバラになった心と体を、土地の力で再び一つに整える場所。

    それが、私が飲食店という形を選んだ理由の核心でした。

    ​私の山伏としての名は、「小宮山 永晃(こみやま えいこう)」といいます。

    「小宮山」は、先祖代々受け継いできた名字です。そのルーツは佐久地域の地名にあるとされていますが、小諸にある「小宮山塚」は、浅間山信仰に基づいた塚であると言い伝えられています。

    ​「宮」は、神を祀る場所。

    「小宮山」とは、小さく神(山)を祀る場所そのものを指しています。

    ​わが家に代々伝わる家紋を見てください。

    そこには、連なる山々の前に、潔く「一線」が引かれています。

    これこそが、小宮山家が山岳信仰と共に生きてきた一族であるという、何よりの証拠です。

    ​私がこの名を持ち、この家紋を背負い、この地で蕎麦を打つこと。

    それは偶然ではなく、1300年の時を超えて引き直された、宿命の一線なのです。


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    小宮山家の家紋

    200年の周期、そして5000年の祈りを繋ぐ

    ​200年目の再始動

    ​かつて、杉瓜(すぎうり)観音様が大規模な修繕を迎えたのは1843年のことでした。

    それから200年の周期を経て、次なる節目は2043年。

    この年こそが、杉瓜観音様にとって本当の意味での「スタート」。

    ​なぜ、今これを読んでいる「あなた」が主人公なのか。

    ​たとえ歴史としての記録が途絶えたとしても、私たちが絶やしてはならないものがあります。

    それは、**「祈り」**です。

    ​5000年前から届くバトン

    ​杉瓜観音様から1キロと離れていない場所に、**「茂沢南石堂跡」**という縄文時代の遺跡があります。

    今から5000年も前の場所です。

    ​これほど時を遡れば、文字としての記録はほとんど残っていません。

    しかし、その場所に立つと、かつての人々が捧げた切実な「祈り」を、肌で感じ取ることができます。

    ​私が山伏の門を叩く前、ある先達(せんだつ)に「なぜ山伏になったのですか」と尋ねたことがあります。

    その方はこうおっしゃいました。

    ​「心に余裕がある人でなければ、他人のために祈ることはできない」

    「こんな私にできることは、ただ祈ることしかないのだから」

    ​一線に立つ、あなたと共に

    ​今の私に、先達として提供できるのは「蕎麦を食べる場所」だけかもしれません。

    けれど、軽井沢の土地の恵みを分かち合い、未来の子どもたちや次の時代へ祈りを届けられるのは、今この時を生きる私たちしかいないのです。

    ​歴史に名を残す人は、ほんの一握りです。

    しかし、5000年以上前から静かに、けれど力強く繋がれてきた祈りの数は計り知れません。

    この「大和魂」という精神を引き継ぎ、次へとバトンを渡すのは、他でもないあなた自身の祈りなのです。

    ​一人の人間にできることは、微々たるものかもしれません。

    だからこそ、本当の主人公であるあなたの力が必要なのです。


    この土地の水を飲み、

    この土地で育ったものを食べ、

    ほんの少しだけ、この場所のことを思い出す。


    そのとき、あなた自身の消えかけた何かも、きっと一緒に思い出されます。


    それだけでいい。


    何かは、確かに繋がっていく。


    2027年、この場所に小さな店をひらきます。

    そこで蕎麦をすすりながら、土地の記憶に少しだけ触れてもらえたなら、祈りはきっと、静かにそこにあるはずです。

    それを、どう受け取るかは——あなたに委ねられています。


    ​「一線に立つ」

    繋がれた一線の一部となり、ここから共に新しい一線を超えていけたなら、これほど嬉しいことはありません。


    それを昔の人は、役行者と呼んだのかもしれない。


    この物語をここまで読んだあなたは、すでにその一線の近くに立っています。

    もしこの場所に来ることがあれば、その時に、少しだけ思い出してもらえたら嬉しいです。


    そこから、あなた自身の「一線」は、もう静かに動き始めているのかもしれません。


    人は、大きな何かを成し遂げようとするとき、特別な力が必要だと思いがちです。

    けれど本当は、そうではない。

    水を飲み、食べ、思い出す。

    その繰り返しの中にこそ、途切れることのない流れがある。

    気づかないほど小さな行為の積み重ねが、

    やがて一つの線となり、誰かの未来へと繋がっていく。

    もし今のあなたが、自分の中心からズレていると感じているなら、一度だけ立ち止まってみてください。

    あなたの「帰る場所」は、きっとまだそこにあります。

    それもわからなくなったとき、この一線の場所に、ふと立ち寄ってみてください。

    それだけで十分です。

    そのとき、ほんの少しだけ感じてみてください。

    見えないはずのものが、

    確かにここにあるということを。

    「2027年、この店に来たとき、あなたの話を聞かせてください」

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    離山からの浅間山

    #創作大賞2026   #エッセイ部門

     
     

    一線

     
     
    元刑事・山伏が、1300年前の祈りを現代の「食」へ再構築。 2021年からの4年の潜伏と修行を経て、軽井沢・杉瓜の地に精進料理『一線』を開くまでの全行程を記録します。2043年の観音様再建へ向けた、歴史と現在を繋ぐ挑戦のプロセス。2027年秋、開店予定。

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