おかえりの言えない家へ
これは、わたしの人生の話だ。
日本人の父と、フィリピン人の母。三人の兄と、末っ子のわたし。
六人で、ひとつ屋根の下に押し込まれるように生きた。
そこには貧困があって、苦難があって、家族の間で言葉にならない感情がいつもくすぶっていた。
でも、それ以上のものもあった。うまく説明できないけれど、確かにあった。
父と母は、昭和という時代が生んだような人たちだった。良くも悪くも、どこまでも人間だった。
ギャンブルに溺れて、わたしたちに苦労をかけた。
そのおかげで、わたしたち兄弟は互いに支え合うことを覚えた。
これは苦労話じゃない。愛と憎しみ、感謝と葛藤、その全部が混ざり合った、ただの家族の話だ。
家族というのは、人によって全く違う形をしている。わたしたち家族に愛があったとして、それが全ての家族に当てはまるとは思わない。ただ、この話の中に、何か一つでも、あなたの心に触れる物があれば。
読み終えたとき、「愛」というものの形が、少し広がっていたら嬉しい。
父は酔うと決まって同じ話をする。若い頃、剣道で誰にも負けなかった。警察官として、強く生きた。
その話を私は数えきれないほど聞いた。それでも父は毎回、初めて打ち明けるような顔で語る。頑固で亭主関白で、自分の城に疑いを持たない人間。ただ、子どもに向ける目だけが違う。あの眼差しだけは、愛おしかった。
不器用な優しさが、父という人間の全てを表していた。
母はその真逆で、フィリピンから海を渡ってきた。言葉も文化も全部飲み込んで、四人の子どもを育てながら夜は外へ出て働く。笑顔が絶えなくて、家をいつも清潔に保って、愛情を惜しまない人。どこにそのエネルギーがあるのか、今も謎のままだ。その笑顔は、どんな時もこの家族の太陽だった。
ただ、二人ともタバコは手放さない。パチンコには毎日のように行く。父は晩酌なしでは眠れない。愛は本物で、依存も本物。それが、わたしたち、兄妹の色を変えた。
母の手料理は、世界一うまかった。これは比喩でもなんでもない。フィリピンの味と日本の味が混ざり合った、あの食卓だけが持つ匂いがある。六人がテーブルを囲む時間は、どんなに外が荒れていても、家の中だけは温かかった。お金がなくても、電気が危うくても、母が料理を並べると、なぜかぜんぶどうでもよくなった。あの食卓が、この家族の中心だった。
わたしが幼稚園を帰る時、門の前で待っているのはいつも兄だ。母はたぶんパチンコに行っている。子どもながらに、なんとなく察している。でも嫌じゃない。兄は必ず来てくれるから。兄は文句も言わず、一緒に楽しいことをしてくれた。駄菓子屋に連れて行ってくれたり、自転車の後ろに乗せてくれたり、ブランコだってすごい高い所まで漕いでくれる。わたしのヒーローだった。
昭和のパチンコ店には子どもも入れた。土日はだいたい連れていかれる。
機械の唸る音とタバコの煙の中で、大人たちが黙って台に向かっている。両親が勝った日はお小遣いをもらえる。兄妹でパチンコ店の前のスーパーをうろついて、ビックリマンチョコを選んで、シールの種類を語り合いながら歩く。こどもからしたら贅沢だ。だから文句はない。
パチンコで負けると当然お金は無くなる。だから母はフィリピンパブにお金を稼ぎに行く。わたしは、母が夜に出かけるのは嫌いだった。玄関へ向かう母に、わたしはお腹が痛いと泣く。行かないで、という言葉をまだ持っていないから、体で訴えるしかない。でも母は振り返らない。その背中を、泣きながら何度も見送った。寂しかった。
ある夕方、玄関先で母が泣いていた。壁に背をあずけて、体育座りで頭を抱えている。何があったのか、幼いわたしには分からない。声もかけられなかった。ただ、胸の奥が締め付けられるような感覚だけが残った。あの母の背中は、今でもときどき、不意に浮かぶ。世界で一番、母の涙が嫌いだった。
