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Photo byenjiro

あの時


    あらすじ

    今から20年くらい前。スマートフォンがなくて、ガラケーはまだガラパゴスになりきれてない時代。20歳の僕は1人の女の子に恋をした。
    40代になった僕は、東京駅で偶然その女の子に再開する。タイムリミットは、子供のお迎えまでの30分間。コーヒーを飲みながら、それぞれの視点で2人の出会いから振り返る。花火の思い出、アルバイト仲間の話、留学、就職活動、進路への不安、すれ違っていく2人。そして訪れる「あの時」。
    誰もが一度は経験しているであろう、若かき日の後悔と切ない片思いの物語。
    ※2025年に20年前を振り返るような内容です


    第一話 再会


    スマートフォンの写真アプリが、思い出の写真を通知する。春香は画面をタップして、写真を表示させた。
    日付は10年前の今日。学生時代のバイト仲間の結婚式の写真だった。
    あれからもう10年も経つのか。みんな元気にしてるかな。
    月日の立つ早さにも驚いた。日々の忙しさに追われて、もう連絡すら取っていない。
    高橋くん…もうお子さんもいるんだろうな。
    春香はスマートフォンをバッグに戻すと、短い昼休みを終え、デスクに戻った。
    ***************
    本社での打ち合わせを終えて、高橋はオフィスをあとにした。東京に来るのは年に2回。いつ来ても冬の寒さと人の多さには驚く。帰宅の新幹線の時間まで、どのくらいの余裕があるかー。
    確認しようとスマートフォンを手に取ると、写真アプリが思い出の写真を通知してきた。見ると、自分たちの結婚式の写真だった。結婚記念日は入籍の日と決めているから、結婚式が冬だった事を忘れていた。
    あれからもう10年も経つのかー。みんな元気にしているだろうか。
    スマートフォンを上着のポケットに戻すと、高橋は東京土産を買いに駅へと向かった。
    ****************
    16時になると、春香は即座にパソコンをシャットダウンした。
    3人目の育休取得後、時短勤務を選択した。小学校に上がったばかりの、上の子の宿題を見るためだ。
    「お先に失礼します。」
    春香は周囲に挨拶をすると、オフィスを後にした。そして足早に駅に向かう。
    なぜ毎日、こんなに時間に余裕がないんだろう…。
    朝のうちに、夕飯の味噌汁とサラダの準備はしてきてある。あとは卵焼きを焼いて、しらすご飯にでもすれば、朝食のようないつもの我が家の夕食だ。仕事に忙しい夫は、一緒に食卓を囲む事はない。
    夕食の事を考えながら、改札を通った時、
    「ハルちゃん?」
    誰かに声をかけられた。声の主は、目の前に立っている男性のようだ。突然昔の呼び名で呼ばれて、頭がフリーズする。
    しかし男性の目を見た瞬間、春香の口が自然と動いていた。
    「高橋くん?」
    その優しい目は、全く変わっていなかった。
    「やっぱりハルちゃんだよね?全然変わってないからすぐにわかったよ!久しぶりだね。いつ以来?」
    「変わってないって、、、!会ってない年数分の変化はあるでしょ。でも、お世辞でも嬉しいよ。ちょうどさっき、高橋くんの結婚式の写真見てて、懐かしいなと思ってたんだ。あの時以来じゃないかな。いやー、びっくりした。元気?東京出張?」
    「元気、元気。そうそう、東京出張。今から帰るところだよ。俺、まだ少し時間あるんだけど、ハルちゃん時間ない?その辺で少しお茶でも…。」
    「えーと…30分くらいなら大丈夫!あ、保育園と学童に、お迎えの時間少し遅くなるって連絡入れるね!」
    さっきまで時間に余裕がないとあんなに焦っていたのに、春香に断るという選択肢はなかった。全然変わらない高橋の優しい目が、春香の心を知り合った頃にタイムスリップさせていた。
    ****************
    その辺でお茶でもと言ったものの、駅構内のコーヒーショップはどこも混んでいた。それに春香には、席が空くのを待つ時間はないようだ。
    高橋は1番近くのコーヒーショップで、ホットのカフェラテを2つ買うと、春香の元に戻った。
    「はい。こんな機会ないから奢らせてね。ごめん、席空いてないからここでいい?保育園、大丈夫?」
    高橋はカフェラテを1つ春香に手渡した。春香は受け取りながら、答える。
    「ありがとうー!保育園、大丈夫だよ。アプリで連絡入れられるようになって、随分楽になった!」
    「よかった!あれ?子供何人いるの?さっき学童って言ってた?」
    「3人。小3、年中、2歳。もう毎日死にそう。下2人男の子だし。」
    「男の子も女の子もいるの?いいね!うちは女の子だけ2人。小1と、年中。」
    「姉妹いいじゃん!パパはメロメロでしょ?」
    「うん、そうだね。メロメロ(笑)。でも父親側からすると、ママも合わせて女チームになっちゃって、ちょっと寂しいんだよね。」
    高橋はカフェラテを一口飲む。自分が本当に寂しい表情にならないように誤魔化すためだ。
    「そういえば、さっき結婚式の写真見てたって言ってた?写真アプリが教えてくれるから?俺も今日ちょうど見てたわ。」
    「まさしくそう!あれから10年だってー!信じられない。そういえばさ、いつぶりって話もあるけど、高橋くんっていつからバイトにいたっけ?オープニングスタッフではなかったのは覚えてるんだけどー。」
    「えー、覚えてないの?大学2年の夏休みからだよ!」
    まさか春香があの時を覚えていないとはー。高橋は、初めて春香にあった日の事を思い出した。


    第二話 20歳の夏


    僕たちが出会ったのは、忘れもしない大学2年の夏休み。今からちょうど20年くらい前の事。
    今と違って、スマートフォンなんてない。でも1人一台携帯電話は持っていて、Eメールでやり取りする事はできた。だからメールアドレスの変更は一大事。アドレスに元カノの名前が入っていて、別れる度に変える人がいて「メールアドレス変更のお知らせ」のメールを一斉送信したりしてたっけ。
    ガラケーはまだガラパゴスになりきれてなくて、ガラケーなんて全然呼ばれてなかった。僕たちのように、携帯メールばかりする若者は「親指族」なんて呼ばれて「告白も別れも全て親指で」なんて川柳もあった。念のため意味を伝えると、これまでは告白も別れも会って直接話すことが大事とされていたのに、親指一本で書いたメールで済まされるようになってしまった、ということだ。この川柳を読んだ時切ない気持ちになったのをよく覚えているけど、物心ついた時から、画面に表示される文字でしかやり取りしていない令和世代には伝わらないかもしれない。因みに大人になった「親指族」には、未だにスマホのフリップ入力ができなくて「お」を入力するのに、あ行を5回タップしている人が多数いる。電車や街中で、是非とも探して欲しい。見つけたら、その人は若く見えても、きっと僕らと同じアラフォー、またはそれ以上の年齢だ。
    スマートフォンがないから、気軽にインターネット検索する事もできない。LINEもインスタグラムもない。Facebookはあったかもしれないけど、日本では断然mixi。マイミク申請お願いから始まって、自分のページに誰がきてくれたか、毎日足あとをチェックする。今のSNSとはちょっと違う、なんだか密なコミュニケーション。しかもそれを、携帯電話じゃなくてパソコンでチェックする。
    音楽はCDかMDで聴く。iPodを持ち始める人もいて、MDはこのくらいからだんだん見かけなくなっていく。
    それでも、まだまだ音楽プレイヤーの機械が必要だった。YouTubeや他のアプリで音楽を聴けるようになるのは、もう少し先の話。
    僕は大学進学を機に、静岡から上京した。大学1年の間は生活に慣れるのにいっぱいいっぱいで、アルバイトはほとんど出来なかった。
    大学2年の夏休み、生活にも慣れたし、お金もないし、大学の夏休みは長過ぎるし、何か始めようと思って、求人雑誌を見始めた。
    色々な求人があったけど、半年前にオープンした和定食メインのファミレスに目が止まった。1人暮らしには有難い、賄いが出るのだ。家からも大学からも程よい距離。バイクで行けば5分ちょっとというところだ。一般的なファミレスと違って、24時間営業でないのも体に優しい。
    早速電話をかけて、店長だという40歳くらいのふくよかな男性と面接。自分が入れる日、時間を聞かれて、即採用。23時閉店のお店で、22時以降入れるというのが良かったらしい。他のアルバイトは高校生が多く、22時までしか働けないからと店長が話してくれた。
    初出勤は、次の土曜日。アルバイトの子達が、みんなで花火大会に行くらしく、人手が足りないと店長が嘆いていた。会場の河川敷は徒歩15分ほどの距離で、花火大会が終わる21時過ぎに店が混雑する見込みだ。
    そして遂に初出勤の日が来た。18時から23時半の勤務で、30分の休憩時間に賄いを食べる予定だ。
    店に着いて、ユニフォームに着替えて、17:50にキッチンに入った。その時キッチンにいた男性4人に、店長が軽く紹介してくれた。3人がアルバイトで1人が正社員だそうだ。キッチンのアルバイトは、フリーター2人と高校生1人らしい。
    少しすると、18時上がりのフロアの女の子達がキッチンに入ってきた。これが噂の花火大会組の女子高生達かー。確かに若そうだ。入れ替えに、30代の主婦と思しき女性が入ってきて、女子高生達に明るく声をかける。
    「みんなで花火大会行くんでしょー?楽しんでおいで!」
    「ありがとう、佐藤さん!今日ごめんねー!」と、
    1人の女子高生が会話を続ける。
    「いいのよ、うちもうそんなに子供小さくないからさ、友達と花火大会行くって言うし、ごはん用意しなくていいからちょうど良かったよ!」
    「佐藤さん、みんなもちょうど良かった。今日から入る、そこの大学に通ってる高橋くんね。フロアメインで、軽くキッチンも手伝ってもらう予定。よろしくね。」
    店長が、女性たちの会話に割って入った。
    「高橋です。よろしくお願いします!」
    僕も慌てて続けた。
    「はーい、よろしくー!それではおつかれさまでしたー!」
    全然名前なんて覚えてなさそうな気配で、女子高生達は慌ただしく去って行った。何人かも思い出せないけど、3人くらいいたように思う。
    「高橋くん、助かったよ。私、佐藤、よろしくね。小中学生の子供がいるから、普段は土日も夜も入らないんだけど、今日は仕方ないね。多分21時過ぎから混んでくるから、それまでにハンディの使い方とか覚えちゃおうね。」
    「ありがとうございます。よろしくお願いします!」
    佐藤さんは、ハキハキとした話し方で、ハンディの使い方から、配膳、レジの使い方まで一通りの業務を教えてくれた。花火大会のおかげで、本当に空いていて助かった。いや、嵐の前の静かさか。80席ほどある店内に、客は6組ほどしかいない。夕飯時とは思えない。
    「高橋くん、空いているうちに賄い食べちゃって!」
    19:30を過ぎると店長に声を掛けられた。この日の賄いは、カレーだった。毎日正社員が作るらしい。1人暮らしでカレーは作らないから有難い。正社員は調理師の資格を持っているらしく味も確かだった。
    食べ終えて暫くは静けさの極みだったが、20:30を過ぎると、何も考えられない忙しさになった。気が付けば店外で待つ客が10組もいる。新人の自分が何を手伝えているのか、とにかく配膳と下げ膳に回り、僕が何かしらの質問に答えられないリスクを考慮して、佐藤さんと店長がオーダーとレジ対応をしてくれた。
    21:30を過ぎると、店員らしき女性が1人、キッチンに入ってきた。若く見えるけど、女子高生よりは落ち着いている。
    「おつかれさまです。やっぱり混んでますね。」
    「ハルちゃん、どうしたの!?花火大会は?」
    驚いた佐藤さんが声を上げる。女性はハルちゃんと言うらしい。
    「今日元々、21時から23時半で入ってましたよ。30分遅刻ですみません。」
    「おおー、ごめんごめん、佐藤さんに言いそびれてた!」
    店長が話に割って入った。
    「ハルちゃん遅くなってもいいなら入れるって言うから来てもらったのよ。そうしたら佐藤さんにも上がってもらえるし。」
    それにハルちゃんが続ける。
    「お子さん達、もう帰ってるでしょ?今のタイミングで帰っても大丈夫ですよ!あとは私やるんで!」
    落ち着いているが、明るさをうかがえた。感じのいい子だと思った。
    「大丈夫?でもハルちゃんがいれば百万力だ。お言葉に甘えて上がらせてもらおうかな。あ、そうだ。今日から大学生の高橋くんが入ったのよ。もしかして同じ年かな?高橋くん、何歳だっけ?」
    「あ、高橋です。よろしくお願いします!大学2年です。」
    急に話を振られて驚きつつも、なんとか会話に参加した。
    「あ、同い年だ。高岡春香です。よろしくお願いします。あとのフロアのバイトの子達はみんな高校生だから、遅くまで入れる人が来てくれて助かる!」
    それだけ言うと、ハルちゃんは満席のフロアに出て行った。チャキチャキして明るい子だと改めて思った。
    それを見届けると、佐藤さんが声を落として店長に話しかけた。
    「ハルちゃんが遅刻してくるなんて、珍しいね。また元カレかな?花火大会行ってたんじゃない?」
    店長も声を落として話す。
    「佐藤さん、詮索はよくないよ。遅刻しても来てくれて助かったし。」
    「これは詮索じゃなくて心配よ。ハルちゃん、いい子なんだからもったいないよ。いつまでも元カレに振り回されてて…。ま、今日はこのくらいにしておくわ。店長、今日はありがとうございました!お先に失礼します!」
    「はい!おつかれさま!佐藤さん、ありがとうね!」
    「お疲れ様でした!」
    と、キッチンにいた全員が佐藤さんに声を掛けた。
    そうか、ハルちゃんには元カレかもしれないけど、誰か相手がいるのかー。元々、実らない恋をするタイプではなかった。僕はハルちゃんへの気持ちに蓋をした。
    ****************
    あの時、自分の気持ちに正直に、ハルちゃんにそのまま好印象を抱いていたら、何か変わってたのかなー。
    高橋は一点を見つめながら、コーヒーをすすった。
    「ああ、思い出した!」
    突然、春香が楽しそうに話し始めた。
    「夏だった、夏だった!みんなで歓迎会とか言って、花火しに行ったよね!?」
    ****************
    私がアルバイトを始めたのは、大学1年の冬休み。自宅近くにファミレスがオープンして、オープニングスタッフを募集していた。大学生活にも慣れてきて、ちょうどアルバイトを始めたいと思っていた頃だった。
    それが今から20年くらい前の話。今のファミレスと何が違うかって、決定的に店員の数だ。各テーブルにオーダー用のタブレットなんてないから、オーダーは必ず店員が聞きに行かなければならないし、ロボットが配膳もしてくれない。セルフレジも存在しないから、会計も店員が必要。
    私達がアルバイトをしていたのは、チェーン店の和定食メインのファミレスで、席は80先ほどだった。今はどのくらいの店員の数で回るのかわからないけど、当時はキッチンとフロアを合わせて8人はいないと、店が回らなかった。だから、1人アルバイトが辞めれば、必ずアルバイトの募集がかかる。高橋くんが採用されたのは、オープニングスタッフとして働いていたアルバイトが1人辞めた後だった。
    8月の終わり頃、いつも通りタイムカードを押してキッチンに入ると、先に入っていた高校生のリエちゃんに話しかけられた。
    「高橋くんの歓迎会をできてなかったから、みんなでやろうよ!今は高橋くん、実家に帰ってるんだって。だから…来週の土曜日のバイト終わり、ハルちゃん、空いてる?」
    「23時半までだから、その後は当然空いてるけど、オールするの?」
    「オールはしないけど、中央公園で花火したいの!まだ今年一度もやってないからさー!」
    「それ、リエちゃんが花火したいだけじゃん!歓迎会ってみんなでごはん食べるのかと思ってたよ。まあ楽しそうだから行くけどさ!」
    「ごはん食べに行くのは、店長とキッチンメンバーで行ったみたいだし、まあいいかなって!じゃあ私たちは、先に上がって花火始めてるから、ハルちゃんは高橋くんと来てね!」
    了解と言ってから、私は仕事を始めた。
    この頃の私は、高校生の時に3ヶ月だけ付き合った元カレとダラダラと続いてしまっていた。自分で考えていても「別れた相手と続く」って何かと思う。別れているんだから何も続いていない、別れた時点で終わっているだろう。それが「ダラダラ」と続く?終わる?考えるだけでも暗くなる、言ってしまえば自分の中の黒歴史。できれば思い出したくない、そんな頃だった。
    高橋くんとは、何回か一緒にシフトに入って少し話した事があった。22時にフロアの女子高生達が退勤した後、店長が不在の時はキッチンの正社員と3人で残って、締め作業を行った。女子高生と違って、黙々と働くアルバイト、そんな印象だった。
    大学の夏休みは長い。大学のサークルに週に何回か行っていても時間が余る。黒歴史に、少しでも光が差せばと、花火は楽しみな予定になった。
    そして土曜日。いつも通り18時にタイムカードを押してキッチンに入ると、既にリエちゃんと高橋くんが入っていた。
    「おつかれー、今日は楽しみだね!」と、明るく声を掛けると、
    「うん、楽しみ楽しみー!」と、リエちゃんがノリノリで答えた。明るくて可愛い。妹みたいな存在だ。
    それから店は夕飯時を迎え、いつも通り混雑して、いつも通り21時半過ぎには空いて来た。リエちゃんは、ノリノリのままで、
    「上がったら、中央公園で真由子とノリちゃんと待ってるねー!」と言い、22時に上がって行った。真由子もノリちゃんも、アルバイト仲間の女子高生だ。
    その後は通常通り、キッチンの正社員と高橋くんの3人で業務をこなして、無事に23時半に退勤。着替えて店を出ると、高橋くんが待っていてくれた。
    「お疲れ様ー!リエちゃんたちが中央公園で待ってるから早く行こう!」
    と、声をかけると、
    「ごめん、その中央公園が分からなくてさ…」
    と、高橋くんが申し訳なさそうに答える。そうか地元住民の間では有名な「花火のできる中央公園」を、上京して来た高橋くんは知らなかったのだ。それに気が付かなくて、こちらこそ申し訳ない気持ちになった。
    「俺、バイクで来てて、後ろにハルちゃん乗せられるから、案内してもらえる?」
    高橋くんはそう言うと、ヘルメットを1つ私に投げた。うまい事キャッチして、
    「いいよ!帰りはまたここまで送ってね。自転車で帰りたいから!」
    と、私は元気よく答えた。
    早速乗せてもらって、夜の国道を走る。昼間は大渋滞の国道も、夜は空いているからスピードが出る。夏の夜風は気持ちいい。
    そんな事を考えていると、曲がり角のタイミングを間違えた。普段自転車しか乗らないから、頭がバイクのスピードについていけない。
    赤信号で止まって、
    「今、中央公園は右みたいな看板出てなかった?」と、高橋くんに聞かれる。
    「ごめん、バイクが速くて、曲がるタイミング見逃した!戻れる?」
    「うん、大丈夫!さっきのところ戻るね!」
    怒りもイライラもしないで、高橋くんが答えてくれて安心した。そうして、私たちが中央公園に到着したのは、0時近かった。
    「遅くなってごめんねー!」
    小走りで、リエちゃん達のところまで行く。
    女子高生だけでなく、キッチンで働く正孝くんと、高校生の長屋くんもいた。
    「遅いよー!もう花火だいたい終わっちゃったよ!」
    リエちゃんがクレームを言う。
    「ごめんごめん!てかさ、高橋くんの歓迎会なんだからとっておいてよー!」
    「いやいや、ちゃんとあるよ!今からでもやろう!」
    と、明るく答えてくれたのは、正孝くん。21歳のフリーターで、みんなをまとめてくれる。
    「高橋くん、これからもよろしくー!」と、
    正孝くんが言うと、シャーっと勢いよく3,4個の噴き出し花火に点火され、辺り一面に火花が散った。きれいよりも驚きが勝り、みんなキャーッと騒ぎながら離れて行く。
    「もーう、びっくりさせないでよー!」
    みんなが楽しそうに騒ぐ。
    「はははははは!本当びっくりな大歓迎!ありがとう!こちらこそよろしくー!」
    みんなの笑い声や、挨拶が夜の空に響く。
    「ようし、花火まだあるから、全部やっちゃおう!」と、真由子が声を掛け、みんなでまだ使い切ってない花火をそれぞれ点火し始めた。10分くらいは花火を楽しめただろうか…?雑談も交えながら、それぞれが思い思いに花火を楽しんだのも束の間、遠くから何やら声がする。しかもその声は走りながら近づいて来ているようだ。
    「公園の利用は、夜10時までです!速やかにそこを片付けて、出て行きなさい!」
    「やばい、警察?公園の警備員?高校生いるから、とにかく逃げないと…!」
    正孝くんが慌て出す。
    「片付けやっとくから、みんなはもう帰りな!今度また、明るいうちに集まろう!」
    「正孝さん、俺大学生だから残れます!とりあえず高校生達には帰ってもらって、俺らで片付けましょう。」
    高橋くんが正孝くんに声を掛けた。
    「きーみーたーちー!公園の利用時間はもう過ぎています!速やかに撤収しなさい!」
    人影がすぐそこまで近付いて来ている。もう時間はない。
    「みんな、帰りな。あとは片付けておくから、警備員の来る方と反対側の出口から出て!」
    私もリエちゃんたちに声をかけた。
    「ありがとう!また今度ね。」
    「お疲れ様、正孝くん、ありがとう!高橋くん、今後もよろしくね。」
    高校生達は口々にお礼を言い、走って出口に逃げて行った。
    「よし、片付けよう!」
    正孝くんが言い、高橋くんと私の3人で一斉に片付けを始めた。
    走って来ていた警備員が私たちのところに到着した。息を切らしている。
    「君たち、高校生?大学生?数人、走って逃げて行ったように見えたけど…仲間か?」
    正孝くんが冷静に答える。
    「フリーターと学生です。逃げて行った人たちは、別グループなので誰だかわかりません。」
    「そうか、あっちの子達も追わなきゃな。今後は22時までの公園利用を守るように。あと全部、片付けてから帰りなさい。」
    もういいと言うように、警備員は高校生達が走って行った方に、進み始めた。
    「あ!ゴミって、公園のゴミ箱に捨てていいですよね?」
    正孝くんが警備員を引き留める。今行かれると、高校生達が捕まってしまうからだ。
    「だめだよ。花火のゴミは自宅に持ち帰って処分しなさい。」
    「あ!懐中電灯を一瞬、お借りできますか?ライターを1本なくしてしまったようで…」
    高橋くんも慌てて、警備員を呼び止める。
    「ライターは放置して欲しくないな。ほら、照らしてあげるから、その間に探して、他のゴミも片付けなさい。」
    警備員は足を止め、懐中電灯で辺りを照らした。ほとんどの手持ち花火は、水の入ったバケツに片付けられていたが、吹き出し花火など置き型の花火が、まだあちらこちらに散乱していた。このまま、片付けで時間を稼ごう。3人は互いに口に出すわけでもなく、丁寧に片付けを始めた。
    5分は稼げただろうか。ライターをなくした認識はなかったが、実際に落ちていたものを拾い、自分たちが散らかした花火は全てきれいに片付いた。
    「はい。きれいになったね。じゃあ私は公園の反対側の見回りに行くから、気を付けて帰りなさい。」
    警備員の口調は穏やかだった。大人はだいたいそうだ。こちらが虚偽の発言や隠蔽工作をせず、面と向かって正直に事情を話したり、謝ったりすれば優しいのだ。今回に限れば「隠蔽工作」はしてしまったが、バレてないから大丈夫だった。
    「ありがとうございました。今度は夜10時までに花火をやりに来ます!」
    正孝くんがお礼を言って、警備員は去って行った。警備員の背中が暗闇に消えるのを確認すると、私達も公園の出口に向かいながら話し始めた。
    「リエちゃんたち、大丈夫だったよね?」
    「さすがに追いついてないでしょう。ハルちゃん、ここまで自転車できたの?」
    正孝くんに聞かれる。
    「ううん。高橋くんが道が分からないって言うから、バイクに乗せてもらって来たの。だからまたバイクでお店まで乗せてもらって、それから自分の自転車で帰るよ。」
    「そうか、ならよかった。ハルちゃんの家からだと少し遠いでしょ。俺も今日バイクだから良かったら乗せようと思っただけ。高橋くん、姫をよろしく。」
    「姫って…!」
    私は思わず赤面して、正孝くんを叩く。
    「はははは。ご心配なく。姫をお預かりしますよ。残念ながらお城までじゃなくて、お店までですが。」
    高橋くんも話に乗っかる。
    「もーう。なんなのよー。いつもはもっと若い子達がいるからね、こんな姫扱いされる事ないわ!」
    3人で笑いながら公園を出て、それぞれバイクに乗って帰って行った。
    高橋くんの背中はほっとするな、そんな事を考えながら夜の国道を、バイクの後ろに乗って走り抜けた。
    ****************
    あの時、高橋くんの優しい背中を忘れずに過ごしていたら、何か変わっていたのかな…。
    春香はコーヒーを片手に考えた。
    「覚えてるよ!最後警備員に追いかけられちゃって、バタバタだったよね!」
    高橋が思い出しながら笑った。
    「ねー、ひどいもんだったよ。」
    春香も一緒になって笑った。
    笑い終えると、高橋は少し寂しげな表情を浮かべながら言った。
    「今の若い子達だったらさ、どこかに行けないから道案内して、なんて言わないんだろうね?Googleマップがあればどこにでも行ける時代になったよ。」
    「確かにそうだね。初めて行くところって、紙の地図見ながら行ってたのかな?自分がどうやって目的地に辿り着いてたのか思い出せないや。それでもさ、20年前でも携帯があったから、なんとなく時間と場所決めてれば後は連絡取り合って絶対会えたよね。今は道に迷う事すらないのかー。」
    「中央公園まで道案内して」と、高橋が言い出さなければ、2人で夜の国道をバイクで走った時間はなかった。今の時代では、作り出せなかったかもしれない。20歳の夏の思い出は、東京駅を行き交う人々の喧騒の中に消えていった。


