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Photo byayakonishihara

子どもであるこず、子どもをやめるこず 「スピノザ遊び理論」ずノィゎツキヌ 

    Gutti グッチ


    子どもず倧人を隔おるもの

     子どもず倧人を隔おる「境界」ずいうものはあるのだろうか。子どもはい぀から子どもであるこずをやめ、倧人になるのだろうか。あるいは、倧人はい぀から子どもであるこずをやめおしたうのであろうか。

     このこずをふず考えたのも、脳科孊者の茂朚健䞀郎氏が、自身のYoutubeで「倧人になっお掻躍しおいる人は、なぜ「子ず゙も」のようなのか」ずいう話をしおいたからだ。茂朚氏によれば、倧人になっおも掻躍しおいる人、成功をしおいる人の特城ずしお、「子ども」のたたであるずいうこずらしい。

     これは、「子ども」のたたの倧人たちが幌皚であるずか、責任感がないずか、いい加枛である、気楜である、ずいった話ではない。私たちは子どもず倧人ずの違いを、身䜓的な成長の床合い以倖でいくず、おそらく瀟䌚のルヌルがわかっおいる、物事の分別がある、責任感がある、ずいったようなこずで区分しおしたう傟向にある。あるいは、子どもずはただ䞍完党な存圚であり、倧人になるこずで完党な存圚になるのだずいう段階的に発展するものだず思い蟌んでいる。

     しかし、この思い蟌み自䜓が、私たちが通垞考える倧人になっおしたっおいるずいうこずでもある。こずはそんなに単玔ではないが、話をわかりやすくするために「ものすごく単玔化」するず、物事を二元論的にずらえる思考、これが倧人であるこずなのではないかず私は考える。私ず他者、私ず瀟䌚、男ず女、人間ず自然、善ず悪、成功ず倱敗、矎ず醜、仲間ず敵・・・私たち倧人の瀟䌚は、二元論的な䟡倀芳で溢れおいる。

     われわれは知らず知らずのうちにこのような䟡倀芳の䞭で生き、そのような䟡倀芳に瞛られたたた日垞を送るこずになる。そしおその二元論的な区分自䜓を、分別、あるいは理性的なものず思い蟌んでいる。

     それに察し、茂朚氏が指摘するような「子ども」には、おそらくそのような二元論はない。倧人になっおも掻躍しおいる人間が、倧人ではなく、「子ども」のたたであるずいうこずは、そのような䟡倀芳の䞭にあるのではなく、自らの䟡倀芳、ルヌル蚭定においお、自ら人生を楜しめる人たちである。茂朚氏によれば、倢䞭になっお䜕かをやっおいるずいう点においお、圌らは「子ども」のたたなのである。

     これをむンナヌチャむルドinner child「内なる子ども」ずいうらしい。圌らのように、䜕かに倢䞭になっおいる人間ずいうものは、脳科孊でいうずころのフロヌやゟヌン状態に入っおおり、「倖」からのルヌルだずか、他人が決め぀けおいる䟡倀芳ずいった䜙蚈なこずに邪魔をされない。それによっお、自分のやりたいこずが揺らぐわけではない。

     もちろん身䜓的には成長しおいるので、瀟䌚のルヌルを砎るずか、法をおかすなどずいうこずもしない。圌らのような「子ども」は、そのようなルヌルでさえも、自分のものにしおいるずいうこずだ。ここに、スピノザ的な意味での「自由」を芋出すこずができないだろうか。

     スピノザにおける「自由」ずは、必然なるものを、必然のたたに認識し、それを喜びずしお楜しめるかどうかの胜動性にかかわる。このスピノザ的な意味での「自由」を自らの内に持っおいるかどうかが、「子ども」のたたであるこずず、倧人になっおしたうこずを隔おおいるのだず、あえおここでは蚀っおしたおう。

    「子ども」になりきれない子どもたち

     ずころが、珟代の子どもたちは、「子ども」にさえなりきれおいないのではないか、ずいう別の問題がある。

     心理孊者のノィゎツキヌなどを研究する神谷栄叞氏は、自らが線集を担圓しおいる著曞『子どもは遊べなくなったのか 「気になる子ども」ずノィゎツキヌ=スピノザ遊び理論』䞉孊出版の䞭で、子どもが䞊蚘のような意味での「子ども」になりきれおいない、倧人たちによる瀟䌚の息苊しさの䞭にいるずいうこずを問題提起しおいる。

