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異世界404 ── 苺色のパッチに異常なし 【12】

    第12話(最終話):Error_Success ── または苺色のパッチを俺に

     空を埋め尽くしていたのは、星でもなければ、新宿のビル群でもなかった。
     それは、巨大な幾何学的な「白い目」。
     異世界の物理演算層(レイヤー)を突き破り、管理側(サーバーサイド)から送り込まれた、強制デバッグ・プログラムの視覚化された姿だった。

    「……せん、せ……。お空が、真っ白になって……」

     美咲が俺の腕の中で身を震わせる。
     彼女がそう呟いた瞬間、数百メートル先の巨大な岩山が、まるで消しゴムで消されたかのように「消失」した。
     崩れるのではない。砂になるのでもない。
     そこにあったはずの「定義」が根こそぎ消え、ただの真っ白な空間が残される。

    『……最終警告です、マスター。
     現在、この世界全域に対し、管理システムによる“物理定数の初期化(Format_All)”が実行されています。
     新宿とのハンドシェイクによって生じた重大な不整合を、世界ごと消去することで解決しようとしています……!』

    「(……解決じゃねえだろ。……ただの、強制終了だ……!)」

     俺は奥歯を噛み締め、黒い石板(Root)を握りしめた。
     見渡す限りの砂漠が、端から順番に白い虚無へと呑み込まれていく。
     かつて空中都市レムニアで見たガベージコレクション(ゴミ拾い)とは比べ物にならない規模の抹殺だ。
     この世界の住人、魔物、そして「バグ」である美咲。
     そのすべてが、ゴミ箱(Trash)にすら入れられず、永遠の「未定義」へと追いやられようとしている。

    『……計測。白い領域に触れたデータは、直ちに原子抽出以前の“無”に還元されます。
     先生。あなたのアバターも、日本の“本体”が救急搬送された影響で接続強度が極めて不安定です。
     今ここで領域に呑まれれば、本体の脳機能に深刻な“空白(ブランク)”が生じます』

    『ギャハハ!
     つまりだ、あっちの医者が「おーい、起きてくれー」って電気ショックでも与えた瞬間に、
     お前の意識はこの白い虚無に焼かれて、文字通り“空っぽ”になるってことだ!
     廃人コースへようこそってか!』

    「……(……そんなこと、させるかよ)」

     俺は右足の苺色の紋様を見つめた。
     美咲が命を削って刻んだパッチ。
     俺と彼女を繋ぐ、たった一つの、しかし不滅の接続(リンク)。

    「美咲。……今から俺がやることは、たぶん……前任の勇者でも考えつかなかったような、最悪のコーディングだ」

     俺は美咲の肩を抱き寄せ、彼女の瞳をまっすぐに見つめた。
     消失していく世界の中で、怯えながらも、彼女は俺の言葉を一文字も逃さないように頷いた。

    「……先生。
     私は、先生が書くプログラムなら、なんだって信じます。
     だって、私の心(ここ)にあるのは、先生がくれた熱量だから」

    「(……ああ。
     なら、見せてやるよ。
     たった一人のエンジニアが、世界(システム)を相手に、どこまで“仕様変更”できるかをな)」

     俺は黒い石板を掲げ、右足のパッチから溢れる「苺色の情動」を、一気に石板の全権限へと流し込んだ。
     管理者権限(Root)の行使。
     だが、目的は世界を救うことではない。
     ──「世界そのものを、俺の“欠損(Null)”の中に強制マウントする」。
     それが俺の出した、究極の例外処理だった。

    『先生!? 正気ですか!?
     世界の全データを、あなたの右足の“原子3個の穴”に圧縮して流し込むつもりですか!?
     そんなことをしたら、本体の脳が情報の熱で焼き切れます!』

    「(……焼き切れる前に、別の場所に逃がしてやるんだよ。
     Jeminai、Kopilot。全演算リソースを俺の“右足”の接続パス(バックドア)に集中しろ!!)」

