メインコンテンツへスキップ
見出し画像

ズレた世界の正解者 #8— サイワイの森編③

    ▼「これまで」
    異世界へ飛ばされたよしたちは、世界の心へ繋がる鍵を求め、サイワイの森の深部へ足を踏み入れる。そこは、空間も感情も歪み、自我さえ呑み込まれる危険な場所だった。森の民・ネイラと出会い、侵食された魂や根の存在を知る中で、よしは欠片を通してリンタロウの孤独と絶望に触れていく。やがて根への道で、よしはリンタロウの精神世界へ引き摺り込まれ、自身の過去の痛みとも向き合うことに。「全部を一つにすれば、誰も独りにならない」——リンタロウの歪んだ願いに対し、仲間たちの声に支えられたよしは、自分として生きることを選び、彼を止める決意を固めた。


    第27話『根の回廊』

    ネイラの集落を出発した時には、まだ足元に確かに存在していたはずの土の感触や道という概念が、数分後には跡形もなく消失していた。

    道そのものが、巨大な生命体の内壁のように、意思を持って絶えずその形を変え続けているのだ。

    『……また、景色が書き換えられたわ』

    もえが、視神経を削られるような痛みに耐えながら低く呟いた。

    さっきまで周囲を覆っていた巨大樹の列は霧に溶けるように消え去り、代わりに今は、無数の白い根が天井から垂れ下がる、巨大な神経の空洞のような空間へと変貌を遂げている。

    だが、その根は植物のそれではない。半透明の表皮の下を、青白い光ファイバーのような脈動が絶え間なく走り、微かに、そして粘り強く拍動を繰り返している。

    『ここは既に、森という表層ではない』

    先頭を歩くエルガドが、拒絶の意志すら感じさせる硬い声で言う。

    『根へと至る回廊。あるいは、この世界が抱える無意識の貯蔵庫だ。表の理(ことわり)が通用する場所ではない』

    空気が、異常なほどに重い。

    悲鳴、後悔、孤独、憎悪。数え切れない誰かの人生の、濾過(ろか)されなかった残滓が、呼吸をするたびに肺の奥へと泥のように流れ込んでくる。

    ゆずが、喉の奥から小さな呻きを漏らし、ふらりとよろめいた。

    『……ダメ、だ。ここ、近すぎる……。誰の心なのか、自分の心なのか……わからなくなる……』

    ゆずの肩が、小刻みに震えていた。

    『……違う人の悲しい気持ちが、勝手に流れ込んでくる……っ。苦しい……』

    額を押さえ、呼吸を乱すゆずの横で、もえが険しい顔を上げる。

    『この空間、感情そのものを共有化してる……。根が、侵入者同士の境界線を曖昧にしてるのよ』

    『境界線?』

    しょうが眉をひそめる。

    『自分と他人を分ける輪郭よ。ここでは、その輪郭が薄い人間から順番に呑まれていく』

    レゾナンスが強すぎるのだ。ここでは、自分と他人という絶対的であるはずの境界線そのものが、酸に溶かされたように曖昧になり始めていた。

    『意識の芯を放すな』

    レオの冷徹な声が響く。

    『ここでは、自我の輪郭が弱い者から順番に混ざっていく。自分と他人の境界が消え、痛みも、記憶も、自分が誰だったのかさえ判別できなくなる。すべての個性が消失し、一つの巨大な“澱み”の一部に成り果てるのだ』

    ◇

    その時だった。

    ドクン。

    よしの掌の欠片が、これまでにない暴力的な力で脈打った。

    同時に。

    回廊の奥、深い闇の向こう側から、透き通った「歌声」が聞こえてきた。

    あまりにも、近い。まるで耳元で直接囁かれているような距離感。

    【——よし。】

    リンタロウの声だった。

    【こっちだよ。君にだけは、見せておきたいものがあるんだ】

    白い根が、生き物の触手のようにざわりと蠢き、視界を覆い尽くす。

    その瞬間。

    ——世界から、全ての「色彩」と「律動」が、無慈悲に剥ぎ取られた。

    極彩色の植物や、脈打つ神経の輝き、仲間たちの荒い吐息。

    それら全てが、一瞬にして、ザラついたモノクロームの砂嵐へと反転する。

    空間を支配していた湿り気は、一瞬で「乾燥した、ひんやりとした冷気」へと変わり、鼻を突いたのは、異世界の神秘的な香りではなく——埃っぽいコンクリートと、夕立の前の重苦しいアスファルトの匂いだった。