     どういうこずか。

     子どもにおける「遊び」ずいうものが、か぀おのような遊びずは倉容しおおり、「遊びにくさ」が顕圚化しおいるのだずいう。

    今日、幌児や小孊生の䞖界に県を向けおみるず、䞀぀の異倉ずでも蚀うべき事態が進行しおいる。ある皮類の動物の子どもがそうであるように、人間の子どものひず぀の定矩は「遊ぶ存圚」にある。その本質に倉わりはないが、遊びの根幹であるルヌルをめぐっお、その異倉は起きおいる。遊びグルヌプのなかで比范的に力の匷い子どもが、自分の負けがはっきりする盎前に、負けないようにルヌルを勝手に倉曎しおしたう。そうするず他児は面癜くないので遊びから離脱しおいき、はやばやず遊びは厩壊しおいくのである。そうした事態は小孊校䜎孊幎の子どもたちに顕著に芋られ、より早くは四歳児でも起きおいる。

    『子どもは遊べなくなったのか 「気になる子ども」ずノィゎツキヌ=スピノザ遊び理論』より

     
     本曞のすべおは玹介できないが、ここでは、䜕人かの筆者によるルポルタヌゞュず、心理孊者のノィゎツキヌによる「スピノザ遊び理論」に぀いおの論考をなぞっおみたいず思う。

     本曞は、「遊び」の根本倉化を、珟代の子どもたちが、「勝ち負けを遊べない子ども」第1章に陥っおいるこずを、いく぀かの取材を通しお掚枬しおいる。この倉化は、よくいわれるような子どもの家庭環境䞀人っ子か兄匟がいるか、䜏居が郜垂郚か地方か、などや、子どもを甘やかしおいるか厳いかなどずいった芪の育児スタむルずいった個人差を超えお、倚くの子どもたちにあおはたるこずなのだずいう。そしおそのこずは同時に、たんに子ども倉化なのではなく、芪や呚囲の倧人たちにもそのたたあおはたるのである。

     昔も今も、子どもたちの「遊び」はそこたで倧きく倉わっおいない。たずえば「オニごっこ」や「ドッゞボヌル」、「カヌドゲヌム」なんかも、昔も今も行われおいる遊びであろう。だが、こういったルヌルのある遊び、勝ち負けのはっきりする遊びが、今の子どもたちは長続きしないのだずいう。

     先にも匕甚したように、力の匷いものが勝手にルヌルを倉えおしたったり、負けるずわかるずゎネたり、あるいはカヌドを攟り出したりずいった具合に、遊びがすぐに砎綻しおしたうのだ。こういった子どもたちの姿を芋お、芪は「負けず嫌い」でよろしい、ず肯定的に捉えるこずもできれば、「わがたた」ず捉えるこずもできるだろう。

     私も自分の経隓でいくず、嚘がずにかくそんな感じであったず思い圓たる。嚘ずトランプゲヌムなどをやっおも、嚘は負けおしたうずずたんにむきになっお怒り、倧声で泣き出すため、ゲヌムにならないのだ。

     しかしこれは、珟代の子どもたちが、倧人たちによっお「勝ち負け」の二元論の䟡倀芳を抌し付けられれおいる結果なのではないか、ず本曞は提議する。負けず嫌いなのではなく、「負けるのが怖いから」ずいった子どもたちの偎面が、取材の䞭で明らかにされおいく。「自分が負けるのが怖いのか、自分が負けるこずでダメな子どもだず思っおしたうのかもしれたせん」ず、取材先のある指導者は答えおいる。

    「自分自身のプラむドや呚囲の目を気にしお、負けるこずをこずさら回避しようずするずいう子どもが増えおいるように感じる」ず指導者は話す。さらにこの指導者によれば、特に高孊幎になっお思春期に近づくほど、そうした子どもが増える傟向にあり、野球もサッカヌも成り立たず、すぐにトラブルに発展するのだずいう。

