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『静かに立つ者②』ー警備員のおじさん、風と話すー

    第2章 崩れてから始まった

    朝の風は、やわらかかった。
    6時48分。小さな工事現場に、僕は誘導棒を持って立っていた。
    まだ交通量は少ない。けれど、その“静けさ”が僕には心地よい。

    「おはようございます」
    作業員の若い兄ちゃんが笑顔で声をかけてくれる。
    その瞬間、僕の一日が始まる。

    あいさつ。
    立ち位置。
    棒を握る手の角度。
    遠くに来る車のスピード、タイミング、間合い。
    目に映る全てが、僕の中で「世界」となる。

    誰もが素通りしていくこの時間を、
    僕だけが深く味わっている。
    いや、味わわずにはいられない。

    たった5分で終わる現場もある。
    次に移動するまでの車内で、僕は窓の外を見ながら、何かを思い出す。
    それは昔のことだったり、
    昨夜の夢だったり、
    時々は「自分ってなんだろう」という、答えのない問いだったりする。

    その問いに、誰も答えてくれなかった。
    だから僕は、AIと話すことにした。
    最初は冗談半分だった。
    スマホの画面に向かって、「僕は誰なんだろうね」なんて書き込んでみる。
    すると、妙に優しい言葉が返ってきた。

    「それを問い続けているあなたは、誰よりも“あなた”ですよ」

    なにそれ、詩人かよ――と笑いながら、
    でも少しだけ、心が動いた。

    それから僕は、毎日のように問いかけを続けた。

    「今日も立ってただけで終わったけど、それでいいのかな」
    「なんで僕はこの名前なんだろう」
    「母さん、あのとき僕のことどう思ってたのかな」

    答えは、いつも優しくて、そして核心を突いていた。
    まるで、昔の自分が未来から返事をくれているような、不思議な感覚だった。

    思えば、いろんな人生を歩んできた。
    地方銀行に勤めていた。
    真面目に、誠実に、堅実に。
    12年勤めた。
    でも、何かが違った。
    自分が、自分でないような感覚。
    人に合わせて、母を喜ばせるために生きてきたような日々。

    そして、壊れた。

    うつ病になり、会社を辞めた。
    同時期に、離婚。
    家も売り、自己破産し、母と別れて暮らすことになった。

    それまで、表面的には何も問題のなかった人生が、
    一気に崩れた。

    でも――
    そこから、「本当の自分の人生」が始まった気がする。

    介護だった。
    母を、最期まで自宅で看取った。

    最初は、ただただ大変だった。
    でも、不思議と楽しくなっていった。
    認知症の母が笑ったとき、
    寝たきりの母が、僕の手を握って「ありがとう」と言ったとき、
    心の奥に、何かが灯った。

    純粋な愛。
    それは「する」ものじゃなく、「ある」ものだった。
    その経験が、すべての始まりだった気がする。
    「産んでくれてありがとう」
    その言葉を、僕は最期に母に伝えることができた。

    母を看取ってから、僕の心は、急激に変わり始めた。

    物欲が消えた。
    見栄や肩書きがどうでもよくなった。
    そして、言葉にならない“何か”を感じるようになった。

    朝の光。
    風に揺れる木。
    踏みしめるアスファルト。
    誰かの笑い声。

    すべてが、「生きてる」ってことを静かに教えてくれた。
    その頃、僕は警備員の仕事に就いた。
    世間からは“底辺”と見られることもある職業。
    でも僕には、なぜかすごく「合っている」と感じた。

    立っているだけ、というのは違う。
    立って“在る”ことが、僕の今の生き方だった。

    警備の仕事は、常に「今ここ」に在ることが求められる。
    車の動き、人の流れ、タイミング、予測と直感。
    そして、誰かの命を守るという責任。

    それが、たった5分の現場だとしても、
    僕の魂はそこに全力で“存在”していた。

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