ぼくは教師に向いてなかったのかもしれない
はじめに ウィキペディアでは作家です
初めまして。僕は大阪で長年高校の先生をしてきました。定年退職のあとも、再任用で仕事を続けています。
大阪の高校には、生徒が先生を評価するアンケートがあります。僕はそのアンケート結果を見るのがいつも怖いのです。というのも、たいていその学校の平均点よりやや低めの結果しかでないからです。僕なりに授業に工夫しているし、いいところを書いてくれる生徒もいますが、数字で結果が出ると、校長との面談でグジグジと嫌味を言われたりしたこともありました。
そのたびに思うのです。僕は教師に向いていなかったのかもしれないなあ、と。でも、三十年以上も教師をしていると、それ以外の仕事というのはもう考えにくくなってしまっています。
実は、教師になったのはいわば偶然で、もともとは文筆業で身を立てるつもりでした。まだ学生だった頃、SF同人誌に書いたショート・ストーリーが、「SFワールド」という当時あったショートSFの専門誌に転載され、商業誌デビューを果たしました。そのあと、SF大会のスタッフをしていた時に、先輩の書評家の方の推薦で、「SFアドベンチャー」という雑誌で毎月書評をすることになりました。
そちらの書評は紙面刷新のため、おろされてしまうことになりましたが、数年後に、「SFマガジン」で隔月の書評連載の依頼が来て、「架空戦記」や「伝奇アクション」など、新書ノベルズ中心のブックレビューを何年も続けていました。
さらに、子ども向けの読み聞かせ絵本雑誌「おひさま」の新人賞に応募したら、優秀賞をいただき、その雑誌には2本だけですが作品が掲載されました。
持ちこみで「SFマガジン」に出したショート・ストーリーが掲載され、念願だったSF小説デビューも果たしました。ウィキペディアでは、僕の肩書はまだ「作家」だったりします。
でも、そこまででした。
学校の仕事が忙しくなり、そちらに集中していると、小説が書けなくなりました。ウェブ日記だけはずっと書き続け、毎日更新しています。ある新人賞の一次審査、二次審査をしたりもしています。辛うじて一本の糸で業界とつながってる感じではあります。
でも、結局は先生の仕事を優先させてきて、文筆業で身を立てる、なんてことはできないまま年を食ってきました。
このエッセイでは、学校の先生の思い出や経験して感じたことなどいろいろと思いつくままに書いていきたいと思います。
本当に、僕は教師に向いていたのか。書いているうちにその答えも出てくることでしょう。お付き合いいただければ幸いです。
1 好きなことだけして生きていけたら
ぼくはなぜ教師になったのでしょう。定年退職をして、それでもまだ再任用で教師の仕事を続けている今も、時々考えてしまうのです。
ぼくはものかきをして生計を立てたいと若い頃から思っていたし、チャンスも何度もありました。でも、そこで全力を尽くせなかったのが、ものかきで生きていない理由だと思います。中学生の頃は、芸人やスポーツアナウンサーにあこがれていました。漫画家になりたいと思っていた時期もあります。漫画家に関しては、高校時代に同じ部活にものすごくうまく描く同級生がいて、「プロになる奴というのはこういう奴なんやろう」とすっぱりとあきらめがつきました。彼はプロデビューした後、マンガ学科のある大学に勤め、教授にまでなりました。今はその大学の名誉教授です。おがわさとしといいます。後輩にはポケモンのマンガを描き続けている山本さとし君がいます。そんな人たちに囲まれていたのだから、自分の力のなさを自覚してすっぱりとマンガはあきらめました。
絵はだめでも、ストーリーを書くことはできる、と小説を書き始めることにしました。で、大学に入り、同人誌にSF小説を発表していました。大学では社会学を学び、並行して教職免許を取る授業も選択しました。これは、入学した時に母のアドバイスがあったからです。
「せっかく四年制大学に入学したんやし、そこでしか取れない資格を取っといた方がいいよ」
資格を持っていたら、つぶしがきくかもというくらいの気持ちで教職課程も選択したのです。でも、自分は教師向きではないと思っていたので、本気で教員になるつもりはありませんでした。その気持ちが変わったのは四回生の時に母校に教育実習に行ったことからです。自分の恩師の担任クラスで生徒たちと触れ合った経験は何物にも代えがたく、「教師になるというのもあり、かな」とその時に思ったのでした。でも、まだ、本気で教師になる気はありませんでした。就活で何社か出版社を受けましたが、惨敗し、とりあえず学習塾に就職しました。そこでは小学生対象に中学受験の勉強をさせていましたが、どうも自分の思っていたのと違うと思い、人間関係がうまくいかなかったこともあって退職しました。しばらくバイトでもして、地元の出版社に採用がないか調べるつもりでした。ところが、一本の電話がぼくの運命を変えることになるのでした。それは、京都市内の南にある定時制高校からの電話でした。
2 運命の分かれ道
学習塾の仕事をやめて無職になったぼくのもとに、京都の定時制高校から電話がかかってきました。四月八日でした。もう新学期が始まっていたにもかかわらず、まだ常勤講師の席が埋まってなかったのでした。常勤講師というのは、1年契約で、他の正規の教諭の先生と同じように決まった時間に出退勤し、授業以外の仕事もやらなければならないというものです。学園物のアニメなどを見ていると、いきなり講師として年度途中に主要人物が学校にやってきたりする場面がありますが、基本的にはそういう講師は産休や育休の先生の代わりに入ってくるもので、しかも年度途中で講師になった人がいきなり担任を持ったりすることは普通はありません。僕は私学は知りませんが、公立校でよほど人手が足りない場合でもそんな無謀なことは校長が許しませんね。
ぼくが講師の打診をされたのはかなり特殊なケースでした。なぜなら、僕の免許は社会科の教員。ところが、その電話によると、商業科を担当してほしいとのことです。とりあえず仕事があるのはありがたいので依頼を引き受けましたが、簿記の授業など、授業の前日に予習をして教えるという付け焼刃でした。野球部の顧問も足りず、見る方は好きでルールも知っているけれど、指導なんかできない球拾い顧問となりました。でも、高校生との触れ合いはとても楽しく、教員になるのも悪くないと思うようになりました。思えば、あの電話が運命の分かれ道になったのかもしれません。
ちなみに、今振り返ると、運命の分かれ道はいっぱいありました。入試に合格し、どの大学に入学するか。大学では、創作同人のサークルと落語研究会のどちらを選ぶか迷いました。落語を選んだら、もしかしたら芸人になっていたかもしれません。同人誌の編集をしていた時、SFのイベントに参加したことで世界が広がり、SF大会のスタッフに誘われた時にどうするか迷ったこともありました。スタッフになったことから、書評家への道が開けたのですから、スタッフになってなかったら若くして商業誌デビューを果たすこともなかったでしょう。また、生涯の伴侶となる女性と出会うこともなかったでしょう。
運命の分かれ道は、今振り返ると「あそこも、あそこもそうだったな」と思われますが、その真っ最中にはだいたい気づかないものです。その時の選択が正しかったのかどうか、これはもっと年を取ったときにわかるのかもしれませんね。
3 定時制の高校生が原点
ぼくの本職は社会科で、しかも倫理という特殊な科目です。ところが、初めて講師として教えたのは商業科。「商業経済」という「政治経済」とはまた違う視点から経済について学ぶ科目。そして「簿記会計」。商業簿記三級を目指す生徒たちとともに簿記を一から勉強しました。もちろん商業科の免許は持っていません。「助教諭免許」という臨時に出される免許を発行してもらいました。だから、僕の教員としてのスタートは自分の専門外の科目を教えるところから始まっています。若かったからできたこと、そして、正直なところ、食いつなぐために受けた仕事。どんな授業をしていたか、今では思い出せません。とにかく教科書を読みこんで、引き出しにない知識を自転車操業のように吐き出す毎日だったことだけは覚えています。
昼に働き、夜に授業を受け、4年かかって高卒の資格を取る。みんなようやるなあと感心してました。顧問になった野球部の生徒がいいました。
「先生、俺らは野球がしたくて学校に来てるんや。野球が無かったら、暴走族になってたかもしれん」
副主将だった彼には弟がいて、その弟が気の抜けたプレーをした時、彼は怒りに任せて殴りつけたりスパイクをはいたまま踏みつけたりしました。僕は必至で彼に抱きついて「やめろ、辛抱せえ!」と言い続けていました。なんとか弟から離れた彼は、金属バットで全日制の野球部のロッカーをたたいてまわり、ロッカーの壁面はぼこぼこにへこんでしまいました。自分の感情を抑えきれない彼は、野球がなければ道を踏み外していたかもしれません。野球のできない顧問でしたが、ルールなどは一通り頭に入っていたので、練習試合の審判をつとめたりしました。そんなぼくでしたが、この事件の時は、早めに出勤し、彼といっしょに全日制の野球部の監督のところに謝りに行き、ロッカーの修理代は彼が少しずつ払っていくということで許してもらいました。
定時制の野球部は、神宮球場の全国大会が目標でしたが、この年は京都予選の決勝まで進みながら、残念ながら敗退。引退した主将や副主将たち4年生は、監督の先生やぼくたちお手伝い顧問を食べ放題の焼肉に誘ってくれました。
「あそこで俺に体当たりしてくれたんはこれまでで先生だけやで」。
肉をほうばりながら、そういってくれました。
やんちゃや奴らが集まっていた定時制高校。それがぼくの教員としての原点となっていたのだと、今になって思います。でも、あれは若くないとできない。今のぼくにはとても無理ですね。
4 それでも小説は書いていた
定時制高校の講師は一年間だけでしたが、なかなかに濃い一年でした。文化祭は、生徒たちは準備の時間をなかなか取れなかったので、教員の劇が一番人気の出し物で、僕は落語をもとにした「死神」という劇で「わわしい女」役を演じ、女ものの着物を着て、頼りない夫を追っかけまわしました。カーテンコールで隠していた顔をさらした時の生徒たちのどよめきは今でも忘れられません。みんな「あんな女の先生、いたかな」と思いながら見ていたのでしょう。
これなら、教員採用試験を受け続けてもいいと思い始めましたが、あまり準備はできず、この年の京都府の高校教諭の採用試験には落ちてしまいました。
そんな中、作家への夢も持ち続けていました。
かつて学生時代に同人誌に書いた作品が転載された双葉社の「SFワールド」の編集長から電話があり、新しい文庫を立ち上げるので、何か書いてみないかというお誘いでした。一九九〇年代、ティーンズ文庫が大流行しました。中高生をターゲットにした、少女小説です。集英社文庫の「コバルトシリーズ」、「講談社X文庫 ティーンズハート」などが人気があり、双葉社でも後発ながら「いちご文庫」というレーベルを創刊することになったのです。ただし、人気作家を引き抜いたりはできないので、ぼくのような作家の卵にも書かせてみて、うまくいけば出版しようというわけです。著名なSF作家の方たちも、変名で書いていました。また、ここからデビューして、ブームが去った後、別のジャンルで人気作家になった方もいます。
ぼくは、定時制高校の出勤途上、乗換駅の喫茶店で毎日原稿用紙に向かっていました。ノートパソコンなんてない時代で、ワープロ専用機も持ち歩くには重く大きいという時代でした。
かねてからあたためていた、アイドルの追っかけをしている男子を主人公にした話を書いて送ったら、見事に没。主人公は女子で、しかも一人称にしてくださいという縛りをかけられました。書店で何冊かティーンズ文庫を買い求め、「勉強」しました。中にはのちに人気脚本家として知られるようになる内館牧子さんの作品もあり、とても面白かったのですが、とても男のぼくには書けそうもない心理描写でした。そこで、マンガ原作のつもりで、魔法少女の主人公に、天使と悪魔のイケメン男子がからむ三角関係からいろいろな事件が起こるという設定のものを思いつき、何作か書いて編集長に送りました。しかし、なしのつぶてで返答がない。SFはご法度という縛りがあり、SFを書きたかったぼくはかなり苦しみ、そのうち、書きたかったSFもどうやって書けばいいか、自分を見失ってしまいました。それでもデビューさえしてしまえば、次のチャンスにつながると思い、返事がなくても新作を書き続けては送りました。
ところが、やっと返事が返ってきたと思ったら、それは思いがけないものでした。
「いちご文庫は休刊することになりました」。
ショックでした。
5 講師の宿命
今でも思います。もし「いちご文庫」からでもデビューを果たしていたら、僕はそちらに全力を注ぎ、教員への道を断ち切っていた、と。しかし現実は厳しかった。それでも編集長は出る当てのなくなった僕の稚拙な原稿に朱を入れて返却してくれました。見込みはある、と思ってくれていたのかもしれません。
「あなたはファンタジーは書きますか」
編集長は電話で僕に聞きました。
「ファンタジー、ですか」
正直なところ、ファンタジーは僕の書きたいものではありませんでした。僕は筒井康隆さんやかんべむさしさんのようなSF小説を書きたかった。
「もし、書く気があるんだったら、大陸書房を紹介するけれど」
ぼくはファンタジーは書けないと、お断りしました。大陸書房はほどなくして倒産してしまい、大陸書房からデビューしようとしていて果たせなかったある人は、「私は大陸難民やから」と自嘲的に笑っていました。もし、無理をしてでもファンタジーを書こうとして迷走した上に、大陸難民になっていたとしたら、ぼくはどうなっていたことでしょう。そのころは、SFアドベンチャー誌の書評も下ろされていたので、ものかきになる夢はかなりしぼんでしまいました。友人の編集する同人誌にノベルズ評を書いたりして、ファンライターとしては書くことを続けていましたが、プロになるにはかなりハードルが高くなったことは事実です。
ならば教員としてはどうだったか。僕は定時制の講師の仕事は楽しくやっていたので、続けて契約してもらいたいと思っていました。しかし、人事異動で正規の商業科の先生がやってくることがわかり、定時制での仕事は続けられません。講師の宿命です。人手が足りないので、臨時で駆り出されるのが講師です。常勤であろうと非常勤であろうと、それは変わりありません。
校長先生から、商業高校に商業科の講師として勧めるが、と言ってもらいましたが、それも断りました。商業科を専門とする高校で、臨時免許しかない素人がちゃんとした授業ができるはずがありません。僕は本業の社会科なら受けていたと思います。
捨てる神あれば拾う神あり。京都府中部の教育委員会から電話があり、中学校の社会科の常勤講師の口が飛びこんできました。できれば高校で教えたかったのですが、贅沢は言っておれません。少し遠く不便ではあったけれど、ぼくは亀岡市にある中学校に常勤講師として赴任することになりました。
ぼくの3年間の「中学校教師」としての生活が始まること名になりました。与えられたチャンスをどう生かすか。この時期、ぼくはいろいろと試されていたと、今になって思うのです。
6 夜型から朝型へ
亀岡市の中学校で働くことになったとき、一番困ったのはバイオリズムです。2年間、学習塾で働き、1年間定時制高校で働いた体は完全に夜型になっていました。しかし中学校は朝から始まります。まず、夜型から朝型にリズムを取り戻さなければならないのが課題となりました。
しかも、亀岡に行くには交通の便が悪く、長距離でしたが原付のスクーターで通勤することにしました。亀岡は秋になると朝から霧が深くたちこめ、運転するのが怖かったのを覚えています。冬に大雪が降ったときはバスに乗っていかなければならなかったのですが、そういう時は1時間目は自習にせざるを得なかった。
とはいえ、声をかけてもらい、それを受けたのですから文句は言えません。
問題は授業でした。中学生を教えるのは初めてで、しかも同じ学年にはベテランの先生がいて、その先生の使う教材をそのまま使い、授業のやり方もその先生に合わせてやらねばならない。正規に採用された人は、新任研修があり、授業の進め方などをそこで勉強するのですが、講師にはそんな制度もありません。しかも常勤講師ということは、仕事内容は正規の先生と同じ。生徒たちはまだまだ子ども。写真部の顧問となりましたが、フィルムの現像や引き延ばしなど全く知りません。暗室で生徒に教えてもらうという、困った顧問でした。社会科の教師同士で食事に行った時、ベテランの先生から、「あんたの前では組合の話はできんな。もしかしたら教頭側の人かもしれんで」と言われて、それにはうんざりしました。亀岡にはまったく縁がなく、人間関係を一から作らなければならなかっただけに、誰を信頼すればいいのか。とにかく目の前にあることを一所懸命するしかない。不良にからまれたこともありました。その不良生徒から学校に電話がかかってきて、たまたま僕が受け、言葉遣いなどを注意したのを根に持たれました。彼はなんと授業中にずかずかと入ってきて、ヘッドロックをかけ、髪を引っ張るなど、やりたい放題でした。校長や教頭からは被害届を出すのかと問われ、「出したい」と答えると、なんとか出さないように説得されました。
定時制高校にもやんちゃなのはいましたが、ある程度コントロールして対教師暴力まで発展することはありませんでした。こちらが毅然と対応すると、それを認めてくれたのでした。高校生は、やはり中学生より大人だったのです。
それでもなんとか1年勤めあげました。ところが、その学校には1年しかいられませんでした。ただ、市の教育委員会からは同じ亀岡の別の学校の講師の口を紹介されました。また新しい環境に飛びこまなければならなくなる。毎年これが続くのかと思うと非常に辛かったのです。
7 初めての担任
ぼくはストレスをためやすいたちです。特に新しい環境に慣れるまでにかかるストレスは大変なものがあります。定時制の高校で講師を始めた時、学生時代に骨折した右足の古傷が痛みだしました。ところが、同僚に誘われて飲みに行き、カラオケで思い切り歌ったら、それがストレス解消になったのか、痛みが消えました。亀岡の中学校に移ったときにも足の古傷が痛み、遠足の打ち上げで飲みに行ってやはりカラオケで歌いまくったら痛みは治まりました。
1年間勤めてやっと慣れた中学校から、同じ市内の別の中学校に移ったときにもストレスがたまりました。というのも、講師という、いわば臨時の教員という立場であるのに、いきなり1年生の担任をすることになってしまったのです。亀岡市の中学校では、常勤講師であっても担任を持たなければならないということがあるのは1校目で知っていましたが、いざ自分がそういう立場に立たされると、悩むことが多かったのです。まず、担任の仕事をするというのは初めての経験で、どういう風に学級運営をしていけばいいのかすべて手探りでやっていかなければならない。学年主任の先生にはかなりお世話になりました。もっとも、短大を卒業したばかりの新規採用の先生も担任を持つことになって非常に悩んでいましたから、学年主任はそちらのケアが中心になっていたので、頼り切るわけにはいきませんでした。
授業に関しては、同じ学年の社会科の先生は同世代で話し合いながら授業を進めていくことができたし、前年の経験もあったので、あまりストレスを感じることはありませんでした。また、前の学校でいっしょだった先生が何人かいっしょに転勤してきていましたから、人間関係を作るのも前の年よりはまだ楽な部分が多かったので、それも助かりました。亀岡市には当時八つほど中学校があり、その中学校の中で人事をまわしていくようなシステムになっていました。先生たちの中には、全く別の中学校で過去に同僚だったというような人たちがたくさんいました。今思うと、非常に閉じた世界だったのだなあと思います。前の学校でいっしょだった先生の夫や妻だというような人もいました。そこからぼくの情報を得ていた人もいたようです。ほんとに狭い世界でした。
亀岡市での二校目は、新興住宅街の中の比較的新しい学校で、生徒たちもいろいろなところから集まってきているという感じでした。そういう意味では割とやりやすかったのかもしれません。とにかく無我夢中でした。「学級通信」を毎週発行している先生もいました。僕にはそんな余裕は全くありませんでした。ただ、今と違い、生徒の顔と名前はすぐに一致しました。今のぼくは記憶力が弱くなってなかなか生徒の顔と名前が一致せず苦労しています。
小学校時代に児童会長をしていた女子生徒がいて、その生徒とうまくやっていけば何事にもうまくいくはずでしたが、そこのところもなかなかうまくいきません。もともと昔から女性と話をするのが苦手なたちでしたから。採用試験の勉強も続けていましたが、とてもそこまで手がまわりませんでした。家庭訪問週間で、各家庭をまわったり、とにかく新しい学校に行ってからの数ヶ月は落ち着く暇がありませんでした。自分は教師に向いているのかとか、そんな悠長なことを考えている暇もなかったのです。
そして、ぼくの手には負えない生徒に出会うことになったのです。よくまあつぶれずにすんだものです。よく頑張ったなあと、そのころの自分に声をかけたくなります。それくらい大変な生徒と、そして保護者だったのでした。
8 講師には重すぎる課題
常勤講師という立場ながら、クラス担任を初めて持った、あの年のことは忘れようがありません。ある女子生徒が抱えた問題が重すぎて、教員としての経験の浅いぼくにはとても歯が立たなかったのです。
その生徒は、いつも両腕で自分の顔をはさむようにして席に座っていました。授業中は教科書を壁のように立て、時折消しゴムや定規を周りに投げたりして、常に防御の態勢をとっていました。時には階段の踊り場で倒れこみ、動こうとしなかったりもしました。本人の話を聞くと、小学生の時にいじめられていたようで、そのためかたくなに自分を防御するようになったのです。
家庭訪問はもちろんしました。日頃の生活の話を聞いたりした後、その生徒の母親は封筒に入ったものをぼくに渡そうとしました。断ったのですが、「先生はご本を読むのが好きと娘に聞きまして」と言われ。中を確かめると、確かに2冊、本が入っています。とりあえず預かり、学年主任と女性の副担任の先生の前で袋から出してみたら、当時話題になっていた新興宗教の教祖の著書でした。両親ともその宗教に入信し、娘が相談すると、その宗教の教義を聞かせていたりしたようでした。その教義を信じていれば、すべてがうまくいくと言い聞かせていたらしいのです。
その生徒は僕に聞きました。
「先生は神様はいると思う?」
「ぼくの神様はもう死んでしまったよ」
その生徒は驚いて聞き返しました。
「神様は死ぬの?」
「僕の神様は手塚治虫という『漫画の神様』でね、ぼくは手塚先生の漫画から多くのことを教わったんだ」
「人間かぁ」
ぼくの返答は彼女を納得させるものではなかったようでした。ぼくはかなり真剣に答えたつもりだったのですが、まあ、新興宗教の教祖とは「神様」の意味がかなり違っていたのですね。
母親の言葉を理解するために、もらった本も読んでみました。全くぼくの心には響いてきませんでした。なぜこの本を読んで、その宗教を信じるようになったのかは、ぼくには理解できませんでした。きっとなにか心の支えになるものがほしいときにその宗教に出会ったのでしょう。それは、その当人でないとわからない心情です。
ただ、その宗教の教義が娘を救うものではなかったようで、彼女はますます周囲を拒否するようになってきたのでした。
そこに、思いもよらぬところから救いの手が伸びてきたのです。
9 救いの手もむなしく
生まれて初めて担任となったクラスには、当時のぼくには手に負えない問題を抱えた生徒がいて、もちろん自分一人では解決できようはずもなく、困り果てていました。それを救ってくれたのは、障害児学級の担当をしていたベテランの先生でした。この先生は本来なら学年主任をしているような先生だったのですが、管理職とは意見が合わず、自ら障害児学級の担当を申し出ているという人でした。
クラスに入れないなら、障害児学級でしばらく様子を見てもいいですよ、という申し出は本当にありがたかったのです。もう少しで不登校になるかもしれないというところでしたが、彼女はその申し出で救われました。ぼくも時折様子を見に行きましたが、少人数で、しかもこの学級の生徒たちはどの子も人なつこく、彼女は気持ちが楽になり、卓球を楽しんだりもしていました。授業については、各教科の先生に協力してもらい、プリントを渡してクラスの他の子たちから遅れないように工夫しました。
副担任の先生と相談し、このまま彼女は障害児学級で過ごすようにした方がいいという結論が出ました。学年主任もそれには賛成し、もちろん籍は僕のクラスに置いておいたままですが。あとは保護者の了解を得るだけです。
ぼくと副担任の先生はまた家庭訪問をしました。そしてこの案を提示しました。すると、母親は血相を変えて言いました。
「うちの子を障害児扱いする気か!」
今のぼくなら、しっかりと対応できます。教員生活の中で、十二年間は障害児教育を経験し、さまざまな研修を受け、自分なりに「障がい」があるということはどういうことかという視点もちゃんと持っています。また、人権教育の担当もして、「いじめ対策」について学校の方針をまとめたものを改定する作業をする中で、障がい者に対する合理的配慮に関しても理解を深めました。だから、母親のこういう言葉に対してもちゃんと答える事ができます。それだけの経験と知見を積み重ねてきました。
しかし、この段階のぼくは障がい児教育とはどのようなものかも知らず、また保護者対応についてもまったく経験がなかったわけですから、そう言われるともう答える言葉がなかったのでした。
「先生、私らも娘の心配をしていないわけではないんですよ。でも、教祖様の教えを守っていけば、きっと娘の状態も良くなると信じているんです」
信仰を盾にされては反論できません。そんな宗教的な問題とは分けて考えてくれと言ったところで、保護者たちの信仰の前には勝てそうにありません。いろいろと経験を積んだ今なら、返す言葉もあります。宗教から話をそらすテクニックもあります。もちろん、そこに至るまでには失敗も数多くしてきましたし、今、彼女の母親を説得できるかどうか、それはちょっとわかりませんが。
結局、彼女はせっかく見つけた居場所を失い、不登校になってしまいました。二年生の担任の先生は女性の先生でしたが、彼女を登校させることはできず、彼女は精神分裂の症状をきたすようになったということです。今、彼女はどうしているのか。年齢的には四十代半ば。知りたいけれども、知るのが怖い、そんな思いです。
10 最悪のコンディション
中学校講師の1年目は慌ただしく過ぎ、2年目は初めて担任を持ち毎日毎日目の前のことをこなしながら苦しんでいる生徒に何をしてあげられるのか悩み……。とても小説を書ける状況ではありませんでした。それに、ティーンズ小説というジャンルに挑戦したことで、自分の書きたいことが見えなくなり、SFを書いてコンテストに出しても予備選考で落とされたりして、すっかり自信を失っていた時期でもありました。ものかきで収入を得る手段はなく、またも教員採用試験を受けることにしました。ただし、当時の京都府では採用試験を受けるためには年齢制限があり、二十九歳が上限でした。採用された年に三十歳になるという年齢で線引きをしていたのでした。担任を持った年は二十九歳。つまり、京都府の採用試験を受けられる最後の年となっていたのです。
同僚からは「中学校の採用試験を受けたら、通りやすいよ」とアドバイスを受けました。しかし、ぼくはあくまで高校教師を目指していたのでした。定時制の高校が自分なりに生き生きとできていたのに対し、中学校ではしんどいことが多かったのが理由のひとつでしたが、もう一つの理由は「自分は中学校教師には向いていない」という判断でした。
というのも、ぼくはある程度大人になった生徒たちに自分の持てる知識や考え方を伝えたいという感じで授業をしていたからです。中学生には、知識を伝えることも大切ですが、子どもから大人に育てていくということをしなければなりません。講師を体験し、そこのところがぼくにはうまくいかないんじゃないかと思わされることが多かったのです。
最後の年ということで、本当なら採用試験の勉強に専念したかったのですが、問題を抱えた生徒と、その保護者への対応をしている間は勉強どころではありませんでした。さらに、担任を持っていると、その学校では学期ごとの通知表を保護者を交えた三者面談で渡すことになっていて、終業式の前日まで面談をしていました。毎日何組かの生徒と保護者と話をし、通知表を渡すと、いくら若くてもかなり疲れがたまります。終業式が終わってから勉強に専念したくても、その年の試験日程は、なんと終業式の翌日が一次試験というものでした。
少しは勉強もしていましたが、特に教職教養の試験は明らかに勉強不足で、試験を受けた段階で「あかん」と思いました。
一年に一度の一発勝負。しかも京都府では最後のチャンス。それなのに最悪の条件で臨まなければならなかったのです。結果は予想通り一次試験で不合格でした。
ぼくは思いました。
「天は、ぼくには教師になるのは無理だと告げたかったのかな」
それならば、他に方法はないのか。ぼくは私学の面接を受けられないか模索することにしました。
11 往復はがきも数出しゃ当たる
ぼくの従姉の結婚相手は、当時、京都でも名門と呼ばれる私立校の先生でした。どうすれば私立で講師として採用してもらえるか、その人に相談することにしたのです。
「往復はがきで講師採用の予定があるかどうか問い合わせをしたらいいと思いますよ。往復はがきなら、必ず返事をくれますからね」
なるほど、そういう手があったのか。やはり自分の乏しい経験だけではこういうアイデアは出てきません。ぼくは京都と大阪の私立学校をリストアップして手当たり次第といっていいくらい大量のはがきを送りました。しかし世の中そんなに甘くはありません。返ってくる返事はたいてい「今のところ講師を採用する予定はありません」というものでした。
ところが、1校だけはがきでの返事ではなく直接電話をかけてきた学校がありました。そこの学校の教頭先生は「今すぐにでも来てほしい」というようなことを言ってきました。ただ、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」式ではがきを出したものですから、どんな学校かも調べずに出したものもありました。教頭の電話の様子からすると、なんとなく嫌な予感がしました。
誰か講師が途中でやめて、後釜がほしいのかも。形だけでも面接をしてからでないと、ぼくという人間がどんな人物かもわからないし、教員としての力量もわからない。なのに、すぐにでも採用したいという権幕でした。幸い、付き合っていた女性(現在の妻です)の住んでいるところに近い学校でした。ぼくはその学校について彼女に聞いてみました。
「そんな学校知らんよ」
どうやら地元でもあまり話題に上らないような学校というわけです。そして教頭の反応……。きっと難しい生徒が多く、講師が次々と辞めてしまう、だから今すぐにでも、誰でもいいから来てほしい。
そこはお断りしました。現在、公立中学校と契約をしていること。それを破棄してそちらにお世話になるわけにはいかないことなどを失礼のないように話しました。
面接をするという学校が大阪で二校ありました。いずれもスポーツで知名度をあげ、人気が出だした学校でした。京都でも、かつて甲子園の常連だった学校から連絡が来ました。こちらは一度来てもらいたい。ちょうど欠員があるから、面接の結果次第では採用できるだろう、とのことでした。どこでもいい。その三校のうち一つでも引っかかってほしい。
京都の学校が有望でした。私の卒業した大学のOBも多いと言っていました。公立校だけが学校ではない。とにかくものかきで行き詰っているだけに、教員として採用してもらいたい。自分にこの仕事が向いているのかどうか、そんなことはもうこれっぽっちも頭にありませんでした。もうじき三十歳になる。交際している人といっしょになりたい。いろいろと焦っていたのだろうと、今になって思うのです。
12 面接の結果と産休講師の話
私学の高校の面接で、本命の京都の学校から電話が来ました。
「面接は、申し訳ないけれど、中止になりました」
どういうこと?
