めいおう荘の死神王子
めいおう荘の死神王子
あらすじ
中学二年生の白山コユキは、失踪した親友、甲田紅子の手がかりを探して、ボロアパートめいおう荘へ辿り着く。しかしそこに紅子失踪の糸口はない。だが、そのアパートにいた謎多き少年テトラ君と、その仲間の老人と少女と、普通の住民竹村が力を貸してくれることになる。
テトラ君と知り合ってから、コユキの周りはなんだか不思議な気配が漂う。でもそれらは、本当はいつもそこにあったのに、コユキが気が付かなかっただけなのかもしれない。
そしてどうやら、紅子の失踪は、テトラ君が探している『魔具』と呼ばれているものが関わっているのかもしれない。そして、コユキはテトラ君が参加している魔具を巡った争いにも巻き込まれてしまう。コユキは大事な友達紅子を見つけることができるのか、そしてテトラ君は一体何者なのか。
本文
プロローグ1 人はお話を作り出す
「ねぇ知ってる?」
子ども達の囁きは止まらない。
「なになに」
「なんの話?」
「踏切にいる霊」
「第四公園で夜一人で揺れてるブランコ」
「両手がトンカチの小人」
噂話は言葉だけに留まらず、メール、SNS、口コミ、時代と共に拡がり方を変えていく。
本当の、一番はじめのお話はどんな風に始まったんだろう。
例えば、人、特に子どもは、暗いところを見ているだけで何か見つける。じっと暗闇を見ていると見えてくる、大きい口を開けたガマ蛙。クローゼットの奥に人がいるような気配。でも、怪物に見えたものは本当はもしかしたら、ただ、部屋に脱ぎ捨てた上着だったかもしれない。押入れの中の冬用の毛布だったかもしれない。
天狗だって河童だって、昔から言われているお話は、本当はどうだったんだろう。
次の人、次の人に渡されていく内にお話の正体は少しずつ姿を変え、元の形がわからなくなっていく。お話の元の素は、そんなこと望んでいなくても。
いつの時代も人々は、嘘か本当かわからなくてもお話が好きだ。
街中灯りだらけで、暗いところは随分減った。インターネットには色んな正体を暴いた情報もたくさんだ。
それでも、お話は生まれ続ける。人々は噂し続ける。
ということは、やっぱり本当に、不思議なことが起こっているからなんじゃないだろうか。
何かいる、と怖くなって灯りをつけたら、なんだ、それは倒れていたぬいぐるみだった。とホッとする。でも本当は本当に、気のせいだったんじゃなくて、君の「何か変だ」という直感は正しかったのかもしれない。
気が付かなかったすきに、隠れた者もいたとしたら。この世のものとは違う生き物…。それだけこの世はきっと、君の見てるもの、知ってることが全てではないんだ。
「ねぇ、こんな話は知ってる…?」
喪服のような白と黒の服を着た、銀色の髪の男の子。子供みたいな姿をしているけれど、何歳かはわからない。
「私のお父さんも見たことがあるかもって」
「私のおばあちゃんも知ってたよ」
その子の目には死の呪いがかかっている。その目をじっと見ていると、自分の死ぬ時の姿が見えてしまうらしい。
笑うと口は牙だらけ。その子が来ると、街の人はみんな家のドアをしっかりと閉める。
不幸を呼ぶ。死を呼ぶ。
「死神王子」
「僕は目があうと死ぬって聞いた」
「やだ怖い」
「目を見たらダメだ」
「どうして人を死なすんだろう」
「魂が欲しいんだって」
「僕は死んだ人の肉を食べるってきいたよ」
「それだったかも」
「だよね」
「もう怖い、この話やめない?」
それとね、死神王子は、奇妙なお供を連れていて、宝物を探しているんだって……。
お話は今日もこんな風に、おひれせびれがついて、いろいろな街を漂っている。
プロローグ2 喪服の男の子は宝物を探している
