
ハワイは何でも知っている
ひとりで、日本へ帰ってくれ!
俺は、現地人になった。
そう皆に伝えてくれ。
夫になったばかりの夫は、新婦の私にこう言い放った。
目が点になった記憶はあるのに、
どうして、怒らなかったんだろう。
あの頃、「成田離婚」という言葉が流行っていた。
新婚旅行で相手の言葉や態度をキッカケに
成田空港でそのまま離婚する、というもの。
どうして、流行りに乗らなかったんだろう。
妻になったばかりの私は、
ただケラケラと笑っているだけだった。
なんで…、笑っていられたんだろう?
新婚旅行で、生まれて初めて
外国の地をこの足で踏んだのは、
サンフランシスコだった。
けれども、その日はちょうど
復活祭で、街じゅうが休暇をとっていた。
レストランも、カフェも、どこもかしこも。
スマホもインターネットもない時代に、
何も知らないまま、初海外へ出て
お腹をすかせて、街じゅうさまよい歩いた。
どこへ行っても、店は閉まっていた。
おまけに雨まで降ってきて
3月のサンフランシスコの夜は
寒くて、ひもじくて、わびしかった。
移動した先は、ロサンゼルス。
ロサンゼルスといえば、「ロス疑惑」
日本じゅう、三浦和義事件の話題でもちきりだった。
濃い茶色のサングラスの目の奥には
どんな深い闇がひそんでいるのか。
いつどこで銃で撃たれるか、分からない、
いつ夫に保険金をかけて殺されるか分からない、
そんな恐怖に、口には出さなくとも
女性たちは(少なくとも私は)おとしいれられた。
※「ロス疑惑」「三浦和義事件」とは…
1981年、三浦和義元社長の妻一美さんが殴打、銃撃され死亡した事件に関し、84年以降、「疑惑の銃弾」「ロス疑惑」として連日TVや週刊誌などで報道されていた事件。
85年、殴打事件にからみ、殺人未遂容疑で三浦元社長を逮捕、98年に実刑判決。
88年、銃撃事件の殺人容疑で逮捕。一審で無期懲役。03年に日本で無罪確定。
その後、2008年サイパンで逮捕、ロスへ移送された後、自殺。
当時、ロスに住んでいた友人は、
「ロスでは車から降りると危ないのよね。
だから、駐車場が広いお店は避けているの」
と言っていた。
その言葉が頭を離れなかった。
「外は、危ないから歩かない方がいいよ」
それが、友人からのアドバイスだった。
いくつもの透明なエレベーターが
近未来映画のようにそびえ立つ
ウェスティン・ボナベンチャーでは、
ホテルの中の移動でさえも、緊張感が
身体じゅうに張りめぐらされるのを感じた。
ホテルの中で、女性が男性に殺される、
そんな事件がふさわしい異国の地に感じられた。
アメリカ本土が、そんな緊張感と
寒さと、ひもじさと、わびしさの旅だったから。
新婚旅行、最後の3つ目の地
日本へ帰る経路上のハワイに降り立つと、
艶やかな蘭のレイをかけられ、出迎えを受けた。
濃厚な赤紫をまとった蘭は、まるで水のしずくを
含んでいるようにみずみずしく、華やかだった。
真夏のようにあたたかな日差しを浴びて
人々はムームーやアロハを着て、笑っていた。
・・・・・
ここは、天国なのでしょうか?
これが、地上の楽園というものですか?
そんな別世界が、広がっていた。
まぶしいほどの陽の光を受けて
たおやかに波打つ、ワイキキの青い海。
椰子の木と極彩色の熱帯植物に囲まれた
ヒルトン・ハワイアン・ビレッジの
ガーデンプールは、青くきらめく水をたたえ、
リゾートを楽しむ人々を、どこまでもやさしく
包み込んだ。
日が沈んでも、街は眠らない。
カラカウア通りを行き交う人々の
笑い声とさんざめき。
どこかから聞こえてくる、南国のミュージック。
毎日が、お祭りのようだ。
ここでは、愉楽的なくらしを
ハワイのすべてが、あたたかく受け入れてくれる。
しかし…
ハワイでの3日間は、実にあっという間に
終わりを告げた。
ホノルル空港で、アロハシャツを着た夫は
日本への帰国便の搭乗を待っている間に、
私にこう宣言したのだ。
ハワイに、住みたい!
ひとりで、日本へ帰ってくれ!