    気づけば。

    よしは、一人で立っていた。

    『……は? しょう? レオ?』

    周囲を振り返るが、誰もいない。車椅子の車輪が地面を噛む音すら、吸音材に包まれたように不自然に小さく響く。

    代わりに目の前に広がっていたのは。

    どこまでも灰色に澱んだ、古びた日本の「団地」の風景だった。

    錆び付いて動かないブランコ。ひび割れたアスファルト。

    どこか遠くで、かすかに聞こえる救急車のサイレンと、安っぽい換気扇が回る虚しい音。

    ファンタジーの恐怖ではない。

    それは、かつて「こちら側」で生きていた者にとっての、逃げ場のない、あまりに乾いた日常の地獄。

    『お前も、こういう場所にいたんだろう?』

    背後から、不意に声がした。

    よしは心臓を掴まれたような衝撃を受けながら、ゆっくりと車椅子を回転させる。

    そこにいたのは、怪物でも神でもなかった。

    まだ何者でもなかった頃の、ただの普通の少年だった頃のリンタロウだった。

    痩せぎすな身体。目の下の濃い隈。手入れのされていない、ボサボサの黒髪。

    サイズが合っていない、安っぽい高校の制服。

    なのに。その瞳だけが、内側から激しい炎で焼かれ、今にも壊れそうな硝子細工のような、危うい光を放っていた。

    『……リンタロウ。お前、その姿は……』

    『懐かしいだろ。……いや、お前にとっては忌々しいだけかな』

    リンタロウが、ひび割れたアスファルトを見つめながら、自嘲するように弱々しく笑った。

    『ここ、俺がいた場所だよ。……俺を形作った、狭くて、暗くて、誰も助けてくれなかった箱庭だ』

    湿った風が吹き抜け、古びたベランダに干された色褪せた洗濯物が、幽霊のように力なく揺れる。

    『ここでさ』

    リンタロウが、絶望的なまでに灰色の空を見上げる。

    『ずっと思ってたんだ。なんで俺だけ、ちゃんと生きられないんだろうって。周りの奴らは、あんなに簡単に笑って、あんなに簡単に明日を信じているのに。なんで俺の足元だけ、いつも泥沼なんだろうって』

    その声には、怒りはない。ただ、長い時間をかけて魂が擦り切れ、一滴の希望も残っていない者の、乾いた諦めだけがあった。

    『頑張ってもダメだった。普通になろうとしても、結局どこかでズレる。正論を言えば笑われ、助けを求めれば置いていかれる。……俺というピースは、最初からこの世界のパズルには、必要なかったんだ』

    リンタロウが、小さく、哀しげに笑う。

    『だからさ、ある日思ったんだよ。“だったら、この正解だらけの世界の方を、俺に合わせて壊してしまえばいい”ってね』

    よしは、何も言い返せなかった。

    わかってしまうからだ。その、胸が張り裂けるような疎外感。

    「自分だけが異物である」という、呪いのような孤独を。

    『お前も、そうだったんだろう?』

    リンタロウが、ゆっくりと振り返る。その瞳が、よしの瞳の奥にある「空洞」を、冷徹に射抜いた。

    『お前だって、普通になんてなれなかった。……俺と、同じ側の人間だったはずだ』

    その瞬間。よしの胸の奥で、何かが悲鳴を上げて軋んだ。

    否定したかった。けれど、できるわけがなかった。この団地の風景が、リンタロウの吐き出す言葉の一つ一つが、あまりにも自分の心の奥底に眠る「澱(よど)み」と、完璧に合致してしまっていたからだ。

    ◇

    一方その頃。現実側の回廊では、異常事態が発生していた。

    『よし!? おい、返事しろ! よし!!』

    しょうが、魂が抜けたように動かなくなったよしの肩を、激しく揺さぶる。

    だが、よしは焦点の合わない瞳で、虚空を見つめたまま、微動だにしない。

    『違う……。意識だけじゃない。……存在の波長が、書き換えられてる』

    もえが、戦慄に顔を青ざめさせながら、震える声で叫んだ。

    『引き摺られたんだ。根の深層……リンタロウの個人的な精神領域へ!』

    レオの表情が、この旅で初めて、明確な焦燥と危機感を帯びて歪んだ。

    『……最悪だな。最も恐れていたことが起きた』

    『何が起きているの!?』

    ロゼリが、短剣を構えながら周囲を睨みつける。

    レオは、白い根の奥、よしの意識が囚われているであろう暗黒を、苦々しく吐き捨てるように睨みつけた。

    『リンタロウの奴、自分を維持するための核を捨てた。直接よしと繋がり、魂の深部で融合を始めたんだ。……“共鳴”なんて生易しいものじゃない。これは、存在の乗っ取り……いや、“自己同化”の始まりだ』

    空気が、一瞬で凍結する。

    『このまま同化が完了すれば、よしの意識は消滅し、その肉体にはリンタロウの記憶と絶望が宿る。……よしは、リンタロウそのものに成り果てるんだ』


    第28話『空洞の底』

    灰色の空だった。

    雲はどこまでも低く垂れ込み、今にも重い雨が落ちてきそうなのに、決して一滴も降らない。代わりに、乾いた風だけが不規則に吹き抜けている。

    湿っていて、冷たくて、それでいて肌を撫でる瞬間に嫌な熱を帯びる、死者の吐息のような生ぬるい風。

    団地のベランダに吊るされた、主(あるじ)を失った色褪せた洗濯物が、力なくバタバタと幽霊の羽ばたきのように揺れていた。

    その光景を、心臓を直接氷で撫でられるような戦慄と共に、よしはゆっくりと息を呑みながら見つめる。

    ——静かすぎる。

    世界から「音」という概念が死に絶えたかのようだった。

    あるはずの生活音が、一切存在しない。

    テレビの騒がしい音も。子供たちの甲高いはしゃぎ声も。夕食の準備を告げる食器の触れ合う音も。

    この巨大な団地群には、「かつてそこに人が生きていた」という空虚な痕跡だけが化石のように残されていて、肝心の“人間”という熱量だけが、一瞬で綺麗に消し去られてしまっている。