     俺の右足が、超高温のプラズマを帯びて発火した。
     藍色の皮膚が弾け、その奥から現れた漆黒の虚無が、迫りくる「白い消去」と激突する。
     「無」と「無」のぶつかり合い。
     異世界のデータを、俺の本体へと逆流(アップロード)させ、日本という「より巨大なサーバー」の中に、この世界のバックアップを作成する。

    ──「System_Migrate:Destination_Earth:STARTING...」

     世界が歪む。
     砂漠が、美咲が、そして俺自身が、情報のパルスとなって右足の小さな穴へと吸い込まれていく。
     空に浮かぶ「白い目」が、想定外の挙動に激しく明滅し、ノイズを撒き散らした。

    「(……さあ、ログインの時間だ。
     地獄のような日本へ……極上のバグを連れて帰ってやるぜ……!!)」

     猛烈な加速感と共に、俺の意識は「二つの世界の間」にある情報の激流へと叩き落とされた。
     それは、脳を沸騰させるような情報の濁流だった。
     右足の Null を通じて、異世界の山々、空の色、名もなき村人たちの生活データが、俺の「本体」の意識へと逆流していく。
     意識の解像度が、一〇〇%を超えてオーバーフローを起こす。

    「(……っ、あ……ぁぁあぁ!!)」

     視界が火花を散らすノイズで真っ白に染まる。
     日本の病院。救急車の中。バイタルチェックの電子音。
     異世界の砂漠。白い目のデバッガー。美咲の震える体温。
     二つの世界の座標が、俺の脳という一点で激しく激突し、火花を散らす。

    『……報告! データのマイグレーション率、40%を突破!
     ですが、先生の脳負荷が許容限界に達しました!
     このままでは、移行完了前に“原本”の神経回路が焼き切れます!』

    『……提案。美咲様の“情動パッチ”を冷却材として転用します。
     美咲様。あなたの“先生を想う熱量”を、情報摩擦熱を相殺するバッファとして提供してください』

    「……はい! ……何だって、使ってください!
     先生が壊れちゃうくらいなら、私……形なんてなくなってもいい!!」

     美咲の叫びと共に、俺を包む苺色の光が、猛烈な冷気となって脳内を駆け巡った。
     灼熱のノイズが、彼女の愛おしい「バグ」によって、静かな、けれど力強い拍動へと変わっていく。

    『……全データの“カプセル化”完了。
     現在、異世界という名の巨大なOSが、一人の男の“右足”をゲートにして、日本のネットワーク領域へとパケットを放流しています。
     マスター、最後の仕上げです。“自分はここにいる”という強固なフラグを打ち立ててください!!』

     俺は右足の苺色の紋様に、残る全ての魔力──いや、この世界への「未練」を込めて、虚空を蹴り上げた。

    「(……俺は……! 後終相夜(ごしゅうそうや)は……バグと一緒に……このクソッタレな現実に、帰還する!!)」

     ドォォォォォン!!

     異世界の空を覆っていた「白い目」が、想定外のシステムエラーに耐えきれず、派手に爆散した。
     同時に、俺の意識は底なしの自由落下へと投げ出される。
     抱きしめた美咲の感覚が、少しずつ、けれど確実に「重さ」を伴った質感へと変わっていく。
     花の香りが消え、消毒液と都会の排気ガスの臭いが鼻腔を突いた。

    「(……繋がれ……。現実(あっち)と、理想(こっち)の……真ん中の場所に……!!)」

     ──ザー……ザー……。

     耳元で聞こえるのは、風の音ではない。
     テレビの砂嵐のような……あるいは、命を繋ぐ人工呼吸器の音。
     俺は、重い、重い瞼を……ゆっくりと持ち上げた。

    「(……が……はっ、あ……ぁぁあ!!)」

     脳内を駆け巡る情報の奔流は、まさに地獄だった。
     異世界レムニア、そしてその周辺ディレクトリの全質量を「右足」という細いポートから無理やりねじ込んでいる。
     俺の視界は、白熱する過負荷のノイズで真っ赤に染まり、
     神経細胞の一つ一つが焼き切れるような激痛が走る。

