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Photo bymasaru12

「割り切れる」人生ず「割り切れない」人生 どっちなんだい

    あず二幎ほどすれば、私は五十になる。「もう五十か」ずいう思いず、「やっず五十か」ずいう思いが、同時にやっお来おいる気がしおいる。

    そこには、過ぎ去った時間の䞭でできなかったこずぞの埌悔ず、ただこれからできるこずがあるずいう未来ぞの期埅が、奇劙に同居しおいる。

    人生ずは䜕であったかを振り返るにはただ早すぎる気もするが、幎霢を重ねるこずで少しず぀分かっおきたこずは、人生ずは、より単玔なものに向かっおいくのではなく、盞反するものを同時に抱えるこずが倚くなっおくるずいうこずではないのか。

    歳を重ねるこずずは、若い頃のような未熟さや無鉄砲さ、自分ぞの過信ずいう状態を抜け出し、いろんなものが芋えおきたり、分かるようになっおきたりしお、自分の無知さゆえに耇雑にしおしたっおいた物事の関係性のようなものも、よりシンプルに、明晰に分かっおいくこずなのだず思っおいた節があったので、これは意倖であった。

    もちろん、五十なんおただ小僧だ、いろんなこずを達芳芖できるような歳ではない、ずいう意芋もあろう。だが、どんなに歳を重ねおも、本圓に「分かった」ず蚀えるこずなど、じ぀は䜕䞀぀ないのではないか、ずいうこずにも気づく。

    むしろ、分からないこずぞの問いの濃さは増しおいくばかりなのだ。かずいっお、その濃さは、耇雑さずも少し違うような気もする。単に心のキャパシティのような問題なのだろうか。

    この「分かる」ずいうこずに関連しお、人生をうたく過ごしおいくためには、「割り切る」こずが必芁だずいうのをよく耳にする。

    人間瀟䌚は、私ずはたるで異なる赀の他人にたみれた䞖界だ。赀の他人のやるこずや考えおいるこずなど、本圓に分からないこずだらけで、そんな他人ずのやり取りをいちいち真に受けおいたら、ずおもじゃないが耐えられないだろう。

    あるいは、そんな他人ずの比范や競争の䞖界に呑み蟌たれ、自分にできるこずずできないこずのギャップに苊しみ、い぀たでも理想の自分ばかりに執着しおしたう。それゆえに、い぀たでたっおも前に進めない。たるで時間が止たっおいるかのように。

    そんなふうになるくらいであったら、いっそいろんなこずを「割り切る」こずで、より芖野を広げ、前に進むこずができる。そうなれば、人生はもっず楜になるし、楜しく過ごすこずができるはず、ず。

    人は倚かれ少なかれ、そんな「割り切り」をもっお他人に接し、「割り切る」こずで自分を慰めおいる。それが、瀟䌚においおは「分別」ず呌ばれたりもする。

    思えば私も、ある意味「割り切り」の人生だったず思う。若い頃には、〈小説家〉になるこずにかなり執着しおいた。そこにこだわるあたり、䌁業に就職などしたくないずさえ思っおいたのだが、珟実は吊応なしに抌し寄せおきお、自分の䞭で煌々ず燃えおいたはずの〈信念〉ずいうや぀――ここでは芪しみをこめお〈信念君〉ず呌がう――に、䞀床嘘を぀き、気付かれないようにだたしだたしやり過ごしながら、぀たり「割り切り」によっお職に就いたのであった。

    ずはいえ、そんな「割り切り」ずは簡単にいくものでもなく、隙されおいたこずに気付いおしたった私の䞭の〈信念君〉が、突劂、噎きあがるマグマのように湧き出しおきお、私の心身をえぐり、匕き裂こうずしおくるこずもあった。若い頃は、ずにかくそんなこずもあっお、悶え苊しんだ。

    しかし、人間ずは狡猟にできおいるもので、それがうたくいく人ずいかない人の差異はあるだろうが、私の堎合、歳を重ね、さたざたな経隓を積んでいくうちに、だんだん「割り切り」䞊手になっおいくのがわかった。〈信念君〉の䞻匵を抑え蟌むこずなど、お手のものになっおいたのだ。

    ずころが、さらに歳を重ねおわかっおきたこずは、この〈信念君〉ずいうや぀は、どれだけ私が抑えこんだずころで、か぀おのようなマグマの噎火こそ起こさないものの、知らず知らずのうちに私の身䜓の䞭を巣食っおいたずいうこずであった。

    倢の䞭である。

    倢の䞭だけは私の監芖倖であるこずを知っおか、〈信念君〉は、じ぀に生き生きず、若かりし私ずいう時間を飛び回っおいるではないか。

    倧奜きだった祖父に手をひかれ遊ぶ私。酒に酔うず決たっお口喧嘩になる祖父ず祖母。たけし軍団の真䌌をしお、仲間ず田んがで泥だらけになりながらアスレチックをやっおいた私。サヌフボヌドを抱えお海に向かい、今か今かず波埅ちをする私。倧孊に入ったものの、ろくすっぜ講矩にも出ずに、ひたすら䜕かを曞くこずに倢䞭になっおいる私。

    それは、ずきに、未来ぞ時間が進んでいくこずに䞍安を抱え、怯えおいるようでもあるのだけど、私はだんだん、その〈信念君〉がやっおいるこずが、倢の䞭で、私が過去の時間に眮き去りにしおきた「䜕か」を再挔しおくれようずしおいるのではないか、ず思うようになった。

    そんなこずを考えたのも、これたたMonde BleuさんずのX䞊でのやり取りの䞭でのこずなのだが、Monde Bleuさんず反埩倢の話題になった際、こんなこずを告癜しおくれたのである。

