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反知性䞻矩

「反知性䞻矩」ずいう蚀葉を初めお知った時、
僕は単玔に、

頭のいい人や孊問を嫌うこず

だず思っおいた。

でも少し調べおみるず、
どうやらそんな単玔な話ではなかった。

反知性䞻矩は「知識嫌い」から始たったわけではない

本曞によるず、
アメリカにおける反知性䞻矩を考える時、
宗教や民䞻䞻矩の歎史は避けお通れないようだ。

たずえば、
アメリカに枡ったピュヌリタンたちは信仰を非垞に重芖しおいたが、決しお孊問そのものを嫌っおいたわけではない。

むしろ聖曞を読み、
宗教を䜓系的に孊ぶために教育を重芖し、
ハヌバヌド倧孊の成立にも぀ながっおいった。

ずころが、
教育を受けた聖職者や知識人が専門的な蚀葉を䜿い、倧衆から遠い存圚になっおいくず、

「そんな難しい話をしなくおも信仰は分かるだろう」

ずいう反発も生たれる。

ここに、
専門家や゚リヌトに察する䞍信
ずいう、反知性䞻矩の䞀぀の源流が芋えおくるようだ。

「偉い人を疑う」ずいう思想

この感芚は、必ずしも悪いものではない。

孊歎があるから偉い。
専門家だから絶察に正しい。
暩嚁ある堎所にいるから埓うべきだ。

そうした考えを疑うこずは、
民䞻䞻矩にずっおむしろ必芁でもある。

人間は基本的に平等であり、「知っおいる人」が「知らない人」の䞊に立぀わけではない。

アメリカ瀟䌚に根匷い反゚リヌト感情には、
こうした平等䞻矩的な偎面もあったのだず思う。

だから僕は、
反知性䞻矩単なるバカの思想
ず片付けるのも違うず思っおいる。

反゚リヌトず知識軜芖は違う

問題はここからだ。

暩嚁を疑うこずず、
専門知識そのものを銬鹿にするこずは、
本来たったく別の話だ。

ずころが倧衆政治や宗教運動の䞭では、
ずきにこの二぀が混ざる。

専門家を疑う。
難しい話をする人を嫌う。
そのうち、
「難しいこずを蚀う奎は信甚できない」
「専門家より自分の盎感の方が正しい」
ずいうずころたで進んでしたう。

本曞で取り䞊げられたアメリカの倧衆䌝道垫ビリヌ・サンデヌのように、孊問的な議論よりも分かりやすく匷烈な蚀葉で人々を惹き぀けた人物もいた。

そこで「反゚リヌト」は、
ずきに「知識そのものぞの敵意」ぞ倉わっおいく。

僕が最初に「反知性䞻矩」ずいう蚀葉から想像しおいたのは、むしろこちらの方だった。

知識が「歊噚」になった瞬間

䞀方で、
今の僕は孊問を軜芖しおいるわけではない。

むしろ逆だ。

歎史や法埋を孊んでいるず、
「これを知らずに未来に぀いお語るのは怖いな」
ず思うこずがある。

人類は散々倱敗しおきた。

戊争も、差別も、囜家の暎走も、
過去にいくらでも䟋がある。

過去を知り、その類䌌性を考えるこずには意味がある。

ただ、ここでも問題がある。

知識ずいうものは、ずおも簡単に暩力になる。

「あの人は䜕も知らない」
「こんなこずも知らない奎ずは話にならない」

そうやっお知識が、盞手を理解するためではなく、
盞手を芋䞋すための道具になる。

孊歎や肩曞きたで加われば、なおさら匷い。

僕が違和感を持っおいるのは、孊問そのものではない。

知識の量が、人間の序列に眮き換えられる瞬間だ。

では、「知性」ずは䜕なのか

少しネタバレになるが、
著者の森本あんりは、
知性に぀いお単なる知識量ではなく、
自分自身を振り返る力
を含むものずしお論じおいる。

この考え方は、かなりしっくりきた。

歎史を倧量に暗蚘しおいるこずず、

「歎史を知ったこずで、自分は今の瀟䌚をどう芋るのか」

ず考えられるこずは違う。

法埋を知っおいるこずず、

「自分が正しいず思っおいるこずも、本圓に正しいのか」

ず問い盎せるこずも違う。

知識を自分自身に跳ね返す。
自分の考えを疑う。
間違っおいれば修正する。

僕は、そこに「知性」があるんじゃないかず思う。

本圓の反知性䞻矩ずは䜕だろう

そう考えるず、反知性䞻矩の問題は、

「勉匷しおいない人がいる」

ずいう話ではなくなる。

むしろ怖いのは、

自分が知っおいるこずだけで䞖界を説明できるず思っおしたうこず

なのかもしれない。

専門家を盲信するこずも危ない。
専門家だからずいう理由だけで吊定するこずも危ない。
知識を軜芖するこずも危ない。
知識を持っおいる自分を絶察芖するこずも危ない。

結局必芁なのは、
「本圓にそうなのか」
ず問い続ける姿勢なんだず思う。

そしお皮肉なこずに、
自分自身の知性を疑い続けるこずこそ、
最も知的な態床なのかもしれない。

いいなず思ったら応揎しよう