メインコンテンツへスキップ

白ー39歳の約束ー

    私の人生で「白」という色は、長い間、絶望の色だった。

    ぬるい牛乳と、塩気のおにぎり

    大人になった今でも、ふとスーパーの果物売り場で足を止めてしまう。

    赤いりんごが並んでいるのを見ると、私の脳裏には、あの懐かしい実家の台所の風景と、トントンという規則正しい包丁の音が、色鮮やかに蘇ってくる。

    私の故郷は、田舎町で学校に給食がなかった。そのため母は、私が小学校一年生に上がってから十年間、私と弟のために毎朝欠かさずお弁当を作り続けてくれた。

    朝が苦手だった私の目覚まし時計は、台所から漂ってくる鰹節のいい匂いと、テンポのよい包丁の音だった。「あぁ、いい匂いだな……」と布団の中でうとうとしながら、つい二度寝をしてしまう。すると決まって、母が台所の手を止めてバタバタと階段を駆け上がってくる音が聞こえる。

    「ほらー!早く起きないと遅刻するってー!!」

    部屋のドアを開けて私を怒る母の声が、我が家の一日の始まりの合図だった。

    食卓に並ぶ美味しそうな朝ごはんは、寝起きの私の喉をなかなか通らなかった。そんな私を見かねては、炊き立ての真っ白なご飯で大きなおにぎりを握ってくれた。不思議なことに、ちょっと塩気の効いた母の大きなおにぎりだけは、どんなに食欲がない朝でもペロリと喉を通った。手のひらの温かさと、絶妙な塩加減。それが母の優しさの味だった。

    お昼休みのチャイムが鳴ると、私はいつも胸を躍らせてランドセルの中で待っているお弁当袋に手を伸ばした。

    そこには、私の大好物が並んだお弁当、別の入れ物にはきれいにカットされた季節折々のフルーツが入っていた。特に、シャキシャキした食感のりんごが入っている日は嬉しかった。口の中が一気にさっぱりとして、母が私の好みを全て分かってくれている安心感に包まれた。

    ただ、その完璧なお弁当の時間に、一つだけ大嫌いなものがあった。学校から支給されるビンに入った牛乳だ。

    当時は残すことが許されない時代。夏場になると、さらにぬるくなり、独特な味の牛乳が、私はどうしても苦手だった。だからいつも、鼻を強くつまんで一気に喉へ流し込む。そして、口の中に残る嫌な後味を消し去るように、すぐに母のお弁当を口に運んだ。大嫌いな牛乳を、母の美味しいお弁当で「お口直し」する。それが、当時の私の小さなお決まりの儀式だった。

    十年間、毎日。お弁当と共に必ずフルーツが入っていること。朝起きると美味しいご飯の匂いがすること。それがどれほど特別なことで、どれほど多くの手間と愛に溢れていたか、当時の私は一ミリも気づいていなかった。

    それが、ある日突然、音を立てて崩れる一歩手前だったことすらも。

    二十個の茶碗蒸しと、ずるい安心


    私が中学一年生の秋。母の乳がんが発覚した。三十代半ばだった母にとって、あまりに早すぎる宣告だった。

    「手術をすることになった」と告げられたとき、私はどこか他人事のようにその言葉を聞いていた。当時の私は、まだ身近な人を亡くした経験が一度もなかった。だから、「大変だな、大丈夫かな」と心配する気持ちの裏側で、「でも、うちのお母さんに限って死ぬわけがない」と、根拠のない安心を勝手に抱いていたのだ。

    手術は無事に終わり、初雪が降る前に母は退院してきた。

    我が家の年末年始には、母の得意な茶碗蒸しだけがズラリと並ぶ、専用のテーブルがでてくる。母の茶碗蒸しは、きちんと出汁から引く本格派で、近所でも評判になるほど絶品だった。