三男は幼い頃、足を折っていた。誰も気づかず。ある日、家族で足の長さを比べていたら、三男だけ左右の長さが違う。父がそれに気づいて、病院へ連れて行った。骨折だった。しかも古い。長期入院になった。母はわたしを連れて、何度も何度もお見舞いへ行った。バスを乗り継いで、急いで歩いて、それでも毎回来る。お金も時間も余裕もないのに、母は必ず来た。あの頃の母の足音を、わたしは今も覚えている。
外国人だからと、なめられることもあった。三男の入院中、母がタクシーに乗って病院名を告げると、運転手は「分からない」と言う。「着かなかったら五万払え」と言われた。でも母は怯まない。「着きます。病院はあります」と、静かに、でも真っすぐに答えた。そのタクシーは、ちゃんと病院に着いた。母はいつもそうだった。誰かに押されても、倒れない。どこかに、折れない芯があった。「強い母」を見た瞬間だった。
わたしたちは、父の仕事の寮のボロ団地に住んでいた。
年長の秋、兄がひとこと言った。「家、燃えた」父の仕事場の同僚のお子さんがライターで火をつけてしまったのだ。
「ふーん」それだけだった。衝撃というのは、子どもの前では音もなく通り過ぎていく。
びちょびちょの家を見ても感情は薄い。「びちょびちょだ…」
泣くより先に、現実が日常になってしまうことがある。もしかしたら、常に何かが起きる日常の中で、わたしなりに感情を受け流すことを覚えていたのかもしれない。
引っ越して、学校が変わった。でも兄弟が三人もいるから、どこへ行っても馴染むのは早い。子どもの適応力は、大人が思うより遥かに強い。
その、引っ越し先のマンションで、幼なじみができた。
家庭の事情も、お金のことも、ぜんぶ知っている。今でも仲がいい。あの頃出会えたことは、運が良かったと思っている。
わたしの学校の道具は、ほとんど兄たちのお下がりだった。筆箱も、洋服も、誰かが一度使ったもの。ランドセルと教科書だけは新しいものを買ってもらえた。それだけで十分嬉しかった。不満はなかった。
ただ、リコーダーだけは、少し違った。音楽の授業が始まる前、母が買ってきたのは百均の緑のリコーダーだった。学校指定のものとは色も形も違う。教室で取り出したとき、周りの視線を感じた。浮いていた。何も言えなかった。母が悪いわけじゃない。それだけは分かっていた。ただ、緑のリコーダーをそっとケースにしまいながら、なんとも言えない気持ちを飲み込んだ。あの感覚を、うまく名前で呼べないまま、今も持っている。でも、陽気な私はいじめられる事もなく、笑いに変えた。
日常の中でガスが止まる。電気が止まる。水が止まる。
当たり前になっていく。
ガスが止まった日は、カセットコンロを引っ張り出す。電気が止まった夜はろうそくを並べて、溶けたロウで遊んだ。指紋をつけて、「これ証拠隠滅できないな」と誰かが言い出して、全員で笑う。
水が止まったときは、兄弟そろって公園まで容器を抱えて歩く。重い。でも、なぜか楽しい。ケラケラ笑いながら家に持っていく。
苦労は、分け合うと笑い話になる。そのことを、わたしたちは子どもの頃に体で覚えた。
父の会社の寮母さんも事情をしっている。
すごく優しい、水道が止まった時は夜中、寮の人が寝静まった頃、こっそり寮のお風呂を貸してくれた事もあった。人には恵まれていたんだと気がつく。
怖い顔の男が家に来たこともある。借金の取り立てだと、子どもなりに分かる。それ以来、インターホンの音が怖い。
ある日、母が玄関先で男に詰められていた。気づいたときにはわたしは隣に立っている。勇気でも計算でもなく、ただの反射だ。男はわたしを一瞥して、何も言わずに出て行った。子どもの存在が、大人を退けた。
あの経験が、わたしの心に深い恐怖と、それと同じくらいの何かを刻んだ。
二度目の引っ越しは、もっと理不尽な話だ。母が家賃を騙し取られていた。本当の家主ではない人間に払い続けて、ある日突然追い出された。
災難は続くが、母が何とか近くのマンションを見つけ友達と離れることはなかった。