    第三話 20歳の冬


    「クリスマスに変な客が来た事あったよね?」
    高橋が思い出しながら言った。
    「えー?あったっけ?クリスマスはひたすら空いてた記憶しかないなぁ。」
    春香はボンヤリとしている。
    あの時のこと、覚えてないのかー。

    高橋は20歳のクリスマスの日を思い出した。
    ***************
    「クリスマスにファミレスに来るかな?大人ならもう少しいいお店に行くだろうし、ファミリーならお家でお祝い。若者グループにはカラオケのパーティルームは人気で、あと意外とマックは混むらしい。でもうちに来る客がいるとしたら、クリスマスが理由じゃなくて、ただ普段通りご飯食べたいってだけだろうね。」
    12月24日、世はクリスマスイブ。僕はアルバイトに入っていた。店長の見通し通り、店内は空いていて、暇だからかおしゃべりが止まらない。
    「例えば、ここが東京ドームの近くでさ、クリスマスコンサートがドームで開催されてれば話は別だけどね。ここの周りには学校と家しかないじゃんね。こういう店舗は普段使いにはいいけど、特別な日には混まないよ。和定食しかないし。」
    店長はそう嘆くと、キッチンに入って行った。
    夏にアルバイトを始めて、半年近くが経っていた。最初は業務に慣れるのにいっぱいいっぱいで「黙々と働く高橋」という印象だっただろう。
    今は業務に慣れて、雑談する余裕も出てきた。
    キッチンには、正孝さんと長屋の他にもう1人フリーターの山崎さんという男性がいる。夢を追う24歳のバンドマンだ。花火大会の日は、山崎さんも夜のシフトに入っていたけど、普段はあまり夜は入らず専らバンド活動をしているらしい。たまに夜のシフトに入っている時に、今流行りのバンドの話を聞かせてくれる。
    正孝さんは、下関の漁師の家に生まれ、18歳で漁師になったものの、アメリカをハーレーで横断したいという夢を叶えるべく、家を飛び出して来たらしい。どこまで本当の話なのか、疑いたくもなるけど、下関出身である事と、アメリカ横断のための資金集めでアルバイトをしているのは事実らしい。学生時代から英語だけは得意だったと言い、子供向けの英会話教室でもアルバイトをしている。僕もバイクが好きだから、単車仲間として話があった。
    リエちゃんと真由子とノリちゃんは、同じ中学校を卒業していて、それぞれ別の学校に通っている高校2年生。中学ではクラスも部活も違ったから、たまたまアルバイトが一緒で驚いたらしいが、今では仲良し過ぎて、会話に入る隙もない。
    リエちゃんが天真爛漫な妹的な存在で、中学の時もモテたらしい。そんなリエちゃんを密かに好きなのが、同じく高校2年生の長屋だ。一度振られてるらしいから、密かでもないか。長屋は、小中と野球一筋の真面目な少年だったのが、怪我を機に部活を辞め、気分転換にアルバイトを始めたらしい。部活を辞めた今も日焼けした坊主頭で、キャッチボール程度は続けているらしい。アルバイト内で恋の矢印があるのはそこだけで、他はみんなそれぞれに相手がいたりいなかったり。
    ハルちゃんは、都外の大学に2時間近くかけて通っていることがわかった。17時から22時のアルバイト求人が多い中で、この店は18時から入れるから助かったと言っていた。17時には帰宅できないらしい。
    ハルちゃんは、テキパキと業務をこなして、本当に時間がある時に少し雑談に交じる程度。基本的には働き者で、サボることが全然ない子だった。
    会話してても、明るさや前向きな性格が伝わって来て、仕事は丁寧だけど、細かいことは気にしない性格で、すぐに打ち解けることができた。
    大学以外に友達ができた事は心強かった。とりわけ、女子学生がほとんどいない機械工学科に進んだ僕は、大学では女友達が1人もいなかった。女の子が話す内容を聞くたびに、世界が少し広がった気もしていた。
    「あ、高橋くん。」
    僕がテーブルを拭いていると、店長がキッチンから戻って来た。
    「俺、彼女いないから。」
    「え?え?あ、はい。そうなんですね。」
    だいたい気がついてたけど、改めて言われて拍子抜けしてしまった。
    「今、43歳なんだけど、最後に彼女がいたのは今から8年くらい前だね。だからクリスマスの夜でも仕事、問題ないから。心配しないでね!」
    それだけ言うと、店長はまたキッチンに戻っていった。なんなんだもうー。
    店長は、40代だということはなんとなく気づいていたが、ここで43歳であることがちゃんと分かった。優しいし、クレーマーが来た時の神対応に尊敬するけど、飲食業界は時間も不規則だし、なかなかいい相手に巡り会えないのかもしれない。
    店には、店長の他にキッチン専属で正社員の五十嵐さんがいる。彼は、商品開発にも携わった事があるというベテランで、ゆくゆくは本社に返り咲く事を望んでるという噂で、あまりアルバイトと絡む事はなかった。それでも勤務していて嫌な思いはした事がないし、五十嵐さんの作る賄いは本当においしかった。
    他にも平日の昼間のパートの方や、キッチンのメンバーがいて、全員で15人くらいのメンバーでシフトが組まれていた。
    さて、混雑もせず平和だったクリスマスイブが過ぎ、翌日はクリスマス。僕は年末の12月28日から実家に帰る予定で、少し稼いでおく必要もあったから、クリスマスは連日出勤した。
    いつも通りタイムカードを押して暫くすると、
    「お疲れ様でーす!」
    と、ハルちゃんが入って来た。
    「お疲れ様、今日入ってたんだね?」
    「うんそう。クリスマスだけど、そんな予定もないし。昨日もシフト希望してたんだけど入れてもらえなかったんだよね。店長が混まないと思うから人数減らしたいって!」
    「そうだったんだ!確かに人数は減らしたって店長言ってたわ。」
    「ねー。ひどいでしょ。でも高橋くんは年末年始実家に帰るんだもんね?その時稼ぐからいいよ!昨日は姉とMステスーパーライブ見て、なかなか楽しいイブだったしねー。」
    「いいじゃん、それ理想のクリスマスだよ!」
    「下手に出かけてもどこも混んでるし、実家だと母親もそれなりにご馳走作ってくれるし、確かに理想の過ごし方できたかも!」
    「学校はいつまで?俺は今日最後だったんだ。年明けからテストだから冬休みも油断しないで勉強しないと。」
    「私は昨日までだった!本当年明けのテストは気が重いねー。」
    一通り話し終えると、2人でフロアに出て行った。今日も空いてそうでホッとする。
    この日は店長は休みでキッチンの五十嵐さんと3人体制だった。ハルちゃんと交代で賄いを食べ終えて、20時を過ぎた頃だったと思う。ハルちゃんがレジで、食事を終えた30代と思われる男性客の会計の対応をしていた。僕は空いた席を片付けていた。
    「あ、ゴキブリ。」
    男性客が、床を指差して呟いた。
    「ぎゃー!!!」
    と、ハルちゃんが悲鳴を上がるが、ゴキブリはどこにもいない。落ち着きを取り戻し、ハルちゃんは会計を進める。
    「お会計は、1575円です。」
    「あ、こっちもゴキブリ。」
    男性客は、金を財布から出す仕草をしながら、また呟いた。やっぱりどこにもゴキブリはいない。ハルちゃんも今度は動じずに、支払いを待っている。「ねーねー、聞いてる?ゴキブリ。この店でも出るでしょ?」
    「当店ではそのようなものは出たことがございません。」
    「うっそー?ゴキブリ出ない店ある?絶対一回は出てるでしょ?お姉さんが見たことないだけじゃないの?」
    「出ません。お会計は、1575円です。」
    「絶対嘘だよー。他のお客さんも見てるんじゃないの?」
    男性客は声を大きくして辺りを見回しながら言った。客は他に、2組しかいない。
    そして「なんだよ。」
    と呟き、誰の賛同も得られないまま、雑に千円札を2枚、レジの前に置いた。
    「2000円お預かり致します。425円のおつりでございます。ありがとうございました。またお越しくださいませ。」
    ハルちゃんが冷静に会計を続け、釣りを返した。
    「まあいいわ、また今度来た時は正直に話せよ、ゴキブリ出たか。」
    男性客は釣りを受け取ると、そう言い残し去って行った。
    五十嵐さんがキッチンから出て来た。騒ぎになったわけではないが、何か問題のある客が来た事を察したようだった。
    次に別グループの会計が入り、ハルちゃんが連続して対応した。
    「お会計は別々になさいますか?」
    「一緒でいいよ。さっきのお客さん、変な人だったね。」
    40代くらいの主婦のグループだった。代表で支払いをしている女性客が、ハルちゃんに優しく話しかけたのが聞こえた。子育てはひと段落ついているだろう世代で、クリスマスだからと一息つきに来てくれたのだろう。
    「ありがとうございます。お客様にも嫌な思いをさせてしまい、申し訳ございません。」
    「ううん、大丈夫。明らかに変な人だったしね。気にしないでね。」
    「ありがとうございます。救われます…。」
    女性客の優しさに、ハルちゃんが涙ぐんでいるように見えた。
    僕はと言えば、ただただテーブルの片付けをしていただけで、あんな風に優しく声を掛けることもできなかった。
    客の対応が一通り済むと、ハルちゃんがキッチンに入って、五十嵐さんと話しているようだった。会話はフロアまで聞こえなかったが、きっと五十嵐さんは優しくフォローしてくれただろう。

    ***************
    あの時、ハルちゃんの前に立って何かできていたら、彼女の記憶に鮮明に残る話になったのかなー。高橋は改めて、当時のヘタレな自分を恥じた。怖かったわけではないが、かと言ってこの件については、変な客だったねーと話すに終わった。
    店長みたいに神対応ができなくとも、その後に来た女性客のように優しい言葉をかけることもできたはずだ。彼女を守ることも、励ますこともできなかった。

