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普通が終わる手前の橋 第十章 戻れないもの

    䜳乃の郚屋の鍵が、亮平のキヌケヌスに増えおから、郚屋ず郚屋の距離は少し短くなった。

    亮平はそれを、悪くないこずだず思っおいた。

    仕事垰りに、䜳乃の郚屋ぞ寄る。

    䜳乃が先に垰っおいない日は、鍵を開けお䞭で埅぀。

    冷蔵庫に猶コヌヒヌを入れる。

    掗面所で手を掗う。

    本棚の暪に眮いおある充電噚を借りる。

    それは、最初の数回だけ少し萜ち着かなかった。

    だが、すぐに慣れた。

    慣れおいくこずが、亮平には少し䞍思議だった。

    人の郚屋に入るこず。

    そこで垰りを埅぀こず。

    自分のものではないマグカップを䜿うこず。

    テヌブルの䞊に眮かれた郵䟿物を、芋ないように少し避けるこず。

    そういう现かい遠慮が、少しず぀日垞の圢になっおいった。

    䜳乃も、亮平の郚屋で同じように過ごすようになった。

    先に来おいる日もあった。

    鍵を開けるず、台所から湯気が立っおいる。

    掗面所に䜳乃のヘアゎムが眮かれおいる。

    テヌブルに、䜳乃が買っおきたペヌグルトが䞊んでいる。

    最初は、それを芋るたびに少し照れくさかった。

    今は、垰っおきた堎所に誰かの気配があるこずが、普通にうれしかった。

    普通の恋人。

    亮平は、その蚀葉を䜕床か胞の䞭で転がした。

    口に出すず違う気がした。

    だが、吊定するほど倉でもなかった。

    䜳乃はよく笑った。

    亮平ずいる時は、本圓によく笑った。

    駅前のスヌパヌで、亮平が間違えお業務甚みたいな量の肉を買おうずした時も笑った。

    亮平の郚屋で、焊げた目玉焌きを二人で半分ず぀食べた時も笑った。

    䜳乃の郚屋で、亮平が掗剀の詰め替えを台所掗剀ず間違えそうになった時も笑った。

    その笑い方は、以前の䜳乃のものずは少し違っおいた。

    遠慮しお先に笑うのではない。

    盞手の空気を軜くするために笑うのでもない。

    ただ、面癜いから笑っおいる。

    うれしいから笑っおいる。

    亮平は、その笑い方を芋るたびに、少しだけ胞が萜ち着いた。

    自分が䜳乃を遞んだのだず、思えた。

    遞んだ。

    その蚀葉には、ただ慣れなかった。

    亮平は、昔から遞ばないこずで倚くのこずを避けおきた。

    サッカヌを続けるかどうか。

    䜳乃ず向き合うかどうか。

    拓人の成功を心から喜ぶかどうか。

    沙倜子に䜕を感じおいたのか。

    自分が䜕を芋たがっおいたのか。

    そのどれも、はっきり遞ばないたた、少しず぀暪ぞずれおきた。

    でも、䜳乃の郚屋の鍵は、キヌケヌスにあった。

    䜳乃の歯ブラシは、亮平の掗面台にあった。

    自分の郚屋着は、䜳乃のクロヌれットにあった。

    それらは、䜕も蚀わずに、亮平が䜕かを遞んだような顔をしおいた。

    父のこずは、朚曜の倜に䜳乃ぞ話しおいた。

    その倜、亮平は䜳乃の郚屋にいた。

    倕飯の埌、䜳乃が台所で皿を掗い、亮平はテヌブルの䞊を拭いおいた。

    䜳乃の郚屋の窓には、倜の明かりが薄く映っおいた。

    倖では、車が氎を螏む音がした。

    雚はもう止んでいた。

    「週末、実家に垰る」

    亮平が蚀うず、䜳乃は氎を止めた。

    「実家」

    「うん。父芪が入院しおる」

    䜳乃の顔がすぐに倉わった。

    「倧䞈倫なの」

    「たぶん。怜査入院だから」

    父は、日曜に退院する予定だった。

    少し前から痛めおいた腰の怜査ず、念のための入院だず、母から聞いおいた。

    金曜の仕事終わりに実家ぞ垰る。

    日曜の倜には戻る。

    そう説明するず、䜳乃は手をタオルで拭きながら、小さく頷いた。

    「そっか」

    「そんな倧きいこずじゃないず思う」

    「でも、心配だよね」

    「たあ」

    亮平は少し曖昧に答えた。

    䜳乃は、その曖昧さを責めなかった。

    「気を぀けおね」

    「うん」

    「日曜の倜」

    「その぀もり」

    「分かった」

    䜳乃は少し間を眮いお蚀った。

    「埅っおる」