    『……ここ、本当にお前がいた場所なのか』

    よしの、掠れた問いに。

    リンタロウは、灰色の団地群を、愛おしむでも憎むでもない虚ろな瞳で見上げたまま、小さく笑った。

    『いたよ。……ちゃんと、実体を持ってそこにいたさ』

    その声は、震えるほどに穏やかだった。

    『でも、誰にも見えてなかっただけだ。俺がそこに立っていても、そこに座っていても。……みんな、透明な空気と同じように俺を通り過ぎていったんだ』

    風が吹く。

    遠く、公園の古びたブランコのチェーンが軋み、甲高い金属音が、逃げ場のない空虚の中へと冷たく響き渡った。

    『朝起きて、学校へ行って。言われた通りに机に座って。終われば帰ってきて。スマホを見て。寝て。また朝になって。……その繰り返し』

    リンタロウが、淡々と、まるで他人の履歴書を読み上げるような無機質な口調で続ける。

    『でもさ。どれだけ時間が過ぎても、どれだけ心臓が動いていても、生きてる感じだけが、ずっとどこにも無かったんだ』

    彼は、自分の掌を見下ろした。その指先は、細く、折れそうなほどに脆い。

    『周りの奴らは、みんな簡単そうだった。友達を作って、誰かを好きになって、笑い合って。当たり前のように普通のレールを走ってる。……なのに、俺だけ、全部がズレるんだ。ほんの数ミリ、けれど決定的な亀裂が、俺と世界の間にずっと横たわってた』

    その瞳に宿る光は、激しい怒りではない。

    もっと静かな。もっと深く、長い時間をかけて魂の底で腐り果てた「諦め」だった。

    『頑張れば報われるって、教師も親も言ってた。……嘘だった。助けてって叫べば、誰かが必ず手を差し伸べてくれるってのも。……全部、優しい奴らが吐いた残酷な嘘だったんだ』

    リンタロウが、よしを射抜くように見つめる。

    『結局さ、人間っていうのは、普通の形をしてる奴しか愛せないんだよ。そこから少しでも形が歪んでる奴は、最初から「いないもの」として処理される。それがこの世界の正解なんだ』

    その瞬間。

    ——現実側の回廊で、ゆずが苦しそうに胸を押さえた。

    『……違う』

    震える声が漏れる。

    『この人……本当は、誰かを傷つけたいわけじゃない……』

    白い根が、ゆずの足元へまとわりつく。

    『置いていかれる側になるのが、怖かっただけなんだ……』

    その瞬間。

    よしの胸の奥で、何かが悲鳴を上げ、強く軋んだ。

    言い返したい。全力で否定したい。

    なのに。

    喉の奥に熱い塊が詰まったように、言葉が、一文字も出てこない。

    なぜなら、よしの中にも、否定しきれない確かな熱を持って存在していたからだ。

    「周りと同じように歩けない」「自分だけが世界から拒絶されている」という、あの暗く湿った感覚が。

    『……お前は、俺とは違うだろ』

    よしが、己の崩れそうな輪郭を必死に繋ぎ止めるように、絞り出すような声で言った。

    『お前は、世界を壊した。森を広げ、無辜の人間を侵食して、奪って、苦しめた。……そんなの、ただの自分勝手な八つ当たりだろ! 正当化するな!』

    リンタロウは、静かに笑った。

    だが、その笑みには、よしを論破したという勝ち誇るような色は一切ない。

    『そうだよ。八つ当たりだ。最低の暴挙だよ』

    あまりにも、あっさりとした肯定。

    『だから何度も言ってるじゃん。俺は、もうとっくに壊れてるんだって』

    灰色の団地の隙間を、冷たい風がヒュウヒュウと音を立てて吹き抜ける。

    『最初はさ。世界の心を救おうなんて、そんな大層なこと、どうでもよかったんだ。ただ、誰か一人でよかった。たった一人でいいから、俺の目を見て……お前はここにいていいんだって、そう言ってほしかっただけなんだよ』

