
営業部員、農家になる
営業部員、クビになる
2006年、私は農家になった。36歳。
売るものは、腐らない物から汁が出る物に変わった。数字の桁も、ゼロが5つも減った。
町山建設(仮名)は地域ではそれなりに知られた建設会社だ。花形部署の営業部で14年。有望株と呼ばれていたらしいが、その自覚はまったくなかった。
どころか、うんざりしていた。
お前が……営業!?
気の利いたことも心にもない誉め言葉も言えない。興味のない会話は続かない。酒も飲めないし、ゴルフの楽しさもわからない。
本性を知る友人たちは、口を揃えてそう言った。
反論できなかった。いや、するつもりもなかった。
向いていなかった。それも、とことん。それだけは、誰よりも分かっていた。
建設会社の営業が売るのは家でも道路でもない。売り物は「自分」だ。
愛想笑いを浮かべ、興味もない話にうなずき続け、相手に気に入られる。やがて相手は本音を漏らす。そんな仕事だと思っていた。
建設会社の営業。まずは役所回りで情報収集だ。
わかりやすく言うと、「名刺配りとご機嫌伺い」。
カウンターには「業者の方の立ち入りはご遠慮ください」と書かれている。
見ないふりしてカウンター内に入ろうものなら、冷ややかな視線が飛んでくる。
営業になりたてのペーペーは、ルールを破ってまで名刺を置いてくるほど図太くない。
上司は、「仕事だ」という。やれ、と。
どうしても名刺の無駄遣いとしか思えなかった。
名刺、郵送でいいんじゃないか。――本気でそう思っていた。
もちろん、それは反則だ。
だが、下っ端仕事をこなすうち、要領を覚えた。自分なりのやり方も見つけた。
「いつもお世話になっております」以外に喋ることがない……ご機嫌伺いは、やめた。
「何かございませんか」あとが続かない……御用聞きも、やめた。
名刺は配るものじゃない。……名刺のバラまきも、もちろんやめた。
「見積書を提出しにまいりました」。担当者だけではなく、お偉いさんにも一声かけた……顔に書いてあった「何しに来た?」が消えた。代わりに「ご苦労様。ありがとう」が返ってくるようになった。
役所へ行く回数は格段に減った。が、冷ややかな視線も格段に減った。
もうひとつ。自分の売り方も変えた。
人と人、相性はある。合わない人に売るのは、やめた。買ってくれそうな人だけを狙った。
いかにバレずに手を抜くか。営業成績よりも重要なテーマができた。
これが功を奏した。上位レベルの業務を任され……させられるようになった。
給料が、あがった。
それでも、向いていないものは、向いていない。
人相も性格も悪くなる。頭に浮かぶのは悪知恵ばかり。アイツは使えるとか、コイツを動かそうとか。自分を嫌いになるには十分だった。
だが、「できない」とはイコールではなかった。
役職が、あがった。管理職になった。
ついに、一番やりたくないことをやらされる立場になった。花形と称される領域だ。華やかさとは裏腹に、精神はゴリゴリ削られる。
そう、営業の本丸だ。――あがる給料と一緒に、嫌気も天井知らずに、あがった。
有望株。本人のやる気とは関係なく、そう呼ばれるようになった頃、あるプロジェクトに選抜された。
地域の未来を考えるワークショップ。それが「小山塾」だった。
小山塾が生まれた理由は、町山建設の歴史そのものにあった。
町山建設の象徴は、国内屈指の地方港湾「殿山港」だ。
1960年代。地域の主要産業「セメント産業」の拡大に伴い、海運拠点の必要に迫られた。新設が決まったものの、まったく経験のない港湾建設に名乗りをあげたのは、町山建設だけだった。船を沈められる度に身銭を切って新たな船を造った。1965年の着工以来、現在も拡大を続ける港の建設工事の一翼を担っている。
「地域のために」の一心で。
