
さよなら金星 ㉑ 最終話
いつしかいびつになった家族。無口になった父と、鏡を割った姉。向かい合って食事をしていても団欒は嘘臭く、交わす会話はそれぞれに気を遣っていた。不穏な空気から逃れるように、みんなジルにちょっかいを出していた。こんな小さい生き物が仲介役をするには荷が重すぎると分かっていても、誰も裁かないジルにこぞって救いを求めていた。その空気に耐えられないから、僕はあんまり家に帰らなくなった。
毎日憧朗と遊び歩き、帰宅は深夜近くになることもしょっちゅうで、外泊もよくした。憧朗だけが心の拠り所だった。彼がいれば僕は本来の甘ったれでわがままな斉藤己多でいられる。憧朗の弾くギターをぼんやり聴き、いい気分になったら彼の足元に寝転ぶ。憧朗はくすくす笑いながらもギターを続け、変なラブソングを即興で歌う。下らない歌詞にあっはっはーと爆笑するが、笑いすぎてたまに涙が零れる。
好きだ。僕は何度も憧朗に呟く。好きと言えることで自分を解放できるから気持ちよくなる。 憧朗は笑いながら「よしよし」とやさしく撫でてくれる。安心した。 ここが自分の場所だと。ここならいていいんだと心が落ち着く。見つけられたんだと。
高校を卒業したら憧朗と暮らしたい。いつしか強くそう思うようになった。父は少し不便な体にはなったが、常に介護が必要なわけではない。歩けるし、話せるし、仕事にも復帰した。なにより葉っちゃんの叫びが父を頑なにした。
犠牲という言葉を娘に使われたことがショックだったのだろう。自分でやってやるという意地がヒヤヒヤさせるほど行動させるのだ。けれどそれでいいと思った。そうすれば葉っちゃんは予定通りドイツに出発し、僕も家から離れられる。そして憧朗と一緒に暮らし、今よりももっと愛情や絆を深められた時、自分は同性愛者だと打ち明けよう。怖がらずに全てを話すんだ。僕は愛されていて幸せなんだと、世界に向けて発表したい。いつかはきっとそうしようと胸に決めた。
♢♢♢
春の訪れが遅い三月の半ば頃、いつものように憧朗の家に寄り道してから帰宅すると、 家の前に葉っちゃんが立っていた。ベージュ色のコートを羽織り、仕事用に使っているバッグを肩から下げていた。
「どうしたの?」
近付いて尋ねると、姉は明かりの点いたリビングの窓を見上げ「どうしてなの。お父さんたら信じられないわ。こんなこと非常識よ。ひどいわ」と泣きそうな顔で僕に言った。
「え、何?なんなの?」
姉はひどく動揺して恨めしそうに窓を見つめていた。
「伊嶋さんが来てるのよ。家に帰ってくる途中にお母さんから電話が掛かってきたの。お父さんが助けて頂いたお礼をしたいからって、無理矢理お呼びしちゃったみたいなの。伊嶋さんだってお困りだわ。どうしてこんなことをするのかしら。信じられないわ」
姉は口唇を軽く噛んだ。さすがに僕もびっくりした。明かりの向こうを覗こうとしたがサーモンピンクのカーテンに遮られて何も見えなかった。
「どうしよう。帰るまでどこかで時間潰そうか。会えないよね、さすがに」
寒さに肩を竦めて「ええ」と葉っちゃんは顔を強張らせた。だが窓を見上げる表情には、困惑というより哀しみのようなものが光っていた。謝りたいとは少し違う切なさが滲んでいた。
「ーやっぱり最後だから会っておく?」
僕は姉の白い頬に問うた。
「もうこれで本当に最後だよ。葉っちゃん、今月の終わりには向こうに行っちゃうんだし、 色々あったけど、挨拶ぐらいするべきなのかもよ。伊嶋さんの方が僕らを避けたいはずなのに、こうして来てくれてさ。なのに僕らが逃げるなんて卑怯だよ。たとえ恨み言のひとつも言われるにしろ、彼に敬意を示さなきゃいけないと思う。向かい合わなきゃ」
吐きだす息が空に溶けていった。しばらく姉は俯いていたが、そうね…と呟いた。
「ここで逃げて悔やむより、きっぱりと何かを言ってもらった方がいいわね。もう受け止めるしかないんだから…」
「そうだよ。お父さんを助けてくれた人だもん。恩人には違いないんだ。やっぱりきちんと感謝して、お礼言わなきゃ」
そうして僕が先頭になって門を開けてエントランスの階段を上ってゆくと、後ろに続いた姉がドアの前でふふ…と笑った。「何?」振り向いて尋ねると、姉は口に手を当てて僕をちらと見た。
