
ただしさの向こう
海を見に来たわけではなかった。
気がつけば、手すりに両手を置いていた。風が少し強い。眼下で波が砕けている。
こんな音だっただろうか。
ふいに、あいつの声を思い出した。
「でも、それ本人に聞いた?」
若かった、と言ってしまえばそれまでだ。
俺たちは同じ職場で、同じ人を支援していた。本人には、どうしても譲りたくない希望があった。
気持ちは分かった。叶えてやれたらとも思った。
でも、危険だった。
何かあってからでは遅い。俺たちは友人でも家族でもない。予測できる危険を知りながら見過ごすことは、本人を尊重することとは違う。
だから俺は止めた。
「聞いてどうする。できないものは、できないだろ」
あいつは少し黙った。
「できるかどうかじゃなくてさ」
「期待させるだけだろ。聞いたって結論は変わらない」
「結果が同じなら、聞かなくていいの?」
腹が立った。
「じゃあ、お前は本人がやりたいって言えば、何でもやらせるのかよ」
「そんなこと言ってない」
「同じだろ」
「違うよ」
その言い方が妙に静かだったことを覚えている。
「じゃあ、お前ならどうするんだ」
あいつは少し考えた。
「俺だって、たぶん止めるよ」
「ほら、同じじゃないか」
「うん。同じだよ」
そこで話は終わった。
いや。
終わらせたのは、俺だった。
あのときの判断を、今でも間違っていたとは思わない。
事故は起きなかった。本人もやがて別の方法を受け入れた。それでよかったのだと思う。
あいつだって、俺が間違っているとは言わなかった。
だから、これは後悔ではない。
謝りたいわけでもない。やり直したいわけでもない。
それなのに、ときどき思い出す。
――違うよ。
何が違ったんだ。
若い頃の俺は、正しい答えというものがあると思っていた。
危険を避けること。守ること。専門職として責任を果たすこと。
今だって、それを間違いだとは思わない。
ただ。
正しい答えを出すことと、そこへ辿り着くまでに誰かの声を聞くことは、本当に同じだっただろうか。
あの日、俺は本人の声を聞かなかった。
そしてたぶん、あいつの声も。
もし聞いていたら、何かが変わっただろうか。
きっと結論は同じだった。
俺は止め、あいつも止めた。
何も変わらなかったかもしれない。
それでも。
「あのとき、お前は何を聞こうとしてたんだ」
声にすると、風にさらわれた。
答えるはずのない海が、眼下で音を立てている。
昔の俺なら、その音にさえ答えを探したかもしれない。
手すりに置いていた手の力を抜いた。
帰るのは、もう少しあとでいい。
今はただ、波の音を聞いていた。
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_(^^;)ゞ
難しかった。