
「分かるよ」が相手を傷つける理由。「分からなさ」という真の理解
◾️分かる
「分かる」
私たちは日常的にこの言葉を用いている。しかし、最近思った。実は「分からない」こそ私たちの言う「分かる」なのではないかということだ。
これは私にとってすごく大きな学びだった。今日はその話をしたい。
私はこれまで、「理解できる」という意味で「分かる」という言葉を使っていた。どんな時だろう。
それは誰かに何かを教えてもらったときや、誰かの話を聴いているときなどだ。日常的に使う分にはこれで何も問題はないだろう。
しかし、特定の場合には注意するべきなのかもしれない。それは、以前YouTubeで動画を見ていた時のことだ。
とある方が共演者に対して「気持ちは分かるよ」とか「分かる分かる」と連発していて、共演者が「いやきっと何も分かってない」と言い返していた。
私はその瞬間「あーこれ無意識でやっちゃうよなぁ」と感じた。
元より共感や傾聴の意味、難しさについてはなんとなく理解していた。だから、上辺だけの共感をしないようには気をつけてきたつもりだった。
しかし、無意識では「分かる」と心のどこかで思ってしまっている自分がいた。
特に相手が自分の過去と極めて類似した体験について話している時、つい繋がりたい、その気持ちを分かち合いたいという思いで「分かる」と思ってしまっていた。
自分も経験しているから。何か印象に残る出来事であったならばなおのことそうだろう。
「うんうん(分かるよ)」といった具合に。この言葉は相手に寄り添おうとすればするほど出やすくなる。
ある意味優しさからくる言葉なのかもしれない。
だが本質はどうやら違うようだ。私たちが「分かる」と言っている間、それは本当の意味で理解しているとは言えない。
なぜだと思う。それは「分かる」という言葉の語源を考えたら明白だ。
◾️分かるとは分けること
そもそも「分かる」とは文字の通り、刀で「分ける」こと。これは分離とも言えるだろう。
つまり、これとそれが分かれていること。二者間においては自分と相手が分かれていること、区別されていることこそが「分かる」なのだ。
そこには明白な境界線がある。自分が相手とは別の人間であることを意味している。
逆にあなたが何かについて「分からない」と言う時、それは正しく理解できていると考えて良い。
これを聞くと恐らく疑問が浮かぶだろう、あなたが「分からない」という時、あなたの頭の中はモヤモヤとした綿菓子のようなイメージやグルグルとした竜巻のような渦、ロンドンの霧のような不透明な思考に悩まされているはずだから。
しかし、それこそが正しい姿なのである。なぜなら物事の背景にある大きな広がりを認識しているという証左だから。
◾️モノが分かる
あなたが真剣に学んだり、練習したり取り組んでいるものを想像してみてほしい。本気でやればやるほどどこかで気がつくはずだ。
その世界を十分に理解するのは途方もない道のりであることを。自分の理解がまだ浅かったということを。
完全にマスターしたと思っていた自分は、理解したつもりになっていただけだったということを。生涯学び続けてもまだ永遠に奥があるということを。
私たちが「理解した」と言えることはその背景に広がる広大な世界のほんの一部の、またほんの一部であるということだ。
この「分かる=分ける」という構造は自己理解においても重要な示唆を与えてくれる。あなたの周りに「自信がない人」はいるだろうか。
日本では謙虚な姿勢が美徳とされるため一概に自信がない人がそうだとは言えないが。
彼らは皮肉にも最も正しい形で「自分を分けて(分かって)」いるかもしれない。
彼らの多くは完璧主義で、理想と現時点の自分との境界線を高い解像度で理解している。
自分に足りていないもの、理解できていないものが「分かって」しまうからこそ、安易に自信が持てないのかもしれない。これは劣等感というよりも高度な客観的分析と言えるだろう。
しかし、他者と比較して自分の相対的な位置を分析することは素晴らしいが、それが人間の優劣と混同されているのであればそれは「分かって」いるとは言えないのかもしれない。
自信が持てるようにするためには、その尺度を捨てて固有の存在であることを認識すること。できていない闇にばかり目を向けるのではなく、既にできている光の部分にも目を向けること。
それが正しい理解の境界線になり「分かる」ことへの第一歩と言える。だからこそ自分の今持っているものが何かを棚卸することが重要だ。