とある田舎のささやかな温泉街。硫黄の香りがあちこちからのぼっている。
ガスで景色は、霧が立ち込めているようにはっきりとしない。いつかの噴火で堆積した岩石が、ガラガラ…と崩れる音を立てた。
ここは噴火山の頂だった。火口にごく近い。普通登れるのはもっと山の手前まで。ここに人の立ち入りは禁止されている。
そのはずなのに、火口を覗き込むように一人の少年がいた。
白いシャツに、黒いズボン、黒いネクタイをかっちりと結んでいる。
普通の登山でも荒々しい道だから、本当ならもっと装備が必要だ。とてもじゃないが、こんな普段着、葬式のような格好ではとても無理だ。
さらにこの辺りは熱がくすぶっているはずなのに、この男の子は、底冷えするような空気をまとっている。
そして彼は、たいしたことではなさそうに、水たまりでものぞいてるみたいに、火口にいる。火口は今は大人しくしているが、いつ目覚めてもおかしくない活火山である。ひとけのない、過酷な岩場に少年一人なんて、異様だ。
いや、一人ではなかった。
「どうですか坊ちゃん、ありそうですか」
どこから現れたのか、モヒカン頭の老人が、少年の横に立つ。よく見ると、日傘を刺した少女もいた。
少年の髪の毛、銀髪のつむじのあたりが、ぴょこんと、一束立ち上がる。
「うーん、あるみたいだね……」
何かを探している。
「わしが行きましょうか」
「いや、いいさ、行ってくる」
そういうと軽く、今まさに活動してもおかしくない火口の中に少年は、横断歩道を渡るくらいの気楽さで一歩踏み入った。
火口の中に落ちていく。大きく開いた山の口に飛び込み、光は届かず姿は見えない。老人と少女は、少年が飛び込んだ穴を見下ろしている。
風の音が鳴り響いた。
しばらく静かに待っていると、中からより激しく煙が登ってくる。
「おぉ!」
老人が片手を伸ばして、ふわりと地上に戻ってきた少年を支えようとした。
少年は、噴出したガスに乗ってきたように戻ってきた。
「ふぅ」
少年が髪をゆすると、前髪が払われ瞳が見える。その瞳は、夜空を閉じ込めたような。深い藍と、闇の色。そこに星がちりばめられたような、幻想的な美しさ。
少女が少年に日傘を差し出して、ハンカチで顔や体についた煤汚れを払う。
「ありがとう」
「どうでした?」
「うん、あるにはあったんだが……」
少年は手のひらを広げた。その中には、輝きを放つ、ごくありふれたキーホルダーがあった。ふもとのお土産屋さんで買えそうな、ごくごくありふれた品だ。しかし古そうな。
しばらくすると、その光はおとなしくなった。
『〇〇山 標高〇〇◯メートル』と文字が彫ってある。
「おそらく、父上と母上が旅行先で買った思い出のキーホルダーか何かだろう。たいして重要な魔具ではなさそうだ」
少年は焦げた前髪を触り、ため息をついた。
「どおりで、兄上も姉上もまったく見向きもしてなかったのは……価値のないものだったということか」
「しかし……父君も母君もお喜びになるでしょう。思い出の品でみなぎる力もあるでしょうに」
片腕、片目のモヒカンの老人はにっこりと笑った。
「ららもそう思う。ららだったら嬉しい」
ぱっつんヘアーで、身体中に鱗模様のある女の子も笑った。
「ふふ、そうだね、ありがとう」
少年はキーホルダーを見て、少し落ち込んだようにも見えたが、二人が励ましてくれるので笑顔を取り戻した。
「どうでしょう、せっかくですから街の温泉にでも浸かっていきませぬか」
「あぁ…いいね。バン爺を労るためにもそうしていこうか」
「あんまりお金がないよ、坊ちゃま」
「う……まぁでも、日帰り温泉くらい寄れるだろう」
「ららは温泉入らない」
「そうだね、ららは全身タトゥーみたいにみられちゃうだろうからなぁ」