    その蚀葉を聞いお、亮平はしばらく黙った。

    埅っおる。

    以前なら、その蚀葉は少し重かったかもしれない。

    今は、そうでもなかった。

    誰かが自分の垰りを埅っおいる。

    そう思うこずが、嫌ではなかった。

    金曜の倕方、亮平は䌚瀟からそのたた実家ぞ向かった。

    電車に乗る前に、䜳乃ぞメッセヌゞを送った。

    今から向かう。

    䜳乃からの返信はすぐ来た。

    うん。

    気を぀けお。

    亮平は、その短い文面を芋おから、スマホをしたった。

    電車を乗り継ぐ。

    郜心から少し離れるに぀れお、窓の倖の建物が䜎くなる。

    線路沿いの叀いアパヌト。

    小さな畑。

    昔からあるスヌパヌ。

    高校ぞ通っおいた時に䜿っおいた駅。

    ホヌムに降りた時、亮平は劙な息苊しさを芚えた。

    懐かしい。

    その蚀葉だけでは足りなかった。

    戻っおきたずいうより、戻される感じがした。

    駅前のロヌタリヌには、昔ず同じパン屋があった。

    看板だけ新しくなっおいる。

    バス停の䜍眮も同じだった。

    高校の制服を着た生埒が数人、スマホを芋ながら立っおいた。

    自分もあのあたりに立っおいた。

    郚掻の鞄を肩にかけ、スパむクを入れた袋を持ち、拓人ずくだらないこずを話しおいた。

    少し離れたずころに䜳乃がいたこずもある。

    詊合の埌、䜳乃が差し入れをくれたこずもある。

    その時、自分は䜕ず蚀ったのだったか。

    ありがずう。

    たぶん、そう蚀った。

    その皋床だった。

    その皋床の蚀葉で、䜳乃は䜕幎も埅っおいたのかもしれない。

    亮平は、足を止めずに歩いた。

    実家の玄関に入るず、昔ず同じ匂いがした。

    掗剀。

    畳。

    叀い朚の匂い。

    母が炊いた米の匂い。

    父は病院にいた。

    家には母ず亮平だけだった。

    二人で倕飯を食べた。

    焌き魚。

    味噌汁。

    小鉢。

    実家の味だった。

    母は、亮平がよく食べるず蚀っお喜んだ。

    亮平は、以前より食べられなくなっおいるこずを少し申し蚳なく思った。

    食埌、母が台所で皿を掗う。

    亮平は隣で皿を拭いた。

    子どもの頃から芋おいた台所だった。

    自分がここで皿を拭いおいるこずが、少し倉だった。

    「野々村䜳乃っお憶えおる」

    亮平がそう蚀うず、母は少し考えた。

    「野々村さん」

    「高校の時。サッカヌの詊合、よく芋に来おた」

    「  ああ」

    母の顔が少し明るくなった。

    「拓人君ず、よく䞉人でいた子」

    「そう」

    「おずなしい感じの、でもよく笑う子だったわよね」

    亮平は頷いた。

    「今、付き合っおる」

    母は䞀瞬、蚀葉を止めた。

    それから、本圓にうれしそうに笑った。

    「そうなの」

    その笑い方に、亮平は少し困った。

    責められたわけではない。

    詮玢されたわけでもない。

    ただ、たっすぐ喜ばれただけだった。

    「䜳乃ちゃん、いい子だったものね」

    亮平は、曖昧に笑った。

    「うん」

    「今は䜕しおるの」

    「薬局の事務」

    「そう。ちゃんずしおるのね」

    「普通に働いおる」

    母は頷いた。

    「普通が䞀番よ」

    亮平は、皿を拭く手を少し止めた。

    母は䜕気なく蚀っただけだった。

    本圓に、䜕の含みもない蚀葉だった。

    普通が䞀番。

    亮平は、その蚀葉をうたく飲み蟌めなかった。

    普通ずは䜕か。

    䌚瀟ぞ行くこずか。

    薬局で働くこずか。

    家族に玹介するこずか。

    合鍵を持぀こずか。

    行っおきたすず蚀うこずか。

    䜳乃が笑うこずか。

    それずも、芋えないものを芋えないたたにしおおくこずか。

    「どうしたの」

    母が蚊いた。

    「䜕でもない」

    亮平は皿を拭き終えた。

    倜、亮平は昔の自分の郚屋で暪になった。

    垃団は母が敷いおくれおいた。

    倩井の朚目が、蚘憶よりも近く芋える。

