
ホワイトルーム・オープン・ザ・ドア ⑤
予鈴が鳴るとすぐに鎧塚先生が入ってきた。ユニフォームの白いポロシャツとカーキ色のズボン。「おはようさーん」と独特のイントネーションが教室に響く。いつもより静かになるのが早かった。週番の緑川の起立で挨拶してから着席した全員がちょっとかしこまっていた。
今日でちょうど一週間だが、先生はプロジェクトについて何も言わなかった。十月半ばにある文化祭の運営委員を選出し、クラスでの出し物を決めておくことや、明日全国共通実力テストがあると伝えて「勉強しとけよ」と教室を出ていった。ぴしゃりとドアが閉まって肩透かしの呼吸が漏れた。もしかしたら参加の是非を問われるかもと構えていた。けれども一切触れなかったのは、報告は文ちゃんに、のルールに先生も従っているからだ。
だとしたらもう始まっているのだ。沈黙こそがスタートの合図。教壇から全体を見渡し、僕らのこわばった表情で進行具合を把握し、こいつらまだグズグズごねてるなと、見透かしていたんだろう。
これはゲームじゃないがマジでやるぞ。お前らに期待してるぞと釘を刺された。一万円はひとりずつに配った。僕らに与えられたのは参加資格。今更に嫌な言葉だった。どうぞと言われて、やらない理由をモゴモゴと述べる方がもっとやりたくないからだ。止めてもいい、が楽になれる道とは限らなくなっていた。
もうさっさと決めてしまおう。この状況のがしんどい。授業が始まる間際に富里を呼んだ。先程までのご機嫌は消え去っていたが、聞く耳すら持たないの感じではなかった。
「昼休み、票取るから」
「分かった」とすぐに前を向いた。よし言えたと思っていると、文ちゃんが僕を見ながら「うふふふ」の顔をしていた。
「なにさ」
囁き声で返すと、もっと笑ってグッドラックした。裏切れない笑顔。親切な文ちゃんにみんな一度は助けられてる。力を借りれば途中で投げ出せなくなる絶妙な配置。ただの管理人と見せかけた最後の審判かもしれないし、みなを踊らせるコブラの笛吹きでもある。だから僕らは全員正しいことをするかもしれないし、全員間違ったことをするかもしれなかった。
その日の弁当は味がしなかった。早々に食べ終えて話し合いに行く宮野に「どんな感じになりそう?」と戦況を尋ねた。
「全然分からん。誰とも目が合わない」
宮野自身がどうしたいかは言わなかった。ニュートラルに相手に合わせられるから、採決に任せようと思ってるようだった。
『僕もあとで一度はけるから』
宮野が去ると文ちゃんからメールが来た。
「ああそうだよね。もう返事したとこもあるの?」
『いっこだけ。キッペイ君とこも今日中に決まりそう?」
「そうするつもり。これから会議」
『いいリーダーになれるから頑張って。待ってるから』
僕が自分を指差すと、文ちゃんは三回頷いた。
「文ちゃん、ちょっといい?」
教室の後ろのドアから宮野が顔を出した。そこに文ちゃんが加わり話し合いをしていた。どうやら参加するっぽい。
忙しいからできない。尤もらしい理由で全滅すると思ってたのに、みんな参加するの?内心慌てながら振り向いてると「山吹君」と呼ばれ、教室に戻っていたチームの女子が四人、机の横に立っていた。後ろには、居心地悪そうにしてる亀山もいた。
「私らももう決めようよ。みんな文ちゃんともう話してるから」
会話するのもおそらく初めてだけど、女子はちっとも緊張してなかった。僕になんの印象もないからだ。こっちだけが気後れして「ああ…そうだね」と手汗びっしょりになっていた。
「ブッキー、ハーレムいいなあー」
赤城がひやかした。冴えない軍団への嘲笑だ。めっちゃ恥ずかしい。うるせえと思うけど、言い返すのがまた恥ずい。僕のことを好きでもないのに、くっついて歩かされる女の子達に申し訳ないなと思った。
石黒や名木さんも廊下にいた。西校舎に続く円形の広場で話してる宮野らが終わるのを待っていた。表情に明暗くっきり。六人の男子に比べて、名木さんだけが晴れやかだった。石黒たちが尻を蹴られたかは定かでないが、どんな秀才もお母さんには逆らえないようだった。
「どうする?下に行って話す?」
いつしか富里も合流して、全員揃っていた。女子六人はなかなかの迫力。
先頭で歩けず、階段二段分の距離で後ろから着いていった。日本人形みたいな亀山のおかっぱの黒髪を綺麗だなあと思いながら眺めていた。
中庭に面した美術室前の廊下を会議場にした。外通路があるから生徒の出入りも多くてガヤガヤしてる。人目があればエキサイトしないだろうと考慮して選んだ。昼前に雨は上がり、強い日差しが窓に張り付いていた。湿気を含んだ夏草の匂いがそこら中に充満している。女子六人に囲まれてるのをあんまり見られたくないから短時間で済まそうと思った。
「えっと、じゃあ、手っ取り早く挙手制にしよう。恨みっこなしな。本音でいいよ。一週間あったし、もう決まってるよね」
人生初のリーダー。慣れなくて声がうわずった。女の子たちは隣を気にしながらも、ちょっとだけ頷くような素振りをした。僕も手を上げる機を見ていた。体が熱くなる。こちらに向く十二個の目は小さい太陽のようだった。
「じゃあ、やってもいいよって人、手を挙げて」
つい力が入った。拳を握ってじっとしてると、三人の女子の手がそろりと挙がった。思わず「おえ?」と声が出た。「や、やるの?」
「うん」と三人の女子は答えた。既に話し合っていたようだった。
「最初はどうしようかと思ったんだけど、文吾君が黒板に書いた言葉が刺さってね。やらないのもよろしくないかと思って」
独特の口調で話す小坂が「ね」と言うと、二人の女子も頷いた。面食らった僕は茫然とした。
「じゃあこれで決まったね。四対三でしょ。リーダーも手を挙げなかったんだから、やらないでいいんだよね」
射抜くような目の富里が腕を組んでいた。はっとした。みんなを気にしてばっかで、多数決に参加するのを忘れていた。しかし富里を不機嫌にするのが怖くて、僕も、と言い出せなかった。
これで終わり?
