
投稿しない前提で、書くようになった。
「note」に投稿しなくてもいい。
それを前提にして書くことが増えた。
パソコンや携帯のメモをひらき、「とりあえず…」と打ち始める。
今までは、「明日投稿する記事を書こう」という気持ちが前提にあった。
「毎日投稿」を意識していた頃から、徐々に自分のペースをつかんで、書きたいときにだけ書くようになってからも、パソコンをひらくときは、いつも「明日の記事をつくる」のが目的だった。
だけど、最近はちがう。
「とりあえず、書きたいことを書いてみるか」
そうやって打ち始めるいちばん始めの文字は、軽やかで正直だ。
投稿する記事を書くときは、はじめの一文にすごく気を遣う。
読みだした一発目の文章で、引き込みたい。
続きも読んでもらえるような書き出しにしたい。
そう考えると、どうしても「本音」より「建前」が前に出てくる。
だけど、投稿しない前提のメモはどうだ。
何にも考えてない。
改行も、句読点も、読みやすさも、何にも考えずに、ひたすらキーボードを叩く。
頭の中で絡まった思考、心の中にたまったぐちゃぐちゃの感情を「言語化」していくのは、何と爽快なことだろうか。
その行為自体が、ストレス発散になっている。
たとえ、それらが「note」の記事に、いっさいつながらなくても。
「書く」という行為の本来の意義は、こういうことなんじゃないだろうか。
自分だけのために、書く。
たとえば、日記とかは、まさにそうだ。
そのあとに、SNSへの投稿があったり、他者に読まれたとか、読まれないとか、そういう話がついてくるのであって。
…でも、読まれもしないものを、ひたすら書くって辛いか。
きっかけはSNSがくれたりする。
わたしだって、「note」というすてきな場所があったから、書き続けてきた。
それでも最後には、自分のために書ける。
それが、「書く」の価値なのだろうか。
少なくとも、今のわたしは、そんな感じだ。
「note」を2年やってきて、見えてきた景色ともいえる。
◇
投稿しない前提で書くことが増えたのは、最近評価に目が行きがちだからでもある。
少し前、「note」は創作大賞で盛り上がっていた。
わたしはそのあたりにまったくかかわっていないので、「何かすごいお祭りがあったらしく、そこでたくさんの人が活躍されたらしい」というくらいしか分かっていない。
ただしばらくの間、その盛り上がりとともに、「落ちました」とか「選ばれました」とか「すごい」とか「すごくない」とか、そういう言葉をたくさん見かけた。
それがやっぱり、どうしても目にとまって。
気づけば、「評価」に意識が向くようになってしまったのである。
具体的にいうと、自分や他人の「スキ」や「フォロワー数」が、気になり始めたのだ。
ここ最近、まったく気にしていなかったのに。
もちろん、「創作大賞」のせいではない。
プライベートや仕事が忙しくて、そういうことに意識が向くような自分になってしまっているだけかもしれない。
原因はなんであれ、そうなるとやはり感じてしまう。
「評価」を気にして書くと、つまらない。
読まれたか、読まれていないか。
スキがついたか、ついていないか。
よく読まれている人の記事の「スキ」の数は、2桁か、3桁か。
フォロワー数が多い人は、どのくらい記事に「スキ」がつくのか。
そういうのを気にして「note」を眺めると、心がぎゅーっと縮こまっていくのが分かる。
「気にしていない」を「気にする」が追い越す。
自分への「評価」が気になり始める。
過去の記事を読んで、伸びているやつと伸びていないやつを比べたり、他人の記事を読んで「評価」をくだしたくなったりする。
楽しくない。
ぜんぜん楽しくないのだ。
投稿するということには、どうしても読み手の評価が介入する。
わたしの性格では、それを「なかったこと」にはできない。
それなら、いっそ「投稿する」から離れたらいい。
評価にさらされるのがこわい日もある。
だけど、それでも書きたいとき。
自分だけのために、パソコンをひらいて書けばいいのだ。
無意味な行為に思えるが、そんなことはない。
それは、自分のために書いたひとにしか、分からない。
書く前と、書いたあとでは、心の重さがまったくちがうのだ。
そんなわけで、投稿していない日も、書いたり書かなかったりして過ごしている。
投稿したくて書いても、うまくまとめられなくてできないこともあれば、投稿しない前提で書いたのに、案外いい感じの記事になるときもある。
書いてみないと、分からないものだ。
この記事は、投稿するつもりで書いた。
でも、それがどう評価されるのかは、考えていない。
自分が書きたいものを、書きたいように書く。
それが今は、いちばん楽しい。