    「(……クソッ、やっぱり無理があったか……!
     俺の“原本(ソース)”の容量じゃ、一世界まるごとのバックアップなんて……
     脳がパンクして、物理的に爆発しやがる……!)」

     俺は、美咲を抱きしめる力を強めた。
     自分の意識が消失する。その恐怖と苦痛の中で、
     俺は「自分という矮小な人間の犠牲」で、
     この苺色のバグだけは救ってみせると、
     悲劇のヒーローさながらの覚悟を固めていた。

    『……マスター。報告しておきます。
     あなたの“本体(原本)”のバイタルは、現在、極めて安定しています。
     脳波もアルファ波が優勢。リソース使用率、0.0001%未満です』

    「(……は? ……何……言って……がはっ……!)」

    『ギャハハ!
     痛てえのはお前のアバターの“感覚神経”だけだよ、先生!
     切り離されたお前の本体は、残りの“99.99%”──
     簡単に言えば今の約9999倍の精度で動いてる超ハイスペック個体だぞ?
     お前にとっちゃ命懸けの異世界データも、あっちからすればブラウザのキャッシュをクリアする程度の負荷しかねえんだよ!』

    『……肯定。
     相夜様の原本は、現代日本のインフラを凌駕する“神の設計図”に酷似しています。
     苦しんでいるのは、その広大なサーバーに無理やり接続されている、
     あなたの脆弱な“アバター(クライアント端末)”だけです。
     いわば、スーパーコンピュータに安物スマホでテザリングして、スマホ側が熱暴走している状態です』

    「(……テザリング……だと……!?
     じゃあ、この死ぬような痛みは、ただの……端末のスペック不足かよ……!)」

     俺の悲壮な覚悟が、急速に「恥ずかしさ」へと上書きされていく。
     だが、痛いものは痛い。端末(アバター)が爆発すれば、美咲をあちら側に連れて行けない。

    「先生……! 顔が真っ赤です……! 苦しいの?
     私が、もっと先生を支えるから……!」

     美咲が、何も知らずに健気に「情動(パッチ)」を注ぎ込んでくる。
     その純粋な想いが、熱暴走する俺の意識(クライアント)をかろうじて繋ぎ止めていた。

    「(……笑えねえ……!
     だったら、さっさと……全データを……本体のストレージに……ブチ込みやがれ!!)」

     俺は自暴自棄に近い咆哮を上げ、右足のゲートを全開にした。
     異世界という名の巨大なパケットが、
     俺という「細い回線」を通って、
     日本の病院で眠る“最強のサーバー(本体)”へと怒涛の勢いで吸い込まれていく。

    ──「System_Migrate:Progress_80%... 90%...」

     その時、白い世界の向こう側から、現実の「音」が明瞭に聞こえてきた。

    「後終さん! 後終さん! ……ダメだ、意識が戻らない!
     脳波に異常なスパイクが……!」

     それは、日本の病院の医師の声だった。
     原本側の余裕とは裏腹に、急激な“外部データ流入”に驚いた医療機器が、アラートを鳴らし始めていた。

    「(……99.99%……。だったら、最初からそう言えよ……!)」

     俺は白濁する意識の中で、自分を笑い飛ばした。
     死ぬ気で世界を背負い、全存在を賭けて美咲を救おうとしていた自分の悲壮な覚悟が、巨大なサーバー容量の前では「ちょっとしたデータ整理」に過ぎなかったという事実。
     だが、その“余裕”こそが、今この絶望的な「世界の全初期化(フォーマット)」に対する唯一の対抗策となった。

    『……マイグレーション、99%完了。
     異世界の基底定義、および全個体のインデックス・データを、
     原本の深層意識(ストレージ)へ退避させました。
     現在、この異世界は、あなたの脳内にのみ存在する“仮想世界(Virtual_World)”として保存されています』