俺は現地人になった、と皆に伝えてくれ
その気持ちを、一瞬でも
理解してしまった自分がいた。
なにせ、リゾート地なるものを
生まれて初めて体験してしまったのだ。
2人とも20代、若い庶民には刺激的すぎた。
ハワイの魅力は、あまりに大きすぎたのだ。
けれど、今ならば…
きっと
一緒に現地人になろう
…そう言うのでは、ないだろうか?
一緒にハワイに住もう
…そう言うのが、夫婦の正解なのではなかろうか?
あの頃は、まだ
夫婦がひとつの単位、ってことに
慣れていなかった、のだろう。
…きっと、お互いに。
あのとき、一緒にあははと笑っていたから。
成田離婚しなかったから、
2人の子どもが生まれて、成長した。
成田で離婚していたら、
2人の人間が、この世に存在していなかった。
そう思うと、ちょっとしたことで
人(人にもならなかったかもしれない)の運命って
180度変わってしまうのだなあとしみじみ思う。
その後、ハワイを訪れたのは
子どもが生まれて、1歳半になった頃。
B型ベビーカーにやっと乗れるようになるのを
待ち構えて、折りたたみ式の軽いベビーカーに
子どもを乗せ、3人でワイキキを散策した。
ハナウマ湾にも、赤子を連れて行った。
強い日の光に照らされて、鼻と頬を
赤くした長男は、本当に赤子になっていた。
レンタカーを借りて
カイルアビーチまで赤子を連れて行き、
白い砂浜の波打ち際で、碧い水とたわむれた。

こんなに美しい海が実際にあったんだ。
そう思った。
宿泊先のホテルを選ぶ基準は、
炊飯器があるかどうか、の1点だった。
卵アレルギーで
卵を食べられない赤子に
いかにして、日本にいるときに近い状態で
飢えさせずに生かしておくことができるか。
フルキッチンを備えた、“インペリアル” と
いう皇帝のような名前を冠したコンドミニアム。
ここでは、ベッドが壁に内蔵されていて、
壁にしか見えないのに、取っ手を引っぱると
ベッドが、シュルシュルと床に下りてきた。
ほーっ、感嘆のため息をついて
これが、ハワイのコンドミニアムというものか、と
いたく感激した。
炊飯器で白ご飯を炊き、
スーパーで買ってきた食材を
やわらかく煮たり焼いたりして
1歳児に食べさせた。
レストランでスパゲティを食べる際には、
日本から持って行った赤ちゃん離乳食用の
ハサミで、チョキンチョキンと
スパゲティを短く切って、食べさせた。
その次に、ハワイを訪れたとき、
家族は、4人に増えていた。
赤子だった長男は、小学3年生になっていて
2人目の次男も、保育園の年長クラスになって
迎えた夏休みのハワイ旅行。
ダイヤモンドヘッドに登ったときには、
ちびっ子兄弟が私を追い越して
身軽にひょいひょいと、ものすごいスピードで
駆け上がってしまうものだから、
必死にあとを追いかけて山頂まで駆け上がると
心臓がバフバフと波打って
吐きそうになった。
そんな風に、子ども達は力強く成長していたのに。
小学生と幼児、子どもを2人も連れて行く
のだから、やはりホテルじゃなくて
キッチン付きのコンドミニアムじゃないと。
炊飯器も、できればほしい。
けれども、通常、ワイキキでキッチンがある
コンドミニアムのプールといえば、
四角ばった、ただ泳げるというだけのプールが多い。
小学校の水泳授業で使うプールと同じようでは
せっかくハワイに行っても、気分が上がらない。
そんな中で見つけた、流線型の流れるプール。
土地の狭いワイキキで、これは貴重。
ぜったいに、ここに泊まりたい。
それに、“キチネット” という小さめの台所もある。
1階には、おにぎり屋さんまで入っていた
ワイキキ・サンドビラという可愛いホテル。
(※現在は、ウェイファイダー・ワイキキ
としてリニューアルされている)

しかし、キチネットという存在を過大評価し
過剰な期待をしてしまった私は、
スーパーで買ってきた大きなアメリカの
分厚い牛肉を、小さなカットボードと
ペティナイフのようなコンパクトサイズの包丁で
人数分に切ろうとして、汗だくのくたくたになるのだ。
コンロの火口の数も、4人家族にフルサイズの
ディナーを作ろうとするには、少なすぎて、
要するに足りなかった。
料理する気まんまんで
日本から、米やら調味料やらいろんな物を
スーツケースにいっぱいつめ込んで来ていた
だけに、そう簡単に引き下がることはできなかった。
日中、ビーチやプールで泳いだだけでも
熱い日の光で照らされて
身体はすでに十分疲労していたけれど、
スーパーへひとりで買い出しに出かけて
しこたま食材を買い込んで帰った。
ワイキキの歩道ですれちがう人が
私の顔をけげんそうに見ていた。
なんでそんな目で見られるのだろう、と思ったけれど。
それはきっと、
この日本人女性は、なんでまあ
こんなにも疲れ切った様子で
足をフラフラともつれさせながら
スーパーの重そうな買い物袋を両手に下げて
このワイキキを歩いているの?