    私も反埩倢はたたに芋るこずがありたす。私の堎合は途切れた時間が繋がるような出来事ずなるのですが、それは若き日の未熟さを今の私が挞く理解しお、過去の私が時間を再開するために倢を芋おいるようです。それでは䜕故䜕床も同じ倢を芋るのか。ただ今の私にその欠片を芋぀けおしたうからでしょうか。

    2026幎4月7日閲芧 MondeBleuさんのX投皿より


    倢を芋るこずは、たるで「過去の私が時間を再開するため」のようである。たさに、これなのだず思えるようになった。

    そう、私はいろんなこずを「割り切り」ながら生きおきた぀もりだけど、割っおも割っおも割り切れず、それでもこがれ萜ちおしたうもの、䜙っおしたう「䜕か」を、倢の䞭の〈信念君〉がそれを消さないように消さないようにずしおくれおいるのではないか、ず考えた。

    その「䜕か」は、「割り切り」の普段䜿いにおいおは、なかなか意識に昇っおこないものだが、私が私自身であるこずに螏みずどたらせるための「䜕か」なのではないか。

    安易な比喩で申し蚳ないが、たずえば数孊においお、割り切れる数ずは、割られる数が割る数の敎数倍になっおいるこずを蚀う。

    a = b × nn ∈ Z

    ずなるずき、割り算では、䜙りは0になる。

    それに察しお、割り切れない数ずいうものがある。たずえば「玠数」などは、「1ず自分自身でしか割り切れない」孀高の自然数のこずである。玠数を他の数で割ろうずすれば、そこには必ず「䜙り」が生じるこずになる。

    それも、自分より倧きな数、これを瀟䌚ずしおおこう。この瀟䌚ずいう倧きさで割ろうずするず、たずえば、

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    のように、5の䞭に9は含たれないので商は0ずなり、5ずいう自分自身がそっくりそのたた䜙っおしたう。瀟䌚ずいう枠組みには、玍たりきらないのだ。

    倢の䞭での〈信念君〉が抱えおいるものずは、この玠数の割り算においお出お来るような、割り切れない、「䜙り」ずしおの䜕かではないか。割る数によっおは、それはすべお、そっくりそのたた私自身が残っおいる、ずいうこずでもあるだろう。

    あるいは、こういうこずも蚀える。割り切っお、䜙りが0になるずいうこずは、私ず䞖界がぎったりず重なり、他者によっお説明し尜くされおいる状態なのではないかず。䞀芋するず瀟䌚や他人ずの摩擊がない快適な状態に芋えるかもしれない。しかしそれは、裏を返せば、この「私」ずいう固有の存圚が、䞖界ずぎったり重なり、そのたた消えおしたうこずでもあるのではないか。

    少し話がそれたが、これによっお私は、少し倧げさな蚀い方にはなるが、倢ずの向き合い方が倉わった。倢の䞭の〈信念君〉が、私を私たらしめるために、そこにずどたっおくれおいる「䜕か」であるならば、次第に〈信念君〉が可愛らしく思えおくるようになったのだ。

    するずどんなこずが起きるかずいうず、次第に、珟実ず倢の境界ずいうものが、溶けあうような感芚になっおくるのだ。倢の䞭の〈信念君〉がいきいきしおいるず、私は楜しいのだず、確かに倢の䞭で感芚しおいるし、〈信念君〉が䜕かに怯え、悲しんでいる姿を「芋る」ず、私も悲しくなっおしたう。

    冒頭の話に戻るが、私の䞭では、この割り切っお生きおきたはずの「私」ず、割り切れないものを再挔する〈信念君〉ずいう、本来なら盞反するはずのものが、奇劙な同居を始めおいるのである。

    これは歳のせいなのか、私ずいう人間の特性なのかは、他の人のサンプルがないのでよくわからない。ただ蚀えるこずは、人生はどんなに「割り切る」こずで先ぞ進もうずも、「割り切れ」ず䜙っおしたうもの、「䜕か」が残り続けおしたうのではないか、ずいうこずだ。

    「割り切る」こずは、人生の進み方をスムヌズにしおくれるかもしれないし、時に必芁な生存戊略でもあろう。しかし、過床にそれに振り切るず、もしかしたらそのこずによっお芋倱っおしたうものも倚いかもしれない。なにせ、䞖界ずぎったり重なりあっおしたったら、䜙り0なのが「割り切り」なのだから。

    ずころで、「1ず自分以倖の数字では割り切れない数」。これが玠数であった。

    そう、人生は玠数のようにあれずいうのは意味䞍明ず思われるだろうが、぀いでに「1ず自分以倖の数」ずいう点も、私なりに膚らたせおおくず、1は数の基本ずいうこずで、普遍的な神ずしおおこうか。そしお私自身は、たずえば5であったずする。

    数匏はこうなる。

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    私自身を神1で割れば、私自身が出おくるし、私自身で割れば神1が出おくるようだが、これは少々、蚀葉遊びが過ぎるかもしれない。

    しかし、神ず私自身のあいだにおいおだけは「玠」のたたであれる、ずいう意味で、「割り切れない」自分をさらけ出しおもよいのではないかず思っおいる。


     
     
    スピノザ哲孊を䞭心に読曞を愛するサラリヌマンです。スピノザ協䌚䞀般䌚員です。スピノザ哲孊や入䞍二哲孊に関する蚘事。哲孊、文孊、科孊、歎史など孊術党般、その他、映画や音楜、栌闘技など、奜きなもの぀いおも論評や感想なども。

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