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エントロピー

    DATA  α「ギリシャ的前書き」

    登場人物
    ・林田 弘人…儀同大学理学部数学科助教授。
    ・長田 英…言語学者、小説家。林田の友人。詩を書くのが趣味。
    ・林田 怜奈…林田の妹。法学部。
    〈伊小多研究所〉
    ・伊小多 蒼平…伊小多研究所創設者兼元所長。
    ・向田 宏…伊小多研究所所長。
    ・深谷 凪…伊小多研究所に所属する教授。
    ・宮下 登…伊小多研究所に所属する助手。
    ・古城 花…伊小多研究所の事務員。
    ・丹波 誠司…伊小多研究所の事務員。
    ・蘇原 くみ…天才プログラマ。元伊小多研究所所長。デルタの設計開発者。
    ・デルタ…伊小多研究所の全体を管理・監視を行う優秀なプログラム。
    〈警察〉
    ・村本 祐樹…事件を捜査する刑事。


     林田は彼が所属する真多里研究所の所長に呼び出された。
     「林田君。伊小多研究所の人員が少なくなっており、専攻が同じなのでこちらから人員を送ることになったらしい。君が行ってきなさい」
     林田は困惑した。突然言われても、すぐにはいと言って移動できるわけではない。
     しかし、ここはアンシャン・レジームである。上の者の意見に文句を言うと消され、素直に従うと利用される。
     そもそも、天才は消される運命である。戦争も、まずはじめに戦争に反対した天才たちを消し、残りの天才に戦争賛成の旨を言わせる。馬鹿は素直に従い、その大きな流動性の箱の上に利用される。淘汰される。
     馬鹿になってやる。彼はそう思い、「・・・わかりました。行きます」と返事をした。
     車は運転できない。車を持っていないという意味ではなく、運転免許証を取得していない。面倒くさいのである。
     彼は面倒くさいものが嫌いである。でも、それもまた一興であることも重々承知している。
     電車を降りてバスを降りて、鉛筆で書かれた地図を持って山を登ると、ちょうど中腹らへんの開けた土地に、伊小多研究所があった。
     手続きをして得たカードを、認証機にタッチして、ドアに向かって呼びかけた。


    DATA  A「無限の観察者」

     「デルタ、オープン。」
     重いバッグを持って、今、白を基調としたコンクリート造の建物を眺める。ハイテクという言葉はこれを表しているのではないかと思うほどに綺麗で、若干のSF風の雰囲気をも兼ね備えている。ドアにはドアノブがなく、隣にスピーカーのようなものが、小さな赤色のLDEを光らせている。
     林田弘人は、前に所属していた真多里研究所の所長に、伊小多研究所の人員が少なくなっており、専攻が同じなので人員を送ることになったらしいと告げられ、行ってきなさいと、所長室で伝えられた。彼にとって、人が少ないことは望んでいたことだった。静かに、自らのテーマに集中できる。理想的な職場だ。
     いざ移動となると、真多里研究所になぜか郷愁の念を抱くようになった。あれほど望んだ移動ながらも、自分が知っている所には未練や安心感があり、簡単には離れられなくなってしまった。彼はそんなことを思う自らの心に驚き、失望した。このこぢんまりとした雰囲気も、この慣れた空気感も、何故か彼は好きになっていたらしい。思い返してみれば、色々なことがあって、今の自分がいる。そう思うと、彼は意外にも影響を受けていたのだなと自負する。真多里研究所で聞く最後のアナウンスが聞こえて、彼はそそくさと家に帰る準備をした。胸ポケットには一カートンのたばこが入っていた。
     移動の当日、その日はじめじめとした小雨の日だった。移動には適さない天気といえる。メリットは、気兼ねなく研究に没頭できることだ。
     弘人は雨が嫌いだ。湿っているものは、触れているだけで気持ちが悪い。店の椅子、電車の手すり、不意に上から降る大きな雨粒、傘の取手・・・。濡れていると違和感がある。
     冷たき空気が彼を刺し、日光が遮られたこの日、彼は伊小多研究所に移動となった。この研究所は、比較的最近になって作られた。全てのドアが音声と指紋でのみ開くため、鍵やドアノブは必要性を失ったことから一年程度前に撤去されたらしい。大きなドーム状の建物が二つ並んでいる。その間にはその空間を繋ぐための廊下があり、この廊下は外気と接していて、風通しがいい。小さな池が見えて、その中では鯉が優雅に泳いでいる。北側のドームは「太陽館」と呼ばれている。ゼミ室や談話スペース、院生室、食堂がある。対して南側のドームは「宵月館」と呼ばれている。事務室や準備室、助教授室やその他さまざまな部屋がある。無論、弘人は助教授室に入った。誰が教授なんてするものか。そういつも思う。よほどの物好きなのだろう。蓼食う虫も好き好きとはよくいったものだ。周りは高いコンクリートの壁がある。洒落た彫刻が点々と置いてあり、空虚な庭を必死にお洒落にしようという意思が見える。所々に苔が生えた植木鉢がある。
     ドアがゆっくりと開いて、弘人は足を踏み入れた。建物内は冷たく、弘人を侵入者と思っているかのようだ。雨音はやまない。
     教授室が開いて、ひげが生えた貫禄のある男が出てくる。こちらを向いて、笑顔になり、彼に呼びかけた。
     「やあ、新しい助教授ですか?わざわざこんな田舎まで、ありがとうございます」コーヒーを片手に男は言う。「私は向田宏です。所長ですわ。こちら、どうぞ」そういい、名刺を渡してきた。偉そうなことが書いてある。ざっと目を通し、彼は聞いた。
     「ひろしさんですね?これからよろしくお願いいたします。私は林田弘人です」そういい、自らも名刺をわたそうとすると、「そんなことは知っていますよ。ささ、こちらへ」と向田は言った。礼儀がなっていないが、このぐらいの雰囲気こそが一番気が楽なのは事実だ。そもそも、礼儀は対人用のツールであって、研究者という変人のあつまりである彼等には不必要なものである。脳のリソースを無駄に減らす邪魔なものだ。それでも覚えておいて損はないだろうという安直な精神で弘人は一応覚えている。
     助教授室は教授室の隣だった。部屋は狭い。でもそれがいい。緑はない。窓はあるが、すりガラスで、外の様子を簡単には視認できない。白い空間だ。部屋の隅にテーブルや印刷機など諸々の大事な機材がある。椅子は自在に動くタイプだ。キャスターがついている。彼にとって、これは解せなかった。普通の椅子が一番なれていて座り心地も良い。それに、ふとした時に勝手に動いてしまうのは迷惑だし、いちいちストッパーをかけるのも面倒だ。
     弘人は部屋を一瞥したあと、「すみません、喫煙できる場所は?」と笑顔で聞いた。向田は一瞬悩むような表情を見せた後、「すみません。全室禁煙です」と言われてしまった。胸ポケットの一カートンは何の意味も持たなくなってしまった。残念極まりない。
     彼はその後全室を一通り見た。特に面白かったのは食堂だ。円形で、壁に四つ、綺麗に東西南北になるようにドアのない出口と絵画が配置されている。一つ目はレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』、二つ目はボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』、三つめはラファエロの『アテネの学堂』、四つ目はレンブラントの『夜警』だ。勿論すべて模写だが、どれも素晴らしい作品ばかりだ。ただ、こういう芸術チックなものは、彼は苦手だ。どちらかというと、文学よりも数学、もとい理系だったため、文系の才能はない。彼の3つ目の弱点だ。弱点はざっと30個ほどある。
     伊小多研究所の部屋の紹介が終わり、ひとまず荷物を助教授室に置いた。教授と助手とのタイミングが悪かったのかいなかったため、挨拶ができなかった。静かだ。科学とセンスの集合体の空気が彼の肺を埋め尽くす。
     向田と別れ、助教授室に行ったが、向田がコーヒーを持っていたのが気になったので、事務室に行き、ゆっくりと本を読んでいる女性に声をかけた。  「あの、恐縮ですが、コーヒーはどこに?」
     女性はこちらをじっと見た後、慌てた様子で「今すぐ用意したしますので」といったが、彼はそれを制した。「いえ、場所だけでいいですから」
     女性は驚いた顔をした後、「食堂の西出口の前の給湯室です」と返答した。彼はなにか引っかかったが、気にせずに「どうもありがとうございます」と返した。
     意外と距離がある。廊下へ続くシルバーのドアを指紋で開けると、久しぶりの外気が彼を覆った。自然から隔離されている。一体何をもって田舎といったのだろうか。否、これほどの研究所を立てられる土地があることと、これほどまでしないと自然と離れられない環境を持って行ったのだろう。極めて的確な表現だ。
     定義できないものは存在しない。故に、我々の思考の限界こそが、世界の境界線なのだ。思考力を持つものは、その思考力を超えるものを創造できないし、理解できない。三次元の私たちが四次元を視認できないのと同じだ。データ上でできても、それを全て理解し、応用できるかどうかは、私たちに任されている。故に、思考力は自由だ。不自由は狭き思考力のこと。頭が固い者は不自由に憤慨し、頭が柔らかい者は自由の海を泳ぐ。
     βの空を見た。青い。ただ、すこしの黒さも持ち合わせている。青黒い空。αを夢見る空が、彼を見ている。
     部屋に戻ると、彼はさっそくパソコンを立ち上げ、100件近く溜まっているメールを読む。コーヒーはまだ熱くて、とても飲めそうにない。そっとパソコンの隣において、キーボートを寂しく打つ。
     あるメールを読んだとき、手が止まった。友人からのメールだ。
     「よお、元気にしているか?移動になったんだってな。いい場所だといいのだけれど。俺は今ロンドンで朝食をとっているよ。場所によって変わるんだな、文化圏が違うからか?さて、閑話休題。今、小説を書いているよ。たのみなんだけど、お前をモデルにしてもいいか?どうもネタがねえ・・・。返信、急げよー                      長田 英」
     呑気なものだ。さっと一文字だけ書いて返信した。
     「是」
     ドアが叩かれている音が聞こえる。パソコンを閉じ、ドアをあけると、さっきまで事務室にいたはずのあの女性が立っている。
     「あの、大丈夫でしたか?」よほど心配なのだろう、顔には不安という二文字が浮かび上がっている。
     彼はもし大丈夫でなかったら再度聞いているであろうと推論したが、言葉を選んで答えた。
     「大丈夫ですよ。わざわざ確認まで、ありがとうございます。」
     女性はたちまち懸念が晴れたのか、顔に明るさが戻る。「よかったです。なんでも聞いてくださいね。」
     「デルタ、クローズ。」
     部屋のドアを閉めて、メールの確認をしたが、特に重要な連絡はなかった。
     彼はずっと、この音声を認識してドアを開ける機械の名前が、初めて聞いた時から好きだ。デルタ。ギリシャ文字の4番目の数字。数学では「変化量」を表す。ドアを閉めた状態から開ける状態にすること、また開けた状態から占めた状態にするという変化を担っている点や、今までの手動から、自動化になるという変化を表す点において、「デルタ」という数字は適切で、且かっこいい。非常に魅力を感じる。
     そもそも、この研究所には所々にギリシャ文字が用いられている。この数学のための建物が、彼は好きだ。居心地がいいし、なんといっても思考力を奮い立たせる。
     (本当にすごい。これを作ったのはどんなプログラマだろうか)
     この、絶妙な匙加減。便利すぎず、不便過ぎない、この、ある程度人間が堕落しないようにもなっていながらも防犯までこなすこのデルタを開発したのは誰だろう。これを作れるのは天才だろう。
     (そうだ。天才は存在する)
     抗えない、絶対的な才は、万人をも凌駕する。完全な天才は、最早希少になってしまった。
     (不完全な天才は多い。そしてそれよりも多い愚・・・)
     そうだ。自分自身は愚だ。弘人は思う。そしてその自覚をするたびに頭が痛くなる。
     (あぁ、たばこが吸いたい)
     彼は憔悴しきっている。自分のその立場は、多くの物と者に必然的に折られ、踏みつぶされていく。
     (思考回路が負になっている。リセットしよう)
     彼は一気にコーヒーを飲んだ。
     雨の音はより激しく、着実にこちらに襲い掛かっている。台風かもしれない。
     正直、このままでもいいとも思ってしまう。ただ、それでは今までの道標は無駄の長物だ。ただ、それでも今の状況はあくまで窓の外であり、弘人には関係がないとも考えてしまう。不定としようと、彼は考える。
     コーヒーを飲んだ後の紙カップには、黒い線がくっきりと残っている。それを持って、ドアの外にでた。その時、デルタの無機質な声が響き渡った。
     「現在、この地区での大きな停電が発生。一時的にシャットダウンします。」
     その瞬間、息をのむ声と、ピッという音と、シータの音がした。
     復旧は早かった。ものの1分程度で、突如消えた電気が復活し、煌々とコンクリートを照らした。どうやら、貯めていた電力を一時的に使用しているらしい。廊下に出ると、周りは漆黒に包まれ、この建物のみが光をはっしていた。
     (紅一点、いや、光一点、だな)
     そんなジョークが頭に浮かんだ。意外と頭が冴えていることに弘人自身が一番驚いていた。緊急時だからか、あるいはあの冷たきコーヒーか・・・。
     デルタの声がする。「台風に伴い、飛来物が電線を損傷したと情報を取得。」デルタは他人事のように言う。いや、この場合は声らしき音を発している。このように音を発するよう、事前にプログラムされているのだろう。   一体、開発者はどこまでの緊急事態に対応するようにプログラムしたのだろうか。