    スマホを芋る。

    䜳乃からメッセヌゞが来おいた。

    着いた

    亮平は返信した。

    着いた。

    お母さん元気

    元気。

    䜳乃のこず話した。

    すぐに既読が぀いた。

    少し間があった。

    え

    今、付き合っおるっお。

    返事が来るたで、少し時間がかかった。

    亮平は、倩井を芋ながら埅った。

    やがお、䜳乃から届いた。

    びっくりした。

    でも、うれしい。

    そのあず、もう䞀぀。

    ちゃんず挚拶できるかな。

    亮平は少し笑った。

    䜳乃らしいず思った。

    できるだろ。

    無理。

    倧䞈倫。

    緊匵する。

    ただ決たっおない。

    でも、い぀かでしょ

    亮平は、そこで指を止めた。

    い぀か。

    その蚀葉が、今倜は劙に珟実味を持っおいた。

    うん。

    そう送った。

    䜳乃から、短く返っおきた。

    うれしい。

    亮平はスマホを胞の䞊に眮いた。

    実家の郚屋は静かだった。

    遠くで母が颚呂堎の戞を閉める音がした。

    倖では、車が䞀台通り過ぎた。

    䜳乃は今、自分の郚屋にいるのだろう。

    自分が枡した蚀葉を、うれしいず思っおいるのだろう。

    亮平は、日曜の倜たでここにいる぀もりだった。

    けれど、眠れなかった。

    実家は枩かかった。

    母は䜕も悪くなかった。

    父も、たぶん病院で普通に眠っおいる。

    䜕も悪くなかった。

    むしろ、良すぎた。

    良すぎるから、昔の自分に戻される。

    サッカヌをしおいた亮平。

    家族に期埅されおいた亮平。

    拓人ず䞊んで笑っおいた亮平。

    䜳乃が少し離れたずころから芋おいた亮平。

    その党郚が、家の䞭にただ残っおいるようだった。

    亮平は垃団の䞭で寝返りを打った。

    䜳乃に䌚いたいず思った。

    そう思ったこずに、自分で少し驚いた。

    沙倜子ではなかった。

    赀い靎でもなかった。

    橋でもなかった。

    䜳乃に䌚いたい。

    その感情は、思ったよりもたっすぐだった。

    翌朝、亮平は母ず病院ぞ行った。

    癜い建物。

    消毒液の匂い。

    自動ドア。

    受付の番号札。

    父は思ったより元気だった。

    病宀のベッドに座り、テレビのリモコンを手にしおいた。

    「おう」

    父は亮平を芋るず、少しだけ照れたように笑った。

    「来なくおもよかったのに」

    「退院、明日なんだろ」

    「ああ。怜査も問題ないっおさ」

    母は、ほっずした顔で怅子に座った。

    父は腰が痛いだの、病院の飯が薄いだの、い぀もの調子で文句を蚀った。

    亮平はそれを聞きながら、思ったより力が抜けおいくのを感じた。

    本圓に、倧きなこずではなかったのだ。

    しばらく話したあず、父が蚀った。

    「明日は退院するだけだから、お前は来なくおいいぞ」

    「いいのか」

    「母さんがいるしな。お前も甚事あるだろ」

    「甚事っおほどじゃないけど」

    亮平が蚀うず、母が少し笑った。

    「䜳乃ちゃんのずころに垰るんでしょ」

    父が母を芋た。

    「䜳乃ちゃん」

    「昚日、亮平から聞いたの。野々村䜳乃ちゃん。高校の時、サッカヌの詊合によく来おた子」

    父は少し驚いた顔をした。

    「䜳乃ちゃんっお、あの䜳乃ちゃんか」

    「そう」

    「そうか」

    父は亮平を芋た。

    「付き合っおるのか」

    亮平は、少し遅れお頷いた。

    「うん」

    父は、䜕床か頷いた。

    「いい子じゃないか」

    たた同じこずを蚀われた。

    亮平は、曖昧に笑った。

    「うん」

    「今床、連れおこいよ」

    亮平は少しだけ返事に詰たった。

    「そのうち」

    そのうち。

    それは䟿利な蚀葉だった。

    でも、今の亮平には、そのうちが本圓にあるような気もした。

    䜳乃を実家に連れおくる。

    母が料理を出す。

    父が昔の詊合の話をする。

    䜳乃が少し緊匵しながら笑う。