「強くなったのね、コタ。初めてね、私の前を歩いてくれるの」
え、と思ったが確かにそうだった。僕はずっと葉っちゃんの陰に隠れていた。嫌なことや怖いことを全部先にやってもらっていた。なのに今、迷いはなかった。僕が先に行かなきゃ。自然にそう思って体が動いていた。
少し恥ずかしくなって「そうだっけ」と首を傾げた。ふふ…と葉っちゃんは声を漏らし、三日月みたいに目を細めた。
「ただいま!」
僕はドアを開けるといつも変わらないトーンで言った。姉もそれに続いた。玄関にはダークブラウンのセンスのいい革靴が綺麗に揃えて置いてあった。横浜で初めて会った時にも履いていたものだった。僕らは彼の靴に罪悪感のような郷愁を感じていた。そこには彼との思い出が、惜しまずくれた優しさがあったからだ。
僕らの声に母がリビングから飛び出してくると、明らかに困ったような顔をしながら、「いるわよ」と目配せをした。しかし僕も姉も笑顔で頷いた。ちゃんとしたい。今はその気持ちだけだったからだ。
やはり僕からリビングへと入っていった。応接用のソファーに腰掛けている父がいて、 その向かいに紺色のスーツ姿の伊嶋さんが座っていた。前と変わらぬ髪形。広い肩幅。手の組み方。そして僕らを見つけた時の、少しおでこに皺を寄せる微笑み方も同じだった。
「こんばんは。すいませんお邪魔しています」
彼は立ち上がって僕らに頭を下げた。僕もこんばんはと慌ててお辞儀をした。姉は脱いだコート手に掛けて僕の横に立ち、伊嶋さんを真っ直ぐに見つめながら「先日はありがとうございました」と、深々と一礼した。
「父がこうして元気な姿で私たちと過ごせるようになったのは伊嶋さんのおかげです。素早い処置が命を救ったとお医者様もおっしゃってました。言い尽くせないほど心から感謝しています。本当にありがとうございました」
姉は落ち着いた様子で告げた。伊嶋さんは変わらない精悍なまなざしで見つめ返し「お役に立ててなによりです」と微笑んだ。
「あの日は弟が仕事になってしまって、代わりに僕が義妹と食事に来てたんです。偶然でもお力になれてよかったです。では、僕はこれで失礼します。お元気なお姿に安心しました」
伊嶋さんはまず父に、それから母に丁寧に一礼すると「お会いできて良かった」と葉っちゃんに。姉は何も答えずに黙って彼を見つめ、やがて静かに瞳を伏せた。
僕と姉は彼を送るためにエントランスの下まで出た。空気はまだ冷たいが、春の匂いがしていた。トレンチコートを羽織った伊嶋さんは「いつ発たれるのですか」と姉に聞いた。
「今月の終わりです。あと三週間ぐらいです」
「そうですか…。早いですね。もうずっとあちらに?」
「まだ何も決まってませんが…しばらくは。これからもう一度生徒からやり直しですので」
「もう一度夢を追いかけられることが羨ましい気もしますよ。色々とご苦労もあるかもしれませんが、あなたならきっと大丈夫ですよ。頑張って下さい」
伊嶋さんはにっこりと微笑んだ。姉は再び黙り、ゆっくりと彼にかぶりを下げた。
「コタ君も元気でね。高校生活、悔いのないようにね」
同じ微笑みのまま彼は僕に告げた。僕も逃げずに真っ直ぐに彼に笑顔を作った。
「ありがとうございます。伊嶋さんもお元気で。本当に色々と…お世話になりました」
彼はどこか嬉しそうに頷いた。そして葉月さん、と姉に呼び掛けた。
「最後にひとつだけ伺ってもいいですか。今、あなたは幸せですか。あなたが幸せなら、 僕はもうそれで十分です。あなたとのことを悔やまずに生きてゆけます。正しかったと前を向けます。あなたがいつも笑顔でいてくれるのなら、僕はそれで、それだけでー」
消えゆくような声と共に伊嶋さんは俯いた。透けるような紺色の冷たい空に沈黙が続いた。小さな風が髪を揺らした時、姉の震える息が聞こえた。頬には幾つも涙が伝っていた。 何も答えない。答えられない。彼の前で嘘がつけない。それが姉の答えだった。
葉月さん、と言ったのか、好きだ、といったのか聞き取れなかった。だが一瞬のうちに姉は伊嶋さんの腕の中にいた。抱きしめる彼の腕の強さがその気持ちが語っていた。髪を包む手に詰まっている愛しさが溢れていた。