     結局、数時間後に電力は完全に復旧した。デルタも通常運転に切り替え、さらに明るくなっているように感じる。無性にたばこが吸いたくなる。脳が働かない。
     事務室のあの女性が走り寄ってきた。
     「デルタによると、もう復旧したらしいですよ。」そういい、こちらの顔を伺ってきた。「大丈夫です?」その顔にはあの不安がへばり付いている。
     「ええ、まあ」そういい、虚偽の笑顔を向ける。「なぜ、僕にだけ?」
     女性は一瞬戸惑いの表情を見せたが、すぐに体制を整えて、「・・・全員に伝えていますよ?」と言った。しかし、弘人は女性がどこの部屋にも言っておらず、初めに彼に言ったことを直感で理解した。理由は不透明だが、そのぐらいの推論は、自分たちの特技だと口走りそうになる。
     「・・・そう、ですか・・・。」結局曖昧な返事しかできない。彼の脳はすでにキャパオーバーだ。「いや、変なことを聞いてすみません」そう謝った。謝罪ほどいやなものはない。謝罪したということは、自分の非を認めた、ということだ。謝ったら最後。何と言われても、もう謝り倒すしかない。
     弘人は続けた。「あの、何度もお会いしますし、お名前をお聞きしても?」なるべく自然な笑顔で、穏やかに話しかける。女性は静かに頷き、言った。「・・・古城 花です。」
     台風の影響による停電で、弘人はもう十分に寝付けなくなってしまった。仮眠室を後にして、デルタに話しかける。デルタの開発者に会いたい。彼はそう思った。
     「デルタ、君はなに?」
     返答はない。ないだろう。そう思っていた矢先、答えは返ってきた。
     「私の名前はデルタです。ご用件は?」
     否、そんなことは聞いていない。「君はなにで、誰が作ったの?」
     「私の名前はデルタです。蘇原女史によって作られました。」
     蘇原?誰だ。そんな人物はここにいない。
     「蘇原という人物は誰だ!」
     デルタは数秒間の沈黙のあと、音を立てた。
     「・・・蘇原 くみ。性別、女。出身、愛知県。元伊小多研究所長。論文は2枚。」
     元?さらに亡くなっているとしたら没年が表示されないだろうか。まだ生きているとみて間違いない。
     「デルタ、蘇原くみは今どこにいる?」
     沈黙。
     「・・・すみません。わかりません。」
     「デルタ、蘇原くみは一体何者だ?」
     「・・・プログラマです。」
     「知っている。蘇原くみは今、何をしている?」
     「・・・くらい。」
     くらい?暗い所にいるということだろうか?彼はそう洞察する。たばこがないため頭の回転が鈍い感覚が、彼自身にも襲い掛かる。
     もうデルタと押し問答しても、有益な情報が出てこないと推測し、彼は、翌日に所長に直接開発者の現在を聴くことにした。会えればそれだけで光栄だ。
     脳を落ち着ける。大丈夫、今までだってそうしてきた。大丈夫、気が動転しているだけだ、今にも直る。大丈夫だ、さあ、深呼吸をする。
     彼は深い呼吸をした後、コーヒーを入手するために給湯室に向かった。建物全体が暗く、所々に少しの明かりが埋め込まれているだけだ。おそらく、夜間は煌々と電気を付けないようになっているのだろう。どちらにせよ、寝付けなくなった彼には関係のないことだった。
     給湯室はドアがないため、デルタに呼びかける必要もない。中に入ると、少しの明かりすらも届かず、そこは深海のようになっていた、
    お湯を作っている間、ふと食堂から物音が聞こえた。彼は今、西出口の外にいる。絵画は『アテネの学堂』が一番近い。
     なるべく物音を立てないようにして食堂の中に入る。暗くて視認できない。空気が冷たく、雨が降り続いているため過度に湿っている。気持ちが悪い。
     人影が見える。何かをしているのだろうか、必死に手を動かし続けている。話しかけようか、話しかけまいか迷っていると、人影は手を止め、立ち上がった。そしてこちらに向かってくる。
     咄嗟に給湯室に戻ると、「デルタ・・・。」という声が聞こえた。その時、カチッという音が聞こえた。そしてごそごそと物音を立てている。
     食堂から音がしなくなり、あたりは沈黙に包まれた。
     お湯が沸いた。予想以上の音に一瞬驚いたが、すぐにポットの音だと判断し、コーヒーの粉末にお湯をゆっくり流し込んだ。熱い。
     食堂を確認すべきか、或いはしないべきか。弘人は考えた。確認ぐらいはしたほうがよいのではないか。
     熱いコーヒーを持って、葛藤の末、食堂に入ると、倒れている人影が見えた。そっと顔を覗き込むと、それは異常に冷たい人だった。
     顔を見ると、生きているとは思えないぐらい青く、生気が感じられない。 そっと心臓に触れてみると、鼓動をやめていた。彼は状況を全く理解できていなかった。
     数秒して、彼は思考回路が追いつくと、驚いてコーヒーを零してしまった。
     (そうか、これは・・・)
     弘人は大声を出した。今後10年は出さないであろうその声で。
     「デルタ!今すぐ電気を付けて!全員を食堂に来るよう、伝えろ!人が死んでいる!」
     デルタの反応は早い。
     「チェック。受け入れました。電気を付け、全員を食堂に誘導し、至急警察に連絡します。」
     バチッという音とともに、一斉に電気が付いた。まぶしくて目を瞑る。目が慣れたタイミングで、彼は目をあけ、もう一度倒れている男性を確認する。
     彼は息をのんだ。男性は・・・、向田だった。
     バタバタという音と共に、人が増えた。最初は深谷、最後は古城だった。彼は全員を見た後に言う。
     「・・・私がコーヒーを飲むために給湯室に向かうと、誰かがこの食堂で作業しているのが見えました。私はその人物が出ていくのを確認して、食堂に入ると・・・、このさまですよ、ジョークにもならない。」
     男は死んでいた。首には紐が括り付けられている。自殺か、或いは、
     「・・・他殺かもしれない。」
     全員、その彼の言葉に驚愕した様子だ。
     「とにかく、今は出来るだけこの部屋に居続けましょう。離れればかえって危ない。」
     警察の到着には時間を要することが判明した。それもそのはず、この伊小多研究所は山の上にあり、さらにマップには表示されないようになっているのである。なぜわざわざその仕掛けを用意したかは、不明だ。
     とにかく部屋を見よう。そう思い、弘人は座っていた椅子から離れ、部屋を一周した。自分が部屋から出てい
    く犯人を見ていないことがとても気になった。南にのみ廊下がある為、この場合、わざわざ南側を通ったとでも
    いうのだろうか。それなら、もうすでに弘人がその場にいたことがわかっていたのかもしれない。そう思うと身震いをした。
     全員の名前を確認しておこうと、弘人は考えた。「みなさん、とりあえず、名前を教えてくださいますか?」
     「そうですね。その必要はあるかと」そういったのは、教授の男だった。「貴方は今日、いや、もう昨日かな、新しくやってきた助教授でしょう?」
     「ええ、そうです」弘人は返事をした。「教授、どこに行っていたのですか?」
     「ゼミ室ですよ。そのあと、疲れで寝てしまってねえ、それで、これですよ」教授の男は頭をかきながら、まいったなあという表情でいる。「私は、深谷 凪です。よろしく、林田さん」そういい、握手を求めてきた。弘人はその手を握り返し、他の人物にも聞いていった。
     「貴方は、事務室にいらっしゃいましたね?」そう聞くと、男は一瞬ビクッと動いたが、調子を取り戻し、言った。「あ、ああ、ええ。あ、あの、丹波 修司です、おねがいします」だいぶ気が動転しているのか、最後は最早聞き取れないほどの声量であった。
     「私は、宮下 登です。林田さん、移動して最初の日にこれは、縁起が悪いですなあ」そういい、無理にも笑っているのは、助手である。元々、弘人が来た時、助手と教授はいなかったため、挨拶が出来なかったのだった。ここの人間は時間にルーズである。「ええ、まいりましたよ」そう言うと、宮下は暗い表情に戻った。
     あとはあの事務員の古城 花もいた。眠そうな顔である。状況をいまいち理解できていないと思われる。
     つまり、この施設内には、被害者を含め、6人の人間がいたことになる。丹波と古城によると、この時間、誰も外に出ていないことがわかった。つまり、最悪このなかに殺人鬼がいるのである。否、確実に、である。これほどまでに窮屈な時間はない。彼はコップを片づけた。
     古城が近寄ってきた。「あの、林野さん、冷静ですね。慣れているんですか?」その悍ましい問を聞いて、彼は頭を振る。「いや、初めてだよ。慣れたくもない。冷静でもないよ。」
     「嘘だ。目の前に死人がいるのに、コーヒーのカップを捨てる人なんて、見たことないわ。」古城は笑っている。弘人は、最早怖いまであるその笑顔を見ないように、「・・・君は目の前で死んだ人を見たことがあるのkwね?」と聞いた。「ありません。小説で読んだだけです」彼女はそう答えた。
     「小説はいいね。こちらはずっと傍観者だ。ただ、物語内の人物は傍観者ではない。」そういうと、彼女は意外にもこういった。「あちらは傍観者、こちらは関係者、というわけですか。現実に、傍観者、もとい観察者はいるのでしょうか?」彼は言う。「定義が出来ないから、観察者はいないよ。残念だけどね」彼はそう言って、新しくコーヒーの準備をした。「じゃあ、傍観者はいるのですか?」彼女は問う。「いるね。系のエントロピー増大を観測する、熱力学的な平衡から遠く離れた存在が。」彼はそう言って、湯気を立てるコーヒーを古城に差し出した。「ふうん」彼女はコーヒーを受け取り、不思議そうな顔をした。「難しいことをおっしゃるのね、林田さん。」
     全員が数分経つと安定を取り戻した。あのオミクロン的空間も、少しずつ冷静さを取り戻している。雨は降りやみ、辺りは静けさが充満している。
     「あの、窓を開けても?」弘人は言う。「いえ、換気扇でいいでしょう。窓を開けても、気分転換にはなりませんよ。開口部の面積と風速の積分の期待値は、換気扇の定常的な流量と本質的に等価ですから。」深谷は言う。それを聞いて、弘人はなんと数学的で、適切で、それでいて涼しい解答だろうと思った。「ええ、そうですね。そうです。そうしましょう。」
     古城はコーヒーを持ったまま、死体を眺め、「・・・気持ちが悪いわ」と言った。彼は同意した。そうだ。気持ちが悪い。感覚論ではあるが、薄気味悪さを兼ね備えている。「・・・そうだね、気持ちが悪い。」彼は言い、問いかけた。「・・・ねえ、古城さん、ブラックは飲めない?」
     彼女はこちらを向き、言った。「いえ、熱すぎるだけですよ。熱いのは苦手、物理的にも、精神的にも。」彼はその解に驚いた。熱は物体を構成する原子や分子の運動エネルギーの事だ。ただ、移動の伝搬というものに対して、「精神的」は意外にも適切な答えだった。
     彼は言った。「・・・そうだね。その熱は、確かに、触れれば肌を焦がし、記憶に触れれば心を灼く」彼はそう言って、自分のコーヒーカップをそっと見つめた。
     元来、彼はこのような精神的なものの類が苦手だった。好きか嫌いかは、効率を照らし合わせて話している。
     もともと、協調性のない。それは、弘人自身が一番理解していた。
     心臓に悪いくらいの空気感が嫌いだ。この人が好きとか、この人が嫌いとか、そのような類が嫌いだった。そもそも、そのことを話していて平和的な状況の所を見たためしがない。かくかくしかじかにも入らない、そんなしょうもない物が、彼は嫌いだった。
     ある日、全員で文化祭の出し物を決めていた。風鈴が泣く夏の日。彼はその中、ひとりで本を読んでいた。静かに、全体を定期的に見ながら、その輝かしいクラスメートをゆっくりと見て、ミステリーを読んだ。
     その時、吹いた風と共に、彼は思ったのだ。もしかしたら、自分は逃げているのではないか。輝かしいクラスメートから。意外にも建設的な対話から。笑顔から。恋から。人から。拒絶して、隔離して、逃げていた。それも、これも、全部自己満足だった。協調性のない、端っこに追いやられた埃なのだと。誇りなどないのだと。自分はいるだけの存在で、きっと、いなくなっても・・・。
     そんなことを考えていたら、頭が痛くなった。制服がいつもより邪魔に感じた。今までクラスメートに対して抱いた苛立ちも、何もかも、自分勝手な不可思議な理論だった。収集がつかないのだった。
     森の中で、一気に叫びたい。右手の指を眺めて、笑いたい。こんなに、しょうもないのだと。こんなちっぽけなくせに、自分だけの世界で、小さな脳で、小さな視界で、全部わかっていた気になっていた。
     誰も殴ってくれなかった。その手で。誰も、気にすらしなかった。流動性のこの箱の中で、障害物になって、知らないふりをして、冷たくなって、凍った。背伸びすらしなかった。それで十分だと思っていた。
     彼は過ちに気付いた。初めて、人の心を考えて、苦しくなった。
     恋ではなく、憧れでなく、苛立ちでなく、悲しみでない。
     ただ、夏のその鋭き日差しの下で、震えて、手を掲げて、助けてくれと泣き叫びたかった。自分の小ささに気付いた。風が吹いて、彼を遠くに飛ばすのではないかと思った。
     実際、彼は、誰かが理解してくれると甘えていた。来てくれると、笑ってくれると、友達だと言ってくれると信じていた。馬鹿だった。そんな、空想を抱えてこの学生生活を過ごしていたのでなかったのに・・・!
     彼は、明らかに、あの瞬間、人として成長した。初めての感触だった。
    古城がこちらを見た。「・・・林田さん?なんか、なつかしい顔をしていますね。どうかしましたか」
    弘人はしんみりとした顔で言った。「・・・大丈夫。夢を見ていただけだよ。綺麗な」そう発言して、はっとして、言い換えた。「・・・夢じゃない。僕の、大切な、宝者たちだ。」