「違う!ただ熱いお風呂キライ!」
「そっかそっかごめん……」
アッハッハと、この荒廃した火山口で、不自然なほどのどかな会話であった。
「じゃあ一休みしてから、めいおう荘に帰ろうか」
少年の言葉に、少女と老人は頷いた。
少年と老人は、少女が火口の熱を利用して作っておいたゆで卵をむしゃりと食べながら、ぼちぼちと岩場を歩き出した。他に人の気配はない、雄大な山を。
風が強く吹きつける。
そしてそのおかしな三人組は、気がつくと煙に溶けて消えたように、いつの間にか姿を消していた。
めいおう荘というアパート
夕方6時ごろ。五月の今は、極端に暗くなるような時間ではない。それなのに、その建物へ近づけば近づくほど、強い風が吹き、雲が動く。真夜中のような暗さになるのが異様だった。空気も何故かゾッとするような冷えがある。
この状況の何もかもが、ここへ近づくことへの不安を煽る。
そこに佇む女の子は、冷えるので、ブレザーの前を併せ直した。そして、お守りのある手首をギュッと握る。
コユキはごくりと唾を飲んだ。
雲の黒さは増し、稲光が走る。古く錆びた看板には『めいおう荘』と書いてある。そして建物を見上げた。
昭和の古い映画やドラマに出てくるような、いわゆるボロアパートだ。
白山コユキは、その一階の木造ドアの前にいた。このドアを、開けさせなければならない。
何故だろう、嵐はより、勢いを増す。
アパートの通路の白熱灯はブルブルと震え今にも力尽きそうだ。もう一度、唾をのむ。白い稲光が走った。
しかしとうとう、コユキは、震える指で、音符マークのついた小さなボタンを押した───。
なんの反応もない。緊張で身体を固くしていたコユキは、肩透かしをくらって力が抜けた。もう一度押す。やはり反応はない。ちゃちで、手応えのないボタンだったから壊れているのだろうか。
そうなると、だんだんと大胆になって、今度は直に手でノックをした。
「コンコン」
軽かっただろうか。次はもっと強く叩いてみようか。
(紅子──)
友達の名前を思い浮かべて、覚悟を込めた拳で力強く、その扉を叩く。なんだか慣れてきたコユキは声を出した。
「すみませーん!誰かいませんかー!」
すると、今までで一番強い雷鳴が轟き、突風が舞い起こる。
「きゃっ」
コユキは目をつむった。そしてその瞬間、扉は開かれた。
「僕に用事かな、儚い、迷子の子うさぎよ」
コユキは突風で閉じた瞼をそっと開ける。すると、そこにいたのは、葬式の時に着るような白シャツに黒ネクタイ、黒ズボン。キラキラと揺れる髪は銀髪の、コユキより少し背は低い。伏せたまつ毛も髪と同じ銀で長かった。そんな、きれいな男の子が優しく微笑んで立っていた。
コユキが想定していた人物とは全然違う。さらりとした銀髪の下には星が流れる夜空のような瞳。そこに吸い寄せられて、ドキリとした。目が離せなくなる。
コユキはうまく話せなくなってしまった。
「あの、えっと、ごめんなさい、違くて、もっとフツーのおじさん、ここに住んでませんか?」
「ふむ……」
その少年は優雅に小首を傾げる。
「目つきが悪くて、痩せてるけど背はまあまあ高くて……。こんな王子様みたいなタイプじゃなくて……」
「王子!」
少年の、頭のてっぺん、つむじがあるような辺りの髪が『ピコン!』と若草のように跳ねた。
「王子!僕を王子と呼んだかい⁉︎」
おさまりかけていた風がまたじわじわと渦巻き始めた。
「えぇっ私、なんか変なこと言った?」
コユキは人形のようだった男の子の変化に慌てる。その子の白い頬は明らかに嬉しそうに、薔薇色に染まった。ニヤニヤと笑う口からは、意外にも凶暴そうな、尖った歯並びが覗く。ギザギザと並んで鮫のようだ。
(ちょっと変な子?)