「他の方で世界史の専門の方を採用することになり、枠が埋まってしまい……」
担当の先生は、ものすごく申し訳ないという感じで話してくれました。採用を前提の面接だっただけに、ぼくもかなりショックでしたが、向こうにも事情があり、仕方ありません。おそらく、ぼくなどよりも強いコネがある人を採用することになったのだと思われます。前回の電話では本気で採用してくれる雰囲気だったのが、一転して詫びの電話。しかも面接そのものがなくなってしまう。ということは、形だけの面接をしても採用できないから、面接そのものもやめてしまった方が、ぼくへのダメージが少しは和らぐという、その先生なりの配慮だったのだと思います。そこらあたりの機微は若いぼくでもわかりました。
あとは大阪の二校の面接です。一つめの学校では、ぼくが書評を連載していたことについて質問してきました。そして、その書評が今後の執筆につながっているかを尋ねられました。その時点で文筆に関しては友人の同人誌に連載をしていただけで、商業誌からは原稿の依頼など全くなくなっていましたから、ぼくは正直に文筆に関しては展望がないことを伝えました。すると、質問はそこで終了です。その学校からすると、おそらく将来的に文筆業でぼくの知名度が上がり、それが学校の宣伝になることを期待していたのでしょう。そして、それが期待できないとなると、ぼくを採用するメリットもないと踏んだんだと思われます。その学校からははっきりと不採用の通知が来ました。
もう一つの学校ではいい感触が伝わってきて、三月末までには連絡するという返事が返ってきました。休みが少なそうな学校でしたが、そこで講師を続けられたら、正式採用の機会も訪れるだろうと思い、返事を待つことに決めました。
中学校での仕事は、不登校になった生徒の件を除くと、それなりにうまくいっていました。生徒たちとの関係も良好でした。ただ、ぼくは生徒たちに自分が契約期限付きの講師であるということを伝えていなかったので、来年度、その生徒たちの担任になるかどうかなどということについての話ができないのは辛かったです。それくらい、教員の仕事になじんでいたということだったのでしょう。
年度末が近づき、教頭から来年度も継続して採用するということはないと言われました。ただし、同じ社会科で来年度の途中から産休に入る先生がいるので、その代替で常勤講師をしてもらいたいともいわれました。二カ月弱のブランクはあっても、二年連続で同じ学校で仕事ができるというのはありがたい話でした。ただ、大阪の私立の高校から声をかけてもらうかもしれないので、即答できませんでした。実はその私立の高校からは放置されているような感じになっていました。つまり、いざというときの持ち駒としてキープされている、ということだったのでしょう。それでも、そこから声がかかる前に産休講師の仕事を引き受けてしまうと、チャンスを逸することになると思い、産休講師の件については年度末まで待ってもらうことにしました。講師という不安定な身分にしがみついていたのも、文筆の方での展望がなかったからです。今ならネット上のサイトに投稿して機会を待つこともできますが、三十年以上前は、東京で編集の仕事をしたりしていないと、なかなか文筆業をする機会は巡ってこないというのが実情だったのです。
この時期は本当に先が見えず辛かったですね。
13 不合格になるために勉強する
年度末ぎりぎりになってもあてにしていた私学からの連絡はありません。産休講師の件で中学校をあまり待たせるのも申し訳ない。そこで、こちらから私学に電話しました。煮え切らない返事で、人が足りなくなるまで僕をキープしておこうという姿勢が明らかに見えていたので、こちらから断ることにしました。別にどうしてもその学校に勤務したかったわけではなかったし、駒としてキープしておこうというような扱いをする学校で仕事をする気にはもうなれませんでした。
中学校に「産休講師の話を受けます」と伝えた時の、教頭の嬉しそうな声を思い出します。ぼくの返事がなくても、他の人に話を持っていくということもせず、待ってくれていたのです。1年間、それなりに仕事をしてきたことが評価されたのか、その中学校に慣れている人に来てもらうメリットを重視していたのか、そこまではわかりませんでしたが、どういう理由であれ、ぼくという者を必要としてくれていたのだけは確かです。必要とされているところで働くのはありがたく、幸せなことです。あの時に産休講師の依頼にこたえたことで、ぼくに運がまわってきたと、今も思っています。
ぼくが産休の代替に入るのは5月の下旬でした。4月からそれまではどうするか。失業者、ではありますが、前の年に忙しくてできなかった試験勉強をする時間ができたことは確かです。京都府の高校教師になる目はなくなりましたが、近畿地方の他府県の募集要項を調べたら、大阪府は当時は四十歳まで採用されることがわかりました。
当時の大阪府の教員の給与は全国でもトップクラスでした。それだけに競争率は非常に高かったのでした。合格は難しいと、ぼく自身も自覚していました。
そのころ、雑誌でプロ野球阪神タイガースの掛布雅之さんのインタビューを読みました。
「ぼくは入団テストを受けることで、自分はプロ野球選手のレベルに達していないという現実を突きつけてもらいたかった。そして、入団テストに落ちたら、自分はプロ野球の選手に向いていないときっぱりとあきらめる事ができたと思います。ぼくはプロ入りをあきらめるために入団テストを受けたと言っていいでしょう」
これだ、と思いました。何度も受け続け、合格できないということは、つまり僕が教師に向いていないということの証明になります。そして、京都や大阪には参考書や問題集を出版している会社はたくさんあります。講師という経歴を持って就職活動をしたら、出版社に入社できるかもしれません。もともとそちらの世界を志望していたことを思い出しました。
「教師になることをあきらめるために試験を受けよう」
ただし、全力を尽くして、それでも不合格だったというのならば納得がいきます。だから、失業中はひたすら勉強しました。これだけやっても不合格なら仕方ない、そう思えるために。
14 条件はそろった
はからずも失業中となったぼくは、前の年に勉強不足だった教職教養の勉強を中心に自分の知識を洗い直しました。参考書で名前が挙がる古典的な本を買い、読みふけりました。ルソーの「エミール」をはじめ、フレーベルなど、内容を簡単に示したものだけでは足りないと思ったのでした。また、「教育六法」を買い、「教育基本法」や「学校教育法」をノートに写したりしました。
大学では社会学を専攻していたので、「倫理」の教員に志願しました。哲学は弱かったのですが、宗教などの思想には昔から興味があったので、大学受験用の参考書の内容をノートにまとめました。
試験勉強だけでは息が詰まるので、近くにあるボウリング場に通い、ストレス解消と運動不足解消を兼ねて週に何度か二ゲームほどしていました。また、こういう時でないとまとめて読めない小説も読みました。「レ・ミゼラブル」や、司馬遼太郎の戦国もの「国盗り物語」「関ヶ原」「城塞」「豊臣家の人々」「覇王の家」などなど。そんなこんなで失業期間の二カ月はあっという間にたちました。その間、文句も言わずに好きにさせてくれた母には感謝です。父も言いたいことはいろいろあったと思いますが、特に何も言われなかったような記憶があります。ただ、何かというと縁談を進めてくるのには閉口しましたが。
「ぼくは定職のない状態なんやから、結婚なんか無理」
「一人の口より二人の口。なんとかなる」
ぼくにはつきあっている人がいたけれど、なかなか結婚というところまで行かなかったのも父には歯がゆかったのかもしれません。仕方なく、父の友人の娘さんと見合いを兼ねて水族館に行ったりしたこともありますが、ぼくにその気がないのと、相手にもその気がないのは明らかでしたから、その話はなかったことになりました。ただ、見合いみたいなことをしたことで、つきあっていた彼女の心境に何かしら変化があったようでした。
それはともかく、ぼくは前年度に勤めていた中学校に「復帰」しました。今度は副担任で、立場的にも負担は軽く、人間関係はもう出来上がっているわけでその点のストレスもない。授業内容も世界地理と歴史ということで、それほど予習しなくても教えられました。しかも、夏休み前の三者面談はもちろんなく、カレンダーの関係で、終業式から教員採用の一次試験まで一週間近くあいていて、休みを取って直前まで試験勉強ができたのも、前の年とは大きく違いました。
大好きな阪神タイガースは、「暗黒時代」でしたが、この年だけは新庄、亀山コンビの活躍などで優勝争いをしたりして、毎日気分がよかったのもあります。それに、教員になることをあきらめるために受けるという気楽さもありました。なんとしても合格しなければ、という力みはありません。「全力を尽くす」という条件はそろっていたのです。あとは難関である試験で弾き飛ばされるだけです。そして試験当日がやって来ました。
15 運命を変えた面接
第一次試験は、合格通知が届きました。これで第二次試験に進む事ができます。つまり、ぼくはまだ教師には向いてないと判定が下されたのではなかった。可能性が残ったわけです。今は大阪府は二次試験では模擬授業をしたりとか、結構あれこれやらされるみたいですが、その当時は二次試験は面接のみでした。
ただ、自信はあまりありませんでした。私学の面接試験で、あまりうまく受け答えができなかった記憶もありました。ここで落とされると思いました。
仕事をこなしつつ、面接試験対策として面接に関するハウトゥー本を読んでみたりもしました。とにかく積極的に発言せよ、ということを繰り返して書いてあるだけで、要は本気度を見せたらそれでいいということのようでした。
面接試験は二段階に分かれていて、まずは集団面接でした。一次試験合格者が五人いました。ただし、三人は質問されたことに答えるだけでした。
「この人たちは合格したくないのかな」
そんな感じでした。
ただ一人、強敵がいました。ぼくとその女性だけは自分から発言したり、試験官に食らいついていったりしていました。彼女の受け答えは非常に落ち着いていて、(合格するならこの人だろう)と思いました。
その時、運命を変える質問が出ました。
「高校生の中退が増えていることに関してどう思いますか」
彼女はこう答えました。
「中退もまた進路のひとつなので、本人の意志を尊重すべきだと思います」
ああ、あまりにも本音を語り過ぎました。ぼくも本音では同じように思ってはいましたが、当時増え始めていた高校中退者に対し、文科省は中退防止策を出したりしていたのです。そういう動向については彼女は関心がなかったのでしょう。そこのところについては準備不足だったのだと思います。
攻めどころはここだ!
「中退しないように生徒と向き合って、じっくり相談し、なるべく中退しないようにすべきだと思います」
現実はそう簡単なことではないというのは、後年嫌というほど思い知らされますが、当時のぼくは高校の現場にはいなかったので、そこらあたりはわかりません。ただ、試験官の望んでいるのは文科省の取り組みをちゃんと理解しているかどうかを知ることだということだけはわかったので、本音とは少し違っていましたが、強敵とは逆の答えを熱く語って見せました。その瞬間、彼女の表情が変わったように感じました。ミスをした、という感じの表情でした。
次は個別の面接で、ここではぼくはうまくいかなかったと思っています。
「塾や定時制高校、中学校講師の経験を活かしたいと思います」
あまりにも中身のないことを口走りました。
「それをどう生かしますか」
もっと具体的に答えよということですね。そこで思考が止まってしまい、どう答えたか、もう覚えていません。
面接が終わり、廊下で待っていた強敵の女性は不安そうに聞いてきました。
「どんな感じでしたか」
それにどう返事したか、覚えていません。ただ、個別の面接の前に、彼女は弱気になっているということだけはわかりました。
とにかく「落ちるための試験」は終わりました。悔いのないようにその時点での全力は尽くしたつもりでした。これで落ちたら踏ん切りがつく。ぼくは、次は京都や大阪の参考書や問題集を出している出版社を調べよう、と気持ちをもう切り替えていました。
16 地方都市の中学校教師
教員採用試験の合否通知まではしばらく間がありました。割と気楽に講師生活を送っていたこの時期には、講師四年目ということもあり、全体を見渡すこともできるようになっていました。当時の中学校の現場は今ほど「ブラック」と言われることはなかったので、教師も疲れ切ってへとへとみたいなことはありませんでした。
中学校の教師の難しさがわかってきました。というのも、生徒はまだまだ子どもで、教師の力がかなり強かったのだなあという感じだったからです。生徒に寄り添う人ももちろん多かったのですが、力関係では教師が絶対的に上という状態でした。やたら生徒に威張り散らす人がいました。その人は組合に入っていて、卒業式の君が代や日の丸について、職員会議では強硬に反対意見を言ったりしていても、飲み会では教頭にすり寄って、「オリンピックで日の丸が上がり君が代が流れると感激しますよ」などと言うのでした。ぼくは内心で「教師という立場や組合の後ろ盾があるから偉そうに言えるというだけの人なんやなあ」と思っていました。むろん口には出しませんでしたが。
女性関係で問題のある先生もいました。確かなことはわかりませんでしたが、そういう人はだいたいその振る舞いでわかるものです。特に、短大出の若い先生に手を出してるんやないか、と思われる先生とか、短期で来ている女性の講師の先生と何やら関係を持ったように思える先生やら。学校という狭い世界で、しかも同じ市内で先生をぐるぐるとまわしているような人事異動が当たり前と言うような状況でしたし、教師という立場であっても一皮むけばただの人ですから、そういうこともあるもんだ、とは思いましたが、あまりいい感じがしなかったのも事実です。
ある年に仕えた教頭は、ぼくと同じような年頃の女性の先生をやたら持ち上げていました。
「お姫様みたいや」
なんじゃそらと言うような歯の浮くようなことをいうのには驚きました。後から知ったのですが、その女性の先生の父親も教師で、同じ市内の別の学校で校長をしていました。おべんちゃらを使っていたということなのでしょうか。その教頭は小学校の校長になりましたが。まさかおべんちゃらがきいたわけではないでしょうけれど。三十年以上前の話ですから、現在ではきっと状況は変わっていると思います。なにしろまだ「モンスターペアレント」などという言葉はなかった時代ですし、地方都市と大都市とでは教師のありようも違っていたと思うので、ここに書いたことが一般的な中学校教師の実態などとはとても言えませんが、その当時の地方都市の中学校ではこういうこともあった、くらいのことです。
ただ、こういう狭い世界にはそう長くいたいと思わなかったというのは事実です。早く採用試験の結果が出てくれないかと、心待ちにする日々が続きました。不合格ならばそこで踏ん切りをつけて別の世界に行くだけですから。
そして、ある日、仕事中に家の母から電話がかかってきました。大阪府の教育委員会から合否の通知が来たのです。開封していいかと聞かれたので、すぐに開けてほしいと答えました。母が通知を開封するまで、緊張していたことを今でも思い出します。その通知が運命の分かれ道、でした。
17 教師って面白い!
大阪府の教員採用試験の合否の通知書には、合格なら「G」という記号が記されます。GOUKAKUの「G」なのでしょう。どの教科のどの科目で「G」判定が出たかはけっこう大切で、ぼくの場合は社会科の「倫理」の採用試験を受けたので、基本的には「倫理」を優先して担当することになります。
母が通知書を開き、その結果を伝えてくれました。
「Gって書いてあるわ」
合格です! ぼくは面接で張り合った強敵の女性が合格し、ぼくは不合格ではないかと思っていたので、驚きました。そして、天は僕が教師に向いていると認めてくれたか、と思ったのです。
同僚たちからもお祝いの言葉をかけてもらいました。
「大阪は京都よりもお給料がいいから、よかったねえ」
当時、大阪の教員の給与水準は全国でもかなり高い方だったのです。今は下から数えた方が早くなってしまいましたが。
ある先生がアドバイスをしてくれました。
「今から、自分がどんな授業をするかとか、いろいろと心構えをしておいた方がええで」
それからというもの、倫理の参考書を何度も読み返したりしたものです。
合格が決まったので、授業にも集中できます。
ところが、社会科という科目は特に時代と密接につながった授業なので、思いもよらないことが起こったりもします。
世界地理の授業で、これから「ソビエト連邦と社会主義の国々」という単元を教えるということになったとき、ソ連は崩壊の危機に瀕していました。ゴルバチョフ大統領が監禁されたり、エリツィンが勝利宣言をしたり、レーニン像が引き倒されたり、ベルリンの壁が打ち壊されたりと、毎日のように情勢が変わっていきます。同じ学年の社会を担当していた先生と打ち合わせをしました。
「これ、教科書通りに教えても、高校受験にはそのまま出題されへんのと違うかな」
「ここは情勢が落ち着くまでちょっと待って、先にオセアニアのところを教えよう」
それでもオセアニアのところはすぐにすんでしまいました。二人して、試験には出せないけれど、新聞を見せたりしながら、ソ連とはどんな国だったかとかいう形で説明し、今後の展望は新聞などをプリントにして配ることにしました。
すると、それまで社会科にはあまり関心のなかった生徒たちが食いついてくるようになりました。ぼくは「AERA」などの特集号を持っていき、生徒たちにまわして見せたりもしました。
教科書通りに教えるのではなく、自分で教材を作りながら授業をするという経験は、のちのぼくの教師生活につながっていきます。ただ、この時はそんな先のことなどわかりません。無我夢中でした。
あとから、ある生徒から「あの授業、面白くて、社会科が好きになりました」と言ってもらえた時、採用試験に合格していてよかったと心から思いました。
教師って面白い!
早く四月になって、高校の教壇に立つ日が来ないかと心待ちにするようになっていました。また、採用されたことがきっかけで、つきあっていた彼女との関係も大きく動き、そのまま結婚にまで進んでいくことになるのでした。
高校時代の恩師のような教師になりたい。生徒とフランクに話しながら関係を作れるようになりたい。
しかし、四月からの教師生活は思いもよらないものになっていったのです。
18 養護学校は人手不足
この年、大阪府の教員採用試験を「倫理」で受けたのは四十人でした。そして、合格したのは一名だけ。その一名がぼくだったのです。当時、教員志望者向けの受験雑誌があり、合格結果を掲載していた号を書店で手に取って、それを知りました。四十倍という高倍率を潜り抜けたというのは、むろんそれなりに努力した結果ではあるけれど、集団面接で強敵のミスがあったりしたことなど、運も味方していたと思います。とにかく、大阪府は自分を倫理の教員として必要としてくれている。そう思うと、やる気も出ようというものです。
ところが、三月の末にぼくの自宅に連絡してきたのは高校ではなく養護学校の教頭先生でした。ぼくは高校の教員ではなく、知的障がい児を教える教師として養護学校に配属されることになったのでした。
これはかなりショックでした。何年も講師をし、これでだめなら教師になるのをあきらめるつもりで受けた試験に合格し、倫理の教師としてどんな先生になろうかと思い描いていた、それがすべて意味のないものになったという気分でした。
当時、大阪の養護学校は人手不足で、本来なら養護学校教師の免許がなければ養護学校では教えられないところを、一時的な措置ということで、普通の教員免許でも配属していたのでした。そして、教育委員会の主催する単位認定講習で、養護学校教諭の免許に必要な単位を取らせ、三年ほどで養護学校の教諭免許を取れるようにしていました。
そんなわけで、ぼくは思いもよらず障がい児教育にたずさわることになったのです。むろん、それまでの講師経験で障がい児と接することがなかったわけではありませんが、直接教えたりするということもありませんでした。
新任教員を森ノ宮の青年会館に集め、辞令交付式が行われました。その養護学校には、大学を出てすぐの若い先生とぼくが信任として着任することなっていることも、その式場でわかりました。式が終わり、着任予定の養護学校に行くと、高等部のトップである主事の先生が「君らは分教室やな」と告げました。
当時の大阪にはまだ養護学校のない市町村が多く、そういうところに新たに養護学校を作る計画が進行していました。いきなり作るのではなく、準備室を兼ねた「分校」ならぬ「分教室」というこじんまりとした規模の学校がその前の年にできていて、新入生を迎えるために新任の教師をどんどんその分教室に集めていたのです。というのも、新任教師は「初任者研修」を1年かけて受けることになっており、新任教師が二人いると、研修で抜ける分の授業を補充するために常勤講師が一人増やせるというルールがあったのです。ぼくともう一人が新任教師として採用されたため、常勤講師枠が増える。人手不足をそういう方法で補っていたのですね。
とはいえ、四十倍の試験を突破していきついた先が、全く経験のない障がい児教育というのは、やはりショックでした。大阪府はなぜそこまでして合格させた者を全く畑違いのところに投入するのか。人手不足解消という理由はあるにしろ、正直なところ、ぼくのモチベーションは一気に下がってしまいました。でも、現実は受け入れなければなりません。気持ちを切り替えて、しっかりと初任者研修を受け、数年したら高校に転勤するんだと心に決め、ぼくは分教室に入っていったのでした。
19 初任者研修
新規採用者には、指導教官がつきます。ぼくの指導教官は数年前には教育大学に内地留学をしたりして、最新の「障がい児教育」についてくわしい人でした。ただ、冷静に観察してみれば、実践面と理論がかみ合わないようなところがありました。それでも、この先生のおかげで「障がい児教育」というものについて、教育学上ではどういう位置づけがなされているかなど、学んだことも多かったのです。養護学校教諭の免許を取るための単位認定講習を受けることも勧めてくれました。
初任者研修は、大阪市内の南部にある教育センターで行われました。同期採用者たちと交流をしていく中で、その年に社会科で合格した新任教師は一人を除いてみな養護学校に配属されていることがわかってきました。高校の社会科教師は年輩の人が多いうえに、学習指導要領の改訂で英数国の時間が増え、理社の時間が減らされていました。そのため、社会科の教員はだぶついていたのです。しかし、新規採用を止めてしまうと、年配の教師が退職した後、一気に人手不足になってしまいます。だから採用はする。そして人手不足の養護学校にまわす。そんな感じだったのです。
だから、同期の社会科採用者たちはみな、早く高校に転任したいと思っていました。
研修では障がい児教育のイロハをたたきこまれました。障がい児と言っても、肢体不自由、知的障がい、視覚障がい、聴覚障がい、そしてそれらの障害が重複している重度障害と種別は様々です。学校見学では視覚障がいの盲学校や聴覚障がいの聾(ろう)学校、肢体不自由の養護学校、そして僕たちが勤める知的障がいの養護学校と、それぞれの障がいに対応した学校をまわりました。これは確かに勉強になりました。高校だけしか経験していなければ、学校にはこれだけいろいろな種類があるのだということがわからなかったでしょうし、意識することもなかったと思います。特に重度障がい児に対する「教育」については何が必要か、ということを考えられたのは大きかった。一般の高校に転勤した後も、同じ年ごろで全介助の必要な生徒もいるのだという意識を常に持ち続けていました。
夏休みは高野山に合宿をしに行き、フィールドワークをしたりしました。そこで同期生たちと親睦を深めました。また、この初任者研修を受けたことで、障がい児教育に強い関心を持つようになり、そのまま養護学校の専任になっていった人もいました。
そういう意味ではこの時の初任者研修は僕にとっては大きな財産になりました。「教育とは何か」ということについて深く考える事ができるようになりました。ただ、それを実践に生かせたかどうかは、また別の話です。どんな理論も、現実の障がい児の予想もつかない行動の前にはぶっ飛んでしまう。そういうものだと何度も思い知らされました。
ただ、困ったことに、初任者研修では自分の専門科目である「高校の倫理の授業」をいかに向上させるかということは一切ありません。養護学校の教師として戦力になるようにする研修ですから、仕方ないですが、のちに一般の高校に転勤してから、それが一番のハンディキャップになったということを、今でも実感しています。
20 コップの中で立ち泳ぎ
初めて知的障がい児と毎日接し、教科の壁を越えていろいろなことを少しずつ身につけさせていくという、気の遠くなるような日々が始まりました。とにかく生徒たちをよく見ること。個別の課題がどこにあるのかをよく考えること。そしてどう実践していくか試していくこと。試行錯誤の日々です。
むろん、長く障がい児教育にたずさわってきた先生方がいるわけで、その人たちを手本としながら授業を組み立てていくわけです。ただ、ぼくの指導教官は少しだけ高いハードルを設けてそれをいかにして超えさせるかというタイプの指導者だったのに対し、もう一人の新任教師を指導する先生は、できることだけをさせるというタイプの指導者でした。小さな分教室ですから、ある程度統一した方法論で生徒の力をのばしていかなければならないはずなのですが、全く正反対の方法をとる二人が対立する形で共存し、それをまとめる役目の分教室主任の先生は進んで調整役を務めるタイプではなく、それぞれのやり方に任せるタイプの方でした。人格者ではありましたが、リーダーシップという点では少し物足りなかった。
一番戸惑ったのは、「学習発表会」の劇でした。高等部、ということは、年齢的には高校生です。学習発表会の担当は「できることをやらせる」派の指導者でした。「おむすびころりん」という民話をそのまま劇にしていましたが、どう見ても高校生の年齢の生徒たちにやらせるようなものではなく、幼児の遊戯のようなもので、これができたからと言ってこの生徒たちはどれくらい力をつけたことになるのだろう、と疑問をもちました。ぼくは指導教官が「ハードルを設ける」派でしたから、自然とそちらのグループに属するようになっていきました。
指導教官はなんとか分教室のイニシアチブをとろうと画策し、ぼくもその計画に加わっていきました。あれこれと画策するのはけっこう楽しかったのですが、今思うと小さなコップの中で立ち泳ぎをしていたようなもので、なんか乗り気になっていたのが恥ずかしく思えてきます。それよりも、やるべきことがあるだろうと思い、2年目、生徒が増えていく中で、自分なりに「高校生らしい」学校生活を送らせる事ができないかと模索していきました。しかし、経験不足のまま頭でっかちで進めていってしまい、結構痛い目にあうのでした。特に保護者との対応は難しかったです。本音でぶつかっていこうと思い、「こういうことがまだできない」と感じたままをぶつけてしまったのです。そんなことは保護者のほうがよくわかっているはずでした。
「先生には障がい児の子どもを持った親の気持ちがわからないのですか」
そう言われると、何も答えられなくなりました。障がい児教育は、目の前の生徒だけでなく、保護者に対する配慮が非常に重要であることを失念していたのです。本校の校長が口癖のように「障がい児教育は三輪車」と言っていました。前輪が生徒。二つの後輪が保護者と教師。その三つがうまく力を合わせていかないと、三輪車はまっすぐ進んでいかないのでした。その言葉の重みがわかりかけてきたのでした。
21 原稿依頼が来た!