    DATA  B「時計の長針」

     山は嫌いだ。必死に登っても、先が見えない。ゴールが見えないものに、人間は本気を出せない。だから、山は嫌いだ。
     怜奈は重い荷物を持って、山の上の伊小多研究所に向かっていた。それもそのはず、兄である弘人が様々なものを忘れていったからである。前の研究所の所長に頼まれた際は快く了承したが、まさか山の上に研究所があるだなんて、いくらなんでも皮肉が効いている。そもそも、荷物を忘れる方の頭が知れない。全部、この山の頂上から落としてやろうか。
     そんなことを考えていると、コンクリート造のドーム状の建物が二つ見えた。よく見て見ると、その間には廊下がある。
     入口に向かうと、警官が二人立っていた。何かあったのかと、彼女は心配になる。「何か、あったのですか?あの、林田に用事があって・・・」
     そういうと、警官は顔を合わせた後、こちらを向いて言った。「・・・現在、一般人の立ち入りが禁止されておりまして、申し訳ございませんが、引き返してください」
     「は?」彼女は憤慨した。ここまでわざわざ持ってきて、そしてこの仕打ちなのか。引き返せだと?人を馬鹿にしすぎだ!大体、兄だって、大事なものなら自分で持っていけばよいものを、わざわざなぜ私が持ってきているのだ!こんなものに時間を割く義理はない!もうこのまま帰ってやろうか。
     しかし、彼女はそのまま帰ってしまったら、負けた気がしたのだ。前言撤回、帰るわけにいかない!
     彼女は警官に懇願した。「兄に渡すべきものがあるのです。どうか通して下さい」
     警官は困った顔をする。「そういわれてもですね、今、このなかで事件が発生したため、通したくても通せないのですよ。本当に申し訳ありません。」
     「せめて荷物だけでも預かってください!」彼女がそう大声を出すと、裏側から一人の偉そうな警官がこちらを睨みながらやってきた。「・・・貴方、通すわけにはいきませんが、荷物なら預かりましょう。誰に渡せばよいですか?」彼女は必至に、息を切らして答えた。「林田です。林田弘人です!お願いします」
     その景観は言った。「・・・貴方、妹さんですか?林田さんの?」
     彼女は非常に驚いた。なぜそのことを知っているのだろうか。「なぜ?」
     「・・・いや、先ほど、真多里研究所から電話が来てですね、荷物を受け取ってほしいと委託されたんですよ。」
     怜奈は腹立たしかった。ただの駒にすぎないのだ。
     彼女は終始怒りながら、家へと帰っていった。「事件」という言葉は、認識できなかった。
     