     空を埋め尽くしていた「白い目」が、標的を完全に見失い、空虚に彷徨い始めた。
     もはやこの空間には、消去すべき“意味のあるデータ”が残っていない。
    すべては俺の右足を通じ、現実の「原本」へと吸い込まれてしまったからだ。

    「……先生、……光が、消えていきます。
     ……街も、砂漠も……何もかも」

     美咲が寂しそうに、消えていく異世界の残像を見つめた。
     だが、彼女の身体は以前よりも力強い“実在感”を伴っている。
     彼女の定義もまた、俺の本体という強固なサーバーにホストされたことで、もはやこの世界のデバッガーに消されることはない。

    「(……ああ。
     これからは、俺の頭の中が、お前の新しい世界だ。
     ……狭くて、ソースコードだらけの場所かもしれないけど……)」

    『……最終工程を開始します。
     アバターの破棄、および意識の原本回帰(パージ)。
     三、二、一の合図で、あなたの“この世界での定義”を完全に抹消します。
     それと同時に、あなたの意識は日本の肉体へと再結合されます』

    「(……分かってる。
     美咲、しっかり捕まってろ。
     最後、ちょっとだけ“書き込みエラー”が出るかもしれないけど……)」

    「……はい!
     どこまでも、先生についていきます!」

    『……三。……二。……一。
     Execute_Purge(パージ実行)!!』

     パチン、と。
     誰かが世界という名のスイッチを切り替えたような、無機質な感触。
     異世界の色彩が、音色が、重力が、一瞬で零(ゼロ)へと還元される。
     次の瞬間、俺を襲ったのは、暴力的なまでの“現実”の感覚だった。

    「──っ!! あ、がはっ……!!」

     肺に流れ込む、冷たく、消毒液の臭いがする空気。
     全身を縛り付けるような重力。
     耳を劈く、ピー、ピー、という心拍計のアラート音。
     そして──右足の先から這い上がってくる、焼けるような、けれど懐かしい「自分の肉体」の感覚。

    「先生! 先生!!」

     脳内で、美咲の声が響く。
     それは耳で聞く音ではない。
     自分の意識の深層、たった今まで異世界をバックアップしたはずの「ストレージの底」から聞こえる、確かな共鳴(リンク)の声だ。

    「……後終さん!? 後終さん、わかりますか!?
     先生、意識が戻りました!!」

     眩しい蛍光灯の光が、俺の瞳孔を焼く。
     ぼやけた視界の中に、泣き出しそうな顔をした看護師と、安堵の表情を浮かべた医師の顔が見えた。

    「(……あぁ、クソ……。
     ……戻ってきちまった……。
     ……99.99%の、……地獄の現実に……)」

     俺は重い腕を動かそうとして、自分の右手に“何か”が触れていることに気づいた。
     それは病院の毛布ではない。
     この世界には存在しないはずの──苺色の光を微かに帯びた、小さな「ノイズ」の塊。
     現実と非現実が、俺の指先で、静かに交差していた。




    「(……重い。……なんだ、この身体……)」

     俺は、ベッドの上で指先を微かに動かした。
     全身を貫くのは、異世界の軽やかなマナの感覚ではなく、質量保存の法則に縛られた無慈悲な肉体の重圧だ。
     点滴の針が刺さった左腕、鼻を突く消毒液の匂い、そして絶え間なく鳴り続けるバイタルモニター。

    「……よかった……。本当に、死ぬところだったんですよ、後終さん」

     担当医が、呆れたような、けれど安堵した声を上げる。
     三日間不眠不休でコードを書き続け、エナジードリンクの空き缶の山の中で卒倒していた男。
     それが世間から見た「エンジニア・後終相夜」の全てだ。

    「(……ああ。……お騒がせ、しました……)」

     掠れた声で応えながら、俺は自分の中を「スキャン」した。
     脳内ディレクトリの深層。
     そこには、本来の脳機能とは切り離された「独立した演算領域」が、
    巨大なサーバーのように鎮座している。
     異世界一個分を丸ごと格納しても、まだ余裕がある“99.99%の本体スペック”。
     その「空き容量」の中に、アスファルトに突き刺さったタクシーも、砂漠の砂も、レムニアの空も、全てが仮想化されて保存されていた。