兄妹みんな修学旅行に行けなかった。お金がないから。友達が楽しそうに話すのを聞くたびに、胸が締め付けられた。悔しかったかどうか、正直今でもうまく整理できない。でも、仕方ない。みんな行けないことなんてわかっている。兄妹それぞれで心の整頓をした。
長男は中学を出て、父の大工仕事に入った。十五歳で。当時のわたしにとって、長男はまるで神様のような存在だった。バイト代からお小遣いをくれて、色々なことをさせてくれて、いつも可愛がってくれた。早くから働いて、弟たちとわたしを支えてくれていたのだと、今になって分かる。
次男が同じ道を志したとき、父は怒鳴りつけた。「だめだ」と言った。理由は説明しない。次男は高校へ行くお金なんてないことを知っていて言ったのだと思う。
次男は当時の先生に紹介され、定時制を受験した。その背中を見て、三男も定時制へ進んだ。わたしも、そうした。自分でバイトして、自分で学費を払う。当たり前のように書いたが、これは当たり前ではない。でも、それがわたしたちの現実だった。
私達のバイト代は、その日のうちに消えることがあった。父と母のパチンコに、全額使われた。
大泣きしていた兄の顔を、今でも覚えている。だから兄は家の中でお金を隠すようになった。畳の下、タンスの奥、思いつく限りの場所に。でも母の鼻はいい。どこに隠しても、必ず見つけ出す。見つけては使い、また隠す。その繰り返し。笑えない話なのに、今となってはどこか笑えてしまうから不思議だ。
事情全てを知っている幼なじみが強制的に「着いてきて」と自転車を走らせる。コンビニの前に着いたとき、わたしと三男はふてくされていた。お金もないのに、なんでコンビニなんだ、と。でも幼なじみは黙ってかごを手に取り、何日分かの食べ物を入れた後「好きなの入れな」と、カゴをこちらに差し出してきた。わたしたちはその場で涙した。さっき怒っていた自分が恥ずかしくて、その不器用な優しさが温かくて、どうしようもなかった。人の善意というのは、時に言葉より重い。
兄はおしぼり工場でバイトをしていた、母も働かせてもらっていた。母は職場の人たちに料理を振る舞って、いつも人気者だった。
どこへ行っても、母の周りには人が集まった。それはきっと、料理の腕だけじゃなくて、母そのものが持つ温かさのせいだと思う。
長男がゲームにはまり、仕事を休むようになった。あれだけ家族のために動いてくれていた兄が、ある日から動かなくなる。幼い頃からよく喧嘩したけれど、翌日には必ず仲直りできた。でもそのときは違った。ゲームで知り合った女の子を家に連れてきて住ませていた。それが許せなかった。だから、二年近く、まともに話さなかった。その女性と、家を出た。正直に言う。スッキリした。でも母は、兄のアパートへご飯を届け続ける。わたしは何度も怒った。母は「あの子だって子どもだから」と言って、やめない。そのときのわたしには、その言葉の意味が分からなかった。
私が就職して、介護の仕事を始めて半年がたった頃。夜勤前、母は家の小窓から私に手を振る。私も行ってきますと手を振り返す。
翌日の明けの朝、スマホに着信がある。わたしが母に買ってあげた携帯電話から、知らない声がした。おしぼり工場の所長だと名乗った。「お母さんが倒れました」
心が締め付けられた。原付を飛ばす。走りながら、頭の中が真っ白になっていく。
病室に入ると、鼻と口から管が伸びている。目が閉じている。現実が信じられなくて身体が硬直する。その後すぐに涙が溢れた。目が開かなくなるまで泣いた。仕事を切り上げた家族が徐々に集まってくる。父を見る。見たことのない顔をしている。剣道の自慢をしていたあの父が、ただの、小さな男になっていた。三男は静かに泣いている。いつも誰かの隣にいて、誰かの顔色を読んで、黙って寄り添ってきた三男が。物静かで照れ屋の次男は、泣きながら母の顔にそっと手を触れてこう言った。「初めて触ったな」。その一言が、今も胸の奥に刺さったままだ。普段スキンシップの少なかった家族の、それがすべてを表していた。三日後、母は逝った。