    「ああ、あったかも。ゴキブリおじさん。せっかく空いてて、のんびり仕事してたのにって、残念な気持ちになったよね。」
    春香は少し記憶が甦ったのか、高橋に話を合わせてくれた。
    あの時、何もできなくてごめんー。と高橋が口をつきそうになったところで、
    「変な客といえば、思い出したくもない私の元カレも変な客だったんじゃん?一回来たことあったよね?」
    と、春香が続けた。
    「ああ、それもよく覚えてるわー。」
    と、高橋は俯いて答えた。
    春香は成人式の日を思い出していた。
    ***************
    今は成人が18歳になったけど、私たちが20歳の頃は、20歳で成人だった。20歳で選挙権を待ち、20歳からクレジットカードが作れる。携帯電話も、20歳を過ぎたら自分名義で契約できるようになって、少し楽になったのを覚えている。
    それでもまだ学生だったから、アルバイトをしてても親の扶養に入っていたし、学費は親が払ってくれているし、自立には程遠い。成人して何が違うと言えば、外で堂々とお酒が飲めるようになったことだろう。
    今でも身体の発達を鑑みて、飲酒は20歳を過ぎてからという法律は変えないと聞いた。「成人式」ではなくて「20歳の祝いの場」など、各自治体で名称を変えて、20歳を祝う場が設けられているともニュースで見た。
    まだ法律が変わったばかりとは言え、やはり20歳が1つの節目で、お酒を飲める年齢になったと、お祝いするに相応しい年齢な気がしてならない。あと数年したら、20歳でなくて18歳を祝う場がどんどん増えてくるのかもしれない。その場合は、みんなお酒ではなくてジュースで乾杯するのか。18歳の高校三年生だと、1月の成人の日は受験真っ只中で、それどころではないんだろうけど…。
    卒業しても中学の時の友達とは、仲も良く関係も続いていて、大学の友達よりも遊ぶ機会が多かった。だから、私にとっては成人式は「再会の場」というよりも、いつも遊んでいる友達と、晴れ着姿で会う日だった。
    成人式の日は、式典のあとは同窓会など何も予定がなかった。それぞれが仲の良かった友達と繋がっているからいい、そんな淡白な学年だったのかもしれない。
    式典が終わると、私は普段お世話になっている店長達に晴れ着姿をみせようと、アルバイト先の店に向かった。店までは、父親が車を出してくれた。
    店に着くと、店長とリエちゃん、真由子が出迎えてくれた。
    「おお!来てくれたんだ!改めておめでとう。大人の仲間入りだね。」
    店長に言われる。
    「ありがとうございます!これからもバイトがんばります!」
    「ハルちゃん、可愛いー!」
    「私たちも3年後、着るんだねー!今から楽しみだよ。」
    リエちゃん達が次々に言う。
    「ありがとう!2人の時は私もう社会人だなぁ。楽しみにしてるよ!」
    晴れ着姿で写真を撮って、一通り挨拶を終えて帰ろうとして、思い出した。
    「店長、私今日18時から入ってますよね?」
    同窓会がなくて良かった。何も考えずにシフトを希望してしまっていた。
    「ああ!入ってるよ!でも、予定あるなら大丈夫だよ!今日は高橋くんが来るから、なんとかなるだろうし。」
    「いえいえ、行きまーす!まず普通の服に戻ってきますね!」
    みんなに元気に挨拶をして、父親のいる車に戻った。着物はレンタルではなくて、従姉妹から借りたもので、私の姉が20歳の時にも着たものだった。レンタルではないから、このまま自宅に帰って、母親に手伝ってもらって脱ぐだけだ。
    帰宅して着物を脱いでると、母が言った。
    「春香、疲れてるんじゃない?バイト今日はやめたら?」
    「大丈夫だよ。今日は予定ないしさ。明日は学校だけどバイトないし。」
    「そう?着付けが朝早かったから疲れてると思うけど。まあ無理しないでね。」
    「ありがとう。今から少し昼寝でもしようかなー。」
    「それがいいかもね。」
    晴れ着からパジャマに着替えて、少し横になった。髪の毛がスプレーでガチガチに固められているけど、朝が早かった事もあって少し眠る事ができた。成人式の後にアルバイトに行くことについて、何も考えてなかった。髪の毛、どうしよう?今からお風呂入るのも面倒だから、このままでいいか。飾りが付いてないからそこまで変じゃないだろう。
    パジャマから着替えて、髪の毛とメイクはそのままで、私は家を出た。
    店に着くと、いつも通りユニフォームに着替えて、キッチンからフロアに出る。
    「おつかれさま!」
    「ハルちゃん、昼間は可愛かったよ!」
    リエちゃんが出迎えてくれた。今日はリエちゃんが昼から夜のシフトらしい。
    「ありがとう!髪の毛だけこのままになっちゃった。」
    「いいじゃん、かわいいよ!ね、高橋くん?」
    急に話を振られて、高橋くんはキョトンとしている。
    「え、あ、うん、かわいいよ!今日成人式だったの?うちの実家の方は、上京組も多いから正月にやるからさ。」
    「そうなんだ!かわいいって無理して言わなくてもいいよ!正孝くんが調理終わったら見せてこよう!」
    と言って、私はキッチンに戻った。昼間はいなかった正孝くんと、五十嵐さんと山崎さんが働いていた。店長は上がったらしい。
    「おお、ハルちゃん。成人おめでとう。女の子はいいよね。男はスーツ着ても袴着ても、そんなかわいい髪型にはならないからさ!」
    「ありがとうございます!って髪型いじってる?」
    「いじってない、いじってない。去年の話だけど、俺バタバタしてて行かなかったからさ。改めてこういうの、髪型だけでも見るといいなと思って。行った方が親孝行だったかなーなんてね。」
    「そうか、去年はお店もオープンしたてで忙しかったしね。」
    正孝くんが、漁師の父親と喧嘩して上京した事を思い出した。連絡は取っているようだけど、上京してからは1度も帰ってないんじゃないだろうか。もし自分のことがきっかけで、正孝くんに帰省を促せたなら、そんな嬉しいことはない。
    一通り話し終えると、私はフロアに出た。
    成人の日は祝日だけあって、昼間も夜も混雑した。それでも20時半を過ぎると、翌日が週初めということもあり落ち着いてきた。
    21時になると、
    「店長が21時には空くだろうって。だから21時までなんだ。予想当たって良かったよ。おつかれー!」と、リエちゃんが言って元気に上がって行った。
    しばらくすると、1人の男性客が入ってきて、私に話しかけた。
    「春香、なんで同窓会来なかったの?」
    「健太、、、何してるの?」
    「同窓会に春香が来なかったから、二次会は行かないで帰ってきた。きっとここにいると思って!大丈夫、デザートくらい食べて行くよ。」
    「では、こちらのテーブルにご案内します。」
    私は平然を装って、健太を案内した。
    健太は、私の中学校の同級生で、高校2年の時に3ヶ月だけ付き合った「元カレ」だ。中学卒業後、一度も会っていなかったが、たまたま近所のショッピングセンターで再会して、連絡先を交換した。メールのやり取りを頻繁にする、言わばメル友みたいな関係が続き、中学生の時にお互いに両思いだったことも判明して、大盛り上がりの末に付き合い始めた。ところが付き合う前に盛り上がりすぎたのか、別れを迎えるのは早かった。健太に同じ高校で好きな女の子ができてしまったのだ。
    私は自分で言うのもなんだが、しっかり者の女で、健太は甘えん坊な無邪気な男、相性はなかなか良かったと思うんだけどな…。
    そんなことを考えながらも、別れてから2年は会わずに過ごしていた。それが去年、たまたま再会してしまい、それからは数ヶ月に一度会うという、不思議な関係に発展しまったのだ。これが、私が思い出したくない「黒歴史」である「ダラダラと続く」関係だ。
    「ご注文はお決まりですか?」
    少し時間をおいて、私は健太にたずねた。
    「うん、決まった。チョコレートパフェで。それでなんで同窓会来なかったの?」
    「私のところには案内が来なかったよ。学年単位じゃなくて、クラス単位でやったんじゃないの?」
    すると、健太は上着のポケットからくちゃくちゃになった紙を出してテーブルに広げて見せた。
    「あー、本当だ。3-1の同窓会って書いてある!春香は、5組だったよね?だからかー。いないから迎えに来ちゃったじゃん。」
    「だから、食べたら帰りな。私今日も締め作業があるの。帰り遅いから。」
    私はオーダーだけ取ると、健太のテーブルを去った。高橋くんや正孝くんが見ているかもしれないと思うと変に緊張した。不倫でもないし、悪いことをしているわけではない。でもなんと説明したら良いか分からない関係だから、胸がザワザワする。おまけに、佐藤さんやリエちゃんたちに、元カレに振り回されていると話してしまっている。2人はどこまで話を聞いているか分からないが、何かしらの情報は耳に入っているはずだ。
    私はキッチンにオーダーを伝えに行った。
    「友達が来たの?」
    正孝くんが聞いてきた。何も勘繰っていない、純粋な質問である事が、彼の目から分かった。
    「うん。中学の同級生。」
    私はそれ以上言えなかった。まずい、うまく目が合わせられない…。
    「そう。じゃあチョコレート多めにしちゃおうかな。」
    正孝くんは、何かを察したようだけど、何も聞かないでくれた。ささっとチョコレートパフェを作ってくれ、私はそれを健太のもとに運んだ。
    「お待たせしました。」
    「わーあ!写真よりおいしそう!こんなこともあるんだね。いただきまーす。」
    健太が食べ始めるのを見届けると、私はテーブルから離れようとした。すると、
    「今日式典には行ったの?すごい探したけど会えなかったじゃん。振袖、見たかったな。まあその髪型見れただけでもいいか。」
    と、健太が話を続けた。
    「式典には行ったよ。いつものバド部のみんなと。あれだけの人数だったから、会えなかったのは仕方ないでしょ。」
    「昨日もメールしたけど返してくれないし。何か怒ってるの?」
    健太が口を尖らせつつも、おいしそうにパフェを頬張る。ダメだ、それを可愛いと思ってしまっては…。
    「今日振袖の着付けが朝早かったから、昨日の夜はもう寝てただけ。今日は朝から忙しかったから、タイミングなくて返せなかっただけだよ。」
    「怒ってないなら良かった。俺、これ食べたら帰るから、またメールするね。」
    わかった…とは返事をせずに、健太から離れた。またいつものパターンだ。自分が寂しい時だけやって来て、用が済んだら去って行く。何回か会ったら、次に会うのは数ヶ月先なんだ。
    健太は言った通り、パフェを食べたら帰って行った。ただ来たのも遅くて、私とも話してダラダラしていたから、22時上がりの正孝くんはもういなかった。
    正孝くんには、今度健太のことをちゃんと話しておこうかな…。そんなことを考えつつも、残りの時間は高橋くんと五十嵐さんと黙々と働いて、予定通り23時半に上がった。
    ロッカーで着替えて店の外に出ると、高橋くんが自分のバイクの前に立っているのが見えた。今日全然話せなかったし、成人式の話とか、少ししてから帰ろうかな…。
    高橋くんに声を掛けようと進むと、突然、
    「わーっ!」
    という叫び声と共に肩を叩かれた。
    「!?!?!?健太!?!?!?」
    「へへー!びっくりした?駅前ぶらぶらしてたら、もう春香のバイト終わる時間じゃんね。迎えに来たよ!」
    「いやー、もうびっくりさせないでよ!暗いから流石に怖いよ!」
    胸のドキドキが止まない。
    その時、高橋くんがバイクのエンジンをかける音がした。もう帰るのだ。
    この状態で無言で別れるほど気まずいことはない。多分、私よりずっと高橋くんの方が気まずいはずだ。私は挨拶だけでもと、なんとか声を掛けた。
    「高橋くん!おつかれさま!」
    「ハルちゃんも、お疲れ様!気を付けてね。」
    高橋くんはそれだけ言うと、バイクに跨って去って行った。
    私は、やっぱりダメだった。そのまま健太のペースに押されて、夜の街に溶けて行った。
    ***************
    あの時、健太への思いを断ち切って、高橋くんとバイクの前で話していたら、何か変わっていたのかな。
    気持ちを引きずるのは仕方ないとしても、関係を引きずるのは間違っていた。恋愛ではどうしても好きになった方が負けだ。普段の自分の性格からは想像もつかないくらい、健太のことだけはサバサバとさばくことができなかった。
    「成人式の日かな?イチャイチャしてたから覚えてるよ。」
    高橋は笑いながら言った。
    「イチャイチャって…若かったなぁとは思うよ。」
    春香は恥ずかしさを誤魔化すために、コーヒーを握りしめた。
    高橋も、あの時自分が1番気まずかった事を思い出し、コーヒーを握った。
    2人は、コーヒーの湯気の影をぼんやりと見つめながら微笑んだ。それぞれが、何かを誤魔化すような笑だった。時代では作り出せなかったかもしれない。
    20歳の夏の思い出は、東京駅を行き交う人々の喧騒の中に消えていった。


    第四話 21歳の夏


    高橋が春香の元カレを見たのは、成人式の日だけではなかった。でも、高橋が2回目に元カレを見たことを、春香は気づいてないし、とても高橋から口に出して言えるシチュエーションでもなかった。
    「バイト始めて、2回目の花火大会の日も、空いてて助かったのはよく覚えてるよ。」
    高橋が話し始めた。その日に春香と元カレが一緒にいるところを見てしまったことは、今でも言うつもりはないー。
    ***************
    「高橋くんって、みんなが絶対に入りたくないって日に入ってくれて助かるよ。」
    花火大会の日、店長に話しかけられた。店が暇な日の店長は、おしゃべりが止まらない。
    「今日、花火大会だからですか?正直見てみたい気持ちはあるんですよ。せっかくこんなに近所に住んでるし。ただ、忘れてただけで。」
    僕は思わず苦笑いをした。
    「ちゃんとポスター見ないとダメだよ。あ、うちの店に貼れって話か!」
    と言って、店長はガハハと笑った。
    世の中では、ちょうどインターネット上の掲示板が出てきた頃だった。今の若い子達が見たら驚くような、動画も画像も一切ないただの文字の羅列の掲示板だ。
    でも僕が見なければならなかったのは、インターネットの掲示板じゃなくて、街中の物理的に紙が貼られている掲示板の方だ。この頃はまだ、インターネットにイベント情報を掲載する習慣はなかったんじゃないかと思う。技術的には可能でも、みんなもインターネットで検索する習慣がなかった頃だ。それよりも、チラシやポスターを作って、どこかに貼って宣伝する方が効果的、まだまだ紙媒体が必要な時代だった。
    確かに、店に貼っておいてくれたら、僕だってシフトの希望を出さないで花火大会に行けたのに、と店長を恨んだ。
    この頃の僕は、アルバイトの人達と完全に打ち解けていた。休みの日にみんなでボーリングやカラオケに行くこともあった。
    残念なのは、高校生の長屋がこの夏を持って、受験勉強に専念するために辞めてしまったことだ。長く野球をやってきたことから、スポーツ医療の専門学校に進学するのだそうだ。
    リエちゃんも真由子もノリちゃんも、同じく受験生のはずだが、この子達は面接だけで合否が決まる専門学校に進学するとの事で、アルバイトは辞めないと言っていた。
    長屋が辞めるとすぐに、大学1年生の男の子が入ってきた。原山くんという彼は、長身でクッキリ二重のイケメンで、女子高生たちがキャーキャー言っていたが、恋人いることが分かると、あっさりとしたものだった。
    原山くんがこれまでのアルバイトの面子と違うのは、恋人がいるからという理由で、僕たちとの集まりには一切来ないところだ。正孝さんやリエちゃんも、それぞれ恋人がいた時期もあるけど、僕たちと一緒に遊んでいた。恋人によっては異性がいる集まりに参加できなくなる場合もあるのだと、原山くんから学んだ。
    僕はといえば、気にしないようにしていたが、アルバイト当初から、佐藤さんや女子高生たちに「ハルちゃんはどうだ?変な元カレに振り回されてるから、早く付き合ってほしい」と言われ続けているが、ハルちゃんとは何も変わらずに友人関係が続いている。
    好きか嫌いかと聞かれたら、当然好きではあるんだけど、半年前に元カレといるところを見て以来、完全に自分の入る隙がない事を悟ってしまったから、どんなにオススメされても相手都合で無理なんです、と答えざるを得なかった。元カレといるのを見たなんて言ったら炎上するだろうから、それだけは言えなかったけどー。
    「去年、20時半くらいからどっと混んだじゃない?
    だから今日もハルちゃんが20時半から来てくれて、
    ノリちゃんと真由子も応援に来てくれるって。みんな昼間も入ってくれたし、今日は俺のつけでパフェでも出そうかと思うよ。」
    店長もこの店の混雑予想ができるようになり、安定した経営ができているようだった。無理して働いてくれたお礼にパフェを奢る、というのも、安定した経営手法の1つだろう。従業員への感謝も忘れないこと。客への接し方だけでなく、店長から学ぶものは多かった。
    店は予想通り、20時半過ぎから大混雑を迎えた。でも救世主の3人が時間ピッタリに来てくれて、テキパキと客を捌いてくれた。どうやら、今年はこの3人で花火大会に行き、終わりまでは見ずに少し前に引き上げてくれたらしい。リエちゃんがいないところを見ると、リエちゃんは恋人と行ったのだろう。花火大会の間は店も空いているから、花火大会に行っててもなんら問題ない。むしろその時間分の賃金を支払わなくて済むし、3人も花火大会を楽しめるし、まさにウィンウィンの体制だった。
    普段だと22時にはほとんど客足が引くのだが、この日は22時を過ぎても、8割の席が埋まってる状況だった。
    「本当にすごい混むねー!私たち上がらなきゃだけど、大丈夫かな?」
    真由子が心配そうに聞いてきた。
    「大丈夫!もうほとんどのお客さんのオーダーは取ったし、これ以上はお客さん増えないから!今日楽しかったし、まさか花火大会後もこんなにガッツリ働くと思ってなかったよ。ありがとうね!お疲れ様!」
    ハルちゃんが明るく答える。その声から、本当に充実した1日だった事がうかがえる。
    「お疲れ様!ハルちゃんありがとうね。高橋くんもお疲れ様!去年シフト入らなかったの申し訳なかったと反省したよ。また来年もこのプランでいいかも!」
    ノリちゃんも楽しそうに言う。
    「みんな遅くまで本当にありがとうね。時間が許すなら、俺の差し入れ食べてって!親御さんも心配するだろうから、帰ってから食べるのでも大丈夫!蓋ついてるやつにしたよ。」
    店長が皿を片付けながら声をかけた。
    「店長ありがとうございます!」
    真由子とノリちゃんは声を揃えて言い、2人でタイムカードを切ると、店長の差し入れのパフェを嬉しそうに食べてから帰って行った。
    22時半のラストオーダーを迎えると、店内は少しずつ落ち着いてきた。客側も閉店の時間を察し、どんどん引き上げていくから、今度は会計がひっきりなしに来る。ハルちゃんがテンポよく捌いていき、遂に閉店時間を迎えた。
    最後の客を見送ると、やり切ったと感じたのか、ハルちゃんがハイタッチしてきた。スポーツ以外でハイタッチをする事もあるのだ。
    ハルちゃんはキッチンにいた、正孝さんと原山くんにもハイタッチをしてから、フロアに戻ってきて、
    「おつかれー!でもまだ締め作業が残ってるね。パパッと終わらせて帰ろっかー!」
    と声を掛けてくれた。正直とても疲れていたが、ハルちゃんの明るさに救われた。
    片付けながら、花火大会がどんなものか聞いてみた。
    「どんな感じって聞かれても、普通の花火大会だよ。河川敷で座って見れるから、私はこの花火大会が1番好きだな。都内だと隅田川が有名だけど、あそこ多分河川敷じゃないよね?私が好きな花火の見方じゃないんだよね。」
    「確かに俺の地元も、河川敷でのんびり見るタイプの花火大会だったな。屋台で食べ物買って!ハルちゃん達今日は何か食べたの?」
    「たこ焼きと、焼きそばと、かき氷!これだけあれば十分でしょ!」
    「十分、十分!いいねー!花火見ながら!来年こそ俺も覚えてて行くぞ!」
    「そうだよ、どうせ20時半くらいまで混まないなら、バイト抜けても問題ないもん!来年はみんなで行こうよ!」
    予期せず、来年の花火大会の約束が出来てしまった。ハルちゃんが忘れてても、僕は絶対に忘れないでいようー。
    楽しくおしゃべりしていたら、あっという間に片付けは終わった。いつも通り23時半にタイムカードを切って更衣室に向かう。着替えたら、店長の差し入れのパフェを食べて帰るのだ。きっとハルちゃんも店で食べて行くだろうと思って、着替えてキッチンで待っていたら、ハルちゃんは持ち帰って自宅で食べると言う。
    「店長、ありがとうございます!家で大事に食べまーす。じゃあみんな、お疲れ様!」
    ハルちゃんは元気に言うと、店から出て行った。残ったのは、正孝さんと原山くんと店長と僕だけ。面子的に、甘い物ではなくてビールでも飲んで打ち上げしたい気分だった。
    「ハルちゃんだったらここで残っておしゃべりしながら食べていきそうなのにね。花火大会と行ったり来たりでさすがに疲れたのかな?」
    正孝さんがパフェを口に運びながら言った。
    「確かに疲れさせちゃったかもな。他の子達も22時には上がったけど、大丈夫かな。」
    店長は話しながら、キッチン台の上に置かれたタオルに気がつき、
    「あれ、これハルちゃんのタオルじゃない?忘れてったね。」
    と続けた。
    「今出て行ったばかりだから、俺届けて来ますよ!」
    僕は店長が指差したタオルを持ち、店の裏口から外に出た。もう自転車に乗っているかもしれないが、呼び止めれば間に合うだろう。
    駐輪場を見ると、人影があった。まだハルちゃんがいると思って近づきかけて、声がする事に気がついた。
    「今日も本当はここでご飯食べる予定が、すごい混んでて入れなかったからさー。中見たら春香いるじゃんね。そうしたら、終わるの待ってて一緒に帰ろうかなって。」
    男の声だった。暗くて顔はハッキリ見えなかったが、雰囲気からハルちゃんの元カレだと察した。きっと更衣室で着替えてる時に、元カレから連絡があったことに気付いたんだ。それでハルちゃんは、僕たちとパフェを食べる事なく、慌てて帰ったんだー。
    そしてハッとする。自分は何をしているのだろう。タオルなんて、次のアルバイトの時に持って帰ればいい。今日絶対に持ち帰らなければならない物ではない。立ち聞きなんてよくないし、早く店の中に戻ろうー。
    すると、今度はハルちゃんの声も聞こえてきた。
    「一緒に帰るって、ここからだと家は反対方向だよ。帰るなら、1人で帰って。」
    「じゃあなんで来てくれたの?俺のメール読んだから、来てくれたんでしょ?」
    「そうだよ。だって、この前みたいに鉢合わせしたら嫌じゃん。」
    この前の鉢合わせー。成人式の日が甦る。鉢合わせしたのって僕のことじゃん。
    店の中に戻ろうと、店に顔を向けていたが、その言葉を聞いてつい振り返ってしまった。すると、ハルちゃんの元カレが、
    「えー、何?見せつけてやればいいじゃん。」
    と言いながら、右手でハルちゃんの肩を、左手で後頭部を押さえて、キスをした。
    「やめてよ!こんなところで!」
    ハルちゃんが、両手で元カレの胸を突っぱねた。声を荒げているのを初めて聞いた。
    「ここじゃなきゃいいの?じゃあ早く移動しようよ。」
    「ここじゃなきゃいいんじゃないけど。でももう誰かに見られるのも嫌だから、とりあえず帰ろう。」
    ハルちゃんはそう言うと、自転車を押しながら店の敷地外へと出て行った。
    僕はただただその場に立ち尽くすしかなかった。向こうには見えてないはずなのに、本当に見せつけられてしまった。
    ザワザワとドキドキを胸に抱えながら、もうハルちゃんは帰ってましたと、店長に伝えに店に戻った。
    ***************
    あの時、明るくタオル忘れてるよー!と叫びながら出て行ってれば、何か変わっていたのかなー。
    20年近くたった今思い出しても、高橋は当時のように胸がザワザワした。そして自分のヘタレ具合をまたしても悔やんだ。
    元カレがその場にいたとしても、明るく声を掛けて、一緒にパフェを食べに店に戻ろうと誘えば良かったんだ。そうすれば、その日だけでもハルちゃんを元カレの呪縛から解くことができたのにー。
    そして20年近くだった今も、これだけは話すことはできなかった。
    「うん!覚えてる!あの日は良かったなぁ。ノリちゃん達と花火見て、また店に戻ってガッツリ働いて。店に迷惑かけずに楽しめたから、充実感があったよ。」
    まさかその後、自分が元カレとキスしているのを高橋に見られていたなんてつゆ知らず、春香は楽しそうに話した。そして、
    「その少し後に、夏期講習に通ってる長屋くんに会ったの覚えてる?私がたまたま駅であってさ。」
    と、続けた。
    「あーあ、あったあった!!長屋、懐かしいなー!」
    ***************
    私が高校生の時に、世の中に磁気カードの定期券に代わって、ICカードの定期券が現れたことを鮮明に記憶している。今までは、ポケットから定期入れを出して、更に定期入れから定期券を出して、駅の改札に通していたのに、これからは定期入れにいれたまま、ピッと改札を通れるらしい。冬であれば、毎回外していた手袋も外さなくて済む!と、友達との間でも話題になった。
    それから数年が経ち、このICカードにチャージしたお金でコンビニで買い物までできるようになっていた。
    私は子供の頃から朝が弱かった。家族の中で1番早く寝てるのに、起きるのも1番遅い。だから、朝の身支度はいつも慌ただしい。忘れ物があるのもしょっちゅうだった。
    夏休みは、週に3回は大学の英会話サークルに通っていた。3年生になって、少しずつ聞き取れるようになってきて楽しさも感じていた。
    その日はサークルとアルバイトの予定が時間ギリギリで入っていて、帰宅する暇なく店に直行しなければならなかった。ところが最寄駅に着いて、改札にICカードをタッチすると、
    「料金が不足しています。チャージしてください。」
    と言われてしまった。
    どうやら夏休みの間に定期の期限が切れていて、チャージしたお金で大学までの電車賃を支払っていたらしい。
    仕方がないから精算機に行き、ICカードに現金をチャージしようと、バッグから財布を出そうとして気が付いた。財布を忘れていた…!
    文明の進化は恐ろしい。お昼をICカードで買ったから、帰宅するこの瞬間まで、財布を持っていないことに気が付かなかった。
    電車賃が足りないなら、申し訳ないけど親を呼ぶしかない。今度はバッグから携帯電話を出そうとして、また気が付いた。携帯電話も忘れていたのだ。これではアルバイトに遅刻するかもしれないのに、店に連絡の一本もできない。
    どうしよう、どうしよう、と半ばパニックになりながら、バッグに何かないかと漁っていると、
    「ハルちゃん?」
    と、誰かに話しかけられた。見上げると、そこには懐かしい坊主頭が立っていた。先月店を辞めた長屋くんだ。
    「長屋くん!久し振り。元気?」
    「うん、元気!毎日予備校に通ってるよ。ハルちゃんは?これからバイト?」
    「そう、バイトなんだけど、お財布も携帯も忘れちゃって…。あ、長屋くん、お願いなんだけど、店に電話してもらえない?」
    私はICカードの残金が不足していて、改札から出られない事も話した。すると、長屋くんは不足分のお金を貸してくれると言う。
    「いやー、高校生で予備校に通ってる人にお金借りるなんてできないよ!」
    と私は断ったものの、じゃあどうやって改札を出るの?と聞かれると、何も言えなかった。
    有難く長屋くんに500円をお借りし、改札を出た。
    「本当にありがとうね!今度必ず返すから、都合のいい日教えてね!」
    「いつでも大丈夫!って言ったら、受験生の身だから親に怒られるな。また連絡するよ!」
    そう言って長屋くんと別れて、アルバイトの時間にも間に合ったのだった。
    アルバイトが終わると、その日のバタバタを正孝くんと高橋くんに話した。
    「いやー、文明の進化って怖いね。そのうち腕時計一台で、SF映画みたいに電話もメールも、支払いもできるようになっちゃうのかな?」
    正孝くんが言った。
    「腕時計で電話!確かに夢あるねー!ピピピピピってボタン押してね。」
    20年後の未来なんて、この時は想像ができなかった。まさかたったの20年で、これが現実になるなんて、一部の技術者を除いてこの時は誰も思っていなかったはずだ。
    長屋くんには1週間ほど経ってから連絡してみることにした。受験生の彼に間髪入れずに会おうというのは、申し訳なかったのだ。
    ところがこちらの気遣いは虚しく返事はすぐに来て、長屋くんも話したいことがあるから、できたら正孝くんと高橋くんにも会いたいと言ってきた。私は2人にも連絡を取って、次の土曜日のアルバイト終わりに、24時間営業の駅前のファミレスで会う約束をした。長屋くんは外で勉強をしたいらしく、ファミレスや図書館に居座って、よく勉強しているとのことだった。
    そして土曜日のアルバイト終わりに、駅前のファミレスに、長屋くんと正孝くん、高橋くんと集合した。9月に入っていたが、大学はまだ夏休みだった。
    「長屋ー、久し振り!勉強してるね。偉いなぁ。俺も勉強しなきゃなぁ。」
    先にファミレスに入って勉強していた長屋くんに、正孝くんが話しかけた。長屋くんの隣に正孝くんが座り、向かい合わせに私と高橋くんが座る。
    0時前の会合。オーダーはドリンクバーのみ。
    「お久しぶりです。なんだかすみません。みんなに来てもらっちゃって。」
    長屋くんは参考書を片付けながら、頭を下げた。
    「いやいや、どうしたの?話したい事があるなんて言うから気になってたよ。」
    私が話しかけた。
    長屋くんは、唾を飲むと、緊張気味に話し始めた。
    「この前の花火大会の日、リエちゃんを見かけたんですよ。彼氏といたみたいなんだけど…。」
    「えー!修羅場!?」
    正孝くんが食い気味に叫ぶ。
    「ちょっと静かにしてよ。話が進まなくなっちゃう。」
    私は正孝くんを落ち着かせて、長屋くんに話の続きを促した。
    長屋くんには、歳の離れた小学生の妹がいて、花火大会に友達と行っていた。ご両親が迎えに行く予定だったのが、急におばあちゃんが体調を崩してしまい、ご両親はおばあちゃんのところに行かなければならなくなったのだそう。そこで妹のお迎えに、受験生なのに申し訳ないと言われながらも、長屋くんが行ったのだ。その時にリエちゃんがデートしてるのを目撃してしまったのだった。
    最初は彼氏と手を繋いで歩いていたリエちゃんだったが、そのうち彼氏がリエちゃんの頬を叩いているように見えた。最初は軽く叩いていただけのようだが、最後に見えた時にはリエちゃんの顔が大きく動くほどの強さだった。会話が聞こえる距離ではなかったが、リエちゃんは泣いているように見えた。
    長屋くんが意を決して、声をかけようとした、その時、
    「お兄ちゃん!」
    妹に会えてしまった。人混みの中、妹と会えて良かったと胸をなで下ろすも、もうそこにリエちゃんの姿はなかった。
    ここまで話を聞くと、高橋くんが興奮気味に話し始めた。
    「何それ。何その男。リエちゃんそんな男と付き合ってるの?すぐに別れた方がいい!てかさ、長屋もそこまで見てたんだから、妹連れてでも注意した方が良かったんじゃない?子供の前なら、悪いこともできなくなるし。リエちゃんもそんな長屋に惚れ直したかもしれないよ!」
    怒り心頭に発する姿に、周りの3人はあんぐり口を開けてしまった。
    「え、何?みんなはこの話聞いて、怒らないの?なんで?」
    高橋くんが赤面しながら取り繕う。
    「高橋くん、リエちゃんのこと好きだったの?」
    私は全然気付いてなかったことを反省した。
    「いや違う。リエちゃんは好きじゃない。好きな子は他にいる。いや、いない。もう俺のことはいいの!長屋がさ、リエちゃんのことそんなに好きなら、悪い男からは離してやれよって話だよ。」
    何やらテンパって、高橋くんは話し続けた。
    「俺だったら、自分の好きな子が悪い男と付き合ってたら、離してやりたいと思うからさ。」
    高橋くんは恥ずかしいのか、誰とも目を合わせずに最後は呟いた。
    「長屋は、バイト始めた時にリエちゃんに告って一回振られてるじゃん?あれからも一途にリエちゃんが好きだったの?それとも友達として、何か言ってやりたかった?」
    正孝くんが冷静に聞いた。
    「好きは好きですけど、もう付き合いたいとかは本当に一切思ってなくて。友達としてガツンと言ってやりたかった気持ちですね。あと、今彼女がどんな男と付き合ってるか全然知らないのに、いきなり突っ込めなかったってのもあります。」
    長屋くんが息継ぎをしてから、私の目を見て続けた。
    「ハルちゃんは、ちょっと変な男に引っ掛かってるって有名だから、ハルちゃんだったら止めてあげられたかなって。」
    「えー!何それ!変な男に引っ掛かってて有名なの、私?」
    高橋くんがリエちゃんを好きなこと以上の驚きだった。
    「それは、有名かも。自分でも佐藤さんとかに話してるでしょ?俺も見たことあるような気がするし。」
    正孝くんにも言われてしまった。まさかそんなことで有名だったとは…。
    「いや、まあそうなんだけど。付き合ってるわけではないからさ。私の場合。」
    私の顔もどんどん赤くなっていくのが自分でもわかった。ああ、穴があったら入りたい…。
    「付き合ってないからこそ問題なんじゃん!ハルちゃんいい子なのに…そんな男にいつまでも振り回されてさ!今度見かけたら、俺からガツンと言ってやるよ!」
    高橋くんはそこまで言い切ると、恥ずかしいのかテーブルに突っ伏した。
    あれ?リエちゃんのことが特別に好きなわけじゃなくて、みんなに優しいのか?友達思いなの?こんなに怒ってくれて…。
    「ありがとう、高橋くん。」
    私は嬉しくなって、素直に口から言葉が出ていた。
    正孝くんと長屋くんは、なんだかニコニコしながらこちらを見ていた。
    その後、リエちゃんが花火大会に一緒に行った彼氏とはすぐに別れたと、ノリちゃん経由で聞いた。長屋くんが、リエちゃんに何か言ったのかどうかは、聞けずじまいだった。
    ***************
    あの時、友達としてでいいから、高橋くんに悪い男から離してもらうよう、お願いしていたら何か変わってたのかなー。
    春香はあの時のことを思い出して、高橋を見た。
    高橋もちょうど何かを思い出していたのか、頬が赤くなっていることに気が付いた。春香は当時は全く気付かなかった髙橋の気持ちが、今ようやく見えた気がした。
    高橋は誤魔化すように慌てて話を続けた。
    「長屋、元気かな?結婚式の二次会には来てくれたけど。」
    「ねー。私も全然会えてないや。実家同士は近いんだけどね。」
    春香は気のせいかと思いつつ、2人の間に柔らかな空気が流れたのを感じた。東京駅の喧騒の中で、2人の間だけ、時が止まったようだった。