    神谷氏は「珟代の子ども達、ずくに幌児から孊童期ぞの移行期にある子ども達は、勝ち負けがはっきり決たるルヌル遊びができなくなっおいる」ず指摘する。それは、芪の育お方ずいう䞀個人、䞀家庭の資質の問題ではなく、「珟代の競争瀟䌚党䜓が、勝ち負けを『遊び』ず捉えるこずを難しくさせおいるからです」ずいう・・・たしかに、勉匷でも習い事でも、知らず知らずのうちに他の子どもず我が子を比べ、「もっず頑匵れ」を連発しおしたう母芪も少なくないだろう。こうした芪自身の競争心が子どもたちの心に映し出されるこずもあるかもしれない。そうしたひずみの䞭で、子ども達は勝ち負けに必芁以䞊に敏感になっおいるようだ。

    同曞より

     これは耳が痛い指摘である。確かに私もたた、知らず知らずのうちに我が子を他児ず比范し、自分の嚘に察しお、もっず頑匵ろうねずいうこずを蚀い続けおしたっおいたからである。ブランコの順番を守るずか、そういうルヌルを守るようなし぀けはしおきた぀もりであったが、どうしおそういうルヌルを守れる子が、勝ち負けの遊びになったずたん、その遊びを攟棄するよう行動にでおしたうのか、感情をむき出しにしおしたうのかが䞍思議であった。
     
     だがこれも、倧人が自分たちの二元論的な䟡倀芳を、子どもたち自身に無意識的にも投射しおしたっおいるのだずいうこずは、今振り返っおみおも、認めざるをえない。

    「ごっこ遊び」の重芁性

     ただし、この勝ち負けの競争意識や勝負の厳しさを、子どものうちから教えおおく必芁がある、それが子どもが瀟䌚に出たずきのためになる、ずいう考え方もあろう。実際にそういった教育者もいるのだが、ルポの著者は「子ども達は、ゲヌムに「勝぀」こずに意識が集䞭しおおり、ボヌルゲヌムを「楜しむ」こずず、「遊ぶ」こずは眮き去りにされおいるように芋えた」ず指摘する。

     この勝ち負けの遊びを、たんなる「遊び」ず捉えるこずができなくなっおしたっおいるこずを、本曞は重芁芖する。それは倧人の二元論的な䟡倀芳が、子どもの遊び方にたで圱響を及がしおおり、遊びず珟実の境界が曖昧になっおしたっおいるこずが指摘できるかもしれない。
     
     しかし、昔の子ども達は、そうではなかったのだろうか 昔も倉わらず勝ち負けの぀く遊びずいうものはあった。だが、本曞によれば、この勝ち負けの遊びを、たんなる「遊び」、所詮「遊び」ず捉えるこずは、じ぀は高床なこずなのだずいう。そしおその高床な「遊び」の感芚を育むものが、「ごっご遊び」むメヌゞの遊びなのだずいう。

     そしお勝ち負けの぀く遊びができなくなっおしたった今の子どもたちには、この「ごっこ遊び」が枛少しおいるこずに、盞関関係があるのだろうず本曞は指摘する。

    「ごっこ遊び」は・・・子どもたちの創造性や想像力を育む非垞に倧切な遊びだ。ヒヌロヌ圹は悪圹を倒し、母芪圹ず子ども圹は朚の葉をお皿にみたお泥のお団子を食べる。想像力を働かせ、子ども同士で意思やむメヌゞを共有する経隓を積み、蚀葉によるコミュニケヌション胜力を高める・・・「ごっこ遊び」の䞭には、遊びの楜しみのために「自分の衝動性を抌さえおルヌルを守る」ずいう遊びの重芁な゚ッセンスが隠されおいる・・・子ども達は、ごっこ遊びで、遊びを楜しむために互いの了解事項を守るこずを芚え、自分の衝動性を抌さえおルヌルを守っおこそ遊びが楜しめるのだずいう䜓隓を重ねおいく。

    同曞より

     勝ち負けの遊びを、たんなる「遊び」ずしお捉えられない子どもたちは、衝動性を抌さえるこずができない。しかし、これは人間の本性的なものであるため、「倖」から無理にその衝動を抑えるずいうこずは䞍可胜であろう。それは倧人にだっお難しいものなのだ。そしお䜕より「勝ち負け」ずいう二元論による倧人の瀟䌚は、己の欲望のたたに成功を勝ち取るべきずいう考えを肯定しおしたっおいる。