「王子!王子に見えてしまうかい⁉︎どうしても見えてしまうかい⁉︎しまったなぁやっぱり気品が!隠し切れない気品か!」
男の子の動きはどんどん大きくなるが、逆にコユキは固まってしまった。
「その響きも品があって悪くない!コンパクトで伝わりやすくスマートだ。だがしかし敢えて言おう!僕を呼ぶなら『王子』!その一言ではなく」
ただでさえ古いアパートは、どこから吹いてくるのか強風にガタガタと震えた。吹き飛びそうになるので、コユキは開け放たれた玄関扉にしがみついた。
「なに、なに?」
その子は一人でクルクルと、狭い玄関でミュージカルのように回る。
その建物の上にだけ黒雲は集まり、稲光はまたも走る。気がつくと、雲だけではない。床に、壁に、カビのような黒い粒が沸く。コユキの足元にも黒い粒が、生き物のように集まってきた。それを見ているとゾワゾワと鳥肌が立ってくる。
「やだ、なにこれ」
そして何故か重厚なオルガンの音まで聞こえてきた。
「王位継承順位第四王子」
コユキは眩暈がしてきた。こんな筈じゃなかった。コユキはある男を探して、勇気を振り絞ってこの古くてボロいアパート「めいおう荘」へきたのだ。
少年がクルクル回るたび瞳の中は花火のようにチカチカと光が煌めく。周囲に浮かんだ黒い粒は、錆びた手すりも、汚い通路も、狭い玄関にもゾワゾワと集まる。
「あぁ、だがそうだな、そんな堅苦しい肩書きはいい。友のように、僕の名を呼ぶことを許そう!」
ピタと回るのを止め、唇を満足そうに持ち上げる。
「僕の名は!テトラ!ハーーデーース‼︎」
手を胸に当てて名乗った。
ジャン!と流れていた楽団も〆の音楽を鳴らした。
コユキは顔を引き攣らせ言葉が出ない。
この子はなんと名乗っただろう。
この、暗く重い空気はなんだろう。
よく見ると少年の肩越しに、モヒカンの老人がピアニカホースを咥えているのと、ギラリと光る包丁とハーモニカを握り、トカゲのような目でこちらを睨む女性の、二人の姿がみえた。
奇妙な三人組が、玄関にぎゅうぎゅうと集まっている。
(えー自分達で吹いてたのー……)
言いたいこと、聞きたいことは山ほどあった。しかしコユキはぐらぐらと回る意識に逆らえず、ぺたんと膝をついた。その後はゆっくり瞼が閉じていく。
最後に見たのは、自分を覗き込むその珍妙な三人組だった。
これは、高熱の時に見る悪夢のようなものだったのだろうか。
(コユキ……コユキ……)
「紅子……」
懐かしい友達の声が頭の中に響く。
(ここは寒いよ……暗くてこわいよ……ここがどこかもわからないよ……)
紅子を見つけてあげたいのに、真っ暗闇でわからない。コユキはうなされ、首を右や左に逸らした。最後に声を聞いたのは自分なのに。
一筋の涙がコユキの頬を滑る。そこで覚醒した。目を開くと、見慣れない天井と、どこかのおばあちゃんの家で見るような、なんとなく懐かしい、丸い蛍光灯があった。
「おばー……ちゃん……?」
「いや、どちらかというとワシはおじいちゃんですぞ」
ぬっと視界に入る、モヒカン頭の老人。
「きゃー!」
「気が付いたぞ」
さらにその視界に割って入る、銀髪の美少年。
「わー‼︎」
「大きい声だね」
「ご、ごめんなさい……」
「いや、そもそも僕たちが驚かせたのだね」
コユキは色々と思い出した。悪夢などではない。ある男を探して、勇気を持ってやってきたこのアパート、めいおう荘。
105号室の扉をノックしたが、出てきたのはコユキが探していた男とは違う、王子様のような男の子、そしてモヒカンの老人、迫力のあるぱっつん前髪の女性。
「めんどくせぇメスガキが。目が覚めたんならとっとといねや」
「えっえっ?何この人すごい悪口言ってくる」
「らら、お口が悪いぞ」
テトラと名乗った少年がメッと言うように可愛く諭すと、女性はツーンと顔を背けた。この二人はどういう関係だろうとコユキは観察した。