あんなにやりたくなかったのに喜びがない。気が軽くなってせいせいするはずなのに、なんか不服だった。参加資格を失えば自分も消滅する。そんな気がした。そもそも何がそんなに嫌だったのか思い出せなくなっていた。感情が掴めない自分に混乱していた。
「あたし、やっぱりやるにするう」
端にいた亀山がいきなり言った。ええっ?ともう一度声が出た。みんなも驚いて体が前傾になった。
「じゃあ決まったね。もう教室帰ってもいーい?」
亀山は輪から抜けてひとり歩いて行った。ぽかんとしたまま生徒に紛れてゆく背中を見ていた。やらかしの亀山らしくやらかしてくれた。けど不思議なぐらい、全然ムカついてなかった。むしろ、助かったと思った。
「じゃあ、そういうことなんで。参加ってことに決まったから…」
「おかしいじゃない。なんでよ。やらないって決まったのに。決まってから覆すなんて無効でしょ。どうしてよ」
間髪入れず富里は反論した。怒りモードにスイッチが入っていた。
「どうしてそれは認めないって言わないの?決を採ったじゃない。リーダーなんだからちゃんとしてよ。なしにしてよ」
すごい剣幕だった。こんなに怒るかと圧倒された。単にやりたくないのとは違う理由を感じた。プロジェクト自体への激しい嫌悪から来る憤懣。取りあえず二人で話した方がいいと思い、四人を帰らせようとしたが、同じく反対派だった元演劇部の清水が「納得できないから私もいる」と残った。
亀山や富里とは別のタイプだが、清水もちょっと厄介な女子だった。そっち方面を目指してるのか、ネットや同人誌に漫画や小説を載せてる典型的なオタク女子。クラスではおとなしいのに、演劇部の仲間といる時は別人のように騒がしくなる二面性があって、やらないでいいことをやって先生に注意されたりする。出入り禁止の屋上の鍵を職員室から盗もうとしたり、体育館の二階にある部室で好きな声優の新曲を大音量で掛けて練習中のバスケ部やダンス部からクレームを受けたりする。停学になるほどではないが非常識。怒られてもあまり反省せず「入っちゃいけないなら屋上なんか作らなきゃいいのに」と屁理屈で正当化する。ヤンキーでもないのに悪目立ちするイタさから、男子からも女子からも敬遠されていて、僕も、亀山、富里に続いて関わりたくない女子ベスト3に清水が入っていた。
二大トラブルメーカーに挟まれた苦いサンドイッチ。しなびたレタスみたいに身を縮めて、静かに言い分を聞こうと覚悟した。
「とにかく私は納得できない。亀ちゃんのは完全に無効でしょ。あんなの後だしジャンケンじゃん。カウントする方がおかしいよ。先生は多数決で決めろって言って、それでちゃんと決定したんだから。私は絶対やらない。やらないになったはずだから。そうだよね?」
「そうだよ。一回決定したんだから。これでやることになったら、こっちの気持ちはどうするわけ?最初からやることが優先されてるなんてフェアじゃないじゃない」
普段は仲良くしてるのを見たことがないのに、ここぞとばかりにタッグを組んでいた。攻撃相手が決まると味方も決まる図式だ。四つの目は太陽でなく矢になっていた。鋭い眼光に刺される。気圧されて、うーん…としか言えなくなってると、僕の携帯が振動した。ポケットから覗くと文ちゃんからだった。
『かめちゃんはやるって言ってたけど、まだ決まらないの?』
廊下の壁の出っ張りに隠れてる文ちゃんがいた。長い足と明るい髪色で分かる。僕がなかなか戻って来ないので様子を見に来たらしい。案の定揉めてるなと確認したのだろう。12、3メートルは離れているのに耳のいい文ちゃんには聞こえていたらしく、心配そうにこちらを伺っていた。
ああみっともない。なんだこの不毛なやりとり。急に恥ずかしくなって急にどうでもよくなった。こいつらを蹴散らしたい。それのみになった。
「とにかくやるになったから。これ決定。どうしてもやりたくないならやらないでいいよ。先生も強制はしないって言ってたから。うちのチームは五人なんだと思うよ。それでいいだろ」
富里と清水は金縛りにあったように途端に黙った。仲間外れにしたわけじゃない。抜けたがっていたから希望通りにしただけ。なのにすごく嫌な気持ちになっていた。少なくとも全員の意見を尊重すべきリーダーの発言ではない。こんなこと言っちゃう人間だったんだ。自分の言葉の冷たさに驚きながらも、僕が一番凍りついていた。