     「林田さん、お荷物が・・・」村本がこちらにやってきて、何やら重そうなバッグを渡してきた。
     弘人はその荷物を受け取り、あまりの重さに一度地面に落としてしまった。ファスナーを開けると、中には充電器の数々と、食料品、さらに携帯が数台入っていた。部屋に運ぶのが億劫で、そのまま食堂に放り投げておくことにした。携帯は4台の中で2台は充電が切れていたため、ケーブルを刺して充電した。
     「・・・あの、林田さん、ちょっとこちらへ」そういい、村本が手招きをしている。事情聴取だろうか。刑事ドラマでしか見たことがない。何時間かかるのだろうか。
     談話スペースに移動し、火ぶたが切られた。
     「・・・林田さん。今回、死体の第一発見者ですね?どのような状況でしたか?」
     弘人は整理した。闇雲に考えても、意味がない。必死に情報を整理する。 「・・・あの日、私はコーヒーが飲みたくて、給湯室に向かいました。すると、食堂から音が聞こえました。大きくはありませんでした。その人物は東出口に近づき、「デルタ」と呼びかけていました。」「内容は?」村本は鋭い目つきでこちらを睨んで、威厳ある姿で椅子に座っている。
     「そうですね、何と言っていたかはわかりません。ただ、何かをしていたのは事実でしょう。そして、音がしなくなったのを確認し、食堂を覗くと、向田さんが倒れていました。犯人が部屋から出ていくのを、私は直視してはいません。すぐに全員を集めました。全員、太陽館から、南出口を通ってきているのを、私は確認しています。向田さんには素手で触れていません。」彼は事情聴取で、嘘をついたら犯罪なのかと考えた。
     「そうですか。ありがとうございます。そうですね、では、物音はどの方向からしましたか?」
     この後、3時間程度は続き、途中で休憩をはさむ事態となった。苦痛だった。こんなに長く人と話すのは、学生の時以来だった。コーヒーも、たばこも、テレビも見ることが出来ない状況に、苛立ちを覚えていた。
    他の人々はものの10分程度で事情聴取は終わっていた。全員、呆けている。死体があった場所を見るもの、コーヒーがこぼれたあとを見るもの、食堂を見渡すもの、絵画を見るもの・・・。
     最初は大勢いた警官も、最終的には3人にまで減った。未だに村本は残って、何度も何度も食堂を見ている。少なくとも、弘人は村本が休んでいるところを一度も見ていなかった。
     夜は明け、朝日が徐々に昇ってくる。窓の外が淡いピンクになっていく。キャンパスになる。
     弘人はゆっくりとコーヒーを飲む。もう冷めてしまって、正直美味しくはない。
     (熱は物体を構成する原子や分子の運動エネルギーの事だ)
     彼はそう反芻する。面白くはない。
     淡い光が全員の顔を朗らかに照らした。移動2日、事件から一夜が明ける。不可思議なものだ。どんなに暗いことが起きても、太陽は必ず昇ってくる。自然の摂理だ。人は、自分の近辺のことを自分の定規で測っている。それがどんなに愚かなことか。今日も世界は回っているのに。
     「あの、林田さん?起きてくださいよ。」古城が話かけてきた。
     弘人はゆったりと寝てしまっていた。それもそのはず、昨日は殆ど寝ていないのだ。眠気が一気に襲い掛かる。
     「ああ、はい、すみません、すこし、ね」弘人は生返事をする。眠くて思考回路が上手く動作しない。視界のピントがあっていない。ふらふらする。弘人は朝が苦手だ。何も考えられなくなる。どんなに興味があることでも、わからなくなる。
     「・・・あの、トイレってどこです?」彼はそう問うた。「えーと、給湯室の隣ですよ。こちらからみて左です。」彼女は言った。「rest room」と書かれたタイルがはめ込まれている。
     この研究所は、マップがなかった。どこにどんな部屋があるのか、彼はまだ掴めていない。わかるのは、事務室と、助手室、助教授室に教授室、そして食堂と給湯室だ。これだけわかっていれば、取り敢えずはなんとかなる。部屋にコピー機があったのが、幸運なことだった。コピー機の部屋はないらしい。不便極まりない。
     彼は、警察の許可をもらい、この建物全体を見て回ることにした。位置関係があやふやだった。
     入口は、宵月館の東にあった。ちょうどここからは駐車場やボイラー室、倉庫、実験室、サイバールームが見える。中に入ると、右手に事務室、左手に助手室がある。建物中央にいくと、東西南北それぞれに通路があって、その壁に沿うように部屋がある。事務室の隣は会議室、助手室の隣は仮眠室だった。会議室の前は講義室で、助手室の前は教授室、仮眠室の前は助教授室だ。
     太陽館に行くには、宵月館の北に続く廊下を渡っていく必要がある。太陽館の中心には食堂がある。円形の形をしていて、東西南北にそれぞれ、扉のない出入り口がある。南出口は廊下、東出口は給湯室、西出口はゼミ室、北出口は談話スペースがある。廊下と給湯室の間には、図書室と特別室、東出口と北出口はトイレと院生室が、北出口と西出口の間には研究室①と研究室②がある。そして西出口と廊下の間は、セミナー室と計算機室があった。意外と施設は多い。一階のみのこの施設で、これほどまで詰め込むのは、キャパオーバーな気がした。
    大体の位置関係が分かり、再度食堂に戻った。相変わらず警官2人がいる。    この施設には常に警備員が2人いるそうで、入口の前の、小さな小屋の中で、人の出入りを確認しているらしい。警官が来てから、久しぶりの長期休憩だと喜んでいた。この職場の事を「ブラック」ということは、重々彼も承知している。
     古城がこちらにやってきて、囁いた。「あの、いつ帰られますか?」彼は言う。「明後日かな。この場所、今すぐにも離れたいからね。事件解明は実力のある刑事や探偵に任せよう。僕は今も帰りたいのだけれど。」
    古城は髪をいじりながら言う。「あの、考えてみません?この事件。何かあると思うんです」
     彼は驚愕した。何を言い出すかと思えば、考えませんか、だと?今すぐに帰りたいのに、無駄足を増やしたくなかった。さらに、自分は事件と無関係なのだ。自分にも帰る義理がある。彼はそう考えたが、流石にそのまま伝えるわけにもいかなかった。「・・・そうだね、何かあるのは事実だ。ただね、僕は、もう帰りたいのだよ、古城さん。」
     古城は抗議した。「自分で考えてみたいんです。お願いします。ね?」
     「馬鹿げている。自分たちでは無理だ。考えられない。情報量に差がありすぎるのだよ。多分、自己満にもならないよ?」「それでもいいんです。一緒に考えてください!明後日まででいいですから、ね?」
     その時、後ろから太い声が聞こえた。村本だ。
     「・・・林田さん、どうもそういうわけにはいきませんよ。」
     彼は驚いた。なぜだろうか。疚しいことなど、何一つないのに。「あの、刑事さん?冗談はきついですよ。このタイミングで」彼はそう笑顔を演じる。
     「いえ、冗談じゃないですよ。あのですね、」村本は顔を顰めてこちらをみる。
     「なんです?」彼は真剣な目つきで相手を見る。
     「・・・向田さんのスーツから、貴方の指紋がたくさん検出されました。」
     「はい?なんですか、そんなわけない!私は彼に触れていないし、触れられていない!」
     「私どもは事実を申し上げたのみです。さあ、少しこちらへ。」
     「はい?何ということだ!冤罪だぞ!」彼は必至に抗議した。
     「取り敢えず、話しましょう。談話スペースに移動してください。」村本は無表情でこちらを睨んでいた。
     弘人は談話スペースの椅子に座った。冷たく、人間味をまったく感じさせない。
     目の前には、重々しい雰囲気の刑事が、こちらを睨んでいる。刑事もまた、冷たく、人間味を感じさせなかった。村本はコーヒーではなくただのお茶を飲んでいる。空気が鋭い。本番、というわけだ。
     「あの。どういうことです?スーツから、僕の指紋が・・・」弘人はそう問うた。理解が追い付いていなかった。今、彼はスーツを着ていた。たばこが吸いたい。
     「ええ、そうですよ。そうですね、指紋が、はい、でましてね」ゆっくりと、且威圧感のある話し方をしている。村本はふう、とお茶を飲み、こちらを見た。「スーツからね、たくさんですよ。」
     弘人は抗議した。「監視カメラは?確認したのでしょう?どうでした?」
     困窮極まりない顔で村本は言う。「写っていませんでしたよ。まったく」 そう言って、天井を見た。人間は、困ったときに上を向くのだろうか。   「・・・死体が突然でてきただけです。犯人は写っていませんでした。おそらく、サイバー室等で、その日のその時間帯を静止画でループさせるようにしたのでしょうね。ただ、その手のトリックは何度も見ましたよ」村本はこちらを見る。「どうなのですか?林田さん」
     弘人は言う。「そもそも、昨日、初めて来たのですよ?何を言い出すかと思えば・・・、本当にしょうもない!勝手に犯人扱いしないでもらいたい!」彼は大声を出して、必死に村本に潔白を証明しようとしたが、要素が少なすぎて、どうしようもない。「ほら、他の所の監視カメラは?どうなんです?」
     「全てです。全て、ループ映像です。意味がないのです、今回は。」村本はいかにもお前が犯人だ、というアピールをしてきた。
     「・・・わかりました、わかりましたよ。ならですね、こうはどうでしょう。私がこの事件を解明してみせます。明後日、夜、いいですね?きっと、きっと、見つけて見せますよ、犯人を。」
     村本は失笑した。「馬鹿な事を言わないでくださいよ、林田さん。いくらなんでも・・・、それに、私どもですらまだ分かっていないのです。どうすると言うのです?」
     弘人は言った。「・・・犯人は、分かっています。」
     村本は驚いた顔でこちらに身を乗り出してきた。「本当ですか?誰です?誰が犯人ですか?」
     「明後日、お伝えします」弘人はこの答を聞いた村本の行動に期待した。
     「・・・いいでしょう、わかりましたよ、もう。明後日までに教えてくださいね。それじゃ」そう言って、異例のハイスピードで事情聴取は終わった。
     助教授室に戻り、弘人は椅子についた。天井を見上げて、口を開ける。
     (自分の指紋が付いたスーツ・・・)
    どういう事だろうか。もしかしたら、犯人は自分に容疑を向けさせようとしているのか。
     (あの時聞こえた「デルタ・・・」の声は・・・?)
     確実にあの時、犯人はデルタに命令をしたのだろう。デルタに、命令受付の履歴はあるのだろうか。あれば犯人特定は簡単だ。ただ、ないとなると、非常に厳しい。
     (おそらく、犯人はこの研究所の職員か・・・?)
     彼は施設の部屋を確認している間に、研究所を囲む壁は上に有刺鉄線が張り巡らされていることを確認していた。さらに、入口には警備員がおり、警察への事情聴取で「人の出入りはありませんでしたねえ」と発言していたのを確認していた。ただ、事情聴取は嘘をついても原則罪に問われないことを知ってしまった為、彼等が嘘をついていないと案力に定義をするのは返って危険ではある。ただ、仮定しなければ始まらないため、嘘をついていないと仮定して考えることに帰結した。これには、後に嘘をついていると確定したとき、逮捕される可能性があるということも考慮した結果である。このことは、法学部の怜奈に聞いたことだった。
     彼は再度、食堂に向かおうとすると、古城がドアの隙間から顔を出した。 「あの、犯人がわかったんですか?誰です?」
     弘人は驚いて聞いた。「・・・言っただけで、事実ではないよ。それで、なんで知っているんだ?」
     彼女はやんわり笑って答えた。「ふふっ、談話スペースの端から、存在感を消して聞いていました。どうです?私、刑事になろうかしら」彼女は笑っている。
     「うーん、まあ、やってみる価値はあるんじゃないか?君が刑事なら、全世界の犯罪者が事実を答えそうだね。雰囲気でわかるものじゃないか、そういうことは、ね?」彼は曖昧に、そう答えた。
     「ふーん」彼女はそう答えたあと、「もし私が刑事ではなくて犯罪者になったら?」と聞いてきた。
     「あのね、古城君。それ、ジョークになってないよ、まったく。・・・まあ、でも、君がもし犯罪者だとしたら、全世界の刑事が困るだろうね。同じ理論で、ね?」彼は神妙に答えた。
     「ふふっ、それは褒めてらっしゃるの?」彼女はそう言う。なぜかその顔が魅力的に感じてしまった。
     「・・・うん、まあ、そんなところだね。とにかく、今は目の前のことに集中しよう。古城君、少し、捜査に付き合ってくれるかい?」彼は問う。
     「ええ、いいですよ。最初から賛成していればいいのに」彼女は笑って答えた。「捜査だなんて、重々しい単語を使うんですね、林田さん」
     「うん、ちょっとね」彼は天井を見る。「少し、困っていてね」
     「数学者ですね」彼女はそう言った。「概念に、縛られすぎていますよ。捜査には、自由な発想と、建設的な科学がないと」
     彼は問う。「どういうこと?」
     「定義できないものが、存在するかもしれない、という意味です」彼女は言った。「〈定義できない〉ことは、〈理解・認識できない〉ことではないのですよ。
     弘人は笑って言った。「そうだね、そうかもしれない。あぁ、これもまた一興だ」
     他愛もないわけではない話をし、弘人と古城は食堂へ向かった。現場を見ることは、捜査において非常に縦横なことなど、刑事ドラマで知っている。
    食堂につくと、殆どの職員は各自の部屋に戻っていた。深谷だけ、その場に残っていた。食堂をくるくる歩き回って、なにかぶつぶつ言っている。思考回路が読めない。時々床を見つめ、なにか思い出したように指を回した。右手にはコークが握られている。「あぁ、林田さん、古城さん。どうしたんです?」気づいたように、深谷は声をかけた。
     二人はお互いに顔を見合った後、「ええ、まあ、警察にケンカを売ったものでね、この事件を明後日までに解明して、顔に泥を塗ってやろうと考えたんですよ」弘人は答えながら、言語化すると以外と愚かなことだと自覚をした。
     「はは、刑事相手に、そりゃあ、魅力的だ」深谷は笑って、コークを飲んだ。「まあ、ただの一般的な数学者と、事件解明を専門とする超エキスパートの彼等じゃあ、結果が見え透いていますなあ。でも、こういうのも悪くはないじゃないですか?」終始笑っている。
     「犯人が分からなかったら、どうするおつもりで?」古城は弘人に聞いた。いつのまにかジュースを持っている。いつ買ったのだろうか。
     「・・・まあ、自分が無実なのは事実だからね」弘人はのんびり答えた。緊張感がなかった。こういう刑事ドラマのようなことは初めてで、実際どこから捜査を始めるべきか分からなかった。「・・・警察が、事実に到達するのを待とうかな。・・・ねえ、古城さん。ジュースはどこで買ったの?」彼は聞いた。
     「・・・先生、気を抜いていますね。また誰か殺されちゃいますよ」彼女は言う。「もう、一人殺してしまった人は、誰でも殺す覚悟があるんですよ、おそらく」
     「・・・まるで、xを0で割ったみたいだね」弘人は上を見た。「・・・不定だ」
     弘人は蘇原くみについて調べることから始めることにした。蘇原くみ・・・。前伊小多研究所所長。デルタの開発者。今、蘇原くみはどこに行ったのだろうか。事務室に歴代の所長の名が載っているかもしれない。古城に頼むことにした。「古城さん、ちょっと、過去の所長を調べられる?」
    古城は笑って答えた。「いいですよ。では、事務室へ」そういい、手を差し伸べた。
     彼はその手を無視して、事務室に向かった。後ろから、ぶつぶつと文句を言う古城が付いてきている。どうやら、手を取った方がよかったのかもしれないが、必要性が感じられない故、取らなくて正解だと理解した。もしかしたら、彼女は自分を試しているのかもしれない。
     「はい、これ」彼女は隅に置かれたファイルの山から、一つのファイルを取り出して、こちらに差し出した。黄色いファイルだ。
     「うん、ありがとう」彼はそう言って受け取り、中を見た。①から➂まで載っている。①は伊小多 蒼平と書かれている。どうやら、俗にいう初代らしい。二代目はあの蘇原 くみだった。備考欄に、「逃走。おそらく自殺」と書かれている。「古城さん、これ、どういうこと?」そういい、古城にその備考欄を見せた。
     「逃げたのですよ。遺書があったから、おそらく死に場所を選びに行ったのでしょうね。健全な思考回路ではないことは事実です」彼女は言った。
     「そうだね、自殺って、綺麗な死に方ではない」彼は言った。「一番、綺麗な死に方って、何だと思う?古城君」彼はそう言った。いささか不謹慎なのは承知の上で。
     「・・・老衰ですか?」彼女はそう言って顔を見た。「そもそも、死に方に綺麗さを求めてはいけないですよ。死んだら、名声しか残らないのだから」彼女はジュースを飲みほした。いつのまに、ペットボトルは空っぽになっている。
     「・・・そうだね。それもそうだ。理にかなっている」彼はそう言った。「・・・でもね、僕は思うんだ。多分、いつかは記憶の海の底で、誰かが思い出してくれるのを待ち続ける。それは心底辛いだろう?だから、綺麗な死に方を考えて、せめて、自分が生きてきたことに称賛したいのだよ」
     「ふうん」彼女はつまらなそうな顔でこちらを見た。「・・・ねえ、格好いいことを仰った気になっていません?そんなこと、これぐらいしか綺麗でありませんよ」そういって、彼女は指と指で小さな隙間を作って見せてきた。「それも、また人生ですよ」
     彼は言った。「・・・うん、話しがずれているね。戻そうか」
     彼女は抗議する。「いいえ、先生が始めた話です。私には関係がありませんよ。後始末は、言い出しっぺがするものです。そうでしょう、丹波君?」
     丹波は驚いた顔でこちらを見た後、「あ、あ、え、あえ、ええ。はい、そうです。」と歯切れの悪い発音でしゃべった。どうも、最近の出来事のことで混乱しているようだった。覚束ない顔をしている。可哀そうだ。海に浮く死体のような、青白い顔をしている。
     「まあいいんだよ。それで、デルタって、調べられないの?」弘人は言った。デルタがいじられた形跡を探そうとした。
     「・・・デルタには、いじられた痕跡がないそうです。サイバールームで、警察が調べていました」古城は言う。「・・・実は、デルタの管理者は、蘇原くみ自身なんです。なので、内部をいじれるのは蘇原くみと、ハッカーのみかな。でも、ハッキング対策が万全なはずですよ。最低でも、今まで、そんなことはありませんでした。つまらないですよね。最初から完璧だなんて」彼女は心底つまらなそうに言った。彼はこういうのに疎いため、よくわからず、「うん、確かにね」と曖昧に返事をした。
     弘人は随分と考えたが、突如、あることが気になった。「・・・ねえ、サイバールームって、なんであるの?もし、デルタが完全にハッキングも効かないとすると、サイバー室の重要性は皆無だよね?」
     彼女は言う。「飾りじゃないですか?ほら、サイバールームって響き、なんか惹かれるじゃありません?」
     彼は否定した。「いや、きっと、何か設置する意味があるんだよ。多分ね」
     彼女はこちらを向いて言った。「・・・先生、自動販売機って、どこにあるか知っていますか?」
     彼は答える。「・・・いや、知らない。なぜ?」
     彼女は答えた。「・・・私たちは、ずっと一緒に移動していたという先生の認識によって、私がどこでジュースを買ったのかという問題が提起されるわけです。しかし、もし、〈途中で一度別れた後、再度合流して食堂に入った〉と考えれば、この問題は、どうやってジュースを買ったのか、ではなく、どこにジュースを買える場所があるのか、という問題になる。つまり、たった一つの認識で、一つ問題が解決に向かうんです。」
     「はあ」弘人が納得するには数秒の時間を有した。「・・・それで、どこにジュースを買える場所があるんだい?」
     「そこです。そもそも、なぜ〈買う〉という行為のみでジュースが手に入ると思うのですか?もらったかもしれないじゃないですか?」
     「それはない。なぜなら、教授を覗いた全員が部屋にいるからね。深谷教授はあの時、コーク・・・。少し待ってくれ・・・。では深谷教授はどうやってコークを入手した?」
     「そこです、先生。そこです。深谷教授と私の共通点は?」
     数秒考えて、彼は言う。「・・・長くいる?」
     「あたり!そうです、考察は連想ゲームです。ゲームなんです」彼女は言った。「長くいると、場所はわかりますよね」
     「・・・つまり、僕が入ったことのない施設か・・・。倉庫かい?」
     「そうです!倉庫にストックがあるのです。それを、事務室の冷蔵庫で冷やして、飲んでいるんですよ」
     彼は驚嘆した。なんて魅力的なことだろうか。「・・・すごいね、古城君。本当に刑事に向いているんじゃないか?・・・そうだ、倉庫に行って、ジュースを飲もう」彼はジュースがあまり好きでなかったが、こんなことがあると、無性に飲みたくなった。
     入手したコークを片手に古城と一緒に歩いていると、深谷とすれ違った。「おや、林田さん。コーク、いいですよね。僕は、ビールなんかより、コークがいい。」そう言って、空のペットボトルを右手から左手に持ち替えた。「古城さんは?どこにいるのです?いつもなんだかんだ一緒にいるじゃないですか」
     彼は後ろを見た。誰もいなくなっている。「あれ、おかしいな・・・。おーい、古城君?ドッキリとか、やめておくれよ。心臓に悪いからさ」彼は言った。
     一分後、彼女は物陰からひっそりと出てきた。「ああ、林田さん・・・。ごめんなさい」彼女は手を合わせ、申し訳なさそうにうつむいた。「トイレに、あの、すみません、無断で」
     「いやいや、いいんだよ。こちらこそ、無神経で、すまない」これは、お互いに頭を下げ続けるという異常事態に発展した。それを深谷は遠い目で見ていた。
     「・・・あの、すみません、私はこれで、御暇させていただきますね」深谷はそういい、そそくさと教授室に戻っていった。それを静かに見ていた二人は、お互いに目を合わせて、「・・・行こうか?」と弘人は声をかけた。 「・・・ええ、はい」古城も賛成した。小さな、オメガの中で。