(男の子の方が偉い感じ…)
起き上がった拍子にコユキの額から濡れおしぼりが落ちる。コユキは『らら』と呼ばれたその女性の方を見た。
黒のチューブトップに、黒革のショートパンツ、露出した腕や脚には、タトゥーだろうか、鱗模様が描かれている。トカゲのような縦のラインが入った瞳でコユキを睨みつける。
だが手元からは湯気がのぼっている。
お盆を持っていた。
アパートの備え付けの粗末なキッチンで、お茶を入れてくれたらしい。
「すまない、ららは麗しいトカゲの姫だ。僕に女の子が近づくことをあまり喜ばないんだ」
「ちっ」
ららは、テトラという少年の前には、白磁のソーサーとカップを置き、コユキの前にはちゃぶ台を割る勢いで茶渋のついた湯呑みを置いた。
「落ち着くよ、飲むといい」
「あ、本当だおいしいことはおいしい……」
ふわりと花のような香りが上る紅茶だった。湯呑みは粗末だが、丁寧にいれてくれたことがわかる。
ららはもう一人、部屋の隅にいた老人の方にもお茶を運ぶ。その老人はモヒカン頭で、よく見ると服の袖の片方、左腕の方はペラペラしている。
(もしかして、腕がない……?)
左の目も、大きな傷で潰れていた。
(はっ!もしかして戦争経験者の方かも……)
コユキは一人勝手に思考を巡らせ慌てた。あまり傷をジロジロと見ないように、紅茶に目線を落とす。しかし老人は元気にピースサインを寄越した。
(この人も変な人かぁ……)
「ところで、君は誰かを探していると……?」
「あっそうなんです。私……白山コユキって言います。あの、ここ、もう少し大人の人が住んでませんか」
「目つきの悪い」
「はい、こんな」
コユキは睨みをきかせた顔真似をした。
「痩せてて」
「そう……はっきりとは言えないけどガッチリ目ではないと思う。多分背は180センチあるかないか……」
「貧乏くさい」
「えぇっそこまでは……」
すると、アパートの外から声がする。
「あれ、電気ついてんじゃん」
大人の男の声だ。その声が近づいて、この105号室の前で止まる。
「あ?鍵も……ていうかお前らー!」
扉が開き、叫び声と同時に、ウグイス色の作業着を着た男が入ってきた。
それは、目つきの悪い、オールバック、というより雑に前髪をたくしあげているだけだろう。背は180センチない。本人は178だというが本当は177らしい。貧乏くさい……かどうかまではわからないが、確かに金が余ってしょうがない、という印象は感じない。そういう男がいた。
コユキの話した特徴と一致する。そう、彼こそがコユキの探していた男であった。
「あぁー!」
コユキも叫んだ。
「あ?」
「お帰り竹村」
「お帰りじゃないだろお前ら!なんで勝手に人の部屋に!しかも布団まで敷いて!お茶まで入れて!」
「竹村!貴様は家賃が遅れていたぞ!」
「あ……あぁ…それはすまん……でも勝手に入るな!」
俺にもプライバシーってもんがだなぁ……と嘆くその男、竹村にコユキは毅然と立ち向かった。
「おじさん……この子を知っているでしょう」
コユキが竹村の眼前に一枚の写真をつきつける。写真にはコユキと、もう一人女の子が写っている。それが、コユキの探している友人、紅子だ。
紅子はコユキとは反対の印象の、日焼けし、髪に金メッシュを入れた活発そうな女の子だった。
「おじ……まぁいいや、この子がなんだって?」
「知らんぷりしないで!この子を連れ去ったのは、おじさんでしょう!」
その場の空気は張り詰めた。
少女の連れ去り。
それは大きく常識の外にいるような彼らにも、重く、受け入れ難く、響く。あまりにも、穏やかな話ではない。
「紅子がいなくなった日、見たんだから、おじさんが車でそこからいなくなるの──」
紅子のこと
コユキはポツポツと話し始めた。その話はあっちに行ったり、こっちにいったり、要領を得ない。しかし少しずつ落ち着くと、なんとかその話は定まっていく。紅子のことと、最近起こった出来事について話し始めた。