    第五話 21歳の冬


    「ハルちゃん、そのあとの冬から留学してたよね?」
    赤くした頬がバレないようにと、高橋が平然を装って聞いた。
    「うん。短期の交換留学ね。行った直後は、就活のタイミングと丸かぶりで、すっごく後悔したけど、今となってはやっぱり行って良かったと思うよ。英語力身に付いたし、楽しかったし。」
    春香は、大学の交換留学システムで、ロンドンに3ヶ月留学した日のことを思い出した。
    ***************
    私は総合大学の経済学部に通っていた。高校で進路を決める時に、まだ自分が就きたい職業が明確になっていなくて、社会の動きを幅広く学べる学問として経済学部を選択した。1,2年生の時は単位を落とさずに進級することに必死で、自分が本当に勉強したいことを考える余裕もなかった。3年生にもなると、自分が本当に勉強したいこと、仕事にしたいことを真剣に考えるようになった。この頃の私は、商社に就職して、世界中を駆け回り、他の国では当たり前に売られている商品を、日本に輸入するような仕事に就きたいと考えていた。
    それには何を勉強する必要があるのか。もちろん経済学の勉強は必要だったが、加えて英語力も必要だと気が付いた。1年生の頃から、大学の英会話サークルに所属していて、少しずつ身についてきてはいるが、今のままでは全然足りない。そもそも海外に一度も行った事もないし、学生生活を終える前に、一度海外生活を経験してみたいと考えるようになった。
    そんな頃、自分の通う大学で、交換留学システムがあることを知った。学部不問で、希望者の中から、成績優秀者20名がロンドンにある語学学校に通えるという。現地での学費はかからず、渡航費と滞在費のみでオーケーというシステムだった。学費がかからないのは、ロンドンからの留学生をうちの大学で受け入れているからだ。
    中学生の頃から英語は好きだったが、英文学科に進学するのは何かが違うとずっと感じていた。きっと私は英語を追求する学問ではなく、英語がある程度使えるスキルを持って、社会で活躍したいと考えていたのだと、3年生になってようやく気づく事ができた。
    私の両親は、常に子供を信頼してくれて、進路に反対したことは一度もなかった。今回も相談すると、行っておいでと背中を押してくれた。まだ希望も出していないし、希望しても他の人の方が成績が優秀なら落ちてしまうというのに、気が早い。
    季節は過ぎ、気がつけば交換留学の希望を募る時期が来た。私はいち早く応募した。結果は3週間ほどでわかった。私は見事成績優秀者の20名の中に入り、留学が決まった。実は、大学での成績は常に学部の上位10位には収まっていたから、口には出してなかったが、自信はあったのだ。
    決まってからは、パスポートの取得や、ビザの申請、スーツケースを新調したりと慌ただしい日々だった。
    学校とアルバイトと留学準備で、気がつけば出発まで3日というところまできていた。アルバイトは3ヶ月お休みさせてもらい、帰国後再開する予定で店長に許可をもらった。
    専門学校への進学が決まった長屋くんが、ちょうどアルバイトに戻れる時期だったのも良かった。進学後は忙しいかもしれないけど、春休み中はたくさん働いてくれるそうだ。
    アルバイト仲間達の反応と言えば、アメリカ大陸横断を夢見る正孝くんにはもちろん羨ましがられた。夢見るだけで終わり、本当に行くのかも雲行きが怪しい日々だった彼を鼓舞する事ができたことは間違いない。
    リエちゃんにはひたすら寂しいと言われ、美容の専門学校に進学が決まった真由子は、自分の専門学校でもそういったプログラムがあるから、来年には自分も行きたいと、やはり彼女の士気を高めることができた。ノリちゃんもいつか海外に行ってみたいと言い、エアメールを出す約束をした。
    店長も五十嵐さんも、社会人になるとまとまった休みは取れないから、今がいいチャンスだと応援してくれた。
    高橋くんだけは、何を考えているのかわからないけど、きっとすごく寂しくて、ちょっと羨ましかったに違いない。長屋くんがアルバイトに戻ってくれても、まだ高校生だから、22時以降の勤務を高橋くんに任せて行った。
    旅立ちの日は、2月10日。世の中はバレンタインの催しが始まり、街中が甘い香りで溢れる時期。
    選別に何か甘いものでも作って置いて行くかと、私は一念発起して、レシピ本を探しに本屋へ向かった。これから20年後、出版不況と言われる世の中になるなんて、思いもしなかった。だって、まだハリーポッターは完結してなくて、発売される度にベストセラーになっていたし、日本の小説も「世界の中心で愛を叫ぶ」や「いま、会いに行きます」など、ベストセラーはほぼ映画化されていた。
    レシピだって、今ならインターネットやSNSで検索するのが当たり前で、本を買う必要もないだろう。若いお母さんは、離乳食の作り方をTikTokやInstagramから学ぶと聞いたこともある。もはや、手順が文字で書かれていても、理解が追いつかなくなっていて、動画主義の時代なのかもしれない。
    さて、目的の本を購入すると、材料も近くのスーパーで買い揃えて帰宅した。
    実家暮らしだから、料理もほとんどしない。つい先日、アルバイト先の店で、アボカドを切っているところを初めて見て、真ん中に大きな種があることを知った。果物なのに包丁で皮を剥くわけでもなく、皮は実の容器のようになっていて、スプーンでくり抜くか、いい熟れ具合ならパコっと皮から外れるのを知った。私たちの子供の時には、日本になかった果物。お店では何度も食べたことがあるし、大好きだったけど、家では食べたことがなくて切り方を全く知らなかったのだ。店ではアボカドとネギトロを混ぜて、酢飯に乗せて出していた。おいしいやつだ。
    そんなことを思い出しながら、私はレシピ本を開いて、チョコチップクッキーを作り始めた。家庭で作るバレンタインのチョコレートは、板チョコを溶かして、違う形に冷やし固めるだけ、になってしまいがちだから、少し手の込んだクッキーを選択した。
    バターと砂糖、卵に、ふるいにかけた薄力粉を混ざる。よく混ざったらチョコチップを混ぜて焼くだけのシンプルなレシピなのに、焼くまでに1時間はかかった。自分が料理に不慣れなことを、実感した。
    形を作って、オーブンに入れて15分も焼くと、甘い甘いいい香りがしてきた。我ながらおいしそうにできた。残念ながら可愛いラッピングはほとんど売り切れていて、大きめの紙の箱しか買えなかった。個別に渡したかったけど仕方ない。みなさんでどうぞと、付属のカードに書き、クッキーを詰めて店に向かった。
    今日はクッキーしか焼いていないのに、もう17時を過ぎていて、辺りは薄暗くなり始めていた。夕方の空が冷たい北風をこれでもかと吹き荒らす。出国前に風邪をひいたら大変だ。クッキーだけ届けたら早く帰ろう。
    店に着くと、店長がキッチンで在庫の確認作業を進めているところだった。ランチタイム、ティータイムが過ぎ、ディナータイムまでのちょうど暇な時間帯だった。
    「店長。バレンタインには少し早いけど、みなさんでどうぞ。」
    話しかけると、店長はとても驚いていた。
    「あれ?もう出発してると思ってたよ!いつなの?出発は?」
    「明々後日です。もうドキドキしてますよ。」
    「そうか。楽しんで、頑張ってきてね。もう会えないと思ってたから嬉しいよ。みんなにも伝えておくね。」
    「はい。では、行ってきます。」
    そう言って私は、すぐに店を出た。誰が働いているか気になったが、長居すると名残惜しくなる。顔を見ないで帰る方がいいと思ったのだ。私だって、寂しくないわけじゃない。
    帰宅すると、すぐに風呂に入り、母の作ったご飯を食べ終えて、テレビを見ていると、ノリちゃんと真由子が、クッキー美味しかった、会いたかったとメールをくれたので、少しやりとりしてから寝た。
    翌日、スーツケースに洋服を詰め込む作業を朝から始めた。ロンドンは寒かろうと、セーターやホッカイロばかり…スーツケースにこれでもかとばかりに詰め込んだ。
    母親と軽めのお昼を食べて、少しのんびりしていた時間だった。携帯電話が鳴った。高橋くんからメールだった。
    「昨日はクッキーありがとう!おいしかったよ。今って家にいる?」
    昨日、高橋くんもシフトに入っていたらしい。
    「食べてくれて、ありがとう。昨日いたんだね!今家にいるよ。」
    私は返信した。するとすぐにまたメールが届く。
    「家の前にいるんだ。出てこれる?」
    え、家の前にいる?私は驚いて、上着も着ないで、玄関から飛び出した。家を出ると本当に、目の前に高橋くんが立っていた。驚く私を見て、
    「あ、ごめんね。びっくりさせて。ストーカーじゃないから。出発前に会いたくて、ノリちゃんに家聞いたんだ。表札が出てたから、わかった。ちゃんと来れて良かったよ。」
    と、両手でストーカーを否定しながら、慌てて弁明した。
    「すっごくびっくりしたけど、確かに会えて良かった。ありがとう。元気でね。」
    こんな風にされると、なんだか寂しくなる…。
    「あ、あと、昨日のクッキーのお礼。バレンタインもホワイトデーもまだ早いけど、どっちも会えないから先に渡しておく。」
    と言って、高橋くんは小さな紙袋を差し出した。私はまた驚きながら、
    「ありがとう。」
    と、受け取った。もう少し話したい気もするけど、ここは実家の前で、親にバレるのも気まずい。高橋くんもそうなのか、それだけ渡すと、
    「じゃあ、気をつけてね。またメールするね。」
    と言って去って行った。普段バイクに乗っているのに、わざわざ歩いてきてくれたようだった。多分、バイクの音が住宅街に響くのを気にしたのだろう。電車に乗る距離ではないけど、バスが走っている道でもない。歩くと30分はかかるはずだから、なんだか申し訳なかった。
    私は家に入ると、高橋くんからもらった紙袋を開けてみた。中には、白い板チョコ、その上に「がんばれ」と、茶色いミルクチョコレートで書かれていた。
    わざわざ作ってくれたのだ。作ったと言っても、チョコペンで文字を書いただけだけど。
    それでも、スーパーに行って、材料を調達して、家で一生懸命に字を書いている高橋くんの姿を想像すると、胸が熱くなった。ところどころ線が太くなっている字が、また愛らしかった。

    ***************
    あの時、もう一度家を飛び出して、高橋くんに会っていたら、何か変わってたのかな…。
    あの勢いで行ったら、ドラマや漫画のように、見つけた高橋くんに後ろから抱きついてしまうところだっただろう。むしろそうするのが、正解だったのではないか。何故、しなかったのだろう。
    好きとか何も考えずに、自分の気持ちに衝動的になっても良かったのかもしれない。
    実際はただメールで「ありがとう」と送っただけに終わった。あまりに嬉しくて、写メを撮って送ったのは覚えているけど…。
    「高橋くん、出発前にさ、」
    「あ、いや、いい。言わないで。言わなくていい。何か思い出しても、大丈夫、言わないで。」
    春香の言葉を高橋が即座に遮った。顔は真っ赤っかで、髪の毛を手でぐしゃくしゃと触りながら下を向いている。
    「え、何言いたいか分かったの?ホワイトチョコにさ、」
    「いやもう言わなくていいからー。そんなこともあったなーで、終わらせてよ。」
    「そんなに恥ずかしがる?いやさ、直接言えばよかったなって、ありがとうって。あの時言えなかったからさ。ありがとうね。嬉しかったんだよ。」
    春香は微笑みながら、高橋を優しい目で見た。
    高橋はまだ頬を赤くしながら、春香を見る。
    「ロンドンに行っている間は、ハルちゃんmixiよく更新してたから、生活もわかって面白かったよ俺。」
    ***************

    2月13日

    日本の日付はもう2月14日。バレンタインデーか。
    2月10日に日本を出て、直行便で約15時間のフライト。
    寝ても食べても寝ても食べても、映画を何本も見ても全然着かない。
    直行便にしたことを後悔したくらい。
    そんな果てしなく長い旅路を終えて、やっと着きました!ロンドンに!!!!!!
    到着してから、寮に着いて、色々手続きして、
    家には一度国際電話をかけて、無事を報告。
    地球の歩き方を読んで、たくさん予習した国際電話の掛け方。早速役立ちました。
    今日語学学校の方にお世話になって、無線LANカードを購入。
    日本では無線LANってあまり聞かないけど、こっちの学校や寮では、無線LANが使えるんだって。
    私の持ってきたパソコンは、無線LANカードを入れれば無線LANに接続できるから、
    売ってるお店に連れて行ってもらったのさー!
    見事mixiにもログインできたし、
    みんなとつながることができた!
    またこちらでの生活を中心に、更新しますー!
    ただ、無線LANが遅すぎるのがちょっと大変よ(´;ω;`)

    >rie
    ハルちゃん、無事に着いて、生きてて良かったー!
    また更新楽しみにしてるね!
    >aapp
    無線LANが接続できて良かったよね!
    携帯持ってない者同士、mixiで連絡取り合って、
    観光も行こうね!笑
    >tks(高橋)
    ハルちゃん、無事に着いて良かったよ!
    ロンドンまでそんなに時間かかるのかー!
    無線LANが使えるなんて、便利だね^_^
    >ハルカ
    みんな、ありがとう!
    とりあえず、無事!
    そして寒い(´;ω;`)

    2月14日

    こちらは、本日バレンタインデー(*^ω^*)
    海外では、日本と違って恋人同士が過ごす日で、
    女の子からチョコレートじゃなくて、
    男の子から花束だって!
    素敵(о´∀`о) もらってみたい!