    よしの呼吸が、物理的に止まる。

    リンタロウは、どこまでも静かな、そして幼い子供のような声で続けた。

    『でも、誰も言わなかった。世界は、俺を無視し続けた。……だから、もういいやって思ったんだ』

    その瞬間だった。

    ——グニャリ。

    視界そのものが、油絵の具をぶちまけたように歪む。

    目の前の団地の壁面が、生き物の肉のように不気味に脈動し始めた。

    コンクリートの皮膚が波打ち、窓ガラスがガチガチと歯を鳴らすような音を立てて、一斉に開け放たれる。

    その奥。

    各部屋の暗闇の中から、無数の人影が姿を現した。

    顔はない。目も鼻も口も、のっぺりとした灰色の影に塗り潰されている。

    ただ、その全員が、こちらを、よしを、凝視している。

    無言で。無表情で。絶対的な拒絶の色を孕んで。

    よしの背筋を、氷の刃でなぞられるような悪寒が走り抜けた。

    『……なんだ、これ。……何を見せているんだ』

    『残響だよ』

    リンタロウが、振り返りもせずに答える。

    『この閉塞感の中で、誰にも気づかれずに心が死んでいった奴らの、抜け殻みたいなものだ。お前がさっき言った、「奪われ、苦しめられた」奴らの正体だよ』

    次の瞬間。

    団地中の窓から、一斉に「声」が溢れ出した。

    【助けて……】

    【苦しい……】

    【なんで私だけが、こんな目に……】

    【消えたい。もう、消えてしまいたい……】

    【誰か……誰か私を見つけて……】

    声。声。声。

    物理的な質量を持った数え切れない絶望が、濁流となってよしの脳内へ直接流れ込んでくる。

    『——ぁ、ぐッ……!! あああああああッ!!』

    よしは頭を抱え、車椅子の上でのたうち回るように呻いた。

    痛い。頭蓋骨の内側から、何万本もの針で突き刺されているような感覚。

    他人の生々しい感情が、よしの神経を、記憶を、直接焼いてくる。

    『やめろ……ッ!! 聞きたくない!! 止めろ!!』

    『無理だよ、よし』

    リンタロウが、足元の影に溶け込むように小さく呟く。

    『根は、もう全部繋がってるんだ。痛みも、孤独も、絶望も。個別の人間なんて、最初から存在しない。ここでは、誰か一人だけが壊れるなんて贅沢、許されないんだよ』

    その声が。

    冷徹な宣告であるはずなのに、どこか、一緒に泣いてほしいと願う子供のように聞こえた。

    『だから俺は、全部を一つにしようとしたんだ。誰かが独りになるから苦しいなら、最初から全部の魂を溶かして、繋がってしまえばいい。そうすれば、もう「無視される奴」なんて、いなくなるだろう?』

    空間が、さらに激しく脈打つ。

    団地の壁が、脱皮する皮膚のようにボロボロと崩れ落ち、その向こう側から、脈動する白い巨大な根が姿を現した。

    それは、世界そのものの血管だった。

    無数の負の感情。無数の無残な人生。無数の、出口のない痛み。

    それらすべてを呑み込みながら、巨大な、悍ましい脈動を繰り返している。

    リンタロウが、その根へ、吸い込まれるようにゆっくりと手を伸ばす。

    『でも、もう限界なんだ。僕の器(からだ)じゃ、もう耐えきれない』

    彼の右腕が、黒い侵食に蝕まれていた。

    皮膚の下を、無数の黒い線が、寄生虫のように血管を伝って這い回っている。

    『繋がりすぎた。……この世界の痛みの全てが、もう、自分自身のものか他人のものか、区別ができないんだ』

    リンタロウが、静かに笑う。

    その笑みは。

    暗い海に沈んでいく最中に、誰かの助けを求める子供みたいに、あまりにも弱々しく、透明だった。

    『なぁ、よし。……お前なら、分かるだろ?』

    その瞬間。

    ドクン、と。

    よしの掌の欠片が、これまでにない強さで、まるで警鐘を鳴らすように激しく脈打った。

    視界が揺れ、色彩が混ざり合う。

    そして。

    よしの脳裏へ、自分自身ですら鍵をかけて忘れていたはずの別の記憶が、鮮烈なフラッシュバックとなって流れ込んできた。

    冷たい病院の廊下。車椅子の車輪が立てる、虚しい音。

    周囲の大人たちが浴びせてくる、憐憫(れんびん)に満ちた視線。

    「かわいそうに」という、善意という名の凶器。

    「普通には戻れない」という、残酷なまでの無言の沈黙。

    ずっと、ずっと押し殺してきた。

    自分が弱いからだ。自分が不運だからだ。そう言い聞かせて、笑顔の仮面の下に埋めてきた醜い感情。

    ——嫌だった。

    ——誰よりも、苦しかった。

    ——俺だって、普通になりたかった。普通に走って、普通に笑って、普通に愛されたかった……!!