「行かないでほしい…」 吐息のような囁きが途絶えた。
「僕にはあなたしかいない。どうしたってあなたしかいないんだ。どんなに諦めが悪い男と言われても、あなたを手放したくない。こうしてもう一度会えたことを偶然なんて呼びたくない。あなたを誰にも渡したくない」
伊嶋さんは全身で姉を包んだ。葉っちゃんは小さくしゃくりあげながら彼の胸にすっぽりと収まっていた。まるで最初からそこにいるのが当たり前みたいに。映画のワンシーンのような二人の抱擁に僕は無言のまま立ち尽くした。突然のラブシーンに大慌てした。
なんでこんな時に居合わせてしまうんだ。足音を立てぬようにゆっくりと家に戻った。 心臓がバクバクしていた。
すっげえ。
そればかりを何度も繰り返し、同じ数祈った。
頼むよ。今度こそうまくいってくれ。と。
♢♢♢
だがそれから数日が過ぎても葉っちゃんから何の報告もなかった。彼の再びのプロポーズで目が覚めた姉はドイツ行きを取りやめて、伊嶋さんと結婚する。そういうストーリーになると思っていたのに、姉は今月末の出発に合わせて準備を進めていた。
あれからどうなったの?気になっても聞き出せず、ずっとヤキモキしながら姉の動向を観察していた。しかし伊嶋さんの名前が会話に上ることもなく、式場のパンフレットを見ることもなかった。時々行き先不明に出掛けることはあるが、以前と変わらずに十時前にはひとりで帰宅する。そのまなざしは静かだった。ささいな仕草のなにもかもが。
やがて時は過ぎ、とうとう姉の渡航する前日になった。部屋にはトランクがふたつ並べられ、いつでも旅立てる万全の状態になっていた。結局僕が望んでいたドラマは採用されなかったようだった。仕方ないのか。またその結論に落ち着くのが腑に落ちないが、他に落胆を丸くおさめる方法はなかった。
家族四人での最後の食卓は和やかだった。特別なメニューでなく、母と姉が二人で作った家庭の味のもの。柔らかい湯気や匂いがみんなを温めた。誰も悲しがらず、笑いながら食事をした。別れの言葉を口にせず、思い出話もしなかった。ささやかな幸せの時間をゆっくりと泳ぐようにして柔らかく過ごした。
「少し話さない?」
食事を終えてリビングから部屋に戻る時、姉が僕を呼び止めた。うん、と姉の部屋に入った。 スーツケースに荷物は詰まっていても、家具はほとんどそのままなので、いなくなってしまう実感がなかった。アップライトのピアノイスに僕は腰掛け、姉はベッドに座った。
「午前の11時だっけ。飛行機」
「ええ。見送りに来てくれるの?」
「どうしよう。葉っちゃんが泣いちゃうなら止めておこうか。機内で鼻吸ってるの恥ずかしいでしょ」
もう、と姉は笑いながら首を傾げた。
「来てほしいわ。荷物を持つの手伝ってよ」
「結局それか、まあいいよ。どうせ暇だし。空港好きだからさ」
「ありがとう。いい弟だわ。お願いするわね」
葉っちゃんはにこりと僕を見た。この一年の間に姉はとても綺麗になった。修道女のような固さが取れて、クリムトの絵のようなしなやかな女らしさがきらめいている。弟の僕でさえ、少しドギマギするぐらいに。
「ねえ教えて。コタは幸せ?今ここを旅立つことになったとしたら、何に一番心が残る?」
姉は僕の目をじっと覗くようにして聞いてきた。あの日の伊嶋さんと同じ質問だった。 なんだろうー、と僕は軽く首をひねったが、考えることなく答えはひとつだった。
「やっぱり憧朗かな。なんだかんだ言ってもあいつのこと大好きなんだよね。離れたくないよ。だって今すっごい幸せなんだもん。どこも行きたくないよ。憧朗の側がいいから」
ちらりと姉を見ると、葉っちゃんは頷きながら満足そうに微笑んでいた。
「よかったわ。ただそれが聞きたかったの。彼はあなたを選んだ。それでよかったのね」
「ごめんね。憧朗は僕のものなんだ。葉っちゃんにも誰にもあげられないんだよ。だってあいつ最低だけど、最高の奴なんだもん。あんな変な奴、どこにもいなくてさ」
「ふふっ。だから気が合うのね」
