
身体だけが、あの夜を覚えている
夜になると、無意識に息が浅くなる。
昼間は普通に過ごせる。
笑ったり、
買い物へ行ったり、
誰かと話したり。
ちゃんと普通のふりをして、ちゃんと生きている。
でも夜になると、
身体の奥に沈めていた何かが、ゆっくり浮かび上がってくる。
胸の奥が苦しくなる。
何十年も前のことなのに、身体だけが覚えている。
後ろから誰かの足音がすると、今でも身体が固まる。
ただ誰かが歩いているだけなのに、心臓が大きく鳴る。

「大丈夫だよ。何も起きない」
頭ではそう思っていても、身体だけが怯えている。
冬の匂いで、記憶が戻ることがある。
冬になっていく枯れ葉の匂い。
ビュービューと冷たい風。
暗い帰り道。
木々が揺れる音。
それらが怖くって、走って帰っていた。
やがて、疲れて
早歩きに変わった。
暗闇の木々が、ゴオオオオ……っという音に変わった時に、
事件が起きた。

あの時、
私は本気で思っていた。
「この男の言うことを聞かなかったら、殺される」
事件のあと、
私は少しずつ壊れていった。
夜が怖くなった。
急に涙が出るようになった。
何かに笑っていても、心だけがずっと苦しかった。
「大丈夫?」
そう聞かれることさえ、苦しかった。
「大丈夫じゃないよ……」
でも、
何がどう苦しいのか、うまく説明できなかった。

事件後に、私は泣いていた。
でも、うまく泣けずに、呆然としていた。
私の記憶は半分くらいなくって。
何故か、スカートをはいていた私が悪くなっていて。
「ああ、私が悪かったのか」
という疑問と
「私の気持ちは、理解されない」
そう思った。
それから私は、
少しずつ孤独になっていった。
学校でも、急に涙が出た。
「じゅんこちゃん、なんか変だよ」
そう言われても、説明できなかった。
まさか、性被害に遭ったなんて、言えなかった。

なんなら、同級生に白い目で見られることもあった。
「なんにも知らないくせに、そんな目で見ないで」
私の心の叫びは、届くはずもなく。
やがて私は、精神科へ入院した。
見るもの全てが怖かった。
人に優しくされるほど、警戒してしまった。
本当は、誰かを信じたかった。
でも、信じることが怖かった。
そんなある日、看護師さんが言った。
「私は、じゅんこさんの優しさが好きだな」って。
驚いた。
「優しい」
そんなふうに言われたことが、あっただろうか。
私はずっと、責められて生きてきた。
「弱い」
「変だ」
「おかしい」
そんな言葉ばかり、身体の中に残っていた。
だから、「優しい」と言われた時、胸の奥がじんわり熱くなった。
「ああ、ちゃんと見てくれる人がいるんだ」って思った。
友人のヨシ子さんも、言ってくれた。
「じゅんちゃんは優しい子だよ」
「本当にいい子だよ」
私は泣いた。
誰かが、どこかで本当の私を見てくれていた。
それだけで、人は救われることがあるのだと思った。
私は今でも、夜が怖い。
冬の匂いで、
記憶が蘇ることもある。
それでも、あの頃の私に言ってあげたい。
「あなたは悪くない。
ちゃんと、優しい人だったよ」と。