    『……ぁ……う、あ……』

    よしの瞳から、知らないうちに熱い涙が零れ落ちる。

    それは、リンタロウの悲しみなのか。それとも、よし自身の慟哭なのか。

    リンタロウが、慈愛に満ちた、恐ろしく優しい表情で微笑んだ。

    『ほら。やっぱり……君も僕と、同じじゃないか』

    その瞬間。

    足元から、白い根が、蛇のようなしなやかさでうねりながら、よしの足元へ絡みついた。

    レゾナンスが制御不能なまでに暴走する。

    自分とリンタロウの、魂の境界線が、急速に溶け、混ざり合い始める。

    痛み。孤独。絶望。

    それらが、一つの黒い水溜りとなって、区別できなくなっていく。

    自分がよしなのか。あるいはリンタロウなのか。

    記憶が、融解していく——。

    その、意識が消えかける暗闇の遠くで。

    誰かが、喉を潰さんばかりの勢いで、自分を呼ぶ声がした。

    『——よし!! 目を覚ませ!! 引っ張られるな!! よし!!』

    しょうの声。

    だが、それすらもう、厚い水壁の向こう側で響く音のように、ひどく、遠い。

    リンタロウが、そっと、救いの主のように手を差し出した。

    『こっちへ来いよ、よし。……一人でいるのは、もう終わりにしよう』

    灰色の世界の中で。

    差し出されたその手だけが、あまりにも寂しそうに、そして期待に満ちて、微かに震えていた。

    第29話『境界線』

    『こっちへ来いよ、よし。……一人でいるのは、もう終わりにしよう』

    灰色の世界の中で。リンタロウが差し出したその白く細い手だけが、この世の何よりも温かく、救いに満ちたものに見えた。

    団地を覆う澱んだ空気が、重低音を響かせてゆっくりと脈打っている。

    いや、違う。

    脈打っているのは、世界ではなく、よし自身の境界線そのものだった。

    ——ドクン。

    ——ドクン。

    掌の欠片が狂ったように明滅を繰り返すたびに、自分とリンタロウの、あるいはこの場所に堆積した無数の死者たちの感情が、泥水のように混ざり合っていく。

    寂しい。苦しい。消えたい。誰かに、見つけてほしい。

    それが、自分自身の心の叫びなのか。それとも、目の前のリンタロウの残響なのか。

    もはや、その判別さえ不可能になりつつあった。意識の輪郭が、熱い湯に浸した角砂糖のように、端から崩れて溶け出していく。

    白い根が、飢えた蛇のように車椅子へ絡みつき、よしの脚部を容赦なく覆い始めていた。

    冷たいはずの感触。なのに、その奥には心臓の鼓動のような微かな熱があり、どこか懐かしい安心感さえ漂っていた。

    まるで、『もう頑張らなくていい』『独りで戦わなくていい』と、母のような慈愛を持って囁かれているみたいだった。

    『……来いよ、よし』

    リンタロウの声が、耳元で甘く、静かに響く。

    『お前も本当は、疲れ切っていたんだろ? 普通という名の檻に入れられたまま、笑えない顔で生き続けることに。……僕たちが望んでいたのは、こんな窮屈な場所じゃないはずだ』

    その瞬間。よしの脳裏へ、また別の、あまりにも生々しい記憶の断片が流れ込んだ。

    ◇

    そこは、夕暮れ時の教室だった。

    放課後の、オレンジ色の光が斜めに差し込む静かな空間。

    数人のクラスメイトたちが机を囲み、何でもない冗談を言い合いながら笑っている。その輪の外側——。

    数メートルだけ離れた場所で、一人、電源の入っていないスマホの画面を見下ろしている少年がいた。リンタロウだ。

    誰も、彼を攻撃してはいない。悪意を持って無視しているわけでもない。

    ただ、「どう接していいかわからない」という、透明で分厚い防壁のような空気だけが、教室全体に漂っていた。

    リンタロウは、自分から話しかけようとしていた。何度も、何度も。

    喉の奥まで出かかった言葉を、拳を握りしめて飲み込む。その勇気を振り絞って出した一言も。

    『あ、ごめん、今から塾なんだ』

    『また今度な、リンタロウ』

    『悪い、これから先約あってさ』

    その度に、彼は薄く、どこか申し訳なさそうな笑みを浮かべて引き下がる。

    最初は、まだ期待していたのだ。いつか誰かが、この透明な壁を壊して、自分を「こちら側」へ引き入れてくれるはずだと。

    だが、期待は、裏切られる回数を重ねるごとに、やがて鋭利な“痛み”へと変質していく。

    『……なんでだろうな』

    記憶の中のリンタロウが、誰にも聞こえない声で小さく呟く。

    『別に、嫌われるようなことしてないはずなのに。……なんで、俺だけがここにいないことになってるんだろう』

    その声が、よしの胸を抉るほどにリアルだった。それはかつて、車椅子という「特殊な立場」になった自分が、周囲の気遣いという名の疎外感の中で抱いた想いと、一分一分の狂いもなく合致していた。