地域に必要なものは、どんなものでも造ってきた。ボウリング場、観光庭園……。
「町山建設は地域に育てられた」と公言して憚らない町山社長から下された、小山塾のミッションはひとつだった。
――地域の課題を解決するアイデアを出せ。
ハイネックのカシミヤセーター。薄黄色のレザージャケットに黒のレザーパンツ。
「うさん臭い」を絵に描いたらこの人です、という風体の小山さんは、2か月に1回、大阪からやって来た。
カタカナが次々に繰り出される小山さんの話は、半分も理解できなかったが、「頭はこう使え」だけは理解できた、気がしていた。
斯くして、テーマが与えられた。――農業。中心市街地。シビックプライド。どれもピンと来ていない。
「夢物語でよい」
当たり前だ。こんな凡人が考えたアイデアが実現されるくらいなら、とうに誰かがやっているに決まっている。
数か月後、全社員の前で「夢物語」が披露された。が、社員たちの顔は見事なまでに「ポカン」だった。――頭の体操。そう思っていたから、反応は気にしていなかった。
実は、ある企てがあった。知っていたのは町山社長と小山さん、一部の幹部社員だけで、プロジェクトメンバーには、自分も含め知らされていなかった。
人生を大きく変えることになる企みに、絡めとられ始めていることにも気づいていなかった。
さらに数か月後、「町山建設、農業やりまーす」。
町山社長はそう言って、企てを明かした。
ふーん、そうなんだ。やるんだ。
呑気、そして他人事だったのは、自分だ。
手始めとして、東京からコンサルを招いて地域視察が行われた。運転手として駆り出されたが、使いっ走りも営業マンの仕事のうちだ。業務連絡や資料の提供など、窓口の役目も仰せつかった。まだまだ営業の仕事の域を出ていない。
楽しかった。というより、営業の仕事から一時でも解放されたことが、嬉しかった。
結局、コンサルの計画は頓挫して、営業の本丸に戻されることになった。再び、精神を削る日々が始まった。
小山塾もコンサルも頭の隅に追いやり始めた頃、町山建設に市役所OBの五十谷(仮名)さんが入社した。
市役所職員のなかでも、とりわけ苦手な人だった。ギョロっとした目で睨まれると、身体が縮こまった。まさか同じ会社で働くことになるとは……。五十谷さんは、のちに農業会社の初代社長になる。
しばらくして、五十谷さんからこう言われた。
「農業の会社をつくるから手伝え。」
「はい。」即答した。
何をやるのかはまったく分からなかったが、営業から少しでも離れられることが、ただただ嬉しかった。
こうして、営業と農業、二つの仕事を抱えることになった。
「田んぼ貸してもらえませんか」。そう言って農家さんに頭を下げる。
次の日は、本業の営業会議で受注見込みを発表したあと、同業者と腹の探り合い。
午後からは農家さんのもとへ向かい「お返事を……」と、農家さんの顔を覗き込んでいた。
まったく違う仕事だと期待していたのに、やっていることはほぼほぼ「営業」で、向き合う相手だけが違った。目つきも人相も、悪いままだった。
営業はすでに付いていけていない。農業のほうは、素人に毛の生えた程度。
どちらも中途半端だった。
それでも、田んぼを借りることが決まった。農業の会社ができ、五十谷さんは社長になった。自分は変わらず、営業部の名刺を持ち、スーツで出社していた。
新会社では米とトマトをつくることが決まり、それぞれの担当者も町山建設の社員から選ばれた。
よかった。
オレじゃない。
残ったのは、山ほどの事務手続きだった。
米をつくる手順は知っていた。妻の実家の田んぼで、義母にこき使われて覚えたものだ。
田んぼを借りる手続きには順番があった。そんなことは知らなかった。
呑気に進めていた。
「田植え、できなくなるぞ」。社長にこっぴどく叱られた。