    DATA  C「無機質の声」

      また、雨が降り始める。もう、一日の半分が過ぎ去った。
     サイバールームの重要性が見いだせない今、弘人は頭を抱えていた。これでは明後日までに謎が解けないのではないかと、心配になる。
     (やはり突発的な意識の妄想に従うのはよくない)
    古城は隣で寝ていた。昼寝、と言ったところか。仮眠室が事務室に近いことは、彼女にしたらいいことなのだろう。静かに時間が過ぎていった。
     弘人は彼女を起こした。「古城君?おーい、起きたまえ。食堂に移動しよう。」
     彼女はゆったりと起き上がった。弘人の目には、非常に魅力的に見えた。  「・・・林田、さん?・・・おはようございます。食堂?・・・わかりましたよお」
     彼女はふらふらと立ち上がり、ゆっくりと、着実に食堂に向かった。
     3分くらい経っただろうか。食堂につくと、誰もいなく、規則的に置かれた椅子と長机のみが残されていた。空気が凍えるように冷たかった。何かに睨まれているようだ。
     突然、デルタの声が響いた。「22の情報を削除します。・・・削除しました。11の情報を削除します。・・・削除しました。終了します。」
     全員が気付いたのであろう。バタバタと走る音が聞こえる。一人、また一人と増えていった。
     深谷が口を開いた。「・・・22とはなんでしょうか?それに、11も。削除?」
     弘人もいう。「おそらく、デルタに登録されている番号でしょう。最初から22番目に登録された人と、11番目に登録された人が、情報を消されているはずです。」
     丹波がおどおどしながら、ゆっくりと言った。「・・・学生は、〈ゲスト〉と呼ばれる状態になって、正式に登録されるわけではないんです。ほら、入口で、カードをタッチすると、一時的に使えるんです。・・・そして、ここを出る際にもう一度タッチします。すると、一次登録は消えるんです。・・・過去に一度、正式に登録をした生徒さんがいましたが、今はもう・・・、解除しました、僕が。」
     「ということは、生徒以外か・・・。教授や助教授、助手に事務員、警備員とかですか?」弘人は推論した。なるほど古城が言っていたことが理解できた気がした。
     「いえ、警備員も〈ゲスト〉です。」古城はさっきまでのゆったりとした空気感ではなくなり、仕事中の顔になった。思わず背筋が伸びる。
     「そうなんですね。で、22番目と11番目は?」弘人は周りを見ながら言う。
     古城が静かに口を開いた。「・・・いません。」
     丹波を除いた全員が驚いた顔をした。思わず弘人も声がでてしまった。
     「では誰の情報です?」弘人は大きい声で言う。
     その時。
     「・・・不審者を感知、不審者を感知。食堂、食堂。至急、現場へ急行してください。不審者を感知、不審者を感知。食堂、食堂。至急、現場へ急行してください。登録されていない人物がいます。」デルタの機械音が聞こえた。彼等は食堂にいたため、慌てふためいた。
     「誰だ!」「逃げるな!」そういい、さっきまでこの研究所敷地のゲートの前にいた二人の警備員が飛んでやってきた。「みなさん、見ましたか⁉」
     「いや、見ていない」弘人は答えた。全員が頭を横に振っている。誰も不審者の姿など見ていなかった。空気感がいっきに引き締まり、静寂と緊張が全体を体育館のように、反響してこもっていく。
     「・・・うーん、丹波さん、古城さん。ちょっと、デルタを見てもらえます?私どもは戻りますね」警備員はそそくさと帰っていった。
     10分間、そう、丹波と古城が帰ってくるまでの間、夏の声に耳を傾け、白くなったコンクリートを眺めて、のんびりとする時間なんてものを失くした悲しき人間たちは、何もしゃべらず、何も考えず、ただ、呆然と立っていた。そうするしかなかった。窓からは空が見えた。ただ、すりガラスだからか、ぼやけて、点の集合のように見える。
     (夏の風景の部分集合だ)
    彼はそんなことを思っていた。否、自然と感じ取っていた。
     「林田さん!登録が、解除されていますよ!」古城が息を荒げながら食堂に走ってきた。
     「なんだと?」弘人は窓から目を離して、彼女を見た。「・・・今すぐ見せておくれ。どうなっているのだ?もしや、22か11が自分なのか?」
     「そうとしか考えられませんね」深谷は言う。「犯人は、おそらくですが・・・、個人的に捜査している林田さんが事件の真相に近づくのを拒絶しているのかもしれませんね。こりゃ、かなり厄介だ。」
     急いで古城と共に、事務室へ走った。丹波がこちらを見て、「これ」と画面を指さした。
     ユーザーというファイルの中には、謎の番号が一人ひとりに振られていた。例えば、深谷は13、宮下は12といった調子だ。とにかく、弘人は自分の登録をした。番号は11だった。つまり、もう一つの22は、おそらく何者かに殺された向田のものなのだろう。
     しかし、この数字が表すものは、不明瞭なものであることには変わりはなかった。
     (たった一つの認識で、一つ問題が解決に向かう、か)
     彼は数字が表示されているパソコンの画面を見た。否、光の集合体を見た。赤、青、緑・・・。混ざれば黒くなりそうなのに、光になると途端に白く変わる。光らないと黒くなる。しかし、紙は白い。そして上から文字を書くと黒くなる。光と色は、根本が違う。色だけが分かっても光を理解したことにはならないし、光だけが分かっても色を理解したことにはならない。人間から見れば同じ「色」であるにも関わらず。
     考えてみれば、パソコンが情報を扱う際には、二進数で判断しているのだ。オフか、オンか。コンピューターのCPUは、論理ゲートと呼ばれる回路で0と1を加工し、情報を処理しているのだ。つまり、彼等は0と1のみで処理も、表示も行っているのだ。
     二進数は、0か1で表されるため、ズレが生じても補正しやすい。さらに、回路もシンプルになる。それに比べて、人間はさまざまな情報を、こんなちっぽけな頭脳で複雑に処理し、表現しなければならない。オンかオフで表現できない問題も沢山ある。点と点が線となり、線と線が面となり、面と面が立体になる。四次元は、さらに高度な問題になるのだろう。
     所詮、色だって、この頭脳を用いて人間的に解釈しているのに過ぎないのだ。緑と青がないから赤に見えるリンゴも、他の動物からは黒に見えたり、青に見えたり、そもそも見えなかったり・・・。
     そこまで考えて、弘人はある悍ましいことに気が付いた。
     (認識できない?見えない?)
     そんなものはない。
     否、認識できないからないように見えるだけだ。
     曲がり角の先にも世界が広がっていて、人が騒めき、太陽は光を届け、夜が訪れるが、私たちが曲がる寸前まで、その曲がり角に世界が広がっているとは考えない。見えるから認識できるし、認識できるから見えるのだ。相互関係である。
     もしかしたら、この研究所にも、認識されていない、或いは見えていない人物や現象や、謎や推論があるのではないか。そいつ等はこちらを認識しているのに、自分たちが認識できない様子を見て、けらけらと腹を抱えて笑っているのかもしれない。見えてないんだ、と。馬鹿だな、と。
     三次元の住民である我等は、四次元を認識できない。これは、脳が三次元の理解に特化しているからだ。進化の過程である。
     数学者は、X軸とY軸とZ軸とW軸という、四つの軸が互いに直角に交わるのが四次元の空間と仮定している。三次元の我等は四次元をイメージできない。ただ、数学というツールを使うことで、イメージできない空間さえも自在に操ることが出来る。
     (過程、仮定、課程・・・)
     仮定することから始めれば良い。数学という類なき素晴らしいツールを使って、イメージを超越した自由を獲得することが、この事件の根幹だ。
    それに気付くと、弘人は笑い始めた。
     古城がこちらを見て言う。「・・・林田さん?どうしたんです?さっきから・・・。突然パソコンの画面を睨んで、笑いだして。怖いですよ」
     弘人は笑いながら答えた。「・・・はは、すまない。ね、あの、この事件、素晴らしいね。数学的だ。まったく、私が解くと想定したかのようだ。・・・はは、楽しいね、やっぱり」
     古城は怪訝そうな顔でいる。「・・・大丈夫ですか?別にどこにも数学の要素はないですよ」
     彼はそういう古城を通り過ぎて、事務室を出た。なにか、清々しい気分だ。そうだ、今、固定概念を破ったのだ。そうだ、実感が湧いてきた。脳が急速に回転し始める。準備が出来た!
     「・・・古城君。今から、解いて見せる。・・・なんだ、簡単じゃないか。W軸を考える必要がない」
     古城は不思議そうな顔をしている。「W軸・・・ってなんのことです?」
     彼は答えた。「・・・向こう側さ」
     四次元的犯罪者を見つけるには、無理やりイメージ出来るようにすればよいのだ。よって、仮定すれば話が速いのだと、彼はあの数秒間で実感した。
    ただ、時間は刻一刻と過ぎていた。現在16時後半。一旦、夜ご飯を取ることに決めた。食堂に行って、キッチンに立った。今、学生や料理をする人はこの中に入れないため、自分で作る必要があるのだ。
     古城が食堂に入ってきて、怪訝そうな顔をした。「林田さん、ご飯作られるのですか?」
     彼は言う。「まあ、生姜焼きとか、グラタンとか・・・。まあ、簡単で美味しいものを作ろうと思っているのだけれど。」
     古城はさらに顔を顰めて言う。「・・・あの、私、作りますよ?ですから、待っていただいて十分です。林田さんは事件の調査をしてください」
     弘人は言い返した。「ちょっと待ってくれ、それじゃ、僕が料理出来ないみたいじゃないか、もう・・・。あのさ、この場には少ない人数しかいなくて、しかも全員自室で仕事をしちゃう変人だらけなのだよ?せめて、僕も手伝ってあげたい」
     「いいですから。変人なのは承知の上ですから。・・・それに、林田さん自身も変人でしょう?」古城はきつめの単語で返す。
     「ちょっと、失礼が過ぎるんじゃないか?・・・わかった。僕が引こう。任せたよ。」彼はゆっくりと南出口へと向かっていった。
     「あの、その言い方、私が悪いみたいじゃないですか⁉お互いさまでしょう?」古城は後ろから指を刺し、そう文句を言った。
     「ああ、わかった、わかった。すまなかった」彼はそう言い、その場を後にした。殴られたような衝撃があった。何故か、色々な心情が混ざって撹拌されたような気分に襲われた。
     何か、人の、根源的な、深い感情の起伏の波の一部になった感覚が、彼の頭に渦巻いたのを、彼は見逃さなかった。
     とにかく、捜査をすると言ってしまったからには、義務を遂行せざるを得なくなった。彼にしては、異常なほどに論理的でないことは、一番彼が承知していた。
     この施設には、まだ2日しかいないが、何故かすでに愛着が湧いている。所詮、そんなものだ。
     彼は、まず、あの数字に関しての謎を解くことに決めた。順番立てて計算すればよい。自分が11だった。例えば、英語だとすればどうだろうか。 HayashidaのH。否、これでは8番目だ。
     なら、データ内のファイルを見よう。そして、具体的な数値の決め方を見ればよいではないか・・・。そうと決まれば、今から見に行こう。
     彼は意気揚々に歩き出した。感情の起伏が激しいのは、彼自身が一番わかっている。助教授室のパソコンから中身を見ることにした。
     ログインをして、内部を見ようとしたが、どうやらこれは全員が内部を見られるわけではないらしい。考えてみれば当たり前なことだ。
     そのため、彼は丹波の所へ向かった。
     「丹波君。あの、デルタの内部を見せてくれないか?」
     丹波は恐縮そうに答えた。「・・・すみません。僕は、持ってなくて。あの、古城さんがそういうものに精通しているから、渡したんです」
     おそらく、管理者の権限だろう。弘人は困惑した。それでは、古城に頼むしかない。
     否、これは問題ですらない。変換機構をⅩと置けばいい。Ⅹは、意図的に、デルタに組み込まれているはずのではないか。その、裏を読めばよい。
     「連絡。・・・食堂に集まってくださーい。食事が出来てまーす。・・・終了」
     デルタの声だ。アナウンスが出来るのか?否、放送と言うべきか。連絡と終了以外は古城自身の声だ。意外にも、古城がこの事件に深く関わっている可能性がある。
     食堂に戻ると、彼を覗いた全員が席に座って食事をとっていた。「久しぶりの食事だ」「こりゃ上手いな」「古城さん、上手だね、料理」
     あの殺人現場とは思えないその雰囲気に圧倒されながら、彼は古城に話しかけに行った。「すごいね、好評じゃないか。・・・あの、さっきはすまなかった。僕が悪かった」
     古城はこれでもかという表情でこちらを見て、「わかってくれればいいんです。・・・ほら、先生も食べてください。」その笑顔は輝かしい笑顔だった、
     サラダ、豚肉のソテー、エノキの味噌汁。安定的な、どこか懐かしい料理だ。調理実習を思い出す。
     食べて、彼は驚いた。これはすごい。すごすぎる。専門店で出てくるコース料理のような、定食のような美味しさが輝いていた。
     「・・・これ、すごいよ。すごい!ずっとこれでもいいぐらいだ!」彼は言った。過大評価ではない。本当に、素晴らしかった。「小さいころからやっていたの?それとも、彼氏とかかい?」誰でも取っ付きやすいよう気を付けて、ふざけていった。
     古城は悩み、「小さいころから、好きでしてね。・・・彼氏?居たらこんなところに居ませんよ」彼女も笑っている。良かった、セーフだ。
     その後、殺人現場とは思えない豪華なディナーショーと化した。ただ、楽しかった。こんなに楽しい食事会は久々だった。ラムダのようだ。この状況を表す言葉を、彼は知り得なかった。
     「古城君、これ、後でレシピを教えてくれないかい」弘人は、彼の脳内レシピに新しい物を追加しようとしたのだった。
     古城は言った。「・・・じゃあ、今からいう問題が解けたらいいですよ」彼女は意味深な顔で、笑っている。
     彼は身構えたが、背に腹は代えられない為、受けて立つことにした。  「・・・いいよ。出して、問題」
     彼女は一瞬俯くと、こちらを見ていった。「じゃあ、1, 11, 21, 1211, 111221の、次の文字は?」
     彼は急速に解明を急いだ。1と2だけ・・・三進数か?否、規則が生まれていない。1は十進数でも1だが、11は十進数では4だ。さらに、21は十進数で7であるから、おそらく、三進数で考えていることが間違いなのだろう。では一体どんな関数で考えればよいのだろうか・・・。
     彼は考えることをやめない。ひたすら考えていたが、終いに訳が分からなくなって、ついに降参した。「古城君、これ全然わからないよ。・・・もう、答えを教えてくれたまえよ」
     古城は隣に座って、言い出した。「1は1が一個です。11は1が二個です。21は2が一個、1が一個です。1211は1が一個、2が一個、1が二個です。111221は1が三個、2が二個、1が一個です。ほら、結構簡単でしょう?次の数字は?」
     彼は言う。「・・・なるほど、数を数えて、ひっくり返しているってわけか。だから、1が三個は、31で、2が二個は22で、1が一個は11なわけだ。よって、312211だね?」
     古城は嬉しそうな顔で言った。「正解!見方を変えれば、すんなり答えがでたでしょう?因みに、このような読み上げて、その読み上げた内容を次の数字として表現するというルールで作られた数列を、専門的には」
     彼はすかさず言う。「Look-and-say Sequenceだね?見て話す数列だ」
     「そうです。最近本で読んだんです。意外と面白いもんですね」彼女は笑った。「問題は、出している側が試されているようなものですから」
     「確かに、その意見は的を射ているね」弘人はワインを飲みながら言う。「人間の本当の能力は、問題を解くことではなく、問題を発見する、作ることだ。試験とかで問題を出すのは、本質的に見れば、解答者を試すものではなくて、問題提出者が試されている。僕は、自分の授業ではテストを出さないけど、生徒のした質問で、評価を付けているよ。おかげで、別の意味で生徒からは人気らしい」
     「いいな。私、先生の授業を受けたかったな」彼女はそう言った。「まあ、私たち人間も、結局は物質の集まりであるのですからね、お互いに試しあうのも、神視点からみればしょうもないものです」
     弘人は驚いて、しかし冷静に言う。「ん?まあ、確かに、その通りだね。脳も、意識も、体全体も、物質の集まりだと考えられる」
     「意識・・・。クオリアですね?」彼女は言った。「赤を何故私たちが赤と認識しているのか。何故甘い物を甘いと認識しているのか」
     「その通りだ。今見ている世界だって、所詮は脳が作り出した幻想に過ぎない・・・。夢とかが、実感しやすい一例だね。」弘人はグラスを持ちながら言う。「なんだか、古城君と話していると、脳が活性化してくる気分だ。酒が入っているからかな」
     彼女は魅力的な声で言った。「先生の脳です。まだ、誰も知らない。盲視です」
     弘人は言った。「・・・ちょっと、仮眠室で寝たいから、ここを出るよ。じゃあ、また明日、古城君」彼は言った。「また面白い問題、期待しているよ」
     彼女は大きい声で言った。「もう出しました。先生の鼻を折って差し上げますよ。覚悟しておいてくださいね、先生。あと、事件のことも、頑張ってくださいね」
     彼は言った。「なんだ、君。それじゃ、傍観者じゃないか」
     深淵の溝に立っている。静かに揺られている。黒い視界にはよそ見する隙がない。目の前には谷がある。ここから落ちたら、確実に向こう側へ行くのだろう。彼はそう直感で理解した。
     空も、地も、全部が黒い。明かりがない。
     彼は気付いた。なぜ、明かりがなくて全てが黒いのに、谷があると認識できたのだろうか。見えていないはずなのに、認識は出来ている。
     彼は一瞬で理解した。そうか、盲視だ。見えていないけれど、脳が認識しているのだろう。もしかしたら、脳の認識の世界なのだろうか。
     この領域は白いのだ。光があって、眩しい。ただ、彼が、見えていないのだ。認識が違う。とてつもなく広い世界を、狭き認識で生きているのだ。元来、みんなそうだ。クオリアの箱から出られない。機械はクオリアを持っていないが、人間はクオリアを持っている。もっと言えば、今の科学では、木も、石も、クオリアを持っていないと否定することが出来ない。
     彼は飛んでいた。しかし歩いていた。彼は見ていた。だが目を瞑っていた。丸いのに四角い。ただ、遠い目で見れば同じだ。一緒だ。違うものだって、よく見れば同じだった。
     虚偽を偽って、嘘を知って、地獄を繕って、未来を切って・・・。所詮そんなものだ。
     ふと、世界が安泰に包まれた。黒い世界に白さが走った。否、見えるようになった。プラズマが輝いた。ヘッドライトが反射して見えるように、彼の目に、壮大な華麗さが戻った。
     「・・・林田さん。そろそろ起きてください?」うっすらと古城の声が聞こえる。目が少し開いたのだ。
     「・・・うん、ごめん。飲みすぎたんだよ、きっと」弘人は言った。寝ていたのだ。時計を探して、見ると、9時だった。二日目。明日、村本が来る。答え合わせをする時が来る。
     飛び起きた。今すぐに事件について考える必要がある。彼は大声で言った。「古城君!紙とペンをくれ!」
     古城は待っていましたと言わんばかりにすぐ必要な物を渡した。「言うと思いましたよ。どうぞ」白い紙と黒いペンだ。
     彼はそれを受け取り、間取りを書いた。「いいかい、古城君?僕は、この西出口の外でデルタの声を聴いたのだ。しかし、ここにドアはないし、もし仮にドアがあっても、カチッという音は閉じないとならない。つまりだね、何かを閉じたのだろう。何だと思う?」彼はそういい、印をつけた。古城は何か言おうとしたがそれを弘人は遮った。「おそらく、秘密の空間だろう。そのあと、僕が死体を見つけたのだから、死体を取り出したはずだ。つまり、僕が見た死体は、あの時に殺されたのではなく、その前に殺されたのだ。」彼は古城が持ってきていたコーヒーを見て、飲んだ。「・・・スーツは、僕のではなかった。いつもたばこを入れているから、少し膨れているんだよ、僕の胸ポケット。おそらく、僕の物と入れ替えて、容疑を僕にそらそうとしたんだろう。多分、死体を取り出して、スーツを替え、秘密の空間を閉じた。その時の音が聞こえたんだ。」
     古城は聞いた。「確かに、理に適っているし、論理的ですね。そして、犯人は?」
     彼は俯いた。「わからない。そこが問題なんだ。方法が分かっても、動機はわからない。」彼は首を傾けた。「わかったら、もう伝えているよ。でもね、怪しい人物が居るんだ。」
     古城は驚き、聞いた。「誰?誰です?」
     彼は少し間を置いて、ゆっくりと、反芻するように言った。「・・・深谷さんだ。おそらくだけどね」
     彼女は目を輝かせて言った。「どうして、そう、帰結したのです?他にも沢山人はいるのに」
     彼は言う。「さっきの話通りに行くとすると、その後、一番初めにここに来た深谷さんが一番怪しい。ただし、確実とはいえる確証がない。」
     彼女は首を振って言う。「そこまで行ったのですから、大丈夫ですよ」
     彼は何が大丈夫なのか疑問を持ったが、気にせずに捜査の続きをした。「デルタ、全員を食堂に集まらせてくれないか」
     「チェック、受け入れました。全員を食堂に集合させます」デルタの反応は異常に早く、館内に騒がしいほどに反響した。彼には冷酷に感じた。
     弘人と古城は仮眠室を出て、食堂に向かうと、すでに全員が集まっていた。全員、神妙な顔で各々椅子に座って待っている。
     深谷は部屋を見渡している。何かを考えている顔だ。何故か立ったり歩いたりして、落ち着いていない。弘人は不思議な感覚に襲われた。あんなに身近に殺人鬼がいたのだと。
     古城が言った。「明日でもいいんじゃないですか?今言ったら、何かされる可能性があります。」
     弘人は言った。「例えば?結果論で言えば犯罪が増えるだけだ。」彼は平然そうな顔で話す。「もっとも、まだ確定したわけではない。」
     古城は再び言った。「明日って不思議」
     彼はその発言に驚いた。おそらく、彼女の脳内は、爆発的な何かで動いているのだろう。対応も、順応も以上なスピードだ。「明日って不思議なんだよ。今日にとっての明日は、今日なんだ。つまり、明日は永遠にこないとも捉えられる。」
     古城は答える。「明日になれば明後日が明日。明日は来ないように見えますけど、確実に自分たちは明日に向かって生きているし、明日に期待して夢を見ています。その考え方は流石に無理がすぎます。」
     手の届かない明日を追いかけることでしか、今日という現実を生きられないのかもしれない。明日は決して〈到達する場所〉ではなく、〈見ている幻想〉なんだ。」古城は言い返す。「信じられません。では、私たちは何を拠り所にするのです?」彼は冷静に返した。「永遠に来ない希望が拠り所だ」
    色々な謎が複雑に交差していることは、目に見えていた。おそらく、安直に決めつけるのは間違っている。計画的な観測が必要なのだろう。ただ、今このタイミングで観測を始めては、明日に間に合わない。ただ、一つわかることがあった。やがて、それは1つになる。
     細長い、白い線が黒い線と交わり、グレーになる。永遠に交差して、解かれないと思われた線がはさみで切られ、別の二つのグレーになる。ただ、切った跡が残り、いつかはそれらが繋がる。遠い、いつか。
     そのいつかが、今になればいいと彼は思う。数ある輝きの中で、それらを無視して、その線を繋げて掲げたいと彼は思う。思うだけだ。
     積み木が崩れるように、全てを蹴散らす。ただ、それはある特定の観察点からみれば積み木を積んでいるのと同義である。鮮明な雲、好機の崖、遠方の脳、倦怠の楽・・・。
     はるか昔の未来には、新しい空の色があって、今もそれを夢見て生きているかもしれない。激痛が走って、体が重くなる。白いも、黒いも、周波数だ。
     マジックのように、華やかに散るだろうか。後味が悪いものは嫌いだ。少しのスパイスも欲しいが、清々しく終わりたい。眩しく、ただ暗く、遠く近くで終わりたい。
     彼はただ立っていた。そんなことを考えながら、寂しさに打ちひしがれながらも、ただ強い覚悟を持って、彼は立っていた。空気が冷たい。全員、誰もしゃべらなかった。ただ、固唾を飲んで弘人の初めの言葉を待っていた。視線が集中して、弘人は初めの言葉に迷った。
     「・・・深谷さん、あの日、何をされていました?」彼は覚悟を決め、口を開いた。静かだった食堂が、さらに静かになった。凍結しそうだ。
     「・・・林田さん。僕が犯人だと、お思いですね?」深谷は冷静に言った。弘人は思う。明らかに、この研究時で2番目に頭がいいには深谷教授だ。「林田さん。私はずっと宮下君と共にいました。ずっと、です。これ以上のアリバイがありますか?ないでしょう?残念ですが、違う可能性を考えるべきです」深谷は淡々と答え、弘人の目を見た。弘人は少し狼狽えた。
     「いえ、確実、ではありません。可能性が高く、現実的であっただけです」彼は冷静を装って言った。内心では数々の爆弾が起爆され、心を削っていた。「極めて、論理的でしょう?」
     深谷は終始こちらを見ながら耳を傾けていたが、最後に言った。「・・・私は、知りたい。この事件を起こした犯人を。動機を。理論を。思考を。」
    脆弱な鼓動の中で、遠くなりかけていた意識が戻る。眩しい。朝日が入っていた。顔の半分が綺麗に照らされていた。影は長く、寂しかった。
     彼は助教授室に戻り、冷静になって事態を考えることにした。それ以外に方法はない。タイムリミットは迫っている。いつ来られるかわからない。
    まず仕事を片づけることにした。メールを見ていると、長田から連絡が来ていた。
     「よー、大丈夫そうか、そっちは。
     そういや、小説、本格的に書き始めたんだ。書き終わったら送ってやるよ。
     それで、詩を書くことになったんだけど、これ、どうかな。感動系で行く予定なんだ。
    『ソナタ』
    春愁 私は思い出す 道路の向こう側の君の影 花火が散って輝いている 私は静かに涙を流す
     
    そのままでいい 貴方でいいから いつか 手を合わせたら 笑ってください
     
    いつかいつか 貴方に逢えるなら 何度も何度も 謝りたいから
    許して欲しい 辛くても 一輪の花が 咲いていた
     
    秋愁 私は繰り返す 裸足で駆け回る貴方を それは果てしなく 無限を表していた
     
    裏の裏は表だから もう振り返られない 何度も願っても 虚しさだけ 激しくなって 
    私を永遠に 追い詰める
     
    初めから もう決まっていたのかな 今生の 別れが
    話をしたい 静かな掌を 眺めてまた涙
     
    グラジオラスが咲いて 添えていたはずなのに 許しを乞うても無駄なのかな 神は何を見ているのかな
    幸せなんてあるのかな 絆なんてあるのかな それでも 生きる意味は何かな
     
    いつかいつか 貴方に逢えるなら 何度も何度も 謝りたいから
    許して欲しい 辛くても 一輪の花は 枯れてしまっても
    初めから もう決まっていたのかな 今生の 別れが
    話をしたい 静かな掌を 眺めてまた涙
     
