
[SF小説] 『とある研究者の1日』
朝の5時、窓から朝日が差し込む。僕の性格がケチなのが原因なのか、窓にはカーテンがない。太陽で強制的に起こされる毎日。天然の目覚まし時計。
家には僕以外誰もいない。いわゆる一人暮らしだ。
お腹がすいた。起きてすぐなのにお腹が空いてしまう。朝が一番頭を使える時間だって、一昔前のビジネス書に書いてあるのに、なんでそんな時間にお腹が空くんだろう。仕事をするか、ご飯を食べるのかという二者択一ゲームが毎朝繰り広げられている。
今日は、フルグラのパチモンみたいなのとコーヒーを朝ごはんとして食べる。次にご飯を食べるのはざっと12時間後なのでそれを満たす。おいしい朝ごはん、いい時間だ。クリアな頭を仕事に使えなかったという機会損失を考えなければ。
僕は朝ごはんを食べながら、壁に埋め込まれている40インチのウィールディスプレイで前日の市場の動きやテックキャピタリストたちの発言を雑に確認する。もちろん、BCI経由で情報を直接インプットすることは可能だが、意味もなくブラウザする時間が僕は好きだ。時々、知らないものがレコメンドされる楽しみがある。アルゴリズムはあえて少しのバグを残しているようだ。
今の人たちは摩擦を減らそうと躍起になっているけど、それで大丈夫なのだろうか。ふと、朝ごはんを食べながらそんな事を考える。ノイズを全て取り除いた先に何があるんだろう。
朝の準備を終えた僕は自動運転車で大学まで向かう。2万ドルの大衆車で。
今の時代、知識のインプットは全て動画と個別最適化された教育用AIが担っている。
そして、特に裕福層の学生、かつ親が極度なテクノ・フォビアじゃない限り、彼らは脳にBCIを埋めているので、学習時間が限りなくゼロに漸近した。こんな環境だから、大学教授といっても講義をすることはない。じゃあなぜ僕は大学にわざわざ行くのか。僕にもよくわからない。政府は、人とリアルに会うことで国民の「セレンディピティ」や「レジリエンス」を高めるという、耳あたりのいいスローガンを発信している。それがなくても家で1人、好きなことをしてればいいのでは?って気がする。
でも、週に20時間は働かなければならない法律があるから、疑問はあるが生きるためにそれに従っている。なんとも、その法律がなかったら、国民が怠けてしまうと国は考えているらしい。そうなると、税金の収集が困難になる。なるほど、納税のために働いているのか。
こんなことを、自動運転車の助手席(ステアリングがないので、厳密には「助手席」という概念すらないが)に座りながら、ぼーっと考えている。楽しい。この程度で満足できる僕は得をしているのかもしれない。
大学に着いた。
キャンパスを見回すと、学生たちがぺちゃぺちゃおしゃべりしながらキャンパスを横断している。学生たちは大学に来て楽しいのだろうか。彼らも個々がしたいことをするのではなく、ただ惰性で来ているように見える。じゃなかったら、大学がただのお喋り用の溜まり場になるはずがない。
今は18時、帰路に着く。
今日も、「仕事」という名の学生たちとのお喋りを熟し、午後には出版しても誰も読まないであろう研究を進めて帰ってきた。講義が消滅し、事務作業もほとんどないのに、帰宅時間はここ50年あまり変わっていない。おかしくないか?誰かが無理やり需要を生み出し、雇用を維持しているとしか思えない。
車から降りると、家の屋根の上で、政府至急のヒューマノイド・ロボットが屋根の手入れをしていた。このロボットは国が持っているロボットで、壊れかけているインフラ整備の仕事をしている。ありがたい限りだ。あんな危なっかしい高さは人間には適さない。でも、これはたった半世紀前の人々は自分の手でやっていたそうだ。当時の人々は命が惜しくなかったのかと疑問を覚える。
このロボットの開発元はたしか海外にヘッドクォーターを置いているはず。国は国産企業を採用したいだろうが、耐えきれなくなったインフラ修理のために政府は取り入れているそうだ。だけど、国家間の権力バランスは大丈夫なのか?と心配になる。国が一つに他国に生活を依存し過ぎていないか。これじゃあ、モノカルチャーじゃなくて、モノテクノロジーではないか。ジャガイモじゃなくて、ロボット飢饉が起こるんじゃないか。官僚たちはその可能性を考えた上で、ロボットの導入を決定したのだろうか。まぁ、そんな事考えても一大学教授にできることはない。一旦、棚に上げて日常を生きよう。
いつもこんな感じだ。日々、疑問に思うことはあっても、それは僕には変えられない。一昔前なら、誰かと協力して、変化を生み出すこともできたかもしれない。いわゆるスタートアップだ。でも、今は人と人との摩擦を減らすための社会は動いているように見える。だから、そんな企業が生まれづらくなっているのかもしれない。これは、有権者の実行力、ひいては権力を削ぐことが目的の政策ではないか?という、一種の陰謀論チックな思想に至ったが、これ以上考えると悲しくなるのでもうやめておく。国家万歳!、とでも言っておくか。
はぁ、今日は何を作ろうか。ウォールディスプレイに写っている料理リストには、どこの国かも分からない料理が1万件以上も集められている。これは、このリストの料理を作って食べるだけで、人生の楽しみは持つという考えからできたリストだ。たしかに、時間の消費には打って付けかもしれない。現に、ユーザー数は67億人いるそうだ。Thank you, time eater!
運営会社は世界中の人々が家に設置している、スマートカメラからデータを集めレシピを収集したそうだ。そこそこ儲かってるらしい。
そのリストの中から発音もよくわからない料理を選んだ。1時間ほどかけてじっくりと作り、食べる。おいしい。
僕がそれを「選んだ」という感覚は幻想なのかもしれない。でも、作って、食べたということは紛れもない事実である。そしてそれはおいしくて、人生が豊かになった気分にさせられる。これなのか?技術的にはヴァーチャルの世界で生きれるのにも関わらず、その感覚に未練があるから未だに身体を捨てれず、不自由な物理世界に生きているのかもしれない、僕たちは。
とりあえず、総じて今日は良い1日だったと思う。朝食を食べ、学生たちと戯れ、午後には研究ごっこをし、夜ご飯を作って、食べた。
さて、寝よう。そう思うと、家の電気は自動で消灯した。僕は真っ暗な家の中、ベッドに向かう。
「おやすみ」あれ、この「おやすみ」は誰に言ってるんだろう。まぁ、誰でも良い。というか家には誰もいない。僕一人のはずだ。でも、誰もいなくてもなんとなく言ってしまう。まぁいいや、おやすみなさい、僕。