田植えは終わり、トマトも植え終わったが、自分は時々手伝うだけだった。名刺は営業課長のままだった。
雨の日、傘をさしながらあぜ道に立っていた。集落の農家との現地確認に立ち会っている最中、雨に濡れた草で滑った。足元は革靴。派手に転んで尻もちをついた。
舶来のスーツは泥だらけ。立ち会っていた農家は無言でこちらを見た。
――お前、田んぼに来る恰好じゃねえよ。
顔が、そう言っていた。
泥だらけのスーツを受け取った妻は、大きなため息をついた。
夏の日の夕方。
田んぼのあぜ道に並んで座った社長に、こう問われた。
「どうする?」――営業と農業。そろそろ、どちらかにするときだった。
「やれと言われることをやります。サラリーマンなんで。」
そう答えた。どっちにもいらない、という三択目もあったから。
「営業に残れと言われたら、会社、辞めます。」
切り札は、取っておいた。
社長、いや会社は答えを決めていた。本人の希望は、聞いてみただけだった。
「農業の方で頑張ってくれ」
見出されたのか、見限られたのか。営業部は引き止めなかった、らしい。
――クビになった。
米を売れ
こうして、農業の会社に転籍になった。名刺には「業務課長」と書かれていた。
業務課……何をする部署なのか。
スーツは作業着に変わり、デスクはフロアの中央から隅に移った。
一人で座る。同僚2人は田んぼだ。
毎日田んぼで土と向き合うとは思っていなかった。が、居心地は悪かった。
デスクで伝票をめくったり事務手続きで農家や役所に出向く日が続く。
まあ、いいか。事務仕事だって苦手じゃないし。
妙なプレッシャーもないし。好きじゃないけど。
「この仕事、オレじゃなくてもいいのに」と思いながらも、粛々と作業をこなす背後から声がかかる。――「おい!米、売ってこいよ」。
「あぁ、そういうことか。」――その一言で瞬時に理解した。
結局、営業か。
まあ、いいか。泥にまみれて汗かくのも、イヤだし。
営業とはいっても、建設会社のそれとは違った。交渉ごとの全てを担うことになった。
農機メーカーには強気で出た。買う側になったのは少し嬉しかった。
難癖と紙一重の正論を振りかざした。値切ることには次々成功したが、煙たがられるようになった。
役所にも強気で出た。困っている話はいくらでもできたし、「決まりですから」で逃げる者には容赦なかった。「お上」として崇め奉っていたのが嘘のように、公僕への遠慮は一切なかった。
唇が「また始まった」の形で動く。役人たちは、愛想笑いだった。
それでもよかった。
「農業界を変えてやる」――誰にも求められていない使命を、勝手に背負っていた。
他の農家さんには徹底的に下手にでた。機嫌を損ねたら米も作れない。
曲者ぞろいのベテラン農家の前では、有望株もただのヒヨッコで、舐められてるのも見下されてるのも、はなから分かっていた。
「じじいが……」という心の声は、決して漏らせなかった。
輪をかけて厄介な相手がいた。米を売る相手、そう、消費者だ。
これはもう、建設会社の経験などまったく役に立たない。工夫次第でなんとかなる、そんなレベルではなかった。――無理。落とすのは、無理。
米の売り方なんて、分からない。
「もちもちしてます。甘いです。炊きたては抜群です。」
米はだいたいみんな、そうだ。売る本人がそう思っているんだから、身も蓋もない。
それでも、何もしない訳にはいかない。思いついたのは、ご機嫌伺い。
建設会社時代にもっともバカにしていた方法しかないなんて、紛れもないヒヨッコだった。
お客さんの大半は東京だった。数としてはそう多くはない。それでも両手では足りないほどの訪問先を抱え、地方から都会に出ては戻る日々が続いた。