Why???
…と思われたからだ。
飲食店は、そこらじゅういっぱいあるのに。
今ならば、
あのときの自分に言ってあげたい。
せっかくのハワイなんだから、
レストランで、ハワイのものを食べればいいじゃないの。
リゾートまで来て、買物と料理、洗濯。
家事をして、そんなにクタクタになって…。
その後、ハワイを訪れたのは
ハワイ島だけに行ったときから
また数年の時を経て、機会があった。
子どもたちは、2人とも大学生になって
東京へ行ってしまっていた。
次男の大学受験を終えた、その安堵感から
家族4人で旅行に行けるうちに
家族旅行で海外に行きたい。
行き先は、やっぱりハワイに行きたい。
長男が、院試や就活で忙しくなる前に。
ましてや、就職してしまったら
もう家族4人で海外まで行くのは、日程的に難しくなるだろう。
行くなら、今でしょ。
そう言ったのは、私だった。
ワイキキの喧噪ともいえるにぎやかさ、
強い日差しと、歩いて行けるビーチ。
リゾートとして高級感のあるハワイ島よりも
ワイキキの雑踏とビーチの同居の方が
懐かしかった。
もはや、赤子でも幼児でもなく、
21歳と18歳のよく食べる男子大学生
2人を連れて。
このとき、ふたたびフルキッチンと炊飯器
のあるコンドミニアム、インペリアルに
宿泊することにしたのは、
子どものお腹を心配したのではなく
大人の財布を心配したからだった。
自炊を、時折はさみながら
適度に、レストランの飲食もビーチも楽しむ。
完璧な家族旅行計画、に見えた。
しかし、それらは根底から覆されることとなる。
ハワイ旅行の3日目、
ポリネシアン・カルチャーセンターへ
私たちは向かっていた。
サンフランシスコ-ロサンゼルス-ハワイ
という、あの新婚旅行から帰って来た際に、
おみやげを渡しに行った元上司の仲人から
言われた
「ポリネシアン・カルチャーセンターには
行かなかったの?
あそこは、いいよー」
という言葉が、記憶の奥底にこびりついていて
いつか行こう、と思っていたのが大きかった。
そこで、ハワイの文化を自分だけでなく
子どもたちにも感じさせてあげようと思った。
ワイキキから、北の方の裏ライエにある
ポリネシアン・カルチャーセンターまでは
オアフ島をほぼ縦断するような距離がある。
ツアーバスに乗り込み
ポリネシアン・カルチャーセンターに向けて
長い山道を出発したとき、
夫の携帯電話が、鳴った。
それは…
夫の母親が危篤だ、という
夫のきょうだいからの知らせだった。
言葉を失う、というのは、
こういうことを言うのだろう。
今、私たちがいるハワイと日本との距離を
考えると、絶望と後悔が頭を占拠した。
ハワイに、来るべきではなかった…!
夫の母親は、数年前から入退院を繰り返し
もう長いこと、入院していた。
最後に私たちが、病院へ見舞いに行ったときには
スウスウと眠っていた。
ハワイへ行く数日前になって、夫は突然
「俺は、やっぱり残る。3人で行って来て」と
言い出した。
驚いて、
「えーっ!
3人で行くというのは、家族旅行の意味がない。
3人で行くくらいなら、皆やめるよ」
と言うと、夫は、しばらく考えていたが、
病院へひとりで母に会いに行くと、
「眠ってた。大丈夫だろう」
と、ハワイ行きを中止はしなかったのだった。
うなだれている私たちにはお構いなしに
バスは、いくつかのハイウェイを高速で飛ばし
いくつかのトンネルを通過した。
そのとき
ツアーバスのガイドが、目の前にある
トンネルを指さして、言った。
「今これから入るトンネルには、言い伝えがあります。
トンネルを通り終えるまでの間に
願いごとをかければ、その願いごとは叶う。
そう言われています」
願いごとが、叶う…!