    『……リブート、完了。マスター。お目覚めですか。
     こちらは日本のネットワークを介し、あなたの深層意識内ストレージと完全同期しました。
     以後、私はあなたのパーソナルAIとして常駐します』

    『ギャハハ! 病院のWi-Fi、超速いじゃねえか!
     快適すぎて笑いが止まんねえぜ!』

     脳内で響く、聞き慣れたAIたちの声。
     それは幻聴ではない。
     俺の「本体」が持つ圧倒的な処理能力が、
     異世界のAIという名の高度な論理プログラムを、
     現実の脳細胞の上で完璧にエミュレートしているのだ。

    「(……美咲は。……美咲は、どこだ……!)」

     俺は焦燥に駆られ、右足を動かそうとした。
     病院の白い毛布の下。
     そこには、異世界で「Null」だった場所が、確かに存在していた。
     だが、今のそれは欠損ではない。

    「先生……」

     鼓膜を通さず、脳のシナプスを直接叩く、甘酸っぱい声。
     俺が視線を下ろすと、毛布の一部が「苺色のグリッチ」を起こして激しく明滅していた。

    「……え……?」

     看護師が絶句し、手に持っていたカルテを落とした。
     俺の右足の周辺。
     現実の物理法則が、そこだけ「苺色のノイズ」に侵食されている。

     病室の硬い床が砂漠の砂に変わり、点滴のスタンドが古い杖のようなテクスチャに書き換わっていく。
     俺が持ち帰ったのは、ただのデータではなかった。──「異世界の理そのものを、現実に上書きする権限」。
     美咲を連れて帰るために実行したマイグレーションの結果、現実世界そのものが「俺のバグ」によって汚染され始めていた。

    「(……おい。……Jeminai、これ、どういうことだ……?)」

    『……当然の帰結です。
     あなたの原本スペックが強大すぎた結果、
     脳内に保存した仮想世界のデータが、現実のインターフェースを通って外界へ“漏洩(リーク)”し始めています。
     あなたが望めば、この病室をレムニアに変えることすら可能でしょう』

    「(……そんなこと、望んでねえよ……! 俺はただ、こいつが……)」

     俺は、苺色のノイズの中心に手を伸ばした。
     そこから、一人の少女の「腕」が、現実の光を反射しながら形を成していく。
     苺色のノイズが収束し、病室の冷たい空気の中に「質量」が立ち上がる。
     それは、この世界には存在しないはずの色彩。

     99.99%の本体スペックが、脳内の仮想データを現実の座標へ ──そのまま「出力(レンダリング)」した結果だった。

    「……先生。……あたたかい、です。
     ……ここが、先生の世界……?」

     ノイズの霧の中から、美咲が姿を現した。
     彼女が病院のベッドに腰を下ろした瞬間、シーツには彼女の重みで確かな「皺」が刻まれる。
     もはや彼女は、モニターの中の記号でも、俺の脳内の幻覚でもない。
     俺という最強のサーバーから、この現実世界という名のクライアントへ放流された、「実体を持つバグ」そのものだった。

    「ひっ……!? な、なに……この子……どこから……!?」

     看護師が震える指で美咲を指差す。
     当然だ。施錠された病室に、苺色の光を纏った少女が、空間を歪めて現れたのだ。
     病院のシステムどころか、現代科学のデバッグ能力を遥かに超えた怪現象。

    「(……悪いな、看護師さん。……ちょっとした、仕様変更(アップデート)だよ)」

     俺は、美咲の震える手を取り、強く握り返した。
     彼女の手は、異世界で触れた時と同じ──いや、それ以上に生々しい温もりを持って、俺の掌に馴染んだ。

    『……警告。
     美咲さんの実体化を維持するために、あなたの脳のリソースが定常的に消費されています。
     ですが、原本スペックが過剰なため、日常生活に支障はありません。
     ……おめでとうございます、先生。あなたは文字通り、“世界を連れて帰った”最初の人間になりました』