2月。土地勘のない大都会で手土産の野菜を抱えたまま、途方に暮れていた。地図を見てもわからず、勘だけを頼りにウロウロするうち、自分のいる場所さえ分からなくなった。タクシーもつかまらず、雨まで降り出すと、心は折れかけた。……野菜を捨てて逃げ帰る寸前だった。
訪問先では、みな温かく迎えてくれたが、揃って困惑顔だった。
そりゃそうだ。――私たちが作ったお米です。
相手は「はあ。」とうなずくしかなかった。
さて。どうしたものか。
米を売れなければ自分の居場所がなくなる、なんて危機感は微塵もなかったが、本当にそうなっても困る。ホームページを作ろう、と思った。
「米って、だいたいそうだよね」という御託と、百姓のエゴがずらりと並んだページができた。絵に描いたような「売れないホームページ」だった。売り上げも立たず、見られている実感もなかったのに、達成感だけはあった。
米はなかなか売れなかった。でも、地域の皆さんとの距離だけは少しずつ縮まっていった。
米をつくっている野々村(仮名)集落には、当時10軒ほどの農家がいた。
そこに住んでいる方、通ってくる方、大きな面積で米を作る方、家庭菜園を楽しむ方。それぞれの形で、先祖伝来の田畑を耕し続けていた。
10軒の農家に共通していたのは、「とても食べきれない量の野菜を作って」いることだった。
これは、野々村集落だけの話ではない。家庭菜園や農地をもつ農家あるあるだ。
そしてさらに、「作った」あとのことを考えていないのも、あるあるだ。
種代、肥料代、なにより自分の手間賃も出ない野菜を作る目的は、畑を遊ばせないことだった。――もったいない。めちゃめちゃ美味いのに。
標高400mに位置する野々村集落で作る野菜は美味い。高地特有の寒暖差が野菜に甘みを閉じ込める。集落にある小さな無人販売所に並べられるが、残念ながら盛況とは言い難い。人にあげるか、捨てるか……。お決まりの末路だ。
一肌脱ぐことにした。
野々村集落の皆さんに「町の小さなスーパーで売ってみませんか?」と声をかけてみた。
営業時代に付き合いのあったスーパーにも産直コーナーを提案してみた。お互い乗り気で、拍子抜けするくらい、あっさり決まった。
幻のブランド「野々村野菜」誕生の瞬間だ。
早朝から収穫し、袋詰めして待っている農家の皆さんのもとへ、こちらは顔も洗わずに集荷に向かう。名前と野菜の数を書き留めて開店前のスーパーへ軽トラを走らせる。棚を用意して待つ店長と「おはようございます」と眠たげに挨拶を交わしながら、野菜を並べていく。
「〇〇さんのエンドウマメ、すぐ売り切れたって!」
「トウモロコシ、また出してだって!」
スーパーで聞いたお客さんの言葉をそのまま伝えると、照れくさそうに、そしてちょっと誇らしげに笑う顔が、いくつも並んでいた。
少しずつ評判になっていった野々村野菜。ある日、スーパーの店長が言った。
「産直まつり、やろう!」
迎えた当日。お揃いのハッピを羽織った野々村野菜の農家さんと農業会社のスタッフが、ずらりと並んだ。
普段は小難しい顔しか見せない農家さんも、この日ばかりは別人のような笑顔。
お客さんを前に、嬉しそうにうんちくを語りながら、野菜を手渡していく。
「野々村野菜、いかがですかーーー!」
威勢のいい声を張り上げていたのは、農業会社の米担当。大声につられて、お客さんはどんどん集まってきた。気づけば、並べた野菜は次々と手に取られ、棚はみるみる空になっていった。
これを機に、集落との距離はグッと縮まった。
「来年から、うちの田んぼもやってくれん?」
それ以上に嬉しい言葉は、なかった。
3ヘクタールから始まった米づくりは、6ヘクタールになった。
社長、米担当、そして町山建設の社員たちが「認めてもらえてよかったねぇ」と喜んでいた。
「売らなきゃいけない米が、増えたじゃねえか」。
ただ一人、浮かない顔の、自分がいた。
えん、園長!?