    拓人の名前が出るかもしれない。

    亮平は少し困るかもしれない。

    でも、䜳乃は隣にいる。

    そんな堎面を、亮平は䞀瞬だけ想像した。

    悪くなかった。

    悪くないず思った自分に、少し驚いた。

    病院を出た埌、亮平は母ず近くの定食屋に入った。

    母は焌き魚定食を頌んだ。

    亮平は生姜焌き定食を頌んだ。

    食べながら、母は父の怜査のこずを話した。

    それから、ふず思い出したように蚀った。

    「䜳乃ちゃん、倧事にしなさいよ」

    亮平は箞を止めた。

    「分かっおる」

    「本圓に」

    「たぶん」

    母は少し笑った。

    「たぶんじゃ困るわね」

    亮平も少し笑った。

    だが、その蚀葉は胞に残った。

    昌食の埌、亮平はそのたた垰るこずにした。

    母は駅たで送るず蚀ったが、亮平は断った。

    「䜳乃ちゃんによろしくね」

    改札の前で、母はそう蚀った。

    亮平は頷いた。

    「うん」

    電車に乗っおから、䜳乃にメッセヌゞを送った。

    今日戻る。

    少し早く垰る。

    既読は぀かなかった。

    窓の倖を、昔の町が流れおいく。

    高校の近くを通る時、グラりンドの照明塔が遠くに芋えた。

    昌間なので、灯りは぀いおいない。

    それでも、亮平には倜の詊合の明かりが䞀瞬だけ浮かんだ。

    拓人の笑い声。

    䜳乃の芖線。

    父の声。

    母の匁圓。

    その党郚から、電車は少しず぀離れおいく。

    郜心ぞ近づくに぀れお、空が狭くなった。

    亮平はスマホを芋た。

    䜳乃からの返事はない。

    仕事䞭かもしれない。

    寝おいるのかもしれない。

    郚屋にいるのかもしれない。

    合鍵がある。

    急にでも来おいい。

    䜳乃はそう蚀った。

    来おくれた方が、嬉しい。

    亮平は、その蚀葉を思い出した。

    駅に着いた時、時蚈は四時前だった。

    土曜の倕方の駅は、平日の倜よりも少し緩かった。

    買い物袋を持぀人。

    子どもの手を匕く母芪。

    郚掻垰りらしい高校生。

    仕事垰りらしい顔の人間もいるが、足取りはどこかたばらだった。

    亮平は改札を出た。

    駅前のコンビニに寄る。

    プリンの棚を芋る。

    䜳乃が奜きだず蚀っおいたものがあった。

    亮平は䞉個取った。

    二個ね。

    䞉個買う。

    そんなやり取りをしたこずを思い出した。

    亮平はプリンをかごに入れ、぀いでに猶コヌヒヌも入れた。

    レゞで袋を受け取る。

    倖に出るず、颚が少し冷たかった。

    䜳乃の郚屋ぞ向かう。

    返事はただない。

    亮平は歩きながら、䜳乃にもう䞀床メッセヌゞを送った。

    今から寄る。

    プリン買った。

    既読は぀かなかった。

    マンションの前に着いた。

    芋慣れた建物だった。

    階段を䞊がる。

    䜳乃の郚屋の前に立぀。

    袋の䞭でプリンが少し揺れた。

    亮平はキヌケヌスを取り出した。

    薄い青のキヌホルダヌが぀いた鍵。

    䜳乃が枡しおくれた鍵。

    急にでも。

    来おくれた方が、嬉しい。

    亮平は鍵を差し蟌んだ。

    鍵は、い぀ものように軜く回った。

    ドアを開ける。

    玄関の空気が、少し違った。

    最初に気づいたのは、靎だった。

    䜳乃の靎ではない。

    亮平の靎でもない。

    男物の靎が、玄関の端に揃えず眮かれおいた。

    黒いスニヌカヌ。

    少し汚れおいる。

    亮平は動きを止めた。

    それから、ゆっくり靎を脱いだ。

    郚屋ぞ䞊がる。

    ドアを閉め、鍵を抜く。

    手の䞭で、青いキヌホルダヌがかすかに揺れた。

    廊䞋を䞀歩進んだずころで、郚屋の奥から䜎い声がした。

    聞き芚えのない男の声だった。

    そのあず、䜳乃の声がした。

    笑い声ではなかった。

    泣き声でもなかった。

    息の混じった、短い声。

    亮平の手から、コンビニの袋が滑りかけた。

    プリンの容噚が䞭でぶ぀かった。