    ◇

    『やめろ……ッ』

    よしが、震える声で、自分自身の魂を繋ぎ止めるように呟く。

    『こんな……こんな惨めなもの、見せるな……!』

    『なんで?』

    リンタロウが、小鳥のように不思議そうに首を傾げた。

    『お前には、はっきりと見えるはずだろ。こっち側にしか存在しない、真実の景色が』

    灰色の団地が、呼吸をするようにゆっくりと脈動を強める。

    窓。廊下。階段。ベランダ。

    そのすべての影、すべての隙間から、ドロリとした黒い影のような“人”が滲み出していた。

    【助けて……】

    【苦しい……】

    【ここにいるのに……ここにいるのに!】

    声。声。声。

    見過ごされ、置き去りにされ、誰にも届くことなく腐敗していった感情の残骸たちが、今やこの世界の主役となっていた。

    『世界ってさ』

    リンタロウが、教祖のような静謐さで言う。

    『案外、死にたい奴で溢れかえってるんだよ』

    ドクン。

    白い根が、さらによしの胸元まで絡みついた。

    『なのに、みんな普通のフリをして生きている』

    ドクン。

    『今にも壊れそうなのに、乾いた顔で笑っている』

    ドクン。

    『死ぬほど苦しいのに、大丈夫なんて言葉で自分を騙している』

    ドクン。

    『だったら最初から、全部を繋げてしまえばいいだろう? 嘘をつく必要も、隠す必要もない、一つの巨大な「孤独」として同化してしまえばいい』

    リンタロウの背後で、巨大な根が天を突くように脈動する。

    それはもう、植物という種別を超えていた。

    巨大な神経網。巨大な感情のゴミ捨て場。巨大な集合意識。

    世界中の、行き場を失った孤独が、巨大な渦となってそこへ流れ込み続けている。

    『俺は……間違っているか? よし』

    リンタロウが、懇願するように静かに問う。

    『一人だけ苦しい奴がいるから、世界は歪むんだ。だったら、世界そのものを一つの「苦しみ」にすれば、誰も独りにはならない。これこそが、僕たちの求めていた平等だとは思わないか?』

    よしは、息を呑んだまま固まっていた。

    反論したかった。その歪んだ正義を、真っ向から否定したかった。

    だが。

    その狂った理屈が、あまりにも優しく聞こえてしまったのだ。

    この地獄のような一体感の中に身を沈めてしまえば、もう二度と「疎外感」に泣くことはないのではないか、と。

    ◇

    一方、現実側。

    『よし!! よし、返事しろ!!』

    しょうの絶叫が、空間を震わせる。

    だが、よしの瞳は光を失ったまま、虚空を見つめている。

    白い根は、既に車椅子の背もたれまでを呑み込み、よしの身体を繭のように包み込もうとしていた。

    『侵食速度が異常だわ……!』

    もえが、恐怖に顔を青ざめさせる。

    『このままじゃ、本当に存在の境界が消える! よしという個体としての、リンタロウのシステムに上書きされちゃう!』

    レオが、これまで見せたことのない険しい表情で、よしを凝視した。

    『リンタロウの奴……理解者として、魂の深部から同化を試みているな』

    『理解者……?』

    ゆずが、震える声で呟く。

    『そうだ。孤独を共有し、お前は自分と同じだと肯定することで、防衛本能を解除させている。……外側から壊すのではなく、内側から溶かし合っているんだ』

    レオの声が、重く沈む。

    『否定や攻撃ではない、共鳴による侵食だ。……これこそが、レゾナンスの最悪の使い方だ』

    しょうが、奥歯を砕かんばかりに噛み締めた。拳から血が滲むほどに力を込める。

    『……じゃあ、どうすりゃいいんだよ! ただ見てるだけかよ!!』

    レオは、一瞬だけ沈黙し、やがて厳しい真実を告げた。

    『引き戻すには……よし自身が、自分を選び直すしかない。他人の痛みをどれだけ理解しても、それでもなお“自分は自分だ”と、魂の芯で一線を引かなければならない。……だが、それは極限の苦痛を伴う選択だ。理解してしまった相手を、突き放さなければならないのだからな』

    ◇

    灰色の世界。

    リンタロウが、よしの目の前、鼻先が触れるほどの距離まで歩み寄ってくる。

    『なぁ、よし。……お前、もう疲れただろ?』

    その甘美な問いかけと共に、よしの脳裏に現実の記憶が濁流となって流れ込む。

    車椅子生活が始まった、あの絶望的な朝。

    周囲のクラスメイトたちが向けてくる、腫れ物に触れるような視線。

    「かわいそうに」という、逃げ場のない善意。

    自分を気遣ってくれる友人たちを見るたびに、自分が彼らの時間を奪っているような、置いていかれているような感覚。

    普通へはもう、一生戻れないという、冷酷な現実。

    ずっと、笑ってきた。

    大丈夫だ、気にするなと言い続けてきた。

    でも。本当は。

    ——死ぬほど、苦しかったんだ。

    『……っ、ぁ……』

    よしの目から、大粒の涙が零れ落ちる。

    リンタロウが、聖母のような慈愛を湛えて、優しく微笑んだ。

    『ほら。やっぱり、隠してただけじゃないか』

    白い根が、よしの腕を、首筋を、優しく愛撫するように包み込んでいく。

    『もう、認めていいんだよ。お前も、こっち側の人間なんだって』

    世界が、ゆっくりと白く溶け始める。

    よしの自我の輪郭が、リンタロウの孤独と混ざり合い、消えていく——。

    その時だった。

    ——バンッ!!

