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近づきたいのに逃げたくなる「恐れ・回避型」の愛着スタイルがもたらすアクセルとブレーキの心理

    ◾️承認欲求の底にある「矛盾」

    「他人から認められたい」それは誰しもが思う感情だろう。

    私たちが集団で生活する動物である以上、それは避けられないのかもしれない。

    あなたはその「認められたい」という承認欲求がどれほどあるのだろうか。きっと人それぞれだろう。

    家族や愛する人、仲の良い人にだけ認めてもらえればそれで十分だという人もいれば、不特定多数の人から認められたいという人もいるかもしれない。

    学生時代の私は圧倒的に後者だった。ある意味、これは平等な競争社会の産物と言えるのだろうか。

    昔は生まれた瞬間から身分や生活する場所、仕事、結婚相手がある程度決まっていただろうから、そこまで多くの人から承認を得たいなどという発想自体そもそもなかったのだろうと思う。

    幸か不幸か、今はより大きな承認を求める時代なのかもしれない。

     ここで大事なのは、承認欲求はある程度は必要だということ。

    それは会社員であれば業績に繋がるだろうし、学生ならばそれが学力に結びついたりスポーツで賞を勝ち取ったりすることにも繋がるだろうから。

     問題はそれが度を越していたり、適切な方法で承認欲求を満たせていない場合だ。

    私は実際、そういう人が多いのではないかと思う。幼少期に正しく愛着を築けなかった人だっているはずだ。

    私の場合には【葛藤を抱きやすい】という特徴があった。それは生活の中で度々現れては心を惑わせる厄介な敵だ。

    その敵が無意識レベルで攻撃してくる。「認められたい」という思いと「認められるわけがない」という思いが同時に襲ってくるのだ。

    「この人なら分かってくれるかも」と思いながら「絶対分かるわけない」と確信している自分がいる。

    「もっと仲良くなりたい」という思いと「自分の内面は絶対に見せたくない」「これ以上近づきたくない」という思いがある。あなたはあるかな。

     私がこの葛藤について言語化できるようになったのはつい最近のこと。それまでは自分がそんな相反する感情を抱いているとは夢にも思わなかった。

    ただ傷つきやすく、すぐにシャッターを閉じようとする性格なのだと思っていた。

    だからこそ言葉にできないモヤモヤがずっとあった。昔の上司にも「一喜一憂するな」「考えるな」とよく言われていた。

    確かに一理ある。「そうできれば楽なのに」と何度思ったことだろう。でも無理だった。

    それもそのはずだ。人と繋がりたいという思いがありながら、拒絶しようとしている自分が同時にいるのだから。ただ承認だけを求めているわけではなかった。

    ◾️二面性への引力

     最近、とあるドラマを見た。それは『高校教師』といって、1993年に放送された真田広之さんと桜井幸子さん主演のドラマだ。

    森田童子さんの『ぼくたちの失敗』という曲が使われ印象に残っている人もいるかもしれない。

    私は学生時代に再放送を見たことがあり、強烈な印象があったから久しぶりに見ることにした。

    その時、ふと思った。「なぜ自分はここまで主人公の二宮繭に惹かれるのだろう」と。

    あのドラマを知っている人なら、彼女に惹かれるというのは危ういと思う人もいるかもしれない。でも凄く共鳴することができたのだ。

    そう思ったとき「何かあるのかなぁ」とぼんやり考えた。すると「彼女とどこか似ているところがあるかもしれない」と気づいた。

    自分が過去に好意を抱いた人や仲良くなった友達、好きな芸術作品などには共通点があって、彼女の内面もそれと似ているということに気づいた。

    共通点は、例を挙げると

    「元気なようで影がある」
    「満面の笑顔の中に触れてはならない寂しさがある」
    「華やかな絵の中に孤独がある」

    などなど。二面性を持っているものに惹かれる傾向があったのだ。

    これは世間一般でいうギャップ萌えとは違って、明らかに自分の何かと共鳴しているような感覚だ。

