
五体五感
ありがたいことに手が動く。
足が動く。
目が見える。
耳が聞こえる。
健やかな身体でこの世に生み落としてもらえたから、当たり前のように綺麗な景色や音を感じ取ることができる。
有難いことに、
ただ偶然に、
この体で生きている。
自分の内に意識が向いた時、
頭の中に2つのことがぼんやり思い浮かぶ。
私は今を生きられていない。
ということと、
私はいつまでも生きていられない。
ということ。
今日も私は、今晩中に仕上げなければならない編集のことを考えている。
週明けの会議で足もとをすくわれない発言方法を探っている。
1週間後にある会食で話す内容をぼんやり考え始めている。
1ヶ月後の収録、キャスティングは誰が良いかずっと考えている。
1年後、同じ仕事をしているのか迷っている。
そうやっていつも、少し先のことばかりが小さな頭の中でひしめきあっている。
今がない。
「今」が入る隙間がない。
「今」は「隙間」にしか入れなくなっている。
ちっとも今を生きられていない。
喫茶店窓際の席、これを書いている今も、
気持ちいい風が時折窓から入ってくる。
隣にあるカレー屋さんから食欲をそそる香りがする。
さっき、遊び回る子どもたちが楽しそうに目の前を通り過ぎた。
五感で感じ取れる心地いい「今」があるのに、
私はその全てをまったく使わずに、
感じ取れない、あるかどうかもわからない、「先」を見ようとしている。
こんな生き方をやめてしまいたい。
私が「今」を感じることができる、この五感。
これらが働く時間には限りがある。
つまり、私はいつか死ぬ。
私はいつまでも生きていられない。
全然問題なく見えるのだけれど、
歳を重ねるにつれて視力は悪くなっている。
普通に聞こえるのだけれど、
若い時より音に注意がいきづらくなっている気がする。(同時に何種類の音に注意が向けられなくなってるみたいな、そんな気がする。)
朝起きると首、腰が痛かったり。
言葉が昔よりスラスラ出てこなくなったり。
しっかり、朽ちはじめている。
私の五体五感は、今はまだ大丈夫。
でも10年後はもっと微妙になって、
20年後はきっとより鈍感になって
3、40年後にはもう使いものにならないのだろう。
だから私は、私の五感がもっとも敏感に、そして正しく働く「今」を真剣に生きたい。
「明日はこんな1日にしよう!」ではなくて、
「明日はどんな1日になるんだろう?」と眠りについていた子どもの頃のように今だけを生きたい。
「私の今」としっかり向き合う。
小さなことから変えていく。
変えられることを見つけて。
「遅れるかもしれない」と思って早歩きをすることをやめた。
遅れてしまったら、めちゃくちゃ謝ろう。
謝っても許してもらえなかったら許してもらえるようにできることを“その時”頑張ろう。
そもそも、「お互いにちょっと遅れても別にいい。」くらい心に余裕がある人間関係を作ろう。
明日が早いからと無理に早く寝ようとすることをやめた。
“今”眠くないんだから寝ない。
明日しんどかったら「しんどいなぁ、眠いなぁ」と思いながら、その日の夜ぐっすり眠れることをひそかに楽しみに“その時”をがんばろう。
まだ起きていないトラブルを考えることをやめた。
何やら事件が起こりそう。でもまだ何も起きていない。だから別に気にしない。
真摯に今できることをして、後は静観。
いらぬことはしない。気にしない。
明日の自分の気持ちを気にすることをやめた。
今日はあの人が好きでも、明日はめっちゃ嫌いかもしれない。昨日は嫉妬に溢れていたけど、今日の私の心にはたしかに菩薩がいる。
自分で自分の心の行方がわからないから、
もう放っておく。
「あー今日は晴れてんな」「うわー雨降りそう」
外へ出る時に気にする天気くらいに思って、今の感情を大切にする。
そのほか、
関係ないSNS、ニュース観ない。
予定入れすぎない。
1人で遠くへ出かける。
気になった趣味全てやる。
思ったこと基本全部言う。
そうやって、
細かく「今」を削ることをやめていく。
こう思っても、性格的にできないことが多いのを私は知っている。だから強く思うくらいで良い塩梅になる。そう思っている。
『私の五体五感が捉えた「今」以外のものは、
全てとるに足らない。』
そう思って、今に集中して生きたい。
もうすぐこれを書き終える。
今日は隣のお店でカレーを食べる。
風に乗ってくるカレーの香りがたまらないのだ。