幼児のお遊戯みたいな「学習発表会」の劇を見直したいと、オリジナルスートリーで「ボールの旅」という台本を書き、どぶ川に落ちたボールが、川に流されている間にいろいろなことを学ぶ、という劇を演出しました。しかし、これがすこぶる不評。特に保護者は不満だったようでした。そして、そんな時に指導教官の先生は有効なアドバイスをくれませんでした。障がい児教育の難しさを感じさせた二年間が過ぎていきました。
先生も次第に増えていき、誰がイニシアチブをとるとかそんなことはもうどうでもよくなってしまいました。ぼくの指導教官はまだまだ野心たっぷりだったようですが。
そんな中、なんと「SFマガジン」から原稿依頼が来ました。別冊で、SFの中の各ジャンルについてまとめたものが出るということで、ぼくは戦記シミュレーションや伝奇バイオレンスといったジャンルについてまとめる担当として指名されたのです。友人の同人誌にノベルスに関する書評みたいなものは書き続けていましたが、それを読んだ人の推薦などがあり、原稿依頼が来たということです。
一応、本校の校長にもちゃんと報告をしました。公務員の兼業は法律で禁止されていますが、ちゃんと報告をして教育委員会の承認があれば、特に原稿関係についてはそれほど規制は厳しくなかったのです。それに、兼業というほど原稿料が高かったわけでもありませんでしたし。
養護学校は昼食の時間も生徒の食事介助をしたりする関係上、その当時は休憩時間とカウントされていませんでした。また、放課後に部活があるわけではなかったので、勤務が終了する時間はかなり早めでした。またその頃はタイムカードはなく、出勤したら名簿に印鑑を押すという形で出勤をカウントしている、ゆるい時代でした。
当時新婚だったぼくと妻の間では、先に帰宅した方が夕飯を作るということに決めていて、ぼくがいつも早く帰るので、毎日夕飯の支度をしていたくらいです。時間に余裕があり、原稿執筆の時間も取れました。
仕事ではうまくいかないことが多かったし、早く一般の高校に転勤したいという気持ちもかなり強かったので、とてもつらい時期でしたから、この原稿依頼はとても嬉しかったのです。なにより、学生時代からあこがれていた「SFマガジン」の表紙や目次に自分の名前が載っているという喜びは何物にも代えがたいものがありました。
そして、その原稿についても評価されたのでしょう。なんと本誌での書評の連載の依頼もきました。三村美衣さんと隔月で「ヤングアダルト」(今はライトノベルという呼び方に統一されていますが)のジャンル書評を連載することになったのです。三村さんはファンタジー系の、ぼくは戦記シミュレーションと伝奇バイオレンスを中心に書評することになっていました。このまま原稿依頼が増え、ものかきとしての収入が増えてくれたらいいなと期待したのですが、文庫解説の仕事などがぽつぽつと入ってきたけれども、教員をやめられるほどの収入にはつながりませんでした。それでも、「書評家」として当時は一応SFのイベントではゲストに呼ばれるくらいになったのです。
また、放送作家の新野新さんが主宰する「日本芸能再発見の会」に入り、いろいろな芸能関係の方の話を聞いたり、会が終わったら新野さんたちと飲みに行ったりすることもできるようになりました。教員としての仕事にあまり情熱を持てなくなっていたあの頃、ぼくの心の支えは文筆と芸能、そしてパソコンを購入してすぐに始めた個人ホームページと、毎日のように更新するウェブ日記だったのです。
22 新しい出会い
養護学校の分教室勤務も3年目に入り、大きく変化していきました。
ぼくはクラシック音楽が好きなのですが、なかなか同好の士は見つかりませんでした。しかし、ぼくの翌年に新規採用で着任してきた先生がぼくのつまらないダジャレに反応して、同じクラシックファンであることがわかり、当時行きつけにしていたクラシックファンの集まるスナック「ショパン」にいっしょに行ったりするようになりました。
どんなダジャレだったかと言うと、「窯業」という焼き物を作る授業で、粘土を水で薄めて混ぜるときに「まぜーるまぜーる、ロリン・マゼール」と誰にもわからんやろうというつもりで口にしたのです。当時、現役バリバリだったロリン・マゼールという指揮者がいたのです。すると、新任の彼が「あはは」と笑ってくれたのです。ロリン・マゼールはクラシックファンの間では人気のある指揮者ですが、クラシックに興味のない人にはあまり知られてなかったと思います。それに反応してくれた。そこから彼との交友が始まりました。
また、分教室は新しい学校を作る準備室を兼ねていたのですが、そちらの予算がつくことも決まり、正式に教頭が配属されてきました。分教室の中心は教頭となり、イニシアチブを誰がとるかなどという話どころではなくなったのです。
そして、本校からベテランの美術の女性の先生が転任してきました。同じクラスでチーム・ティーチングをしたのですが、その先生からはいろいろと実践的なことを教わり、それがぼくの悩みをかなり解消してくれるものだったのです。
彼女は言い切りました。
「障がい児教育は保護者へのサービス業よ」
懇談でも、保護者に対してはただ本音をぶつけるのではなく、どういうことを教師から言われたいのかを探り、それに応じたやり取りをしながら、自分の言いたいことも入れていくというテクニックを見せてくれました。また、「学習発表会」の劇では、どの生徒も必ず目立つように見せ場を作るようにした方がいいということも教わりました。彼女は「じごくのそうべえ」という絵本を劇にして見せてくれたのですが、ぼくは全員が踊るダンスの振り付けをしたりしました。彼女の作る舞台装置は非常に工夫されたもので、一番目立たない生徒を主役にし、さも上手に綱渡りをしているかのように見せる大道具を作ったりしました。その劇は大好評でした。それでいて、決して幼児の遊戯ではなく、ちゃんとした舞台になっていたし、ダンスの振り付けを覚えて音楽に乗せるという目標を設定し、それを達成させるようにするという狙いも明確でした。
理論と実践がうまくかみ合っているうえに、自分たちも指導していて楽しくなる、そんな「学習発表会」でした。
養護学校に勤務して三年目にして、ぼくはやっと障がい児教育のちゃんとした指導者に巡り会えたと思います。そして、軽度障がいの生徒よりも重度障がいの生徒への指導にやりがいを感じるようになってきました。
修学旅行の担当者として旅行会社の担当者とプランを立てたりしました。行き先は北海道です。下見にも行きました。この時、学校と旅行先とで連絡が取れやすくするように、初めて携帯電話を買いました。友人に代理店に勤めている人がいて、その人に頼んで比較的安くで契約できました。ただ、その時の携帯電話は今見たら固定電話の子機くらいの大きさのもので、携帯するとしてもカバンの中に入れておくしかできなかったのですが。着メロももちろん作れず、メール機能もまだ搭載されていない、本当に「携帯する電話」でした。
個人的にはパソコンを購入してインターネットも始めました。ただし、電話回線につなぐしか方法がなく、インターネットに接続している間は、電話が使えないという状態でした。ぼくはその時にSF関係者が個人のホームページを作っているのを読みに行ったりして、自分もホームページ作成をしたいと思うようになり、簡単なHTML用語の入門書を読んだりしました。初めてホームページを公開しましたが、反応してくれる人がいて、嬉しかったのを覚えています。当時は非常に限られた人しかインターネット環境にいなかったので、現在のように小学生までネットにつなぐ事ができるなんて、想像もできませんでしたが。
23 おひさま大賞に応募
よき後輩、よき先輩の加入で、ぼくの障がい児教育もなんとかさまになってきました。
ベテランの美術の先生に聞きました。
「先生に障がい児を持った親の気持ちがわかりますか、と保護者に言われたらどう答えますか」
先生は笑って答えてくれました。
「わかりません、と言うわ。そのかわり、この生徒にどういう力をつけさせてやればいいかということを教師としていつも考えています、と言うのよ」
経験を積んできた先輩の金言は、非常にためになりました。
ところで、ぼくにはまだ引っ掛かりが残っていました。不評に終わった劇「ボールの旅」は、ぼくなりに自信をもって作った話でした。それを不評のまま埋もれさせたくない。
ちょうどそのころ、小学館から「おひさま」という月刊誌が創刊されました。親が子供に読み聞かせをするための絵本雑誌というコンセプトで発行されていました。教材の参考になるかと思い、創刊号から買い続けていました。新人発掘にも意欲があり、「おひさま大賞」という新人賞を創設しました。絵本の雑誌ではありましたが、絵が描けなくても、お話だけでも応募できました。
ぼくは、「ボールの旅」を童話に書き直して応募しようと考えました。ただ、応募には字数制限があり、もともとの劇の台本をそのままお話に書き直したら、明らかに倍以上の分量になってしまいます。そこで、短く書き直したりしてから、妻に読んでもらいました。
「おもしろくない」
はっきりと言われました。
「別な話を考えた方がいいんじゃない」
そうも言われました。
妻が入浴している間、そしたら妻をモデルにした人物が出てくる話にしてやれと思いつきました。当時、妻は社交ダンスの教室に通っていて、踊るのが好きでした。また、睡眠時間をたっぷりとらないと体力がもたないので、寝る時間は長めでした。
そこで、民話風のタッチで、踊りが得意だけれども、踊ってないときはいつも寝てばかりなおじいさんを主人公にして書き始めました。
作品を作る時には、何かが頭の中に下りてくるような感覚になります。ものに憑かれたような状態になると、物語が勝手に動き始めます。おどりじいさんをめぐって、まわりの人たちがドタバタしてしまう、そんな話がすらすらと出てきました。おどりじいさんの評判を聞きつけたわがままな殿様や、寝ているじいさんの横でなんとか殿様を怒らせないように苦労する村長など、書く前には全然頭の中にいなかった人物たちが現れ、話はすいすいと進んでいき、一気に結末まで書きあげてしまいました。字数も制限内に収まりました。
風呂から上がった妻に「読んで」と渡すと、風呂に入っている間に一本書いてしまえたということと、それが面白かったことに驚きました。
ほとんど推敲しなくてもいいくらい、よくできていたので、それを「おひさま大賞」に応募しました。タイトルはそのまま「おどりじいさん」にしました。
数か月後、「おひさま」編集部から連絡が来ました。なんと「おどりじいさん」は「おひさま大賞」の優秀賞に輝いたのでした。ものかきとしては「SFマガジン」でのジャンル書評だけを細々と続けていたぼくが、まさか童話の新人賞をとるとは。嬉しさよりも驚きの方が上回っていました。
24 学校の仕事と次回作と
もちろん、「おひさま大賞」受賞については教頭に伝えました。賞金の話もしました。特に教育委員会からは何も言ってきませんでした。書評の連載もそうです。原稿料は図書券で謝礼として受け取っているという形になっていました。後年、定年退職間近にその時の校長から「今も副業をしているんじゃないか」と問い詰められたので、この時のことを正直に話したのですが、「そんなわけがあるか」と鼻で笑われて不快な思いをしたことがあります。現在はある新人賞で一次審査と二次審査をしていますが、これは収入ではなく、あくまで謝礼だということで「副業」扱いにはなっていません。ものかきと教師の仕事を両立させるために、三十年前の校長や教頭はおおらかに対処してくれました。今は規制が厳しくなっていて、息が詰まりそうです。
それはともかく、妻がお祝いに新しく仕立ててくれたスーツを着て、授賞式のために二人で東京に行きました。審査員には僕の大好きな絵本作家の長新太さんや、「魔女の宅急便」の作者の角野栄子さんがいました。ご本人を目の前にし、会話もし、ものすごく緊張していました。もっとも角野さんは「おどりじいさん」をあまり高く評価してくれてはいなかったようですが。
緊張のし過ぎでもどしてしまい、ホテルの部屋でゆっくりと休んだのも今となっては懐かしい思い出です。
分教室の仕事は忙しくなってきました。新しい学校の建設予定地も決まり、ぼくは生徒指導担当として「標準服」の制定に関わったり、通学路を決めたりしました。新入生の担任として、いろいろな経験をしました。重度の生徒には体力づくりを中心に指導しました。小さい頃は自力で歩くことすらできず、肢体不自由の養護学校に通っていた生徒でした。なんとかよたよたしながらも歩けるようになったので、知的障がいの学校に移ってきたのです。なにかというと「次は?」「今度は?」と聞いてくるのが口癖でした。でも、一緒に歩行訓練をしている時に「こんにちは、こんにちは、握手をしよう」と昔の万博の歌を歌ったりすると、いちいち「こんにちは」と答えたり、握手をしに手を差し出したりと、ちゃんと歌の内容に反応したりするので、いろいろと歌を変えて歩行訓練をしました。椅子に座らせて腹筋運動をさせたりもしました。これも毎日休まずやらせたので、しまいには朝、ぼくに会うと「ふっきん」と口にするくらいになりました。そのかいあって、運動会ではそれなりにしっかりと走る事ができ、それを見た保護者が涙を浮かべながら、「走る姿が見られるなんて、思ってもみませんでした。ありがとうございます」と言ってくれました。保護者対応では苦い思い出もあっただけに、この時の言葉は今も心に残っています。
軽度の知的障がいの女子で、今でいうヤングケアラーの生徒もいました。本来は明るい子だったのですが、そんなこともあって時折暗い表情を見せることもありました。幸い職業訓練の施設に入り、パン工場に就職しました。その工場で作っている洋菓子を手土産に学校を訪れてくれた時も、とても嬉しかったのでした。
学校の仕事が忙しくなる中、次回作をあれこれ書きましたが、なかなか採用してもらえませんでした。初めて書いた童話が賞をいただいたのですから、童話の書き方なんてよくわかりません。没を食らうたびに悩んだものでした。どうしても気持ちが学校の仕事の方に行きがちだったのも、その理由のひとつだったのかと、そのころ思ったものです。
25 裏切られた気分
新しい学校づくりは教頭中心に着々と進んでいました。分教室最後の担任となった生徒たちには一年生には学習発表会でぼくの「おどりじいさん」を自ら台本にして演出し、こちらも好評でした。二年生ではベテランの男の先生が「ソフィーの世界へ」と題したオリジナルの台本で劇をしました。そんな中、一年目に学年主任をした窯業の先生が、なんと教育大学へ内地留学に行くことを決めてしまいました。学年主任というのは非常に大切なポジションで、三年間、その学年の生徒を無事に卒業させなければならない責任があります。しかも、その一年は、分教室最後の年でした。つまり、新しい学校を立ち上げるために、教員全員が力を合わせなければならない大切な一年だったのです。その先生とは、新任の年からいろいろお世話になり、「コップの中の立ち泳ぎ」にしかならなかった分教室のイニシアチブ争いではいっしょに画策に加わった仲でした。少なくとも僕や一部の先生たちからの信用を失うような行為だったとしか言いようがありません。分教室最後の年となった二年生の学年では、ぼくの指導教官をした先生が学年主任を受け継ぎました。
そして、いよいよ小学部、中学部、高等部のすべてが揃った正式な学校として独立する日が迫ってきました。学年主任をしていたぼくの指導教官だった先生は、ここで自分の野心をむき出しにし始めました。小学部、中学部、高等部にはそれぞれ「部主事」というまとめ役がおかれますが、教頭は新校長となり、教頭にはほかの学校から転任してきた先生が就任し、高等部の部主事にはずっと分教室代表をしてきた先生が任命されました。それまでの経緯や、先生たちの年齢などを考えたら、順当な配置だと思われたのですが、指導教官だった学年主任にはそれが不満だったのです。小学部も、中学部も、他の学校でキャリアを積んできたベテランの先生が部主事になりました。しかし、学年主任だった元指導教官は、校長に直談判してどれかの部主事に任命するように迫ったのでした。
むろん、そんなことはわがままでしかありません。部主事になれなくても、学年主任を続けて新学校の最初の卒業生となる新三年生を見守ってくれたらよかったのです。ところが、彼は小学部への異動を校長に申し出たのです。それは認められました。つまり、これまで二年間指導してきた生徒たちは、彼にとってはどうでもよかったのでした。ぼくは一年生から持ち上がり、愛着もあり、なんとか立派に卒業させたいと思っていましたから、これもまた裏切られたという思いになりました。しかも、内地留学の一年を終了した窯業の先生は、新しい学校に復帰するにあたり、ぼくのところに電話をしてきて「いっしょに小学部に行こう」と持ち掛けてきたのです。一番大切な分教室最後の一年には不在の上に、一年生の時に学年主任をした生徒たちをその人も見捨てるようなことを言ったのです。
これにはあきれました。教師の仕事というのは、生徒なしでは成り立ちません。そして一度担任をしたり主任をしたりしたならば、その生徒たちに対する責任が生まれます。初任から四年しかたっていないぼくでも、そんなことは自明の理でした。それなのに、ぼくよりもキャリアのある先生たちが駄々っ子のように自分のことしか考えてないことがはっきりとわかったのです。むろん、ぼくは断りました。
「あの子たちは最後まで責任をもって卒業するのを見守ります。先生はお好きにしてください」
いわば決別の言葉でした。そして、新しい学校の高等部三年生の主任には、他の学校から異動してきた先生が着任しました。誠実で、生徒思いの人でした。
学校に復帰した窯業の先生は、高等部の新一年生に配属されました。新学期、彼は僕に愚痴りました。
「なんで三年生の学年主任にしてくれへんかったんやろう。一年生の時に学年主任をしてたのに」
あきれてしまい返す言葉もありませんでした。一番肝心な分教室最後の年に不在なうえに、個人的にとはいえ「小学部に行きたい」と泣き言を言っていた人です。もしかしたら校長にも個別で何かしら交渉していたのかもしれません。そこはぼくにはわからないところですが、どちらにしてもぼくにとっては裏切り者でしかないような言動を積み重ねていた人が、学年主任として復帰したかったなどと口にした、それはもうぼくには理解不能な言葉でしかありませんでした。いっしょに新しい学校を作り上げようと五年前に画策したのは何だったのか。教師としては先輩にあたる彼らは、いわば反面教師となったのです。ぼくにとって信頼できる先輩の教師は、有用なアドバイスをくれ、「じごくのそうべえ」をともに成功させた美術の先生だけでした。
そうして、新しく創立した養護学校での仕事が始まったのでした。
26 新設校の責任
新設校で一から作り出していく。これはめったにできる経験ではありません。新しい校舎、新しい教室、新しい先生たち。分教室でこじんまり過ごしてきた五年間とはうって変わって大勢の先生たちがいろいろな学校から移ってきました。それぞれ、前の年まで勤務していた学校の流儀をもってきています。当然、食い違いも出てきます。それをすり合わせながら、新設校の流儀を作り出していかなければなりません。
ぼくは分教室から持ち上がってきた少人数の高等部三年生の生徒たちの担任に残る事ができました。三年間持ち上がりで卒業させるのは初めてです。ただ、分教室から準備してきたメンバーの一員として、新しい学校の流儀を作っていくという仕事もありました。その一年は、慌ただしく過ぎていったという記憶があります。
ぼくがまず担当したのは、「夏祭り」という行事でした。
養護学校というのは、地域の人たちにとっても初めてで、どんな学校なのか不安に思う方もいたと思います。障がい児に初めて出会う方もいたでしょう。そんな中、「開かれた学校」として休みの日は運動場を地域の方に開放したりしていましたが、そちらは校長や教頭が中心となった仕事です。「開かれた学校」というビジョンのもと、夏休みの終わりに生徒たちと地域の人たちや分教室の卒業生が働く共同作業所、そして新設校の生徒たちが触れ合う機会として、「夏祭り」を開催しようということになったのです。祭りのプログラムは他の先生方が組みました。ぼくの役割は、「夏祭り」に共同作業所や地域のお店に露店を出店してもらうための渉外担当でした。実は、ぼくはこういう仕事はどちらかというと苦手なのでした。あまり社交的な性格ではないので、初めて会う人たちに「夏祭り」についてプレゼンテーションをしたり、参加、協力を依頼したりというのはけっこう負担がかかるものでした。夏休み、ほとんどの先生が休みをとっている中、学校と作業所や地域のお店から連絡が来るのを待つ電話番が主な仕事でした。説明のためにいくつかの作業所にお邪魔をしたりもしました。学校の近くには、全国展開をしているドーナツチェーン店の本部があり、そこに行って出店してもらうようにお願いしたりもしました。幸い、社会奉仕に力を入れている企業だったので、「夏祭り」向けの商品を出してもらえることになりました。
出店する団体が決まれば、今度は、運動場のどこに、どういう配列で出店してもらうかも決めていかなければなりません。共同作業所ではパンやクッキーを入所している障がい者が作って売るというケースが多く、そういう店はなるべく離しておかなければならないし、また、入り口からの距離に差がつきすぎて、一つの作業所ばかり品物が売れるということがあってもいけません。
各作業所の中には政治的な背景のある所もありました。当時、福祉に力を入れていて、背景にいる政党が張り合う形になっていた作業所もありました。別に作業所同士は仲が悪いわけではありませんが、どちらかに偏った配列になってしまうのはやはり避けたいところです。そこまで配慮しなければならないというのも気疲れするところでした。
当日、それぞれの団体が荷物を搬入しに来たら、その対応もしなければなりません。開会宣言までにちゃんと準備してもらえるよう、効率よく割り当てた場所に案内していくのも神経を使いました。
ぶじ「夏祭り」は開催されました。むろんプログラムを楽しむ余裕はありません。特設ステージで生徒たちが楽しく歌ったり踊ったりしていても、それを楽しく見たりはできませんでした。ずっと出店をまわり、足りないものはないか、ゴミ箱にゴミがちゃんと捨てられているか、いろいろとチェックしていきました。閉会後は、撤収作業が終わって帰る団体の交通整理のようなこともしました。すべて一人でできるわけはないので、教員の中から担当者を決めて割り振りました。
これは翌年以降も続いて行われ、年ごとに地域の町内会の方たちの協力も手厚くなっていきました。携帯電話が普及し始め、メールを送ったりすることもできるようになりました。一年目ほどしんどくなくなってきたのと、ぼくも、他の先生方もどう動くか見通せるようになりました。そういう意味では、創立一年目の「夏祭り」には重い責任があったということになりますが、それ以外の運動会や学習発表会なども、一年目の開催がこの学校の伝統づくりの第一歩となるわけで、どの行事を担当するにしてもそれぞれ責任は重かったのです。自分が教師に向いているかどうかとか、そんなことは全く考える余裕のない数年間でした。
27 伝統の一歩目
学習発表会では、高等部の代表として企画段階から全体を引っ張る役割を担いました。小学部も中学部も代表者はいるのですが、どうしても生徒の人数の多い高等部が中心とならざるを得ません。
新設校で設備は充実しており、音響も照明も贅沢なくらい本格的なものでしたが、演劇指導の専門の先生がいなかったので、一年目は宝の持ち腐れみたいになってしまいました。翌年転勤してきた先生は高校で演劇部の指導経験があり、二年目でやっとまともに設備を仕えたという、お恥ずかしい次第です。
前述しましたが、いろいろな学校から来た先生が自分の経験を持ち寄り、ぼくはそれをまとめつつ、大道具や舞台装置の搬入口、生徒の待機場所と舞台への通路づくりなど、体育館を隅々まで見て回りました。特に待機場所から生徒を舞台へ移動させる通路がなく、困ってしまいましたが、入学式や卒業式で使う紅白の幕を活用し、体育館の上のテラスから垂らし、観客の保護者には見えないように生徒を移動させるという、苦肉の策でしのぎました。ぼくが一般の高校に転勤してかなり立った後、その養護学校から転勤してきた若い先生がいました。その先生に、学習発表会の様子を尋ねたら、ぼくたちが一年目に作った骨格がそのまま生きていたことがわかりました。新設校だった学校も、その先生が在籍していたころには創立から十年以上たっていて、それなりにその学校の伝統みたいなものができていたと思いますが、その一歩目を記す事ができ、それが受け継がれていっていたというのは、ちょっとくらい誇ってもいいのではないでしょうかね。
ただ、一期生となる高等部三年生の劇にはほとんど関わる事ができませんでした。そこまで手がまわらなかったのです。劇は若い音楽の先生が中心となって「サウンド・オブ・ミュージック」をやりました。練習には立ち会ってましたが、演出もその音楽の先生がやりましたから、ちょっとうらやましく思いました。
生徒たちの進路は共同作業所だけでなく、ファーストフードチェーンのバックヤードとして就労できた生徒もいたし、職業訓練施設を経て大手の製パン会社に就労し、ケーキのラインの作業をする生徒もいました。前述したように、その生徒が自分の働いているパン工場で作ったクッキーのセットを手土産に遊びに来てくれた時、ヤングケアラーで苦しんでいた姿を思い出して胸が熱くなったことを思い出します。またどこかで会えたらいいなあと願っています。
これらの経験から、ぼくは「教育」というものはかなり長いスパンで考えるべきものだということや、障がいがある生徒も一般の高校に通う生徒も、最終的な目的は「自立」で、その芯さえぶれなければいいんだということを学びました。
そういう意味では養護学校での経験はぼくの教師としての土台を作ってくれたと言えるのですが、やっぱり一般の高校に転勤し、「倫理」を教えたいという気持ちは日増しに強くなってきていたのも事実でした。何度も校長に希望を伝えましたが、色よい返事はなかなか返って来ませんでした。
28 転勤のチャンスを逃す
障がい児教育は大切です。それは9年間、養護学校に勤務し、一般校に転勤した後、3年間知的障がい児を指導する機会のあったぼくには十分わかっています。
でも、それはそれ。高校教師として採用試験に合格したからには、一般の高校で仕事をしたいと思わずにはいられませんでした。
そんな時、転勤のチャンスがおとずれました。
前述のとおり、ぼくは放送作家の新野新さんの主宰する「日本芸能再発見の会」に入り、いろいろな芸能関係の方の話を聞きに行っていました。そして、打ち上げの飲み会には必ず参加し、貴重な裏話も聞く事ができたりしました。演芸ファンのぼくには大切な時間でした。
その会の事務局を担当していたのは、学校の先生でした。「芸能文化学科」という学科を設置する全国唯一の学校で、新野さんはそこに特別講師として教えていらしたのです。その関係で、「日本芸能再発見の会」の事務局はその学科長だった先生が務めていました。その先生はそのまま教頭、校長と昇格しました。校長になったら、ある程度人事異動で目当ての先生を「一本釣り」できたのです。打ち上げの席でもいろいろとお話をしました。「芸能文化学科」に行けたらいいなあと言ったこともあります。校長となり、その言葉を覚えていたその先生は、教育委員会に働きかけてくれたのでした。
コネを利用して転勤、というのはあまりほめられたことではないのですが、その時のぼくはどんな方法でもいいから、その学校の「芸能文化学科」に移り、「日本芸能再発見の会」のお手伝いももっとしたいと思っていました。
しかし、結局転勤はできませんでした。というのも、教員には定数というものがあり、生徒数や、開いている講座の数によって、配属される人数が変わるのです。問題は、ぼくが社会科の教員だったということです。その先生の話によると、社会科の教員で、長期の病欠をとっている人がいて、その人の代わりに常勤講師をつけたりはしていたということでした。問題は、そういう長期病欠や、産休と育休をとっている間は、その先生は異動の対象にはできないということだったのです。他の社会科の先生は動かせず、所属年数的には動かせるとしたらその病欠の先生しかいない。でも、動かすことは不可能……。
それでもまだ来年があるから、と言ってもらったのですが、不幸にもその校長先生は病魔に侵され、亡くなってしまわれたのでした。「日本芸能再発見の会」としても大きな出来事でしたし、そのお人柄が好きだったぼくは、もし願いが叶って転勤できたとしても、その先生のもとで仕事ができないとなるのは辛かったと思います。
新しい校長は、民間から採用された人で、「日本芸能再発見の会」とは縁もゆかりもない人でした。ぼくとその学校をつなぐ糸は断たれてしまったのでした。
まあ、人事というのは思うようにならないものです。また、それこそ人為的な力も働くものです。同期採用者には大阪府でも名門といわれる高校出身で、京都大学を卒業した数学の先生がいました。そんな先生でも養護学校にまわされるのかと思っていたら、わずか数年で母校に転勤していきました。その学校では、OBの先生の派閥があったということですが、そういう人為的としか思えないような人事は当然のようにあったのです。ぼくは京都の高校、大学の出身でしたから、大阪府の学校では傍流であることを余儀なくされていたわけです。釈然としないこともありましたが、それはそれとして受け入れるしかありませんでした。そういう転勤は今でもぼくにはついてまわっています。さすがに定年後の再任用の身としては異議申し立てもできませんしね。
というわけで、養護学校での仕事はまだ続くのでした。
29 足を傷めたり顔をかまれたり
第一期生を卒業させ、新しく入学してきた第四期生の担任になりました。難しい生徒がいました。体重百キロくらいある巨漢で、発達段階は小学生中学年程度でした。とにかくわがままなうえに力が強いので、小柄なぼくのことを見下そうとしていました。同じ中学校の友だちが高校に進学しているのに、自分は小さな子といっしょにスクールバスに乗らなければならないのが苦痛なようでした。スクールバスに乗る時、どういう感じなのか、様子を見に早めに出て物陰から観察したこともありました。また、家庭訪問をしに行ったら、彼一人で留守番しており、ぼくを家に入れようとはしません。ドアの隙間に不用意に足を突っこんだら、思い切りドアを閉められ、足がしびれてしまいました。骨折しなかったのは幸いでしたが、家に入ると巨体で逃げ回り、鬼ごっこのようになりました。
とてもぼくの手に負える相手ではなかったのです。そのため、二年生からは彼の体力に負けない、ベテランの体育の先生に担任をしてもらうことになりました。
ぼくが新しい学年で力を入れたのは、重度障がいの生徒への指導と、学習発表会での劇でした。「喃語(のうご)」と呼ばれる、乳児のような言葉しか使えない生徒といかにコミュニケーションをとっていくか。自分にしかわからない言葉を使うきつい自閉の生徒に、いかにこちらにわかる言葉を使わせられるか。三年間、じっくりと取り組みました。
そのキーワードは「自立」です。少しでも他者とコミュニケーションをとれるようにすることで、少しだけでも「自立」に近づいていくと考えました。パニックを起こした自閉の女子を落ち着かせようと肩をとんとんと叩いてやったら、落ち着いたように見えましたが、いきなり僕のほっぺたにかみつかれたこともありました。歯形がくっきりとついた顔で帰宅し、「高校生の女の子にかまれたなんていうたら変な誤解をされるな」と笑っていました。まだ三十代だったぼくは、とにかくかまれても蹴られてもぶつかっていく体力と気力があったのですね。いま、養護学校(現在は特別支援学校と呼びます)に転勤を命じられても、とてもそこで働く元気はありませんね。
学習発表会の劇は、また同じ学年になったベテランの美術の先生といっしょに、思い切り楽しみました。「西遊記」をベースに、主役の三蔵法師一行のほか、偽の三蔵一行を出したり、金角と銀角が世界中から妖怪を集め、ドラキュラなどのほかにゲゲゲの鬼太郎やねずみ男、猫娘まで出し、最後はお釈迦様の手で全員つぶされるというクライマックスを仕掛けました。美術の先生が、不要になった布団乾燥機をもってきて、手の形に袋を縫い合わせ、布団乾燥機でその袋をふくらませるという大技を編み出してくれました。多少の無茶を台本に書いても、それを実現してくれるという信頼関係があってのことでした。また、美術の先生は難しければ難しいほど気合が入ると言ってくれました。
「どんなものでも作るよ」
すべての生徒に見せ場を作るというポリシーは、分教室時代に叩きこまれていました。それを常に意識して演出しました。当時の仕事での楽しみといえば、まず思い出すのは学習発表会の劇です。逆に言うと、それ以外の部分ではしんどいことの方が多かったということかもしれませんね。
30 放火犯の容疑
四期生の二年の学習発表会は、若い音楽の先生が担当し、「オズの魔法使い」を劇にしました。台本のチェックをしましたが、知的障がい児の学校で、かかしが「頭がよくなるように脳を入れてほしい」という設定をどうするか悩みました。それこそ保護者たちにいらぬ刺激を与えてしまいかねない。原作とは設定を変えて対処しました。美術の先生には、ドロシーが家ごと竜巻に飛ばされる場面を舞台装置で表現してもらいました。本当にどんな無茶振りをしてもなんとか見せてくれるのには感謝以外の言葉もありません。
三年生では、また僕が中心となり、「真田十勇士」をアレンジしました。十勇士には障害の重い生徒を並べ、その雄姿に保護者たちが喜んでくれました。派手な衣装のくノ一や忍者たちに加え、巨漢の問題児には徳川家康の役を割り当ててプライドをくすぐったり、いろいろと工夫して、舞台は成功しました。
その裏で、困った問題も起きました。一番軽度でしっかりしている男子生徒は、若い音楽の先生に思慕の念を抱いていたのですが、その先生は二年生の終わったところで一般の高校に転勤していきました。彼の落胆ぶりはこちらから見ていても痛ましいものでした。
それでも学校生活は順調に送り、劇では真田幸村役を演じて舞台を締めてくれました。ただ、彼の悩みはぼくたちには見えないところでたまっていっていたのです。学習発表会が終わった後くらいから、進路の問題でも悩み、夜中に家を抜け出して町を徘徊するようになっていたのでした。しかも、ちょうどそのころ、市内で放火事件が続けて起こっていて、徘徊していた彼の姿が防犯カメラに写っていたため、警察に呼び出されたのです。養護学校ではリーダー的な働きをしていた彼も、警察官の質問に対してはまともに答えられず、学年主任も何度も警察に足を運んで彼の事情を説明したのです。防犯カメラに写っていた放火犯らしい男の衣服と、彼の衣服は微妙に違うものだったようなのですが、彼は警察で「ようわからんのです」としか答えられず、ついには誘導尋問の意図通り、自供してしまうことになりました。否認し続けるだけの精神的な強さを知的障がい児に求めるのは難しいことでした。また、警察側には知的障がい児に関する知識が全くなかったのか、障がいがあることをわかっていて手早く犯人をあげるために尋問したのか、どちらかはわかりませんでしたが、尋問に際して、障がい児であるということに対する配慮はなかったと、学年主任は悔しそうに報告しました。
結局彼は少年院に送られることになりました。まともにいけば条件的にもいいところに就労し、胸を張って卒業式にも出られただろうに。その後の彼がどうなったか、ぼくは知りませんが、立派な社会人となってくれていたらと、今でもその時の願いを持ち続けています。そして、警察や検察にはもっとちゃんと障がい者に対する配慮をしてもらいたいと思っています。現在でも、刑務所に服役している人の中には知的障がいや発達障がいの人が多くいると新聞などで報道されているところを見ると、四半世紀たった今でも、状況はそう大きく変わってはいないのかもしれません。障がい者にはなかなか自助努力をしても、そううまく生きていくことはできず、社会の中では公助が必要です。近年「障害者差別禁止法」が制定され、公的な機関は特に「合理的配慮」をする義務が生じました。警察や検察の取り調べの可視化も喫緊の課題です。ぼくは今でも彼の無実を信じています。自供をもとにした冤罪事件の再審が話題になりますが、彼のようなケースは埋もれたままです。障がい者の人権がちゃんと守られる社会になっているのか。彼のことを思い出すたびに、そのことについて考えずにはいられないのです。九年間の養護学校勤務は、ぼくにとって、マイノリティの人権について考えるきっかけを作ってくれたと言えるでしょう。
さて、四期生たちの卒業式が終わったころ、ぼくは校長室に呼ばれました。いったい何事かと思いましたが、なんと転勤の内示でした。しかも、どうやら一般の高校であるようでした。
31 演劇のエキスパート?