    >xxxx
    ハルちゃん、久し振り!
    ロンドンに留学中なんだね!びっくりした!
    楽しんできてねー!
    >tks(高橋)
    日本と全然文化が違うんだね!
    海外にいたらチョコレートもらえないのか(´;ω;`)

    2月18日

    今日は初めてスーパーに行ってみました!
    日本だと、レジにカゴを持って行ったら、
    店員さんがかごから商品を出してバーコードを読み取るけど、
    こっちでは、お客さんがかごから商品を出して、
    レジ台?に置かなきゃならないの。
    全部!
    全然わからなくて、語学学校で知り合ったボブにお世話になりました(*^ω^*)
    支払いはカード!チップと屋台以外はカードで払えるよー!

    >太郎
    ハルちゃん、無事にロンドン生活送れてて何より!
    帰国後は日本の文化に戻れないかも!?笑
    >tks(高橋)
    かごの商品を出すなんて衝撃!
    日本の店員さんが親切なのかなー?
    >ハルカ
    日本の文化にはすぐに戻れるはずー!
    イギリスの人もみんな親切だけどね!
    バーコード読み取られた商品をレジ台?で、
    その場で袋詰めしていくから、
    かごが邪魔なだけかも^_^

    2月20日

    今日は、語学学校が入ってる大学のみんなが、
    歓迎会をしてくれました!
    Welcome Welcome って言ってくれて嬉しかった!
    カタカナ英語でも、がんばって話すと会話になるし、
    会話が通じるだけでなんだか感動!
    ビールと食べたフィッシュアンドチップスがおいしかった(о´∀`о)
    最近は、もうボブと毎日のようにランチして、
    いろんな話して、それだけでも楽しい!
    今度の週末は、ボブとその友達とみんなで買い物に行く予定。
    日本でいうユニクロみたいなファストファッションのお店に行くんだ!
    楽しみ!
    >tks(高橋)
    現地の人と会話できるなんて、すごいー!
    ごはんおいしくないって聞いてたけど、おいしいんだね!
    >ハルカ
    そうそう、意外とおいしいよー!
    とはいえ、お店のまかないが恋しいよー!笑
    rie>
    ロンドンでお買い物!
    おしゃれだなあ〜
    xxx>
    私も行ってみたい!
    お友達と会話が出来るのがすごい!!!

    2月22日

    にゃんにゃんにゃんの猫の日です!
    私も家のまる(猫)が恋しいよ。
    そして、まるのように、炬燵でまんまるになりたい気分。
    だって今日のロンドンは本当に寒すぎて寒すぎて、
    何かと思ったら、粉雪が待っていたよ…
    ホッカイロ握りしめながら帰ってきました。
    帰宅後は、aappと一緒に部屋でごはんを食べてまったりと過ごした。
    こういう日の為に、乾麺のうどんとめんつゆを持参したのさ!
    これであっという間に日本の味で温まれる!!!
    こちらの部屋について書きそびれたので、ご報告。
    1人ずつの個室で、シャワーとトイレは各部屋にあり。
    あとはベッドだけ。
    キッチンと乾燥付き洗濯機は共同スペースに。
    乾燥機を占有する訳にもいかないから、ある程度乾いたら、
    部屋星して過ごしているよ〜
    日本の天日干しが懐かしい日々です…

    masa>
    ロンドンって曇り空って言うもんね?
    お日様は恋しくなりそうだな。
    ハルカ>
    そうなの。曇り空っていうかとにかく寒いよ…
    tks(高橋)>
    乾麺持参は賢いな!

    2月28日

    来月半ばに、一度目の課題発表会があります。
    自分の好きな英詩や英語の本の内容を、
    日本語訳と自分の解釈などを発表する会です。
    私は、はじめて読んだ時から
    「かいじゅうたちのいるところ」の日本語訳が秀逸だと思っていて。
    だって、かいじゅうって聞いたら、英語でmonsterだと思わない?
    この絵本の原題は「WHERE THE WILD THINGS ARE」だから、
    「wild things」を「かいじゅう」と訳したということ。
    私だったら「野獣」とか「野生生物」としか訳せない。
    でも、絵本の内容を読むと「かいじゅう」でしかないの。
    小さな子供って、かわいいかいじゅうだなと思う。
    散らかしたり、いたずらしたり。
    だから「かいじゅうたちのいるところ」を課題にして発表予定。
    絵本を持参しなかったから、週末本屋さんに買いに行く予定!
    もちろん、ボブに付き合ってもらうよ!
    rie>
    ボブと仲良しだね〜?
    かいじゅうたちのいるところって、読んだことがなかったからどんなお話かしらないんだけど、ハルちゃんがこうやって訳し方がすごい!って思えるのが、素敵だと思った!
    aapp>
    私もボブと話してて、一緒に行くことになったから、よろしくね!
    ハルカ>
    ボブは日本のアニメが大好きな人で、色々話してくれるの!
    本当にお世話になっているし、仲良しだよ!

    aapp、週末よろしくね!

    3月10日
    最近は、課題発表会に向けての資料作りに追われていて、なかなか更新も出来ない。
    無線LANも相変わらず接続が悪いし、、、、
    でも、変わらずに元気です!!!
    rie>
    良かった!生きてて良かった!笑
    太郎>
    心配したよ!元気で良かった!
    tks(高橋)>
    本当、生きてて何より!
    masa>
    よかったよかった
    ハルカ>
    みんな、私を死んだと思っていたの!!?笑
    ご心配ありがとう。元気です!!!

    3月20日

    無事に、課題発表会が終わりました!
    なんとかやりきった!
    他のみんなの発表が良すぎて、感動もしたし勉強になった。
    自分はまだまだ学ぶものが多いなと再認識。
    終わった後は、みんなでおつかれさま会をして、
    反省もして、次につなげようとなった。
    teacherからのアドバイスも的確で。
    やっぱりここで、本場の英語を学べたことは一生の糧になるだろう。
    残り1ヶ月半、まだまだ頑張ります!!!

    tks(高橋)>
    おつかれさま!!
    がんばっているのがすごく伝わって来て、自分もがんばらなきゃと思ったよ。
    太郎>
    おつかれさま!がんばったね!
    aapp>
    ハルちゃんの発表、すごく良かったよ!!!
    本当、おつかれさまだし、残りも頑張ろう!!!
    ハルカ>
    みなさま、ありがとう!!!!!

    4月3日

    spring has come!!!!
    寒い寒いと思っていたのに、いつの間にか春が来た。
    みんなの日記でも、桜が満開というのを読んだけれど、
    ロンドンにも意外に桜があって、こちらも咲いています。
    中学の英語の教科書でEmilyが、
    「I've never seen such a beautiful sight!!!」と話していて、
    何故ならロンドンは曇り空だから、桜が一気に満開になることがないと。
    そんな記憶があるのだけれど、ちゃんと一気に満開になっていて、とてもきれいです。
    ただ、日本と圧倒的に桜の本数が違う気がする。
    日本だと河川敷とかに、何本もバーって桜の木があって、一気に満開になるけど、
    ロンドンではごく一部の限られた公園にしかないような気がします。
    とどのつまり、何がいいたいかと言うと、
    日本の桜が恋しいです。
    以上、現場からの感想でした!

    rie>
    来年は、お花見しようね!
    ノリ>
    帰って来るの待ってるよ!
    tks(高橋)
    花見、しようぜ!!!!

    4月15日

    いつの間に、こちらでの滞在も残すところ1ヶ月が過ぎました。
    最初は、初海外の初一人暮らし、と初めて尽くしで、どうなるものかと心配した方も多かったかもしれませんが、
    色々と板についてきましたよー!
    英語よりも食事が1番心配されたような気がするけど、人間やってみれば料理もできるようになるのね!
    帰国後は、キッチンでアルバイト復帰もあるか!!?

    masa>
    共に働こう!
    tks(高橋)>
    長屋がフロア手伝ってくれているから、ハルちゃんがキッチンでも大丈夫かも!!?
    rie>
    えー!寂しいから、絶対フロアで戻って来て!

    4月22日

    最近更新の頻度が低くなって来てしまった。
    毎日誰かしらと、ご飯を食べて帰るor寮で一緒に食べる、という感じで、
    充実した日々を送っております。おかげさまで。
    2回目の課題発表会、最後の発表会に向けて、
    絶賛資料も作成中でございます。
    帰宅後もカチカチカチカチ、パソコンに向かっている時間が長いです。
    今後の発表会の内容は、自分の好きな日本語の作品を英語に訳すこと。
    私は、ぐりとぐらにしました。
    なんで私の課題発表は、こんなに絵本ばかりなのだろう...
    ぐりとぐらはこちらでは手に入らないので、母親に送ってもらいました。
    結局離れていても、親の世話になっている...
    帰国後大学でも、今回発表する内容を発表するのでとっても緊張しています〜

    rie>
    最後の「〜」に緊張感が感じられないけど。
    ノリ>
    me too.
    太郎>
    me tooooooo.
    ハルカ>
    ひどい!笑

    5月5日

    日本ではゴールデンウィークの後半ですね。
    いかがお過ごしでしょうか。
    私はと言いますと、ようやく課題発表会を終えて、抜け殻になっております、、、
    とりあえず、teacherにはお褒め頂き、聞いていたみんなからもよくやったと言ってもらえて、やり切った感はある!
    あとは、帰国後の大学での発表も頑張るのみ!!!

    tks(高橋)>
    おつかれさま!!!がんばっててすごいぞ!
    rie>
    ハルちゃん、おつかれさま!!!
    aapp>
    ハルちゃん、おつかれさま!!!
    本当、良かったよー!!!
    今回の発表の中で1番良かったのではと思った!

    5月8日

    time fries.
    まさにこのこと。
    3ヶ月の留学生活、明日、終わりを迎えます。
    もうスーツケースに荷物は詰め終わっていて、
    残りの荷物は手持ちのリュックサックに入れて帰る予定。
    日本に帰りたい気持ちも、日本のみんなや食べ物、景色、すべて恋しいのは本当なのだけど、
    ロンドンでの生活も、あと1年くらい続けたかったというのも本音。
    今回は、交換留学という形だったけど、
    ゆくゆくは、ワーキングホリデーも検討したいな。それくらい、刺激を受けて、成長出来た3ヶ月でした。
    お世話になった、全ての人に感謝!

    rie>
    ハルちゃん、おつかさま!
    xxx>
    おつかれさま!帰国したら会おうね!
    tks(高橋)>
    おつかれさま!
    ワーキングホリデーももう考えているんだね!
    帰国後、会えるの楽しみにしているよ!!!

    5月10日

    I'm home.
    ただいま、日本。
    出発したのが、真冬だったから、暖かくて驚いた。当たり前だ、もう5月だもんね。
    とりあえず、母のご飯をいただいて、温かいお風呂に使って今日は寝ます。
    みんなにお土産も渡したいし、早く会いたいな。

    ノリ>
    ハルちゃん、おかえり!!!!
    mayuco>
    おかえり!!!!お土産も楽しみ!!!!!
    xxx>
    遂に帰国ー!おつかれさま!
    太郎>
    おかえり!
    tks(高橋)>
    おかえり!!!!おつかれさま!!!!

    ハルちゃんが、とうとう帰ってくるー!
    毎日毎日mixiをチェックして、更新していたら一文一文噛み締めながら読んで、コメントをして。更新がない日は、何しているんだろうと心配になって。ボブって男の名前がやたらと出て来て心配になって。他の留学生の世話もしているって書いてあったから、きっと世話役担当なんだと自分を納得させてみたり。
    桜が満開だなと思った日に、ハルちゃんも桜のことを日記に書いていたら飛び跳ねるくらい嬉しくなって。ゴールデンウィークで店が混んでるなと思っていたら、ハルちゃんも日記にゴールデンウィークと書いていたから、これにも喜んで。
    ただ、mixiではやり取りしていたけど、個人的なメッセージのやり取りは一切なかった。ハルちゃんは「みんな」としての自分には日記を更新したけど、僕個人には何も語っていない。それは、僕もハルちゃんにメッセージを送っていないから同じではあるんだけど、どう見てもハルちゃんの3ヶ月間は充実していて、自分のことを1秒でも思い出す余地があったのかと、心配にはなった。
    季節は真冬から春を通り過ぎて、初夏にさしかかっていた。


    第六話 22歳の夏


    「高橋、研究室にいながら、mixiチェックし過ぎじゃない?」
    僕は、同じ研究室の祐輔に話しかけられてはっとした。
    「帰って来たんじゃないの?好きな子。」
    「帰って来たけど、まだ会えてないんだ。」
    ハルちゃんが帰国してから、5日が経過していた。大学に行ったり、やることが多いのだろう。まだアルバイト先には顔を出していない。
    「連絡はしたの?そもそもmixiだけチェックしているんじゃ、ただのストーカーみたいだよ。」
    「連絡してない。元々あまり連絡取ってなかったから、急に連絡するようになったら変に思われるじゃん。」
    「変ってどういうこと?好きなのが、変なことなの?」
    「いや、そうじゃなくて。好きなのがばれるっていうか。」
    「好きなのがばれちゃいけないことなの?ばれてる方が良くない?」
    「え、そういうもの?」
    僕は、これまで自分から告白をしたこともなかったが、それ以前に自分から「駆け引き」なるものもしてこなかったことに気が付いた。
    「いや、訂正する。好きなのはばれているかも。バレンタインにチョコを渡したから。」
    「え、高橋からチョコ渡したの?それで、何も言わずじまい?」
    「留学の前だったからさ。選別って感じで、特別何も言わずに渡したんだよ。」
    「そっかー。でもそれだったら気付いているかもね。それで、向こうはどんな感じなの?」
    「どんな感じも何もないよ、普通だね。普通の友達に接するのと同じ。」
    「高橋、、、、どんまい!それは脈ないかもな!」
    祐輔は、がははははと笑いながら、研究室を出て行った。
    やっぱり脈はないよな。自分でも分かっている。だから告白はおろか「駆け引き」すらできないでいたのにー。でも気が付いたら、どっぷり好きになっていたんだ。この感情はどうすればいいのだろう。
    4年生になってからの僕は、卒業研究が忙しくなってきて、平日のアルバイトを少し減らしていた。それで会えていないのかもしれないと希望を持って、久し振りに店に行ってみた。
    店に着くと、何やら楽しそうな声が聞こえた。その声の主は1人しかいない。僕ははやる気持ちを押させながら、冷静にドアを開けた。
    「高橋くん、久し振り!」
    そう、やっぱりハルちゃんだ。ハルちゃんが帰って来た、この店に。
    「おかえり。元気そうで安心したよ。」
    僕は嬉しすぎる気持ちがバレないように、気を遣いながら話した。
    「ありがとう。お土産にチョコレート買って来たから、みんなで食べてね。」
    ハルちゃんはそう言うと、店から出て行こうとしている。
    「ハルちゃん。」
    ハルちゃんが振り返る。
    「ハルちゃん、この後暇?俺今日シフトに入っていないんだ。今月のシフトを確認しに来ただけで…」
    シフトに入っていないのは本当だけど、シフトを確認しに来たのは嘘だった。もう今月分はとっくに控えてある。僕は、嘘だとばれないように、壁に貼ってあるシフト表を指差した。
    「今日、暇だよ!本当はみんなと話したかったんだけど、仕事中にあまり邪魔も出来ないからさ。また日を改めようと思って帰ろうとしてたところ。高橋くんがシフト入ってないなら、色々しゃべりたい!」
    「良かった。じゃあどっか行こう!」
    僕は、内心飛び跳ねたいくらい嬉しいのを押さえながら、ハルちゃんを誘った。
    「高橋くん、暇なら入って欲しかったよ〜。って、うそうそ。あまりシフト見に来るなんてないから、何かと思っただけ。」
    店長が奥から出て来て、話しかけて来た。余計なことをー。
    「最近、シフト減らしたから、次がいつかわからなくなっちゃたんですよ。」
    僕は慌てて取り繕う。
    「シフト減らしてるんだ?就活があるから?」
    ハルちゃんが言う。
    「就活はもう終わっているんだ。卒業研究が忙しくなっちゃって。就職決まってても卒業出来なかったら元も子もないから。」
    と僕は言うと、ハルちゃんは少し元気がなくなったように見えた。
    「就職もう決まってるの?」
    「うん。元々静岡に帰ろうと思っていたから、Uターン就職で。本社は東京なんだけど、工場が静岡にある会社を、研究室の教授に推薦してもらって先月決まったところ。」
    「そうか。」
    ハルちゃんは、俯きながら納得したように呟いた。
    「それより、ロンドンの話も聞きたいし、どこかご飯食べに行こう!」
    僕は気にしない振りをして、ハルちゃんを誘い出した。
    僕の父親は、小さな工場を経営している。いずれは、僕か弟が継ぐつもりではあるのだけれど、父は自分の会社に子供が新卒で入ることをずっと反対していた。世間の荒波に揉まれて、成長した上で戻って来て欲しいと。親である自分は、身内上の厳しさを出すこともあるかもしれないが、結局は親心で優しくしてしまう。それでは子供が社会人として成長出来ないのではないかとの、心配からだった。
    大学の機械工学科で学んだ理由は、父の工場が自動車部品メーカーに商品を卸しているからだった。僕の就職先も自動車部品メーカーで、小さいながらも技術は確かな会社だ。
    そんなことを駅前のファミレスで話しながら、僕はオーダーしたハンバーグ定食を食べ始めた。ハルちゃんは心なしか、どんどん元気がなくなっているようにも見えた。
    「そんなことより、ロンドンの話も聞きたいし。ボブが気になって仕方なかった。」
    僕は自分で珍しく切り込んでみた。それを聞くと、ハルちゃんの顔が少し明るくなったように見えた。
    「ボブが気になるって何?」
    「ボブと毎日ランチ食べてるって。他の留学生のお世話もしていたみたいだし。ボブは女好きなの?」
    「ボブは留学先にいた、アニメが好きな子。好きなのは男の子だよ。ゲイだから。」
    「ゲイ!?」
    「海外では普通だよ。日本が遅れているだけだと思う。中身は女の子だから、お世話するのも好きだったのかも。」
    ハルちゃんは、パスタを食べながら冷静に答えた。
    僕は拍子抜けして、思わず笑ってしまった。
    「なんで笑うの?ゲイを笑うのは失礼だよ。」
    まずい、ハルちゃんが本気で怒っている。
    「違う、違う。ハルちゃんがまた悪い男に騙されているのかと思って。心配していたら、全然見当違いだったから!」
    僕は笑いが止まらない。
    「そういうこと!?心配してくれて、ありがとう。」
    その言い方が、明らかに友達に対するものだった。ハルちゃんは、本当に僕の気持ちには気付いていないようだ。
    暫くそんな話で盛り上がると、また少し元気のないハルちゃんが口を開いた。
    「就活って1月から始めるんだね。」
    「ああ、だいたいそんなものかな。早い人は年明け前から動いてるよね。」
    「それで、もうみんな内定もらっているんでしょ。」
    「みんなってわけじゃないけど。もらっている人もいるかな。」
    「留学はすごく楽しかったの。英語だけじゃなくてコミュニケーション能力も身に付いて、行って良かったと思ってる。ただ、帰国したらみんながもう就活終わっててさ。」
    ハルちゃんはそこまで話すと、水を1口飲んで、続けた。
    「リエちゃん達も、ちょうど高校卒業して、それぞれ進学したところなんだよね。みんな、大きな一歩を踏み出していて、自分だけ何も変わってないんじゃないかって、置いて行かれたような気持ちになっちゃって。」
    「それで、元気がなかったの?」
    「うん。あれ。ばれてた?」
    ハルちゃんがはにかんだ。
    「うん、わかるよ。」
    だって好きでずっと見て来たんだから。とは言えなかったけど。
    「でも、まだまだ募集はあるし、人によっては卒業する3月まで内定もらわないで、本当に納得する企業に決まるまで、就活続ける人もいるって聞くよ!」
    僕は励ますつもりで言った。
    「3月か。長いね。私のメンタルがそこまで持つのか。」
    あれ。全然励ませなかったー。

