
【古書店主と居候】③名もなき決闘
古い哲学書を開いた櫂の指先が、あるページでぴたりと止まった。
裸電球の下、広げられたその見開きは印刷された活字よりも、手書きのインクのほうが圧倒的な密度で埋め尽くしている。
それも、おぞましいほどの熱量を持った赤インクだ。
「うわ、何これ。前の持ち主めちゃくちゃ怒ってるじゃん」
背後から覗き込んできた佐伯が、思わずといった風に声を上げた。
几帳面な活字の並びを囲むように、余白という余白へびっしりと、殴り書きのような文字が侵入している。
『論理の飛躍。欺瞞である』『著者は現実を見ていない』果てには『反吐が出る』とまで、激しい言葉が赤ペンで突き立てられていた。
「これじゃあ商品にならないなー、櫂さん。ただの落書き帳だ。仕入れとしては大失敗じゃないか」
佐伯が苦笑混じりに言うと、櫂は眼鏡の奥の目を細め、その赤黒いページをどこか愛おしそうに指の腹で撫でた。
「失敗どころか僕にとっては極上の掘り出し物さ。君にはこれがただの汚された落書きに見えるのかい」
「そうとしか見えないけど。本を大事にしてない証拠だ」
「逆だよ、佐伯。これほどこの本を、いや、この著者をリスペクトした人間はいない。これはただの古本ではないんだ。何十年も前に生きていた名もなき読者と、歴史に名を残した大哲学者との間で繰り広げられた、時空を超えた終わらない決闘の場だ」
櫂は静かにページをめくった。次のページにも、同じように激しい反論の赤線が躍っている。
「本を読むという行為は、通常は受け身の消費になりがちだ。しかし、この前の持ち主は違った。著者が提示する思想に対して、自らの知性とエゴのすべてを動員して、真っ向から殴り合いを挑んだんだ。著者が一文を投げかければ、この赤ペンはそれを盾で弾き即座に反論の刃を突き返す。活字とインクが血を流しながら戦っている。
この余白は、一対一の神聖なコロシアムなんだよ」
「コロシアムね。確かに、ここまで激しいとちょっとした執念を感じるかもな」
「僕はね、こういう人間の剥き出しのエゴが刻まれた本がたまらなく好きなんだ。印刷された完成された思想もいいけれど、それに抗おうとした個人の足掻きのほうが、遥かに人間臭くて美しいとは思わないかい」
佐伯は少し黙って、櫂の横顔とその指の下で激しく自己主張を続ける赤い文字を見比べた。
「じゃあ、この本を次に買う読者は、その決闘の跡地を眺める観客ってわけだ。まだ生々しい熱が残ってる古い遺跡のさ」
「観客、か。悪くない表現だね。前の持ち主の返り血も含めて、この本の新しい価値なんだから」
櫂は満足げに小さく口元を緩めると、その哲学書をそっと閉じた。
表紙はひどく色褪せて古びているが、その内側には今も冷めやらない熱狂と闘争の記憶が閉じ込められている。
外を吹き抜ける夜風が古本屋のガラス戸を小さく揺らした。
帳場の光のなかで櫂は静かに次の本の検品へと戻り、佐伯はその横で名もなき決闘者たちの気配をそっと味わうように、静かに佇んでいた。