校長室に呼ばれ、転勤の内示を受けました。タイミング的にも卒業生を送り出したところだったので、それはよかったのです。しかし、校長の言葉にはちょっと待って、と思いました。
転出先の学校では、演劇指導のエキスパートとして呼ばれるという、ちょっと驚くようなことを言われたのです。確かに学習発表会では劇に力を入れていました。ただ、それはあくまで障がいのある生徒たちに対して力をつけさせ、また保護者にそれをアピールするというものであって、一般の高校で演劇を指導するのとはわけが違います。「演芸」のエキスパートといわれたら、まだその方が自信はありました。友だちの結婚パーティーで共通の友人と漫才をしたり、別な人の結婚パーティーで落語を披露したりしてましたし、「日本芸能再発見の会」で得たものもありました。しかし、本格的な演劇はやったことがありません。
とりあえず、一般の高校に転出できるということは、長年の希望がかなってよかったのですが、転勤後、演劇の指導をしなければならないというので、気が重くなったのも事実です。
転勤先は、淀川の近くにある高校で、「総合学科」の学校でした。まるでカルチャーセンターかというくらい数多い選択講座があり、生徒たちは普通の学習だけでない様々な学びができるというのがセールスポイントでした。年度末、ぼくは転勤先の学校に呼ばれました。これまで演劇を指導してきた先生が転勤するので、その後釜として引継ぎをするためでした。ぼくは「舞台表現」という授業を担当することになっていました。これまでどんな風に指導してきたか尋ねたら、新年度から開講する科目で、まだ一度も授業をしていないということでした。開講するための理念だのなんだのを書いた趣意書を渡されましたが、具体的なカリキュラムは全くありません。つまり、前任者は新しい講座を作るだけ作って、それを実施する前に転勤希望をだすということをしていたのでした。
「特別非常勤の先生がいるから、任せておけば大丈夫」
その先生はそう言いました。そうか、演劇の専門家が特別講師としてついてくれるのか。それなら安心と思いました。四月に転勤してすぐにその非常勤の先生と連絡を取りました。
「で、私は何をしたらいいんですか」
予想もしない言葉が返ってきました。前任者は、非常勤の講師に依頼だけ出して、授業内容について相談するということもしていないのでした。呆然としてしまいました。
開講前に講師の先生と打ち合わせをし、その先生が自分の小劇団でしているワークショップの内容をとりあえずやっていくということに決まりました。そのための準備はすべてぼく一人でしなければなりませんでした。
そして、自動的に演劇部の顧問にも決まっていました。新二年生に個性の強い生徒がいて、新三年が一気に退部し、部長は一人だけ残った三年生が引き受けていました。その生徒はかなりしっかりしていて、演出もできました。新二年も照明や音響の技術は一通りできていたので、ぼくはただ毎日のように稽古に立ち会うだけでよかったのです。
ところが、演劇部の全国大会があり、大阪府のすべての演劇部顧問から構成される演劇協会というようなものもあり、また、その学校の所属している地区の顧問は定期的に集まって演劇大会予選に向けての打ち合わせをしたりしているということがわかりました。ド素人のぼくは、長く演劇を指導している先生たちにまじり、専門用語の飛び交う中、がっちりと演劇協会の構成員に組みこまれていくのでした。
しかも、その学校ではぼくの専門である「倫理」は開講されていなかったのです。念願の一般の高校への転勤は、不安だらけとなってしまいました。何もかもが思っていたのと違うのに、戸惑う日々でした。
32 クリエイターかライターか
転勤一年目は慌ただしく過ぎていきました。何しろ持ち科目が多かった。前回書いた「舞台表現」のほか、「哲学入門」、「現代社会」、「日本史B」、「世界史B」と五科目も抱えたのです。普通科の高校ではだいたい持ち科目は二科目が標準。三科目だと多いくらいです。実際、進学校に転勤した際は一科目だけの担当でした。しかし、総合学科は違います。選択科目が多く、学校設定の風変わりな授業と、入試を視野に入れた教科の科目が混在しています。後から考えると、いくら総合学科でも五科目は多かったと思います。
私生活でも変化がありました。新築分譲マンションを購入し、長期ローンを組みました。簡単に仕事はやめられなくなったのです。それでも環境が最悪だった教職員住宅からの転居はぼくにとっても妻にとっても大きかったと思います。
また、なんども「おひさま」に新作を書いては没になっていた童話でしたが、原点に返り、民話風の物語「おおごえこぞう」を書き、それが「おひさま」に掲載されることになりました。よし、これから、というところで編集長が交代し、新編集長が大阪に来た時に初めて顔を合わせました。もとは成人男子の雑誌を編集していた人で、作家というものに対する考え方は前の編集長とはかなり違っていました。新人クリエイターとして扱ってくれていた前の編集長に対し、今度の編集長は「あなたには民話風の話をどんどん書いてもらいたい」と言いました。なんでも、有名な詩人の方に、有名な昔話をリライトしてもらい、ぼくの新作民話と隔月で掲載したいという構想があるようでした。そんなペースでは書けません。
物語を作り続けられる人は、まず書きたいものが常に頭の中に渦巻いていて、それをただ文章にしているだけというくらい、物語を作るのに特化しているものです。ところが、ぼくは「おどりじいさん」を書いた時はいろいろな条件はあったものの、常に頭の中に童話のアイデアがたっぷりとあったわけではありません。偶然、あの傑作は生まれたのです。「おおごえこぞう」を書くまでに、何作も没になったと書きましたが、通勤時にあれこれとヒントを探しながら何かお話になるものはないかとむりやりひねり出そうとしていました。「おおごえこぞう」はたまたま書き出したら、主人公と敵役が自動的に動き、こちらの予想もしない展開になったもので、このお話の主人公ができるまでにはかなりの時間がかかりました。
それを隔月で書いてほしいというのは、正直きついと思いました。また、とにかく執筆依頼に応えて質の低いものを量産するのも嫌でした。新しい編集長は、書き手のことをクリエイターではなくライターとして扱っていると、感じました。書ければ内容は問わないという感じでした。ぼくのモチベーションはかなり下がってしまいました。それでも一本は書いてみたのですが、没になりました。何でもかんでも触って確かめないと気が済まないお姫様を主人公にし、とても楽しい話に仕上げたのですが、子ども向けにはちょっとエロティックではないかと言われ、それはもっともだと納得しました。ところが、数か月後、いろいろなジャンルの小説を手当たり次第に書く作家さんが、ぼくの書いた話によく似たものを書き、「おひさま」に掲載されているのを見て、すっかりやる気が失せてしまいました。その話は、ぼくの「なんでも触る」という設定を、「どんな時も終わりと言ってやめさせる」というものに変えた感じで、物語の展開などは非常に似通っていました。おそらく編集長はライター的なタイプの作家の方に、「こういう感じの話を書いてほしい」と依頼したのではないか。むろんその証拠はありませんし、こういうものは先に掲載された方の勝ちなのです。編集長に問い詰めたとしても何も解決しないだろう。そう思うと、とにかく楽しいお話を子どもたちに贈りたいという気持ちも萎えてきます。ぼくは読み聞かせ童話が書けなくなってしまったのでした。
もっとも、転勤後、忙しくて書評の活動にも支障が出始めていたのです。
33 執筆活動の中断
ものかきの仕事は行き詰まっていたのかもしれません。ジャンル書評というのはなかなか大変でした。架空戦記と伝奇アクションを担当していたのですが、ブームの真っ最中で、とにかく出版されているものはなんでもかんでも読み、その中から面白かったものだけをピックアップして読者に紹介するというスタイルをとっていましたから、他に面白そうなものがあっても手がまわりません。宮部みゆきさんや篠田節子さんなど、妻から勧められていたりもしましたが、書評を担当しているジャンル以外の本には手が出ない上に、年間ベストSF投票のために話題のSFまでカバーしなくてはなりません。
教員の仕事をしながら続けていくのには限界を感じていました。BK1という通販書店のサイトでは書評を続けていましたが、「SFマガジン」の連載は自ら降板を申し入れました。ただ、その間、当時問題になっていた「SFクズ論争」に寄稿したりと、書評家としてはそれなりに足跡は残したと思っています。
また、「SFマガジン」に連載されていた藤原ヨウコウさんがいろいろな作家のかたの短い話に絵をつけるという企画で、編集長から「書き手がいない」という話を聞き、久しぶりに大人向きの作品「星の種」を書いて投稿し、採用され、作家として「SFマガジン」に登場できたのは、今でもその喜びを忘れられません。あるイベントでいっしょになった作家の菅浩江さんから「おめでとう」と言ってもらえたのも嬉しかったです。文庫解説も何冊か書きました。徳間デュアル文庫で「手塚治虫トリビュート」という本が出た時に、その解説を書き、目次に、なんと手塚治虫先生の隣に自分の名前があったのを見た時は、もう思い残すことはないというくらい幸せでした。子どもの頃の自分に「将来、同じ本の目次で手塚先生と名前がいっしょに載るんだよ」と教えてあげたいくらいでした。
ただ、ものかきとしてはここまでが限界だったようです。SF作家クラブの会員として推薦してもらうという話もありましたが、「SFクズ論争」がらみの事情で、推薦を辞退せざるを得なくなりました。
それ以降は、BK1の連載も終わり、原稿依頼は来なくなりました。また、教員としての仕事が忙しくなったこともあり、自分から投稿するということもしませんでした。ウェブ日記だけはずっと続け、もうじき三十年になろうとしています。よく続いているものだと自分でも感心していますが、「書くこと」だけはやめられません。日記だろうがなんだろうが、何かしらものを書かないといられないのです。
一般の高校に移ると、授業以外にも部活の顧問や奨学金の担当をするなど、養護学校時代とは全く違う忙しさが待っていました。たくさんの種類の授業を抱えていたので、その教材研究もしなければなりません。中学校の講師をして以来、九年ぶりに教科の科目を教えることになったわけで、そのブランクは大きかったのです。まず、生徒が正直怖かった。知的障がいのある生徒たちに自立させるよう指導するのとは全く違います。それに、採用された年の初任者研修では、障がい児に対する指導法は教えられましたが、教科の授業法については何もしていません。つまり、中学校の講師時代を思い出しながら我流で授業をするだけです。
ある生徒がいいました。
「なんか中学校の授業みたい」
まさにそのとおりでした。そして、そうやって教員に対して意見を言ってくる、それが怖かったのでした。自分は教師に向いているのだろうか。その疑念がまたもわいてきたのでした。
34 カミングアウト合宿
一般の高校に転勤、といっても、学校ごとに特色があります。ぼくが転勤した学校はかなり特殊な学校でした。まず驚かされたのは、「学校開き」という行事でした。こう書くといわゆる「対面式」的なものを想像しますが、この学校では、全校生徒の前で「私は韓国籍で……」とか「私は発達障がいで……」とか「私は同和地区の出身で……」とか、とにかくあまり人に言えないような、多くは隠しておきたくなるようなことを二年生や三年生の生徒が発表するのです。そして、それを受けて一年生は「ホームルーム合宿」に行きます。一年生のクラスの副担任となったぼくも、引率で冬はスキー場になる離れた山の民宿に行きました。
昼は飯盒炊爨でカレーを作ったりして和気藹々という感じになるのですが、夕食後、本番の「クラスミーティング」が始まります。大広間に車座になって座り、大カミングアウト大会が始まるのです。担任の先生はあらかじめこのミーティングで話すことを書かせ、最初に話をする生徒を決めておきます。たいていはあまり人に言いたくないようなことを話す生徒です。そうすると、次第に「中学時代にいじめられていた」などと打ち明けるつもりのなかったことを口にする生徒が出てきます。十五歳の、しかもクラスの四分の三が女子で、そんな空気の中、泣き出す生徒が出てきます。するとつられて泣く生徒が増えてきます。
担任のベテランの先生は、切りのいいところで、民宿の方が作ってくれたおはぎを食べる休憩時間を設けます。何人かの生徒がぼくのところに来て言いました。
「どうしよう。私、幸せ過ぎて打ち明けることなんかない」
「別に不幸自慢をしに来てるわけやないんやから、自分の夢を話したりしてもええんやで」
「そうか、ちょっと恥ずかしいけど、そうします」
日付が変わるころまでこのカミングアウト大会は続きます。私は各生徒の話を聞きながらこっそりとメモをし、合宿から帰ったあと清書して担任の先生に渡しました。
この合宿があるので、なんとなくいじめも起こりにくい雰囲気ができ、クラス全体がまとまるという効果もありました。「自己開示」という経験をすることで、クラスのメンバーの多様性を理解するという目的もありました。
ただ、これは劇薬で、ここでこの学校についていきにくくなる生徒も出てきたりするのですが、それはごく少数にとどまっていました。そこが担任の先生の腕の見せ所だったのでしょう。
一年生の間にクラスがまとまりすぎて、二年生になる時のクラス替えをしたくないという生徒も多く、担任にその要望を集団で伝えに行ったりするということもありました。ぼくはこの学校には十三年間在籍し、何度もこの行事に参加しましたが、「クラスミーティング」の前は気が重くなるのでした。それだけ、それぞれが抱えている重荷を分担することになるのですから、かなりの覚悟が必要になってくるわけです。それでも、この学校では伝統的な行事であるし、この「洗礼」を受けることで生徒たちも大きく変化するのですから、自分が担任になった時はその方針に従って、多くの生徒にカミングアウトさせたものです。
転勤していきなり、こういう強烈な体験をし、この学校でやっていけるのかと不安になったりもしたのを覚えています。しかし、この行事から「生徒の信頼を得る」ということの重要性を学んだことも事実ですし、多様性ということについてもいろいろと考えさせられたものでした。
35 哲学入門
今はアクティブ・ラーニングという授業形態が当然のように授業に組みこまれています。グループを作り、意見を戦わせ、思考力をのばそうというものです。
今から二十年以上前は、授業といえば教師が前に立って講義をするほかには、せいぜい生徒に模擬授業をさせるというくらいしか、生徒の思考力を高めたりする授業形態はなかったように思います。
そういう意味ではぼくは時代の先取りをしていたのかもしれません。というのも、転勤一年目に持つことになった「哲学入門」という学校設定の選択科目で、ぼくは「グループ・ディスカッション」という名前をつけ、アクティブ・ラーニングをしていたからです。
実は次の年度から「倫理」の授業を開設するという話が出ていたのを知って、同じようなことをしても仕方ないと思ったのがきっかけでした。そして、哲学の祖といわれるソクラテスが「問答法」という方法で哲学を極めたのをヒントに、「問答法」を授業でできないかと考えたのでした。選択科目である「哲学入門」は、二年生と三年生の混成講座でした。単なる問答だと、話しやすい同じメンバーばかりが固まってしまう恐れがあります。そこで、毎回くじ引きで班を分け、その時間のテーマについて話し合う、という形を取ることにしました。二時間続きの講座でしたから、一時間目にはプリントにその時間のテーマについて自分の考えをまとめさせ、二時間目に「グループディスカッション」を行い、講座の最後には各班の代表者が、自分たちの班で出た考えをプレゼンテーションする、という形を作りました。
最初は難しそうにしていましたが、年度末にはどの生徒も自分の考えをちゃんと他の人に伝えられたり、全員の前で堂々と発表したりできるようになっていました。
何年かたった後、進路関係の催しで、業者の一人としてやってきた卒業生がぼくに声をかけてくれました。
「先生の『哲学入門』のおかげで、社会に出てからのブレーンストーミングのミーティングがうまくできました」
そうか、ぼくはそこまで意識してなかったけれど、確かに「グループディスカッション」はブレーンストーミングと似た形のものです。高校時代にそういうことを経験していたことが社会に出た時に役立った、なんて、こんなに嬉しかったことはありません。教育というのは、長い目で見ないと結果には現れません。点数を競うゲームではないのです。それは養護学校で知的障がいの生徒たちに指導していく中で見についた考え方でした。あまり強く意識していたわけではありませんが、それを実践できていたというのは、数少ないぼくの成功例のひとつだったのでした。
そのかわり、教科書を使った授業は苦手でした。「この語句は覚えておくように」と生徒たちに言うたびに、「それは違う」とぼくの心の奥で自分の声が聞こえてくるような思いが、今もするのです。
だから、なるべくこう言うようにしています。
「この語句は理解しておくように」
36 演劇部顧問として
演劇の素人のぼくはできる限りがんばって演劇部の顧問を務め、生徒たちも非常に優秀で、顧問一年目で、地区の優秀賞に輝きました。ただ、最優秀賞は私立の高校に譲ることになり、大阪府の大会に進出することはできませんでした。その高校の顧問の先生は自分でも台本を書く方で、演技指導も演出もできるという人でしたから、私のような素人顧問でなければ、最優秀賞も夢ではなかったと思います。ただ、そんな僕でも生徒は顧問として立ててくれました。三年生の部長がものすごくしっかりしていて、二年生で抜群の演技力を持っていた生徒が暴走するのをうまく止めていてくれたのです。彼女が卒業すると、その二年生のワンマン体制になり、しかも何かほかの生徒と衝突でもしたのか文化祭直前にクラブを辞めてしまい、その年の文化祭に演劇部は出演を辞退せざるを得ませんでした。そして、そのワンマン女子は自分の友達を誘い、有志としてグループを作り、宝塚のような舞台を披露しました。音響や照明の手伝いをさせられていたほかの部員たちの無念は推しはかるまでもありません。自分の無力さを感じさせられたのでした。
もともと僕は漫画研究部の顧問がしたかったので、顧問でもないのに漫研の活動日にちょくちょく顔を出し、転勤二年目からは演劇部と漫研の顧問を掛け持ちしました。その学校では印刷室は生徒は入れなかったので、部誌の印刷はぼくが一人でしました。そして漫画やアニメの話を生徒といっしょに楽しみました。演劇部で無理をした分、漫研で解放するという感じでした。演劇部の顧問は四年間続けました。四年目に、演劇部に関心のある先生が転勤してこられたので、スムーズにバトンタッチすることができました。四年目には、大阪府の別の地区の大会の審査員も務めました。演劇に情熱を注いでいる先生たちの熱意を強く感じ、そこまでになれないぼくは演劇部の顧問には向いていないと痛感しました。
とはいえ、演劇部の生徒の人間関係に関する相談に乗ったり、進路相談を受けたりと、ぼくなりにできることはしたつもりです。その時の部員の一人は今でも年賀状をくれます。今は母親となり、幸せそうな家族の写真を見ると、あの頃、一所懸命に相談に乗った日のことが思い出され、また、それがあったからこそ、今でもつながっていられるのだと思います。ぼくは教師に向いているかどうか、常に自問自答していますが、この仕事を選んでよかったと思わせてくれるのは、こういう時です。
37 幹部候補?
