
ホワイトルーム・オープン・ザ・ドア ⑨
教室から出てきた宮野と二人で帰った。在籍していた弓道部の全国大会が来週にある文ちゃんは、道場に指導に行っていた。
並んで階段を降りて行くと、廊下の突き当たりから富里が歩いて来た。進路指導室にいたようで、後ろから出てきた鎧塚先生は困ったように、ない髪のつるつる頭を掻き上げる仕草をしていた。
富里はいつにも増して機嫌が悪かった。何も言ってないのにぎろりと睨まれ、牛乳のお礼を言い出せなくなった。
「今日百瀬たち、白井の家に行くんだってね。お節介って言うか、よくやるなって思っちゃう。好きで引きこもってるんだから放っておけばいいのに」
ツンケンした声。近くにいられるだけで静電気がピリピリくる。僕と宮野はカツアゲに遭ったみたいに顔を見合わせた。
「ほんとに放っておいてほしいなら出てこないよ。それにこれはあくまでプロジェクトであって、ミッションじゃないから」
「何が違うの?」
富里は宮野に向かって腕を組んだ。さあ私を説得してごらんなさいよ。できるものならねというように。
「プロジェクトは計画とか業務って意味で、ミッションは使命とか任務。遂行するのが目的だよ。これはそういう類いじゃないから。先生も言ってたように「どうするか」を考えるものだろ」
苛々をもらうから止めりゃあいいのに、宮野は万年反抗期の娘に冷静に対応していた。だが富里は黙る気などなく、むしろ論破するのを待っていたように言い返してきた。
「私が言ってるのはね、それ自体の必要性よ。甘ったれが不登校やってるだけなのに、なんで私たちが気にかけてやらなきゃいけないの?マジでどうでもいい。どうしてこんなことに時間と労力を奪われるのか意味分かんない」
「一概に甘えとも言えないよ。事情はそれぞれにあるんだし」
「じゃあ周りが甘いのね。引きこもりなんて引きこもれる環境があるからできるのよ。六畳一間に四人家族で住んでりゃ引きこもるなんてできないんだから。ドア閉めたらひとりになれて、親がおろおろ心配してくれるって分かっててやるのよ。干渉されない空間もあって家庭環境もいい。親が虐待する家なら学校にいる方が楽なんだから。居心地のいい家に生まれ育ったこその暴挙でしょ。なーんにも託されてない甘ったれ以外、どうやったら不登校になれるのよ。しかも腫れ物に触るみたいに過剰に気使っちゃってさ、バカみたい。死にたきゃ死ねばいいじゃん。ちらつかせるほど死にゃしないのに、なにかあったらって自分の子供の奴隷になっちゃって。だから思い上がるのよ。取って付けた病名でサボり続ける怪物でしかないのにさ」
不満や嫌悪を越えた憎悪であった。だが一理ある。閉じ籠れる場所があるから閉じ籠る。親が健全で健康ならなにもしなくても生活は成り立つ。電気や水が止まる心配もないし、ご飯も三度食べられる。なんやかんや意地を通せば親は結構休ませてくれるし、暇な時間は好きなことができる。僕は全然羨ましくないが、その暮らしが理想的な奴にとっては半永久的に持続可能なパラダイスに違いなかった。「不登校になる」ではなく「不登校にさせてやってる」が元凶だろう、が富里の言い分だった。
「そうかもしれないけど、ほんとに病気の人もいるじゃん。パニック障害だっけ?電車に乗るだけで汗かいて過呼吸になったりとか、外出が負担になる人は一定数いるよ。必ずしも甘えてるばかりでもない。やりたいのにできなくて苦しんでる人も実際いるわけだしさ」
「へえ、じゃあ聞くけど、今から大地震が来るから電車で逃げて下さいって言われても、パニック障害の人は電車に乗らないの?五億円当たったけど、京浜東北線乗って取りに来るのが条件って言われても行かない?両足骨折してたって本当に危機を感じれば外に出るわよ。私が言ってるのはね、学校に来たくないという感情を、どうして精神の問題にすり替えるかってことよ。病んでるとか症候群だとか言ったって、自分の欲のためなら動けるんでしょ。結局の所は都合のいい時だけ病名振りかざす傲慢さにムカついてんの」
