メインコンテンツへスキップ
見出し画像

弱さの中で発揮される力②

    前回、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というパウロの言葉について書き、その現代的意味として多様性ということについて書きました。そして、それよりも重要なことは「弱さが器となる」という考え方ではないでしょうか、とも書きました。今回はその続きです。

    器は中が空っぽであることで己の役割を果たすことができます。つまり、「虚ろであること」が器という存在の本質だと思います。
    この「弱さが器となる」という考え方は、私たちという存在には「器」としての側面もある、ということを表しているのではないでしょうか。

    私たちは皆、何かを受け継ぎ、そしてそれを誰かに引き渡します。しかしその受け継いだものをただ単に引き渡すだけでなく、その過程で様々な役割を果たします。私たちの弱さの器とは、その役割を容れる器なのではないでしょうか。

    喩えて言えば、パソコンやスマホのストレージのようなものなのかもしれません。ストレージに余裕があれば、その分様々なアプリをインストールして、様々な事ができます。でもあまりにも沢山のアプリをインストールし過ぎるとストレージがいっぱいになってしまいます。そうなると、動作が遅くなったり、フリーズ(動作停止)やクラッシュ(強制終了)の頻度が増えたり、既存のアプリやOSのアップデートができなくなったりと、様々な弊害が出てきます。

    「弱さが器となる」という考え方は、そのストレージの調整ともみなすことができるのではないでしょうか。それは一人ひとりの、この世界の中での役割の調整であると同時に、この世界自身の自己調整機能のようなものなのかもしれません。

    そして弱さを認めるということは、己の内に器があるということの認識であり、それはストレージに空き容量があるということの自覚でもあります。
    それはつまり、新たな役割を担うポテンシャルを持っていることであり、まだ成長する余地があるということでもあります。

    ただ注意すべき点として、無論のこと、この弱さの肯定を責任の放棄と受け取ってはならないでしょう。
    また、「弱さの中で発揮されるキリストの力」を、現代的にどう捉えるかも、まだまだ考えなければならないかもしれません。その力を、「他者や共同体からの支援」や「自分の中にある内的資源」などとみなすこともできるでしょう。
    でも私個人としては、その力とは「苦悩をメッセージとして受け取る力」あるいは「苦悩をメッセージに転換する力」であるような気がします。

    二千年程の前にパウロが述べた「わたしは弱いときにこそ強い」と結論を、現代風に言うとそういうことになるのではないでしょうか。
    敗北、失敗、挫折。人生では様々な困難に遭遇します。そんなとき私たちは己の拙さや弱さに苛まれるでしょう。そんなときこそ「わたしは弱いときにこそ強い」というパウロの言葉の意味を、よく考えてみる必要があるのではないかと、そんなことを考えました。

     
     
    🔴宗教や信仰についての雑記等です。 宗教とはほぼ無縁の生活をしていながら、宗教多元主義に惹かれている者です。

    あなたへのおすすめ