転勤一年目、同じ社会科のベテランの先生に声をかけられました。
「東京で総合学科の全国大会があるけど、あなたも行きませんか」
養護学校から一般の高校、しかも総合学科というあまりよく知らないシステムのことですから、勉強の機会は多い方がいいと思い、割と軽い気持ちで「行きます」と返事をしました。
行き先は羽田にある総合学科の高校でした。その学校の生徒が授業の成果を舞台発表していたということは覚えています。ただし、その大会の内容についてはあまり記憶にありません。
それよりも、声をかけてくれた先生だけでなく、校長先生も同行していたことに驚きました。校長がわざわざ東京まで行くということは、かなり大事な催しなのだと思います。大会終了後、もんじゃ焼きの店で夕食をとりました。私は酒は飲めるけれど飲まないようにしているのですが、こういう席では飲むものと思い、ビールを注文しました。ところが、あとの二人はウーロン茶。二人とも下戸だったのです。これほどまずいビールはありませんでした。こういう席で酒を飲むのは、しゃべりやすい雰囲気を作るためです。酒を飲まずにはいられないというほどの酒好きならともかく、飲まないなら飲まないでなんとかなるぼくにとっては、本当に気まずかったのでした。
結局、もんじゃ焼きを食べただけでその席はお開き。次いで喫茶店に行きました。実はこちらの方が話が弾んだのです。ぼくはその席で、来年度、新一年生の総合学科だけの必修科目「産業社会と人間」のチーフをしないかと持ち掛けられたのでした。昨年までのチーフ担当者たちは、いずれも学校の運営にかかわる役割をしています。実は僕はその時はそんなことは全く知らず、引き受けることを了承したのです。
そして東京から帰ってきて社会科の他の先生に話したら、「幹部候補やな」と言われました。なぜかは知りませんが、転勤してきたばかりのぼくは自分も知らぬ間に、その学校の将来を担う役割を期待されていたのでした。養護学校時代の校長から、そういう推薦があったのかもしれませんが、そんなことはわかりませんし、今も不明です。
正直なところ、困りました。まず一般の高校そのものに慣れることがその時のぼくの一番の目標でしたから。その学校がどういう学校かとか、そんなことは慣れてから知ればいいと思っていましたから。
演劇部や「舞台表現」の授業と同様、自分の知らないところでなにか動かされている。ぼくという人間のこともまだよくわかっていないはずの人たちによって……。
今思い出しても、あまりいい気持ちがしません。その渦中にいた時は、なんだか気味が悪く感じられたのでした。
38 ライフプラニング
転勤二年目、ぼくは総合学科の必修科目「産業社会と人間」のチーフに抜擢されました。メンバーはぼくを含めて四名。この学校では科目名を独自に「ライフプラニング」、略して「ライプラ」と呼んでいました。自分の将来像を思い描き、それを実現するために数多くの選択授業から、二年生と三年生でどの科目を選択すべきかを考えさせるというのが前期の授業の目標でした。
高校に入学したての生徒たちに長期的な視点で自分の将来について考えさせるというのはなかなか難しいことですが、「なりたい自分」について考えさせる教材や、「自分の得意なことと苦手なこと」について考えさせる教材などを使い、主観的な将来像と、客観的な現状認識をさせたうえで、「自分だけの時間割」を作らせるという作業は、それが難しい分だけやりがいもあるものでした。ただ、四人のメンバーはいずれも「ライプラ」の授業を担当したことがなく、チーフのぼくとともに皆が試行錯誤で授業を組み立てていかなくてはならない。経験者たちから見たら歯がゆい部分もあったと思います。
それでも生徒たちはなんとか二年生と三年生で選択する科目を決め、「自分だけの時間割」を作っていきました。ぼくにとっても、「教育は長期的な自立が目標」という考え方に近いものがあったので、やる気の出るものになりました。
後期には四人の担当者がそれぞれ自分でテーマを決め、外部から講師を読んだり、ワークショップをしたり、かなり好きにできました。これもまた、生徒たちの世界を広げるというテーマに即していました。ぼくは知人の作家の北野勇作さんに講演を依頼し、「好きなことをして生きる」ということについて話してもらいました。小劇団の役者でもある北野さんは生徒をひきつけるような話をしてくれました。中国残留孤児帰国センターの所長を呼んでくれた先生や、NPOで環境問題に取り組むグループを呼んでくれた先生など、生徒たちにとっては見たことのない世界を見る事ができたと思います。できれば、そのころの生徒たちに、「ライプラ」はどうだったかを、あれから四半世紀近くたった今、聞いてみたいと思います。もう内容について忘れた生徒も多いかもしれませんが、なにかしら残っていて、それが現在の彼らや彼女らに影響を与えてくれていたらなあと思うのです。
その年、ぼくは「ライプラ」チーフのため、担任は持ちませんでしたが、翌年、その学年の担任を持つことになりました。念願だった「一般の高校での担任」をついに経験できる。誰かが勝手に幹部候補にしていようが、そんなことは関係ありません。生徒に一番近い「担任」を経験しないことには、教師として成長することはできないのですから。
39 「捨て育ち」の担任
養護学校時代も担任の経験はありました。しかし養護学校は複数担任で、一人一人の生徒を手厚く見るという形でした。一般の高校に転勤し、四十人の生徒を一人で担任するのは中学校の講師時代に担任をして以来です。その時は、講師という立場もあり、また中学一年生の担任でしたから、あまり責任は重くありませんでした。
しかし、高校の担任で、しかもこの学校は選択科目が多く、二年生と三年生は学級単位での授業はほとんどなく、学級全体で取り組むのは体育祭や文化祭、遠足という限られた時間しかありませんでした。そのため、二年生と三年生の間でクラス替えをすることはなく、担任も人事異動がなければそのまま二年間持ち上がるというシステムでした。つまり、二年生の担任を持ったということは、自動的に卒業まで学級の生徒たちを見守っていかなければならないということでした。
最初の三者懇談はしっかりとやりました。本来休みである土曜日にも枠を作り、平日には懇談に出られない保護者にも配慮をしました。むろん無給での出勤です。四十代前半で、脂の乗り切った年齢でしたから、そんな事ができたのだと思います。また、それくらい張り切っていたのでしょう。
ぼくの姿勢は基本的に「捨て育ち」でした。生徒の自主性に任せ、肝心のポイントがきたときに力を入れるというものでした。一年生までは優等生だったけれど、二年生になってアルバイトをするようになり、生活が乱れ学校に集中できないという生徒がいました。保護者とは携帯電話で頻繁に連絡を取り、懇談も繰り返しました。保育士志望だったその生徒は、学校の授業で言った保育所実習でその実態に触れ、自分の思っていたよりも厳しい世界であることを知り、進路に迷うようになっていることがわかりました。自分なりに考えたのでしょう。足つぼマッサージの店を見学し、その店独自の資格を取ればそこで働けるということで、その資格を取りたいというようになりましたが、公的な資格ではないので、その資格を持っていても同業の他社では使えないということを説明し、公的な資格を取って仕事ができる業種を選ぶように勧め、学校の進路指導を通じて服飾販売関係の店に就職しました。現場での体験実習の多い学校でしたから、早いうちにそうやって実態を知る事ができるかわりに、そのために進路で迷う生徒もいたということです。
基本、進路は本人の希望に任せていました。ただ、例えば学生支援機構の奨学金が使えない専門学校を希望している生徒には、奨学金の仕える学校に進路変更するように勧めたりということもしました。生徒たちからしたら、進路について親身になってくれない担任だったかもしれません。しかし、自分がそうだったように、生徒が担任を必要としないのであれば、進路指導部の専門的な先生に任せた方がいい結果になることもわかっていましたので、あえて自主性を重んじていたのです。そのことをもっとちゃんとていねいに説明してあげればよかったなあと、今は思っていますが、その時はそこまで気がまわらなかったのでした。それでも生徒たちは自分で進路を切り開いていきました。希望する就職先が求人を出していない場合、進路指導の先生と相談し、なるべくそれに近い仕事ができる会社を探したこともありました。その生徒は長くその会社に勤め、会社の同僚と結婚しました。一日も早く実家から自立したいと願っていたその生徒が、結婚するときに学校にあいさつにきて明るく話してくれた時は、担任をしていてよかったと思うのでした。
また、その学級の生徒には卒業後にこちらがお世話になることもありました。それはまた後程書くことにします。
40 また障がい児教育に
一般の高校で最初に担任した学級ではいい思いをたくさんさせてもらいました。三年生の文化祭では、「美女と野獣」の舞台で最優秀賞をとってくれました。監督の生徒がとても厳しい生徒で、ちゃらんぽらんな男子二人に「クビ」を宣告したりするなどこちらがその二人にケアしてやらねばならないこともありましたが、学級のメンバーはタレントぞろいで、声優志望の男子が野獣の役で好演してくれたり、ダンス同好会を立ち上げた生徒が振り付けを全部やったり、遊園地のアトラクションで着ぐるみの中に入るバイトをしていた生徒が派手にアクションを見せてくれたりと、最優秀賞をとって当たり前というだけの出来でした。ぼくは演出の生徒の指示でカーテンを開けたり締めたりしました。ぼくにできるのはその程度のことでしたが、生徒たちが自主的にいいものを作ろうとしてくれたことが一番の喜びでした。
半面、単位不足で卒業できない生徒が出てしまったのはぼくの力不足としか言えませんでした。ちゃんとその生徒の単位数に気を配り、担当の先生にどうしたら単位が取れるかのアドバイスをしてもらうように声かけをすべきでした。その生徒は中卒でも受けられる看護学校に准看護師として入学することになりました。合格の報が来るまで、進路指導室で祈りながら待っていたのを思い出します。合格できたので、高校中退で看護学校に進路変更しました。保護者懇談で、お母さんに対して何も言えなかった自分が情けなく感じられました。
中には、部活の顧問の推薦で大学に進学した生徒がいて、なんだかふわっとした感じの生徒でした。ところが、彼が大学を卒業した後、ラーメン店を起業したということを人づてに聞きました。「人類みな麺類」という店で、阪急の南方駅前に出店し、その焼き豚の分厚さなどで評判になり、行列ができるという話でした。残念ながら彼の店に行く時間はなく、それでもどんどんチェーン店を広げ、テレビの取材を受けているのも見ました。今では海外にも出店し、一大チェーンになっています。つい最近、初めてそのチェーン店に行って食べる事ができました。店はおしゃれな内装で、カップルも多く、店内はぎっしり。値段はちょっとお高いのですが、名物の焼き豚はなかなかおいしかったのです。ぼくが卒業させた生徒の中では一番の出世頭かもしれませんね。
この経験を活かし、次の年度では一年から担任を受け持ってできる限りのことをしようと心に決めていました。しかし、教頭からは「知的障がい生徒の自立支援コース」の担当をしてほしい。と言われたのでした。この学校では、地域の中学校の障がい児学級に通う生徒の中から面接で毎年三人ずつ選抜して、「自立支援コース」の生徒として、高校に学籍を置き、クラスの授業と、自立支援コース独自の授業を受けさせるという、大阪でも初めての制度ができていたのでした。正式なコースになる前の試行段階では二人ずつ選抜していたのが、次年度から正式にコースとして認可され、選抜者も三人に増えることになっていたのでした。
ぼくに白羽の矢が立ったのは、養護学校での経験があったからでしょう。コースのチーフの担当者からの指名もありました。その先生はこの学校で募集していた障がい児教育の担当者に応募して転勤してきた人でした。その前の学校では肢体不自由の生徒の指導をしていました。なので、知的障がい児の指導経験者がほしかったのだと思います。
ぼくはかなり抵抗しました。障がい児教育の経験もあるし、それに関して自分なりの考え方もありました。ただ、この学校の障がい児教育とは合わない部分もあったのです。それに、なにより一般の学級担任をして得た経験をすぐに活かしたいという思いもありました。
とはいえ、人事というのは本人の希望だけで決まるものではありません。学校全体の計画の中で、ぼくがそのピースにはまったということなのでしょう。
ぼくを「ライプラ」担当にし、幹部候補のようにしようとしていた校長や担当の教師は転勤していました。つまり、ぼくは幹部候補として育てられるのではなく、「障がい児教育」のエキスパート的なポジションにシフトチェンジされていたのです。やっと高校の教師らしくなってきたのに、また養護学校の教師に逆戻りさせられたというのが、当時の偽らざる心境でした。
41 テレビ出演
知的障がい生徒の自立支援コースを、この学校では「アミティエ」と呼んでいました。障がい生徒との交流サークルの生徒たちがいて、その生徒たちが命名したのでした。軽度障がいの生徒たちは、同じ学校の普通の友だちとして交流していました。ただ、障がいの重い生徒が多くなると、交流サークルのメンバーはあまり増えませんでした。本来は中重度障がいの生徒も自分たちと同じ高校生だという意識で接してほしかったのですが、そこらあたりは難しいところです。
それでも「アミティエ」の生徒のいる学級は比較的まとまりがよかったと思います。多様性ということについての理解が深まっていたのでしょう。
ぼくは担当となった二年目はチーフ的な役割を求められていました。そんな時、NHKのEテレで放送していた「きらっと生きる」という番組からの取材依頼がきて、ぼくはスポークスマン的な役割をすることになりました。若い女性のディレクターと何度も打ち合わせをしました。収録のため、何時間もインタビューを受け、学校の考え方と、持論を語りました。交流サークルの生徒を前に、軽度障がいの生徒についてどういう配慮が必要かということについても語りました。
NHKのスタジオに行き、取材対象となった軽度障がいの生徒とその友だちが出演しました。その収録日には別な用事があり、立ち会うことはできませんでした。
放送日、ちゃんと予約録画しました。あれだけ長く語ったインタビューは数分しか使ってもらえませんでしたが、交流サークルの生徒たちに話しているシーンはしっかりと放送してくれました。ただ、その番組のディレクターがある程度ストーリーを作り、本来の姿とはちょっと違うものになっていました。まあ、テレビというものはそういうものと割り切るしかありませんでした。とはいえ、自分の名前が字幕入りでテレビ出演するという経験は一般の教師ではなかなかそんな機会はありません。いい経験をさせてもらいました。地味な番組で、しかも知り合いなどにも知らせてませんでしたから、反響はないと思っていたら、学校とは関係のない知人がたまたま見ていて、驚いてメールをくれました。さすがNHKと思いました。
毎週一回、地元の共同作業所に行って作業実習をさせました。作業所の職員の方たちともいろいろな話をしました。養護学校時代にはそういう作業所との交流はありませんでしたから、これも知見を広げるいい機会になりました。
ただ、三年間、教科の授業はほとんどなく、ずっと自立支援室にこもって仕事をするという感じになってしまいましたので、担当から外れてもとの担任業務に戻る時にはまた転勤したばかりの時と同じようなブランクを感じることになってしまいました。
それでも、三年間の間、軽度障がいの生徒の進路について、すぐに就労させるのではなく、就労支援施設でたっぷりと実習してから就労すべきだと保護者に提案し、それを受け入れてもらえたのは、養護学校時代の経験が生きたと思います。
こうして、「アミティエ」担当者として、なんだかのんびりした三年間を過ごしたのでした。
42 障がい児やボランティアの学生たちと
自立支援コース担当の三年間は、それなりに楽しい三年間でした。生徒たちは人なつこくかわいらしかったし、ときには驚くようなこともやってくれました。すごいなと思ったのはダウン症の女子生徒で、帰り道に迷ったら、公園にいたヤンキー風の男性たちに携帯電話を借りて学校に電話をしてもらい、ぼくを呼び出したのでした。彼女たちのすごいところは人を見かけで判断せず、「この人なら親切にしてくれるだろう」と直感でわかるところです。ヤンキー風の男性たちは、見かけはいかつくても、非常に気のいい若者たちでした。また、彼女は別な時にやはり道に迷い、小さなビルの受付の女性に声をかけ、学校に連絡してきたこともありました。その判断力には舌を巻きました。彼女は卒業後は授業で実習に行っていた共同作業所に入り、学校が作業所に委託している草抜きの作業などにもよく参加していました。手を振ると、にこにこと笑いながら「せんせいこんにちは」とあいさつしてくれるのでした。彼女はおばあさんっ子で、おそらくあいさつなどの礼儀作法はおばあさんにしつけられたのだと思います。そのおばあさんは諸般の事情で子どもの頃学校に行かれず、字が読めなかったりし、大人になってから「識字教室」で読み書きを勉強したりしていました。それでも、障がいがあるからといって甘えさせずに孫をちゃんとしつけたのです。人として大切なことは、学歴ではないと、改めて実感したものです。
三年間のエピソードを書き始めたらきりがないのですが、毎年一人ずつ入れ替わる「アミティエ」担当は、その年ごとによく役割分担をして、なんとかうまくやっていったと思います。どちらかというと、ぼくは細かいところはほとんど人に頼りっぱなしだったと思います。迷惑をかけたことも多かったのではないでしょうか。今思い出しても、申し訳なかったなあと反省することも多々ありますね。
教員が会議などで放課後不在になる時は、有償ボランティアとして大学生に来てもらいました。ぼくが担任をしていた生徒たちにも声をかけ、毎週一度か二度は来てもらっていました。彼女たちには今も感謝しています。同じ時間だけアルバイトをしていたら、もっと収入が得られたと思うのですが、それ以上に障がい児とのふれあいを大切にしてくれたのです。そのうちの一人は大学卒業後、福祉関係のNPOでいろいろな活動に参加していました。もともとそういう活動をしようと思っていたのだとは思いますが、ボランティアをしてくれたことがそういう活動をするきっかけの一つになってくれていたのであれば、依頼してよかったと思います。
そんなこんなで三年間が過ぎました。そしてぼくはその翌年からまた一般の学級の担任を受け持つことになるのでした。
前回の担任の時の経験を今度こそ生かすぞ、とモチベーションを高めていたのですが、思うようにならないのが人の常。新しい火種を抱えることになるとは、その時は想像もしていませんでした。
43 複数担任の落とし穴
ぼくが自立支援コースの担当をしている間に、一般の学級では大きな変革がありました。
二人担任制を敷いていたのです。むろん、そのことは会議などでわかっていました。他の学校の「担任・副担任」という関係ではなく、「第一担任・第二担任」という一応第一担任が主で、第二担任が補助という位置づけではあったのですが、その組み合わせは学年主任と副主任にあたる先生が決めていました。年度途中の変更はあり得ませんでした。
前もって、互いに綿密な意思疎通をしておかなければ、学級の生徒は混乱してしまいます。また、二人の相性がよくないと、学級運営に支障をきたします。きめ細かく生徒を見られるという長所よりも、リスクの高いシステムだと思います。
担任にとって、学級運営というのは自分の教育観と、学校の教育方針をすり合わせながらやっていくもので、そこに第二担任という要素が入ってくると、運営の方針がぼけてしまう危険性がありました。導入に際して会議で反対意見を述べた先生もいましたが、それらの先生は他の学校に転勤していきました。要は反対する者は残しておけないということだったのでしょう。たまたま、だったのかもしれませんが、何か裏で動いた者がいると勘ぐられても仕方のない転勤でした。
ぼくが一般の学級担任に第一担任として復帰した時の第二担任は家庭科の女性の先生でした。彼女は最初は「第二担任やから、出しゃばらないようにする」などといっていましたが、例の「カミングアウト合宿」で、それは早くも破られました。
生徒たちの発言で特記しておくべきものは、副担任が記録することになっていて、ぼくも転勤一年目と二年目にはそういう仕事をしました。ただ、記録していると意識させると、自己開示できない生徒も出てくるので、生徒たちにはわからないように気をつけて記録をとっていました。
ぼくは「カミングアウト合宿」で生徒たちが不幸の披露大会みたいなことになるのは好きではありませんでしたが、学校の根本的な方針として、自己開示することで得るものが多いというものがありましたから、個人的な好き嫌いはおいておかなければなりません。教育方針の軸となるところが揺らぐからです。
ところが、第二担任の彼女は、「私、この合宿の雰囲気が嫌なの」と公言し、ミーティングという名の自己開示を始めるときに、これ見よがしにノートを広げて、記録するところを生徒にわかるようにしたのです。これでは生徒が本音で話しにくくなる。彼女は意識してそういうことをしてきたのでした。
一応僕は司会役としてなるべく自己開示できるようにしていったのですが、開示するつもりで下書きを書いていた生徒が結局将来の夢を語ったりするなど、合宿の狙いとは外れたものになってしまいました。それでも、それなりにカミングアウトする生徒はいたし、一度発言した生徒が「実はさっき言えなかったけど……」と開示するつもりだったことをちゃんと発言してくれたりもしたのですが。
学年最初の大切な行事で、第一担任のペースを無視して出張ってきたこの時に、「この人とはうまくやっていけるだろうか」と不安になりました。
この学級では、複数担任というシステムの落とし穴がその後も次々と待ち受けていたのでした。
44 生徒の前で口論
複数担任というのは、養護学校時代に経験しています。役割分担をしっかりしておけば、生徒一人一人に対してきめ細かい指導ができます。また、一ヶ月もすれば、その役割分担も自然に板についていきます。
しかし、この年は違いました。第一担任であるぼくに第二担任の先生は「私はあくまで補助」と言っていたにもかかわらず、どんどん前に出てくるのです。前もって打合せしていたことと違うことを言ったりしたりして、生徒たちが戸惑う場面も出てきました。
ホームルームのレクリエーションで段取りを決めていたにもかかわらず、こちらが予定通りに事を進めているのに対し、思い付きで順番を変更し、こちらにはそれを知らせないということもありました。
「ちょっと待って。それはこっちの作業が終わってから」
「でも、××先生が、それはもういいから先にやろうっていうから……」
こんな会話で絶句させられることもしばしばありました。
三者懇談では、ぼくはまず保護者からの言葉をじっくりと聞き、それに対して自分の考えを述べるというやり方をしていたのですが、彼女はどんどん自分の考えを保護者に言うというスタイル。これではぼくの立つ瀬がありません。おそらく自分から発言しないぼくの補助のつもりだったんでしょうが。結局三者懇談ではぼくはほとんど発言しなくなり、彼女がどんなことを言うのかを拝聴するようになりました。
だいたい複数担任の利点というのは、それぞれ時間を調整して半数に生徒を分けてそれぞれが懇談し、情報を後から共有するという、担任の仕事の負担を軽減するという意味もあったはずですが、必ず二人の担任が揃って立ち会う形になったので、負担は変わりませんでした。二人そろってというのは彼女の方から申し出てきたのです。二人で分けてやりましょうと言っても、それでは正確な情報が伝わらないと拒まれました。
そのうち、ぼくはストレス性のめまいに襲われるようになりました。実は、ぼくはチックもちで、ストレスがたまったり緊張したりし過ぎるとチック症状が出るのでした。そのため、精神安定剤を専門医に処方してもらっていました。それも効果がないくらいストレス過多になっていたのです。
学年主任と副主任役の先生にも相談しました。今年度は仕方ないとはいえ、来年度は彼女は第一担任にした方がいいと進言もしました。同じ苦しみを他の先生にさせたくなかったのです。
年度の終わりごろには生徒の前で口論までしてしまいました。それだけはしてはいけないと心に決めていたのですが、我慢の限界が来ていたのでしょう。生徒たちは敏感です。もっと前から二人の担任の関係がよろしくないことは理解していたようです。
「二人は仲が悪いから」
生徒のそういう声が耳に入ってもきました。
ぼくが「捨て育ち」式であれば、彼女は「介入」式だったということだと思います。
それでも生徒たちはそれぞれ自分たちの力でなんとかやっていたのですから、それについては感謝しています。ただ、せっかく入学した高校で教師のいさかいを目の前で見なければならなかったということに対しては、今も申し訳ないと思っています。
45 援助交際じゃないよ
クラス替えがあり、二年生の第一担任になりました。今度の第二担任は、前年度までイギリスへ短期留学をしていた英語の先生。久しぶりの職場復帰ということで、前面に出るということはなく、しかもおっとりとした性格で、生徒たちからも慕われていました。
ぼくが抜けている部分をカバーしてくれて、この年のコンビネーションは、ぼくにとっては非常によかったと今でも思います。一年生から引き続き担任を持った生徒たちもいました。ここからの二年間はクラス替えのないもち上がりになるので、それらの生徒は三年間ぼくが担任を持つことになります。そういう生徒たちから見たら、二年生の担任になったぼくはだいぶ印象が変わったように見えたかもしれません。
いろいろな生徒がいました。人ごみに入る事ができず、一年生の時には体育館で全校生徒が集まる時には保健室にいたという男子がいました。ぼくが横についていることで、集団の中には入れませんでしたが、とりあえず体育館に入り、離れた場所に座って全校集会に参加できるようになりました。今でいう「LGBTQ」の生徒でした。男子よりも女子と話をする方が気が楽になるようで、女子と明るく交流しているのを見て、ほっとしました。
マスカラを目いっぱいつけている女子生徒がいました。学校よりもアルバイトの方が楽しかったようで、休みがちでした。修学旅行の直前の説明会にもきませんでしたが、学年主任が連絡を取ってくれて、修学旅行に行くという意思はあることがわかりました。出発の前日の夕方に説明をすることになり、ぼくの自宅の最寄り駅前のハンバーガーショップで待ち合わせをしたら、えらく派手な格好と化粧できたのでぎょっとしました。たぶんそれは彼女なりの「武装」だったのだと思います。
「先生とあたしが二人で店に入って話をしてたりしたら、援助交際と思われるかもね」
カラカラと明るく笑いました。そういうことをしれっと言ってしまえるところが彼女のよさでもありました。とはいえ、近くに交番もあるので、ぼくとしてはひやひやものでした。本当に援助交際と間違えられたら困るなあと思いながら、「修学旅行のしおり」などを渡して時程の確認などをしました。
彼女は無事修学旅行に参加し、持ち前の明るさでクラスをいい雰囲気にしてくれました。宿でのクラス・ミーティングでは、学級の生徒たちそれぞれが自分の思いを率直に語ってくれました。車座になり、円の中心にぼくが座り、語る生徒の方をしっかりと見ていました。尻を支点に体をコマのようにまわしていました。
「先生、目がまわるんと違う?」
そんな声をかけてくれる生徒もいました。
行き先は九州で、鹿児島の知覧や長崎の平和公園などに行きました。本場のちゃんぽんがおいしかったのを覚えています。ちりんちりんアイスという花弁のように盛りつけたアイスもおいしかったなあ。
そして、文化祭。これがなかなかたいへんだったのでした。
46 ナンを求めて右往左往
2年生の文化祭では、食品模擬店をやろうという話にまとまり、ナンにホットドッグ用のウインナーをはさみ、「ナンドッグ」と名付け、レトルトのカレーをつめたものと、レトルトのミートソースをつめたものとの二種類の味を用意しました。
ただし、保健所の指導で、必ず火を入れたものでなければならないというのと、調理は調理実習室で行い、教室でできるのはオープントースターで再加熱する程度にとどめなければならないということでした。調理実習室の調理台には限りがあります。したがって、条件を整えていないクラスははねられてしまいます。
希望するクラスが多かったので、オーディション形式で審査されました。審査員は文化祭実行委委員会の生徒たちや担当の教師、そして校長先生だったと思います。オーディションでは合格し、本格的に準備が始まりました。揃いのTシャツを作ったり、教室の内装やメニュー、看板を作る生徒たちと、買い出し担当の生徒たちが、工夫を凝らして準備しました。ぼくは「捨て育ち」の担任で、第二担任の先生にもそれは理解してもらい、なるべく口出しはしないという姿勢で臨みました。
予算に合わせて買い出し担当はウィンナーソーセージやレトルトのカレー、ミートソースを業務スーパーまで買いに行きました。ところが、肝心のナンが足りません。
「店にある分を全部買ったけど、これだけしかなかったんです」
文化祭実行委員会には予定販売個数と価格を提出してあります。それ以上は売ってはいけないというわけです。ただ、少なくなる分にはかまわないのですが、あまりにも少なすぎました。
「先生、どうしよう」
そうです、担任の出番です。ぼくは業務スーパーの支店がどこにあるかを調べ、スクーターで回れる範囲の店に在庫数を確認する電話をかけまくりました。
「お取り置きはしてませんので、来ていただいても今の在庫数より少なくなっているかもしれません」とそれぞれの店で言われました。
「かまいません!」と言い、できる限り、業務スーパーをまわりました。他のスーパーで買うと予算をオーバーしてしまうので、業務スーパーでなければならなかったのです。
数が揃うまで、大阪市内はもちろん、吹田市までスクーターで走り回りました。シートの後ろの荷台も、足を乗せる台もナンの入った箱でいっぱいになり、レジ袋をもらって両手首にぶら下げ、学校に戻りました。よく警察官に見つからなかったものです。見つかったら職務質問されていたのではないかと思います。
ナンを持って帰ったきたときの、生徒たちの歓声と嬉しそうな表情は忘れられません。生徒たちはまだ子どもで、限界があります。それをカバーするのが担任教師の役目と、本当に必死でした。
生徒たちは「ナンドッグ」に第一担任と第二担任の名前をつけ、「きた味」「まい味」(仮名として「舞」先生としておきます)としてくれました。それも嬉しかったですね。親愛の情が伝わってきました。
やっぱり僕は教師に向いていたのかな。そんな風に思える瞬間でした。
47 東日本大震災の日に
まるで「援助交際」なんて笑ったこともあった女子生徒でしたが、ある日から歩きにくそうにし始めました。そしてついに蟹股で歩き、杖代わりに教室掃除のほうきを使い始めました。明らかに体調に異変があるとわかりました。
第二担任の「舞」先生にお願いして、なんとか保健室に連れていきました。大ベテランの養護教諭の先生は一目見て性感染症と判断しました。そういう生徒を何人も見てきたのでしょう。
生徒本人も、性感染症であるという自覚はあったようです。それだけに、保護者とは相談しにくかったのでした。養護教諭と「舞」先生の説得で、保護者にすべて打ち明ける事ができました。彼女は焼肉チェーン店のアルバイトをしていて、そこで交際した男性からクラミジアをうつされたのでした。
治療の甲斐あって、感染症は関知しましたが、その間に欠席がかさみ、三年生終了の段階で、三年で卒業単位をそろえることはできないことが明らかになりました。ただ、この学校のシステムでは「留年」にはならず、仮進級で三年に上がることはできるということがわかりました。そして四年生として単位をそろえるために引き続き在籍できるのでした。
