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笑える平日|【第8話】昼休み|「食堂という小さな宇宙」

    長引いた作業がようやく終わった。
    気づけば昼休みの時間は、もう半分近く減っている。

    月曜日は長く感じるのに、金曜日はなぜか速い。
    その間のどこかにいる今日も、例外ではないらしい。

    外で食べる余裕はない。
    今日は社食だ。



    食券機の前。

    「唐揚げ定食」が売り切れている。

    一瞬、頭が止まる。

    その代わりに表示されているのは「肉じゃが定食」。

    選択肢は減ったはずなのに、なぜか少しだけ納得している自分がいる。

    料理を受け取る。

    カウンターの向こうでは、外国人スタッフが静かに皿を差し出す。

    「ありがとうございました」

    少しだけ発音に揺れはある。
    それでも、動きは迷いがない。

    受け渡しのタイミングも、目線の置き方も、妙に丁寧だ。

    むしろ、こちらより“正しい形”を知っているように見える瞬間がある。



    この人は、どこから来たんだろう。
    いつからここにいるんだろう。


    慣れない土地に来て、
    言葉も仕事も、ひとつずつ覚えていく。

    それを“頑張っている”と言うのか、“生きている”と言うのかはわからないけれど。

    少なくとも今目の前にいるこの人は、私よりずっと静かに、この場所に馴染んでいる。

    世間では、こういう場面に少しだけ冷たい視線が混じることがある。

    でも、ふとした瞬間に思う。

    この人のほうが、よっぽど優秀だな、と。


    皿を受け取りながら、
    自分の「日本語で働く」という状態を、少しだけ客観視する。

    ちゃんと話せているだろうか。
    ちゃんと伝わっているだろうか。

    たぶん、あの人のほうがよほど真剣に“仕事の言語”を扱っている。





    料理を持って席へ戻る。

    昼休みの食堂は、小さな戦場だ。

    ラッキー。

    今日は運がいい。

    そう思ったのは、座るまでだった。

    座る。

    グラっ。

    ……気のせいか。

    座り直す。

    グラっ。

    気のせいではなかった。

    私は椅子の脚を見る。

    特に壊れているようには見えない。

    長く使われてきたのだろう。

    これも、椅子なりの歳の重ね方なのかもしれない。

    少しだけ場所をずらしてみる。

    変わらない。

    周りを見渡す。

    誰かに見られているわけでもないのに、なんとなく恥ずかしい。

    結局、自分の座り方を調整する。

    人は案外、環境を変えるより、自分を合わせるほうが早い。

    そして、空いている席には空いている理由がある。

    怒りというほどではないが、さっきの「ラッキー」を返してほしい。



    でも、今日の主役は椅子じゃない。

    目の前には肉じゃが定食がある。

    肉じゃがをご飯に乗せるか少し迷い、やめておく。
    代わりに、控えめにワンバンさせる。

    申し訳程度に味がついた白米を口に運ぶ。

    冷奴に醤油をかける。

    さらに少しだけ黒酢を足す。

    ただの冷奴なのに、ほんの少しだけ“整えられた存在”になった気がする。

    スーツを着ただけで、少しだけ仕事ができそうに見える人みたいだ。



    隣の席の会話が聞こえる。

    「これにしたけどカロリーどうかな」

    「ダイエットしてたっけ?」

    「駅前の店、閉店するらしいよ」

    話は繋がっているようで、繋がっていない。

    それでも会話は止まらない。

    なぜかテンポだけはいい。



    それとは別に、少し離れた席では、妙に整った空気が流れていた。

    一人が話し、もう一人が頷く。

    また一人が話し、もう一人が頷く。


    どちらも真面目な顔をしている。

    昼休みなのに、どこか面談のようだ。


    話の内容までは聞こえない。

    聞こえないのに、なぜか分かる。

    たぶん、昼食の話だ。
    もしくは、誰かの噂話。

    どちらにしても、人生を左右するような話ではない。

    それなのに、妙に重要そうな空気だけがある。

    相手の話を受け止めているのか。

    自分の考えを整理しているのか。

    それとも、ただ相槌が上手いだけなのか。


    理由は分からない。

    でも職場には、ときどきこういう人がいる。


    まるでランチの時間も仕事の続きみたいに見えるのに、

    実際には、たぶん今日の定食や天気と同じくらいの話をしている。




    私は肉じゃがをひと口食べる。

    向こうでは会話が続いている。

    こちらでは昼食が進んでいる。


    どちらも、午後を迎えるための準備なのかもしれなかった。



    名前を呼ばれる。

    一瞬、仕事の呼び出しかと思って身構える。

    でも違う。

    いつもの人だ。



    「これ、食後にでも」

    小さな袋が差し出される。
    中身は、どこかで見たことのあるお菓子。

    季節も場所も関係なく、いつも何かしら持っている。

    "この人は、何の仕事をしているんだろう"

    ふと、どうでもいい疑問が浮かぶ。

    いや、仕事はしているはずだ。
    ここに毎日いるのだから。

    それなのに、仕事の輪郭が見えない。


    出張帰りのときも。
    旅行帰りのときも。
    何もない日でも。

    「ちょっとこれ」と言って、必ず何かが出てくる。



    「沖縄行かれたんですか?」

    何気なく聞く。


    「ううん。物産展」

    即答される。


    ——ああ、物産展


    気づけば、百貨店や駅ビルの一角にいつの間にか出現している“期間限定の別世界”。

    そこには現地の人が本当に来ている。
    そしてやたらと元気がいい。


    試食を差し出すスピードが、もはや職人の域。

    「どうぞどうぞ!」が一切止まらない。

    一度足を止めたら、もう帰れない空気がある。

    気づけば手に3種類くらい持っている。

    買うつもりだったものは、最初の目的から消えている。


    「これ、今だけなんです」

    今だけのもの、多すぎる。

    でも確かに今しかない気がしてくるのが怖い。

    レジ前には小さな行列。

    後ろから「あと2個で終了です!」という声。

    何が2個なのかは分からないけど、とりあえず焦る。

    試食で満足したはずなのに、
    なぜか最終的に何か買っている。

    そして袋の中には、よく知らない郷土菓子。

    帰り道で思う。
    「あれ、これ何買ったんだっけ」

    でもたぶん、これが正しい物産展の終わり方なのだと思う——




    やがて昼休みは終わりに近づく。

    人が少しずつ席を立ち始める。

    私も空になった容器を片付ける。


    同じ時間の中で、同じ食堂にいるのに、
    それぞれが違う昼休みを生きている。
    それでも不思議と、同じ“午後”に戻っていく。



    食堂を出る。

    奥歯のことは、少しだけ忘れていることに気づく。
    そのことに気づいたのは、帰り道だった。

    昼休みは、思っていたより静かに終わっていた。

     
     
    日常を観察するエッセイを書いています。平日や生活の中にある、言葉にならない違和感をテーマにしています。 『笑える平日』原作者。 映像化はまだですが、妄想だけは順調です(笑)

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