     私がこの気づきを得たとき「もしかしたら自分は偏った愛着スタイルを持っているのかもしれない」と思い、色々調べてみた。

    するとどうやら「恐れ・回避型」というものに自分の傾向がピッタリ当てはまっていることが分かった。

    「あぁこれだったのか」と深く安堵した。別に診断されたわけでもないが、ほぼ間違いないだろう。

    それはまるで誤解されていた病に名称がつき世間で広く認知されたかのような心地だった。それぐらい安心したのだった。

    自分が庇護の対象である喜びではなくて、霧が晴れたような感じと言えば伝わるだろうか。

    元々愛着理論などの存在は確かに知っていた。でも自分が当てはまっているとは思わなかった。

    常日頃からその愛着不安が生じるかと言えばそうでもなく、波があるからだ。

    ではどんな時にそれが昂るのか。例えば以下のような時だろう。

    • 将来の仕事や生活のことを考えているとき

    • 親しい人と口論になったときや喧嘩したとき

    • 誰かに好意を抱いたとき

    つまり自分が何かに迷って悩んでいたり、興奮していたり、感情が高まっているときに抑圧していたはずの潜在的な葛藤が爆発する。それは日常生活を送るうえではなかなか気づきにくいものだ。

    ◾️偽りの治療者

     私のように自分と似た人に惹かれる方は、相手も同じような愛着スタイルを持っていることが多いだろう。

    自分と全く違う人はそもそも深く知ろうなんて思わないだろうから。

    ということは親しい人とは互いの傷を舐め合っている状態であり、もはやそれが愛着による引力だなんて頭にはない。

    分かるとすれば、何となく「相手が心に傷を負っているんだろうなぁ」ということだけ。

    でも「まさか自分がそんなわけ」と思うのである。

    人は他人のことには気づきやすいが、自分のことには無頓着な場合もあるだろう。それはなぜか。

    自分が相手の治療者になってしまうからだ。相手が心に傷を抱えていて、自分も過去の傷を抱えているわけだ。どうしても傷が疼くというか共鳴する。

    すると無意識に相手を「救いたい」と思ってしまう。でも本当は違う。

    それは相手に投影した自分の傷を救おうとしていたのだ。もちろん当の本人はそのようなこと知る由もない。

    自分が治療者で相手が患者という関係であると錯覚してしまうのである。まさか自分も患者だったなんて思えるはずがないだろう。

    簡単な例を挙げると、ある過剰なまでに教育熱心な親が「子供のために」と言って厳しい教育を施したとする。きっとその子の未来を思っての行動だろう。

    しかしその親は、実際には自分が過去に後悔やコンプレックスを抱いていて「自らの人生を子供の人生を通じてやり直そうとしている」ことがよくあるのだ。

    他人を救いたいという心は自分を救いたいという心と背中合わせだと思う。もちろん全てではない。

    でもそんなこと本人はなかなか認めたくないし、そもそも引力の渦中にいる間は気づくことすらないのが恐ろしい。

     もしあなたが私のように安定型以外の愛着スタイルを持っている場合、過去の経験を辿っていくと思い当たる節がきっとあると思う。

    ただ【恐れ・回避型】の場合には少し厄介で、アクセルとブレーキを同時に最大出力で踏んでいるということがその特徴と言えるかもしれない。

    あとは高い確率で「試し行動」というものをしているだろう。相手に近づくほど、いつか裏切って傷つけてくる敵でないかを何度も確認したくなる。

    「本当にこの人は信じて良い人物なのか」そんなテストを無意識にするのだ。

    愛着スタイルには他にも不安型や回避型などがあるが。【恐れ・回避型】の人が他と違うのは、気になりやすく冷めやすいというものではないだろうか。

    どれだけ信じた相手でも必ず30%くらいは疑いの目で見ている。

    これはある種の防衛で、いつか傷ついたときに「ほらね」と言えるよう予め疑っておくのだ。そうすることで心がそれ以上傷つくことを防いでる。

    これは幼少期の生育環境が関係していて、私の例は伏せるが、多くの人は家が安全地帯でなかったりいじめや虐待を受けていたり精神的に何度も傷ついたことがある人が多いようだ。

