
身体の声は魂の声
梅雨らしい眺めである。外を見ると、草木はしっとりと濡れ、その美しさに見とれてしまう。真珠のような丸い雨粒を乗せたバラの葉や、うな垂れた花もあるけれど、緑の輝きは一層増している。
雨のおかげで草木は輝いている。雨に打たれて余分なものが流れ落ち、すっきりと澄んで見える。この輝きは自然なことなのだろう。
箱庭のような小さな庭にも、自然が息づいている。雨でしっとりとした庭を窓越しに眺めていると、いつの間にか、私の心も潤っている。
自然の息吹に触れると、生命の躍動がそこにあるように思えて、眺めている私もまたその一部であることを思い出す。もしそうであるなら、私も雨に打たれても可笑しくはない。でも、それは遠慮したいけれど、自然に近く、自然を感じる暮らしをしたいと思っている。
最近は、洗濯物を干そうと外に出るだけで、気持ちが晴れやかになる。少し外の空気に触れるだけで、我が身が清らかになるように感じる。
それはちょうど草木が雨に打たれて洗われるように、私は外の空気に包まれると清められると感じるからだろう。真偽はどうあれ、そう感じるのだから仕方がない。
屋内と屋外の空気の違いは、以前、飼っていた犬が教えてくれた。母犬が柴犬、父犬は甲斐犬の雑種で、庭で育った。
犬小屋よりも木の下が好きで、毛布を引きずり出してはそこで寝ていた根っからの野生児だった。
夏には夏の、冬には冬の居場所があり、小さな庭の中を移動していた。十三歳のころ、老いては冬の寒さは厳しいだろうと、夜に家の中に入れた。すると犬はドアをひっかき、外に出たいと訴え、外に出た。
犬と一緒に外に出ると、冬の夜の空気の清らかさは格別だった。 震えるほどの寒さの中で、澄んだ空気が全身に染みわたり広がっていった。 犬はいつものように毛布に横たわり、その世界に満足していた。
あのとき、外の空気には家の中とは違う何かがあると、はっきり感じた。 その「何か」は言葉にはならないが、身体は確かに感じていた。
内側の深いところではわかっているのに、それは言葉には上がってこない。身体にはそのような繊細な感覚が備わっているらしい。
その繊細な感覚とは、もしかすると魂の声かもしれないと思うことがある。身体はそれを聴き取り、身体にはそれがよいことだとわかり、心はそうしたいと思う。身体と魂は、思っている以上に近いところで響き合っているのだろう。
身体から聴こえてくる小さなささやきを、私は魂の声だと思って、耳を傾けるのが習慣となっている。身体の声は魂の声だと思うこの頃である。