    小さな音がした。

    郚屋の奥の声が止たった。

    䜳乃が顔を出した。

    目が合った。

    䜳乃は、最初、䜕が起きたのか分からない顔をした。

    次に、亮平の顔を芋た。

    それから、玄関に眮かれた男の靎を思い出したように、衚情が倉わった。

    䜳乃の顔から、血の気が匕いおいく。

    「亮平」

    声は小さかった。

    亮平は䜕も蚀えなかった。

    䜳乃は、脱ぎ捚おおあったスカヌトを慌おお胞元に抱えおいた。

    それが䜕を隠そうずしおいるのか、亮平には分かった。

    分かりたくなくおも、分かった。

    䜳乃の埌ろ、郚屋の䞭が芋えた。

    ベッドの䞊に、男がいた。

    裞の䞊半身が芋えた。

    腰のあたりに、䜳乃のブランケットを匕っかけおいる。

    若い男だった。

    幎霢は亮平ず同じくらいか、少し䞋かもしれない。

    顔には、気たずさより先に面倒を避けたいずいう色があった。

    「え、圌氏」

    男が蚀った。

    その蚀葉で、亮平の䞭の䜕かが遅れお動いた。

    亮平は、男を芋た。

    䜳乃を芋た。

    手の䞭のコンビニ袋を芋た。

    プリン。

    䞉個。

    それが、急にひどく銬鹿みたいに思えた。

    「出おけ」

    亮平は蚀った。

    自分の声ずは思えないほど䜎かった。

    男は顔をしかめた。

    「いや、俺、知らなくお」

    「出おけ」

    今床は少し倧きかった。

    男は䜳乃を芋た。

    䜳乃は䜕も蚀わなかった。

    男は面倒を避けるような顔で、慌おお服を拟った。

    シャツを矜織る。

    ズボンに足を通す。

    ベルトの金具の音がした。

    亮平は廊䞋に立ったたた動かなかった。

    男は靎を履いた。

    亮平の暪をすり抜ける時、目を合わせなかった。

    「すみたせん」

    圢だけの蚀葉を残しお、出おいった。

    ドアが閉たる。

    郚屋の䞭に、亮平ず䜳乃だけが残った。

    亮平は、しばらく動けなかった。

    さっきたで男がいた堎所。

    乱れたブランケット。

    床に萜ちた䜳乃の服。

    それらを順番に芋た。

    それから、ベッドの䞋に転がっおいる黒い垜子に気づいた。

    芋芚えのない垜子だった。

    男が忘れおいったものだ。

    亮平はその垜子を芋た瞬間、さっき芋たものが芋間違いではないこずを、もう䞀床理解した。

    珟実だった。

    男は本圓にここにいた。

    䜳乃の郚屋にいた。

    䜳乃は、ただスカヌトを胞元に抱えおいた。

    泣いおはいなかった。

    逃げおもいなかった。

    ただ、芋られおしたった人間の顔をしおいた。

    浮気を芋られた顔ではなかった。

    嘘がばれた顔でもなかった。

    もっず前から、自分でも隠しきれないず分かっおいたものが、぀いに倖ぞ出た顔だった。

    亮平は、口を開いた。

    最初に出たのは、それだけだった。

    「誰」

    䜳乃は答えなかった。

    「誰だよ」

    亮平の声は、怒鳎り声ではなかった。

    怒鳎るほどの圢に、ただなっおいなかった。

    䜳乃は銖を振った。

    「分からない」

    「分からないっお䜕だよ」

    「分からないの」

    亮平は、䜳乃を芋た。

    本圓に分からない顔だった。

    嘘を぀いおいる顔ではなかった。

    それが、䜙蚈に分からなかった。

    「なんで」

    䜳乃の唇が震えた。

    「理由、ない」

    「ない」

    「ないの。奜きだったずか、䌚いたかったずか、そういうのじゃない」

    「じゃあ、なんで」

    䜳乃は顔を歪めた。

    「誰でもよかったっお、蚀いたくない」

    亮平は息を止めた。

    「でも、たぶん、そういうこずだった」

    郚屋の䞭の音が、遠くなった。

    冷蔵庫の小さな唞り。

    倖を走る車の音。

    隣の郚屋のテレビ。

    党郚が薄い膜の向こうぞ行った。

    「い぀から」

    亮平は蚊いた。

    䜳乃は、すぐには答えなかった。

    その沈黙で、亮平は分かっおしたった。

    「橋を枡っおからか」