フィリピンにいる母の兄妹に連絡をする。フィリピンに二人の姉がいることをその時初めて知らされる。
幼い頃連れられてフィリピンに行った時にいたあの女の人達は私たちの姉だったんだ。
母には、わたしたちの知らない人生があった。
葬儀の場に長男が来た。目が合った。お互い「久しぶり」と交わす。
「ごめんね」も交わす。自然と兄妹に戻る。
母が繋いでくれたのかもしれない。あの人は最後まで家族を手放さなかった。
母がいなくなってから、父が変わっていく。仕事に行けなくなる。食べられなくなる。みるみる痩せていく。最初、わたしたちは戸惑った。自分たちだって辛いのに仕事へ行っているのに、と思った。父の気持ちも身体の変化も気づいてあげられなかった。父を、邪魔に思うことさえあった。今思えば、薄情で残酷で人でなしだった。母がいて、父だった。父がいて、母だった。二人が揃ってはじめて、あの家族だった。だから片方が欠けたとき、残された側の半分も、一緒に消えてしまっていた。
次男が病院へ連れて行った。余命三か月、食道ガンとの診断。
兄弟で分担した。通院、お見舞い、転院。四人でまわした。それでも三ヶ月ももたなかった。母が旅立って、一年と一ヶ月と一日後。父も逝った。まるで急いで追いかけていくように。
強くかっこよかった父。どこか愛おしかった父。こんなにも人間は脆く儚いものだと、突きつけられた。
わたしたち兄妹は四人になった。不器用な家族だった。愛していると、誰も口にしない。照れくさくて、恥ずかしくて、そういう言葉はいつも胸の奥にしまったまま生きてきた。でも今なら分かる。
あの家族の愛は、言葉の形をしていなかった。幼稚園の門で待っていた兄の背中が、愛だった。
バイト代を隠して、見つかって、また隠した兄たちの意地が、愛だった。
骨折に気づいた父の手が、愛だった。
バスを何度も乗り継いで病院へ通った母の足音が、愛だった。
長男の兄妹を守る目が愛だった。
次男の冷静に家族を見渡して言葉をかけるのが、愛だった。
誰かが沈むたびに、静かに隣へ来た三男の気配が、愛だった。
壁に背をあずけて頭を抱えていた母のあの姿でさえ、懸命に生きようとしていた一人の人間の、愛だった。
百均の緑のリコーダーも、今はそう思う。指定のものを買えなかった後ろめたさを抱えながら、それでも母は買いに行った。あの緑は、不格好だったけれど、確かに母の愛の色だった。
一つ一つに愛があった。
パチンコで給料を使い込んで、でも食卓だけは温かかった。電気が止まっても、ろうそくの前で全員で笑えた。修学旅行には行けなかったけれど、公園まで水を汲みに行く道は、悪くなかった。
完璧な家族じゃなかった。むしろ、欠けているところだらけだった。それでも、欠けた部分を、お互いで埋め合わせていた。
気づかないふりをしながら、ちゃんと見ていた。言葉にしないまま、ちゃんと伝わっていた。憎んだことがある。なぜこんな苦労をさせるのか、と。
それでも憎みきれなかった。それが、わたしたちの家族の形だった。
「おかえり」と言える場所は、もうない。帰る家も、もうない。
でも父と母がくれたものは、今もわたしたちの中にある。笑い方、踏ん張り方、誰かの隣に立つ反射。ロウソクの夜の笑い声。体育座りで壁に寄りかかっていた、あの母の背中。緑のリコーダー。全部、ここにある。
苦労も、恐怖も、愛も、葛藤も、その全部がわたしたちをつくった。
そしてわたしたちは今日も、それを抱えたまま前へ歩いていく。愛してる。ずっと、愛してる。言葉にするのが今になってしまったけれど、あの六人で家族だったことを、わたしは一度も後悔したことがない。
空から見てるよね? 兄妹は、経験を、愛を、背負って自分たちの幸せを見つけたよ。わたしのヒーロー達は立派な父になったよ。
わたしたちがそっちに行くときまで喧嘩しないでいてね。
わたしたちの大好きなご飯、みんなで囲んで食べようね。
煙草の煙と、パチンコの音と、ろうそくの夜と、公園の水道と。
それでもあの家は、温かかった。