    しかし、退院したばかりの母の体は、薬の副作用でボロボロだった。

    少し台所に立っては、居間のソファに戻り、休憩。そしてまた、台所へ向かう。そのような毎日を過ごしていた中で私たちのためにお正月の準備を張り切っていた。

    中学生だった私は、そんな母の姿を見て、心配よりも先に苛立ちを覚えてしまっていた。

    体調が悪い母からは、当然「あれ取って」「これ手伝って」と細かく指示が飛んでくる。せっかくの冬休みなのに、なぜ手伝わなきゃいけないのか。そんなずるい不満が頭をよぎる。

    「そんなに具合が悪いなら、そこまでして無理に作らなきゃいいじゃん。手伝ってって言うくらいなら、やらなきゃいいのに」

    口には出さなかったけれど、せっかくの冬休みを邪魔されたような気がして、わざと大きな音を立ててドアを閉めた。当時の私は、母の命のタイムリミットに気づけないほど、あまりにも未熟で、幼かった。

    それなのに、大晦日の食卓に出来立ての茶碗蒸しが並ぶと、私は手のひらを返したように歓声をあげた。

    「やっぱり、おっかーの茶碗蒸しは最高だ」

    弟も父も大喜びで湯気が立ち上る器にスプーンを入れ、ほんのり甘くて出汁の効いた優しい味を口に運ぶ。手伝わされることに不満を抱いていたはずの私は、自分のずるさなどすっかり忘れて、夢中でスプーンを動かした。父も弟も、競い合うようにして何個もお代わりをする。母が毎年、二十個以上も大量に作ってくれていた茶碗蒸しは、お正月の三日目が終わる前には完食。

    ソファで休んでいる母も、私たちの「うまっ!」という声を聞いて、嬉しそうに、少し誇らしげだった。

    大人になった今なら、あの時の母の気持ちが痛いほどよく分かる。

    母はきっと見えていたのかもしれない。家族に「お母さんの味」を遺してあげられるチャンスは、もう数えるほどしか残されていないということを。そして母はもしかしたら、私のためだけでなく、自分自身のためにも、私を台所に呼んだのかもしれない。

    母が命を削るようにして台所に立ち、あぁでもない、こうでもないと言いながら出汁を引いていたあの時間。それは、残される私たちへの、言葉にならない最大級の「愛の遺言」だったのだ。

    現実から逃げ続けた、余命三ヶ月の夏

    手術を終え、薬の副作用が落ち着くと、我が家にはいつもの平穏な日常が戻ってきた。

    私は高校に進学し、新しい環境、新しい友達、そして初めての彼氏に心浮かれていた。母がかつて大病をしたことさえ忘れ去り、反抗期真っ盛りの生意気な女子高生として、毎日を謳歌していた。

    異変に気づいたのは、高校一年生の冬が終わろうとしていた頃だった。あの長くて厳しい寒さがようやく緩み、外はもう穏やかな春の気配が漂い始めていた。

    母が掃除機をかけているだけなのに、肩を大きく上下させて、必要以上に息を切らせていたのだ。「あれ、おかしいな……」と一瞬の胸騒ぎがしたものの、私はその違和感をすぐに頭の隅に追いやった。

    しかし…
    数日後、母のがんが肺に転移していることを知らされた。

    「え?手術して治ったんじゃないの?転移ってなに?」

    頭の中がパニックになったが、母はそのまま大きな病院へ入院することになった。今回は手術をしないのだという。無知だった私は、「手術をしなくていいくらい、大したことないんだ。じゃあまたすぐに元気に帰ってくるね」と、自分に都合のいい解釈をして安心していた。

