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孤独だった丘の上の少女が、別の世界に入ってゆくお話 #ファンタジー小説#童話#はじめてのnote

    ふしぎタッタ

    古夜の丘ーー少し不思議でリピートしたくなるお話

    古夜の丘

     むかし、といっても、それほど遠い昔ではありません。町にはじめて汽車が走り、人々が「文明開化」という言葉を朝晩の挨拶のように口にしていたころのことです。

     海に近いその町のはずれに、ひとつの小さな丘がありました。てっぺんには風に曲がった一本の松の木があり、その根もとに、家が一軒、ぽつんと建っています。家そのものは、ほんとうに小さな家でした。ところが、その家には、家の大きさにちっとも釣り合わない、それはそれは大きなテラスがついていたのです。

     古夜(こよ)は、そこにひとりで暮らしていました。年は十をいくつか越えたくらいでしょうか。くわしいことは、誰も知りません。

     テラスをこしらえたのは、古夜の父でした。まだ酒に溺れる前の父は、西洋の絵で見たテラスというものに憧れて、身の丈に合わない見栄を、家の横にどんと張り出させたのです。けれども、酒がすべてを変えました。父は毎晩のように飲んで、酒の匂いをさせながら大きな声を出し、戸を蹴り、徳利を割りました。幼い古夜にとって、その足音は、この世でいちばん恐ろしい音でした。

     ある朝、父は何も言わずに、家を出ていきました。それきり、帰ってきません。

     古夜は、ほっとしました。そして、ほっとしたことに、少しだけ、傷つきました。

     その日から古夜は、人が怖くなりました。人の足音、人の声、人の視線。それらはみな、あの夜の音につながっているような気がして、古夜は、人のいないところへ、人のいないところへと、心を移していったのです。

     人に会わない古夜には、身なりを整える理由がありません。誰かの目を気にしたことも、鏡をのぞいたことも、古夜は一度もありませんでした。朝は露が顔を洗い、風がすべてを整えてくれる。古夜はそう思っていて、それで少しも困りませんでした。

     生まれつき浅黒い肌をしていて、その目は、夏の朝、露に洗われたばかりの空のように澄んでいました。風の匂いさえ映しているような、まっすぐで、屈託のない光です。そしてその目は、目の前のものではなく、いつも、ずっと遠くを見ているのでした。

     そのかわり、古夜には友だちがたくさんいました。松の木、雨だれ、名前のない虫たち、そして、風。古夜には、そういうものの言葉が聞こえるのです。

     ある朝、テラスの縁を行く一匹の蟻に、古夜がたずねました。

    「蟻さん、そんなに急いで、どこへ行くの」

    「行ってみなければ、そこがどこかは、わかりませんもの」

     蟻は、ふと立ち止まったように見えました。

    「では、着いたら教えてね」

    「着いたときには、もう次のところへ行きたくなっていますよ」

     古夜は、ふふ、と笑いました。人でないものと話すのは、ほんとうに楽です。何も傷つかず、何も壊れないからです。

     そして古夜が何より好きなのは、テラスの端に立って、遠くを見ることでした。町を、港を、そのはるか向こうの山々の重なりを、日が暮れるまで見渡して、見えるところで暮らす人々のことを、あれこれと想像するのです。

     あの赤い屋根の家では、いま朝ごはんの湯気が立っているだろう。あの煙突の主は、口数は少ないけれど、きっと優しい職人だろう。あの畑の道を行く人は、今日はご機嫌にちがいない。

     古夜の頭の中の町は、まるで一巻の絵巻でした。絵巻の中の人々は、いつも笑っていて、いつも親切で、いつもちょうどよい距離にいてくれます。古夜は、その絵巻の世界に、すっかり満足していました。

     だから古夜には、どうしても譲れないことがひとつありました。丘から降りない、ということです。

    「近づいたら、きっと壊れてしまうもの」

     絵巻は、遠くから眺めているからこそ、美しいのです。

      *

     ある秋の午後、丘に、めずらしく足音が近づいてきました。

     古夜は、身をこわばらせました。けれど、その足音は、あの夜の音とは、ちがっていました。ぜいぜいと息が切れていて、ときどき、「こら、トノ、待て」と、情けない声が混じっています。

     やがて、灰色の猫が一匹、するりとテラスへあがってきて、古夜の隣にちょこんと座りました。座るなり、前足でひたいをひとなでし、尻尾を身の周りにきちんと巻きつけます。見られているということを、片時も忘れていないような猫でした。