    ***************

    日本の就職活動が、1月から始まるなんて全然知らなかった。でもどんな会社や職種があるのか、調べるところからであれば、1月からの活動でも遅すぎるくらいかもしれない。
    このスケジュールを大学が把握していながら、何故1番大事な時期の交換留学なのか。
    一緒に留学に行った晶子によれば、就職活動のタイミングを逃して、大学院に内部進学させる目論みがあるんじゃないかと。確かに、留学に行った先輩達を見ると、大学院に進学している学生が多い。
    私は自分の学生生活は、学部で終わるものと思っていた。院に進むのは本当に勉強熱心で、学びたいことが1つに絞れている人に限ると思う。ただの就職浪人で、大学院に進学するのは不本意だし、親も応援はしてくれないだろう。
    充実感に満ちて帰国した直後に、この状況に遭遇して、私の気持ちはどんどん沈んで行った。「帰国したよ」のmixiの日記の更新よりも先にしたことは、就活サイトへの登録だった。
    そこで愕然としたのは、私でも知っている有名企業の募集はほとんど終わっていたことだ。もう私には有名企業に就職する術はなくなったのだ…。
    この調子で帰国後は、気持ちが焦り過ぎて、アルバイト先にも顔を出すことも忘れていた。
    久し振りに店に顔を出して気が付いた。
    高校生だった、長屋くん、リエちゃん、ノリちゃん、真由子は、みんな卒業してそれぞれ専門学校に入学していた。
    私が高校生で進路を決める時、明確な職業が思いつかなくて、漠然と大学を選択した。でも本当は、何か資格を取得できる専門学校の方が就職に有利だったんじゃないか。例えば、会計関連の資格が取れる専門学校に入って、どこかに就職して、実績を積んでから違う会社に転職することだってできる。
    何故4年間も大学に通って、無駄な時間を費やしてしまったのだろう。3歳下の彼らの方が、将来に向けて一歩リードしているように感じた。
    今の私は、自動車の運転免許と英検3級しか、資格欄に書くことができない。TOEICの点数は書くけど、800点以上でないと何の有利にもならないだろう。
    自分の強みも、説得力のあることが思い浮かばない。サークルは英会話だったから、TOEICにまとめられてしまうし、アルバイトでもサークルでもリーダーをしていたわけでもない。卒業論文のテーマも、まだ決めてないけど特別面白いことは思いついていない。私は企業に対して、何をアピールすればいいだろう。
    帰国後の私は、浦島太郎のように、周りの友達の就職への歩みを知ることになった。自分も歩み出さなければ、玉手箱を開けた時にただの年上の身のない人間になってしまう…。
    とにかく焦っていたから、闇雲に会社説明会に行っては話を聞き、並行して自己分析も始めた。他の友達は、春休みの間に就職説明会やセミナーに参加していたから、自己分析も十分にしてから、エントリーシートを書いているようだった。私には時間がないから、大学の学生課や就職相談課に行っては、話を聞いてもらい、みんなに遅れを取りながらも自己分析を進めていった。そうしている間に、一社、また一社と募集が終わっていき、募る焦燥感と反比例して進まない自己分析。帰国したのは爽やかな初夏だったはずなのに、自分とパソコンと睨めっこして過ごしていたら、季節はあっという間に梅雨空に変わっていた。
    就職活動で時間がないながらも、ロンドンで散財してきてしまったから、アルバイトはコンスタントに入っていた。卒業研究に集中しているという高橋くんや、専門学校の授業がみっちりで忙しい長屋くんの方が、見かけない日が多かった。
    すごく興味がある会社ではなくても、練習にもなるからと、積極的にエントリーすることにしていた。多くの企業で、エントリーシートは通ることが多く、一次の筆記試験や面接で落とされることが多かった。この日は、全国にショールームを構える、大手キッチンメーカーの会社説明会と、一次の筆記試験だった。違う企業のエントリーシートを明け方まで書いていて、ほとんど寝ていない状態で、キッチンメーカーの本社に向かった。
    瞼が落ちてくるギリギリのところを保ち、なんとか説明会を乗り切り、筆記試験が始まった。SPIは得意で、落ちることがほとんどなかったから、この企業の対策を何もしていなかった。蓋を開けてみてびっくり、SPIではなく記述式の筆記試験で、しかもこの企業に関すること、商品名や企業の歴史なども出題された。会社説明会を必死に聞いていれば、少しは正解できたかもしれない。ほとんど眠った状態だった私は、この企業に関する設問を、ほとんど答えることができなかった。
    たとえ練習のために受けた企業であっても、この回答は相手に対して失礼だったと反省した。他の就活生は、事前に企業のリサーチをして、研究を重ねた上でエントリーしていたに違いない。まずは目の前の課題を一つずつ丁寧に解決していくこと、そこから始めないと自己分析も完成しないし、就職にも結びつかないのではないか。
    いろいろなことを考えながら一度帰宅し、スーツから着替えてアルバイト先へと向かった。あまり寝ていないし、うまく動けるか不安ではあるが、急に休むと店や仲間たちに迷惑がかかる。今の「目の前の課題」は、アルバイトの業務。これも丁寧に解決できないのであれば、どこにも就職なんてできないのだ。
    アルバイト先に着き、私は普段通り業務をこなしていった。接客、テーブルの片付け、会計対応など…。平日でも店は、夕食の時間帯には混雑する。
    21時を過ぎ、少し空き始めると、キッチンに入って各テーブルに置く、紙ナプキンの補充などの作業に入った。いつもなら、22時過ぎてから始める作業だが、この日はフロアに高橋くんとノリちゃんもいて人出は十分だったから、先に始めたのだ。
    店では、爪楊枝も各テーブルに配置していて、あまり減るものではないのだが、この日は爪楊枝も、整備しておこうと、新しい爪楊枝のパックを開けて、各テーブル分の補充を始めた。すると、手が滑ってしまい、700本近くある爪楊枝の束を台の上にばら撒いてしまった。自分で良かれと思って始めた事が、かえって仕事を増やしてしまった。
    深い後悔に襲われつつも、慌てて元に戻そうと片付け始めると、
    「ああ、大丈夫?ここは後でいいから、フロア出てお客様対応をお願いできる?」
    店長に言われたまま、私は慌ててフロアに出て、接客の対応に戻った。その後23時を過ぎて、閉店時間を迎えると、ノリちゃんと高橋くんに、爪楊枝をばら撒いてしまったことを話した。
    「バラバラになると、いきなり向きがあちこちになって、片付けづらいんだよね。もうどうせお客様には出せないんだから捨てるだけでしょ?」
    とノリちゃん。
    「確かにお客様のところでは使えないけど、捨てるのももったいないから片付けようと思ってて…。フロアの片付け、2人に任せていい?」
    と私が言うと、2人は快諾してくれた。これまでは23時以降の作業を高橋くんと2人でしていたから、ノリちゃんが働けるようになったことで助かった。
    私はあちこちに向きがバラバラになってしまった爪楊枝を、ようやく片付け始めた。
    すると、キッチンの片付けをしながら店長が話し始めた。
    「それ、本当もう途中でやめてもいいよ。もったいないのは確かだけど、お客さんには出せないし。俺も家でやったことあるけど、軽いからか向きがあちこちになって、すごい大変なんだよね。」
    「すみません、こんなことになって…でも中途半端が嫌いなんで、片付けます!」
    私は頭を下げると、黙々と爪楊枝の向きを揃えて、入れ物に戻し始めた。バラバラではあるけど、向きは頭かおしりか2つしかない。頭を見つけて揃え始めると、段々とコツを掴んで、そこまで時間のかかる作業でないことに気がついた。5分もすると、元通りに戻すことができた。
    「ハルちゃん、早いね。ありがとう。片付けてもらった分は、尖った先にティッシュでも付けて、隙間掃除するときに使わせてもらうよ!」
    また店長に声を掛けられた。店長は作業をしながら続ける。
    「最近さ、生きるって面倒臭い事の積み重ねだって、気付いたんだよね。洗濯も面倒。ゴミを捨てるのも面倒。俺に子供がいないから、本当のところはわからないけど、子育てなんて面倒臭い事の塊でしかないと思うんだよ。オムツ替えたり、少し大きくなれば宿題もみてあげなきゃならないし。でも子育てに関しては、きっとそこに愛があるから、面倒なんて思う暇ないんだろうなぁ。」
    店長は、遠くを見つめながら続ける。
    「仕事に限って言えば、ここに愛なんてなくて面倒臭い事しかないよ。俺なんか毎日の売上をエリアマネージャーに報告するのが嫌いでさ。さっきみたいに、爪楊枝ばら撒いちゃったら片付けるのも面倒だし。ただ、面倒臭いって感じるのは大事だと思ってる。だって面倒臭いと思わないと、効率化しようとか改善しようって思わないもんね。お陰様で俺、エクセルがめちゃくちゃ得意になったよ。だから、今はまだ分からないかも知れないけど、その面倒臭いって気持ち、忘れないでいてね。今日、ハルちゃんがそのめんどくせーって片付けをやってくれる子で良かったなった改めて思ったよ。」
    「はい。ありがとうございます。」
    よく分からないけど、店長なりのフォローなのだろう。自分としては、昼間の反省から、どうしても「目の前課題」を1つずつ丁寧に片付けたかったのだ。これもその1つだと思った。
    店長は慌てて補足した。
    「子育ての本当のところについては、佐藤さんに聞いてみて。それか10年後、もっと早いかもしれないけど、自分で経験して俺に教えてよ。」
    「えー、店長も自分で経験してください!」
    私は片付けを全うした達成感から、明るく言い返して、フロアの片付けに参加した。
    23時半にいつも通りタイムカードを押すと、私たちはそれぞれ着替えて店を出た。
    ノリちゃんとは家が反対方向なのもあり、
    「お疲れ様ー!またね。気をつけてね。」
    とお互いに言い合っていつも駐輪場で別れる。
    私は自転車にまたがる前に、携帯電話でメールを確認した。何件か、就職サイトからの連絡が入っていた。早く帰宅して内容を確認しなければ。
    そこに、高橋くんが話しかけてきた。
    「ハルちゃん、今日この後少し話せない?」
    「あ、ごめん。今携帯見たら、就活サイトからメール来てるみたいで。内容確認したいし、今日は帰るね。またね。お疲れ様!」
    「うん、わかった。就活頑張って。」
    私は自転車に乗ると、家路を急いだ。

    ***************

    いつから、こんなにすれ違ってしまったのだろう。
    「高橋、またmixi見てるの?」
    また祐輔に見つかってしまった。
    「うん。開いてるだけね。」
    「好きな子、帰国して会えたんじゃないの?」
    「うん。会えたし、話もできたよ。でも、帰国後はmixiの更新も一回もないし、離れてる時の方が状況がわかったっていうか。」
    「なにそれ。もう直接会えるようになったんだし、気になるなら話せばいいじゃん。」
    「就活に乗り遅れたことをすごく気にしててさ。忙しくてそんなに話せないんだよ。その状況でメールがんがん送る気にもなれないし。そうしたら、mixiでも更新してくれて、今こうなんだなって知れていいのにって。」
    「就活で忙しいのに、mixiにかまけてらんないだろう。」
    がははははと笑いながら、裕輔は研究室を出て行った。
    まさしく、mixiではなく恋になんてかまけてなんていられない時期なのだろう。
    それは僕も分かってて、だから話を聞くくらいしたいなと思っているのにそれすらもうまくいかない。
    留学前、留学に行っている間は、こちらの気持ちを知らなくとも、いい友人関係を築けていると思っていた。今はそれすら怪しい。とにかく、彼女の就活の状況と気持ちが落ち着くのを待つしかないのかー。
    季節は梅雨から本格的な暑さが待っている夏へと、移り変わって来ていた。
    「また花火大会の時期が来たね。」
    その日店に着くと、店長が話し始めた。
    「今年は高橋くんも行くの?」
    「あ、今年は行こうと思ってるんですよ。ノリちゃんとかみんなで。まだ予定聞けてないんですけど、去年みたいにバイト途中で抜けて行く感じにすると思います。」
    僕は、去年ハルちゃんが来年は一緒に行こうと話してくれたことを思い出した。そこで、ノリちゃんに連絡してみることにした。
    「今年も去年のプランで行こうと思ってて、真由子とは話してるんだけど、ハルちゃんは忙しそうだから話せてなかったの!高橋くんから聞いてもらえる?」
    ノリちゃんからの返信は早かった。そして、ノリちゃんたちも気を遣っていることに気付かされる。この状況で誘ってもいいものかー。
    「今年の花火大会は、俺もみんなと一緒にバイト途中抜けして行こうと思うんだけど、ハルちゃんも行かない?ノリちゃんから、まだ花火大会のことちゃんと話せてないって聞いてさ。」
    何度も何度もメールを打ち直し、最終的にこの内容で送ってみた。
    「花火大会、行きたい!」
    返信は意外にも早く、そして短文だった。でも良かった。一緒に行けそうだ。
    花火大会は、長屋と正孝さんも行くことになった。2人は僕が来年の夏にはもうここにいないことに気付いてくれて、最後だし行きたいと言ってくれた。
    花火大会当日は、ハルちゃんはシフトには入ってなかった。何件かまとめてエントリーしようとしている企業があるとのことで、ギリギリまでエントリーシートの作成をしているからと、かなり今詰めて作業をしている雰囲気だった。
    長屋と正孝さんと僕、ノリちゃんと真由子は途中抜け、抜けている間は佐藤さんがヘルプに入ってくれて、キッチンには原山くんが残っているという体制だ。佐藤さんが店に入ってくると、僕に小さな声で話しかけてきた。
    「ハルちゃん、就職活動が思うようにいかないみたいで、元気ないね。心配なんでしょ?」
    「あ、はい。」
    「ハルちゃん、随分元カレのこと引きずってたけど、元カレとはもうすっぱり縁を切ったのは聞いてる?着信拒否に、メールも拒否して、全然会わないようになったみたい。そうしたらお店にも来なくなったね。もう結構前のことみたいだよ。」
    元カレのことをすっかり忘れていた。縁が切れたのなら良かった。
    「高橋くん、お節介かもしれないけど、言わないと何も伝わらないから。ハルちゃんは何も気が付いてないよ。がんばってね!」
    佐藤さんは笑顔でそれだけ言うと、フロアに出て行ってしまった。
    僕は頬が赤くなっていくのを感じた。店では誰にもハルちゃんのことを好きとは話していないはずなのに、バレているのか。急に恥ずかしくなってきた。他に誰が気がついているんだろう。
    僕は遅れてくるかもしれないハルちゃんを、途中まで迎えに行く役目を担っていた。それもなんかもう、自分がハルちゃんを好きだから行くみたいなことになってやしないか、急に恥ずかしくなった。
    しかも言わなきゃ伝わらないってなんだ。今日告白しろってことか?自分では何も予定してなかったことだから、半ばパニックに陥った。
    でも落ち着いて考えれば、これはチャンスなのかもしれない。つい1年前のあの日、元カレといるのを目撃してしまい、自分には入る隙なんてないと静かに自分の気持ちに蓋をし続けてきた。
    今はもう、元カレに気持ちがないとわかれば、好きだと伝えてみて、考えてもらってもいいのかもしれない。
    いや、でもそれってやっぱり今なのかー?彼女が就活に明け暮れている今言うべきこと?落ち着いてからの方がいいのではないかー?今就活以外に、彼女の負担を増やしたくない。
    自分の中でぐるぐるぐるぐる、考えが巡って、結局答えの出ないまま、花火大会の時間になってしまった。ハルちゃんは予定通り遅れてくると言うので、みんなで河川敷にシートを敷いて場所取りをした後、僕は会場内のわかりやすい場所へと移動した。
    ハルちゃんが来ないまま、花火大会は始まった。
    パーン!パーン!と始まりの花火が、夜空を彩る。綺麗だ。
    僕は、打ち上げ花火を間近で見るのが久し振りであることに気が付いた。いつ以来だろう。中学生以来かな。家族で見に行ったのが、最後だった。
    これをハルちゃんと見られるかもしれない。そう思うと、彼女の到着が待ち遠しかった。

    ***************

    エントリーシートをぎりぎりで書き上げ、私は花火大会へと向かった。去年の花火大会には、ノリちゃんと真由子と楽しく行けたのに、最後の最後で健太がやって来て、そこだけ嫌な思い出に変わったことを思い出す。
    健太とは、高橋くんがファミレスで「悪い男から離してやりたい」と言ってくれて以来、メールも電話もすべて拒否して会わなくなった。友達から、大切に思われている自分を、大事にしたいと思えたのだ。
    来年の夏には、私も高橋くんもアルバイトを卒業しているから、今年が最後の花火大会になる。私は地元がここだから、残っているかもしれないけど、高橋くんは来年にはもういない。そう思うと、急に寂しさがこみ上げて来た。
    花火大会は、すごい混雑になるから、会場の入口まで高橋くんが迎えに来てくれているという。最初で最後の花火大会なのに、私を迎えに来たら、せっかくの花火を見逃してしまうのではないか。心配にもなったけど、大丈夫と言うので、優しさに甘えることにした。
    会場の河川敷が近づくと、パーン!パーン!と大きな音と共に大きな花火が打ち上がるのが見えた。人出もどんどん増えて来て、特に浴衣姿の女の子が目立って来た。
    早く行かなきゃ。
    Tシャツにジーパン姿で、私は早歩きで高橋くんとの待ち合わせ場所に向かった。


    第七話 あの時


    今振り返ると、本当にあの時しかなかったんだと思う。最初で最後のチャンスだったのだ。
    あの時、僕が自分の気持ちを打ち明けていたら、
    あの時、私が自分の気持ちを話せていたら、
    何か、変わっていたのかなー。