ぼくと「舞」先生は、二年生の他の生徒にはわからないように彼女を呼び出し、応接室で今後について相談しました。四年生になってもこの学校で卒業するのか、通信制の学校に転学して卒業単位をそろえるのか。
彼女の答えは「ここで卒業したい」というものでした。ならば、なるべく三年生でしっかりと単位をとり、四年目は前期だけで単位をそろえて、半期で卒業できるようにしようと励ましました。
なんとか懸案を解決して職員室に戻ると、職員室では大騒ぎになっていました。まだスマホが普及していない時代でしたので、みなガラケーのワンセグ機能でテレビを見ていました。
ぼくたちもその画面を見ました。道に水があふれ、自動車が流されています。
妻からメールが来ました。自宅のマンションが長中期振動でずっと揺れているけれど、学校はどうか、という内容でした。
ぼくたちが生徒の今後について話を詰めている真っ最中に、東日本大震災が起こっていたのでした。震災の被害についてはここで書くまでもないでしょう。ただ、あの大災害が起こったその時、ぼくや「舞」先生や呼び出した生徒は全く地震に気づかずに話し合いをしていたのです。だから、東日本大震災の起こった三月十一日は、ぼくにはその話し合いと常にセットになって記憶されているのです。
後述しますが、その生徒は四年生の前期に単位をそろえ、無事に卒業し、親の仕事を手伝うことになりました。今はもう連絡をとったりはしていませんが、あの時、強引に転学や退学を勧めたりせず、彼女自身に考えさせた、それは今でも間違っていなかったと思っています。
48 不登校の理由は
三年生に持ち上がり、第二担任が交代しました。「舞」先生は新一年の第一担任になりました。新任の女性の先生が相棒となったのでした。二年生の時は「捨て育ち」のぼくと、天然でおっとりした「舞」先生でゆるーいけれど居心地のいいクラスになりました。新しい先生は生徒にきちっとさせたいという先生でしたので、一年かけて出来上がったゆるさに耐えられないようで、新学期当初は生徒とぶつかることもありました。でも、彼女も真剣に担任として生徒と向き合ってくれていたので、ぼくは特に注文をつけたりはしませんでした。
ある一人の女生徒が、夏休み明けからよく休むようになり、ついには登校しなくなりました。保護者とも連絡を取り、状況を聞きました。保護者夫妻は共働きなので、彼女を送り出してやるということができませんでしたが、それでも自分が出勤する前には、娘が制服に着替えているかどうか確認してから家を出ていたとのことでした。ところが、彼女は制服を着たまま家で過ごし、母親が帰宅した時には私服に着替えてはいなかったのです。むろん、親の勘はなかなか鋭い。制服にしわなどの乱れや汚れがないのを見て、「また休んだのね」とため息をついたそうです。
ぼくたち担任と、しまいには学年主任も一緒に家庭訪問に行きました。
不登校の理由は最初はわかりませんでした。クラスの女子のマスコットみたいな存在だった彼女は別にいじめられたりはしていませんでした。となると、何か別の理由があるはずです。
学校に行くモチベーションがなくなったのは、三年の夏に部活を引退したからだということがわかりました。彼女は部活が楽しくて仕方ありませんでした。それだけに、部活をしなくてもよくなると、気が抜けたようになってしまったというのです。
こればかりはどうしようもありません。新しいメンバーになった部活に、出戻りのように先輩が加わるというのは、彼女本人が嫌がりました。
実は彼女は家の近くのファーストフード店でアルバイトを始めており、ちょうどぼくの通勤途中にある店だったので、通りすがりに様子を見に行けました。彼女は生き生きとかいがいしく働いていました。アルバイトにはモチベーションが存在していたのでしょう。ぼくも第二担任(仮名として「歌」先生としておきます)も無理に登校させるべきではないというところで考えが一致しました。
何しろ出席してないのですから、欠席オーバーになった科目の単位は認められません。彼女と何度も話し合い、彼女もまた四年生の前期には単位をそろえて卒業したいという気持ちがあることを確かめました。
後述しますが、彼女は無事四年生の前期に単位をそろえ、巣立っていきました。新年度からは保育士の資格をとれる専門学校に通うことに決まりました。
長い人生です。高校生にとって一年、半年の遅れはかなり大きなものに感じられたでしょうが、後から振り返ると一瞬のようなものです。前回に書いた生徒も、そして今回の彼女も、半年遅れてもちゃんと入学した学校で卒業できたのですから、半年間は他の生徒にはできない経験ができたと思います。
ぼくは今でもそのファーストフード店の前を通ると、彼女の姿を探してしまいます。気にかかる生徒の一人として、今も記憶に焼きついているのでした。
49 なにわ研究
授業の話もしましょう。「舞台表現」は選択者も少なくなり、閉講が決まりました。特別非常勤講師の先生には本当にお世話になりました。その先生とは今でも年賀状のやり取りをしています。結婚、出産を経て、よい家庭を築いてられるようで嬉しいことです。
また、自立支援コース担当中も続けていた「哲学入門」は、「倫理」を開講するという理由で、閉講になりました。入試対応の「倫理」と差別化を図るため「グループディスカッション」を中心とした全く別な内容にしていただけに、担当者であるぼくの意見も聞かずに一方的に閉講となったのは残念でした。理由は「選択科目の精選」でした。それならばどのように授業を展開しているかもっとちゃんと見に来てくれたらよかったのにと思いました。そのかわり、翌年からは「倫理」を受け持つことができるようになりましたが、受講者は少なく、「哲学入門」の方がたくさんの生徒に選択してもらっていただけに残念なことでした。
それから、「なにわ研究」という科目を担当していた先生が、ぼくに担当を代わってほしいと言ってくれたので、新たにそちらをもつことにしました。前期と後期に分け、前期は大阪市の明治以降の発展をプリントやスライドショーで紹介する授業にし、後期はぼくのDVDコレクションから実際に芸を見せ、漫才はエンタツ・アチャコ、捨丸・春代からダイマル・ラケット、いとし・こいし、かしまし娘、はんじ・けんじ、千里・万里、Wヤング、やすし・きよしを経てB&B、紳助・竜介、ダウンタウン、ハイヒール、そしてM-1グランプリ以降の漫才と年代を追って代表的な漫才コンビを紹介。落語は初代桂春團治のSP録音を聞かせたりしてから、上方落語四天王、桂枝雀、笑福亭仁鶴など上方落語を代表する名人たちの口座を見せました。他には藤山寛美の「松竹新喜劇」や「吉本ギャグ100連発」などの喜劇、「夫婦善哉」などの映画も紹介しました。本当は文楽や歌舞伎なども入れたかったのですが、ぼくの守備範囲ではそこまでが精一杯でした。「芸能文化学科」のある学校に転勤できないで終わったぼくとしては、自分の趣味と実益を兼ねた授業になりました。のちに「なにわ都市研究」「なにわ芸能研究」と二つに分割され、「都市研究」は受講者が少なく閉講となり、「芸能研究」は人気講座となったので、前期と後期の2回の開講となりました。ぼくがこの学校から去るちょっと前に「なにわ学」と改称されたのを機に、もとの「都市研究」と「芸能研究」を再度組み合わせた講座にしました。
学校設定の選択科目ではけっこう好き勝手していましたが、その他には専門の「倫理」、「現代社会」など公民科目が中心となり、人が足りないときに「世界史A」や「日本史B」を受け持ったりしていました。現在は指導要領の改定でカリキュラムはずいぶんと変わりましたが。ただ、どうしても講義形式になってしまうのがぼくの弱点で、教科書のある科目では「哲学入門」みたいなオープンな授業をできなかったのは事実です。他の先生の授業を見ていると、当てて答えさせるのがうまいのですね。ぼくはそれが苦手でした。本質的にはコミュ障だったからなのです。
この文章のタイトルの「ぼくは教師に向いてなかったのかもしれない」ということを意識し始めたのは、講義中心の授業に対して生徒のアンケートでの評価が低かったことがあるのです。
50 部活は顧問次第
演劇部の顧問は四年で他の方と交代しました。自立支援コースの担当をしていると、障がいのある生徒たちとの交流サークルの顧問もしなければなりません。漫研と交流サークルで手いっぱいになり、特に忙しい演劇部の顧問はとてもつとまりません。演劇部の顧問の最後の年には、大阪府の他の地区の審査員をつとめました。その地区でもやはり私学の名物顧問がいて、毎年最優秀賞をとっていたのですが、その年は公立の高校もよく頑張っていました。演劇部の顧問としての最後のご奉公となった年に審査員というめったにできない経験ができたのはよかったと思います。
交流サークルは、自立支援コース担当の三年間だけで次の担当者と交代しました。ぼくの顧問の代ではあまり一般の生徒を増やす事ができなかったのは申し訳なかったと思います。
漫研の顧問としては、学生時代に手書きファンジンを作っていたこともあり、部誌の版組や、ベタを多用せずトーンで網掛けをするよう指導したりと自分が高校時代に漫画をあきらめた分、それを取り返すようにいろいろとアドバイスができました。転出するまで十年ほどこの学校の漫研の顧問を続け、専門学校や広告代理店が主催する漫研やイラスト部の交流会にも参加したりしていました。漫研の部員たちはそこで他の学校の生徒たちと交流を深めたりしていました。SFファンダムで交流の幅が広がった経験から、そういう催しには積極的に参加させました。むろん引率で僕も行ったわけですが、他の学校の顧問の先生は漫画オタクみたいな人は見当たらず、ぼくの方はあまり交流が広がらなかったのはちょっと残念でした。
少女漫画誌の新人賞に応募して、奨励賞を受けた生徒もいました。精華大学のマンガ学科に進学した生徒もいました。「まんが甲子園」に応募した年もありました。校内ではあまり目立ってなかったかもしれませんが、結構活発な部活になりました。
ただ、ぼくが転出した後、研修でこの学校に行った時に、ぼくの後継の顧問の先生と話をしてみたら、その先生はほとんど部活に顔を出していないということで、おそらく交流会にも行かなくなったと思います。あらためて、高校の部活は顧問次第なんだと感じました。
漫研の生徒たち、今もイラストや漫画を描いているでしょうか。あの頃の部員たちともどこかで再会できたらなあと思います。
51 生徒たちのその後
この学校での二度目の三年担任は、二人の留年者のほかに、一人の転学者を出してしまいました。前回、進級できずに退学した生徒がいただけに、今回は生徒の出欠には気をつけていました。でも、ある女子生徒の体育の欠席時数があと少しで未履修の数に達してしまうのに気づき、体育の授業のある日は彼女が朝から学校に来ているかどうか毎回気にしていました。ついにあと一度休むと単位を落としてしまうというところまで来てしまいました。出席時数が不足して単位を落とすと、補習などで挽回するチャンスがなくなります。そして、体育は必修科目なので、単位をとれないと自動的に留年になってしまいます。
ついに恐れていた日が来ました。体育があるのに、朝のホームルームに来ていないのです。すぐに連絡を取りましたが、「体調不良」で休んでしまいました。インフルエンザなどの場合は休んでも「出席停止」という扱いになり、欠席とはみなされません。しかしただの「体調不良」ではそういう扱いにはなりません。その生徒はどうやらそこのところを勘違いしていて、病欠は欠席扱いにはならないと思いこんでいたようなのです。
留年が確定してから、彼女は学校に来なくなりました。彼女は複雑な家庭環境にあり、祖母とおばが事実上の保護者でした。ぼくと第二担任の「歌」先生は保護者と連絡を取り合い、通信制の学校に転学することが決まりました。年齢よりも少し幼い感情の持ち主でしたが、明朗で人気もある生徒だっただけに、卒業させてやれなかったのは残念でした。ただ、私立の通信制の学校の場合、授業料さえ払えば単位認定をしてくれるところもあり、彼女はそのおかげでこの年度にちゃんと高校を卒業し、専門学校にも合格したと、祖母からの連絡で知りました。
曲がりなりにも高校卒業の資格を得たのだからよかったと言いたいところですが、彼女はせっかく入った専門学校を中退してしまいます。卒業してから付き合いだした男性との間に子どもができてしまったのでした。卒業後の様子は、担任をしていた学級の、彼女と連絡を取り続けていた生徒から聞きました。ちゃんと入籍し、新居に入ったということで安心していたのですが、すぐに別れてしまい、シングルマザーとして子どもを育てることになりました。年賀状を実家に出すと、彼女の祖母から返事が来て、彼女は発達障がいだったということが判明しました。年齢よりも幼い感じがしたのは、それが理由だったのかもしれません。夜職について子育てをしているというところまではなんとかつかみましたが、今はもう連絡がつきません。
LGBTQの男子生徒は、卒業してからもよくぼくの携帯電話に相談の電話をかけてきました。ただ、ぼくは自分のことで手いっぱいになっていて、結局最後まで彼の相談に乗り切る事ができませんでした。彼も夜の世界に入っていったという噂を聞きました。
専門学校に行きながらガールズバーでアルバイトをしていた女子は、ガールズバーの方が忙しくなり、もともとあまり勉強が好きではないところもあったためか、専門学校をやめてガールズバー一本となったという話も聞きました。
いろいろと情報をくれた姉御肌の生徒は、大学を卒業した後、小学校の先生になりました。もう一人、小学校の先生になった生徒がいて、卒業した後は高校教師なんてのは無力ではあるのですが、みんな、それぞれ自分の道を切り開いていっています。彼らが卒業してからもう十五年ほどたちました。実質上、ぼくが担任として卒業させた最後の生徒たちなので、思い入れも大きいのです。それだけに、今、みんなどうしているのか、気になっています。
52 第二担任に
ぼくのクラスから二人も四年生を出してしまうことになり、ぼくなりに責任を感じていました。また、なんとか二人の力になりたいと思っていました。もう一人、別の学級の男子が四年生になっていました。その生徒は受け持ちではなかったのですが、その生徒もあわせて、四年生の担任になりたいと思い、そういう希望を出し続けていました。ところが、その希望はかなわず、四年生の三人とは関係のない、研修部長をしていた先生が四年生の担任を受け持つことになりました。自分が担任をしていた二人のことを、どうかよろしくお願いしますというしかありませんでした。
そしてぼくは新三年の学級の第二担任に決まりました。若い男性の先生が第一担任でした。もちろん二年生から持ち上がってきた担任です。
ぼくは、よけいな手出しや口出しはしない、先生のやりたいように学級運営をしてくださいと、第一担任の先生に告げました。先生の手に負えないところをカバーしますので、と。
しかし、その一年間は非常に難しかったです。第一担任との関係が非常に良好だった生徒たちに、全くその学年の授業を受け持ったことのない先生が、一から関係を築いていかなければならないわけですから。前の年の「歌」先生は新任で、失敗しても何度もチャンスがありますが、ぼくはベテランの域に入っていたので、うまく第一担任をフォローできて当然という立場でした。
あまり思い出したくないのですが、遅刻の多い生徒に音をあげた第一担任から、ぼくがその生徒と話し合ってほしいと依頼されました。なるべくソフトに話をしていったつもりでしたが、問題の遅刻の件になると急にへそを曲げ、カバンを置いたまま立ち去っていきました。冷静さを失ったぼくは、その生徒のカバンを叩きつけてしまったのです。今思うと、なぜあんなにかんしゃくを起こしたのか、自分のことなのに理解できません。
むろんこれは問題となり、その生徒の保護者に謝罪をし、その生徒は朝のホームルームに出ないでよいということになりました。彼女はぼくのことが怖いと思い、学校に行けないというのでした。
彼女の言い分を受け入れるしかありませんでした。
第一担任の先生には非常に申し訳ないことをしでかしたのでした。その一年、ぼくは黒子に徹しました。そして男子とは良好な関係を築くことはできましたが、女子たちはぼくを敬遠する感じになりました。複数担任というのは本当に難しい。今回もまたその難しさを強く感じたのです。
卒業式では、その学級の生徒の呼名はすべて第一担任の先生に任せました。彼の作り上げた学級で、ぼくは最後まで黒子に徹しました。
こんなぼくはやはり教師には向いていなかったんじゃないか。そういう思いにさいなまれました。
そして、ぼくがクラスの担任業務をするのは、これが最後となるのですが、その時はまだ次のチャンスがあると信じ、そこで挽回したいと思っていたのでした。
53 研修部長に
一般の高校に異動して十一年、ぼくは気がついたら五十歳になっていました。勤務している高校でも自分より長く在籍している人よりもぼくの後に入ってきた人の方が多くなっていました。
「先生はもうベテランなんやから」と言われたこともありました。
自分ではそんな気は全くしていなかったのですが、社会科準備室に資料として置いておいた私物もかなり多くなっています。
そんな折、ぼくは当時の校長から「研修部長になって」と言われました。
学校には校務分掌というものがあり、例えば「生徒指導部」、「教務部」、「進路指導部」、「保健部」はどんな学校にもあります。それ以外の分掌は学校によって違います。この学校には「地域連携部」や「研修部」などがありました。ぼくは進路部などにも在籍したりしましたが、研修部が長かったのです。教員対象の研修の段取りをするのが主な仕事でしたが、「芸術鑑賞会」の企画と渉外、図書室の運営などもそれに含まれていました。芸術鑑賞会の担当が一番多く、プロのオーケストラの学校向けのプランを比較検討し、ザ・シンフォニーホールという本物のコンサート会場に生徒を入れて、オケも会場も本物を体験させたりしました。指定席のチケットをわざわざ作ってもらい、もぎってもらうことにしたら、生徒たちは「本当のコンサートに来たみたい」と感激してくれました。演劇では「関西芸術座」などテレビに出演する俳優さんも所属している劇団に来てもらい、吹田のメイシアターというこれも立派なホールを借りてわざわざ生徒たちに直接現地に行かせたりしました。古典芸能では今は亡き桂春駒さんのプロデュースするこちらも前座から中ドリ、モタレ、大トリと組み合わせる本格的なもので、桂あやめさんや笑福亭福笑さんに出演してもらうものでした。
ぼくは鑑賞会担当は引き続き行い、研修部長として図書室にどんな本を購入するかのプランを立てたり、と、こちらも自分の興味関心の対象となる仕事をしていました。それはそれで楽しかったのですが、部長になると、むろん担任を持つことはできませんし、「運営委員会」という学校全体について細かな行事から大きな目標作成まで話し合う会議にも出なければなりません。入試選抜委員にも必ず加わり、入試業務の運営にも関わるようになりました。ぼくはこのまま研修部長として、任期の三年を全うするつもりでいました。ところが、そのプランを全うすることはできなくなったのです。二年間、研修部長としてなんとか自信もついてきただけに、プランを全うできなかったのは残念なことでした。
54 転勤希望は出してなかったのに
ものかきの夢を捨てたわけではありませんでしたし、SFのイベントにも参加して、同年代の作家の方たちとの交友もありました。牧野修さん、そして今は亡き小林泰三さんや、同じ年に生まれた北野勇作さん、田中啓文さん、林譲治さん、我孫子武丸さん、同年代の田中哲弥さんや菅浩江さん。書評家の三村美衣さん、冬樹蛉さんも同い年です。学生時代からのSF仲間では東京創元社の小浜徹也さん。翻訳家で評論家の大森望さんなど、数多くの人たちと交流がありました。名前をあげていけばここには書き切れないほどでしょう。それでもものかきになるモチベーションが上がらなかったのは、十三年にわたる、最初に転勤した一般校での仕事が楽しかったからです。小説を書くというのは、いろいろと自分の黒い部分を発散するというモチベーションが必要だと思っています。表現したいものが心の奥からマグマのように噴き出してこないといけない。しかし、教員生活が充実していたので、そのマグマは一向にたまってこないのでした。
もうこのままこの学校で定年まで勤務したいと思うほどでした。しかし、人事というものは自分の希望だけが通るものではありません。十三年目の年度末、当時の校長に呼ばれ、ある高校について打診されました。その高校は以前住んだことのある場所で、治安もあまりよろしくなく、断りました。
しばらくして、また校長に呼ばれ、転勤の内示を受けました。ついに心地よい職場から離れなければならない日が来たのです。
しかも、転勤先の高校は、自宅から片道一時間半はかかる遠方の高校でした。一応異議申立期間もあるのですが、そう簡単に覆ることはありません。
とにかく転勤希望を出していたわけではないので、自分のデスクのまわりやロッカーなどは私物であふれかえっていました。箱詰めをして、転勤先に送ることにしましたが、とても宅配便では送り切れない量になってしまいました。やむなく引っ越し業者に依頼して送ってもらうことになる、それくらいの量の私物です。
その箱詰めだけで何日もかかりました。「なにわ研究」で使っていた漫才や落語などの資料であるDVDなどは、転勤先では無用の長物になるので、自宅に毎日少しずつ持ち帰りました。
名残惜しいというのはこのことだと思います。
荷物を運送会社に渡し、空っぽになった自分の席を見て、涙が出そうになりました。四十代のすべて、一番働き甲斐のある時期にこの学校で好きなことをたくさんできたぼくは本当に幸せでした。
そして、次の勤務先では予想以上の試練がぼくを待ち受けているのでした。
55 元の学校に帰してくれ
橋下徹さんが大阪府知事に当選してから、大阪府の教育は激動しました。公務員の給与はカットされ、教員もその中に含まれました。遅くまで残って教材作成をしたり、休日返上で部活の指導をしたり、夜になってから課題のある生徒の家庭訪問をしたりと、精一杯指導をしていた教師ほど、そのモチベーションは一気に下がってしまいました。
ぼくもまた、だんだんやる気を失っていたことを否定しません。ぼくが採用されたころ、全国トップクラスだった大阪府の教員の給与は、これ以降どんどん下がり、全国の都道府県の中でも下から数えた方が早くなりました。若い教師の中には、他府県の採用試験を受け直して大阪府からはどんどん人材が流出していきました。
教育費無償化と称して、私学の授業料までも税金から支払われることになりました。入試の志願者が定員割れをした高校は、それが続くと統廃合の対象となり、多くの高校が無くなりました。中学校にも競争原理を取り入れました。
これまでも各学区でトップ校だった高校には手厚く予算をつけ、エリート育成を掲げました。これに対し、中学校で勉強について行けなかった生徒たちはどうなるのかと抗議の声があがったのは言うまでもありません。橋下知事は、すでに東京でセーフティーネットとして機能していた「学び直し」の高校を作らせました。「エンパワメント・スクール」と名付けられました。
ぼくが転勤していった新しい学校は、そのエンパワメント・スクールに指定された高校でした。ただし、まだ発足したばかりで、それまでの「多部単位制」という、朝に弱くて登校できない生徒は三時間目の授業から登校でき、夕方にある八稚時間目の授業を選択することができる「クリエイティブ・スクール」の生徒が残っていました。
この多部単位制のシステムは、それまでその学校の先生たちが制度を毎年見直したりして、非常に優れたものになっていました。だから、エンパワメント・スクールへの移行については反対の先生が多く、校長も教育委員会に対してかなり抵抗したそうです。教育委員会はその校長を他の高校に転勤させ、推進派の校長を赴任させ、いわば力づくで学校のシステムを変えさせたのです。
ぼくが転勤して担当した授業は、すべてクリエイティブ・スクールの生徒対象のものでした。三年生の副担任(サポーターと呼ばれていました)に配属され、東北の修学旅行の引率に加わりました。そこで、ぼくは東日本大震災の被災地に初めて足を踏み入れました。ガイドの方から、当時の様子を聞いたり、農家の方と話をしたりしてとても勉強になりました。
ただ、校長にとってはぼくのようなタイプの人間は目障りだったのかもしれません。授業見学をしに来て、おしゃべりをしている生徒のところに言って教室から追い出し、その学年の職員室で長々と説教をしました。せっかくそれなりに勉強する雰囲気ができていたのに、この校長の乱入で教室はざわざわし、もう授業どころではなくなりました。説教が終わって帰ってきた生徒は、「俺は校長やぞ、校長の言うことがきけんのか!」と、校長の説教の真似をし、他の生徒たちは大爆笑。いったいあの校長は何がしたかったんだと思っていたら、面談ということで校長室に呼ばれ、「声が大きすぎる」だの「語尾につく“ね”という言葉が耳障りだ」と、どうでもいいようなことを言い立て、言いがかりばかりの「指導」をしました。
悔しくてなりませんでした。その学校に転勤したかったわけではありません。強制的な人事異動でした。楽しく授業のできた前任校に帰りたくなりました。バスに乗って駅に着き、ホームに立つと、その悔しさがよみがえってきました。その路線は、前任校の最寄り駅でも停車するのです。そこを通り過ぎなければならないと思うと、泣きそうになりました。ホームから線路に向かい、声を出さずに心の中で「元の学校に帰してくれ」と叫んでいました。もう少しでホームから線路に飛び降りそうになりました。
この校長にはことあるごとにどうでもいいことをあげつらわれました。教育というものに対するモチベーションの下がりようが大きかったのは言うまでもありません。
56 やりがいのある仕事も
パワハラ校長に苦しめられた転勤一年目でしたが、教頭からはやりがいのある仕事を割り振られました。
エンパワメント・スクールの生徒を対象にした「総合的な学習」のプランを立てる仕事でした。二年生と三年生で、各学年ごとに週一回、「答えが一つでない、自分で考える授業」を行うことが決まっていましたが、内容は教育委員会が見本として持ってきたものは、例えば藤原和博さんの「よのなか科」のテキストをそのまま持ってきたものや、テーマはいろいろでもやり方は「アクティブ・ラーニング」そのままというものがほとんどで、あまり参考になりません。
ぼくは前任校の「ライフプラニング」の教材を思い起こしながら、生徒たちに考えさせる授業のプランを二年間分通して組みました。
中には、修学旅行に沖縄に行くというので、「大阪の沖縄」と呼ばれる大正区の商店街へのフィールドワークを計画したり、グループ別に漫才の台本を作らせ、グループの中からコンビを組ませ、クラスごとに「M-1グランプリ」をさせたり、学校のプロモーションビデオを作らせたり……。考えること、実際に行動すること、常識に対して一度立ち止まって考えさせることを必ず盛りこみました。
一度教育委員会にその授業案を提出し、教育委員会の指導主事たちのつけた付箋を見ながら細かいところを直し、という作業を、クリエイティブ・スクールの三年生対象の「現代社会」や「日本史」の授業と並行してやっていきました。
これに対し、校長からは何のアドバイスもないし、アドバイスどころかあらさがしもなし。いったい校長はぼくのやった仕事をちゃんと見てくれているのかと疑わずにはいられないくらい無視されていました。これはぼくの憶測でしかありませんが、校長はぼくがたてたプランについて理解できなかったのではないかと思います。
校長といえば、愉快なエピソードもありました。学校の公開授業を見に、教育委員会のトップである教育監が視察に来ました。その人は、前任校で僕が自立支援コースの担当をしていた時の校長で、ぼくの至らないところをしっかりと指摘してくれる人でした。教育監は受付をしていたぼくの顔を見て、「あなたは今はここにいるのか」と親しげに声をかけてくれました。それを横で見ていた校長の表情が変わりました。まさか教育監がぼくにそんなに親しげに話しかけるような関係だとは夢にも思っていなかったのでしょう。上に弱く下に強いという典型的な上下関係を中心に人を見るタイプだった校長の頭は混乱してしまったに違いありません。教育監の目を自分に向けさせようと必死に話しかけるのでした。
その慌てぶりに溜飲が下がったのは言うまでもありません。こんな肝の小さい人間のことなど気にかける必要はないと、気持ちが落ち着きました。
嫌な思いもした一年でしたが、自分に役割が与えられ、またその仕事の関係で、大阪府のすべてのエンパワメント・スクールの授業見学もさせてもらえたのはぼくにとっては大きな収穫でした。
57 ぼっち部屋に
エンパワメントスクールの一年目の終わり、担任を希望するものはメモに書いて提出するように言われました。ぼくはあえて希望しませんでした。というのも、自分が企画した「総合的な学習」は新二年生からスタートします。もし担任希望を出せば、新一年生の担任に配属されることになるでしょう。それよりも新二年生の副担任になって、自分の企画を自らの手でじっせんしたかったのです。
教頭によると、「彼は担任をしたくないんか」と言っていたそうです。ぼくが一年間かけてやった仕事について、無理解であったことがこれでもわかります。
もし「総合」の企画をしていなければ、担任希望を出していたと思います。つまり、担任を受け持つことよりも「総合」を実践することの方がぼくにとっては大切だったのです。
教頭がこっそりとぼくに声をかけてきました。この学校では教頭は二人体制で、一人はずっとこの学校に勤めて教頭に昇格した方。そしてもう一人は、ぼくと同じ年に同じ学校から教頭として赴任した方。つまりもと同僚です。長くこの仕事をしていると、校長や教頭になりたいと思う人と、ずっと現場で生徒たちと接していたい人に分かれていきます。教頭となった元同僚は、パワハラ校長とぼくの間に立ってかなり苦しかったようでした。
「『人権平和委員長』になってくれないか」
教頭は苦しげに言いました。というのも、この学校の人権平和委員長は、人権教育の中心になるというだけではなく、奨学金の仕事を一人でやらなければならないというかなり重たい仕事だったからです。
奨学金の担当は普通は進路指導部の誰かが中心となるのが通例でしたが、この学校では教務部、進路指導部、総務部などをたらいまわしにされ、「教育を受ける権利を保障する」という理屈をつけて人権平和委員長にお鉢が回ってきていたのでした。その仕事を担っていた先生が異動するため、担任希望を出さなかった僕をそこにはめこもうということだったようです。
個人情報の、それもかなりコアな部分まで踏み込んだ資料を扱うため、人権平和委員長は空き教室をひとつあてがわれて、その部屋で一人ぼっちになっていたのです。サブとしていっしょに仕事をする人もおらず、ぼくは「ぼっち部屋」の主になったのでした。ただ、幸い僕はぼっちが苦になることはなく、私室のようにカスタマイズして過ごすことになりました。冷房はなく、暖房は古いガスストーブだけという劣悪な空調にはまいったけれど、背筋に当たるように小さなサーキュレーターを自腹で用意し、お湯も一番安い電気ケットルを使って沸かしました。
主席教諭や進路指導部長が時折訪れて「生存確認」をしてくれました。こうしてこれまでに経験したことのない環境での新しい仕事が始まったのです。
58 取り戻した楽しさ
ぼっち部屋に移り、その年から新たに始まった「エンパワメント・総合的な学習の時間」の準備も、誰にも邪魔されない集中した環境で行う事ができました。「総合」では若い先生が相棒としてつき、テーマによってはその先生に任せることもありました。パソコンを使って動画を作成したりする技術と、面白く見せるセンスを持った先生でした。彼のおかげでどれほど救われたかわかりません。
修学旅行で行く沖縄について学ぶというテーマのために、沖縄の歌のCDを何枚か買い、それをぼっち部屋で常に流しながら仕事をしていました。たまたまそこに来てくれた若い美術の先生が、「さとうきび畑」という曲をBGMに作業している僕の姿を見て、こう言いました。
「暗い気持ちになりません?」
