
助手席のブレーキ ─ 十年目の答え合わせ
「人の本性なんて、どれだけ長く付き合ってもわからないよ」
かつて、職場の上司が吐き捨てるように言った言葉だった。
彼は十年の交際の末に結婚し、
新婚旅行から帰った空港で、妻は待っていた別の男と消えたのだという。
その話を聞いたとき、私はバスガイドだった。
多くの人生が交差する道の上で、人を見る目には自信があった。
だから
隣にいる穏やかな恋人を見て、「そんなのは極端な話だ」と思った。
運転を見れば、その人の性格がわかる。
仕事柄、私は毎日違うドライバーと組んできた。
当時の彼の運転は、イライラするほどにのんびりしたものだった。
前を走る車があまりに遅くて、
私は助手席から身を乗り出し、彼の代わりにクラクションを鳴らしたことがある。
彼は私のそんな行動に驚き
「なんてことするの!」と顔を真っ赤にして、
それでも楽しそうに笑っていた。
その照れたような笑顔に、私はすっかり安心してしまった。
──穏やかな人生を、彼となら過ごせる。
十年が過ぎた。
私の運転は、いつの間にか穏やかになっていた。
クラクションを鳴らすこともなくなった。
けれど──夫の運転は、いつの間にか変わっていた。
赤信号で止まらないことがある。
私や子供が乗っていても、アクセルを踏む。
最初は、たまたまだと思った。
見間違いかもしれないと、自分に言い聞かせたこともあった。
けれど、同じことが何度か続いた。
何かがおかしいと、思い始めた。
ある日、子供を連れて食べ放題の店に入った。
三段階のコースがあり、私は真ん中を選んだ。
「これでいい?」と聞くと、夫は「いい」と答えた。
その直後、夫の顔が険しくなった。
食べたいものが食べられない。
ただそれだけのことで、場の空気が凍りついていた。
店を出て、三人とも無言で運転席に乗り込んだ。
大きな交差点だった。
信号は黄色から赤に変わった。
右折しようとする四トントラックが、ゆっくりとこちらへ頭を出してくる。
普通なら、ブレーキを踏む。
けれど、夫はアクセルを踏み込んだ。
家族を乗せたまま、巨大な鉄の塊に向かっていく。
耳を刺すような、トラックの長い、長い警笛。
何が起きているのか、わからなかった。
ぶつかる、と思った。
体中から汗が吹き出した。
私は夫の顔を見た。
その横顔は──知らないものだった。
あの日、顔を真っ赤にして笑っていた人と、同じ人間だとは思えなかった。
「人の本性は、わからない」
上司の言葉が頭をよぎった。
あの時、裏切られた上司はすぐに離婚し、その後一年も経たずに再婚した。
今では子沢山のパパになり、
今年届いた年賀状では、幸せそうに笑っていた。
十年の歳月をかけても、わからないものは、わからない。
どうして、それを「人ごと」だと思い込んでいたのだろう。
四トントラックに突っ込んでいったあの車から、私はようやく降りることができた。
今は自分の足で、赤信号が変わるのを、ただ静かに待っている。
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