    それらに真正面から向き合うと、人は心が崩壊し病となる。だからこそ敢えて希望を持たないのだ。

    その徹底的なニヒリズムは心の崩壊を防ぐために後天的に身につけた盾。

    それは人類がかつてヨーロッパでは寒さから身を守るため鼻を高くして空気を湿らせてから肺に送り、アジアでは凍傷を防ぐために敢えて凹凸を低くして進化したというようなものだ。だから負い目を感じる必要はどこにもない。

    もし他人から「〇〇した方が良い」とか「〇〇はダメだよ」なんて言われたなら、感謝だけしてそっと横に置いておくのが良いだろう。

    彼らはあなたを思って言ってくれているだろうし、どんな理由があろうと、相手を試す行動が相手を傷つけてしまうのは間違いないのだから。

    ◾️真の治療者

     では気づいた後にどうするのか。私もまだ模索中だ。

    ただ一つ言えるのは「気づく」こと。そして「受け入れること」が第一歩なのではと思う。「治す」とか「避ける」のではなく、そのまま受け入れてみるのだ。

    頭でよく考える人は理屈で理解しようとするが、もっと抽象的な感覚にこそヒントがある。理屈で考えると「認めたくない」という防衛が必ず働くから。

    一度気づいたら何も否定せず、良し悪しなど一切考えずそのまま「ふーん」「どうだろうなぁ」「そんなところもあるかもなぁ」なんて思ってみるだけで良いと思う。

    もし、今この瞬間に心の中で「ふーん」と思ったなら既にその一歩を踏み出している。

    先ほど私はこの気づきを得たときに「安心した」と言ったがそれはなぜかというと、もう敵ではなくなったからだ。

    本当に恐れるべきは正体の見えない敵であって、自分のモヤモヤの正体をその目で捉えることができたなら、もはや敵ではなく自分の一部となる。

    あとは適応する手立てを学べば時間の経過や他者との出会いと共に段々と成長していくのである。もう恐れることはない。

     かく言う私は今でも承認欲求があるし、同時に深い諦念があるのは間違いないだろう。

    きっと恐れ・回避型の人は自分の試し行動というヘルプサインを受容した上でなお好意を寄せてくれる人がいるならば承認欲求が満たされると思うかもしれない。

    自分の全てを受け入れてくれる人が運命の人だと思うかもしれない。

    しかし実際にはそんな女神のような人はいないだろう。みんなが自分のことで精一杯だ。

    相手が自分と同じ愛着スタイルなら大丈夫かと言えばそれは半分正解で半分誤りだと思う。

    最初は確かに強烈に引き寄せられる。これは間違いない。

    この人だけは理解してくれるという、かつてないまでの幸福感に満たされる。

    しかし、お互いがまだその渦中にいる間はお互いを詮索し続け疑いの目を持ちながら過ごすわけで。

    上辺では良い関係でもなかなか話し合いができなかったり、片方が我慢していたりなど致命傷を負っていることがよくあるのだ。

    その状態はいつか爆発する時限爆弾と同じで、長い目で見ると良い関係性とは言えないだろう。

    だからこそ、こういうことは自ら長い時間や失敗を重ねて学んでいくほかないのかもしれない。

    「ほんと厳しいよなぁ世の中」と私も常々思うわけである。

    自分こそが真の治療者であったといつか心の底から思える日が来ることを祈るばかりである。

     
     
    初めましてDOEsです。日常のふとした発見や人間関係、心、生き方について書いています。「なぜこんなに深く考えてしまうのか」「物事の裏にはどんな構造があるのか」そんな問いを心理学や哲学の視点から多角的に紐解き、自分らしく穏やかに生きるためのヒントを探すnoteです。

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