姉の笑顔に無理はなかった。もう本当に憧朗のことを吹っ切れているのが分かる。別の幸せを見つけたせいなのか、過去を風のように見送っていた。涼しい目をして。
「疲れたらいつでも帰っておいでね。無理しないでよ。僕たちはみんな葉っちゃんの味方だから、忘れないでね」
「ありがとう」と葉っちゃんはベッドから立ち上がって両手を広げた。同じように僕も立って、姉とぎゅっと抱き合った。
「大好きよ、コタ。あなたがいてくれて本当によかった。愛してるわ。心から」
「僕もだよ。愛してるよ。葉っちゃん」
別れの儀式ではなく、互いの未来を祝するハグだった。愛してると伝え合うための。
翌日は快晴だった。両親は玄関先で手を振ったが、この時になるとみんな目が潤んでいて、母は何度も、着いたらすぐ連絡ちょうだいねと姉の手を握った。ええ、と葉っちゃんも握り返し、お父さんとのことよろしくお願いしますと母に頭を下げ、最後にジルのことをぎゅうっと胸に抱いた。
「元気でね。大好きよ。ありがとうね。元気でね」
ジルはいつもみたいに葉っちゃんの顔を舐めていたが、涙がおいしいのか、じりじりと肩を登り出して来た。ファンデーション舐めちゃだめ、と無理やり剥がされるお別れであったが、やっと僕らは自然な笑い声を出していた。
タクシーで品川駅まで行き、成田エクスプレスで空港に向かうことにした。ちょうど春休み中なので、電車は人でいっぱいだった。姉のスマホが何度か鳴り、その度にじっとした目で返信をしていた。一時間ちょっとで空港に到着し、スーツケースを二人でゴロゴロと引っ張って歩いていた時だった。
「ああよかった。間に合った」
息を切らしながら近付いてきたのは伊嶋さんだった。僕はびっくりして目が真ん丸くなった。
へ?
二人を交互に見ると、葉っちゃんはにこやかに彼を迎えた。やあ、と手を上げる彼は僕を見ておかしそうに吹き出した。
「すごい顔だね。葉月さん、コタ君に何も話していなかったの?」
二人はくすくすと肩を揺らした。え?え?とまごつく僕に「ごめんねコタ」と姉はいたずらそうに口唇を噛んだ。
「私たち結婚することにしたの。すぐじゃないけど。伊嶋さんの会社がスポンサーのフェスをドイツでも開催することになって、彼が向こうに来てくれた時、そうするつもり。ごめんね黙ってて」
へえっ?思わず大声が出た。なにそれ。僕はふて腐れたように腕を組んだ。嬉しいのになんか素直に喜びたくない。騙してたな。ぶつぶつ文句を言いながら首を傾げる僕を尻目に、姉と伊嶋さんは顔を見合わせて笑った。
「これ。預かってたもの」
伊嶋さんが内ポケットから取り出したのは指輪だった。彼はそこで姉の薬指にするりと嵌めると、嬉しそうに目を細めた。
「気をつけて。必ず行きますから」
ええ。姉は強く頷くと彼の胸に自ら飛び込み、涙が混じりながらも至福の顔で目を閉じた。
なんだよこれ。すっごいハッピーエンドじゃん。ちくしょうと思いながらも気が付けば僕も泣いていた。裏切り者めと怒りながら喜んだ。
姉の飛行機が飛び立ってから伊嶋さんの車で途中まで送ってもらい、電車に乗り換えた。 地元の駅に到着するとバイクを停めた憧朗が待っていた。
「晴れやかだな」
僕の表情で憧朗は何かを察したようだった。彼も笑顔だった。うん、と僕はとても穏やかな思いで頷いた。
「葉っちゃん、無事に旅立ったよ」
「そうか。さっき飛んでいった飛行機かな」
「金星に行った。もうきっと戻らないけど、だから安心した」
僕が見上げた空に、憧朗も一緒に首を反らした。サテンブルーの青空に
星は見えない。見えないけど、愛はここにずっと残ってる。
さよなら。僕の初恋。
さよなら。僕を一番愛してくれたひと。
さよなら。弱虫だった僕。
「さて、天気もいいし、どっか遊びにゆこうぜ」
僕の目に潤むものを見ない振りして、憧朗はヘルメットを被せた。回り回ってみんなが行き着く所に辿り着いたことを運命と呼ぶのか、くされ縁と呼ぶのか分からない。けれど遠回りをしたからこそ見えてくるものがある。
これから先、何度うんざりしても、何度もこいつに助けられるんだと分かっている。 だからもう逃げない。僕はタンデムに乗って、地図のような光をくれる背中に、思いきり抱きついた。
《終わり》