ほんとやってらんない。富里はぶつぶつ言いながら、またキキの後ろ姿で歩いていった。富里がいつも怒ってるのは矛盾を嫌うからだ。世の中理不尽だらけだから苛々が収まらない。自分が我慢できることを我慢しない連中に腹が立ってしょうがないのだ。グダグダ言わずにやれよ。ずっとそう言っている。確かに富里は学校を休んだことがないし、授業もサボらない。きちんとできると自分が証明できるから人にも厳しくなる。
どこも寄り道せずに帰宅すると四時半には着く。共働きなので家には誰もいない。倒れたと親にも連絡が行ったらしいが、ことなきを得ずに済んだので迎えは断った。母親から電話が来たが「鼻血が出ただけだから」と心配無用と伝えた。こんなことで仕事を早退させたくなかった。
鍵を開けて入ると、愛犬のロンがリビングのドアの隙間からのそりと出てきた。今年で十一歳になる紀州犬のロンは、真っ白い毛に賢そうな顔をしてるハンサムな犬だ。実際お利口で、吠えたり飛び回りもせず、優しい祖父のように「お帰り」とつましくやってくる。歓迎ではなく習慣だからやってる感はあるが、しっぽはちゃんとぱたぱた上下していて可愛い。ただいま、と背中を撫でると後を着いてくる。窓辺のソファーに腰かけた僕の足下にお座りし、早く散歩に行きたいよとおねだりしていた。
「悪いけどまだ行かねえ。もうちょっと日が暮れてからな。これじゃまだアスファルトが熱くて歩けないよ」
運動量の多い紀州犬は一日二度の散歩が必要だった。朝は交代で父、母、妹がやり、僕は夕方の毎日を担当している。歩きながら考え事をするのが好きだから面倒ではない。珍しい犬種なので「なんて種類ですか」と、たまに綺麗な女の人に聞かれるラッキーもある。けど九月の夕暮れはまだ30度。しかも今日僕は貧血気味。暑さで再びぶっ倒れるかもしれないから、もう少し涼しくなったらにしたかった。
黒い鼻をふんふんし「分かった」と言うように、ロンはソファーに登って傍らに寝そべった。まだ、を理解してくれた。優しい性格のロンは人間のメンタルや空気を読むのに長けている。気の毒なほど敏感に気持ちを察して、トラブルやケンカが起きた時は一番弱ってる人の側に寄り添ってくれるのだ。今も僕の鼻血を知ってるかのように。
飲みきれなかった牛乳を冷蔵庫にしまった。学校で消費したのは3本。鉄分を補給したからか、腹はやや緩くなったが、目眩は治まった。疲労感は残っているけど、暑い以外のだるさはなかった。棚に並べる牛乳の尊さ。なんにもしてないリーダーなのに申し訳ない。本当に具体的に考えなきゃなと思った。百瀬は今頃白井の家に行ってるはずで、ちゃんと行動を起こしている。やると宣言したならきちんと計画を立ててやろうと思った。向いてないけど、僕をリーダーと思ってくれる人がいる限りは。
部屋のベッドで寝転んでいると携帯が鳴った。鎧塚先生からだった。急いで起き上がり「はい、山吹です」と耳に当てた。
「ああ、わしじゃ。どうや具合は。まだくらくらしとるか」
渋いバリトンに癒される。「もう大丈夫です」と誰もいないのに頷きながら話した。
「無理すんなよ。貧血もバカにできんからな。ちょっとでも異変あったらすぐに病院行けよ。もう家おるか?」
「はい。家です。今日はもうゆっくりします」
「そうせえ。あとな、今日富里から抜けたいって直訴されてな、お前んとこうまくいってへんのか?」
え、ああ。えーと…。言葉に詰まった。やりたくないからって先生に言うなよ。放課後の富里の憤りはそれかと思った。そういうとこは小学生なんだな。
「強制さすつもりはないし、どうしても進められんやったら無理せんでええぞ。仲違いさすのが目的やないけえの」