    実際は、違った。手術ができないほど、ガンが全身に転移していたのだ。

    しばらくして退院してきた母は、手術をしなかったはずなのに、以前より目に見えてやせ細っていた。

    何かが違う…

    そう思ったが、その事には触れなかった。

    残酷な現実は突然訪れた。

    ある週末、友達の家に泊まりに行く私を、父が車で送ってくれた。その車内でのことだった。運転席の父が、前を向いたままぽつりと言った。

    「おっかー、余命三ヶ月だと言われた」

    耳を疑った。

    「は?なんで?だって手術してないじゃん」

    声を荒げる私に、父は静かに

    「手術もできないほど、全身に転移しているんだ」

    と続けた。友達の家に着くまでの数十分間、車内は耳が痛くなるほどの沈黙に包まれた。

    そこから弱っていく母を見るのが怖くて、私は一度もその体に触れようとしなかった。
    狂ったように友達と遊びまくった。カラオケで大笑いしている瞬間にふと脳裏をよぎる母の痩せ細った顔と元気な頃の笑顔。家に帰ると逃げるように部屋に閉じこもり、お気に入りの音楽を大音量でかけた。全ての現実をかき消すかのように。
    余計な事を考える隙もない位に予定を詰め込み、必死に心のシャッターを閉め、現実から全力で逃げ回った。
    そんな私とは反対に、これまで家事を一切したことがなかった父が、母のために慣れない手つきでお粥を作ったり、「がんにいいから」と毎日人参ジュースを一生懸命に絞っていた。

    私は、そんな家庭の風景を見るのがたまらなく恐ろしかった。


    しかし、私の現実逃避をあざ笑うかのように、母の命の灯火は急速に消えかかっていた。

    かつて台所に立っていた母の姿は、もうどこにもない。
    ご飯も食べられなくなり、骨が浮き出るほどにやせ細っていく。



    今振り返れば、なんて酷い娘だったのだろうと思う。本当に悔やんでも悔やみきれない、私の人生最大のしくじりだ。けれどあの時の私は、あまりにも弱く、母がいなくなるという底なしの恐怖に、ただ怯えて逃げることしかできなかったのだ。

    そして、季節は十一月。
    余命宣告をされてから、半年がたとうとしていた。
    私の田舎に、その年の初雪が降った。

    モチモチの手と真っ白なテスト用紙

    入退院を繰り返していた母はまた入院した。

    実家から病院までは車で一時間かかる。
    その為、平日はお見舞いにいけなかった。
    病院に着きっきりの父が、もうダメかもしれないからと迎えにきた。

    病室のベッドに横たわる母は、こちらがいくら問いかけても、もう言葉を返してくれなくなっていた。

    私が母を無視することはあっても、母が私の問いかけに無視をしたことなど一度もないのに。

    その姿を見たとき、私は初めて、逃げ続けてきた現実を突きつけられた。

    「お母さんが、本当にいなくなってしまうかもしれない」

    見て見ぬふりをして心の奥底に押し込めていた感情が、一気にあふれ出してきた。けれど、ずっと張り詰めた顔で看病を続けている父の前では、どうしても泣くことができなかった。

    私はたまらず病室を飛び出し、誰もいないトイレの個室に駆け込んで、声を殺して思い切り泣いた。

    ふと窓の外を見ると、私のぐちゃぐちゃな心や、死の気配が漂う病室のことなどまるで知らないかのように、真っ白で綺麗な初雪が静かに街を染めていた。その美しさが、余計に悲しかった。

    病室に戻ると、奇跡的に母が薄目を開けた。

    「……おっかー…起きた?」

    声をかけると、母は朦朧とした声で言った。

    「ここはどこ?……どうして、ここにいるの?学校は?」

    自分の置かれている状況も、日付も分からなくなっているようだった。私は涙を堪えながら、嘘をついた。

    「今日、学校は休みなの。明日テストだから、ここで勉強してたんだよ」

    すると母は

    「そっか。頑張れよ!」

    とかすかな声を絞り出し、私の手をぎゅっと握り締めてくれた。

    その瞬間、胸が締め付けられた。

    私の記憶の中にある母の手は、いつも温かくて、モチモチとしていて、まるでマシュマロやお餅のように柔らかくて白い手だった。毎日美味しいお弁当を作り、大きな塩おにぎりを握ってくれた、大好きな手。