    䜳乃は銖を振った。

    「違う」

    「違うのか」

    「違わない。でも、それだけじゃない」

    「䜕が」

    䜳乃は、泣きそうな顔で蚀った。

    「亮平ず、した時から」

    亮平は、䜕も蚀えなかった。

    コンビニの袋が、手の䞭でかすかに音を立おた。

    「橋を枡っおから、倉だった」

    䜳乃は蚀った。

    「倉だったけど、ただ分からなかった。怖いだけだず思っおた。柄川さんに倉なこず蚀われたからだっお思おうずしおた」

    亮平は、沙倜子の赀い靎を思い出した。

    橋の䞊の赀。

    戞倉の隣にあった赀。

    䜳乃の隣にあった赀。

    「でも、亮平ずした時に、もっず分からなくなった」

    䜳乃の声が震えた。

    「亮平が奜きだった。ずっず奜きだった。だから、あの時、うれしかった。怖かったけど、うれしかった」

    亮平は、あの倜を思い出した。

    䜳乃が胞元を぀かんだ倜。

    埅ったよ、ず蚀った倜。

    泣きながら、ずっず奜きだったず吐き出した倜。

    明け方、亮平が䜳乃に觊れたこず。

    優しくした぀もりだった。

    守ろうずした぀もりだった。

    普通の恋愛ぞ戻した぀もりだった。

    「でも、それから、䞀人になるず、身䜓だけが勝手に思い出すの」

    䜳乃は䞡手を握った。

    爪が掌に食い蟌んでいた。

    「亮平ずいる時は、嘘じゃなかった」

    䜳乃は蚀った。

    「朝ごはん食べたこずも、鍵をもらったこずも、行っおらっしゃいっお蚀えたこずも、党郚、本圓にうれしかった」

    亮平は、䜕も蚀えなかった。

    「でも、䞀人になるず、駄目なの」

    䜳乃は䞡手で顔を芆った。

    「奜きなのず、欲しいのが、同じ堎所にいおくれない」

    その蚀葉は、郚屋の䞭でひどく小さかった。

    小さいのに、亮平の胞の奥たで届いた。

    「誰かに觊られたいずか、芋られたいずか、そういうのが、急に来るの」

    䜳乃は顔を芆ったたた蚀った。

    「自分でも気持ち悪い。違うっお思う。亮平が奜きなのにっお思う。垰ろうっお思う。やめようっお思う。でも、止たらない」

    「さっきの男も」

    亮平は蚀った。

    䜳乃は肩を震わせた。

    「駅で」

    「駅」

    「私から、声をかけた」

    亮平は目を閉じた。

    駅。

    黒い靎。

    黒い鞄。

    人の流れ。

    その䞭で、䜳乃が自分から知らない男に声をかける。

    ぀いおいくのではない。

    自分で連れおくる。

    そのこずが、亮平には䜙蚈にき぀かった。

    「亮平が嫌いになったわけじゃない」

    䜳乃は蚀った。

    「それだけは、本圓なの」

    亮平は、䜳乃を芋おいた。

    芋おいるのに、芋たくなかった。

    「亮平ずいる時、本圓に幞せだった」

    䜳乃の声が厩れた。

    「嘘じゃない。嘘じゃないの。だから、䜙蚈に分からない」

    涙が萜ちた。

    䞀床萜ちるず、止たらなかった。

    「亮平がいない時だけ、別の私になる。別の私っお蚀うず、蚀い蚳みたいだけど。でも、そうじゃないの。私なの。党郚、私なの」

    亮平は、その蚀葉を聞いた。

    党郚、私。

    戞倉の顔が浮かんだ。

    䞉枝の腹に刃を入れた時の、戞倉の目。

    悪くないんだよ。

    䞉枝は悪くないんだよ。

    沙倜子ず橋を枡った戞倉。

    その埌、䌚瀟の倉庫で䞉枝を刺した戞倉。

    沙倜子ず橋を枡った䜳乃。

    その埌、自分の郚屋で芋知らぬ男を入れおいた䜳乃。

    橋。

    赀い靎。

    誰ずも枡りたせんでした。

    䜳乃さんが、来たした。

    高瀬さんが連れおいくんですね。

    亮平の䞭で、蚀葉にならなかったものが、ようやく圢を持ち始めた。

    橋は、人を別人にするのではない。

    䜕かを怍え付けるのでもない。

    その人の䞭にあったものを、もう戻せないずころたで出しおしたう。

    戞倉の䞭には、䞉枝ぞの嫉劬ず怒りがあった。

    䜳乃の䞭には、埅ち続けた時間ず、怒りず、欲望があった。

    では、自分の䞭には䜕があったのか。

    亮平は、息が詰たった。

    芋たい。

    知りたい。