だったらなんでやらすんですか。思ったがグダグダ言うのもダサい。私情を挟んでいいのなら、僕も富里に文句は言えなくなるからだ。
「まだ方向が決まってないだけですから。今度、一回話してみます」
自分でも思わぬ返事をしていた。今日のことがなければ富里を切り捨てていただろう。大量の牛乳が僕を止まらせた。あれは「チームメイト」がくれたもの。僕が飲み干したのはパックは富里が買ったものかもしれない。受話器の向こうで先生が軽く笑う気配がした。
「このチーム編成を考えた時、わしはお前のチームが一番悩まんかったぞ。山吹がリーダーなら、それに合ったメンツもすぐに思い付いたからな。なんの不公平さもないと自信持って言えるぞ」
先生には一体何が見えてるのか。僕には分からないが、このチームでも悪くないかもと、思いつつあるのだった。
汗を拭いながらロンの散歩から帰って来る頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。ゆで卵の黄身みたいに光る門灯。母親が通勤で使う水色のフィットがカーポートに停まっていた。
ポーチの横に併設してある蛇口でロンの足を洗ってから玄関のドアを開けると、框と直線に揃えてある母親のモカブラウンのサンダルの斜め後ろに、妹の結子の白いスニーカーがL字になって転がっていた。またかよ、と舌打ちしながら足でどかした。
四つ下の結子のずぼらさに毎日ゲンナリさせられる。部屋はものが散乱しまくって、歯を磨かなくても気にしないくせに、人の髪型や服装にはケチをつけ、不潔でも見てくれがよければ綺麗のめちゃくちゃな理論。しかも反抗期真っ只中で母親とのバトルが絶えず、ほぼ話が通じない状態だ。適当に聞き流せばいいのに、女同士だからか母親もムキになるので、二人が家にいると空気がピリピリして、ものすごく居心地悪くなるのだ。
首輪を外したロンがすたすたとリビングに行くのと入れ違いに、左手にタマネギ、右手に包丁を持った母親が出てきた。怖い怖いと身を反らした。
「びっくりしたわよお。なにがあったの?」
あれから仕事が手に付かなかったわよと目をしかめ「鼻血大丈夫なの?」と僕の顔をじろじろ見回した。「折れてはいないわよね」
「触っても痛くねえもん。打ち所が悪かっただけだよ。すいませんね。ご心配かけて」
「平気ならそれでいいんだけど、頭とかは平気?ふらふらしたりはしてない?先生からも今夜は様子見てくれって連絡あったから」
「ほんとに平気だって。あと冷蔵庫に入ってる牛乳おれのだから飲まないで。友達くれたやつだから」
「あんた牛乳苦手じゃない。飲むとお腹壊すのに大丈夫なの?」
「明日からコーンフレーク食うよ。結子にも飲むなって言っておいて」
「あの子が人の言うこと聞くわけないじゃない。誰かのものも、自分のものも関係ない、リアルジャイアンなんだから」
もうそれで会話を中断した。僕が帰ってくる間にひと悶着あったらしい。ツンケンしたやり合いに巻き込まれたくなかったので、ロンのご飯と水を用意してやってから部屋に戻った。
七時半になって帰宅した父親がドア15センチの隙間から「どお?」と聞いた。「別にだいじょぶ」と答えると「そうか」とすぐに去った。
いつものことだった。超マイペースの父親は家族にも世界にも興味がない。すぐ側で母親と妹が口論していても全く仲裁せず、リビングのカーテンが藍色から緑に変わっても気付かない僕以上の鈍感人間。迷惑も掛けてないし、仕事もしてる。それで父親の役目は果たしてると思っているから、憎まれ役を買ってでも生意気娘を一喝するオプションを装備してないのだ。