     すぐあとから、小柄な老人が、丸眼鏡をずり落ちさせながら、よろよろとあがってきました。時計屋の源蔵です。指先には、油の黒い染みが、しわのひとつひとつに入りこんでいます。店には、留守を任せてきた小僧がひとりいて、名を捨吉といいました。

    「すまん、すまん。うちのトノが、逃げよってな」

     源蔵は、古夜がいることに驚いた様子でした。噂も何も、知らなかったのです。ただ、猫を追ってきただけの、たまたまの客でした。

     トノは、名を呼ばれると、聞こえなかったふりをして、前足をなめはじめました。

     源蔵は、テラスの椅子に、どさりと腰をおろしました。それから、ふと、古夜の目が自分を通り越して、はるか遠くを見ていることに気づきました。

    「あんた、どこを見とるんじゃ」

    「あなたの後ろの、ずっと向こうです」

    「わしの後ろには、トノの尻尾しかないぞ」

    「その向こうに、赤い屋根が見えます」

     源蔵は、ふん、と鼻を鳴らして、ふところから銀色の懐中時計を取り出しました。

    「嬢ちゃん、いま何時じゃと思う」

    「さあ。時計をお持ちなのは、あなたです」

    「そうじゃ。だが、わしの時計とお上の時計は、四分ちがう。どちらが正しい」

    「両方かもしれません。ひとつの太陽に、ふたつの影ができるように」

     源蔵は、目を丸くしました。

    「では、こういうのはどうじゃ。止まった時計は、一日に二度、ぴたりと正しい。動いている時計は、いつも少しだけ間違っとる。さて、どちらが正直じゃろう」

    「止まった時計のほうが、正直なのですね。ただし、二度だけ」

     源蔵は、大声で笑いました。笑ってから、急に、しゅんとなりました。

    「……わしの店の中ではな、時は、わしの太陽に合わせて流れとる。外の時刻がどうであれ、店の中では、わしはいつも正しい。わしはな、四十年、その店から、ほとんど出とらん」

     古夜は、黙ってうなずきました。人が話しているあいだ、自分がずっと黙っていられることに、古夜は少し驚いていました。

    「それで?」

    「それで、四分ずれとると言われて、わしの四十年が、間違いじゃと言われた気がしたんじゃ。洋時計なんぞ、見たくもない」

     けれど古夜は、見ていました。洋時計を悪く言うたびに、源蔵の指先が、小さなねじを回すように、こっそり動いていることを。トノも、それを見ていたのでしょう、細く目を開けて、ちらりと源蔵を見やりました。

    「店の外は、どんな時刻ですか」

    「知らん。見とらんからの」

    「見ないのに、どうして間違っているとわかるのですか」

     源蔵は、口を開けたまま、しばらく動きませんでした。

     やがて、ぽつりと言いました。

    「時計はな、遠くから見れば、どれも同じ顔をしとる。蓋を開けてみて、はじめて、ひとつひとつの機械の癖がわかる。……わしは、洋物の蓋を、いっぺんも開けもせんで、間違いじゃと決めつけとったのかもしれん」

     源蔵は立ち上がりました。トノが、ひょいと、その肩にのぼりました。まるで、この話をまとめたのは自分だ、というような顔をして。

    「嬢ちゃん、邪魔したな。また来てもええか」

    「お茶は出せませんが、風ならあります」

    「それで十分じゃ」

     源蔵は帰り道、横浜の時計屋に寄って、洋時計の修繕を習う約束をしました。

     源蔵が去ったあと、古夜は、テラスにひとり残されました。胸が、ふしぎなほどざわざわしていました。人の話を聞くことは、こわいことだと思っていたのに。古夜の中には、たくさんのものが残っていました。時計の文字盤の読み方。人は、恐れているものにこそ、いちばん心を奪われるということ。そして、あの窓の明かりは、おだやかな夜なべの灯りではなく、眠れない人の灯りだったということ。