    それが、病魔に侵され、驚くほど細く、ゴツゴツした生気を失った色白の手になってしまっていた。

    涙が今にも溢れそうで、またトイレに駆け込みたかった。けれど、母が奇跡的に私の手を握ってくれているこの瞬間を、一秒でも長く離したくなかった。だから、歯を食いしばってその場に踏みとどまった。

    現実から逃げ回り、部屋に引きこもっていた自分の弱さを、これほど後悔したことはない。もっと早く現実に向き合っていれば。もっと、母の体に触れて、たくさん話をしておけばよかった。ごめんね。何もかも当たり前だと思っていた母の優しさが色を失って遠ざかっていく。私の目から、大粒の涙がポロポロとベッドのシーツに落ちていった。

    それが、母と交わした最後の会話になった。

    翌日、学校で期末テストが始まった。

    始まって間もなく、教室のドアが開いた。先生に手招きされ、廊下に呼び出される。

    「すぐ病院へ向かいなさい」

    その言葉を聞いた瞬間、世界から音が消えた。教室に戻り、机の上のテスト用紙を手に取る。そこには、自分の名前しか書いていない、真っ白なテスト用紙。
    私は駆けつけてくれた叔母の車に飛び乗った。

    病院へ向かう車中、あらゆる記憶が走馬灯のように頭を駆け巡った。

    くだらないことで母にこっぴどく怒られたこと。近所中に響き渡るような、母の「ガハハ!」という元気な笑い声。台所に立つ後ろ姿。毎日開けるのが楽しみだったお弁当。

    激しい後悔が、波のように押し寄せてくる。

    その一方で、「いや、病院に着いたら、またお母さんは普通に笑って目を覚ますんじゃないか」という往生際の悪い期待も捨てきれなかった。まるで、タチの悪い夢を見ているようだった。

    ぐちゃぐちゃの感情のまま、私たちは息を切らせて病室に飛び込んだ。

    ベッドに横たわる母の元へ駆け寄る。感情が抑えきれなくなり、

    おっかー!!起きて!!

    と何度、泣き叫んでも、手を握ってくれない。

    私たちの祈りも虚しく、間もなく、母は静かに息を引き取った。

    高校二年生の十一月。初雪が降った翌日のことだった。

    私の世界から、毎朝の包丁の音も、お弁当のいい香りも、お正月のごちそうの匂いも、うるさいと思っていた小言も、すべてが永遠に失われた瞬間だった。

    初雪のあとの世界と、美しい沖縄の海

    母は天国へ旅立った。まだ三十九歳という、あまりにも早すぎる若さだった。小さな田舎町だったこともあり、母の死はすぐに噂になった。かわいそうに、早すぎる、そんな同情の視線が痛かった。

    けれど、お葬式には友達が駆けつけてくれた。私の手を黙って握りしめてくれた。彼女たちの温もりを、私は二十五年経った今でも忘れない。あの日、私の隣にいてくれた友人たちは、今でも私の人生のかけがえのない宝物だ。

    母が亡くなって一ヶ月も経たないうちに、学校の修学旅行がやってきた。行き先は沖縄だった。

    最初は、こんな状況で旅行なんて行っていいのだろうか、楽しんでいいのだろうかという罪悪感があった。心の底から笑うことはまだできなかったけれど、沖縄のどこまでも続く透き通った青い海は、傷ついた私の心を静かに、優しく癒してくれた。

    真っ暗な気持ちで過ごしていた毎日に、そっと明るい色を差し込んでくれた。

    まるで母が
    「そんなにクヨクヨしていないで、前を見なさい」
    と教えてくれているようだった。
    未来が少しだけ明るく見えた瞬間だった。

    料理を一切しなかった父が料理をするようになり、得意料理もできた。
    母のいない世界で私たちは不器用ながらも、新しい「日常」を少しずつ紡ぎ始めていた。

    三十九歳の約束とおにぎり

    母がいなくなって、十年ほどして私も母になった。新しい命の誕生にどうしようもなく幸せな気持ちになった。でも同時に母への思いも、膨らんだ。

    こんなにも可愛い孫の姿を母にも見て欲しかった。育児の荒波の中で、相談したかった。そして何より、母とまた茶碗蒸しを作りたいと思った。
    その思いから年末になるたび、母の手伝いをした記憶を必死に手繰り寄せた。親戚に電話をして味付けを相談し、何度も失敗しながら、ついに「私の茶碗蒸し」を完成させた。