紅子とコユキは、中学から仲良くなった友達だ。浮きがちだったコユキに、紅子が声をかけてくれたのがきっかけだった。
二人は初めて会ったなんて嘘みたいに、まるで昔からの友達みたいに意気投合した。
コユキの学校生活は、紅子のおかげで明るくなった。
紅子は、メイクや雑貨の紹介をする動画をあげていたり、読者モデル活動もしていたり、少し有名だった。
その分、目をつけてくる教師もいる。
あの日も、理不尽な言いがかりで、紅子の私物はある教師に没収された。腹を立てた紅子は、学校にこっそり忍び込んでそれを取り返すという。コユキは止めたが、どうしてもやると聞かなかった。それでも少しは怖いから、と紅子とコユキはその時音声通話で繋がっていた。
そして何かが起こった。
『あれぇ?ここってこんなに明るかったっけ?まぶしー』
『なんの話?』
『え……やだ……何……?誰……?』
紅子の怯えた声。そして響く悲鳴。コユキは必死で、スマホの向こうの紅子に呼びかけた。しかし紅子から安心できる返事はない。慌ててコユキも夜の学校へ駆けつけるが、紅子の気配はなかった。
そこで見たのが、大きい荷物を車に積むこの男、竹村の姿だった──。
男は口笛をふきふき、軽トラックに担いだ荷物をのせ、通用門から走り去っていく──。
一同は、しんと静まりコユキの話を聞いていた。
「そんな危ねぇ事件、大人に任せておけ!その子の親は警察行ったのか!」
竹村が怒声を上げる。
「ちが……ちがうの……」
コユキは耐えきれずポロポロと涙を溢した。
「あ、泣かした」
「竹村が泣かした」
「『竹村が』泣かした」
「あぁもうごめんねぇ!」
「違くて……」
コユキは話を続けた。
その後、コユキはもちろんすぐに紅子の家へ急いだ。それなのに──紅子の親は、紅子のことを忘れていた。忘れている、というよりは、何を話しても通じないのだ。まるで紅子の存在など元々一切なかったかのように。
「怖いんです……なんでこんなことが……」
眠れぬまま朝を迎え、学校へ行くとやはりそこにも紅子の気配はない。紅子の持ち物も、存在も、なかったようになっている。
コユキが一生懸命話すと、紅子のことを思い出してくれる友人が少しだけいた。それが、コユキの心を救った。しかしその友人達も油断するとだんだん紅子のことが霞んでいくらしかった。
「消しゴムで消されたみたいになかったことになってる……なんで?どうしたらいいの……?」
コユキは制服の肩を振るわせ、打ち明けながら泣いた。
あの日の紅子の叫び声、最後につながっていたのは自分だったのに、何もできなかった。そしてこの不思議な失踪。もう何もできないのは嫌だと、勇気を出して、あの時みた男を探した。
車と、うっすら見えた男の容貌しか情報はなかったので時間がかかってしまった。
しかし、やっと辿り着いたここにも、なんの手がかりもなかった。
「誘拐魔がいるかもと思いながら乗り込んできたのかい……恐ろしかったろう」
そっと、少年が、震えるコユキの肩に手を置いた。一度溢れると、ずっと堪えていた涙は止まらなかった。
「だがこの竹村は素行は悪いし品もないが、子女誘拐を企てるような下衆ではない」
「そうだ確かにあまり素行はイケてねぇ」
「大いにな」
「うるせぇ。その制服、坂の上の往生中だろう」
「え、怖い。なんで制服知ってるんですか」
「それぐらい知ってる〜〜!」
竹村は顎をしゃくらせ怒った。
「悲しいな、おじさんと言う生き物は、制服の話をするだけでそんな汚物を見る目で見られるとは」
テトラは憐れむ眼で竹村を見つめた。
坂の上……ふとコユキは考えた。確かにここは通学路なのだ。
でも今まで、こんなアパートに気がついたことはあっただろうか。毎日通っているはずなのに、ここにこんな建物あったか、気に留めたことがあったか、それすら思い出せない。疑問がわいて眉を寄せる。