    ***************

    「高橋くん、遅くなってごめんね!ちょうど始まっちゃったね。」
    ハルちゃんが小走りで、こちらに向かって来て言った。
    「ううん。ちょうど良かったんじゃないかな。みんなもあっちで待っているから、行こう!」
    「そうだね。行こう!」
    ハルちゃんは、浴衣姿の女の子を見ると、
    「私も浴衣着たかったな。」
    と、呟いた。Tシャツにジーパンで普段着姿のハルちゃんでも十分だけど。
    「確かに、見てみたかったな。」
    僕は、頭を少し掻くと、そのまま続けた。
    「ハルちゃん、もうたぶん気が付いていると思うけど、ずっと好きだったよ。就活で大変な今、言わない方が良いと思ってたんだけど。急にこんなこと言ってごめん。」
    ハルちゃんは、驚いた顔で頬を赤くした。
    花火の音がパーン!パーン!と絶えず続き、夜空はその度に明るくなった。
    「私は。私は高橋くんのこと、正直好きとかそういう風に考えたことはなかったんだけど。でも一緒にいると落ち着くの。ずっと話していたいなと思うの。あと、ずっと振り回されていた元カレのことは、高橋くんのおかげで忘れられたんだ。」
    「そうなの?」
    僕は驚いて返す。
    「こういう好きのなり方もあるのかもしれない。」
    ハルちゃんは、微笑んだ。そして、
    「行こう!みんなが待っている!」
    そう言って、走り出した。
    ***************
    こうして、僕たちの関係は始まった。
    ハルちゃんは就職活動が忙しいから、駅前のコーヒー屋さんで会ったり、公園で会って少し話したり、そんな関係から、たまには気晴らしに行こうと、バイクに乗せて思い出の中央公園に行く日もあった。
    「懐かしいね。早い時間に来れば怒られないんだもんね!」
    と、僕は公園の警備員に追いかけられた日を思い出した。
    「そうだよ。今日は時間に余裕があるから、たくさん花火が出来るね!」
    ハルちゃんも笑顔で話し、手持ち花火に次々と火をつけていく。
    噴き出し花火や、ロケット花火も、一通りやると、最後はやっぱり線香花火だ。
    「どっちが長く持つか、競争ね。」
    とハルちゃんから挑戦された。二人だけから、線香花火もたくさんあって、なかなか勝負がつかなかった。
    楽しかったねと言って、バイクに乗ろうとしたとき、
    「たまにはバイクもいいんだけど、そうするとこのあとお酒飲めないんだよね。どうしようか。一回バイク置きに帰っていい?」
    と僕は言った。
    「家で飲めばいいんじゃない?」
    ハルちゃんは、あっけらかんと言う。
    「え、うちに来るの?」
    僕の感覚は高校生並みにピュアだった。
    「今日は行かないよ。急だし。また今度にしよう。」
    「え、来ないの?」
    「だって急に行くのは迷惑でしょ。」
    「そんなことないよ!来ていいよ!」
    「ははは。がっかりしたの?本当にまた今度にしよう。掃除しておいてね。」
    ハルちゃんには振り回されてばかりだ。がっかりしたけど、後日予定して本当に来てくれた。
    DVDを借りて、一緒に映画を見た。気になっていたけどまだ観れていなかった、モンスターズインクだ。
    二人でげらげら笑いながら観て、その日はご飯を一緒に作って食べた。驚くほどにハルちゃんは料理ができなかった。
    「実家暮らしだから仕方ないよー!練習するよ!」
    「留学中は、料理してたんじゃなかったっけ?店のキッチンで働くとか言っていたのに!」
    ははははと楽しい笑い声が響く。お酒を飲みながら作った料理を食べて、ハルちゃんは気が付くと眠ってしまっていた。やはり、就職活動で疲れているのだろう。
    1時間ほど寝かせてあげて、その日は家までバイクで送って行った。
    ハルちゃんの就職活動は、なかなか思うようにいかなかった。内定が取れたところも何件かあったようだけど、本当に行きたいところではないと言って、最終決定の段階で蹴ってしまっていた。
    季節はあっという間に、夏から秋へと移り変わっていた。
    僕たちは、直接アルバイト仲間達に交際宣言をしたわけではなかったけど、この頃には周知の事実になっていた。それでも変わらずに、みんなで遊ぶ関係は続いていた。
    その日は、正孝さんとハルちゃんと3人で、アルバイト終わりに駅前の居酒屋で少し飲みに行った。
    「就職浪人がなかなか就職出来ないって話は確かに聞くね。」
    正孝さんはビールを飲みながら言った。
    「やっぱり難しいよね。間が空いちゃうと。でもこのままだと3月までに決まる気がしないんだよね。」
    ハルちゃんが嘆く。
    「もう少しバイト頑張ってお金貯めて、もう一度留学するのはアリかなと思ってるんだけど。お金が貯まるのがいつになるやら…」
    「留学する方が、ただの就職浪人よりは就職し易そうな気はするね。まあ、何にしても俺に何を言う資格があるかだよ。はははは。」
    と、正孝さんは豪快に笑った。
    「正孝さんのアメリカ計画はどうなったんですか?」
    僕はずっと気になっていたのに聞けずじまいだったことを聞いてみた。
    「こちらも金さえあれば、という話ではあるよ。目標は二人の旅立ちのタイミングを狙ってはいるんだけど。ごめん、間に合わなそう。」
    「旅立ちのタイミングって3月ってこと?」
    ハルちゃんが食いつく。
    「そう。なんかさ、店のメンバーからしても3人見送るのがいいかなって最近考えていたんだよね。」
    「無理に合わせなくてもいいと思うけど。ほら、私就職浪人するから、残るかもしれないし!」
    ハルちゃんが明るく言う。
    「そうすると、卒業するのは俺だけって事?なんだか寂しいな。でもせっかく決まったのに就職しないわけにもいかないけど。」
    自分の旅立ちのタイミングが半年先に迫っている事に気が付く。こうやって、当たり前のように会って話したり、一緒にごはんを食べに行けるのも残りわずかだということだ。
    だいたい、僕とハルちゃんの関係はどうなるのだろう。何も考えていなかったけど、ハルちゃんの就職先は、高確率で都内になるだろう。他の都道府県だとしても、静岡になる確率は相当低い。その場合、遠距離恋愛が実って、結婚って話になったら、こんなに頑張って就職活動をして入った会社を、ハルちゃんは辞めることになるのかー?付き合ってまだ数ヶ月で、何を考えているのだ、と笑い合っている二人を見て、僕は我に返った。
    とりあえず、噛み締めなければならないのは、今のこの瞬間だけ。残された時間は僅かなのだから。
    冬になっても、ハルちゃんの就職活動は実を結ばなかった。この時期には募集自体が大きく減っていて、年明けには次年度の卒業生向けの就職活動が始まってしまう。ハルちゃんの中では、焦りもなくなり、諦めの方が勝っているように見えた。
    ハルちゃんが忙しくて、なかなかデートが出来ずにいた僕たちは、クリスマスくらいはと、出掛けることにした。
    僕の好きなバンドのライブに行ったのだ。ハルちゃんは、色々と音楽は聴くけど、ライブに行くのは初めてだと、とても楽しそうにしていた。そして、店長が言っていた通り、会場近くの飲食店はどこも満員で、入ることが出来なかった。レストランを予約しなかったことを僕は後悔した。
    仕方がないので、自分たちの住む街に戻り、駅前のチキン屋さんでチキンを食べて帰った。クリスマスディナーみたいなことは出来なかったけど、これはこれで良い思い出となった。
    クリスマスプレゼントには、お互いがお互いにプレゼントするということで、ペアリングを買いに行った。あと3ヶ月もすれば離れ離れになってしまうから、お揃いの物が欲しいと、僕から提案した。
    そうして、気が付けば年が明け、いよいよ卒業の日が近づいて来た。
    僕の卒業研究も佳境を迎え、ハルちゃんも就職活動に本腰を入れ始めた。1月はそんな生活で、週に1回、近所の公園で会って30分話す程度の関係が続いた。毎日のおやすみメールだけは欠かさずに送るようにしていたけど、確実に連絡を取る回数も減っていた。
    2月に入ると、僕の卒業研究は無事に終わりを告げ、僕は卒業が確定した。
    バレンタインには、料理に不慣れなハルちゃんが一生懸命トリュフを作ってくれた。僕は海外式に、お花を1輪あげたら、この上ないくらい喜んでくれた。
    そして遂に、ハルちゃんの就職先が決まった。2月の終わりのことだった。ハルちゃんは第一希望は商社と言いながらも、幅広い業種にエントリーしていた。最後の最後で決まったのは、希望していた商社だったからさすがだ。ここまで来ると粘り勝ちとしか言いようがない。
    こうして僕たちは、初めてお互いに何のしがらみもない状態になれた。盛大にお祝いをして、せっかくだからと卒業旅行に行くことにした。思い立つのが遅かったので、安い値段で行かれるのは東南アジアだけだった。色々な場所を検討して、僕たちはフィリピンのセブ島に行くことにした。日本から直行便が出ているビーチリゾートだ。
    僕は初めての海外で緊張していたけど、フィリピンは英語が通じるということで安心した。日本人観光客がよく訪れることもあるからか、現地の人もみんな僕たちに親切にしてくれた。
    セブの海は透明でとても綺麗で、ダイビングをしなくてもシュノーケルだけで沢山の熱帯魚を見ることが出来た。
    アルバイト先への店へのお土産にドライマンゴーを沢山買って帰った。リエちゃんが好きらしく、とても喜んでいた。
    そうして、楽しい日々は終わりを迎える。3月の卒業式の後、僕は4年間住んだアパートを引き払って、静岡の会社の寮に入ることになった。寮と言っても借り上げのアパートだから、管理人もいないし、春休みの間はハルちゃんも泊まりに来て過ごした。
    4月になると、僕たちの遠距離恋愛が始まった。お互いに研修も忙しく、毎日のおやすみメールを送るだけの日々も続いた。
    こうしてー。

    ***************

    カシャン!
    目の前を歩いていた人が、スマホを落として、高橋は我に返った。
    一瞬のうちに現実に戻される。
    そうだ。実際は言えなかったのだ。あの時、何も。
    当時は自分のことをヘタレとかそんな風に考えたこともなかった。
    でも今振り返ると、本当にあの時しかなかったのだと気付く。

    ***************

    カシャン!
    目の前を歩いていた人が、スマホを落として、春香は我に返った。
    一瞬のうちに現実に戻される。
    そうだ。実際は言えなかったのだ。あの時、何も。
    高橋くんのことを好きとは思ったことはなかったけど、あの時自分がどんな風に思っているか伝えるべきだった。少なくとも、健太と離れさせてくれるきっかけを作ってくれたことだけでも。
    ***************

    「高橋くん、遅くなってごめんね!ちょうど始まっちゃったね。」
    私は高橋くんを見つけると、すぐに走って行った。
    「ううん。ちょうど良かったんじゃないかな。みんなもあっちで待っているから、行こう!」
    「そうだね。行こう!」
    私は浴衣姿の女の子を見ると、
    「私も浴衣着たかったな。」
    と呟いた。
    しかし、すぐに何を言っているんだとはっとし、
    「この後みんなバイトだしね。私服の方がいいに決まっているじゃんね。」
    と慌てて言い繕った。
    高橋くんが少し戸惑っているように見えたから、
    「みんなが待っている!早く行こう!」
    と、続けて言って、みんなが待つ方へ走って行った。


    第八話 あれから


    花火大会の後も、ハルちゃんとは良好な友人関係が続いた。アルバイト中もよく話したし、仕事終わりに飲んで帰ったり、休みの日にみんなで遊んだり、それまでと変わらない日々だった。
    秋になると、僕は学園祭の準備を手伝うことになった。これまで面倒だしほとんど関わらずに過ごしてきたけど、学生最後の思い出に手伝っても良いかと考え直した。
    僕は実行委員会のメンバーに指示され、チラシを街に配布する役目を担った。店長にも許可を得て、アルバイト先にもチラシを貼ってもらった。すると、後日違う学生も、チラシを貼ってもらえないかと店にやってきたと店長に言われた。僕は他にもチラシを配ってる学生がいたことを知らなかった。実行委員会に報告すると、もう1人チラシを配っている学生がいるからと説明され、2人で協力して配るようにと3年生の女の子を紹介された。
    おとなしい女の子だったけど、話しかけると笑顔を見せてくれ、自然に打ち解けていった。その子と過ごす時間も増え、メールのやり取りをする回数も多かった。
    気がついたら、その子から告白されて、僕たちは付き合うことになった。一緒にいて楽しかったし、嫌なところも見つからなかった。一緒にいればだんだん好意が生まれるだろうし、告白されて断る理由が見つからなかった。
    付き合ってみて気が付いたのは、僕が東京のデートスポットにこれまで行ったことがなかったということだ。中学校や高校のときには、彼女がいたこともあったけど、東京に来て初めての彼女だった。
    だから、お台場も表参道もとても新鮮だった。大学やアルバイトの仲間達と、ご飯を食べに行くことはよくあったけど、女の子が好きそうなかわいらしいカフェやケーキ屋さんも、これまで縁がなかった。
    映画も、DVDをレンタルしてきて自宅で見てばかりいたのに、東京の最新のシアターに彼女と行くことができた。
    上野動物園や品川の水族館にも行ったことがなかったし、大学近くの公園も、散歩目的で行ったことがなかった。上野動物園は、とにかく外国人観光客の多さに驚いた。子供ばかりで、大人が行くのは気まずいかと思っていたけれど、大人の数もそれなりに多いし、久し振りに見る動物達には癒された。品川の水族館は、エスカレーターの上にも水槽があって、地元の水族館とは比べ物にならないくらい都会的だった。
    僕がデートで訪れて何より感動したのは、東京タワーだ。当時はまだ、東京スカイツリーがなかったから、東京タワーが唯一無二の東京のシンボルだった。夜の街に煌々と赤く輝くそれは、外から見ても美しく、上から景色を眺めてもきれいだった。車のヘッドライトがただ連なっているだけなのに、東京ではその数の多さから、星が地面に散りばめられたかのように輝いていて、都会の美しさを感じた。
    これまでクリスマスにアルバイトを休んだことがなかったけど、学生最後だし店長許してくれと思いながら、初めてクリスマスに女の子とデートをした。東京のデートスポットも疎かったが、彼女もたまには遠出をしてみたいと言うので、初めて横浜に行ってみた。クリスマスなのに中華街で中華を食べるもの新鮮で、街並みもきれいだし申し分ない。
    30分も待って観覧車に乗って、観覧車の中で僕は彼女にネックレスを、彼女は僕に手袋を、お互いにプレゼントし合った。アルバイトしているから、高校生の時よりもお金があったし、少し大人びたことが出来て嬉しかった。
    年末年始は、例年通り実家で過ごして、冬休み明けに東京に戻って来た。東京での生活も残り3ヶ月。卒論を仕上げたり、アルバイトをしたり、デートをしたり、時間が全然足りないように感じた。
    バレンタインには、彼女から本命チョコをもらって、ホワイトデーには今流行りという高級なハンドクリームをあげてみた。ハンドクリームの情報は、ハルちゃんやリエちゃんから教えてもらった。その効果は絶大で、とても喜んでもらえた。
    その後、卒論も仕上がり無事に大学卒業を迎えた。
    大学やアルバイトの仲間達と離れるのは寂しかった。それぞれが何回も盛大に送別会を開いてくれた。
    「本当は、花火がしたかったんだけど、この季節に花火が見付けられなかったんだ。」
    と、残念そうに話していたのはリエちゃんだ。
    「確かに花火は思い出深いけど、まだ寒いし、むしろ再会の時にやろうよ。楽しみにしているよ。」
    そう言って、僕は店の仲間達に別れを告げ、4年間過ごした東京から静岡に帰った。
    就職しても、彼女とは互いに行ったり来たりして、毎週末のように会っていた。それが、次第に回数が減っていって、夏頃には会っても会話が弾まない雰囲気になっていった。お互いに嫌いになった訳ではないが、何かがすれ違うようになっていったのだ。
    9月頃、彼女から電話で別れを告げられ、正式に別れることになった。とてもいい子だったし、一緒にいて楽しかったから残念だったけど、遠距離を乗り越えることができなかったのだから仕方がない。
    それからは、僕は仕事に明け暮れた。帰宅が22時過ぎる日が続くこともあったし、休みの日は、昼過ぎまで寝ていて、起きてもゲームをして1日中家から出ない日もあった。
    25歳を過ぎた頃、こんな生活を続けていては味気ない人生で終わってしまうと気付き、趣味のツーリングを再開した。職場はバイク好きで溢れていたから、先輩や後輩、予定が合う人を募ってはツーリングに出掛けた。
    27歳を過ぎた頃、転機が訪れる。ツーリング仲間の後輩が、彼女を連れて行きたいのだけど、女の子が1人だと気まずいから友達を連れて行きたいと言う。そこで連れて来られたのが、のちに妻となる女性だった。
    背がすらっと高く、きれいな人というのが第一印象だった。ツーリングのついでにバーベキューをした時には、手際よく野菜を刻んでくれて、料理上手な一面を見ることができた。その後、連絡先を交換して、頻繁に連絡を取るようになり、二人きりで会うようになって、気が付けば付き合っていた。
    3年間付き合って、僕が30歳、彼女が28歳の時に結婚した。僕も彼女も、出身は静岡だけど、東京の大学を出ていた。だから親戚向けの結婚式を静岡で行い、友人向けの二次会だけ東京で行うことにした。
    静岡に住んでいながら、東京の会場を押さえたり、衣装合わせをしたりと、二次会を東京でやるなんて言わなければ良かったと僕は本気で後悔した。夫婦の関係もかなりぎくしゃくした。しかし、大学時代の友達を二次会に招きたいというのは、彼女のたっての希望で、叶えない訳にいかなかった。
    そのタイミングで、僕は久し振りにアルバイト仲間達に連絡を取ることになった。
    ハルちゃんは、結婚式には呼んでくれなかったけど、去年結婚していたことが分かった。リエちゃんは今婚約中で、年内に結婚するという。
    真由子とノリちゃんと長屋は、今のところ結婚の予定はないと嘆いていた。まあまだ27歳だ。僕も妻と付き合い始めたのが27歳だったから、これからだろうと思った。
    正孝さんは、日本に帰国していることは分かったが、今はとても忙しくて行かれないと謝罪された。どうやら結婚したらしく、お子さんも生まれているようだった。下関に帰っているのか聞いたが、それについては回答がなかった。
    連絡が取れないかもしれないと危惧していた店長が、実は一番に返事をくれて、絶対に行く!とのことだった。今は違う店舗の店長になったと言っていた。相変わらず独身らしい。
    二次会当日は、2月のとても寒い日だった。男はスーツの上にコートを着れば暖かいが、女の子はドレスの上にコートを着ても、ヒラヒラのスカートには全然効果がないように寒そうに見えた。
    「高橋くん!結婚おめでとう!!!久し振りの連絡で嬉しかったよ!」
    そう言って飛び込んで来たのはリエちゃんだ。
    「ありがとう!来てくれて嬉しいよ。全然変わってないね!」
    リエちゃんに続いて、
    「高橋くん、おめでとう!!!奥さん可愛いね。」
    と言いながら、みんな次々に会場に入って来た。二次会の準備は、死ぬほど大変だったけど、こうしてみんなと再会する場を設けられたことで、苦労が報われた気がした。
    まだ卒業して7年しか経っていないのに、みんながみんな、それぞれの道を歩み始めていた。それでも、再会すればあの時のように会話が弾んで、何も変わっていないような気がした。そうだ、それはそれぞれの生活が変わっただけで、中身はあの頃のままだからだ。成長はしているけど、性格はあの時のまま。変わってないみんなにも、ほっとした。
    結婚してからも、僕は相変わらず忙しく仕事をしていた。妻も仕事をしているから、僕の帰宅を待たずに寝ていいと伝えて、帰宅後に妻が作った食事を温めて1人で食べる日々だった。
    週末は、二人でツーリングに出掛けたり、映画を観に行ったりした。子供のことは考えてない訳ではなかったが、授かり物だし何より仕事も忙しくて、なかなかタイミングが合わなかった。妻は本当は20代のうちに出産したい願望があったようだが、それを叶えることはできず、僕が33歳、妻が31歳の時に待望の長女が生まれた。
    あの時の感動は、一生忘れることはない。
    妊娠中も何もできないながら、妻のお腹が大きくなるのを外から楽しみに見守っていた。どんどん大きくなるお腹に、ちょっとずつ広がる僕の未知への不安。
    それをすべて取っ払ってくれた、長女の産声。抱っこした時の感触。小さな手。ミルクのような甘い香り。
    そのすべてが愛おしくて、僕にとって世界で1番大切なものは、娘になった。昔聴いた歌では「こどもは2番目に好きな人で、1番目に好きなのはいつまでも妻」だったはずなのに、実際は違うのだと知った。
    その後、妻からそろそろ二人目を考えたいと言われ、可愛い子供が二人になるなんてこの上ない幸せだと賛成し、2年後に次女が生まれた。
    次女の出産には、残念ながら立ち会えなかった。長女の世話があったからだ。
    それでも、長女と共にすぐに病院に駆けつけ、生まれて間もない次女を抱っこすることができた。子供の誕生は、一人目も二人目も、自分の子でも他人の子でも関係なく、感動することも知った。
    そうして僕の世界に大切なものは2人になり、すくすくと成長中。今は7歳と5歳だ。
    妻は、僕の中で子供が生まれるたびに順位を落としてしまい、それが故なのかそこまで仲のいい夫婦とは言えないかもしれない。二人で過ごす時間はほとんどなく、たまにあっても子供の話しかしない。妻は子供達と、テレビの話などいわゆる世間話をするが、僕とはしなくなった。僕も、子供達にその日の出来事など、いろんな質問を投げかけるのに、妻にはしなくなった。
    お互いに嫌いになったわけではないし、必要な存在であることに変わりはない。
    ただ、僕の中の妻の順位が落ちてしまっただけで、少し関係性が変わってしまった。
    もしこれが、相手が違っていたらずっと仲の良い夫婦でいられたのかなと、ふとした瞬間に考えてしまうことがあるだけだ。
    そんな、僕の今の人生ー。
    ***************。
    花火大会の後も、私の就職活動は続いた。
    エントリーしては落ち、エントリーしては落ち、まれに内定をもらうことがあっても、本当にここで良いのかと考えてしまい、結局決定には至らなかった。
    こうして秋になっても、就職活動を続けていたら、リエちゃんから高橋くんに大学で彼女ができたらしいと聞いた。それでも変わらずに友人関係は続いていたし、今の関係が1番良いのかもしれないと考えた。
    クリスマスになっても、就職活動は続いていたが、特にやることはなかったし、店長が「頼みの綱の高橋くんが来ない」と困っていたので、この年はイブもクリスマスも、店で店長と過ごした。
    店長は、この店に来る少し前にお母さんを亡くしたことを私に話してくれた。交通事故で急なことだったから、なかなか気持ちの切り替えができなかったらしい。それは想像するだけでも辛い出来事だと私は思った。
    それから、ご実家ではお父さんがお一人で暮らしているとのことで、定年退職したら実家に帰ってお父さんの面倒を見ると思うと話していた。ご兄弟は遠方で暮らしているし、家庭もあるから、最後お父さんの面倒を見るのは自分だと、覚悟しているのだそうだ。
    「いなくなった時に後悔するんだよ。ああしておけば、こうしておけば良かったって。だから、ハルちゃんも悔いのないようにね。」
    店長はそう寂しそうに言った。亡くしたわけではないけど、高橋くんのことを話しているのだと気が付いた。確かにそうだ。高橋くんに彼女ができてから、ようやくその存在に気が付いた。
    結局バイクの後ろに乗せてもらったのは、歓迎会の日が最初で最後になった。今ではきっと、彼女を乗せて走っているのだろう。
    今日がクリスマスということで、店長と寂しさを分かち合い、二人で賄いのチキンを食べてから帰った。生涯に一度くらい、こんな切ないクリスマスも良いかもしれないと思った。
    そして年が明け、私の就職が決まったのは、その後2月の終わりだった。
    いろんな商社があるけれど、決まったのは洋書を仕入れている小さな会社だった。
    「かいじゅうたちのいるところ」が大好きな私は、絵本も取り扱っているこの会社がとても気に入った。本配属は入社後に確定となるが、貿易事務として働くことになる。
    本当に沢山の人に相談に乗ってもらったから、決定後の報告には時間が掛かった。大学各所に始め、友達、そしてアルバイト仲間。みんな本当におめでとうと言ってくれて、よく頑張ったと長きに渡る活動を労ってくれた。
    そうして無事卒業を迎え、高橋くんは静岡へ帰って行った。
    驚いたのは、このタイミングで本当に正孝くんも店を辞めたことだ。アメリカに行く為の決断と言っていたけど、まだ行く日にちは決まっていないとのことだった。
    4月になり、私は水道橋にある小さな商社に勤め始めた。最初の頃は、各部署の研修で忙しく、どんなに内容を聞いても全然内容が頭に入って来なかった。
    とにかく早く一人前にならなければと、会社に遅くまで残って勉強した。
    転機が訪れたのは、夏だった。都内の小さな商社に勤める若手社員の座談会に招集されたのだ。
    そこで、海外とのやり取りについて生き生きと話す男性社員に出会った。後に私の夫となる男性だ。
    「アボカドって子供の時に食べたことがなかったじゃないですか。初めて食べたのはもう大人だったし、切り方も全然分からなかった。あれを日本に輸入しようと思って始めた人がすごいと思っているんです。しかも、マグロとか日本の食材とも合うし。僕も日本にまだない物を、当たり前に売っている物にしたいと思って、今の職業に就きました。世界を近づけたいと考えています。」
    私も過去に、アボカドやズッキーニを見て全く同じことを思ったことがあったから、感動してしまった。思い切って話しかけると、2歳年上の彼は今は中国と関わる仕事をしているとのことで、それについても熱弁を奮ってくれた。
    すごい情熱の持ち主だと尊敬した。一目惚れに近かったと思う。
    その後連絡先を交換して、仕事の相談をしているうちに実際に会うことになり、プライベートでは下戸な一面や、実はあまり英語は話せなくて身振り手振りでここまで来たとおちゃめな一面も見せてくれて、何回か会ううちに付き合うことになった。
    仕事に忙しい彼とは、月に1、2回デート出来れば良い方で、会えない時間の方が長かったけど、私は私で仕事に追われていたから気にならなかった。
    貿易事務なんてもっと暇な仕事かと思っていたのに、書類がひっきりなしに回って来て全然捌ききれない日も多かった。
    多忙な彼と5年ほど付き合って、私が28歳の時に結婚した。結婚式はお互いの家族だけで行って、友達は誰も呼ばなかった。披露宴をしていないと、友達への報告のタイミングも難しく、頻繁に会っている友達にしか報告が出来なかった。
    私が30歳の時、ようやく子供を授かることができた。まだ悪阻の症状がある頃、久し振りに高橋くんから連絡が来た。東京で結婚パーティーをするという。そのタイミングで私は、自分の結婚を報告した。
    結婚パーティーの日は2月で、まだとても寒い日だった。夫は、私の体調を気遣い、無理せずに座ること、疲れたら帰ること、帰る時には迎えに行くから連絡をほしいと言ってくれた。まだ安定期に入っていないから、誰にも妊娠していることを話すことができなかった。
    結婚パーティーは、表参道のおしゃれなレストランで行われた。
    久し振りに、高橋くん、長屋くん、リエちゃん、ノリちゃん、真由子、そして店長に会えてとても嬉しかった。実家は近いのに、気が付けば全然店には行かなくなっていて、久し振りの再会となった。
    高橋くんの奥さんは、スレンダーでとても綺麗な人で、いい人と結婚して良かったなと思った。
    私は自分の体調を気遣って、あまり遅くまでは滞在せず、夫に帰宅時間を連絡して、一緒に家に帰って行った。この頃の夫は、今からは想像がつかないほど優しかったと改めて感じる。
    その後、無事に妊婦生活を終え、31歳の時に長女を出産した。
    陣痛が始まってから、18時間の長い長いお産の末、出会えた長女は、私にとって何よりも愛おしい存在となった。
    その後、産休育休を繰り返し、長男、次男が生まれて、それぞれが現在9歳、5歳、2歳だ。
    その間に、私の会社は吸収合併されて、東京駅にオフィスは移転した。
    夫は3人目の出産後、ほとんど家にいなくなった。不倫している訳でも、家庭を壊そうとしている訳でもなく、仕事が多忙で家に帰れないのは確かではある。ただ、子供達に仕事以上の関心がないのも事実だ。
    私はどんなに忙しくても、子供達のその日の出来事やお友達の話等、LINEや会話で必ず夫に報告していた。写真や動画もたくさん送っている。忙しいのは分かるけど、それに対して何か返信があるわけでも、話すこともない。ましてや、行事の内容や先生、お友達の名前も、彼は何も把握していない。
    たまに家にいても、ソファーでぼーっとしているだけで、子供達から話しかけられない限り、自ら話しかけも遊んであげもしない。家事をすることもなく、私は家政婦と同様の働きをしなければならない。今流行りの「ワンオペ育児」にはまっている我が家だ。
    加えて、夫は私の作った食事を一切食べなくなった。私が子供に合わせて作る料理が、薄味だったり好みでなかったりするらしく、皿に盛って用意しておいても、食べられないでそのままになっている事が何度もあり、極めつけにはコンビニの空の弁当箱がゴミ箱に入っているようになった。これを繰り返されては、もう私は夫に食事を用意する気はなくなった。今は夫のために食事を皿に盛ることはない。
    知り合った頃、世界を近くしたいと熱く語っていた夫を思い出す。あなたの力じゃなくて、ITの力で、世界はとても近くなったと、内心夫を嘲笑う。夫と知り合った頃は、Skypeが出始めた頃で、インターネット回線で海外の人と無料で顔を見ながら話せると、世間は驚いた。でも当時の回線速度はとても遅くて、通話中に画面が固まることがほとんどだった。回線技術はそれから革新的に速くなり、今では他にもたくさんのビデオ通話アプリが世に出てきた。本当に相手が目の前にいるかのように顔を見て会話することができる。今では当たり前となったGoogleマップは、夫と知り合って間もなくストリートビュー機能が追加されて、世界を驚かせた。平面の絵の地図から、本当にその場所を歩いているかのような写真を見ていると、まるで世界旅行をしているような気分になり、世界を身近に感じられるようになった。これくらいのことをやってくれたら、まだ彼のことを尊敬できたかもしれないのに…。
    気が付けば、mixiには全くログインしなくなった。途中でFacebookに移行して、一時はFacebookしか利用しなくなったりもしたけど、今はSNSはInstagramしか見ていない。それでも、私は結構最近までmixiを利用していた方だと思う。夫と結婚する直前まで、みんなで撮った写真をアルバムに載せたりしていた。たまに高橋くんの足あとがあることを確認した。
    子供達は、まだまだ3人とも手がかる時期だ。夫も一緒に育児をしてくれたらどれだけ助かるだろうかと考える。1人風邪をひけば、私が仕事を休み、1人風邪をひけば、違う兄弟も風邪をひく。結果的に全員直るまで1週間近く休んでしまうこともざらにあった。
    そんな私の今の仕事は、AIがやれる事が多くなった。入社当時は、まだまだ有能なAI技術が備わっていなかったけど、私が出産する度に技術がどんどん進化し、あれよあれよと、私がやる仕事はほとんどAIができるようになっていった。貿易事務の仕事というよりも、今はエクセルのマクロや、他の自動化アプリの簡単なプログラムを書く事が仕事になってしまい、私がやるのはアプリが自動生成したファイルの最終確認だけだ。海外とのやり取りにやり甲斐を感じていた仕事だったのに、味気ないマクロ屋さんになってしまった。
    それでも毎日子供達3人は本当に面白い。末っ子は、家中ストーカーのように「かあちゃん、今どこ?」「かあちゃん、今何しているの?」と話し掛けに来て、トイレもお風呂も1人にさせてくれない。上の子達に負けまいと、一生懸命にしゃべり続ける姿は愛おしく、守るべき存在であると再認識させてくれる。
    寝るときは、動物の親子が丸まって1つになって眠るように、我が家も母子が密着して眠る。誰も彼もがかあちゃんの隣で寝たい!と言ってポジション争いが絶えなくて大変な夜もある。
    普段は子供達が大切すぎて、考えることもないのだけれど、夫との関係が冷めきっているのは、もし相手が違ったら、もっと仲の良い夫婦でいられたのかなと考えてしまう。
    そんな、私の今の人生ー。