現場にも出ず、すっかり営業と事務仕事に慣れた頃。またしても、社長が背後から声をかけてきた。
「しばらく、園長やってくれ」。
――「なんの、えん?」。絶句、ではなかった。さすがに漏れた。
2008年。40年続く観光ぶどう園を引き継ぐことになった。前経営者との交渉や手続きに関わっていたから、その話はもちろん知っていた。
だが、園長という役職があることも、その園長候補が自分だということも、知らなかった。
「またか」とは思ったが、「しばらく」って言ったな。ずーっと園長じゃないな。
「しばらく」なら、まあいいか。――いやいや、待て。騙されるな。
ダメ元で抗ってみることにした。
社長は、あっさり折れてくれた。
ほかに適任がいるかもしれないな、探してみるか。と。
「見つけたぞ」
園長候補は、農協のOBだった。社長と一緒に何度も勧誘に行った。面識はなかったが、社長より熱心に勧誘した。そりゃ、そうだ。園長なんてやらされてたまるか。
数えるのも面倒になるほど通い詰めるうちに、園長候補の顔がどんどん曇っていった。
顔に「し・つ・こ・い・!」と書いてあった。
社長は気づいているのか、いないのか。何も言わない。シビレを切らして帰りの車中、
「あの人、ムリですね。他の人、探しません?」と切り出した。
「そうか、他の人か……」
そう言って5秒の沈黙のあと、前を向いたまま社長は言った。
「お前、しばらく園長やってくれ」
うわぁ、嵌められた。
どうも、この一言を待っていた節があった。あの人を諦めた瞬間に矛先がこちらを向いた。諦めなきゃよかった。脅しでも泣き落としでも、どんな手を使ってでも口説き落とせばよかった。
弱々しく「はい。」と返して、観念した。社長は「ニヤッ」とした。ように見えた。
「しばらく」、という言葉に僅かな望みを託して、園長の辞令を受け取った。
ぶどうの作り方、どころか、樹にぶら下がっているところすら見たこともないのに、務まるんだろうか。まあ、いいか。自分が手を動かす訳じゃないし。
ところが、未知の世界は「まあ、いいか」では務まらなかった。
ぶどうの「ぶ」の字も知らない園長を見る目は……。
「どれほどできるんでしょうねぇ、園長、さん」――そう言っていた。
ぶどう園を引き継ぐにあたって、これまで作業してきたおばちゃんたちに、そのまま働いてもらうことを条件としていた。じゃないと、ぶどうは作れない。
おばちゃん達からは、その優越感がプンプン漂っていた。
――あたしたちがいなきゃ、ぶどう作れないでしょ。
「どうやってやるの?いつまでにやらなきゃいけないの?なんで?」
何も知らない園長は、聞くしかない。
おばちゃんたちは、聞けばやり方は教えてくれる。「そんなことも知らないの?園長、さん」と、たっぷり皮肉を込めて。
ビニールハウスは何のため?……「雨よけのため。」
なんで雨よけなくちゃいけないの?……「病気にならないため。」
雨があたるとなんで病気になるの?……「…………。」
どの段階で雨よけすると病気にならないの?……「…………。」
いつまでにやればいいの?……「早めに。」
……ガクッ。
期限や目的は教えてくれなかった。というより、教えられなかった。
手持ちの武器は、経験と勘だけだった。
もうひとつ、厄介なものがあった。「経営者づら」だ。
――むかっ腹がたった。
朝、作業の段取りをして指示をした。
ところが、おばちゃんたちが花の球根を植えていた。勝手に。
「何してるの?」――勝手に、は端折った。
「花植えてんの」――それが何か?という顔で。
「いいって言ったでしょ?」――言った記憶はない。
悪びれもせず、ブーブー言いながら、植え終わるまで手を止めなかった。
常連のお客さんのリストをください。
前経営者が持ってきたのは、送り状の控えだった。紙っぺらのまま。
言うに事欠いて「リストにして、挨拶状だしたほうがいいぞ」とほざいた。
――キレた。「お前が言うな!」。暴言を吐いた。大先輩の顔は引き攣っていた。
40年、どうやっていたのか。頭の中は「?」しかなかった。
そんなこんなで、ぶどうは実りを迎え、いよいよ直売の開始だ。
びっくりした。お客さんの多さにも、おばちゃんたちの接客のお粗末さにも。
ぶどうの代金を電卓で計算して顔をあげると、カウンターの前には行列ができていた。