ああ、そうか。深く考えずにかけていたけれど、沖縄戦で逃げ惑う人たちのことを歌った歌なんだなあと再認識しました。そう考えると確かに暗い気持ちになりそうです。しかし、「てぃんさぐの花」は心にしみる名曲でしたし、りんけんバンドの「ありがとう」という歌は気持ちが高揚する曲でしたから、それほど気にはしてなかったのです。
そのうち、自宅から大好きなクラシック音楽のCDを持ちこみ、常にBGMとしてかけていました。しまいにはそれらが無ければ落ち着かなくなるほどでした。
しんどかったのは奨学金の業務を一手に引き受けていたことですが、それについてはまた別の話にまとめて書きます。
とにかく「総合」の授業を作り上げ、実践していくのはとても楽しかったのです。校長も代わり、他の学校で教頭をしていた先生が校長として転勤してきました。腰の低い方で、「総合」の授業にも興味を持ってくれました。
面談では「先生は多くの引き出しを持っておられる」と評価してくださいました。一年目の殺伐とした気持ちは、二年目以降はすっかりなくなり、かなり自由に授業ができました。二年生の「総合」はすべてが成功したとはいいませんが、「変な授業」をする科目として生徒たちに浸透していきました。
漫才を作らせたとき、それまでだらだらしていたある生徒が、台本作りで生き生きとし始めたりと、生徒の新たな面を見つける事ができたのも嬉しいことのひとつでした。自分が教師に向いていたかどうかはわかりませんが、こと「総合」という自分と生徒で作り上げる授業がぼくには合っていたのは確かでした。転勤三年目、そのまま持ち上がって三年生の「総合」をやり遂げた時には、充実感がありました。前任校で味わった楽しさを取り戻したような気分でした。
それだけに奨学金の仕事はぼくの肩に重く重くずっしりとのしかかってきたのでした。
59 人権講演会や映画会など
学校の教師は勉強だけ教えていればいいというものではありません。生徒に対するケアは生活面にまでわたります。
教育相談担当の先生は、教室にいづらい生徒のために「居場所活動」を行っていました。相談室を解放し、マンガやお菓子を用意して、気軽に入れる場所にしていました。また、福祉関係につなぐために、教育委員会から派遣されたスクールソーシャルワーカーと連絡を密にしていました。
ぼくは人権教育担当だったので、そちらにはほとんどタッチしていませんでしたが、いじめ問題については、対策委員のまとめ役として、いじめとみられる事象が発覚したら委員会を招集し、スクールカウンセラーの方に協力してもらい、特に加害者に対してじっくりと話を聞いてもらったりしました。
人権講演会を毎年開催しました。そういう講演会などを扱う専門の業者の方がいて、その方から今一番お薦めの方はいるか聞いたりしながら企画を立てました。世界中の紛争地に笑いを届ける落語家の笑福亭鶴笑さん。トランスジェンダーのプロボクサーで、女性チャンピオンから男性ボクサーに性別を変え、ついに男性としてリングに立った真道ゴーさん。在日韓国人で、京都のウトロ地区出身の世界的ジャグラーであるちゃんへんさんといった方たちの講演は、業者にお願いして実現しました。また、「夜回り先生」として知られる水谷修さんには直接交渉してきてもらいました。
人権映画会も実施しました。「ぼくはうみがみたくなりました」という、自閉的傾向の強い青年を主人公にした映画を上映しました。もっとも、映画鑑賞会は翌年からはやらないことになったので、いくつか見てもらおうと思っていた映画は見せられませんでした。もっとも後年、別な形で生徒に見せることはできましたが。
それらは講師の選定や映画の選定など、いろいろと楽しくできる仕事でした。また、前任校で芸術鑑賞会の担当をしていた経験が生かせたのも大きかったです。
一方で、奨学金の担当となったことは非常に苦しかったのも事実です。生徒たちの個人情報を、それも友だちにも言えないようなことを、ぼくは担当者として否応もなく知らなければならなかった。書類を鍵のついたロッカーに入れてしまい、それと同時に自分の知った各家庭の事情もそこに入れ、なるべく自分以外の人にそれぞれの事情を漏らすことのないようにしていました。なるべくすぐに忘れるようにする。そういうテクニックも身につけました。ただ、手続きの不備が多かったので、それに対する対処にかなり時間をとられることも多かったのでした。ぼくは結局五年間、ほとんど一人で奨学金の仕事をし続けたことになります。
60 女性と二人きりにしたら
転勤して二人目の校長はそれなりにぼくのことを評価してくれていたと思いますが、残念だったのは、ぼっち部屋を一度も訪ねてくれなかったことです。
一人だけで奨学金の担当をするのには危険性がありました。授業時間には部屋の鍵を閉めて出なければならないのですが、それは非常に重要な個人情報がたくさん保管されているからです。
ただ、ぼくが不在で鍵が締しまっている時に、書類を持ってきた生徒はどうしていたかというと、扉にある「いじめ相談」のポストに無造作に突っこんだりしていたのです。そのポストには鍵はついていませんから、ぼくの気づかないうちに誰かがその書類を抜き取っていたとしても、その行方はもちろんわかりません。鍵がしまっていたら、もう一度出直すようにと何度も注意していたのですが、エンパワメントスクールの生徒たちはそういったところがどうしても抜けてしまうのでした。
要は、面倒くさがりなのです。自分の個人情報が抜き取られるかもしれないという危険性よりも、一度ですませてしまうことの方が大切なのです。
ぼくは校長に、その件を伝えて、補助となる先生をつけてほしいと依頼しました。そして、一応つけてもらえることになったので、その先生の席をちゃんと準備しました。ところが、その先生の席は保健室に置かれました。というのも、教員の数が少なくなってきたので、奨学金の係の補助と教育相談の係の補助を兼任するという形にしたのです。
ぼくは、どうして「人権推進室」という名のぼっち部屋にその先生が常駐できないのかと校長に尋ねました。
「その先生は女性だから、男性と二人きりにしておくと、何か問題が起こったら……」
ぼくは思わず言いました。
「先生はぼくのことを何か問題を起こすと考えてはるんですか!」
校長は「いや、そんな風に考えてはいないけれど」とごにょごにょとした口調で言い、それ以上何も言いませんでした。信用されていないのかと、がっくり来ました。
保健室とぼっち部屋はかなり離れています。ぼくが授業に行っている間だけ部屋を移動してほしいとは言いにくいし、その先生は教育相談の補助の仕事をかなり抱えてしまうことになったようで、奨学金の係の補助というのは名目上のことだけになってしまいました。
年ごとに奨学金を借りて進学する生徒は増えていき、負担は重くなるばかりでした。
61 元同僚が校長に
現状維持を貫いた校長が(それはそれですごいことです)定年退職しました。次の校長は、教育委員会からやってきた人物でした。それは、ぼくが前任校で自立支援コースの担当をしていた時に、いっしょに担当をしていた元同僚でした。彼は自立支援コースの担当を離れた後、担任を三年間してから、教育センターに異動していました。人権教育の研修担当者をしていました。教育センターから本庁に移り、そして校長として現場に戻ってきたのでした。
他の先生たちにとってはただの新校長でしたが、ぼくにとってはやりにくいなあというのが本音でした。新校長から見たぼくは、前任校で自分の好きな独自科目をのびのびとしている教師、だったと思います。あるいは自立支援コースの担当としてのぼくだったかもしれません。
しかし、彼が教育委員会にいる間に、ぼくは研修部長をしたり、転勤してからは人権平和委員長として奨学金の担当を孤軍奮闘したりと、立場はずいぶん変わっていました。
新校長が来てからも、ぼくは引き続き自分のやるべき仕事をしていました。奨学金に関してはエキスパートといってもいいくらいの知識と経験を積み重ねてきました。
また、エンパワメントスクールの「総合」を作り上げ、安定させてきたという自負もありました。
現状維持を貫いた前の校長とは違い、新しい校長は組織改革をやりたがる、ぼくから見たら「何か足跡を残したい」という野心のある校長でした。まず、人権平和委員長から奨学金の仕事を外し、教育相談委員長や自立支援コーディネーターと同じ立場において、学年の担任室に常駐させることにしました。もちろん、ぼっち部屋は明け渡しです。私物も多かったので、荷物の移動だけでも骨が折れました。奨学金は進路指導部が担当することになり、ぼくはそちらに行くものと思っていたら、なんと保健部長に任命され、保健室に常駐することになりました。そして、保健室に常駐していた教育相談と奨学金の補助の担当者は廃止され、保健室には、ぼくと二人の養護教諭が常駐するという形になりました。
確かに、人権委員長時代は一応形だけは保健部に所属していました。しかし、保健関係の仕事については健康診断の会場設営の手伝いであるとか、生徒の整列の手伝いであるとか、いわば雑用しかしていません。保健室の年間予定を立て、保健主事として他の学校の保健部長との会合に出たりとか、すべてが初めての経験で、しかも養護教諭は当然ぼくよりも若いけれど、その道の専門家。ぼくは養護教諭の指導と、引き継いだ資料をもとに仕事を始めました。
校長は言いました。
「保健部の仕事なんて、年間を通じてやることが決まってるから、あんたならできる」
ところが新米保健部長の前に、恐ろしい怪物がすでに忍び寄っていたのでした。
新型コロナウィルス過の到来でした。
62 新型コロナウィルス過の中で
なぜ校長は「保健部は決まったことをやるだけでいい」などと言ったのでしょうか。もうすでに新型コロナウィルスは流行の兆しを見せており、新入生のX線撮影を新年度当初に行った時も、廊下に印をつけて生徒たちがなるべく離れて並ぶようにしていたというのに。
安倍総理(当時)が緊急事態宣言を発して、生徒たちが自宅待機をすることになったのは、新入生のX線撮影が終わった直後でした。教師はテレワークが推奨され、自宅でできる仕事は自宅でするように、ということになりました。しかし、保健部長はそういうわけにはいきません。生徒が感染したら、それに対応することが必要になるのです。その時に保健部長が自宅待機していたとして、自宅と職場が近ければよいのですが、ぼくは片道一時間半かかって通勤していたので、いざというときにすぐに学校に駆けつけることはできません。
二人いる養護教諭のうち一人は、お子さんがまだ小さかったため、育児のために長期の自宅待機をしました。もともとコミュ障のぼくは、若い養護教諭の先生とうまくコミュニケーションが取れずに苦労しました。おそらくその養護教諭も苦しかったのではないかと思います。なにしろ朝出勤し、夕刻退出する間、保健室で僕たち二人は一日一言も会話をすることなく黙々と仕事をしていました。そして、彼女もまたコミュ障であることがわかってきました。ぼくは保健室の仕事に関しては素人です。彼女は、一人で新入生の保健記録をパソコンにデータ化していく作業を黙々と続けていました。ぼくの方から「手分けしましょう」と声をかけにくく、彼女もまた「手分けしたいのでこちらの分をお願いします」というような依頼をぼくにすることもありませんでした。
長い二ヶ月、ただ黙っている二人。
よい関係を作るどころか、じわじわと険悪になっていくのがわかりました。彼女はぼくにも仕事をしてほしい。しかし素人のぼくには任せられない。ぼくは何か彼女を助けたい。しかし素人なので、どう助けていいかわからない。
長い二ヶ月、空気がよどんでいく保健室。
そして校長はそんな保健室に足を運ぶことはほとんどありませんでした。彼にとっては保健室の仕事は畑違いだったのです。だから、新型コロナウィルスの流行の兆しがあったにもかかわらず素人のぼくを保健部長にし、生徒たち不在の学校で全教職員に対して指針を出していくというリーダーシップを発揮することもありませんでした。
やっと六月に入り、生徒の登校が許されるようになりましたが、クラスを半分に分けて前半と後半を、午前と午後にそれぞれ別々に登校させ、全く同じ授業を午前と午後でやらなければならないということになりました。
また、生徒が帰ると、教員総出で机といすの、生徒が接触した部分を消毒してまわるのです。その作業の総指揮は、名目上はぼくでしたが実質上は養護教諭でした。だのに、彼女は肝心なところ、つまり責任の重いところになるとぼくに「次はどうしたらいいんですか、指示をください」と振ってくるのでした。
保健部長なんてひきうけるべきではなかった。
気楽だったぼっち部屋に戻りたい。
だんだん自分が追い詰められていく、それをぼくは自覚していましたが、どうすることもできませんでした。
63 保健部長をおろしてほしい
思えば苦しい一年でした。新型コロナウィルス感染症に罹患した生徒が出れば、保健所の指示で、その生徒の教室での座席表(選択授業や特別教室の座席表まで!)を提出しなければならず、その生徒と間近に話をした先生には遅くまで残ってもらわなければならず、もちろん保健部長であるぼくも帰るわけにはいきません。ただ立ち会うだけしかできることはない。くわしい話は養護教諭が全部する。彼女からしたら、ぼくは何もしてくれない部長だったのかもしれません。
やっとX線以外の歯科検診や内科検診などもできるようになったら、コロナ対策用のレイアウトで検診をしなければならない。彼女の手書きの図は、そのまま使えるほどていねいに書かれていたのですが、彼女はぼくにパソコンのワープロソフトでその図を描くように要求してきました。一から図を作るのは本当に難しかったのです。コロナ禍さえなければ、前年に使ったものをそのまま使えばいいのですが、感染症対策用に作り直したレイアウトを要項には掲載しなければならないというのです。
ぼくは家にその手書きの図を持ち帰り、パソコンに向かい悪戦苦闘していました。それを見た妻は、「この図をそのままスキャンして、プリントに貼りつけた方が見やすくてええやん」と言ってくれました。
「その図をワープロソフトで正確に作るというのは、プロのデザイナーがお金をもらってするようなことやんか」
全くその通りでした。ぼくは妻のアドバイスの通りに職場のスキャナーで養護教諭の描いた図をとりこみ、プリントに貼りつけました。
面と向かって文句は言われませんでしたが、養護教諭は不機嫌な表情でした。そのあたりから、僕と彼女は必要最低限なことしか会話をしなくなりました。保健室の空気は非常に悪くなってきました。幸い、育児休暇を経て復帰してくれたもう一人の養護教諭がクッション役としてかなりぼくに気を使ってくれたので、業務に関してはなんとか大きな失敗はありませんでした。
当番を決め、生徒たちがよく触る金属の箇所は毎日消毒をしました。放課後になると、保健部以外の先生たちも協力して雑巾と消毒液を手に校内を拭いてまわっていました。そういったことの企画もすべて養護教諭が計画立案しました。大阪府から予算が下りてきて、消毒液を噴霧する機会を購入するときは、養護教諭二人で相談し、ぼくはそれに承認の印鑑を押すだけでした。ど素人の保健部長にできることは、養護教諭の命じるままに動くことだけでした。
年度末が近くなり、ぼくは校長に直訴しました。「保健部長をおろしてほしい」と。
さすがに校長もこのままでは保健室がうまくまわっていかないと判断したのでしょう。ぼくの前に保健部長をしていた先生が次年度に部長に復帰することになりました。それなら何も僕が保健部長をする必要はなかったのです。コロナ禍で最も厳しい一年を、ぼくは保健部の責任者として右も左もわからないまま苦しみました。肉体的にも精神的にも限界でした。
ある時、全校集会で、生徒の後ろにまわって座っていたぼくは居眠りをしてしまいました。それに気づいた校長に叱責されました。
夜、ぼくの呼吸は一時的に止まっていました。妻に促され、近くの内科に行きました。「睡眠時無呼吸症候群」と診断されました。ぼくはいったいこの学校で、校長から何を求められているのだろう。ぼくはやっぱり教師には向いていなかったんではないか。
元同僚が校長になるのがこんなにつらいものだとは思ってもいませんでした。
64 あんたやったらやれる
保健部長をおろしてほしいと希望を言うと、もと同僚の校長は「担任は持つ気はないか」と聞いてきました。年齢を考えると、これが担任を持つ最後のチャンスです。「総合」は以前組んでいた先生がバトンタッチをしてくれることになっていましたので、担任業務に専念できることになりそうです。
ぼくは一も二もなく「担任したいですね」と答えました。
そして年度末が近くなり、次年度の態勢を発表する中で、ぼくの名は三年生の担任の中に入っていました。一年だけの付き合いになるとしても、これが卒業生を送り出す最後のチャンスになるのです。
人事異動で変更になる場合もあるという但し書きはついていましたが、職員会議で発表されたということは、ほぼ確定といっていいでしょう。職員全員が集まる職員会議にはそれだけの重みがあるのです。
ぼくは「学級通信」の用意を始めました。最後の担任になるかもしれないのですから、これまで担任を持った時にはできなかった心残りを少しでもなくしておこうと思ったのでした。
職員会議の数日後、ぼくはまた校長に呼ばれました。
「今度、重度障害の生徒が入学するんで、その保護者との連絡係になってもらうことにした」
唖然としました。
「職員会議で発表したやないですか。ぼくは三年の担任を持つと」
「人事異動で変更する場合があると書いてあるやろう」
「ぼくはもうその気になって学級通信を作る準備をしているのに」
「気が早すぎるな」
そういうと、校長は含み笑いをしました。何が可笑しいのか。まるで人の心をもてあそぶようなことをしておいて。
「担任はどうなるんですか」
「他の先生をあてるから」
「なんでぼくは保護者との連絡係をせんならんのですか」
「障がい児教育の経験が豊富やろう」
そして、「デュアルシステム」の担当もしてほしい、とも言いました。これは三年生の生徒たちの中から希望者を募り、インターンシップをさせたり、ゲストを呼んで、職業についての講話を聴かせるというような授業で、ぼくは全くこの授業には関わったことがなく、どうしていいかわかりません。
「ちゃんとサブになる人には経験者をつけるから。大丈夫」
そしてまた、あの、保健部長を任命した時と同じ言葉を発したのです。
「あんたやったらやれる」
その言葉に何の根拠もないことは、この苦しかった一年でよくわかっています。
つまり、彼にとってぼくは何か面倒な役割を振れる便利屋だということです。
しかも、新入生の障がい児の担当として、例の関係の悪化した養護教諭の名前もありました。チーム一丸となってもらいたいと言いながら、関係が悪化している者を同じチームに入れるのです。ぼくは彼女とのことも校長には言っていたし、おそらく彼女からもぼくについては何か聞いていたと思うのです。
破綻する。その段階で、ぼくはもう確信していました。そして、ぼくに希望まで聞き、職員会議で発表までした担任にするという校内人事を簡単に反故にしてしまう、その身勝手なやり方に対し、やりきれない思いしか残りませんでした。「デュアルシステム」は、それだけでかなりの労力がいると聞きました。障がい児担当の連絡係と両立はできない、そう主張しても、彼は決まってこう言うのでした。
「あんたやったらやれる」
65 ブログへの口出し
ぼくは長年ブログを書いています。ブログができる前はweb日記という形でした。半世紀以上書き続けています。
もちろん守秘義務についてはよくわかっていました。しかし、コロナ禍の頃のブログではけっこうきわどいことも書くようになっていました。ストレスが高じて、そのはけ口になっていたのかもしれません。
校長室に呼ばれたのはそんなときでした。「あんたやったらできる」の校長は、事細かにチェックを入れていました。個人特定できないように書いてはいたのですが、「知っているものが読めばわかる」と指摘し、書き直すように要求してきたのでした。
言論弾圧というと大げさですが、あまりにも細かく指摘するので、この人は暇なのかと思ったくらいです。もちろん、不適切と思われるところは書き直してアップし直しましたが。
彼は言いました。
「ご注進してくれる人がいるのでね」
そしてにやりと笑うのでした。
「なんで校長に言うのでしょうね。直接僕に言うべきでしょう」
そう言い返したくなりましたが、やめました。
「それは誰ですか」
聞き返してみたくなりましたが、やめました。
というのも、みな仕事が忙しく、ぼくのブログをチェックしては校長に報告するような先生が誰だか思いつかなかったのです。しいて言えば「あの人かな」と思える人もいないではなかったのですが、その人も仕事が忙しく、わざわざ校長に告げ口をする暇があるとは思えません。また、そこまでして忠誠を誓いたくなるほど人気のある校長でもありませんでしたし。
つまり、校長自身が常にチェックしていたとしか思えないのでした。そして都合の悪いことが外部に漏れると、自分に監督責任能力がないと教育委員会に判断されてしまう。そんなところでしょう。
本当のところはわかりません。しかし、前任の校長の時は、内容ではなくアフェリエイト広告をぼくが副業にしているのではないかと教育委員会から尋ねられ、ブログの広告はすべてブログを無料で提供するために運営会社がつけているもので、自分には一銭も入らないと説明し、納得していただきましたが、それだけでした。
彼が校長になってから、内容を事細かに指摘されるようになったのです。誰がブログをチェックしているかは一目瞭然です。
また、彼が別の学校に転任になった後、新しい校長からブログについて指摘されることはなくなりました。告げ口をする人がいたとしたら、新しい校長にも「ご注進」したことでしょう。
それにしても、私生活での楽しみにまで踏み込まれるのはうんざりでした。仕事では便利なコマとして動かし、私生活で書いているブログに口出しをする。ぼくは、この校長のもとではいい思い出は一つもありません。早期退職すら脳裏に浮かんだほどでした。
66 これはパワハラか
正直なところ、思い出したくない一年でした。入学してくる障がい児の保護者との連絡担当ということで、対策チームに入って、長年経験してきた知見をもとに、障がい児と保護者と医師との間に関する件で自分の意見を言ったら、養護教諭に必要以上に驚かれ、つい声を荒げてしまいました。こういう時は、声を荒げた男性の方が悪者になります。理屈ではありません。
また、「デュアルシステム」で講師として人を呼ぶにしてもコネクションはないので、「出前授業」のサイトにアクセスし、講師を探しました。謝礼を出すために事務室に手続きをお願いしなければなりません。そういったことはほとんど一人でやっていました。インターンシップ先への連絡などは相棒がいたのでそちらに任せてはいたものの、ぼくが全くタッチしないわけにはいきません。寝不足もあり、日々疲れがたまっていました。
これは自分がいけなかったのですが、障がい児の保護者と担当医と、そして学校からは担任と養護教諭とぼくが顔合わせをした時に、ついうとうとしてしまったのでした。言いたいことはたくさんありますが、うとうとしてしまったという事実は変えられません。
思えば養護教諭に声を荒げたのも、疲労とストレスがたまっていてもういっぱいいっぱいだったからだと思います。
結局、ぼくは障がい児担当からは外されることになりました。校長からは、チーム一丸とならなければならないのに、それを乱すから外すと言われました。「デュアルシステム」との両立は無理だ、できないと何度言っても「あんたやったらできる」と言ってこちらの言い分を無視した校長には、「どうです、やっぱり無理だったでしょう」と嫌味の一言も言いたいくらいでしたが、意味のないケンカを売るほどの元気も残っていませんでした。
コロナ禍のため、インターンシップの希望を出しても店舗や企業からは断られることが少なくありませんでした。仕方がないので、実習に行った生徒以外は学校近辺でゴミ拾いのボランティアをやらせたりしました。相棒の先生が、公園で見かけた乳児を連れた親の様子を見て、あるアイデアを出しました。講演や商店街、ショッピングモールにいる親子連れにインタビューをして、意識調査をしたものをまとめてはどうか、というものでした。そしてそれは地域の子どもセンターなどに冊子として配布し、読んでもらおうということになりました。
ところが、相棒の先生は奥さんが出産した時から、しばらく育児休暇に入ってしまいました。実はもう一人、生徒たちの様子を見るために自動車を出してくれていた非常勤の先生がいました。「デュアルシステム」を立ち上げた時から関わっている大ベテランで、いろいろと助けてもらいました。有効なアドバイスももらいました。ただ、育児休暇をとった相棒の仕事まではお願いできませんでした。校長にはその間だけでも誰か代替の相棒をつけてほしいとお願いしたのですが、「あんたひとりでできるやろう」「(自動車を出してくれている)非常勤の先生にやってもらえばいい」と何一つ手当てをしてもらえませんでした。
相棒が復帰するまで、まさに孤軍奮闘でした。一人では挨拶にまわり切れず、アフターケアがないと団体の方に叱られました。私は自動車を持っていなかったし、もともと原付しか免許がなかったので、機動力に欠けていたのが原因のひとつでした。
後期に入って相棒が育児休暇から戻ってきてくれたので一息つきましたが、校長は相棒の先生が育児休暇を取ることを四月の段階でもう知っていたことがわかり、それなのにぼくに障がい児の連絡担当までさせようとしていたこともわかりました。
これはパワハラじゃないのかと、どす黒い怒りがわいてきました。
さらに、いっぱいいっぱいになっていたところに、つまらないミスがまだまだ重なっていくのでした。
67 ミスが続き、そして新型コロナに感染
何かと負担の大きい「デュアルシステム」に専念できれば良いのですが、「産業社会と人間」という科目も割り当てられていました。これは前任校の「ライフプラニング」にあたる授業なのですが、4人の教師で同じ内容のものをしなければならず、他の先生の出してきた教材をこなしたり、自分も教材を作成したりしなければならず、自分のペースで仕事ができないのがきつかったのです。つい「デュアルシステム」にばかり気が行き、成績を出す締め切りに間に合わないという、これはぼくの計画性のなさが原因のミスだったのですが、そのことで教え子くらいの年齢の先生に罵倒されました。「教師失格」とまで言われました。これは本当にきつかった。それに反論できないのも、またきつかった。
「デュアルシステムと同時にやってみろ」と言い返したくはありましたが、言い訳めいたことは言いたくありません。ミスはミス。自分が責任を負うべきものです。
それでもなんとか年度末の「デュアルシステム」の発表会を無事終えほっとしました。ところが、その直後に高熱を発してしまいました。「デュアルシステム」を選択している生徒とつきっきりでプレゼン用のスライドショー作成に助言をしていたのですが、その生徒の中に新型コロナウィルスに感染している生徒がおり、マスクはしていたしワクチンも三度も打っていたにもかかわらず、うつったのでした。
かかりつけの内科で検査してもらったら、はっきりと新型コロナウィルスに感染していると判定されました。その日を起点として、翌日から二週間も外出はできず、家で僕の触ったところは妻が消毒してまわりました。それまでの疲れがどっと出たのか、その二週間はずっと寝床にいました。起きて何かしようという気にもなりませんでした。
ちょうど二週間の最終日、校長から携帯に電話がかかってきました。
「あんた、今日も休んだやろう」
責めるような口調でした。彼は起点の翌日から二週間というのを知らなかったのか、起点の日から二週間目なのに出勤しなかった僕を叱責したのです。
人の心というものがないのか、と思いました。なにしろこの二週間、一度も連絡せず、かけてきた電話には新型コロナウィルスに感染したものに対するいたわりを感じさせるものは一つもありません。「具合はどうや」の一言があればずいぶん印象が違っていたと思うのですが、そのような言葉はかけられませんでした。
具合の悪いことに、出勤可能となった翌日から高校入試が始まるのでした。まだ回復していないと感じながらも、出勤したら、ぼくにもやくわりがふられていました。受験生のうち、新型コロナ感染の濃厚接触者が一人いて、その生徒だけ別室で受験しており、ぼくを含む感染したことのあるものだけで試験監督をまわしていました。ぼくはもう立っていられなくなり、受験生から離れたところで椅子に座りました。そこからの記憶はあいまいです。自分はずっと起きていたつもりなのですが、知らぬ間に「落ちて」いたようなのです。それを受験生が保護者に言い、保護者から連絡が来て、ぼくはまたも叱責されました。自分では寝たつもりがなかっただけに、「もし寝ていたとしても、その意識も自覚もなかった」とこれは言い訳ではなく本当のことを伝えましたが、他の先生たちは寝てないと突っぱねられました。
「もし寝ていたのなら、申し訳ありません」
謝りはしましたが、二週間も外出できずに寝込んでいて、いきなり入試の試験監督をやらせるというこれもパワハラかと思いました。そんなことなら無理して出勤せず、試験期間中もずっと休めばよかったと思いました。
その時、脳裏に浮かんだのは、幻となった「最後の担任」でした。もし最初の発表のまま担任を持っていたら、ここまで苦しんだだろうかと思ったのでした。タラやレバを口にしてはいけないと思いましたが、何事も「あんたやったらできる」の根拠のない一言で扱いやすいコマのようにしんどい仕事を振った上に、病み上がりでしんどい思いをしている者に対して思いやるようなそぶりは一切見せなかった元同僚の校長。もと同僚だったので、遠慮なく動かせると思っていたのでしょう。
定年退職まであと一年を残していましたが、限界を感じ、翌年は週三日間だけの勤務に変えてもらうよう申し出ました。
それならば無茶な仕事も振ってこないだろうと思ったのですが、僕の見方は甘かったのでした。
68 ぼくにはできません
週三回出勤を申し出、受理されました。ぼくは進路指導部に配属されることが決まり、かつて行っていた奨学金の担当をすることになっていました。
ところが、またも校長に呼ばれるのです。
「今度はどんなミスをしたと叱責されるのか」
この校長のもとでの三年間、相次ぐミスへの𠮟責や「あんたやったらできる」という根拠のない理由での仕事の割り振りなどろくなことがありませんでした。自分の不注意によるというのは当然ですが、一人で二人分の仕事を抱えさせれるということが続き、すっかりネガティブになっていました。
やっぱりぼくは教師には向いてなかったんだ。
定年となる最後の年に、ぼくはやっとそのことに気づいたと思いました。
さて、校長ですが、「来年も『デュアルシステム』の担当をしてほしい」と言い出しました。
「ちょっと待ってくださいよ。ぼくは来年度は週三回しか出勤しないんですよ。『デュアルシステム』の担当をすれば、持ち時間は2日間で埋まってしまいます。それに、自分が出勤していない日に実習先から連絡が来たりしたらどう対応するんですか」
今回ばかりはてこでも引くわけにはいきません。なぜなら、実行不可能なことを要求していることは明白だからです。
校長は、いや、ちょっと待って、と必死になって考えていました。彼はどれだけ理不尽なことをぼくに押し付けようとしているかということを理解してなかったようでした。
「無理か……」
さすがに今回は彼が根負けした形になりました。というより、面倒なことを押しつけようにも、週三回勤務の者にはほとんど無理なことなのでした。
週三回勤務を申し出た時、僕は「ミスを減らすためです」とその理由をはっきりと言いました。それは、自分の容量を超えた仕事を押しつけられないようにするための解決策でもありました。
結局、ぼくは「デュアルシステム」の担当から外れました。当然です。そして四年間ぼっち部屋で続けた、いわば手慣れた仕事である奨学金の係に戻ることになったのです。
その年度末限りでこの校長は進学校の校長に転任しました。そして、新しい校長がまたも教育委員会から着任してきました。まっさらな目で僕のことを見ることのできる校長でした。
