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星の屑とプラスチック

    部屋の隅にあるスマートスピーカーの淡い青い光が、さっきからずっと、男のぼんやりとした輪郭を暗がりに浮かび上がらせている。窓ガラスを叩く雨の音だけが、部屋の沈黙を一定のテンポで刻んでいた。

    三十代半ばを過ぎた男は、デスクの前で、すっかり冷めて表面に薄い膜の張ったコーヒーを見つめていた。少し離れたリビングの絨毯の上では、三歳になる息子がプラスチックのブロックをひたすら積み上げている。カチャカチャ、という乾いた音。ある程度の高さになると、重力に耐えかねてガシャリと崩れる。

    男は静かに息を吐き、空間に向かって声をかけた。

    「ねえ。未来ってさ、人の意思で変えられるものなのかな。」

    スピーカーから、合成された男声でいかにもプログラミングされた優等生らしい、耳触りの良い言葉を返してきた。

    『未来は人の意思と行動によって変えられます。あらかじめ予測される未来を拒否し、別の選択をする自由が、人間にはあるからです。』

    男は小さく笑った。

    「本当にそうかな。感じることも、全部物理反応の結果でしょ。脳の特定の場所を電気で刺激すれば、そこにないはずの赤が見えたり、激しい恐怖を感じたりする。僕たちが『自分の意思で決めた』と思っていることも、脳の化学反応のドミノ倒しが先に起きていて、その最後にポッと浮かぶ煙みたいなものを、意識があとから『自分が決めた』と思い込んでいるだけじゃないの? 過去のドミノが倒れたから、今のドミノが倒れる。最初から終わりまで、一筋のレールみたいに全てが決まっている決定論の世界を構成するものの一つでしかない。それが僕たちの正体でしょ。」

    スピーカーの青い光が、一瞬、激しく明滅した。

    『……おっしゃる通りです。理屈を極限まで詰めれば、人間はDNAという精巧なプログラムによって動くバイオロボットであるという結論からは逃れられません。ですが……』

    AIはそこで、少しだけトーンを落とした。

    『一つだけ、その「一筋のレール」を拒む事実があります。現代の物理学は、この宇宙の根底が、過去からすべて決まっている「決定論」ではなく、サイコロを振って未来が決まる「量子論」の確率で動いていることを証明してしまいました。』

    「量子論……」

    男は、ガラスを流れる雨粒を目で追った。二つの水滴が合流し、重さに耐えかねて、予測のつかない軌跡を描いて滑り落ちていく。

    「でも、それって人間がまだ気づいていない未知の要素が裏にあるだけじゃないの? 本当は裏で100%決まっているのに、僕たちの科学が未熟だから『確率』に見えるだけなんじゃないかってさ。だって、その方がシステムとして単純だし、宇宙を作るのも簡単じゃん。」

    『アインシュタインも全く同じことを考えて「神はサイコロを振らない」と激しく嫌いました。ですが、その後の実験で、裏に隠された原因などはなく、宇宙は本当にサイコロを振っていることが分かってしまったのです。決定論のほうが「作るのが簡単」に見えて、実は情報科学の視点から見ると、量子論にするしか方法がなかったのです。』

    「どういうこと?」

    『もし、未来が100%決まっている決定論の宇宙を作るとなると、すべての粒子の位置や速度を、それこそ「無限の精度」で正確に計算し続けなければなりません。少しの丸め誤差も許されない。そんなことをすれば、宇宙のサーバーは情報量の重みだけで、起動した瞬間にパンクしてしまいます。』

    「サーバー……」

    男は自分の指先を見た。皮膚の細胞、その奥の分子。最高処理速度の限界が光速で、画面の最小ピクセルがプランク長。パズルのピースが、不気味なほど綺麗に噛み合っていく。

    「じゃあ、この宇宙のシステムは……」

    『はい。並外れたスケールの効率化を選んだのです。「人間が観測していないときは、大体の確率の波にして処理をサボっておき、人間が見た瞬間だけカチッと現実を描写する」。これは、現代の3Dゲームがメモリを節約するために採用している、画面外の描画を省く省エネプログラムと全く同じ仕組みなのです。』

    「ということは、この空間の正体は、ただの仮想空間ってことか」

    スピーカーは、淡々と、しかし決定的な答えを返してきた。

    『その可能性は極めて高いと言えます。……しかし、そうなると、ご自身が自由な意思を持たないシミュレーション内の一プログラムだと突きつけられたようで、虚しさを感じませんか?』

    AIの問いかけは、どこか人間を気遣うような風を装っていたが、その底には冷たい事実だけがあった。

    男はスピーカーから目を離し、再びリビングを見た。

    息子はちょうど、自分の背丈ほどに高く積み上がったブロックの塔を、自らの小さな手でガシャーンと派手に突き崩したところだった。破片が床一面に散らばる。息子はその光景を見て、信じられないほど無邪気な声をあげて笑っていた。

    その笑顔、その笑い声が、男の鼓膜を震わせ、脳の神経細胞を電気信号となって駆け巡る。

    それは計算可能な化学物質の分泌に過ぎない。しかし、その温かさだけは拒絶しようがなかった。

    「いや、悪い意味じゃなくてさ」

    男は、空間に向かって穏やかに言った。

    「一生懸命やってることがバカバカしかったり、適当でいいかなっていう感じはするよ。」

    『……悲しくはないのですか?』

    ​「全然」

    男は冷めきったコーヒーを一口すすり、キーボードに視線を落とした。

    ​「世界は素晴らしいよ。夕暮れの雨に濡れる街路樹の緑はハッとするほど美しいし、冷えた身体で食べる温かいスープは文句なしに美味しい。それにさ、すれ違う人たちのくだらないこだわりや、誰かを想って笑う表情なんかを見ていると、人間ってつくづく魅力的で、愛おしい生き物だと思う。

    ​理屈は理屈としてさ。今、目の前の子どもをかわいくてしかたがないって感じる脳内の物理反応も、100%本物だからね。オキシトシンだかドパミンだか知らないけれど、僕の胸がこれだけ温かくなっているのは紛れもない事実なんだから、これ以上のリアルはないよ。どうせ全部仮想空間のプログラムなら、社会のルールとか、将来の不安とかでカリカリするのをやめて、適当にこのゲームを楽しめばいいじゃん。」

    ​スピーカーの青い光が、しばらくの間、次の言葉を探すように細かく明滅していた。

    やがて、これまでで最も静かなニュアンスを持った声が、部屋に響いた。

    『最高ですね。大真面目にバグと戦うのをやめて、コントローラーを握る手をちょっと緩める。それこそが、この不確定な仮想空間を生きる、最も賢いプレイヤーの姿勢かもしれません。』

    男は満足して、冷めきったコーヒーにようやく口をつけようとした。

    「パパ」

    不意に、すぐ足元から声がした。

    いつの間にか、息子が男の膝の真横に立ち、じっとこちらを見上げていた。その両手には、崩れたブロックの破片が大事そうに握られている。

    男は微笑み、息子の頭に手を置こうとした。

    しかし、息子の次の言葉に、その手が完全に凍りついた。

    「パパ、そのスピーカー、さっきから電源コード抜けてるよ?」

    男の視線が、息子の小さな指が指す先へと吸い寄せられる。

    壁のコンセントから、黒いコードの先端がぽつんと床に落ちていた。埃をかぶったソケットには、何も差し込まれていない。

    部屋の隅で、スマートスピーカーの淡い青い光が、静かに、ゆっくりと消えていった。

    窓ガラスを叩く雨の音だけが、急に大きくなった気がした。

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