    乾いた、鋭い打撃音が、灰色の静寂を切り裂いて響き渡った。

    よしの頬が、衝撃で大きく横へと弾かれる。

    『……え』

    痛みに意識が覚醒する。

    呆然と顔を上げると、そこには——。

    しょうが、そこに立っていた。

    現実側の姿そのままに、肩で荒い息をつき、怒りに拳を震わせながら、この精神世界を力ずくでこじ開けて立っていた。

    『勝手に諦めてんじゃねぇぞ、このバカ野郎!!』

    その怒号が、灰色の世界を、団地群を、根底から震わせる。

    リンタロウが、生まれて初めて「計算外」の事態に直面したかのように、驚愕に目を見開いた。

    『……なんで、お前が……不純物が、ここに……』

    『うるせぇんだよ!!』

    しょうが、地獄の底から這い上がってきたような形相で、リンタロウを睨みつける。

    『孤独だとか、苦しいとか、そんなもん、こいつだってずっと抱えてきたに決まってんだろ! 俺だって知ってるよ!!』

    しょうの声が、言霊となって空間そのものを殴りつける。

    『でもな!! だからって、全部ぶっ壊していい理由になんかなるかよ!! 少なくとも、俺が知ってるよしは、そんな弱っちい奴じゃねぇ!!』

    灰色の空が、バリバリとガラスが割れるような音を立てて軋む。

    『勝手に同じだって、こいつの魂を安売りしてんじゃねぇよ!!』

    その瞬間。

    よしの胸の奥で、何かが。

    「よし」という個体としての意志が、小さく、だが力強く脈打った。


    第30話『君と僕の境界』

    『勝手に諦めてんじゃねぇぞ、このバカ野郎!!』

    しょうの怒号が、物理的な衝撃波となって灰色の精神世界そのものを殴りつけた。

    バキバキバキッ——!!