少年は、コユキが今考えていることを見透かすように話した。
「コユキ、そういうものなのだよ。見ようとしていないものは見えない。ぼんやりとその存在を感じたとしても、必要としていなければ真の姿は現れない。そして今コユキは、自分に必要な道を自分で拓こうと、覚悟と勇気を持ってここへやってきた」
この少年の言っていることは、右足の次は左足を出す、と言うような、わざわざ言うまでもなく当たり前のことのようで、よく理解しようとすると、とても複雑な話にも聞こえる気がした。
コユキは、揺れる夜空を映したような少年の瞳を見つめ、不思議な語りかけに聞き入った。
「だから扉は開いた」
少年のつむじから『ピコン!』と若草のような髪の束が跳ねている。
「改めて名乗るよ。僕の名前はテトラ・ハデス。その困りごとに、力になろう」
テトラは、優しく微笑みながら手を出した。
聞きたいことも、分からないことも沢山ある。
でも今コユキは、テトラ君が差し出してくれた手が暖かくて優しくて、もう一度泣いた。
「そしてこちらは頼りになるバン爺」
ピアニカでムード音楽を奏でようとした老人が、手を振る。
「こちらはさっきも話したね、ららだ」
ららは写真には写せない指の動作をしていた。
「そしてこちらは家賃を滞納する竹村」
「だぁ!もう!悪かったって!」
「家賃……テトラ君は大家さんなの?」
「そうだよ、ここは父王の私財の一つだ。今僕たちはここを拠点に活動している」
コユキはこの建物の全体図を思い返した。錆びた手すり、軋む建物。時代に取り残された、いわゆるボロアパートだ。コユキもいつかは一人暮らしをと憧れを膨らませているが、頼まれたってここには住みたくない。
コユキは考える。
テトラ君は王位なんとかかんとかと言っていた。外国の王族のようなものかと思ったが、違うのだろうか。
「テトラ君は王様なんじゃないの?お金ないの?」
「由緒は正しいが、お金持ちかと聞かれると答えは『否』だ。中々に苦労もある。だがどうだ、ここは退廃的な美があるだろう」
「ふふ、だいぶポジティブ」
気が緩んだのか、コユキはやっと笑えて、しかもお腹の音まで鳴ってしまった。
「お腹が空いたんだね。人間は飢えると心細くなるだろう。温まるものを食べよう」
『人間』なんて変な括り方をする。だがテトラの真心が、コユキには伝わった。
「おら、哀れにこの世に体を成さなかった命をグチャミソに煮込んだものだ。食えるもんなら食ってみな」
乱暴にららが置く丼からは、カツオ出汁の香りの湯気がのぼった。恐ろしいネーミングに何かと思ったが、優しい黄色の、ふんわりとした卵粥だった。
「わぁ」
ららの言葉は悪いが、ふうふうと冷まし口に運ぶと、本当に力が湧いてくるような、優しいお粥だ。
竹村もちゃっかりいただき、労働疲れの胃に染みるぅと呟いている。
「君のお友達の失踪には、僕の探している『魔具』が関わっているかもしれない」
「ま……ぐ……」
「本当は人に悪さをするようなものではないはずだが……」
話を続けようと思ったが、コユキの顔色に疲れが見えたため、テトラは微笑んで、やめた。
「今はよそう。ららの作ってくれたおかゆを、感謝していただこう」
食事をしているコユキをテトラは慈しむような眼差しで見つめる。そしてこう呟いた。
「コユキ、君は……いい匂いがするね」
しかしコユキの対応は塩だった。
「えぇ〜……あんまり女の子に、匂いの話とか振らない方がいいよ」
「なんだって!」
「そーだ。お前の王子ムーブに皆んなが喜ぶと思うなよ」
「煩い竹村お粥食べるな」
なんだかこの場に慣れてきたコユキは、心から笑った。そして、お腹が温まって最近の不安が溶けたのか、またいつの間にか、ゆっくりと、眠ってしまった。
学校へ
『ピピピピピピ……』
