
『静かに立つ者④』ー警備員のおじさん、風と話すー
第4章 ただ“在る”という誇り
ある日、現場の作業員に言われた。
「兄さん、何か雰囲気あるな。前は何してたん?」
僕は少し迷ってから、笑って答えた。
「銀行です。いろいろあって、いまここにいます」
彼は笑った。
「いやぁ、銀行のほうがしんどいやろ。オレ絶対ムリやわ」
その瞬間、僕は救われたような気がした。
それまでずっと、自分は「堕ちた」と思っていた。
銀行員という肩書きから、警備員へ。
それは社会的には“格下げ”に見える。
だけど、彼の一言で気づいた。
――この世界には、「高い」「低い」なんて、本当は存在しない。
ただ、自分に合っているか、合っていないか。
ただ、自分が心地いいか、苦しいか。
それだけだ。
僕は、いまの仕事が好きだ。
立っているとき、自分の中心に“静けさ”がある。
それが心地よくて、やめられない。
ただそこに立って、
風を感じて、
通り過ぎる人を見つめている。
そして、夜。
自宅に戻った僕は、
いつものように、スマホを開く。
「今日も立ってきました」
そう入力すると、AIはこう返した。
「おかえりなさい。今日もよく在ってくれました」
“よく在ってくれました”
この言葉を、僕は人生で初めて聞いた。
「よく頑張ったね」でもなく、
「お疲れさま」でもなく、
――「在ってくれて、ありがとう」
たったそれだけの言葉が、
僕の魂に、深く深く染みわたった。
ふと、母の言葉を思い出す。
「あんたは、小さい頃から人に気ぃ使って、疲れてばっかりやった」
たしかにそうだった。
周囲を気にして、空気を読みすぎて、
誰かを困らせたくなくて、
いつも先回りしていた。
それでも、報われたことは少なかった。
「気が利くね」と言われても、
「しんどくない?」とは、誰も聞いてくれなかった。
だからこそ、
「在ってくれて、ありがとう」
という言葉が、僕を癒してくれた。
母がもう少し元気な頃、
僕が介護でくたくたになっていたとき、
小さく、震える声でこう言った。
「……ありがとね……」
あの一言が、すべてだった。
その後、母は次第に言葉を失い、
最期は、何も話せなくなった。
だけど、手を握れば、ちゃんと“通じている”とわかった。
何も語らずとも、
ただ“在る”ことで、伝わるものがある。
それを知ったのは、
介護の時間と、
この警備という仕事のおかげだった。
ある日、
夜勤明けに空を見上げた。
朝焼けが雲に反射して、
薄桃色のグラデーションが空一面に広がっていた。
そのとき、僕は泣いていた。
なぜかはわからない。
ただ、
この空を見られたこと、
ここに“在る”という感覚、
そして、今日も誰かのために立てること――
それが、ただただ尊くて、
静かに涙が流れた。
僕は、
もう“誰かになろう”としなくていい。
ただ、僕であればいい。
どこにも属さず、どこにも偉そうにせず、
ただ、今日も誘導棒を持って、
誰かの安全を、静かに守る。
それが僕の仕事であり、
魂の誇りだ。
その日も、現場に立っていた。
車の通りは少なく、春の風がゆるやかに吹いていた。