     遠くからは、見えないものがあるのです。

      *

     冬の霜の朝、また足音がしました。今度は、杖をつく音です。

     現れたのは、元士族の久我の隠居でした。七十に近いでしょうか。かつて髷のあった頭は、きちんと整えられ、細い竹の棒を杖がわりについています。

    「源蔵から聞いてな。丘の上に、風と話す娘がおると」

     老人は、いかにも「散歩のついで」という顔をして、テラスの椅子に座りました。それから、右の腰に、そっと手をあてました。

    「刀を差さなくなって、もう何年もたつ。それなのに、右の腰が軽いのが、どうにも落ち着かんのだ」

    「では、腰に何を差しますか」

    「何を差す、とは」

    「刀のかわりに」

    「扇子でも、差すか」

    「扇子で、人は斬れませんね。でも、あおげば涼しい」

     老人は、むっとして、それから、げらげらと笑い出しました。

    「なるほど、刀よりよほど役に立つ」

     笑いが収まると、老人は、少し声を落としました。

    「わしはな、毎朝、城の跡へ登城する。もう城はない。殿様もおられん。それでも、袴をつけ、石垣の前で膝をついて、一日のことを申し上げる」

    「殿様は、お返事をなさいますか」

    「する。いつも、『大儀である』とな」

    「殿さまでしたら、さきほど、源蔵さんの肩に乗っておいでになりましたが」

     老人は、きょとんとしました。松の陰で、トノが、我関せずというふうに、毛づくろいをしています。

    「あれは、トノという猫です」

    「……猫に殿と名づけるとは、罰当たりな」

    「では、罰が当たったのは、あなたの殿様でしょうか、猫でしょうか」

     老人は、返事に詰まって、それから、声をあげて笑いました。笑いが収まると、老人の笑みが、すうっと消えました。

     長い長い沈黙のあと、老人は、地面に竹の棒の先を向けました。無意識に、文字を描いています。「誇」、誇りという字。そして「己」、おのれという字です。

    「……わしは、殿に仕えておったのではなく、わしの頭の中の殿を、ひとりで拵えて、仕えておったのだな」

     古夜は「それで?」と言いました。老人は、遠くの町並みに目をやりました。

    「嬢ちゃんは、ここから町を見ておるのだな。絵に描いた山は、疲れさせもせんが、清水も飲ませてくれん。遠くから眺める者は、山を美しいと言う。登る者は、足が痛いと言う。どちらも本当じゃ。だが、山の清水のうまさを知るのは、登った者だけじゃよ」

     古夜は、何も答えませんでした。ただ、その言葉を、胸の奥の、いちばん静かなところにしまいました。

     老人が去ったあと、古夜は、地面に残された文字を指でなぞりました。誇りという字と、おのれという字。文字を覚えるということは、人の心のかけらを拾うことなのだと、古夜は知りました。

     春になると、老人は坂の下で、近所の子どもたちに素読を教えるようになりました。刀のかわりに、細い竹の棒を持って。城の跡へは、もう行きません。手放すことは、失うこととは限らない。手放したあとに、ほんとうに残るものがあるのだと、古夜は思いました。

      *

     梅雨のころ、夜の明けきらないうちに、ひとりの娘がやってきました。紡績工場で働く、おふみです。十七、八でしょうか。指は糸で切れて、いくつも細い傷があります。工場の時計を修繕に出したとき、源蔵から、丘の話を聞いたのだそうです。

     古夜は、あの高い煙突の下には、にぎやかな笑い声があふれているのだろうと思っていました。

     おふみは、テラスの端に腰をおろして、少し黙っていました。それから、ふふ、と小さく笑いました。

    「ここから見ると、うちの工場の煙突は、立派に見えるでしょう」

     古夜は、少し驚きました。

    「でもね、あの煙は、わたしたちの吐いた息みたいなもの。朝から晩まで、同じ時刻に起きて、同じ時刻に食べて、同じ時刻に眠るの」

    「それで?」

    「わたしね、ふるさとに、毎月、手紙を書くの。その中のわたしは、毎日、白いご飯を三杯食べてるのよ」

    「では、手紙のあなたは、とても元気なのですね」

    「ええ。ときどき、本物のわたしより先に、ふるさとへ帰るのよ」

    「では、お帰りになるのは、どちらのあなたが先でしょう」

     おふみは、目をぱちぱちさせました。それから、へなへなと笑いました。

    「本物のほうが先、と言いたいけど……手紙のわたしのほうが、ずっと立派に、帰れるのよね」

     おふみは、ふところから、束ねた手紙を取り出しました。

    「ふるさとからの返事もね、いつも同じなの。『みんな元気だよ。雪がきれいだよ』。きっと、向こうも、わたしを心配させまいとして、本当のことは書かないの」

    「では、ふたつの手紙は、お互いに、嘘の世界をやりとりしているのですね」

    「そう。そうなのよ」と、おふみは、うなだれました。

    「でもね、夜、布団の中で、おきちちゃんと、こっそり焼き芋を半分こするの。ほくほくして、熱くて、ふたりで『あちち』って笑うの。あのときだけは、手紙の中じゃない、本物のわたしなの。あのおいしさは、手紙には、どうしても書けないのよ」