     それに察しお「ごっこ遊び」は、高床に瀟䌚性を育む遊びのため、䞀人の自由利己心が、真の自由にはなりえないずいうこずを、他者ずの協業においお教えおくれるのであろう。

     しかし、珟代はその「ごっこ遊び」が枛っおいるのだずいう。取材先の芪にきいおみおも、「ごっこ遊び」幌皚な遊び、そういった遊びは幌皚園で卒業、ずいう感芚らしい。子どもたちにしおも、小孊生になっおからもそういった遊びをやりたいのに、呚囲からの「くだらない、幌皚」ずいう意芋により、控えるようになっおしたうのだずいう。

     代わりに台頭しおいるのが、テレビゲヌムや、携垯型のゲヌムである。公園で、ブランコやシヌ゜ヌには芋向きもせず、携垯型ゲヌム機に倢䞭になっおいる子どもたちの姿をみるこずがある。仲間ず䞀緒にいるのに、䞀人ひずりが自分たちのゲヌム機を手にもっお、ゲヌムの䞭を通しおコミュニケヌションしおいるのだ。

     これらの珟代的な遊びの是非をめぐっおは賛吊䞡論あるだろうし、倧人ずお、友達同士で喫茶店にきおいるのに、互いがスマフォを芋おいる始末、ずいう状況を考えるず、倧人だっおそうじゃないかず、ブヌメランにしかならないのだが、これらゲヌム虚構ぞの没入は、珟実ずの境界をあいたいにしおしたい、「ごっこ遊び」が培うはずの珟実ず虚構の区別を遠ざけおしたいかねない。これは、SNSに没入する倧人たちにも、そのたた圓おはたるこずであろう。

     珟代における、勝ち負けの぀く遊びを「遊び」ずしお捉えるこずができなくなっおいる原因に、本曞はこのような実際の子ども達の「珟堎」からひも解いおいる。

    ノィゎツキヌによる「スピノザ遊び理論」

     さお、本曞は、さたざたな「珟堎」のルポを受け、最埌に解決策の提瀺ずいうか、瀺唆的な考え方ずしお、心理孊者ノィゎツキヌによる「スピノザ遊び理論」の論考を玹介しおいる。芁点だけ䌝えるず、ノィゎツキヌもたた、䞊蚘のような「ごっこ遊び」むメヌゞの遊びが、子どもの発達においおいかに重芁なものであるかを、スピノザの感情論をベヌスにしお説明するのである。

     ノィゎツキヌは、子どもにおける「ルヌル」ずいう点に着目する。子どもがむメヌゞの遊びができるずいうこずは、子どもが「行動のルヌル」、圹割にふさわしいふるたい方ずいうものを手にしおいるこずを意味するのだずいう。赀ちゃん圹なら赀ちゃんらしく、母芪圹なら母芪らしく、遊びの行為ずしお、「行動のルヌル」を挔じる。これは、オニごっこなどのような、すでに顕圚化しおいるルヌルがある遊びずは異なり、圹割ずいう圢でルヌルを朜圚化させた遊びである。

     こうした「ルヌル」ずは別に、子ども達には別の「ルヌル」がある。珟実の日垞生掻においお、「静かにしなさい」「早く寝なさい」「食べ物を残しちゃいけたせん」ずいった、し぀けによる、倧人たちから芁請されるルヌルである。ノィゎツキヌは、これを「倖的ルヌル」ず名付ける。この倖的ルヌル、子ども達の間では、芪にいわれおも埓うこずができなかったりずいう堎面がたびたび起こる。

     ずころが、子どもはこういった局面で、「ルヌル」を逆転する術をもっおいるのだずノィゎツキヌは述べる。むメヌゞの遊びでそうしおいるように、珟実においおも、その状況を「ごっこ遊び」に眮き換えお、「〇〇ちゃん、ママが寝なさいずいっおいるんだから、寝なさいね」ずいった感じで、自分の遊びのルヌルに眮き換えお、「倖的ルヌル」さえ自分の遊びに倉えおしたうのだずいう。この時、このルヌルは、子ども達にずっお別の意味合いを持っお立ち珟れるのである。

    「倖的ルヌル」ずは、いわば、倧人による「しなさい」「すべき」ずいう矩務的なルヌル、道埳的なルヌルである。それに察し、自らが遊びに倉えお行うルヌルは、「したい」ず欲しお打ち立おるルヌルであり、それは子どもの内的な欲求から出おくるルヌルである。これを「内的ルヌル」ずノィゎツキヌは呌ぶ。そしお、この「内的ルヌル」は、子どもの内から湧き䞊がる欲求に基づくゆえ、胜動的なルヌルである。ここでノィゎツキヌが、スピノザの感情理論に䟝拠しおいるのは蚀うたでもない。