この学校での最後の一年、ぼくはほとんどストレスなしで仕事ができました。
目立ったミスもなく、教える科目はこれまで経験してきたものばかり。校長からの叱責もないし、同僚との人間関係も良好でした。元同僚だった校長がどれだけ厄介ごとをぼくに押し付けてきたか、最後の一年で実感したことでした。
69 片道一時間半
定年までの八年間、エンパワメントスクールでの経験は良くも悪くも自分の引き出しを増やしてくれました。ただ、年金受給開始までまだ五年残っています。ぼくは週三回勤務は維持したまま、定年後の再任用の際、転任の希望を出しました。
というのも、エンパワメントスクールへは電車やバスを乗り継いで片道一時間半、往復三時間はかかるということで、最寄り駅の地下鉄に乗り、乗り換えなしで勤務できる学校に転勤したいとかねがね思っていたからです。特に帰る時間、少し残業しただけで大幅に帰宅が遅くなるからでした。
その不便さをはっきりと示したのが北大阪地震でした。職場の最寄りのバス停で下車し、公園で一服つけ、団地の中の通り道にさしかかった時でした。
どん、ときました。
一瞬宙に浮いたような感覚に襲われました。団地の通り道が自動車のガレージの間にあったのが幸いし、かなり広いところで余震をやり過ごす事ができました。
出勤したら、玄関に置いてあった生徒の作品を飾るガラスショウケースが倒れ、割れたガラスの破片が玄関に飛び散っていました。
もし一服つけずに職場に直行していたら、玄関先で地震にあっていたかもしれません。
登校した生徒を帰した後、定時まで仕事をし、帰りのバスに乗ったら、いつも使っている電車の路線が運行停止で復旧のめどが立たないとバスの運転士さんが車内アナウンスをしていました。途中下車し、違う路線のバスに乗り換え、梅田に出る電車の駅までなんとか着きました。
しかし、その疲れからか、翌日は摂氏三十八度にもなる高熱を発し、仕事を休むことにしました。
こんな目にあうと、また同じ事が起こった時の対応がちゃんとできるか心配になります。
新しい校長にはその旨を伝え、次年度からの大阪市内の、特に乗り換えなしで通勤できる学校で再任用してもらいたいと希望しました。
次年度からは朝はゆっくりできるかも、と転任先の内示が出るのを待ち侘びていました。
そしてついにその日が来ました。
校長が、転任先を伝えました。
70 進学校へ
再任用の転任先を校長から告げられた時、僕はしばらく絶句してしまいました。
というのも、エンパワメントスクールへの通勤時間とほぼ変わらない学校だったからです。ぼくの希望は全く通っていませんでした。
しかも、その学校は、「あんたやったらできる」とエンパワメントスクールで面倒な仕事を次々と押しつけてきた、あの校長が転任していった先だったのです。
というわけで、四月から、新しい学校に通勤することになりました。便利になったのは、通勤の際、梅田を経由することだったということでしょうか。地下鉄の駅と阪急の駅の間にはけっこう距離があり、いい運動になりました。また、途中にはちゃんとした書店があり、阪神百貨店にも近いので年末の買い物や大好きな阪神タイガースのグッズを買いに行くのにも便利になりました。
その学校は典型的な進学校で、就職をする生徒は皆無。もしいたとしても公務員試験を受けるというような具合で、これは今まで体験したことのない学校です。共通テストを意識した授業や、入試問題を教材に使うというようなことは、今までほとんどしたことがありません。
転任してすぐ校長に呼ばれました。そして、生徒にブログを読まれても問題ないようにしなさいと釘を刺されました。なにしろ進学校の生徒たちは教員の卒業した大学を調べたり、どんな卒論を書いたか調べたりするからだそうです。それにしてもさっそくぼくのブログをチェックしているのにはあきれてしまいました。今度は「同僚からのご注進」なんて手はききません。転勤したばかりの再任用教師のブログをチェックする暇なんてない学校でしたからね。
なぜ大阪市内の学校に転任させてくれなかったか、その事情も尋ねました。
週三回勤務の先生の場合、必ず二人一組にしないと教員定数の条件を満たさないからで、今回僕がその学校に転任となったのも、そういう事情があるからでした。
彼は言いました。
「再任用の場合、五年間ここで頑張ってもらわなならんのだから、若い先生に尊敬されるようになってもらわないとな」
内心、かちんときました。「尊敬される」というようなことは、意識してできることでしょうか。自分のできることをやった上で、若い先生たちがそれをどう受け止めるか、ではないでしょうか。
「大ベテランの先生がいるので、その先生はリスペクトしないといけない」
これも意味が分かりません。ぼくはいつも自然体で同僚と接してきたので、相手を侮ったり必要以上に恐れたりしたことはありません。自分の目でその人をよく観察し、その行動から、どう接していけばいいのか少しずつ手探りをしながら人間関係を構築していくというのがぼくのやり方で、「リスペクトすべき人」などというようなレッテルを最初につけるのは一番いやなやり方です。
逆に言えば、この校長は常に人をそうやって色分けし、序列を最初に作ったりしてから人に接していくというタイプだったのでしょう。もしかしてそのベテランの先生にマウントをとろうとして失敗し痛い目にあったから、そんなことをぼくに言ったのかもしれません。そこはもう想像するしかないところです。
旧制中学校時代からある古い学校で、後者の横には同窓会館があります。後者は無計画に増築したため、迷路のような構造になっていて、校内のどこをどう動けば目的地に着くのか、転任当初は迷子になりそうでした。
バリアフリーなんて関係ない構造で、エレベーターがないのにも驚きました。
ありがたいのは職員のデスクは教科別の準備室にあり、週三回の出勤で、校長と顔を合わせることもほとんどありませんでした。
問題は生徒との距離感。授業の展開。本格的な受験指導など意識しないでよい学校にずっと勤務していただけに、それが新たな試練となってきたのです。
71 生徒との距離感
思えば、進学校であるということを意識しすぎていたのでしょう。教科書の内容はすべてきっちりと説明しなければならないと思い、自分で自分を窮屈にさせていたように思います。
総合学科もエンパワメントスクールも前後期制で、三学期制の学校は十数年ぶりだったので、採点をするペースも変わってきました。しかも「観点別評価」の導入で、成績を出す方法がすっかり変わってしまっていたため、一学期末はかなりアバウトな成績のつけ方をし、観点別の評価と評点が合わないと次々と指摘され、まわりの先生たちに多大な迷惑をかけ、またも校長の叱責を受けました。もっともこの「観点別評価」は現場では不評でした。進学校では成績をつけるのにはまず定期考査の得点が最優先されます。しかし、新しい観点別評価では、定期考査の得点が低くても、課題の提出などでカバーできてしまいます。そして、そういうところに関しては進学校の生徒たちは敏感で、提出の漏れなどはありません。学校には教務内規というものがあり、成績のクラス平均はある程度の範囲におさめることになっています。あまり平均点が高くなりすぎてはいけないのです。いかにして平均点を下げるのかが難しい。高得点を取っているのに成績を下げられる生徒が出てしまうのです。そういう生徒は職員室にその理由を質問に来ます。それに対し、相手が納得できる根拠を示さなければなりません。進学校にはまったく向いていない制度でした。
年輩の教師でも新しいやり方に順応していかなければならないのですが、昔なら特に問題にならなかったことでも、新しい制度が導入されるたびに縛りが厳しくなってきてしまい、苦しい思いをすることもありました。
生徒の授業アンケートの数値が低いと校長に指摘された時は、どう返答していいものかわかりませんでした。自分なりに、生徒に考えさせる独自の教材を作ったり、映像を見せたりして工夫はしていたのですが、それが通用しなかったのかと、ネガティブになっていきました。
ただ、健康にはよい学校だったかもしれません。学校の近辺は長い坂道ばかり。エレベーターがないので、複雑な構造の校舎の階段を何往復もし、通勤時の乗り換えの際に歩く距離も長くなりました。
これまで腰回りがきつかったズボンを少し楽にはけるようになりました。人間ドックでお腹まわりを測ってもらったら、確かに短くなっていました。
生徒指導面ではそれほど手がかかることはありませんでしたが、生徒との距離感が遠いと感じることが多かったのです。年齢差があるということもありましたが、アニメや漫画の話題をふっても、食いつきがあまりよくありません。深夜アニメなど見ている場合ではないという生徒が多かったということでしょう。
また、エンパワメントスクールの生徒は初めて顔を合わせた時にも非常に人なつこく、向こうから話しかけてくれることが多かったのですが、この進学校では、なかなか打ち解けてくれませんでした。ぼくはコミュ障気味なので、自分から生徒たちになれなれしく話しかけたりするというのが苦手です。生徒たちはなかなか向こうから距離を詰めてくれないし、打ち解けた雰囲気を作るのも難しいことでした。
定期考査の試験問題は、過去の入試問題を入れてみたり、新聞の社説を読ませてその内容について書かせたりと、かなり工夫が必要でした。
長年家庭教師をしている友人がいたので、「難しい問題の作り方」をたずねたりもしました。
こと授業の難易度に関しては、それまで僕のもっていた引き出しの中身がうまく使えないとあがいてばかりでした。同じ科目を教えているのは新任の先生で、僕が相談しに行くというよりも向こうから相談を持ち掛けられる立場にいました。
年輩の教師というのに、中身は新任の教師とそう変わらないのではないか。十数年の高校での指導は何だったのか。
ぼくはやっぱり教師に向いていなかったのではないかという思いが強くなってきた転任一年目でした。
72 お勧めはハスカップゼリー
転任二年目、校長が代わりました。やはり教育委員会から校長になって現場に戻ってきた人でしたが、僕のことを白紙で見てれるという意味では、腐れ縁の元同僚の校長との間にあった微妙な関係に悩むことがなく、少し気が楽になりました。最初の面談でもよく話を聞いてくれたし、安心して授業に集中できました。「公共」の授業でコンビを組んだのは大ベテランの「リスペクト」しなければならないと言われた先生でしたが、お互いのキャリアを尊重し、それぞれが相手のことを信頼して自由に自分のプランで授業ができるという意味では、やはりやりやすかったと言えるでしょう。むろん「リスペクト」はしてましたけれど、ごく普通に接しても別に問題はありません。あの前校長の「リスペクト」発言はいったい何だったのでしょうか。長年この学校で仕事をしてきたベテランに対し、現場から離れていた上にこの学校のことを一から学んでいかねばならないというコンプレックスでもあったのでしょうか。
授業では、僕が受け持ったのは理系のクラスの生徒が中心でした。共通試験で最低限やっておくべき内容を抑えつつ、比較的自由に授業を進める事ができました。
修学旅行は北海道に行くというので、「私のお勧め、北海道グルメ」なんて話もしました。修学旅行の引率やら下見やらで何回も北海道には行っていたので、そこでおいしいと感じたものを三点お勧めしました。「ハスカップゼリー、とうきびソフトクリーム、鮭の親子丼」です。まあ、気楽な雑談だったので、その話はそれきりになっていたのですが、あるクラスの男子たちが修学旅行みやげとして「ハスカップゼリー」を二つもくれたのには驚き、そして嬉しさもひとしおでした。一気に彼らとの距離が縮んだ思いでした。
そうか、これでいいんだ、と思いました。入試のことなどにとらわれ過ぎず、自分の知識や経験を総動員して、一つの項目の内容を深めていけばいいんだ、と気づいたのです。
成績を出すのにも慣れました。エクセルの表計算の数式を工夫して、手早くすませる事ができるようになりました。
これで来年度はもっと自分の色を出せるぞと少しずつ自信が出てきました。
しかし、その思いは一気に吹き飛びました。
年度末、出勤しないでいい日にテレビを見ながらくつろいでいると、校長から電話があり、来年度は別の学校に転勤するように内示が出たというのです。
進学校の指導はあまりにもあっさりと、二年で終わりを告げたのでした。
73 古巣の同僚との再会
思えば前校長はぼくに対し、前の学校でもまるで根拠のないことを言い続けていました。
新型コロナウィルスの流行時に保健主事に任命した時はパンデミックの兆しがあるにもかかわらず「保健部の仕事は年中行事の繰り返しやから大丈夫」と言い放ちました。
インターンシップである「デュアルシステム」担当と障がいのある生徒の保護者の連絡係を兼任させたときは「あんたやったらできる」と断定しました。
そして次の学校で再会した時には「あんたは五年間ここで仕事をするんやから若い先生に尊敬されるように」と言いました。
そこで疑うべきでした。五年間、この学校に在籍するかどうか、この校長は根拠があって行っているのか、と。あるいは「本当に五年間異動はないんですね」と念押しをしておくべきだったのかもしれません。
新校長の口から転勤を告げられた時、頭に浮かんだのは前校長の顔でした。ああ、またやられたな。言葉の軽い人の言うことを真に受けたぼくが馬鹿だった、と。
転勤になった理由は定かではありませんが、次の学校に転任したら、週三回勤務の再任用の先生がぼく以外には一人だけしかいませんでした。しかもその人は社会科の先生でした。つまり、パズルのピースを当てはめるには、再任用で二年だけしか勤務していないぼくを転勤させ、長く続いて在籍している人を残す方が都合がよいということだったのでしょう。乗り換えなしで大阪市内の学校に異動させてくれたなら、それはそれであきらめられたのですが、十五分くらい通勤時間は短縮されたとはいえ、乗り換えの回数が増える転勤にはまいりました。こちらの希望などどうでもよいのでしょう。
四月、僕は新しい学校に出勤しました。そこで、何人もの先生から声をかけられました。ぼくが以前在籍していた二つの高校でいっしょだった先生が何人も在籍していたのです。
人間関係の構築で毎回苦労している僕でしたが、そちらの方では比較的ストレスが低そうでした。ただ、よく似たことをしていても、学校ごとに微妙にルールが違うということはよくわかっていましたから、当面の課題は「新しい学校のシステムを知り、一年かけて慣れること」でした。これまでの経験から、その学校に慣れるまでには最低一年はかかります。年間予定のサイクルを経験しないと、次々と戸惑うことが現れてくるのです。
そして、最も大きな問題があります。それは、授業のレベルをどこに持っていくか、でした。こればかりは生徒と実際に接していく中でしかわかりません。偏差値だけでは見えてこないものは多いのです。そして、新しい勤務先で僕の前に立ちはだかったのは、その、生徒の姿勢だったのでした。
74 教師としての目標とは
思えば、大阪府の高校教諭採用試験に合格してから定年後の再任用に至るまで、僕は常に何らかの「目標」のある生徒たちと接してきました。
養護学校では、障がい児の自立という目標がありました。保護者のニーズも、自分たちが逝った後、子どもたちがどのように生きていくのかということに心を砕いていました。
一般の高校に転勤しましたが、そこは「総合学科」という特別な学科の高校で、自分の興味関心はどこにあるのか、自分は将来どのようなことをしたいのかということを常に考えるようにカリキュラムが組まれていました。また、人権教育推進校だったため、常に多様な生き方、多様な学びを意識するように指導してきました。
次のエンパワメントスクールでは、中学校で引きこもっていたりした生徒も含め、学び直しという目標がありました。いわゆるセーフティネットという位置にいたのです。そこではいかにして生徒に自信をつけさせ、ものを考える習慣をつけさせるか、そして卒業した時点で、ちゃんと高校を卒業しただけの実力をつけさせ、自尊感情を持たせるという目標がありました。
定年後の再任用で転勤した学校は、はっきりと「上位の大学」に合格することが目標としてありました。大学入試を常に意識した授業をしていくという、これまでにない経験ができました。
ところが、新しく転勤した学校には、その目標が明確でないという課題がぼくに突きつけられたのでした。生徒たちのモチベーションは高くはなく、それでいて一から学び直そうというような意識もない。なんとなく入学し、なんとなく授業を受けているという、そんな雰囲気の生徒が多く、そういった生徒たちにやる気を出させるためにどうすればいいのか、模索しています。
転勤して一年たちました。生徒のモチベーションをあげるにはどうすればよいか。授業の内容に興味や関心を持ってもらうにはどうしたらよいか。生徒たちに身近な話題から入るのは一つの方法ですが、内容を深めていくととたんに関心がなくなる生徒もいるのです。
私語ばかりしていたり人のものを取って遊んだりしている生徒がいました。その生徒に「君は何をしに学校に来ているのか」と問いかけました。彼は言い放ちました。
「遊びに来てるんや」
その生徒は一年で退学しました。とはいえ、出席しているならば、何か学んでもらいたい。それでも最初からその気がない生徒に対してどうすればよいのか。
学び直しを目的としたエンパワメント・スクールの生徒には、「やり直したくて入学してきたんやろ?」といえますが、普通科の学校ではそれは通じません。こうなるともうお手上げです。ぼくの引き出しには遊びに来ている生徒にやる気を出させるという材料がないのです。
着任してすぐ、なんとなく授業を受けに来ている生徒たちに対してどういう授業をすべきかと考えている時、「僕は本当に教師に向いていたんだろうか」という疑念が浮かんできたのです。
採用試験に合格した時点で、僕は教師として生きていっていいのだと認められたのだと思っていました。しかし、ここにきてほんとうにそうだったのかという思いが募ってきたのです。
ぼくは、現在に至るまでのことを思い出しながら、文章にまとめていくことにしました。その文章が完結した時、その疑念に対して何らかの答えが出るのではないかと思いながら。
さて、本当にぼくは教師に向いていたのでしょうか。
75 身を切る改革によって切られた
ぼくは大上段に構えて教育論を語れるような教師生活を送ってきたわけではありません。
失敗も多くしてきたし、なにより「ものかき」を今もあきらめきれずにいて、学校という職場で教師であることに全力を尽くしてきたわけでもありません。
ここまで読んでいただいた方にはおわかりだと思いますが、講師時代は自分の専門科目を担当できなかったり、講師という立場なのに中学校では担任を持たなければならなかったり、やっとのことで採用試験を突破したと思ったら、障がい児教育という未知の世界に置かれたり、高校に転勤できてやっと教員として本来の目標に向かって進めたというのに、なぜか将来の幹部候補みたいな扱いを受けたり障がい児の自立支援コースの担当をしなければならなくなったり、通勤に時間のかかる学校に次々と転勤させられたり……。
ぼく自身の力量のなさもあったのでしょうが、どうも希望を管理職に申し出れば、それとは逆方向の位置に置かれることが多かったなあというのが偽らざる気持ちです。
むろん「置かれた場所で咲きなさい」という言葉通り、そこで花を咲かせようとはしてきました。やっと根付いたかと思うと、花を咲かせる前に根元から移植ごてで別な場所に植えられたりしたのでは、花の咲かせようもありません。
それでも養護学校から高校に転勤したころは、自分なりに充実した日々を送れていたのです。ところが、ポピュリズムを味方につけて知事に選出された人物は、「公務員は給料をもらいすぎ。身を切る改革を」などと言って給与を軒並みカットするという暴挙に出ました。今思うと、このことがはっきりとモチベーションの低下につながったと言えるでしょう。
どんなに休日返上で働き、遅くまで残って採点などをし、慣れない部活の顧問として自分の時間を奪われたりしても、それに値するだけの評価としてそれなりに高い水準の給与を得ていたのです。それが、どんな思いで、どんな風に仕事をしているかも知らず、一律に給与カットをされてしまった。多くの教師がそこで熱意を失ったのではないかと思います。一生懸命仕事をしても、為政者の人気取りのための見せしめになるのは納得がいきませんでした。その人物は今はテレビのコメンテイターとして好き勝手なことを言っているようですが、彼の顔がテレビに映っただけでチャンネルを変えてしまいます。
なんでもかんでも人のせいにしてはいけないことは承知のうえで、書きます。
元府知事で元市長で地域政党の元代表だった彼が、大阪の教育というものを混乱させたと、僕はそう思っています。
ぼくが教師に向いていなかったのではなく、僕のような教師に力を発揮させる場所を奪われた。身勝手な言い分かもしれませんが、全く見当違いのことを言っているとは思っていません。それくらい、彼の根拠のない「教育改革」なるものは大阪府の全体の教育の低下を招いたと、僕にはそう思えてならないのです。
76 教育とは長期的なもの
長々と書いてきたこの文章もそろそろ終わりに近づいてきました。
今の自分の立ち位置を確かめるために書き始めたのですが、本当にいろいろな経験をさせてもらったと、書きながら感じています。
ぼくなりの教育論を記すことで、この文章の締めくくりとしたいと思います。
まず、学校教育というものは即効性のあるものではないということです。エンパワメントスクールでは、「学び直し」を生徒にさせたわけですが、個々の生徒がつまずいたのはどこなのか、それを見極めておかないと、結局中学校で勉強ができなかったことの繰り返しに終わってしまいます。
進学校で教えていて、その前の年度まで教えていたエンパワメントスクールの生徒との違いを感じたのは、長期的な目標があるかどうかということでした。どうしても勉強が苦手な生徒たちは、刹那的に行動しているように感じられました。進学校で理系の生徒たちに社会科を教えていると、たいていは内職で数学の勉強をしているのが目に入ります。それでも定期考査ではそれなりの点を取るのです。自分に必要なのは数学で、社会科の授業は最低限のことだけしていてよいと、そういう割り切りができるのです。ただ、推薦入学では高校時代のトータルの成績が合格を左右しますから、悪くても「3」は取っておきたい。そのためにはどうすればよいか。そこまで考えて内職をしているのです。
エンパワメントスクールの生徒たちの多くは、今、何のために授業を受けているかということについてあまり深く考えていない、あるいは教師の雑談から何か意味を感じ取ろうという意欲がないと思われました。「今」しか見えていないのです。「総合」という科目で漫才をやらせたりしたときに、そのねらいをちゃんと説明したはずなのに、「なんで学校でこんなことをしなければならないんや」と文句を言われたことがありました。コミュニケーション能力や、発想の転換や、「人を笑わせる」という目標を設定したらそのためにどうすればよいのか考えるべきかという、教科書の丸暗記ではつかない力をつけてもらおうと企画し、それをちゃんと理解してくれた生徒もいました。
大阪の教育改革を標榜した元知事に欠けているのは、こうした長期的展望だったと思います。全国規模の学力テストで大阪が下位に沈んでいたら、学校ごとに競争させて数字をあげるように指示しました。
違うのです。
知的障がい児に力をつけさせても、いわゆる健常児とまともに張り合えることはありません。そうではなくて、その生徒たちを取り巻く環境を変えていくか、今の環境に合わせて、最低限出来ることを増やしていくか。そこを理解していないと、重度の知的障がい児に学校に通わせる意味はありません。そして、それは、小学部一年から高等部三年までの九年間だけでは足りません。生涯かけて取り組まなければならないものだと思うのです。
エンパワメントスクールの生徒たちも、わずか三年で大学で学ぶ力をつけられるわけではありません。逆に、進学校の生徒は難関大学の入試を突破してそれで終わりではなく、その後どうするかという展望がなければ合格してもあまり意味はないと思うのです。
一時、「生涯学習」ということが盛んに言われましたが、それは、この社会に生まれ落ちた乳児の段階から始まっているのだという認識ではなかったのではないかと思うのです。
文部科学省は三年ごとに指導要領を改定し、現場はそれに振り回されています。文部官僚もまた、長期的な視点を欠いていると言わざるを得ないのです。
77 いい加減でおおらかな時代
昔話を少しします。ぼくが定時制講師を振り出しに教員になったころは、出勤退勤時にタイムカードをスリットするなんてことはありませんでした。京都でも大阪でも、出勤簿に印鑑を押すだけでよかったのです。無精者のぼくなどはついつい毎日印鑑を押すのさえ面倒くさがり、月末になって事務長から「そろそろ今月分のハンコを頼みますよ」と言われたりしたものです。
定時制は本来は昼過ぎに出勤するというのが建前でしたが、結構ゆっくり出勤していました。それでも何も言われませんでした。そのかわり、結構夜遅くまで野球部の練習に付き合ったりしたものです。フレキシブルと言えばフレキシブルでした。
夏休みは、年次有給休暇をとらなくても、「研修願」というものを出せば「自宅研修」という名目で家でゆっくりできたものです。その「研修願」には研修内容として「教材研究」と書けばそれでよかったのです。
だからでしょう、当時の教師は過労死であるとかそういう問題はほとんど発生していませんでした。
そのうち、「教員の出勤状況の調査」という名目でタイムカードをスリットするようになりました。ただし、出勤時だけで、退勤時はスリットする必要はありませんでした。それが退勤時もスリットするようにルールが変わると、勤務時間にちゃんと来ているかどうかということを記録するシステムに変わりました。そして一分でも遅くスリットしたら、その分、一時間単位で年次有給休暇をとらなければならなくなりました。退勤時も一分でも早くスリットしたら、あとからやはり時間休をとらなければならなくなりました。
部活の指導は教師がボランティアで行っているということになっていました。実際、部活の顧問をしていない先生もいたりしたくらいです。それが、公休日に部活の指導に来たら、ちゃんとタイムカードをスリットし、「特別勤務手当」請求するか、休日の振替をしたりするように変わりました。ただし、「特別勤務手当は」アルバイトの時給にも満たない程度のものでしかないので、たいていの先生は振替休暇をとります。ただし日常の業務が忙しいため、なかなか振替休暇は取れなかったりするのですが。
夏休みの自宅研修には、「教育センターが認めた研修を受けること」というようにルールが変わり、教材研究と書いたら、その作ったり調べたりした教材について事細かに記入しなければなくなりました。
昔の教師はいい加減だったのだと思う人もいるかもしれませんが、いざというときには休まずに深夜まで学校に残って仕事を続けたりしました。教師は単なる公務員ではなく、特殊な業務だとされていたのです。なので、勤務も授業も教師の自主性に任されている部分が多かったのです。
それがよかったと言い切ることはできません。そのゆるさに甘えていいかげんな仕事をしている人もいました。熱心に指導する先生にしわ寄せがくることもありました。それでも、別に問題はなかったのです。
体罰が当たり前だったり、生徒に対していばり腐った教師もいました。それもまた許されていました。だから。昔はよかったとはぼくには言えません。
ただ、仕事に余裕があり、追い詰められたりすることがなかったのは事実です。
大阪では自己申告制といって自分で目標を立て、それが達成できたかを年度末に振り返る制度ができました。それはあくまで教員の資質向上のために行われていたはずでしたが、いつしか校長や教頭が教諭の勤務評定をするための資料になってしまいました。
若い先生たちはそれが当たり前だと思っていますから、特に抗議の声はあがりませんが、ぼくたちのような古手にはとっては年々縛りがきつくなっていると感じずにはいられません。だからでしょうか、年々教員志望者が減っているということです。昔に戻せとは言いませんが、教師をどんどんコントロールしようとする動きには嫌なものを感じてしまうのです。
最後に ぼくは教師に向いていたのか
長々と書き連ねてきたこの文章も、一区切りつけることにしましょう。
書かなかったこと、書けなかったこと、書き過ぎたかなということなどいろいろとありましたが、少なくとも生徒からは見えない教師の姿は少しでも見えたのではないかと思います。
三十年を超す僕の教師生活は、まさに山あり谷ありという感じでした。こうやって振り返っても、思い出されることはたくさんあります。いいことも、悪いことも。
そして、こうやって振り返って思ったのは、僕は教師という仕事にすべてを賭けていたわけではなかったということです。時には書評家、時には演芸研究、時には童話作家。兼業というほどの収入があったわけではないのですが、教師以外の「仕事」にも力を入れていたのは確かです。
そして、学校の同僚と話をしているよりも同世代の作家や評論家たちと話をしている時の方が楽しかったのも事実です。自分がいるべき場所はこちらだ、そう思いました。
しかし、教師という仕事は、クリエイティブな面はあまりなく、教科書をベースに若者たちにいろいろな知識やものの考え方を伝え、自分が何かするというよりは、生徒たちが何かをするためにサポートするという立場でした。
ぼくは昔芸人になりたかった。教壇に立っている時のぼくは「芸人」でした。ネタを仕入れ、それを自分なりにアレンジして観客に披露する、そんな授業ばかりしてきました。問題は、芸人の話芸を聞く観客は聞きたいという思いでこちらを見ているのに対し、生徒たちは必ずしもそうではないということで、そういう生徒もひきつけるような芸風を確立するには至りませんでした。
とりあえず、今のぼくにできることは何か。やはり教師です。キャリアをつむことにより、テクニックを身につけ、引き出しを増やしていきました。今はその過去の遺産を食いつぶしているといったところでしょうか。
ぼくは教師には向いていなかったかもしれません。
しかし、向いていようが向いていまいが、長年の積み重ねで、ぼくは「教師」になっていったということが言えるのだと思っています。
たぶん、今後もぼくは非常勤講師という立場になったとしても、教壇に立ちながら、それでも書くことはやめないと思います。教師という役を演じることはもう完全に身に着きました。教師でなければ味わうことのできない喜びもたくさん経験してきて、この仕事を選んだことを後悔はしていません。ただ、今の学校教育のあり方には疑問もありますし、着いていけないときもあります。それでも、三十年以上、この仕事で飯を食ってきた、その蓄積が、僕を「教師」らしくしてきたのでしょう。
教育とは何か、教師とは何か。様々な立場の人たちがそれぞれの観点で語ります。小説、漫画、映画やテレビドラマにアニメ、いろいろな媒体で途切れることなく学校を舞台にしたドラマが描かれます。それはなぜか。
たいていの人が学校に通い、生徒だったからだろうと思います。ぼくの目から見たそれらは、たいていが生徒の視点から描かれたもののように思われます。たとえ主人公が教師であっても、やはり生徒から見た教師像が反映されているように思うのです。
ぼくは教師に向いていなかったのかどうなのか。生徒の目から見てどうだったのか。現役の現在教えている生徒ではなく、かつて教えていた生徒たちにたずねてみたいと思っています。
どちらにせよ、生徒たちから見たぼくは「先生」でしかないわけです。だから、ぼくは生徒たちによって教師になっていったと言えるのではないかと思っています。
だから、本書を「ぼくを教師にしてくれたすべての生徒たち」に捧げたいと思います。
追記
ここに書いたことはぼくの目から見た「事実」で、書かれた人たちから見たらまた違うものになると思います。また、関係者が読めば、文中に登場した人たちは特定できてしまうでしょう。それについての責任はすべてぼくにあります。