
澪莉の日々㊺
最終話:イースター島
成田国際空港から飛行機を乗り継ぎ移動する。
この前中国に行ったばかりなのに、また飛行機を利用するとは思わなかった。
これからは、いつでも、どこへでも旅に出かけられる。
正直、本当に行ってよいのか、迷いはまだある。
でも、もう『行けないよ』なんて言葉は言いたくない。
18時間近くのフライトはあっという間に終わり、イースター島に到着した。
秋の潮風は思っていた以上に冷たい。
海岸沿いには、不思議な表情をしたモアイ像が静かに並び、訪れる人々を迎える。
倉橋さんはアナケナ・ビーチの砂場で海を眺めていた。
「もう泳ぐ季節じゃありませんね。」
私が笑うと、倉橋さんも穏やかに笑う。
「今日は泳ぎに来たわけじゃないからな。」
二人で海沿いの道を歩く。
空の下では、海がどこまでも青く広がり、潮騒だけが静かに耳に届く。
「どうしてこれを作ったんだろうね?」
遠くのモアイ像を見た倉橋さんは不思議そうな顔をする。
「でも島の守り神みたいでなんだかほっとしますね。」
やがて彼は小高い丘へ向かって歩き始める。
「もうすぐ始まるよ。」
私は空を見上げる。
最初は何も変わらなかった。
だが数分後、午後の光が、不自然なほど静かに翳り始めた。
世界の色が少しずつ淡く薄れていく。
風が止み、鳥の声も消える。
まるで時間そのものが息を潜めたようだった。
見上げた太陽へ、黒い月がゆっくりと重なっていく。
太陽が完全に月に隠れ、一瞬だけ、完璧な光の輪が天に浮かび上がる。
細く、鋭く、それでいて温かい光の輪。
それはまるで、祝福の指輪のようでもあり、終わりのない永遠の形をしているように見えた。
私達の曖昧で複雑な関係も、いつかは終わりを迎えるのかもしれない。
それでも、今この瞬間に私たちが浴びている光だけは、息を呑むほどにただただ美しかった。
空を見上げたまま、私は思わず小さく息を吸い込んだ。
「……指輪みたい。」
私はその『指輪』にそっと手を差し出す。
すると冷たい風の中で、私の指先にそっと、彼の指先が触れた。
ぎゅっと強く握るわけではない。
指を深く絡めるわけでもない。
ただ、そこに互いの体温を確かめ合うように、静かに触れているだけだった。
言葉や約束がなくても、何もくれなくても良い。
ただ今、見たこともない奇跡のような景色を2人で見ている、それだけで十分だ。
光の輪は静かに空を照らし続けている。
完全な金環となった太陽を見上げながら、倉橋さんがぽつりと呟く。

「……手に入れたものより、失くしたものの方が、俺はずっと多いな。」
潮風が二人の間を吹き抜ける。
「でも失くしたものばかり見ていたから、本当に残っていたものを見落としていたのかもしれないな。」
私は何も言わず、隣でその言葉を受け止める。
「……あの廃線跡で澪莉が、『私にとって、何が一番大切なのか。もう、迷いたくない。』って言ってくれただろ。」
「あの言葉で救われた。」
私は驚いて彼を見る。
倉橋さんは視線を空へ向けたまま続けた。
「ずっと怖かったんだ。誰かの人生を壊してしまうんじゃないかって。」
長い沈黙が流れる。
「君を自分の都合で巻き込んで、傷つけてしまうんじゃないかって、そればかり考えてた。」
そして彼は、ようやく私の方を見る。
「でも、もう逃げるのはやめるよ。これからも、ずっと一緒に同じ景色を見ていこう。」
その一言に、感じたこともない感情が胸の奥から溢れ出す。
私は小さく笑った。
「私も、あなたの側にずっといます。」
それは、自分自身の本当の気持ちだった。
倉橋さんは少し驚いたように目を瞬かせたが、やがて静かに微笑んだ。
しばらくすると、光の輪は少しずつ崩れ始め、月の向こうから太陽が顔を覗かせていく。
さっきまで闇に包まれていた海も、静かに海を見つめるモアイ像もゆっくりと光の中へ戻っていく。
日食は終わり、太陽は再び世界を照らした。
「じゃあ、もう帰ろうか。」
倉橋さんはゆっくりと立ち上がる。
「もう少し、島を回りませんか?」
私はなんとなく引き留める。
「そうだな。そうしよう。」
もう一度だけ空を見上げる。
あの光の輪は消えてしまったけど、あの光景は、これからもきっと心の中で輝き続けるだろう。
私達は新しい光の中を、ゆっくりと歩き始めた。
(――終わり――)