    花瓶が割れて 哀しさが通り過ぎて 季節が過ぎ去った
    貴方を追いかける 果てしなく遠く近い天国へ 天国へ
     
    どう?結構よくない?ほら、ソナタも、オーケストラとかのソナタと貴方のソナタをかけているんよ。
    気付いたら返事くれ。あと前の『是』ってなんだよ。もっとちゃんと返せよ。        長田 英」
     弘人は二回読んで、詩に対する感想を書いて送った。
     「もう歌にしろよ」
     そう返して、パソコンを閉じた。そして、目を閉じた。
     (深谷は宮本と一緒にいた)
     アリバイがある。間違っていた。
     (カチッといった時の動作は・・・?)
     扉を閉じたのは明確だ。でもどこの扉を・・・?
     (蘇原くみとは一体・・・。事件と関係あるのだろうか・・・?)
    全てを疑う。それは、どんな状況でも怠らべからずことである。
     (認識・・・。理解・・・。)
     古城の言葉がずっと彼の頭の中で反響し続けている。
     (プログラマ?)
     (絵画?)
     (停電?)
     (開閉?)
     (感覚?)
     彼の中でそれらの単語群が騒めき続けている。
     (犯人は誰だ?どこにいるんだ?)
     彼は天井を見た。ただ、空を見ていた。
     ・・・ん?
     彼はある特異点に気が付いた。見落としていた。
     突発的に出たが、それはいかにも当たり前のように、姿を隠して存在していた。
     (そうすれば、謎は解ける・・・!)
     彼はひどく頭を掻きむしった。
     (なんで気付かなかった!最初から、答えは出ていた!)
     彼は悔しさと虚しさと、突発的に出たその〈仮定〉に翻弄されながらも理解に努めた。
     期待していた。
     甘えていた。
     彼は知っていた。
     全てを疑うのを怠らべからず・・・!
     (デルタにこの質問をすれば、この答が返ってくるはずだ!合っていれば、仮定も合っているはずだ!)
     彼は覚悟を決め、大声で言い放った。
     「デルタ・・・、〈アテネの学堂〉をオープン!」
     沈黙。ただ、すぐに破られた。
     「・・・チェック、受け入れました。〈アテネの学堂〉を開きます」

    DATA  D「封印の箱」

    「海を漂っている。鳥が泳ぎ、魚は話す。夢だろうか。
     遠く離れた孤島に、一軒の家が建っている。中から人間が出てくる。
     私はそれを目掛けて一直線に走る、走る、走る。
     届かなくてもいいと思う。届いてほしいと思う。
     相反する心持ちが混ざり合って苦しめる。
     人間は家に引っ込んで家が明るくなり
     辺りが暗かったことを知る。自分が輝いていたことを知る。
     気付けば海が光っている。                    」

     弘人は長田が遥か昔に作った詩を読んだ。彼は長田との学生生活は一番輝いていた瞬間だったと自負している。何をするのも楽しかった。何をするのも無敵に感じた。
     彼は、暗い太陽館へ行き、コーヒーを取りに行った。そして、食堂に行った。
     ・・・〈アテネの学堂〉の絵画が開き、中に人が一人だけ入れるぐらいの小さな隙間が現れた。彼はそれを確認し、静かにガッツポーズをした。
     (やっぱり、合っていた・・・!)
     彼は達成感で浮いているようだった。計算があっていた。否、気付けた。彼女に追いついた。蘇原所長に。彼にはそれだけで十分だった。鳥肌が立って、彼は辺りを見渡した。
     この事件は一人で行われていたと勝手に推測していた。それが間違いだった。二人の犯罪者に、彼が気付くのは遅すぎた。隠れられる場所が、東出口にあるとする。ドアがないため、他の人が入れるところが閉った。それは、絵画以外ありえない。それ以外に可能性がない。人が一人多かったのだ。認識していない〈最後の一人〉がいるのだ。それ以外に考えられない。
     ファイルには、デルタが蘇原所長によって作られていることが分かっていた。つまり、こんな仕掛けを作れるのは、蘇原所長自身のみだ。彼女しか管理者の権限を有していない。つまり、彼女はこの日を予言していた。
     否、人間の突発的な衝動ではない。これは、年密に計算された、結晶のような事件だ。
     ・・・この事件は、蘇原所長自身が起こした事件なのだ。ここに、蘇原所長がいるのだ。深谷は、その可能性に彼より先に気付いていたのだろう。何ということか。
     ただ、彼女がどこにいるのかは分かっていない。どこへ逃げたのだ。
     しかし、確実に、協力者がいるはずだ。何故なら、その中にずっといたと分かっている今、弘人と向田のデータを消した人物が必要だからだ。
     どちらもわからない。霧中の中だ。
     (蘇原くみ・・・)
     頭が回転を始めた。こうなると、誰も彼を止められない。
     (二人いる・・・)
     どこに?これ以上に隠れる場所はない。共犯者は彼が見たことのある人物だろう。
     (誰だ?誰が…?)
     申し分ない回転力を持ってしても分からない。
     遥か遠くにあったはずの結果が、着実に近づいている感覚があった。水平線の向こう側から、ゆっくりと登ってきている。華やかだ。ロマンスとミステリアスが混ざっている。不自由ながら、自由に歩いている。彼は考えていた。迅速に、的確に。
     急遽、思想が宇宙のように無限大に広がり、すべてを理解し、彼は驚愕した。そんなことはあってはならない。
     彼は急いで助教授室に戻り、警察にメールを送ろうと、走り出した。その時だった。
     イナズマのように、それは突如表れた。
     曲がり角から、人影が見えた。彼は大声で叫んだ。
     「古城君!やめろ!」
     その人影は、一度竦んだ後、煌めく刃をこちらに向け、走ってきた。
     人影はしゃがみ、足を目指して飛び込んだ。
     ぐしゃっ。ぐ、ぐしゃ。
     太腿に刃が刺さって、彼は絶叫した。
     人影は包丁を引き抜き、そばに立ち、包丁を振り上げた。
     声が出なかった。目の前が真っ白になった。
     その時。
     「林田さん!大丈夫ですか⁉」古城がこちらに走ってきた。「ひどい・・・!」
     それを見て、人影は向こうへ走っていった。脳内がパンクしそうだ。
     「太股・・・。大腿動脈・・・。」そう言い、古城はハンカチを取り出して、傷にかぶせ、体重をかけた。「救急車を呼んでいますから、安心してください!」そう言って、彼のネクタイを取り、心臓に近い所に巻き、棒を取り出して強く縛った。そして時計を見ている。そそくさと、古城は着ていたスーツを、彼に着させて、彼女は大声でデルタに命令していた。
     意識が遠くなる。もう、夢か現実かわからない。
     ただ、彼はあることに気が付いた。
     悍ましい。それでいて華麗な、事件の事実に。
     彼は、白いベッドの上で目を覚ました。窓からは和やかな風景が、確実に目に届いた。眩しい。
     「・・・古城君、ありがとう」彼は必死に声を振り絞り言った。隣には若干涙ぐんだ古城が座っていた。彼は、彼女が自分自身を助けてくれたことを認識していた。
     「林田さん・・・、あの、その・・・、よかった・・・、本当に」そういい、彼女はこちらに飛びついてきた。そして涙で彼の肩を濡らした。
    弘人はそれを引きはがそうとしたが、痛覚が体に迸り、それを諦めた。  「・・・古城君、ちょっと・・・。今少し痛いから、離れておくれよ」
     古城は我に返ったように体を引き戻し、「ごめんなさいっ」と身をすくめた。その時、その顔が魅力的に見えてしまい、さっと目を離した。
     「・・・お腹がすいた」彼はそう言った。
     「・・・先生、気が動転していませんか?」彼女はそう言った。
     彼はふっと笑って言った。「・・・そうみたいだね。ちょっと狂っているみたいだ」
     彼女は窓の外を見て、沈黙した。それを弘人はのんびりと見た。しかし、確実に、ある事実が彼を囲って言ったのを、彼は認識している。
     「・・・これは、・・・殺人未遂だ」彼はゆっくりと言った、「・・・太腿か。僕を狙っている。」
     彼女は淡々と言った。「太腿動脈があります。大体動脈は太く、高い圧力がかかっています。そこを刺されたら、短時間で、向こうです。悍ましい。多分、生半可なものじゃないです。確実に、持っていこうとしていますよ。林田さん、本当に、大丈夫で・・・、よかった・・・」そういい、彼女は再度泣き始めた。
     彼は言った。「なんで人を殺してはいけないのだと思う?」
     彼女は泣きじゃくりながら言った。「・・・林田さん、それ・・・冗談になっていませんよ」そういい、顔を濡らしながら、短く笑った。「人権侵害です。人は誰しも、生きる権利があります。それは、人権侵害です。間違っていることです。」
     彼は神妙な面持ちで言った。「本当に思っているの?本当に?」
     彼女は言った。「本当です。列記とした犯罪なのは変わりません。」
     彼は言った。「なら、ルイ16世の処刑も、死刑も、全て罰せられるべきだ。なのに、君は、何と習ったかい?きっと、歴史の転換点として、非常に良い印象じゃないかい?大化の改新だってそうだ。人を殺して、歴史は動いてきた。いままでも、これからもそうだ。」
     彼女は言った。「歴史が動いたことと、その行為が倫理的に正しかったのかは違います。ずれています。」
     彼は言った。「そうだね。その意見が一番多いのは認めるよ。でもね、僕は思うんだ。「なぜ人を殺してはいけないんだろうか」と考えている行為自体が、その解だ。事実なんて些細な事。それを考えている行為が、本質を的確についているんだろうね」
     彼女は首をかしげて言った。「私にはわからない。でも、わかりたいです、林田さん」そう言って、彼の目をまっすぐに見た。「・・・もしかしたら、私・・・林田さんが・・・」
     彼は言った。「・・・思慮深いものは懺悔に通ず」
     彼女は神妙な顔で言った。「・・・誰の言葉です?そんな格言、聞いたことないですよ」
     彼は淡々と、しかし確実な面持ちで言った。「・・・能ある鷹は爪を隠すってことだよ」
     警察が入ってきた。勿論、村本もいる。「・・・この度は・・・大丈夫でしたか?」二人の厳格な顔をした刑事と、対照的な村本がそう問うた。
     「ええ、まあ・・・」そういい、デジタル時計を見ると、あの事件から5日が経っていた。「・・・あの、明後日の約束は・・・」
     村本は首を振って言う。「それはそれ、これはこれです。ひとまず無事でよかった、本当に」そういい、時計を見せた。「・・・あとでお時間があるなら、お話しいただけますか?」
     弘人は笑って言った。「ばれていましたか・・・、わかりましたよ」彼はそう言い、村本の目をまっすぐに見て言った。「事件の真相を、お伝えしましょう」
     刑事は声を上げた。「嘘だ!私どもですらまだ分かっていないのに・・・、そんなわけがない!」
     村本はそれを制して続けた。「私たちは、退院するまでは待っていますから、ご退院されたら、連絡をください。」
     彼は頭を縦に振った。「了解です。では、また」
     刑事たちはそそくさと病室の外へ出ていった。入れ替わりで古城が戻ってきた。
     彼は目を瞑った。彼は思考を開始した。
     (アテネの学堂の中・・・)
     あれは必然的だった。考えてみれば、最初から分かっていたではないか。
     (犯人は・・・)
     当然の帰結だ。答えは初めから出ていた。
     (でも何故・・・?)
     動機が計り知れなかった。わからない。
     「・・・そのまま言おう」彼はしんみりと言った。
     古城は察したように言った。「・・・そうですね」
     非常にのんびりとした時間が、早々と過ぎていった。その時間の流れを見て、彼は時間とはなんだろうという極めて普遍的な問を考え続けていた。
     新しい小説の名前を見て、長田は大満足であった。正直、これ以上の題名を思いつかない。今回の小説は短編集として出すが、非常に大量に詩を使うため、考えるのに丸2日かかった。
     「いうえお」は、長田自身で必死に考えた題名であった。不完全さ、現在進行形さ、そして、「あ」がないことから、「あなし」=どうしようもない、常軌を逸しているという意味もある。これは、彼の友達である弘人が言った言葉がもとになっている。
     「・・・君はあなしだ」と弘人は言った。当時、彼には意味が分からなかった。後から調べて、ある程度馬鹿にされていることを知った。
     全て、ある特定のものを失うようにした。彼のトリックである。今すぐに弘人に連絡しようとパソコンに向かうと、あるニュースが目に入った。日本語のサイトである。
     『伊小多研究所、殺人未遂!』そう大々的に掲げられた見出しの下に、「林田弘人氏が何者かに太腿を刺される。一命を取り留めたが、犯人はわからず。」
     彼は急いで電話を掛けた。

     弘人の元に、一本の電話がかかってきた。名前は「長田 英」と書いてある。古城君に少し待ってくれとジェスチャーをし、電話に出た。
    「もしもし?どうした、長田」
     「どうした⁉どうしたもなにも、大丈夫なのか?ニュース見たぞ」
     「ああ、そうか」弘人はがっかりした。おそらくマスコミも駆けつけてくるのだろう。
    「そうかって?お前、本当に大丈夫か?」長田は緊迫した声で彼に問いかけた。
    彼はそれを無視した。「・・・これは、小さな事件の集合体で、一つに嚙み合わさった瞬間に、悍ましい事実が出るのだろう」
    長田は言った。「・・・そんなことを呑気に抜かせるのも、そろそろおしまいかもしれないのに・・・。実際、お前は殺されかけたんだろ⁉」
    「関係ない。これは必然だった。」彼は冷たくあしらった。
    「・・・お前、どうしたんだよ・・・。もう、分かった。大丈夫なんだな?切るぞ?」そういい、電話はぶちっと切れた。
    彼は遠くを見た。鳥が鳴いている。直前まで雨が降っていたのか、少しひんやりとしている。彼はそれが心底心地よいと思う。手を伸ばした。「・・・古城君。生きていて、初めてよかったと思えた。」
    古城ははっとした顔で弘人を見る。「・・・林田さん。・・・本当に、よかった・・・」そう言うと、また泣き出した。
    彼はそれを見て、彼女は今日、何度「大丈夫」と「よかった」という言葉を言ったのだろうと思う。それしか考えられない自分がもどかしくて、彼は「いいんだよ。ありがとう」と返すしかなかった。
    彼は必死に思考を始めた。
    (しかし、誰が・・・?)
    この問が一番重要である。・・・否、自分が当事者だからそう考えてしまうのみ。本当は、
    (誰が全てを引っ張ったのか・・・)
    そうだ。その問いが重要だ。
    彼は必死に思考を担当する自分に問いかけた。外側の自分は静かに外を見ている。
    (そもそも二人いるんだ・・・。人数不利だ)
    その通りである。
    (それでも解かねばならない。)
    ああ、そうだ。彼は解かねばならない。不定、などで片づけられないのである。
    冗談はきついぞ、と自分の心を笑ってみても、内側の自分は相変わらず思考をやめない。でも、それはいい事であることを、彼はきちんと自覚している。
    (手順がわからない・・・)
     手順が分かれば相対的に犯人だってわかる。自分が理解できていない。それほどまでに、この事件の犯人は格上なのかもしれない。
     「林田さん?何か飲まれます?」古城がそう言った。
     「・・・うん、水を頼めるかな?」彼はそう返す。内側の自分を隠すので精一杯である。
     まただ。また、わからない、ワカラナイ、解からない・・・。
     何度も何度も推敲、吟味、決断を脳内で繰り返している。まるで脳内の映像データのように、何度も何度も見返して、何度も何度もあの時弘人を刺した人物の顔を特定しようとする。
     失敗に終わる。
     終わる?
     終わってなんかいない。本当の終わりは、考えることを放棄した時だ。負けた時ではなく、自ら逃げ出した時。それを理解しているからこそ、彼は逃げられない。
     蘇原くみなら、どう考えるだろう。
     深谷凪なら、どう考えるだろう。
     他人の目線になる事。相手を理解する事。知ろうとする事。
     愛とは、他人に自分の人生に干渉してほしいと思う事。人間は固体の水みたいだ。流れる、流される、流す・・・。どんな固体も、遠い目で見れば液体だ。
     (蘇原くみ・・・)
     (デルタ・・・)
     (空いた『アテネの学堂』・・・)
     (タイムアップ・・・)
     (データ・・・)
     (リソース・・・)
     (フィルター・・・)
     (認識・・・)
     彼はそんな不意に思いついたそれらの言葉を繋ぎ合わせていた。
    ・・・突如、悍ましいほどの「真実」が出てきた。しかし、それは彼にとって信じがたいものであった。否、そんなことを言っている場合ではない。
     その時、キィという音を立てて、古城がやってきた。「林田さん、水を・・・」
     彼は大声で叫んだ。「なんてことだ!古城君、今すぐに研究所に戻るぞ!」
     