    芗きたい。

    奪いたい。

    守りたいず蚀いながら、手銖に跡が残るほど掎んだ。

    䜳乃を沙倜子から匕き離した。

    自分の郚屋ぞ連れお行った。

    泣いおいる䜳乃を抱きしめながら、安心した。

    沙倜子の隣ではなく、自分の腕の䞭にいるこずに安心した。

    自分だけは、橋を䞀人で枡った。

    䜕も起きなかった。

    そう思っおいた。

    だが、それは本圓なのか。

    亮平は、䜳乃の郚屋の䞭に立っおいた。

    手にはプリンが入った袋。

    玄関の近くには、自分が脱いだ靎。

    ベッドの䞋には、知らない男の垜子。

    䜳乃は目の前で泣いおいる。

    普通の恋人だったはずの郚屋に、知らない男の忘れ物が残っおいる。

    「ごめん」

    䜳乃は蚀った。

    「ごめん、亮平」

    亮平は、その蚀葉を聞いおも、䜕も動かなかった。

    怒りはあった。

    吐き気もあった。

    裏切られたず思った。

    気持ち悪いずも思った。

    その党郚があった。

    それなのに、䜳乃をただ責める蚀葉が出おこなかった。

    䜳乃は、亮平を芋た。

    「嫌いになっおいい」

    声が震えおいた。

    「気持ち悪いっお蚀っおいい」

    亮平は黙っおいた。

    「でも、私、亮平のこず奜きなの」

    その蚀葉は、もう甘い告癜ではなかった。

    痛みのようだった。

    「奜きなのに、止たらないの」

    亮平は、コンビニの袋をテヌブルに眮いた。

    プリンが䞉぀、䞭で傟いおいた。

    䜳乃はそれを芋た。

    そしお、顔を歪めた。

    「買っおきおくれたの」

    亮平は答えなかった。

    䜳乃は泣きながら笑いそうになり、すぐに厩れた。

    「ごめん」

    たた蚀った。

    その蚀葉だけが、䜕床も郚屋に萜ちた。

    亮平はテヌブルの前に立った。

    鍵を返さなければず思った。

    ポケットには、䜳乃の郚屋の鍵がある。

    薄い青のキヌホルダヌ。

    亮平はそれを取り出した。

    䜳乃が息を止めるのが分かった。

    テヌブルの䞊に眮けばいい。

    眮いお、出おいけばいい。

    それが䞀番分かりやすい。

    普通に考えれば、そうするべきだった。

    亮平は鍵を芋た。

    青いキヌホルダヌは、少し傷が぀いおいた。

    䜕床かポケットの䞭で他の鍵ずぶ぀かったのだろう。

    䜳乃が枡した時の顔を思い出した。

    急にでも。

    来おくれた方が、嬉しい。

    その蚀葉も、あの時は甘かった。

    今は違った。

    鍵は、芋おしたうためのものになっおいた。

    亮平は、鍵をテヌブルに眮こうずした。

    指が離れなかった。

    眮けなかった。

    䜳乃はそれを芋おいた。

    䜕も蚀わなかった。

    行かないで、ずも蚀わなかった。

    蚱しお、ずも蚀わなかった。

    ただ、亮平が鍵を持ったたた動けないずころを芋おいた。

    亮平は鍵を握り盎した。

    「今日は垰る」

    それだけ蚀った。

    䜳乃の顔が、ほんの少しだけ厩れた。

    「うん」

    䜳乃は頷いた。

    「分かった」

    分かっおいない声だった。

    それでも、そう蚀った。

    亮平は玄関ぞ向かった。

    靎を履く。

    ドアを開ける。

    出る前に、䞀床だけ振り返った。

    䜳乃は廊䞋に立っおいた。

    泣いおいる。

    でも、远っおこない。

    その姿は、橋の向こうから戻っおきた時よりも、ずっず小さく芋えた。

    亮平は䜕か蚀おうずした。

    䜕も出なかった。

    ドアを閉めた。

    廊䞋に出るず、空気が冷たかった。

    階段を䞋りる。

    倖ぞ出る。

    倕方は、倜に倉わりかけおいた。

    街灯が、ただ完党には暗くなっおいない道を照らしおいる。

    亮平は歩いた。

    どこぞ向かっおいるのか分からなかった。

    駅の方ぞ歩いた。

    人はたばらだった。

    買い物袋を䞋げた女。

    スマホを芋ながら歩く若い男。

    芪子連れ。

    仕事垰りらしい顔の人間。

    どれも普通だった。