父親の性格を象徴するエピソードがある。三歳の時、僕は母親の妹に当たる叔母の結婚式で、花束を渡す役を任された。当日は母親のコーディネートでめかしこんだ。白いシャツに赤の蝶ネクタイ。紺の格子縞の半ズボンをサスペンダーで留め、膝までのソックスにピカピカのブラウンの革靴で正装した。係のお姉さんに呼ばれ、母親は目を爛々とさせて僕を送り出した。大きい花束を持ってスタンバイし「それでは可愛いお客様から花束でお祝いです」の司会者の紹介でミッキーマウスマーチが鳴った。会場が少し暗くなり、僕と新郎側に花を渡す女の子にライトが当たると、招待客たちはカメラを構えて僕らを囲んだ。父親もビデオを構えていた。僕はその時のことをよく覚えてないが、花束をちゃんと渡すことと「あやちゃんご結婚おめでとうございます」をきちんと言わなきゃと思いながら歩き、その役目を全うした。
だが後に父親が撮影していた映像を見ると、僕が全然映っていなかったのだ。見えるのは僕らを撮影しようとする客の背中だけ。
「なんでもっと前で撮らないの?自分の子供の晴れ姿なのに」
母親が文句を言うと「みんなの邪魔しちゃいけないと思って」と父親は悪びれずに言ったのだった。結局その映像は一番前を陣取ってた祖父のおかげで全貌を見ることができたのだが、それからも父親が撮影した運動会、水泳の大会の僕は、遠いところで「なんかやってる」大勢の一人として記録され、昨年結子が出場した吹奏楽部の県大会で、見たこともない女の子を娘と間違えて撮り続けていたのを機に、父親は撮影係から完全に外された。
対象者を撮れていないのは明らかに失敗なのだが、父親は「ちゃんとやったことが相手の希望に添えなかっただけ」として自分の中で完結する。ちびまる子ちゃんに出てくる、たまちゃんのお父さん的な父親像を理想としてる母親は憤懣が溜まり、それが時々僕らに向かって爆発する。僕は父親を嫌いじゃないし、母親を口うるさいとは感じるけれど「期待しない」が刷り込まれたネガティブ思考は、この親を見て育ったせいだと断言できた。
「お兄ちゃんの学校の文化祭いつ? またお店やる?」
夕飯の食卓で結子が聞いてきた。
「明日決まる。多分去年と同じだと思う。ポテトとか軽食売るやつ」
「チーズ味のポテトおいしかったんだよね。また買いに行こうかな。何組だっけ? 何階?」
「三階。去年のひとつ上の教室」
「友達と行ったらおまけしてくれる?四人ぐらいなんだけど」
「おれがいればね。交代制だから、いる時間知らせるよ」
「ねえ、あの人同じクラスだよね。文ちゃんって人。去年ポップコーンおまけしてくれてさ、里奈と楓が今年も会えるかなって期待してるんだよね。一緒の時間にいる?」
お目当ては文ちゃんか。人間見た目が100%を本当にルッキズムの意味と勘違いしてる結子は美形が大好き。ナチュラルボーンでハイクオリティの文ちゃんはその辺の俳優より綺麗な顔をしてる。これまでも言付けを女子に頼まれてきたからダシにされるのは慣れているけど、母親を無視したいためのダシに使われるのはうんざりだった。二人は一度も目も言葉も交わしてない。
「言っておくけど文ちゃん彼女いるよ。会いに来るのは構わないけど、期待はしない方がいいよ」
出任せのホラだったが、妹のテンションは一気に下降した。
「別にそういうんじゃないから」
楽しい気分に水を掛けられてムッとし「だからやなんだよ。人の気持ち分かんない奴」と刺々しく言い、これみよがしの溜め息をついて席を立ち、わざと大きい音で扉を閉めて二階に上がっていった。僕も両親もいつものことと無言で食事を続けていたが、もうこの瞬間、場の空気を悪くしたのは結子ではなく僕になっていた。誰もフォローもしない。
『居心地の悪い家』
富里が口にしていたフレーズを思い出す。だから僕は引きこもりにも不登校にもならない。家にずっといたら気が狂う。確かに人間見た目が100%。評価されるのは外見より常に振る舞いなのだが、我が家の人間の振る舞いときたら自分も含めて赤点揃いだ。だから外に出ていって、手本になる人を探したくなるのだ。