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『私は、華を見た』最終話

    終章 それでも季節は巡る

    春は、ある日突然来るわけではない。

    寒さの中に、少しだけ柔らかい風が混じる。
    夕方の色が変わる。
    朝の光が白くなる。

    そういう小さな変化の積み重ねの先で、人はようやく「ああ、春だ」と気づく。

    私たちも、たぶん同じだった。

    二月が終わるころには、雪の日のことを少しずつ笑って話せるようになっていた。

    もちろん、全部が解決したわけじゃない。

    河合さんは今でも時々、境目の夢を見る。
    疲れると、遠くを見る。
    季節の変わり目には、花の気配を感じることもあるらしい。

    でも以前とは違う。

    河合さんは、戻ってくる。

    こちら側へ。
    ちゃんと、自分の意志で。

    「最近、夢減りました」

    三月のある日、河合さんはそう言った。

    職員室の窓際だった。

    夕方。
    春の匂い。
    一年前とよく似た光。

    私は笑う。

    「俺のおかげ?」

    河合さんは少し考えるふりをしてから、静かに言った。

    「半分くらい」

    「半分なんだ」

    「残り半分は、季節です」

    その言い方が、やっぱり好きだった。

    私には見えないものを、河合さんは見ている。
    でも今は、その景色の中に私も少しだけいる。

    それが嬉しかった。

    三月の終わり、私たちはまた江ノ島へ行った。

    去年、灯籠を見た場所。

    海はまだ少し寒い。
    風も強い。

    でも、春の海だった。

    私たちは並んで歩く。

    灯籠はない。
    観光客も少ない。

    静かな夜だった。

    河合さんが海を見る。

    「去年の私、だいぶ危なかったですね」

    私は苦笑する。

    「笑い事じゃない」

    「でも」

    河合さんは少し笑った。

    「牧野さん、絶対来てくれる気がしてました」

    私は息を止める。

    河合さんはこちらを見る。

    夜の海の色をした目だった。

    「なんででしょうね」

    私は答えられなかった。

    でも、たぶん。

    好きだったからだ。

    ただ、それだけだった。

    好きだから、追いかけた。
    好きだから、名前を呼んだ。
    好きだから、こちら側へいてほしかった。

    恋愛は時々、あまりにも非合理だ。

    でも、人を生かすのはいつだって合理じゃない。

    帰り道、私たちはゆっくり歩いた。

    河合さんが、不意に私の袖を掴む。

    私は足を止める。

    「どうした?」

    河合さんは少し迷ってから、小さく言った。

    「……来年も、一緒に見れますか」

    私は笑う。

    「何を?」

    河合さんは春の海を見る。

    「季節」

    その瞬間、胸の奥が静かに熱くなる。

    私はゆっくり頷いた。

    「見るよ」

    河合さんが笑う。

    春の光みたいな笑い方だった。

    風が吹く。

    髪が揺れる。

    私はその横顔を見ながら、不意に思う。

    もう私は、この人を“河合さん”だけでは呼べないのかもしれない。

    向こう側から戻ってきた夜。

    あの雪の廊下で。

    私は確かに、一度この人の名前を呼んでしまった。

    「……梨華」

    小さく呼ぶ。

    確かめるみたいに。

    春の中へ置くみたいに。

    河合さん――梨華は、一瞬だけ驚いた顔をした。

    それから、少し困ったみたいに笑う。

    「急ですね」

    「うん」

    私は笑った。

    「でも、呼びたくなった」

    梨華は少しだけ照れたように視線を逸らす。

    その仕草が、どうしようもなく愛しかった。

    波の音がする。

    春の夜風が吹く。

    遠くで、誰かの笑い声が聞こえる。

    世界はちゃんと続いていた。

    苦しいこともあるだろう。

    また境目が現れる日もあるかもしれない。

    消えたくなる夜も、きっとゼロにはならない。

    それでも。

    誰かが名前を呼んでくれるなら。
    誰かがこちら側で待っていてくれるなら。

    人は、戻ってこられるのかもしれない。

    春の廊下。
    夏の灯籠。
    彼岸花。
    雪の日。

    その全部を越えて、私たちはここにいる。

    完璧じゃないまま。
    傷を抱えたまま。

    それでも、こちら側で生きている。

    私は、華を見た。

    それは春の廊下だった。

    風の抜ける光の中で、
    消えそうだった誰かが、
    自分の名前でこちら側を選び直した日だった。

    そして今。

    「梨華」

    春の風の中でその名前を呼ぶたび、
    私はあの日の雪を思い出す。

    向こう側から戻ってきた誰かを、
    こちら側へ繋ぎ止めるみたいに。

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    掃除、開運、神社、ダイエット、副業。 人生をちょっと良くする「小さな習慣」を発信しています。 40代からでも、暮らしは変えられる。 特別支援学校教員|15kg減量|サウナ好き フォロバ100します。

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