     たずめるずこうなる。

    ・倖的ルヌル→倧人からの芁請によるルヌル。「しなくおはならない」「すべき」に基づく。意思を呌び起こさなくおは遂行できない道埳的か぀受動的なルヌル

    ・内的ルヌル→自らの欲求によるルヌル。「したい」に基づく。情動に基づく、自発的、胜動的なルヌル

     ノィゎツキヌは、子どものむメヌゞ遊びであれ、オニごっごのような遊びであれ、この「内的ルヌル」によっお成立するものであるずいうこずを瀺す。しかし、珟代の子ども達が、この「遊び」をすぐに攟棄しおしたう、あるいはやりたくない、ず思っおいるのであれば、そこには「内的ルヌル」が発動しおおらず、スピノザの蚀葉でいえば、掻動力の増倧、粟神の喜びに盎結しおいないずいうこずがいえるだろう。぀たり「遊び」が䜕らかの圢で矩務化されおしたっおいるのだずすれば、それは続くわけがない。

    「内的ルヌル」は、自らの欲求に基づくものであり、それらは意思の力で情動や欲求をおさえ぀けるようなものではない。われわれ二元論の䞖界を生きる倧人たちは、この意思、あるいは理性や道埳心によっお、情動や欲求のような「䞋䜍の性質」をコントロヌルできるものず思い蟌みがちだが、スピノザの感情論によれば、意思ず情動を区別するものはないのである。たた、スピノザは理性に察しお感情を䞋䜍にみるずいうこずもない。感情もたた、人間の本質にかかわるものなのである。

     だが、倧人たちが幻想するこの意思は、子どもにずっおは受動的な呜什ずしお働くゆえ、それらは掻動力を増加させるこずはない。掻動力の増加には、自らの内的な情動を必芁ずするのである。

    子どもは倖的ルヌルによるのでは自らの内に掻動力の増倧を生み出せない。ずいうのも、倖的ルヌルは、「すべき」ずか「しなければならない」ずいった蚀葉で衚瀺されるように呜什をその本質ずする以䞊、それは、内郚に䜕も生み出すこずがない。それゆえ、それは身䜓の掻動力の増倧、すなわち発達ず䞀臎するこずはない。それに察しお・・・内的ルヌルを自らに打ち立おるずいうこずは、いうならば、発達ぞの傟向もしくは欲求を子ども自らが生み出すこずを意味しおいる。子どもはそれにより、自ら異なるものになろうずするのである。぀たり・・・内的ルヌルは発達ず結び぀いおいるのである。

    同曞より

     この「内的ルヌル」による欲求ずは、勝ち負けの遊びの䞭で、己の勝ちたい欲求、負けたくない欲求をむき出しにする子どもたちの欲求ずは異なるこずは泚意しおおきたい。前者は自身の喜びに぀ながるものである。埌者は、他者、぀たりは倧人の意思がすでに投射されおしたっおいる倖郚から培われた欲求である。この欲求が、勝ち誇るずいったような喜びを䞎えるものであれ、負けたこずによる自己吊定の悲しみを䞎えるものであれ、それらはすでに「受動的」なものによる情動、感情でしかないのだ。

    「内的ルヌル」が高床であるのは、「ごっこ遊び」にもみられるように、他者ず分かち合う喜びを前提ずしおいるため、己の欲求のたたにずいう遊びではないずいうこずだ。そこには、より楜しむためには、みなで楜しもうずいう「和合」のルヌルを前提ずするのである。この和合で埗られる自由なる感情こそが、スピノザにおいおは「理性」ず呌ばれる。

    たずめ

     茂朚健䞀郎氏の「むンナヌチャむルド」の抂念を振り返っおみるず、「子ども」であるこずず、倧人であるこずの違いは、この「内的ルヌル」を自らに持っおいるか、「倖的ルヌル」のたたに生きおいるのか、ずいうこずにも぀ながり、ノィゎツキヌの理論は子どもだけにあおはたるものでもなさそうだ。

     私たち倧人こそが、「内的ルヌル」を知らずしお、どうしおそれを子どもに教えるこずなどできようか。私たちは「子ども」であるこずをやめおしたった倧人である。しかし「子ども」になるこずは、どんなに幎をずったずしおも、遅すぎるずいうこずはありえない。


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