    第九話 今まで


    「みんな元気にしているのかな?」
    高橋が口を開いた。
    「店長は、今は定年退職してご実家に帰っているって聞いたな。お父さんと二人で暮らしていて、近所に少しバイトには出ているようなことを言っていた。」
    「そうなんだ!俺の二次会の時には、まだ定年迎えてなかったから知らなかったよ。」
    「もともと、定年後はその予定って私聞いたことがあったんだ。あと、驚くのは佐藤さん!お子さんにお子さんが生まれたみたいで、要するにお孫さんが!」
    「へー!すげー!おばあちゃんなの?」
    「そうみたい。たまたまインスタでつながって知ったの。佐藤さんのお子さんってあの時すごく小さく感じだけど、私たちそんなに年齢変わらないんだよね。佐藤さん自身の出産が早かったんだと思う。若いおばあちゃんだから頼れて良いよね!うち、もう親も高齢でなかなか頼れなくて…」
    「確かに、若いおばあちゃんって頼れるよね。うちも同じだよ。妻が末っ子だから、お母さん達もう高齢で、全然頼れてないな。」
    「高橋くんは実家を継ぐのだよね?」
    「実家ね。弟が継いでて、もしかしたらそのうち俺も手伝うかなという感じなんだ。」
    「そうなんだ!そんな変化があったんだね。」
    「そう。何があるか分からないもんだよね。あと、正孝さんは?」
    「正孝くんね!高橋くんの二次会に来られなかったもんね。あの時ちょうど、二人目か三人目のお子さんが生まれるところだったんじゃないかな。立ち会えなくなるしって予定が見えないから行けないって言ってた。」
    「ハルちゃん、連絡取ってたんだね!」
    「そう、なんだかんだ正孝くんとはたまに連絡取ってて。」
    「じゃあアメリカ行ったか知ってるの?」
    「もちろん!あれから、正孝くんちゃんとアメリカに行って、ハーレー乗ってきたんだよ!ただ、夢と違ったのは横断はできなかったって事かな。確か、LAからラスベガスで帰って来た。」
    「え、それって結構近いのでは…?」
    「そう。ただの旅行になっちゃったって。それで恥ずかしくてみんなには言えなかったんじゃないかな。」
    「恥ずかしがらなくてもいいのにね。」
    「ちょっとやっぱり予算が足りなかったみたいなんだよね。それで帰国して知り合った人と結婚して、今はその人と一緒に子供向けの英会話教室やっていると思う!」
    「すげー!アメリカ横断より、すごい気がするけど!」
    「私も本当、そう思うよ。でもそれも正孝くんからしたら、本当は下関に帰らなきゃならないのにって理由で言えないみたい。」
    「下関には帰ってないんだ?」
    「うん。結婚してからずっと千葉にいるね。でも子供達が全員成人したら、本当に下関に帰るって言ってたよ!」
    「なんか、ハルちゃんが正孝さんに詳しくてちょっと妬くな。」
    「妬かないで!まあ、二次会断るときに、子供が生まれそうって言ってくれても良かったのにとは思うよね。どうしてもアメリカ横断出来なかったことを引きずってて、その後も話したくないのか…」
    「リエちゃん達、女の子は相変わらずたまには連絡取っているの?」
    「ううん。私はほとんど会わなくなっちゃった。3人はたまに会ってるんじゃないかな?」
    「そうか、それはそれで寂しいね。」
    「そうなのよ。いつか、もっとおばあちゃんになったら、再会出来たら嬉しいな。」
    「ハルちゃん、時間そろそろ?」
    春香は、スマホを見て時間を確認すると、30分経っていることに気が付いた。あっという間の30分だった。今日も帰宅後はワンオペ育児が待っている。
    「本当だ。帰らなきゃね。今日楽しかった。声掛けてくれてありがとう!私全然気が付かなかったから。」
    「ううん。こっちこそ貴重な時間をありがとう。2人でも大変だから、3人だと夕方のこの時間が更に貴重だって分かるよ。お互いに頑張ろうね。」
    「ありがとう。高橋くん、気を付けてね。」
    またねと再会の予定もないのに、挨拶をして、二人は別れた。

    ***************

    今日も思い出話ばかりして、結局肝心なことを何も言えなかったように思う。しかし今更何を言ってもなと、高橋は考えた。
    実は、高橋くんに助けられたんだと、言っても良かったのかもしれないと、春香は帰りの電車に揺られながら、考えた。

    ***************
    また僕は今日の日を「あの時」と思い出すのかもしれないー。
    また私は今日の日を「あの時」と思い出すのかもしれないー。


    第十話 君の歌


    「お会計は5320円です。お支払い方法はー?」
    「クレジットで。」
    「タッチか差し込みをお願い致します。」
    スマートフォンからピピッと景気のいい音がして、決済が完了した。
    高橋は店員から弁当を受け取ると片手に持ち、もう片方の手でスマートフォンをポケットに戻した。
    「レシートとお控えでございます。ただいまの期間中、5000円以上お買い上げの方に、こちらのスクラッチカードをお渡ししています。当たりが出ますと、人気のクッキー缶をプレゼント致しますので、お土産にもなりますよ。是非、お試し下さい。」
    高橋はありがとうと、軽く会釈をしてレシート一緒にスクラッチカードも店員から受け取った。
    銀色のスクラッチの部分を、爪で軽く擦ってみたが、全く削れない。昔ながらのスクラッチは、コイン等の硬い物がないと削れないようだ。
    混雑する土産物屋の壁側に寄り、高橋は小銭入れを探した。このキャッシュレスの時代に、現金が必要な時もあるものだ。全く現金を持ち歩かない生活を送っていた高橋だったが、最近になって近所の駄菓子屋に子供達と通うようになった。長年愛用していた長財布から、小銭入れに切り替えたところだった。
    高橋は、バッグのポケットから小銭入れを出し、コインを1枚出そうとした。
    あれ、この変わった形のコインはー。
    高橋は1枚の外貨を取り出した。
    ***************
    暗闇に突然小さな光る物が飛んできた。反射的に僕はそれを両手で挟み、キャッチした。見ると、外国のコインのようだった。
    「あげるよ!お土産!」
    アルバイト終わりのハルちゃんが店から出てきて投げたのだ。
    「びっくりした。お土産って現金かよ!」
    「ただの現金じゃないよ!イギリスのお金!」
    「いや、そうだろうけどさ。普通お土産にお金渡さないでしょ?」
    「そうだけど!ほら、イギリスってEU加盟国なのに、ユーロを通貨にしてないでしょ?でも何年か経ったら、他の国と同じようにユーロを通貨にするかもしれないじゃない?そうしたら、それはレアなお土産になるかもしれないでしょ?」
    「あ、そうか。イギリスってポンドだっけ?」
    「そうだよ。それはペンスだけど。」
    「ペンス!?初めて聞いた!」
    「そうでしょ?何年か経ったらもう換金できなくて、レアになるかもしれないじゃん!」
    「へー。確かにそうかも。ありがとう。大事に取っておくよ!」
    「どういたしまして。」
    「ハルちゃん、また行きたい?イギリス。」
    「うん!また行きたい!イギリス行ってみて、他の国も色々行ってみたいと思った。」
    「へー、どうして?」
    「イギリスは昔から憧れてて、行けて良かったと思ってる。でも、今は日本とイギリスしか知らない。アジアとか、ヨーロッパとか、一括りに出来なくて、アジアの中でも、それぞれの国の文化もルールもあって、全然違うって知ったらさ。なんだか自分が、すごくちっぽけに感じたって言うか、世界は広いって感じだって言うか。」
    「へー。いいじゃん、かっこいいよ!もっと広い世界を見たいって?」
    「うん、そんな感じ。」
    「そっかー。」
    僕はコインを握りしめて、言葉を続けようとした。続けようとしたんだー。
    ***************
    高橋はコインを握りしめて思わず目を瞑った。
    言えなかった。あの時だけじゃない、いつも言えなかったんだ。今日だって、今だって、いつも肝心な事を言えなくて、何年かしてふと思い出すー。
    イギリス、EU脱退しちゃったじゃん。通貨もユーロに変更できない。もうこんなの全然レアじゃないー。
    時計を見ると、17:15だった。
    高橋は、新幹線の改札に背を向け、在来線のホームに駆け出していた。ハルちゃんが今住んでいる駅の名前は聞いていた。東京駅から20分程で着く駅だ。だからって、行ったところで家の場所は分からないし、駅に着いたところで呼び出すつもりもない。でも、この時は何故か体が勝手に動いてたんだ。20年前の後悔を、20年先まで引きずらないためにー。
    ***************
    改札が5つしかない、とても小さな駅だった。乗降客もまばらで、こんなところに来てどうしたものかと、高橋は頭を掻いた。
    白い息を吐きながら、何やってんだと思わず呟きそうになる。
    駅に着いて数分が経ち、改札に向かって戻ろうとしたその時、
    「高橋くん?こんなところで何してるの?」
    背中に聞き覚えのある声が、話しかけてきた。ハルちゃんだ!高橋は振り返る。
    「ハルちゃん!ハルちゃんこそ、何してるんだよ、お迎えは?」
    春香は少し目を擦りながら答える。
    「保育園のお迎えは、まだ少しだけ時間ある。上の子は習い事があるから、家にあるパン少し食べて行ってもらった。ちょっと、すぐ子供達に会える気分じゃなくてー。」
    「そうか…。」
    高橋は俯き、逡巡してから握りしめていたペンスを投げた。暗闇に、小さな光る物が飛ぶ。春香が上手い事キャッチする。
    「何これ?…ペンス?え?嘘、これ私があげたやつじゃないよね?」
    二人は同時に笑い出した。
    「春ちゃん、笑っていいよ。気持ち悪いって思っていいよ。俺、ずっと持ってたんだよ。ハルちゃんがくれたそのコイン。あの日から、20年経った今も。何回財布変えてもずっと。」
    「え?」
    春香の顔から笑みが消える。高橋が続ける。
    「いつもいつも言えなかった。何度もタイミングがあったのに。それもらった時は、いつか一緒に海外に行こうって、行きたいって言いたかった。でも言えなかった。今、お土産屋さんで、スクラッチカードもらって、コインで削ろうとしたら、そのコインが出てきてさ。俺、20年もずっと持ってたんだって気付いて。自分で自分を気持ち悪いって思ったし。でもさっきもただ思い出話だけして終わって、この先もう一生会わないかもしれないのに、これで終わっていいのかって考えたら、体が勝手に動いてた。ここに向かってた。今更言うことでもないのかもしれないし、今言って、この先何が変わるわけでもない。でも言った方がいいと思った。言わないと、20年先、また今日この日を思い出して、後悔するんじゃないかと思った。」
    そこまで一息に話すと、高橋は一呼吸おいた。春香の表情は一つも変わらないのに、瞬きをした瞬間、大粒の涙が流れた。
    「ハルちゃん、20年前、ハルちゃんの事、好きだったよ。多分自分の人生の中で、最大の片思いだった。」
    高橋が話し終えると、春香はハンカチで顔を覆い、しかし笑顔を作りながら、
    「ありがとう。」
    と、声を絞り出した。
    ***************
    今から20年くらい前、20歳の僕は1人の女の子を好きになった。彼女はサバサバしてて明るくて可愛いのに、変な男が好きで、なんとか助けてあげたいと思った。でも一緒にいる時はいつも元気だし、将来に悩んだりもしてて、なかなか言い出せなかった。
    20歳の恋愛は特別で、10代の頃みたいに子供じゃない。お酒も飲めて、車も乗れて、身体は大人だ。大人の身体で恋愛ができるけど、将来を見据える必要もない。30代に入ると、どうしても結婚の2文字が頭を過ぎって、それに叶う相手を選んでしまいがちだ。
    だから20歳は、1番ピュアに大人の恋愛ができた年齢じゃないかと思う。僕の20歳の恋愛は、叶わなかったけど、キラキラとした思い出として、このコインみたいに、いつも胸の奥底で輝いている。
    この頃聴いていた歌は、僕の中では「君の唄」として心に残っている。聴くと甦る君との思い出。ずっと忘れないー。
    まだスマートフォンがなくて、ガラケーはまだガラパゴスになりきれてない時代。僕は、あの時を忘れないー。

    #創作大賞2026
    #恋愛小説部門

     
     

    jura

     
     
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