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僕が飼っている飼わなかった犬

     僕は犬を飼っていない。生まれてから飼ったことがない。誰かに「犬、飼ったことある?」と聞かれたときにはそう答える。
     でもそれは現実の触れられる生きた犬の話であって、そうでない犬は飼っていたし、今でも飼っている。いま、その犬は外に遊びに出ている。あるいは小屋の中でぐっすりと眠っている。だから彼が戻ってくるまで少しその話をしようと思う。

     小さい時から犬が好きだった。現実に触れたこともないのに、幼稚園の同じクラスの男の子が犬を飼っていて、それは柴犬で、茶色くて、もふもふしていて、その話を聞いているだけで僕は犬が好きになった。触れたことも見たこともないのに好きにななるのだから、そういう意味で僕は相当な犬派だと思う。
     犬を飼うという話は何度も家族会議の議題に上がったが、毎日散歩できるのかという質問に僕はうまく答えられなかった。飼えばきっと、という物言いは受け付けられなかった。結局わが家では犬を飼うことは無かった。
     けれど代わりに犬のぬいぐるみをもらった。幼稚園児の肩から腰までと同じ大きさの、今思えばラブラドールを模したぬいぐるみで、首にマフラーを巻いているのがチャームポイントだった。どうしてかはわからないけれど、父が「もんた」と呼び初めて、僕も語感が気に入ってそう呼んでいた。僕は毎日その犬を抱きかかえていた。最初は白かったのかもしれないが、毎日連れ歩いたせいで最初の色がわからなくなるくらい茶色くなっていた。

     もんたと遊んだ記憶はとても多くあるのだけど、いつどこでもんたがいなくなったのかわからない。いつかの引っ越しの時に逃げ出してしまったのか、それとも実家の押し入れの中にまだ暮らしているのかわからない。毎日抱きかかえていたはずなのに、アルバム写真のどこにももんたの姿は見当たらない。
     ちゃんとしたお別れを出来ていないから、もんたは僕の記憶の中に住みついたまま、時々心までやってきて遊ぼうとねだってくる。時々撫でたり、抱きかかえたりする。そうしていると僕は暖かい気持ちになるが、もんたがどんな気持ちなのかはわからない。目の前にいるのに、ここにはいなくて、じゃれてくるのに、話しかけられない。しばらくして、もんたが遊び疲れて帰っていくと、僕はたまらなく悲しい気持ちになる。
     悲しい気持ちを忘れるために僕は散歩をする。散歩するとき、少し右手を前に伸ばす。手の先にリードがあることを想像する。そのリードの先にいて、どこにもいない犬が僕をどこかへ連れて行ってくれる。しばらくして僕は「帰ろう」とつぶやく。犬が家の場所を覚えてくれているので僕は帰ってこられる。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門

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    短歌や文章を書きます。 とら年のみずがめ座

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