「息子夫婦に送るの」「孫に食べさせたいの」と、送り状を何枚も置いていく人がほとんどだった。
カルチャーショックだった。
こんなにも「人にあげたい」って思わせるほどのぶどうなのか、と。
頼まれたならいざ知らず、受け取る側の気持ちは考えてるのか……。
味見もしない、自分が食べる分も買わない。「送る」ことが目的になっているじゃないか。
理解できなかった。
忙しさも手伝って、罪のないお客さんにまで屁理屈をこねそうだった。
さて。おばちゃんたち。
こちらの方が大問題だった。
どんなお客さんにも必ず「おまけ」がついた。なんなら、おまけの方が多いくらいの。
売り物にならないどころか、ゴミバケツ行き寸前のぶどうを、破れた袋にくるんで渡すのだ。
さすがに注意した。これは、笑えない。
「売り物をレジ袋に入れて渡しなさい!」――「いいんだわね!!」聞く耳を持たなかった。
結局、おまけを渡す係も園長の仕事になった。
レジを打たせれば、「ピーーーーッ!」と鳴る。
「なんで鳴るの!」と言われても、「間違って押してるから」としか返す言葉がない。
結局、レジを打つ係も園長の仕事になった。
8月10日から10月10日。怒涛の60連勤は史上最高の売り上げと、人生最大の疲弊感を残して幕を閉じた。
ぶどうの知識が人並みになった頃。ようやく気づいたことがあった。
房がとにかくデカかった。数も多すぎた。
房の大きさ、粒や房の数は、色や甘さにつながる。「ちょうどいい」がある世界だ。
――はるかに限界を超えていた。美味しくないぶどうが山ほどぶら下がっていた。
「でっかい方が好きだわ」
理論武装して出した指示は、おばちゃんの「好み」にひっくり返された。
「お前の好みはどうでもいいわ」。聞こえるか聞こえないかくらいで呟いた言葉は、おばちゃんの眉をつり上がらせた。
気まずい空気のなか――やり直した。半べそをかきながら、一人で。
次世代へ
散々困らせられた。いや、育ててくれたおばちゃんたちは、引退した。
「しばらく、園長を……」と言われてから14年。まだ「しばらく」の最中だった2021年。2メートルを超える大雪が、ぶどう棚をぶっ壊した。
どこから手をつけていいやら。そもそも直せるのか。そんな惨状を前に、心が折れた。
それまでも、カラスやハクビシンによる被害で、思うような収穫ができていなかった。
我ながら驚くほどの立ち直りの早さで、決めた。
――リセットします。ぜーんぶ切らせてください。
会社に直訴した。勝算はなかった。けど、押し切った。
リセットは許可された。まずは更地にすることから始まった。樹が切られ、ガラクタになったぶどう棚が撤去されていく。それを眺めながら、思った。
「あぁ、ぶどう売らなくて済むなぁ。」
数年の休園が約束されたリセットは、自分にとっても何よりの休息だった。
直接お客さんと向き合う2ヶ月は、怖かった。
――根が小心なもので、クレームとか困るんです。
2026年。休園中のぶどう園は、少しずつ再生に向かっている。
掲げるテーマは「人に優しい」だ。
昔ながらのぶどう棚や仕立て方法は、全部捨てた。
腕を上げっぱなしになる作業も。ストレスだらけの草刈りも。カラスに食べられる心配も。全部変えた。
発想は奇抜でも、使う資材はホームセンターで揃えた。資材メーカーの言いなりはまっぴら御免だし。壊れたら走って行って、すぐ買える。
「優しさ」が形になってきているかに見えていた。
ある事情で、自分がほとんどの作業をせざるを得なくなった今年。落とし穴に気づいた。
いや、落ちた。「人に」のなかに、「自分」が含まれていなかった。
ひねくれ者で横着。コイツには、まったく優しくなかった。
一体、設計したのは誰だ。――ひねくれ者で横着なコイツ。そう自分だ。
自分を訴えたい。
並外れた横着者の自負のある自分が納得できる「優しさ」。それができたら、おそらく誰にも「優しい」だろう。
「しばらく……」と言われてから19年。もはや「しばらく」ではない年月を過ごしてきた。還暦まで片手で足りる歳になって考えるのは、「次の世代」だ。
愛憎ともにあるぶどう園。次世代には、できれば続けてもらいたい。そのために必要なのは、「人」だと思う。
「このぶどう園、優しいね」
働く人が笑顔になれるぶどう園を残しておくことが、最後の仕事になるだろう。
……ん?それまでは辞められない、ってことか……。