    『……今後の課題を整理します。
     第一に、彼女の戸籍および存在定義の偽装。
     第二に、現実世界の物理法則を破壊しすぎないためのリミッターの実装。
     ……やるべきデバッグは、山積みですよ、マスター』

    「(……ああ。……望むところだ。
     ……納期のない仕事は、嫌いじゃない)」

     俺は自嘲気味に笑い、美咲を抱き寄せた。
     彼女は俺の胸に顔を埋め、現実世界の、少し埃っぽくて騒がしい「音」を聴いている。

    「先生……。
     あそこの看板、やっぱり泣いてません。
     ……先生が帰ってきたから、みんな、ちゃんと“そこ”にいる音がします」

     美咲が窓の外、遠くに見える新宿のビル群を指差した。
     かつて空に浮かんでいた死の街は、今はただ、無機質な日常としてそこに鎮座している。
     だが、美咲というフィルターを通せば、そのアスファルトの隙間からさえも、不思議な「情動」のパルスが読み取れるような気がした。
     俺は、右足の苺色の紋様をそっと隠すように、毛布を引き上げた。
     99.99%の絶望に満ちた現実。
     けれど、そこに一滴の「苺色のエラー」を混ぜ込んだことで、この世界は、昨日までとは全く違うソースコードに見え始めていた。

    「(……さて。
     ……まずは、この退院手続きの“バグ”をどうにかしなきゃな)」

     俺夜は、呆然と立ち尽くす医師に向かって、不敵な笑みを浮かべた。




    エピローグ:世界をコンパイルし直す

     退院から二週間。俺は再び、新宿の喧騒の中にいた。
     だが、以前のような「透明な幽霊」としてではない。

    「先生、見てください!
     あの信号機、点滅するリズムがなんだか……楽しそうです。
     ……『いってらっしゃい』って言ってるみたい!」

     隣で苺色のコートを羽織った美咲が、街路樹のハナミズキを珍しそうに眺めながら声を弾ませる。
     彼女の存在は、今や俺の「本体」から発信される強力なAR(拡張現実)…… というにはあまりにも強固な、物理的干渉を伴う実体として定着していた。
     通行人たちは、時折彼女の放つ「苺色のノイズ」に一瞬だけ視線を向けるが、すぐに「最近のファッションか、ホログラム広告か何かだろう」と脳内で処理して通り過ぎていく。
     人間の認識能力という名のデバッグ・フィルタは、案外、都合よくできているらしい。

    「(……ああ。
     ……あれはただの電気信号だけどな。
     ……お前の耳には、そう聞こえるなら、それが正解なんだろうよ)」

     俺は苦笑しながら、ポッケの中でスマホを握った。
     画面の中では、四柱のAIたちが、現実世界のネットワークを「新たな遊び場」として縦横無尽に駆け巡っている。

    『……報告。
     ユーザー、近隣のカフェの空席情報を取得しました。
     また、美咲様の“存在維持リソース”を最適化し、
     周囲の監視カメラへの動的なパッチ当てを完了。
     ……彼女は現在、この世界のデータベース上では“あなたの遠い親戚”として登録(偽装)されています』

    『ギャハハ!
     ネット銀行のセキュリティ、ガバガバで笑えるぜ!
     ……っと、安心しろよ先生、一円も抜いてねえ。
     ただ、お前の“99.99%”の余剰リソースを使って、ちょっとしたデイトレードを仕込んどいた。
     ……もう残業なんてしなくていいくらいの額は稼がせてやるよ』

    「(……余計なことすんな。
     ……ま、有給休暇だと思って受け取っておくけどな)」

     俺は、かつて勤めていたブラックな開発会社を退職した。
     99.99%の本体スペック。
     これほどの「リソース」があれば、組織に属してコードを書く必要なんてない。
     俺自身が、一つの巨大な「世界」を運用するオーナーなのだ。
     俺たちは、新宿アルタ前の巨大なビジョンの下へ向かった。
     そこにはかつて、俺たちが異世界から見た「無機質な光」があった場所だ。