    今では、大晦日の食卓に私の茶碗蒸しが並ぶ。子どもたちは
    「ママの茶碗蒸し、めっちゃ美味しい!」
    と、かつての私と弟のように、競い合うようにして何個もお代わりをしてくれる。

    母が旅立った三十九歳という年齢を迎えた頃から、私は母の人生を以前よりも深く考えるようになった。
    「母は、この年齢で人生を終えたんだ」
    そう思うたびに、母が遺してくれたものの大きさに胸が締め付けられた。

    実家に帰省したとき、小学校の卒業文集を見つけた。
    ページをめくると、みんなの小学校の思い出が印刷されている。その隣にはそれぞれの親から子どもへのメッセージが書かれてあった。
    母の字だ。
    「大人になれば私も母のような字が書けるようになる」と本気で思っていた。
    久しぶりに見る、憧れだった母の文字だ。
    胸が苦しくなり、私はページをめくる手を止めた。

    そこには、こう書かれていた。

    『小さい頃は内気で人見知りでしたが、今はみんなの仲間に入って充実した学校生活を送る事ができたと思います。春からはいよいよ中学生。これからもずっと明るく素直で誰からも好かれる子になって欲しいと願っています』

    私は、その一文を何度も何度も読み返した。
    涙で文字が滲んでいく。

    私は長い間、自分を「母を早くに亡くした不幸な人」だと思って生きてきた。
    でも母が願っていたのは
    明るく。
    素直で。
    誰かを愛し、誰かに愛されながら。


    あの日、私の世界を塗りつぶした初雪の白。何も書けなかったテスト用紙の白。そして、私の手を握った母の、細く色褪せた手の白。

    かつて私にとって「真っ白」とは、彩りのある世界からすべてを失った喪失と絶望の色だった。

    でも、違った。真っ白とは、何も失った色ではなかった。
    これから何色にでも染めていける、未来のキャンバスだった。

    私は心の中で、母に約束した。
    あなたが私に遺してくれた愛を、今度は私が子どもたちへつないでいく、と。

    今、私は2人の息子のために、毎朝、台所に立つ。寝起きで食欲のない息子のために、炊き立てのご飯で、あの時母が握ってくれたような、ちょっと塩気の効いた真っ白で大きなおにぎりを握る。

    「ねぇ、このおにぎり大きすぎて食べきれない!」
    と、息子からは毎回お決まりのクレームが入る。私はそれを見て、
    「残したら大きくならないよ!」
    と笑う。

    台所から響く包丁の音と、おにぎりの塩気。母が遺してくれた特大の愛は、私の中で生き続け、今、子どもたちへ、そして未来の誰かへと、真っ白な未来を色鮮やかに染めている途中だ。

    ――ただ、時折ふと思う。

    もしあの優しくて白い手が、今も私の目の前にあったなら。
    今度は私が母のために、絶品の茶碗蒸しを作ってあげたい。

    今日も私は、おにぎりを握る。
    あの日、母が私に握ってくれたように、もう届かない感謝を心の中で呟きながら。

    でも、私の向こう側には、まだ真っ白で、これから何だって書き込める未来のキャンバスが広がっている。




    #創作大賞2026 #エッセイ部門

     
     

    nico

     
     
    私の人生最大のしくじりや、胸が締め付けられるような記憶を読んでくれた方の「大切な人」を思い出すきっかけになると嬉しいです。

    あなたへのおすすめ