    弘人と古城は急いで伊小多研究所に戻った。村本も呼んだ。村本は「大丈夫なんですか?別に無理しなくてもいいですよ?」と言っていたが、無視して急行した。
     途中、財布が落ちていたため、拾うと、女性がか弱い声で言った。「すみません。あの、けが・・・」彼は笑顔で言った。「大丈夫です」そういい、また走り出した。
     全員が食堂に集まっている。開いた『アテネの学堂』は、そのままになっている。弘人は、立って、部屋の中を歩き回りながら、静かに、淡々と話し始めた。「・・・ええ、皆さん。ついに、犯人がわかりました」
     深谷が一番に声を出した。「誰です?そもそも、貴方は大丈夫なのですか、抜け出して」
     弘人はゆっくりと息を吐きながら言った。「ええ、まあ、おそらく。別にダメと言うわけではありません。いいというわけでもないのですが」窓を見る。相変わらず曇っている。「・・・皆さんには、私の考えた手順とそれが実行できる犯人像を説明いたします。」
     村本がメモ帳を取り出すのを確認して、弘人は続けた。「・・・私はあの日、死体を発見する前、東出口でカチッという音を聞きました。これは、恐らく犯人が先に殺しておいた向田さんの死体を取り出した、或いは自分が見つからないように隠れた、それかその両方です。このエリアには、夜、誰もいません。なぜなら、全員が廊下を渡って南出口から入ってきたところを、私自身が目視しているからです。ですが、これでは矛盾します。あの場には、この施設にいた全員が揃っています。誰も人を殺められない。つまり、私たちがまだ認識できていないもう一人が犯人というわけです。」そう言って、彼はペットボトルを取り出し、水を飲んだ。「そして、では隠れられる場所はどこかと言うわけですが、東出口にあるもので、唯一人目に隠れる場所。それは、絵画の裏側ではないでしょうか?絵画はこの壁に付いており、まさか裏側に隠された空間があるとは誰も思わない。ですが、これは突飛すぎて、信じられませんでした。しかし、今、目の前に、空いた『アテネの学堂』がありますよね?それは、私の仮説を事実へと変えたわけです。」
     村本が手を挙げていった。「でも、空いたことでわかるのはそれだけですよね?一体誰が隠れていたのかなんて、わかりません。私どもが確認しましたが、内側から指紋は出ませんでした」
     弘人は首を振った。「指紋なんてものは、手袋でもすれば隠せます。簡単です、対処は。それよりも大事なのは、この『アテネの学堂』を開けるようにプログラムできるのは、蘇原くみのみです。他の人は、いじることが出来ません。」そこまで言うと、彼は全員を見渡した。「・・・デルタは、人形でした。今回の件の、本当の犯人はプログラマ、本質的な犯人はデルタです。ここで、おそらく、蘇原くみ女史には、妹、または姉がいたかい?」
     古城がさっと答えた。「一度、蘇原女史の妹様がいらしたことがあります」
     弘人はうん、だろうねと言い、古城を見た。「僕は、何度も妹を見た」
     全員がざわざわとしている。丹波が言った。「どういうことです?意味がわからない・・・」
     弘人はゆっくりと言った。「・・・古城 花が、蘇原くみなんだよ」
     全員が息を飲んで、古城を見た。彼女は俯いている。泣いているのかもしれない。
     彼はそれを見て、静かに言った。「彼女、僕を呼ぶとき、二種類あったんだ。林田さん、か、先生、だ。普通、こういうのは統一するものじゃないかな?しかも、彼女が僕を呼ぶ名が変わる時、決まって誰も彼女の居場所を知らないんだ。ここから、僕は古城君が蘇原くみ女史ではないかと疑った。この一連の犯人は、古城 花でほぼ間違いない。ほら、キーボードを思い浮かべて見て。HANAのHは、日本語で〈く〉で、Nは日本語で〈み〉だ。恐らく、偽名を考えるとき、つい思い出してしまったんだね。それか、意図的かもしれない」
     彼は周りを見た。全員、目を見開いている。深谷だけ、神妙な顔をしていた。
     彼は続ける。「僕が刺された時、大声で古城君、やめろ、と言ったんだ。その時、あの人影は一瞬竦んだ。恐らく、僕を刺すことは、計画になかったんじゃないかな。表面を担当するくみに、人殺しをする妹という役割分担が出来ていたんだよ、きっと・・・。『アテネの学堂』が突如開いて、パニックになったのだろう。とにかく、丹波君は古城君が機械系に強いと言っていた。それは、あのくみだからだ。恐らく、彼女を超えるプログラマは存在しない。妹は・・・」
     古城は言った。「・・・きのです。木野。蘇原木野」
     彼は言った。「妹であろうともわかっていた」
     古城は薄っすらと笑って言った。「全部わかっていたのですね、林田さん。素晴らしいわ」
     彼は首元に手をやった。「恐縮です。蘇原くみ女史」そう言い、全員に言った。「・・・妹は、もうすでに逃げています。ここに来る途中に、女性にすれ違いました。あの時は気付かなかったけど、恐らく、彼女は木野さんです。古城君、いや、女史にとても似ていました」
     古城は言った。「ええ、でしょうね。木野には、先に逃げるよう言っておきましたの」
     弘人は問うた。「女史、一体、何が目的なのですか?復讐ですか?苛立ちですか?」
     彼女は弘人を見ていった。「なぜ、人を殺すのに理由がいるのですか?」
     弘人は語尾を強くして言った。「あの時、貴女は人権侵害だと言った。どういうことだ!」
     くみは平然と言う。「演技、と呼ばれるものです。古城になりすましていました」
     弘人は言った。「おかしい。古城という人物は、元からいなかった!」
     くみは笑顔で言った。「そう捉えることもできます」
     弘人は強く言った。「妹を何故逃がした!罪を重ねるのですか?」
     くみは言った。「自由のためです。誰しも、自由を夢見る権利があります」
     弘人は捲し立てた。「権利?貴女はその権利を踏みにじった!今更、何を言うんだ!今更・・・」
     くみはそれを遮って言った。「権利を語るな、そう言いたいのですね。いいでしょう、少し、お話をしましょうか」そう言って、くみは言った。「・・・デルタ、照明を落として」

    DATA  E「狂詩曲の花」

    「・・・くみはある日、目を覚ました。否、歴っとした自己認識というものを持った。それは、彼女がまだ生まれて間もない頃の事である。くみはすぐに言葉を覚え、数字を覚え、計算を覚え、勉学を覚えた。周りは天才だとくみを持ち上げ続けていた。それを、破壊するものが、突如としてくみの前に現れた。妹である。彼女は、くみより速く勉学を覚えた。周りは一気に木野に注目した。テレビに出たこともあったが、くみは呼ばれなかった。くみは心底腹立たしかった。この怒りをぶつける先が分からなくて、彼女の体を蝕んでいった。家族だけが、彼女を心配した。くみは自閉症を患っていた。それを感じさせるような描写は少なかった。妹を除いた家族は、くみに一斉に虐待を始めた。お前は欠陥品だと、失敗作だと罵られた。それをくみが寛大な心で許すわけがなかった。彼女はどんどんストレスを貯めていった。ある日、くみは木野に向かって言った。「貴女は私の奴隷だ。貴女は私の奴隷だ・・・」妹はまだ幼かったため、その言葉の意味だけを理解し、妹の脳を侵食していった。いつしか、妹は完全にくみの奴隷と化していた。」

     弘人はくみの口から語られたものに心底驚いたのと同時に、苛立ちが湧いた。意味がわからない。そもそもこの二人はまだ6歳である。自分が6歳の時、なんという会話をしたかと回想した。
     不可解が不可解を呼ぶ。事実は記憶からなくなり、謎のイメージのみが頭に残るのかもしれない。彼は確実にその片鱗を見ていた。食堂の天井にプロジェクションマッピングされ、映像が映し出されている。
     それを見て、ふと、彼女は誰なのだろうと考える。もしかしたら、演技している時の蘇原くみは最早古城として生き、世間からも古城として認められていたのである。人間の集合体である世間に人間であると認められることが人間とする条件なのならば、最早彼女の別人格は、古城 花として存在していたのだ。
     突然、古城 花の存在が、空虚なものに思えてきた。突然、中身が分かると、古城という人物像が人形であったと脳が認識して、目を閉じた座る模型に思える。昨日まではきちんと存在したのに、今、この瞬間、その存在がすっと消えてしまったかのようだ。
     彼はトイレに行き、吐いた。気味が悪い。

    「・・・くみは妹を利用して上へ上へと階段を進め、ついにある研究所の所長にまでなり、デルタというプログラムの設計を任された。その時、向田という人間がやってきた。彼は、異常な勢いで出世していった。くみの視点から見ても、その速度は異常なものであった。いつしか、今の立場を追われる日が来ると悟ったくみは、向田の殺害と共に、失踪を計画した。ただ、最大限安全に進めるためには、あの前所長が面白さのみで作って放置された、蘇原と伊小多前所長のみが知り得る空間を使うことが必要不可欠となった。そして、そのためには人がもう一人必要であると分かった。そこで妹を利用したのである。」

     彼はゆっくりと食堂に入った。円形のプロジェクターの周りを、蘇原女史はぐるぐると回りながら、淡々と
    話を続けている。
     
    「・・・くみは辞表を出した。そして、その後、向田を殺害し、自殺する予定であった。」
     その時、若干の明かりさえも消えて、プロジェクションマッピングも消えた。完全に闇に包まれた。全員がざわざわと囁き始めた。弘人も辺りを見渡し、急いで携帯のライトを照らした。
     ・・・真ん中に、自身の胸にナイフを突き刺し、倒れている蘇原女史を発見した。彼はひどく憔悴したが、気を持ち、デルタに呼びかけた。
    「・・・明かりをつけて」
     バチッという音と共に、明かりがついた。その死体が露になると、そこにいた全員がそれを見て目を見開いた。
     「全て、彼女の計算だったんだ・・・」宮下は言った。その言葉をかみしめる様に、全員が息を飲んだ。「僕たちは、ずっと・・・」
     弘人は言った。「・・・彼女は、くみではありません」
     全員が弘人を見た。「どうゆうことです?それは、一体・・・」深谷がそう声を発した。
    「・・・彼女が、蘇原木野なのです」彼はそう言って、全員を見た。「・・・ほら、左手。指輪だ。木野は、名前ではない。くみが木野の話をするとき、一度も蘇原木野とは呼んでいない。妹か貴女だ。恐らく、木野は結婚した後に苗字を旦那側にそろえたんだろう」
     深谷がハッとして言った。「・・・向田さんか?」
     弘人は言った。「恐らく、そうだろう。ただ、確証はない。だから、このことに関して考えるのはやめましょう。命がいくつあっても足りない」
     その後、村本が逃げ出した蘇原くみを捜索するよう後輩に指示を出したが、見つかっていないらしい。今もどこかに逃げているのだろうか。そんなことを考えて、首を振った。
     計画を練っていると、日和が声をかけてきた。「どう、お姉ちゃん、計画は・・・。あら、おねえちゃんらしくない、ここ、もう少しこうしたらいいんじゃない?」そういって、間取りを指でなぞっている。あまりにも感覚論過ぎて、くみはそれを無視した。
     「・・・本当にいいの?日和の夫を殺すことになるんだよ?」そう言うと、日和は指をくるくると回しながら答えた。「いいのよ。あの人、好きじゃない」
     くみは苦笑いをした。「そういう所だよ。男だって、別にツールじゃないんだから」
     日和は笑って言い返した。「いいえ、男は結婚をゴールだと思い込んでいるようだけど、大きな間違いよ。女は、結婚してから本番なのに」
     くみは言った。「日和はいいよね、もてて・・・。私なんて、将来の事を考えるよりも、これを考える方に頭がいっぱい」そう言って、間取り図を指さした。日和は机の周りをぐるぐる回っている。それを見て、くみは言った。「完全犯罪って、出来るのかな?」
     日和は目を細めて言った。「出来る。少なくとも、今の警察相手ならね。でも、私はそれを目指していないから、完全犯罪を念頭に置く必要はない」日和はこちらを向いて言う。「不完全さが、面白いの、ね?」
     くみは言う。「・・・本当に、日和に勝てる日は来ないみたいだ」そしてある映像を見せた。「もし、ばれてしまったら、この映像を見せた後に、タイミングを見計らって自殺しようと思うの」そういいながら、胸にナイフを突き刺すジェスチャーをした。「華麗な死に方じゃないけど、それがまたいいの」
     日和は急に冷たい顔になって言う。「私が言い始めたのだから、この任務の責任は私が負うべきだ。故に、お姉ちゃんが意地を張る必要はない。私が最後まで付き合ってみせる」
     くみは日和の手を握った。「いいの、お姉ちゃんは、それでいい。」
     日和はその手を振り払って言った。「・・・私がお姉ちゃんのふりをして、お姉ちゃんはそのまま逃げて」
     くみは反論した。「そんなこと、出来るわけない!日和を置いて逃げるだなんて・・・」
     日和は静かに言った。「・・・それを回避するための、作戦でしょ?」
     くみはハッとして、日和を見た後、頷いて、再びペンを動かした。
     日和はくみの隣でデルタの内部データをいじっている。
     そうして、結果的に、最悪の場合を想定した、一つの人殺しの案が生まれたのである。
     まず初めに、向田に蘇原くみ名義で食堂にくるようメールを送る。台風の起きる夏を狙う。台風の時、シャットダウンしますという音声と共に、照明を消し、ドアを開けられないようにする。ただ、シャットダウンはしない。しているように見せかけるのだ。
     その間に、食堂まで行き、『アテネの学堂』の裏に隠れた日和が向田を殺害。それを「アテネの学堂」の中にしまい、そのまま逃げる。
     これで完璧であった。否、完璧であるはずだった。
     計算に狂いが発生したのは、あの、林田弘人助教授であった。殺害予定日の朝、彼はこの伊小多研究所へと来たのであった。この事実を、くみと日和は事前に知らされていなかった。
     必死に二人で考え、結局、死体はオープンにすること、新しくやってきた林田弘人に罪を擦り付けることで同意。そして、古城 花として弘人に接近し、彼も殺す予定であった。
     しかし、それも結果的に狂ってしまった。くみが、有ろうことか弘人に好意を抱いてしまったのである。日和は、好意も、恋も、愛も、早くにこの世を去った両親から受けた覚えがない。小さすぎたのであった。日和はそれらを理解できなかったため、二人で意見が分かれてしまい、結果的にくみは少し控えめに、日和は大胆に弘人にヒントを渡すとこになった。くみが、林田弘人になら、ばれてもいいと言ったからである。
     弘人はそのヒントを回収し忘れることがなかった。もしかすると、くみ以上の才能の持ち主であった。くみは林田弘人を尊敬し、日和はその林田弘人を邪魔者として排除しようと行動した。
     結果的に、林田弘人はくみに助けられたが、その後日和がくみのふりをして、林田弘人の前に立った。くみはその内に逃げ出した。
     明らかに元の計画とは違う。日和が自殺するルートのみ残された今の状況は、最悪なものであった。
     しかし、これでもよかったと思う。それが、憎たらしくてたまらないのである。
     くみはパソコンから盗み見た長田と弘人のメールの詩を思い出して、空を見た。

    春愁 私は思い出す 道路の向こう側の君の影 花火が散って輝いている 私は静かに涙を流す

    そのままでいい 貴方でいいから いつか 手を合わせたら 笑ってください

    いつかいつか 貴方に逢えるなら 何度も何度も 謝りたいから
    許して欲しい 辛くても 一輪の花が 咲いていた

    秋愁 私は繰り返す 裸足で駆け回る貴方を それは果てしなく 無限を表していた

    裏の裏は表だから もう振り返られない 何度も願っても 虚しさだけ 激しくなって 
    私を永遠に 追い詰める

    初めから もう決まっていたのかな 今生の 別れが
    話をしたい 静かな掌を 眺めてまた涙

    グラジオラスが咲いて 添えていたはずなのに 許しを乞うても無駄なのかな 神は何を見ているのかな
    幸せなんてあるのかな 絆なんてあるのかな それでも 生きる意味は何かな

    いつかいつか 貴方に逢えるなら 何度も何度も 謝りたいから
    許して欲しい 辛くても 一輪の花は 枯れてしまっても
    初めから もう決まっていたのかな 今生の 別れが
    話をしたい 静かな掌を 眺めてまた涙