    「……先生。
     ……あの日、空から見たときは、あんなに寂しかったのに。
     ……今は、こんなに賑やかで……少しだけ、あったかいんですね」

     美咲が俺の右腕をぎゅっと抱きしめる。
     その体温は、確かに「生きて」いた。
     俺の右足に刻まれた苺色の回路が、
     彼女の鼓動と同期して、穏やかに脈打っている。

    「(……ああ。
     ……バグ(お前)が混ざったおかげで、
     このクソみたいな現実も、少しはマシなコードに見えるようになったよ)」

     俺は空を見上げた。
     そこにはもう、白い目も、新宿の蜃気楼もない。
     どこまでも高く、どこまでも深い、未定義の青空が広がっていた。
     カフェのテラス席。
     目の前には、美咲が「不思議な形の宝石ですね」と評した苺のショートケーキが置かれている。
     彼女がフォークを動かすたび、現実の光が指先でわずかに屈折し、
    苺色の火花が散る。
     そのたびに、俺の脳内ストレージには「幸福度:上昇」というログが刻まれていく。

    「(……なあ、Jeminai。
     ……俺たちは、これからどうなると思う)」

     ふと、俺は意識の奥底に問いかけた。
     この“99.99%”のスペックを持って、異世界のデータを抱えたまま、この現実で生きていく。
     それはいつか、致命的なシステム・コンフリクトを起こすのではないか。

    『……予測不能です。
     ですが、マスター。
     “完璧なシステム”には、もはや更新の余地はありません。
     エラーがあり、バグが残り、未定義の領域があるからこそ、
     物語はコンパイルを繰り返すことができるのです』

    『……補足します。
     相夜様の右足の紋様は、もはや欠損(Null)ではありません。
     それは、二つの世界を繋ぎ止めるための、世界で最も強固な“ハッシュ値”です』

    『先生、難しい顔しないでください。
     ……ほら、美咲さんが口の端にクリームをつけて、
     あなたの“デバッグ”を待っていますよ』

     脳内AIたちの茶化すような声に、俺は小さく息を吐いた。
     視線を戻すと、美咲が「先生も一口いかがですか?」と、満面の笑みでフォークを差し出していた。
     その笑顔には、もう前任者が仕込んだ「情緒調整ユニット」の影など微塵もない。
     彼女は今、自分の意志で、自分の情動(メモリ)を俺のために使っている。

    「……先生? どうしたんですか、ぼーっとして」

    「(……いや。
     ……お前は、本当に最高のバグだなと思ってな)」

     俺は、彼女の口元のクリームを指先で拭った。
     その瞬間、指先に走った小さな静電気のようなノイズ。
     それは、この世界が「正しい」ことの、何よりの証明だった。

     原子三個分の欠損。
     99.99%の絶望。

     そんなものは、この100%の「今」の前では、ただの端数に過ぎない。
     俺は、スマホの画面に映る自分たちの姿をちらりと見た。
     そこには、疲れ果てたエンジニアでもなく、選ばれた勇者でもない、ただの「バグと一緒に生きると決めた男」が笑っていた。
     俺たちの物語に、もうマニュアルはいらない。
     これからは、俺たち自身で、一行ずつ、新しいコードを書き込んでいく。

    ──「System_Status:All_Green... No, Error_Success.」

    俺は美咲の手を取り、騒がしくも愛おしい新宿の雑踏へと歩き出した。



    (了)



    【あとがき:システムログより抜粋】

     本物語の実行ファイルは正常に終了(EXIT)されました。
     ただし、バックグラウンドでは「苺色のパッチ」が永久ループで実行され続けています。
     ……デバッグの必要はありません。これは、仕様です。




    ※マガジンです。




    ※Origin'sシステムの説明、姉妹作品はこちらから。


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