だが富里は「あっそ。じゃあそうして」と吐き捨てるように言った。
「その代わり絶対に私の前でその話しないでよ。したらグーで殴るから」
元バレーボールのアタッカー。殴られたら痛いに違いなかった。
「分かったよ。そうするよ」
でも怒っててほっとしていた。泣かれるよりずっといい。富里は僕を睨み付けながら「クソブキ」と呟いてずんずん歩いて行った。廊下の先には、もう隠れてない文ちゃんがいた。「今日から絶交ね」と、富里は横を通り抜けるすがらに告げた。肩をいからせる背中は、ジブリ映画のキキが怒ってトンボから離れてゆく後ろ姿にそっくりだった。大股で、ひたすら突進してゆく。
文ちゃんは振り向きながらこっちに歩いてきて、仕方ないよと目配せした。僕も小さく頷いた。
「じゃあ、そういうことだから。ちょっとキツい言い方しちゃったけど、好きにしていいから…」
言いかけたが、文ちゃんがやって来ると清水の顔つきや態度が明らかに変化した。ずれた眼鏡を直し、ポニーテールの結び目を肩をすぼめていじりだした。ものすごく分かりやすく女子になり、ああ好きなのねと歴然だった。
チャンスだと思った。引き入れるなら今しかない。僕はわざと文ちゃんを清水の前に立たせて「多数決でやることに決まったから」と報告した。イワシの追い込み漁の方法で捕まえる作戦だ。変人でも仲間外れはよくない。チーム内の問題はチームで解決する。プロジェクトのルールの4番目だ。状況を把握するのが早い文ちゃんもさりげなく囲いを作ってくれた。
『他のチームも参加だったから良かったよ。面白くなるね。どんどん協力
してやれって先生にも言われてるから、なんでも相談にのるからね』
とろけるような笑顔がセットになれば一撃。「えーどうしようかなあ」と清水は微妙にくねくねしだした。もうひと押しだった。
「無理強いはしないよ。石黒のチームが参加するなら勝ち目ないかもしれないからさ。あっちは秀才揃いだから。でも女の子の方がこういうのは結構得意なのかなって気はするんだけど。ねえ?文ちゃん」
「いいよ。気が変わったからやる。私のやりたくないと富里さんのやりたくないはちょっと違うから。私はあそこまで拒絶してない。余計なことに時間使いたくないってだけだから」
文化祭の裏方の手伝いがあってと清水は加えた。いやいや怖かったって。
女子ってほんと切り替え早い。こうなると富里をちょっと気の毒に思った。
「まあそうだよね。みんな忙しいもんな。だったら曜日決めて話し合いしよう。小坂さんたちにも聞いて、集まれそうな日作ろうか」
清水は火曜と金曜以外なら大丈夫とのことだった。残り四人の都合を聞いてからの調整になるが、チームは参加することに決定した。
友達が通り掛かった清水とはその場で別れたが、教室に戻る前にひと息つきたかった。風に当たりたいってこういう気持ちかと思った。疲労を察してる文ちゃんは僕の肩をぽんぽん叩いて中庭の散歩に付き合ってくれた。
別名シチリア広場と呼ばれる中庭は、本当に学校の真ん中にあるわけじゃなく、校舎と校舎の間の外廊下に面してるだけで、突き当たりは山頂の絶壁だった。そこからの見晴らしがシチリアっぽいことで名が付いた。白い柵に沿って等間隔に立つパームツリー。鋭利な葉は日によって開いたりしぼんだりしてるが、大体いつも垂れ下がってて、今日もしまい忘れた洗濯物みたいに力なくたなびいていた。
僕と文ちゃんは空いていた手前のベンチに腰かけた。芝生に残る無数の滴がビー玉みたいに光っていた。雨のあとの日差しほど強い。外に出ただけで麻疹みたいな汗に覆われた。普段使わない部分を酷使したせいでくたくただった。体を折り曲げると、ふああああああ~と自然と声が出た。エクトプラズムの雄叫びだった。
文ちゃんは立ち上がって校舎に入ってゆき、しばらくして戻ってきた。自動販売機で買ってきたペットボトルの麦茶を持っていて、僕に差し出した。そして自分の額をとんとんしてから、僕のおでこを指差した。汗すごいよ、と言っていて、にっこりしながらペットボトルを置いた。