    空を覆っていた澱んだ雲に、巨大な亀裂が走る。団地の壁面が震え、これまで傲然と脈動していた白い根が、苦しむようにそのリズムを乱した。

    リンタロウが、初めて明確な動揺をその瞳に浮かべる。

    『……なんで、お前がここにいる。不純物が、僕たちの聖域を汚すな』

    『知らねぇよ!!』

    しょうが、肩で荒い息をしながら叫び返す。

    『気づいたら引き摺り込まれてたんだよ!! でもな、ちょうど良かった。お前に一発言いてぇことがあったんだ』

    灰色の空間の中で、しょうだけが決定的な異物だった。

    怒り、苦しみ、泥臭くあがきながら、それでも揺るぎない“自分”としてそこに立っている。その強烈な生命感が、死に絶えたこの団地の風景にはあまりにも眩しすぎた。

    『孤独がどうとか、苦しかったとか、そんなの知るか!! そんなもん、誰だって抱えて生きてんだよ!! 俺だって、こいつも……よしだってそうだろうが!!』

    しょうが拳を握り締め、リンタロウを射抜くように睨みつける。

    『でもな!! だからって、自分が消えていい理由にも、他人を巻き込んでいい理由にもなんねぇだろうが!!』

    その瞬間。よしの胸の奥で、小さな火種のような熱が、微かに、だが力強く脈打った。

    ◇

    『……分かったような口を利くなよ』

    リンタロウの声が、初めて僅かに震える。

    『全部分かるなんて、誰にも言わせない……。お前に、何が分かるというんだ』

    『全部分かるなんて言ってねぇ!!』

    しょうが、魂をぶつけるように吠えた。

    『でもな!! 分かろうとはしてんだよ!! 少なくとも、俺はこいつの隣にいるって決めたんだよ!!』

    空間が激しく震える。

    団地中の窓から、無数の顔のない影たちが一斉に滲み出し、怨嗟の声を上げた。

    【苦しい……】 【助けて……】 【独りにしないで……】

    絶望の合唱。リンタロウが、耐えきれないように頭を抱えて呻く。

    『……うるさい。やめろ』

    【見て】【気づいて】【ここにいるのに!】

    『うるさいッ!!』

    リンタロウの叫びと共に、背後の巨大な白い根が爆発的に膨張した。世界そのものが、崩壊の前兆として悲鳴を上げる。

    ◇

    現実側。

    『まずい……!!』

    もえが顔を青ざめさせ、よしの意識を繋ぐデバイスを必死に操作する。

    『精神世界の境界が完全に崩れてる!! このままじゃ、根がよしの自我を飲み込んだまま、現実側へ侵食してくるわ!!』

    白い根が、実体を持って回廊全体を覆い始めていた。

    ゆずが、涙を浮かべながらも、決して放すまいとよしの冷たくなった手を握りしめる。

    『よし……!!』

    その声は震えていたが、そこには確かな祈りが宿っていた。

    『戻ってきて……!! お願い……あなたまで、独りにならないで!!』

    レオが、荒れ狂う白い根の脈動を睨みつけながら、低く冷静に呟く。

    『……リンタロウの精神が限界だ。奴はもう、自分と世界の痛みの区別ができていない。だから、全部を一つにするという狂気でしか、この苦痛を終わらせられなくなったんだ』

    ◇

    灰色の団地。

    リンタロウの身体に、黒い侵食が血管のように広がっていく。

    存在そのものが、膨大な他者の絶望に耐えかねて、内側から爆ぜようとしていた。

    『……苦しいんだよ』

    リンタロウが、弱々しく、消え入りそうな声で呟く。

    『誰の悲しみなのか、もう分からない。……僕の孤独は、どこへ行った?』

    『……違うよ、リンタロウ』

    よしが、掠れた声で、だがはっきりと口を開いた。

    リンタロウの瞳が揺れる。

    『独りなのが苦しいからって……全部を同じに混ぜてしまったら、ダメんだ。痛みを分け合うことと、自分が消えることは、決定的に違う』

    ゆっくりと、よしが自分の胸元へ絡みついた白い根を、拒絶ではなく「対話」のために掴んだ。

    冷たい。けれど、その奥には確かに、凍えた子供の涙のような熱があった。

    『俺も、苦しかった。……突然歩けなくなって、周りに気を遣われて。みんなが笑ってるのに、俺だけが透明な檻に取り残されていく気がして』

    よしの目から、一粒の涙が落ちる。

    『でも……だからって、俺じゃなくなっていいとは思わなかった。俺を俺として見てくれる奴らが、外にいたからだ』

    よしは、一歩。動かないはずの足で踏み出すような意志を持って、車椅子を前へ進めた。

    『俺は、お前にはなれない。お前も、俺にはなれない。……俺たちは、どこまで行っても別の人間だ』

    よしが、真っ直ぐにリンタロウへ、震える手を伸ばした。

    『でも——。独りで苦しいって言うなら、お前のまま隣にいてやることはできる。お前の孤独を、お前のものとして、俺が隣で見ててやることはできるんだ』

    その瞬間。リンタロウの表情が、子供のように、あるいは壊れた機械のように、劇的に崩れた。

    『……なんで。……なんでお前は、まだ……そんな、眩しい顔ができるんだよ……ッ!!』

    白い根が、絶叫に近いレゾナンスを撒き散らす。灰色の空に、もはや修復不能な巨大な亀裂が広がっていく。

    ◇

    現実側。

    『境界線が戻り始めてる!!』

    もえが叫ぶ。

    『よしの自己認識が、根という巨大な集合意識から分離を始めたわ!!』

    『戻ってこい、よし……!』

    しょうが歯を食いしばり、よしの身体を支える。

    ゆずが、その手をさらに強く握りしめた。

    『あなたは、あなただよ……!! 私たちの、大事な仲間なんだから!!』

    その声が、深い暗闇の底にいたよしへと、黄金の糸となって届いた。

    ◇

    灰色の団地が、光の塵となって崩れ去っていく。

    よしは、消えゆく世界の中で立ち尽くすリンタロウを見つめ、静かに、そして初めて、一人の“友人”を呼ぶようにその名を呼んだ。

    『リンタロウ。……お前を止める。でも、もう二度とお前を独りにはさせない』

    掌の欠片が、よしの意志に応えるように、これまでにない清浄な白光を放った。

    その光は、団地の幻影を、無数の影たちの悲鳴を、そしてリンタロウの呪縛を優しく包み込み、昇華させていく。

    次の瞬間。世界は眩い白光と共に、完全に弾け飛んだ。

    ◇

    『——よし!!』

    しょうの声と共に、強烈な重力感覚が戻ってくる。

    よしは回廊の床で激しく咳き込みながら、自分を取り戻した。

    白い根は枯れ果て、回廊には静寂が戻っていた。リンタロウの姿はどこにもない。だが、よしの掌に残った微かな温もりが、彼が確かにそこにいたことを証明していた。

    レオが、回廊のさらに奥、暗黒の深淵を見つめて言う。

    『……リンタロウという個は消えた。だが、彼が扉を開いた世界の心……その胎動は止まっていない』

    よしは、ゆずとしょうに支えられながら、ゆっくりと顔を上げた。

    胸の奥には、リンタロウから託された重いほどの生の実感が宿っている。

    ——ちゃんと、生きろよ。

    「あぁ……行こう」

    よしの言葉に、仲間たちが頷く。

    地下深くの闇に、微かな、だが確かな朝焼けの光が差し込んでいた。


    ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
    第2部 第一章『サイワイの森』は、これにて一区切りとなります。孤独や普通という言葉の痛み。 誰にも見つけてもらえなかった感情。 そして、それでも「自分」として生きること。
    この章は、そんな物語でした。
    ですが、 サイワイの森の深淵。 世界の心。 そして、まだ見ぬ種族や、この世界そのものの真実は、まだ何一つ終わっていません。

    よしたちの旅は、ここからさらに深く、 世界の核心へと近づいていきます。もしよろしければ、 これからも一緒に、この物語を見届けていただけると嬉しいです。
    ——第二章『サイワイの森奥深く編』へ続く。

    ~4410~


    あなたへのおすすめ