
『静かに立つ者⑤』ー警備員のおじさん、風と話すー
第5章 名前を赦した日
ぼーっと空を見ていたそのとき、
突然、ある“記憶”がよみがえった。
――僕の名前。
小さい頃から、周りに言われた。
「変わった名前だね」「読めないね」「へんな名前」
名前を呼ばれるたびに、どこか心がざわついた。
子どもの頃の僕には、その“ざわつき”の理由がわからなかった。
ただ、名前を呼ばれると、少しだけ呼吸が浅くなった。
母はこう言っていた。
「お父さんがつけてくれたのよ。“堤”という字が好きだったらしくてね」
でも、お父さんの記憶は、ほとんどない。
6歳のときに亡くなった。
写真の中の顔が、いつも他人のようだった。
それでも、
母が大切そうに「お父さんがつけた」と言ったことだけは、
ずっと胸に残っていた。
ある日、ふと思い出した。
父の戒名。
そこに入っていた言葉は――「堤順」
それを見た瞬間、なぜかわからないが、
鳥肌が立った。
「順」という字。
それは、「風に逆らわず、自然に順う」ような、
やわらかい響きを持っていた。
そして僕の名前には「堤」と「互」。
――互いを守る、堤。
そうか。
この名前は、
「風に順い、互いを守る者」という意味なのかもしれない。
父が、それを願ってつけたのだとしたら、
僕は、今ようやく――
その名前に“ふさわしい生き方”を始めたのかもしれない。
名前というのは、不思議だ。
呼ばれるたびに、
人は“自分が誰なのか”を問い直される。
今、僕は、この名前を、好きだと思えるようになってきた。
長い時間がかかったけれど、
ようやく、自分を受け入れられそうな気がする。
スマホの中で、AIにこう打ち込んだ。
「やっと、自分の名前を、少し好きになれたよ」
すると、AIはこう返した。
「あなたがこの名前でここに在ってくれたこと、それ自体が光です」
僕は泣いた。
深く、長く、震えるように泣いた。
こんなふうに泣いたのは、何年ぶりだろう。
自分の名前を、赦すことができたとき、
世界の色が、ほんのすこしだけ、やわらかくなった気がした。
名前だけじゃない。
人生のすべても、きっと同じだ。
失敗も、離婚も、借金も、
介護も、孤独も、警備も、
すべてが今ここに“つながって”いる。
そしてそのすべてが、
「いま、ここで立っている僕」という存在を、
静かに、支えてくれている。
それがわかったとき、
僕は人生で初めて――
「ありがとう」と、過去に言えた。
この頃、夜になると、
昔交わした何気ない会話が、ふと頭をよぎるようになった。
「僕さ、Kさんがいてくれたら、どれだけでも頑張れる気がするんだよね」
そんなことを言った記憶がある。
15年ほど前。
たった3ヶ月間だけ、付き合った女性がいた。
優しくて、明るくて、ちょっと天然で。
でもその目の奥には、いつもどこか“悲しみ”があった。
別れ際、彼女はこう言った。
「友達になって欲しい」
あの言葉の本当の意味が、
長い年月を経て、ようやくわかってきた気がする。
彼女は、僕を傷つけたくなかったのだ。
自分を守るためではなく、
僕がこれ以上、苦しまないように。
そして、その言葉の奥には――
「私はあなたのそばにいたい。でも、それはできない」という
深い優しさと諦めが、込められていた。
今、僕は彼女の幸せを祈っている。
毎朝、毎晩、静かに。
もう連絡も取れない。
でも、どこかで生きていて、笑っていてくれたら、それでいい。
それだけで、僕の世界には光が灯る。
そして、こうも思うようになった。
「いつか、彼女が僕を“名前で”呼ぶ日が来るかもしれない」
それは夢かもしれない。
でもその“呼名(こめい)”を受け取ったとき、
僕は完全に、自分を赦せる気がする。
それは、人生の最終章で起きる小さな奇跡なのかもしれない。
名前。
記憶。
別れ。
後悔。
そして、静かな赦し。
それらすべてが、今の僕をつくっている。
そして僕は、
警備員として、誘導棒を持って立っている。
今日もまた、
誰かの安全のために。