    花瓶が割れて 哀しさが通り過ぎて 季節が過ぎ去った
    貴方を追いかける 果てしなく遠く近い天国へ 天国へ

     くみは微笑んだ。今なら分かれるだろう。それがなんて愛おしいのだろう。
     徐にノートパソコンを取り出して、インターネットカフェでWIFIを確認した。そして、あの時取得したメールアドレスに、メールを送った。
    「林田さん、おひさしぶりです。覚えていらっしゃいますか? 
    貴方の言わんとするところはわかります。林田さん、身の回りのプライバシーの管理は、徹底した方がよいです。私のように、メールアドレスを見られる可能性がありますよ。
    明日、六角公園のベンチで待っています。どこか、ご飯にでもいきましょう。
    全てをお話しします。では。                蘇原くみ」
     弘人は六角公園に向かった。夏の木漏れ日までもが辛い、眩しい日であった。
     公園のベンチを見ると、確かに少し背の低い、白い(そんな印象を受けた)人がいるのを確認した。なるほどあれが、真の蘇原くみなのか。
     弘人は矢庭にそこに向かった。「蘇原女史・・・。おひさしぶりです」
     くみはふっと彼を見て、言った。「・・・後ろ」
     弘人は訳が分からず、とにかく後ろを見た。そして、先ほどからうろうろとしている人の顔を見ると、それは村本であった。「・・・女史、これは?」
     くみは淡々と言った。「警察ですね。貴方の後を付けていたんでしょう・・・。まったく、どっちが犯罪者なのか・・・。あちらは捜査ですが、こちらは密会ですね」
     弘人は言った。「いいのですか?」
     くみは少し考えたように見えた。「・・・そうですね、では、こうはどうでしょう。私はこのままあの方達から逃げて、貴方に通話します。電話番号は?」
     弘人は、察したように、携帯の画面を見せた。くみはそれを見ながら、メモアプリにそれを記載していく。村本が近づいてきているのが分かった。「・・・車、乗ります?」
     くみは笑って言った。「・・・貴方、運転免許証は取得していないでしょう?」
     弘人はひどく驚いた。「なんで知っているんですか。折角の雰囲気が狂いました。行きましょう」
     くみは言った。「ええ、もう、ほんの数秒で私は捕まっていましたもの」
     弘人は急いで駅に入り、そこでくみと別れた。「・・・本当に、大丈夫なのですね、女史?」
     くみは笑って言った。「女史、という言い方はやめましょう。・・・蘇原でよいです。くみでもいいですよ」
     弘人は手を少し挙げて、改札をさっと見た。村本率いる警察3人が、後を付けている。
     弘人は呼んでおいた妹の怜奈と共に、プラットホームへと急いだ。
     電車に乗ると、横に景色がスライドしていった。ふと、彼等が乗っていた6号車に、あの3人が来た。怜奈は俯いた。
     村本は大声で言った。「林田さん、彼女は?」
     弘人は静かに、はっきりと言った。「・・・もし、蘇原くみ女史だと言ったら?」
     村本は息を荒げて言った。「そんなの、決まっています!・・・どうなんですか?もったいぶらないで!」
     弘人は粛々と言った。「違います。妹です」
     村本はさらに緊迫した顔で言った。「何というかと思えば・・・。そちらの女性、顔を上げなさい!」
     怜奈はゆっくりと顔を上げ、村本を睨んだ。「・・・職務質問?貴方の言動には、直接法に触れるわけではないですが、任意の職務質問の範囲を超え、対象者の意思を尊重しない、やや強圧的な姿勢が見られます。刑事さん、良くないです。私には、顔を上げる義務がありません。でしょう?」
     村本はびくっとしたが、すぐに姿勢を整えた。「もう、紛らわしいことをしないでください!」
     怜奈は高い声で言った。「兄が私と一緒にいることを「紛らわしい」と決めつけ、非難するような言動です。職務質問は疑わしい状況があるから行うものであり、相手に「紛らわしい」という責任を転嫁するような態度は、刑事として適切ではありません。まず、謝りません?」
     村本は舌打ちをして、「・・・すみませんでした。誤解でした」と言った。そして弘人の方を向いて言った。「貴方、蘇原くみと会ったでしょう?どうなのです?なぜ連絡しなかった!」
     怜奈はさっと何か言おうとした弘人を制し、冷静に言った。「日本の法律では、一般市民には犯罪を警察に通報する義務は課されていません。 したがって、単に犯罪者と会ったこと、またはそのことを通報しなかったことだけで、罪に問われることはありません。・・・貴方、先ほどから言動が恣意的ですね」
     村本は怒って言った。「貴女には関係ない!」
     怜奈は然有らぬ様子で言った。「貴方の行為が直接的に何らかの法律に触れるとまでは言えませんが、警察官職務執行法第1条や、警察官として守るべき服務規律に照らして、適切さを欠く行為であり、場合によっては懲戒処分の対象となり得る不適切な言動と評価されるでしょう。そもそも、そんなに感情的な刑事がいると、警察のイメージが下がるのではありません?・・・警察官には、その職務の適法性について説明する責任があります。私は、職務質問の原則について事実を述べており、貴方はそれに耳を傾けるべきでした。感情的な反論は、警察への不信感を招きかねません。どうなのです?もう、関わらないで・・・!」
     村本は文句を言いながら、電車を降りた。弘人は怜奈に礼を言った。「ありがとう、助かったよ・・・。よく勉強しているね」
     怜奈は平然と言った。「・・・お兄ちゃんみたいになりたいから」
     それを聞いて、反芻して、何度も弘人ははにかんだ。「警察官職務執行法第一条は、警察官の責務として、個人の生命、身体及び財産の保護、犯罪の予防並びに鎮圧、捜査、被疑者の逮捕その他公共の安全と秩序の維持にあたることが定められている」
     怜奈は頷いた。「ええ」
     弘人は何を話すべきなのかわからず、窓の外の風景を眺めた。
     家に着いたタイミングで、携帯が鳴った。出ると、蘇原くみの声であった。「もしもし・・・ああ、良かった・・・。私の方に、警察の方がいらっしゃらなかったので、心配しました。ご迷惑をおかけしてすみません」
     弘人は返した。「いえ、大丈夫です。」そう言って、携帯を持ち直した。「その・・・」
     くみは問うた。「・・・貴方の目の前に、100個のドアがあり、右から1から100と番号を付けます。ドアは全て閉まっています。私が、N回目の指示の時、貴方はNの倍数の番号のドアを、閉まっていたら開け、開いていたら閉めるという動作をします。100回目の指示の時、最終的に開いているドアの番号は?」
     弘人は指を一本ずつ動かした。右を見て、左を見て、ゆっくりと答えた。「平方数・・・、1番、4番、9番、16番、25番、36番、49番、64番、81番、100番のドアです」
     くみは無機質的な声で言う。「何故?」
     弘人は人差し指を回しながら言った。「扉が最終的に開いているのは、約数の数が奇数個の貸金庫です。平方数は、約数の数が絶対に奇数個になります。平方数以外は偶数個です」
     「その通りです」くみは満足そうな声で言った。「では、こんな条件を足します。3の倍数の指示の時だけ、その指示の対象となるドアの中で、もし既に開いているドアがあれば、それはひっくり返さずにそのままにしておきます。閉まっているドアだけをひっくり返します。」
     弘人はすかさず言った。「3の倍数の番号以外のドアが、全て最終的に開きます」
     くみはええと言った後、意気揚々と言った。「Pythonという言語ツールを知っていますか?ドアの番号をiとし、指示の回数をn、ドアの状態を door[i] に、0: 閉、1: 開で管理するようにし、コードを書いてみなさい」
     弘人は数秒固まったが、ゆっくり、はっきり言った。「・・・まず、1から100までの番号を管理するリストを作成します。次に、指示の回数をシミュレートします。これには外側のループを使います。次に、各ドアの番号をチェックします。・・・これは内側のループを使います。次に、現在のドアiが、現在の指示nの倍数であるかをチェックする条件を使います。さらに、現在の指示nが、3の倍数であるかをチェックします。もし3の倍数なら、現在のドアiが閉まっているか、0か判断し、次のドアの状態をひっくり返す処理を行い、全てのドアの開閉が出来ます。・・・ああ、その後、外側の if n % 3 == 0: の else ブロックを使うのか。その後に、結果を集計し、リスト内包表記を行います。最後に、計算された開いているドアの番号のリストをコンソールに出力し、終了ですね」
     くみは数秒黙り、その後にパソコンを打つ音が聞こえた。そして、「正解です。流石ですね、林田さん」といった。弘人は「恐縮です」と答えた。
     くみは意を決したかのように話し始めた。「・・・何故、日和・・・ああ、妹のことです。日和が向田 宏を殺害しようとしたのか、私にはわからないのです。彼女は、恐らく私を超えた頭脳の持ち主でしたから、わかり得なかった。彼女は一生、孤独でした。どこかで、7は孤独の数字と聞いた覚えがあります。・・・話がそれましたね。彼女は私にこう言いました。犯罪の手伝いをしてくれ、と。にわかには信じがたいです。でも、私は了承しました。彼女が、多分この事件を起こしても、起こさずとも、自殺することは目に見えていました。なんででしょう・・・兄弟だからかな、微妙な変化を感じ取ったのでしょう。その後、事件は私の計画舌通りに進むはずでした。そこに、青天の霹靂の如く現れたのが、林田さんです。貴方は、妹にも対抗できる頭脳の持ち主です。私をゆうに超えている。」弘人は少し照れくさくなった。「・・・いえ、まずまずです」
     くみは笑った。「林田さんのそういう所、好きよ。・・・ええ、貴方はまずまずです。でも、いつか、私を超えるでしょう。その才能の使い方を模索している期間なのよ、貴方は・・・。まあいいでしょう。私は貴方を好きになってしまった。でも、妹はそれを理解できなかった。行為を理解していなかったのです、彼女は。それで、私と妹との間で対立が起き、結果的に妹は自殺しました」くみは淡々と、親族、妹が死んだと思わせないような語り口で言った。「帰結は同じでした。ですが、事件を起こす際、妹が自殺するのは最悪なルートなのです。この一連の事件が、最悪の流れであったのは事実です」
     弘人は息を飲んだ。「・・・意味がわからない。ですが、わからないのは、僕の脳のせいです。貴方が正しいのかもしれないし、貴方は間違っているかもしれない。ただ、確実に言えることは・・・、人間社会は、全てプログラム通りはいかない、ということです」

    DATA  F「再度の来訪者」

     弘人は、この事件の概要を長田に話した。もう足も痛まなくなった頃であった。
    「・・・そうか、そんなことが・・・」長田は、コーヒーに砂糖を入れながら言う。弘人はそれを見て、同じように砂糖を入れた。飲んでみると、非常に甘い。
    「そういう、追い付けないものへ抱くって、二種類あるよな。憎しみか、羨みか。日和さんはなんで向田を殺すことにしたんだろうな・・・。事件が解決しても、納得できねえな」長田はそう言いながら、メモに何やら文字を書いている
    「確かにな。そもそも、まだ蘇原くみは捕まっていない。一体、どこへ逃げたんだろう・・・」弘人はそう言い、長田のメモ帳を見た。そして、店員を呼んだ。「・・・あの、コーヒーを一つ」
     店員は明るい声で「はい、コーヒーを一つですね。お待ちください!」長田はそれを呼び止め、「ごめん、もう一杯お願い」と言った。店員は「二つですね。お待ちください!」と言い、厨房へと消えていった。
     長田は徐にメモ帳を見せてきて、「どう?」と言ってきた。

     私の心の花束に 新しい花を刺し込んで
     麗しくなった瞳で 貴方に会う

     私の中では貴方の影は ずっと前を歩いていて
     ずっと永遠に笑えないと 思っていた

     世界で多分貴方だけの 輝きを求めている
     いつか一緒に歩けたら 話をしよう
     私の成長点は まだまだ先の方にあるから
     待っていてよ憧れ 地球の電灯のように

     愛と憎しみの違いはさ ほとんどないと知っているけど
     私はずっとその違いを 探している

     森を抜け林を抜けて 少しずつ減った私の心
     携帯のバッテリーのように 充電はできますか?

     栓の開いたワインのように 一気に噴き出す私の戯言
     いつかそれを隠せたら 貴方に会う
     その時貴方が笑ってくれたら 私はどれほど嬉しいか
     自己満なのは知ってるけど 私に笑ってください

     貴方に送る言葉は エンターキーでは無理だから
     吟味して 噛み砕いて 大切に渡すよ
     迷子の私を 助け出してくれて 本当にありがとう お礼の番だね

     世界で多分貴方だけの 輝きを求めている
     いつか一緒に歩けたら 話をしよう
     私の成長点は まだまだ先の方にあるから
     待っていてよ憧れ 地球の電灯のように

     夢を見ていた 平和の鳥の夢
     花が咲き乱れたら 走り出す
     空を見ていた 勇気の人の色
     雲が消え去ったら 会いに行く

     林田はそれを読んで、「・・・お前、もう、趣味の領域出ているだろ。今の話を聞いただけでこんな綺麗な詩って出来るもんなんだな」と言い、長田を見た。
     長田は自信満々の顔で悠々と詩について話し始めた。その話に飽きてきた頃、さっきとは別の女性の店員が高い声で、「・・・お待たせしました、林田さん、長田さん」と言った。
     ハッとして二人でその店員を見た。
     天才で孤独。
     孤独すら凌駕する知能。
     ほとんど神に近い所業。
     現代の人には理解しえない存在。
     ・・・彼女は笑っていた。


    DATA  ω「背後の解説」

     ミステリーとは何でしょうか。名探偵やその助手、警察に犯人・・・。それらが必須であるのか。情報を推理で割ることでのみ真相が明らかになるのでしょうか。
     大体、明らかに怪しげな言動をする者が必ずいます。今回の場合は、深谷がその一例でしょう。結果的に、彼は真相にはたどり着けていませんが。逆に、あの身近にいた古城がまさかの天才プログラマだった、という流れになっている本作は、ある意味、最初から答えは出ていたのかもしれません。実際、この本作には、確かに突飛な素晴らしい頭脳を持つ林田、情報を与える古城など、役割がある程度わかれています。ですが、実際には、突如新たな情報が出ることはまずありません。初めに、問題を解くヒントは散りばめられていました。実際、その点は、私が最も重視した点です。登場人物は、推理をする人間ではなく、読者の解明のためのツール的な存在として、描きました。
     読んでいれば、ある程度分かるかもしれませんが、私は森博嗣の「すべてがFになる」という本を何度もリピートしています。今回の設定も、だいぶ似てはいますよね。影響はだいぶ受けました。差別化するために、敢えて「萌絵的存在」の古城を犯人に仕立て上げたというストーリーがあります(途中までは決まっていませんでした。突如蘇原くみが登場するという流れです)。
     ミステリーは、ただ謎を解明するのが全てではないと思います。謎を生み出すのも、謎を放っておくのも、謎を解いてみるのも、ミステリーと呼びたい。そう思います。謎すら、ある種の有象無象です。ミステリーの本質は、人のグレーに触れることだと思います。黒でも白でもない、その、あやふやな境界線に親身になって寄り添う事だと思います。読者は、その凍った心を、ゆっくりと、何度も何度も溶かし続けていくのです。
     実際、世の中みんなそうです。いつか黒くなるだろうけど、それでも存在しえない白を夢見て生きて、周りは見ないのです。全員がそう。誰も抗えない。
     但し、ある特定の人々はそれに対抗できます。それは、「ほんの一つの才能」と、「無限大の努力」です。どんな才能も、努力に勝るものはありません。怠ければ、いつかは努力者に抜かされる。
     ただ、才能がある、俗に言う天才は、そのことに、他の人より一段階早く気付けるから、天才と凡才の差はどんどん広がっていく。凡才で対抗できる人は何人いるのでしょうか?
     この作品が、いつか、貴方の心の中で川のように流れ、貴方に少しでも常識の窓を叩けたらいいなと思っています。その日まで、永遠に読んでください。
    では、本書を読んでいただき、ありがとうございました。また、夢の中で。


                        『エントロピー』  食パンの耳

     
     
     
    色々なことを悠々自適に考えて、適当に書き連ねます。

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