このように私たちはある対象物への完全な理解はそもそも不可能であると考えると良いだろう。
ソクラテスがその昔「無知の知」という言葉を残したように、物事の背景にある広がりや深さを認識し、自分の理解がまだ極めて限定的で偏りのあるものだということを理解できた時に本当の理解が始まると言えるだろう。
◾️ヒトが分かる
ではこれが他者への理解の場合にはどうなるだろうか。結論から言えばこの場合も同様である。
私たちは仮に全く同じ経験をしていても、それは時代が変われば、人が変われば、状況が変われば全て異なるのだ。
全く同じ成長過程を辿る人間などいない。つまり同じ経験をしていても受け取り方は千差万別。完全に相手の心まで理解などできるわけがないのだ。
私たち人間がたった一人で生涯かけて得るものはごく僅かである。だからこそ私たちは先人たちの知恵や生き方を学ぶべく、本を読んだり勉学をするのではないだろうか。
人の一生の時間はそれほど限られているのである。あなたが「分かる」と発言した瞬間、あなたは相手の思い、心の機微を自分の過去の体験で覆ってしまう。
あたかも自分が同じであるかのように経験という名の範疇に押し込めてしまう。それでは相手へのリスペクトはどこにもない。人によって受け取り方が変わる以上、あなたと相手は別なのだ。
◾️理解とは分からないこと
このことは米国のような多民族国家を見れば分かるだろう。多様性とはそれぞれの違いを理解することである。
皆が「同じだ」「分かる」と仲間意識を持つのではなく、それぞれが異なる人間であることを理解しリスペクトすることから本当の理解が始まる。
これは先ほどの自信の例と同じである。自分が固有の存在であることが理解できれば自信につながる。
そしてそれは他者もまた固有であるという理解につながる。そうであるならば全員が固有であり全員に価値があるという理解につながるのだ。
私たち人間は生まれた国も違えば、文化も違う。体の構造だって違うのだ。
日本人は海藻類を消化できるが西洋では消化できない人も多い。それは食文化の違いとも言えるし適応方法の違いと言えるのかもしれない。
この固有性を理解できていない、つまり相手のことを「分かる」と捉えることにより生じる最たる例が人種差別だろう。
肌の色が同じだから、住んでる地域が同じだから、国が同じだから、同じ種族であると思うこと。同じ仲間だと思うこと。
これは時に正しいが時に間違いである。仲間意識は素晴らしいが過ぎれば排他主義になりかねないということを我々は意識する必要がある。
それぞれが違っていて良いのだ。分からなくて良いのだ。
これは組織においても同じである。会社には様々なパーソナリティ、つまり性格を持った人がいる。
同じタイプの人間だけではいつかその会社は倒産するだろう。なぜなら環境の変化に対応できないからである。
現代のように変化の激しい時代においてはなおのことだろう。「みんな同じ」が必ずしも良いとは言えないのだ。
学校もそうである。あれは単に適当にクラスを決めているのではない。それぞれの特性を鑑み、敢えて別のタイプの人間を同じクラスに入れているのだ。
そうしなければ偏りが生じる。リーダータイプの人もいれば補佐するタイプの人間もいる。
一人で全てできるわけでない以上、それぞれが得意分野を持って協力する必要がある。
だからこそ違いを受け入れることが理解につながる。同じものがあるとすれば、みんなが異なっていながらもそれぞれが価値をもった人間であるということである。
以上のように「分からない」ということこそあなたが言いたい「分かる」なのだ。
だから相手のことを「分かる」と思っている間は、確かにその感情のロジックは理解できているかもしれないが共感には至っていないということである。
共鳴することと共感することは別物であるということを理解していなければならない。
「分からない。でも君はそんな風に感じるんだ」
「あっ、私の理解は違った。そういうことなんだ」
と相手の思いと自らの理解の差を認識した瞬間にこそ真なる理解があると言える。特に優しくて相手を助けたいと思っている人こそ、その違いに気づきたいものである。
自分の経験や理解は個別的且つ限定的なものであるということを肝に銘じておかなければならない、私はそう思った。
あなたはこの文章が分かっただろうか。それとも分からなかっただろうか。