    あたりに普通だった。

    亮平はそのたばらな流れの䞭に入った。

    誰も亮平を芋おいない。

    誰も、䜳乃の郚屋で䜕が起きたのか知らない。

    誰も、亮平のポケットの䞭にただ䜳乃の鍵があるこずを知らない。

    スマホが震えた。

    亮平は立ち止たった。

    䜳乃かず思った。

    違った。

    ニュヌスアプリの通知だった。

    間宮拓人、劇的決勝匟。

    亮平は、しばらくその通知を芋おいた。

    それから、画面を開いた。

    動画が再生された。

    スタゞアムの歓声。

    芝の緑。

    癜いナニフォヌム。

    間宮拓人が走っおいる。

    昔より少し倧きくなった身䜓。

    泥臭いフォヌム。

    けれど、笑い方は倉わっおいなかった。

    ゎヌル埌、拓人はチヌムメむトにもみくちゃにされおいた。

    むンタビュアヌがマむクを向ける。

    拓人は息を切らしながら笑った。

    「ただいけるっしょ」

    その蚀葉を聞いた瞬間、亮平は、朝の電車の䞭で芋た蚘事を思い出した。

    自分より䞋手だった男。

    ただいけるっしょ、ず笑っおいた男。

    降りなかった男。

    橋を枡った男。

    動画は続いた。

    詊合埌の通路らしい堎所で、拓人が誰かず話しおいる映像に切り替わった。

    画面の端に、人の足元が映った。

    赀い靎。

    ほんの䞀瞬だった。

    顔は映っおいない。

    䞊半身もほずんど芋えない。

    ただ、黒い床の䞊に、赀い靎だけがあった。

    亮平は画面を止めた。

    指が震えた。

    赀い靎。

    亮平は、その靎を知っおいた。

    乗り換え駅で芋た。

    橋の手前で芋た。

    戞倉の隣で芋た。

    䜳乃の隣で芋た。

    拓人の隣にも、いた映っおいる。

    亮平は、スマホの画面を芋぀めた。

    呚囲を人が通り過ぎる。

    誰かの肩がぶ぀かった。

    謝眪はなかった。

    亮平も、䜕も蚀わなかった。

    画面の䞭で、拓人は笑っおいる。

    赀い靎は、画面の端にある。

    顔は芋えない。

    けれど、亮平には分かった。

    普通に考えれば、偶然かもしれない。

    赀い靎を履く女など、いくらでもいる。

    映像も䞀瞬だ。

    画質も粗い。

    堎所も違う。

    拓人ず沙倜子が知り合いだずいう蚌拠など、どこにもない。

    普通に考えれば。

    亮平は、その蚀葉を胞の䞭で蚀った。

    蚀った瞬間、それがもう䜕の圹にも立たないこずが分かった。

    スマホの画面が暗くなった。

    そこに、自分の顔が映った。

    疲れた目。

    青く芋える顎。

    しわの寄ったシャツの襟元。

    朝からの疲れが、そのたた残った顔だった。

    だが、同じではなかった。

    亮平はポケットの䞭の鍵を握った。

    䜳乃の郚屋の鍵だった。

    冷たかった。

    小さくお、硬くお、ただ返しおいない鍵だった。

    駅の䞭の人の流れは、土曜の倜らしくたばらだった。

    黒い靎がゆっくり通り過ぎる。

    買い物袋を提げた腕。

    スマホを芋ながら歩く若い男。

    疲れた顔の女。

    どれも普通だった。

    あたりに普通だった。

    亮平は、そのたばらな流れの䞭に入った。

    混じるしかなかった。

    黒い靎が前ぞ進む。

    黒い鞄が揺れる。

    スマホの光が、いく぀も流れおいく。

    どこかで、誰かが笑った。

    どこかで、電車の到着音が鳎った。

    亮平は歩いた。

    橋は芋えなかった。

    氎路の匂いもしなかった。

    赀い靎も、目の前にはなかった。

    それでも、もう向こう偎の匂いがしおいた。

    了

     
     
    慌おず隒がず血走らず。 粛々ず競銬の予想をいたしたす。 競銬、仕事、氎泳、颚呂、映画、酒、本。 50代䌚瀟員の日々を敎えながら、 週末の競銬ず生掻の期埅倀を少しず぀䞊げおいくNOTEです。 Amazon.co.jpア゜シ゚むトに参加しおいたす。

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