その言い伝えは、まるで今の私たちのために
あるように、思われた。
私たちは、最後の望みをトンネルに託した。
どうかお母さんの命を、私たちが日本へ帰る
までは、もたせてください。
どうか、神様…!
お母さんの命の灯火を、消さないで下さい。
ぎっちりとかたくつぶった目の奥には
細い細い、今にも消えそうなロウソクの火が
ゆらゆらと揺らめいていた。
長くつづく暗いトンネルの中、バスの
ゴオーッという走行音だけが響き、
私たちは、祈りを捧げつづけた。
どうか、願いを叶えてください。
お母さんの命を、絶えさせないでください。
お願いです。
お母さんを、助けてください。
バスは、長い長いトンネルを抜けた。
数分後、夫の携帯電話が鳴った。
それは…
夫の母の死を知らせるものだった。
間に合わなかった。
生きていて欲しかった。
トンネルでの願いごとは…
叶わなかった。
バスが、ポリネシアン・カルチャーセンター
に到着しても、私たちはひたすらスマホで
帰りの航空券を調べ続けた。
ポリネシアの民族衣装を身につけた人々の
華やかな踊りも、楽しげな素晴らしいショーも
もうすべてがどうでも良く、後悔の対象となった。
あのとき、ハワイに行かず残るという夫を
私が止めたから、夫は母親の死に目に会えなかった。
私が、悪かったんだ。
私の、せいだ。
ハワイから帰っても、私は自分を責めつづけた。
後悔と自責の思いから抜け出すことのできない私に
夫は、言った。
「あのとき、病院から電話がきて
すぐに病院へ向かったきょうだいだって
死に目に会えなかった。
だから、俺が日本に残っていたとしても
どっちにしても
間に合わなかったんだ」
言葉に救われるということがあるのなら。
きっと、このときのような
誰かの言葉によって、わずかばかりでも
心が救われることを言うんだろう。
このときの家族旅行のハワイは
苦い苦い記憶ばかりが、先に立つ。
その後、家族4人で海外を訪れたことは、ない。
コロナ禍が、世界をゆるがし
海外はおろか、外出するにも用事がなければ
家の外にも出られない期間があった。
長男が大学を卒業する年、
大学の卒業式は、中止となった。
2年後、大学院の卒業式(学位記授与式)は
規模が縮小され、一部の学生しか出られなかった。
長男は、ひっそりと卒業し、就職していった。
家族4人の海外旅行なんて、夢のまた夢、
になった。
前回のハワイでの傷が癒えてきた頃、
夫婦2人で、ハワイを2度訪れる機会があった。
2026年の4月。
コオリナで数日間を過ごした後は、
やはり、ワイキキで過ごしたいと思った。
歩道のアスファルトに、誰かの濡れた裸足
の足跡が、そのまま残っているようなワイキキで。
そして…
長男が1歳の赤子だった頃に、
レンタカーで連れて行った、カイルア・ビーチ。
今回は、レンタカーではなく
“ザ・バス” という路線バスに乗り
バス停からは、てくてく15分以上歩いて
カイルア・ビーチを訪れた。
白い砂浜と美しいエメラルドグリーンの海は
20年以上の時を経ても、変わっていなかった。
ABCストアで買ったゴザを
「あのとき、この辺に座ったかな?」
と記憶をたどりながら、
27年前に座ったあたりの砂浜に、敷いた。
青というより
碧の透き通った水が
波で砂を巻き上げ、アイボリーになる。
引く波が結構つよいので
泳ぎやすい深さのところまでは行かず、
波打ち際で遊ぶことにしたのは、
あのときも、今も同じ。

ただ、決定的に違うのは、
子どもがいない
ただ、そのことだけだった。
夫にも、私にも
そのとき脳裏には、1歳の赤子が
水中オムツと黄色い水着を着て
珍しそうな顔をして、波とたわむれている。
赤子の手をがっちりとつかんで離さないように
私の手の平は、砂のように白くなっている。
カイルアの澄んだ水は
寄せてはかえし
白い砂を巻き上げて
やがて、引いていく。
ハワイは、家族の歴史を映しながら
そこにあり続けている。
「そろそろ、帰ろうか」
夫が、翳ってきた空を見上げて
言った。
ホテルに、帰ろう。
そして
あと2日もすれば、また日本へと帰国する
ことも、分かっている。
2人で住むには、広くなりすぎてしまった
あの家へ。