     おふみの目から、ぽろりと涙がこぼれました。

    「田舎に帰りたい。でも、お金も土産もなしに、どの面さげて帰れるだろう」

     古夜は、おふみの傷だらけの指が、泣きながらも、糸をよる形にきれいに動いていることに気づきました。人は疲れきっていても、自分の仕事を愛していることがあるのです。

     やがて、おふみは涙をぬぐって、ふっと笑いました。

    「手紙の中の故郷は、いつも雪が白くて、みんなが笑ってる。でも、それは、わたしの作った絵。本当の家は、きっと、思い出とは違ってる。それでも、帰ってみたいの。違っていても、そこに人がいるから。笑うのも、怒るのも、泣くのも、ぜんぶ、人とやるものだもの」

     その言葉は、古夜の胸に、まっすぐ届きました。

     おふみは、次の休みに、ふるさとへ帰っていきました。手紙ではなく、自分の足で。

      *

     その夜、古夜は、テラスに座って、一睡もしませんでした。

     三人が、それぞれの殻から出ていった。源蔵は、自分の店という、自分だけの時刻の世界から。老人は、頭の中の殿様の世界から。おふみは、手紙という、作りものの世界から。

     では、私は。

     古夜は、テラスを見回しました。家の中にも、外にもない、宙に張り出した、この大きな場所。父が、見栄で作った、居場所のない場所。

     私のいるこのテラスは、遠くを見るための舞台であって、どこにも、届いていない。

     そして古夜は、ふと、思いました。あの恐ろしかった足音は、酒という殻の中から、出られなくなった人の足音だったのかもしれない、と。父もまた、殻の中にいたのだ。そう思っても、恐怖は消えません。けれど、その恐怖の隣に、小さな、静かな悲しみが、そっと座りました。

     朝がきて、トノが、いかにも先に着いたのだという顔をして、テラスにあがってきました。あとから、源蔵が、息をきらしてやってきました。

    「嬢ちゃん、あんたの絵巻はな、まだ蓋が閉まっとるようじゃな」

    「蓋、ですか」

    「開けてみにゃ、わからん。あんたが、わしにそう教えてくれたんじゃ」

     古夜は、何も言えませんでした。

    「近づいたら壊れる、と思っとるんじゃろう。壊れたら、また作ればええ。絵巻より、ずっと面白いもんが、できるかもしれん」

    「それで?」と、古夜は、震える声で言いました。

    「それで、焼き芋を食いに来い」

     古夜は、笑いました。あんなに恐ろしかった人の世界が、焼き芋ひとつで、ふっと、やわらいだ気がしたのです。

      *

     その朝は、ひときわ空が澄んでいました。

     古夜は、テラスの椅子を、いつでも誰かが座れるように、少しだけ引き出しました。それから、家の戸を、開けたままにしました。

    「行ってきます」

     誰にともなくそう言うと、古夜は、坂道を、ゆっくりと降りはじめました。一歩、また一歩。はじめて降りるその道は、思っていたよりも、ずっと軽やかでした。トノが、先頭に立つのは自分の役目だとでも言うように、しっぽをぴんと立てて、いちばん先を歩いていきます。

     坂の下では、素読の声が聞こえます。老人が、子どもたちに、竹の棒で調子をとっていました。町のあちこちから、朝の音が聞こえてきます。豆腐屋のラッパ、井戸端の笑い声、遠くで鳴る汽笛。古夜は、赤い屋根の家の前を通りました。窓から、湯気の匂いがしました。想像していたとおりで、けれど、想像よりずっと、いい匂いでした。

     源蔵の店の戸口に、熱い焼き芋が、ふたつ、置いてありました。古夜は、半分に割って、片方を、店番をしていた捨吉にあげました。

    「あちち」

     割った断面から立つ湯気が、ふたりを包み込みました。それとともに、ほのかな喜びが古夜の心に広がっていくのが、見えました。

     それからの古夜は、ちょっと変わりました。

     絵巻の中の人々は、決して古夜を傷つけなかったけれど、決して古夜を抱きしめてもくれませんでした。本物の人々は、ときどき古夜を傷つけました。それでも、それ以上に、古夜を、あたためてくれたのです。

      *

     いまでも、丘のテラスには、引き出されたままの椅子が、ひとつあります。ときどき、悩みを抱えた誰かがのぼってきて、そこに腰をおろします。そして町を見下ろすと、遠くの人々は、小さく、絵のように見えます。

     けれど、その絵のなかに、ひとつだけ、いつまでも消えない人影があるのです。その笑い声は、ふしぎと、風によって丘の上まで届けられるのだそうです。

     こうして丘は、喜びをまとうようになりました。


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