聞き慣れた目覚まし音。見慣れた天井、触り慣れた毛布。コユキはむくりと身体を起こした。いつの間にかパジャマになっている。
えぇと何をするんだったか……。頭はまだ霞がかっている。
だが考えるまでもなく、体は意外にも朝の行動を覚えていて動いた。
ゆるゆると制服に着替える。白いブラウスに赤いリボン、グリーンチェックのスカート。それと同系色のグリーンのブレザー。往生中の制服だ。
階段を降りて、お母さんに挨拶をして、弟の岳を小突く。
なんの変哲もない朝である。
朝ごはんはチーズトーストとオレンジ。ココアを覚ましていると、テレビの天気予報の時間になった。
『よく晴れますが、午後からは天気の急変にご注意ください。ところによって強い風が吹くでしょう』
続けて、明日来る大きな満月についても伝えていた。
洗面台の前で自分の顔を眺めゆっくりブローしながら考える。天気など、悪くなるだろうか。窓から見えるのは、はじけるほどまぶしい五月の緑である。
『……座のあなたのラッキーパーソンは白いシャツの人!』
「だってさ!姉ちゃん、聞いてた?」
「え?何が?」
「もーなんでもない」
岳が、話していたようだが、コユキは頭に引っかかっているなにかが気になっている。何か忘れている気がする。
昨日は何があったっけ?
と、そこで突然、雪解け水がどっと溢れるように唐突に色々なことを思い出した。
嵐を呼ぶアパート、めいおう荘。探していた人は紅子のことを知らなかった。でもなんの収穫もなかったわけじゃない。出会ったモヒカンで片目、片腕のおじいちゃん、鱗のタトゥーの女の子、そして銀髪の美少年。彼らは、力になってくれると言った。
あまりに強烈な出会いだったのに、霧のようにうっすらとしているのは、ふしぎな感じがする。
そこでの出来事は夢だったのだろうか。
(はっ……そういえば私いつの間にかパジャマ着てた……)
誰かに着替えさせてもらったのだろうかと気になり始めると、頭の中がシュワシュワしてきた。
(この疑問は後に解ける。寝ぼけながらも寝る前のルーティンをこなそうとするコユキはちゃんと自分で寝支度をした。案外しっかりしているのだ。)
学校へ向かう道、信号の色を確認して走る。キラキラと川の水面が照り返した。本屋の角を曲がりバス停とスーパーを通り過ぎるとここに橋があり、渡る。渡った先にはコンビニがあり、そこから道は上り坂になる。
そして、大きい通りの隅に細い小枝のような薄暗い路地がある。
そこに、今にも傾きそうなアパートがあった。通りすがりで覗き見ると、片手で掃き掃除をしている老人が下手なウィンクを寄越す。その手伝いで塵取りを持っていた銀髪の美少年。彼のウィンクも下手だった。
(君もかーい……)
錆びの手摺りに寄りかかっているぱっつん前髪の女性は、また、立ててはいけない指を立てている。
皆で、コユキの登校を見守ってくれた。
コユキは苦笑した。どうして今までこのアパートに気がつかなかったのだろう。
ほぼ毎日通っていた筈なのに。今まで見ていた街が、何かの配置を変えたような、どこかの色を塗り替えたような。違和感があるのに、わからない。心がざわざわと騒ぐ。
何かの気配に振り向いた。でもただの坂道の途中だった。同じように登校している生徒達の姿と今来た道を見下ろした。
ただ、その予感は、不安で怖いだけではない。
つい、ワクワクしてしまうような……。そんな気持ちで、チャイムが鳴る校舎の中へ駆けて行った。
「マサル、ウリボー、おはよ」
「おす」
「ぅおす」
「いつものだよ、これ、誰」
コユキは写真を二人に見せる。コユキと、金髪メッシュのギャル、紅子だ。
「あぁっとぉ……なに?」
「誰だっけ誰だっけ……イケる、俺はイケるぞ……紅子だ」
絞り出すように答えたのは、ウリボーと呼ばれた男の子。
「あぁ!そうだ……クソッなんで思い出せなかったんだろ……」
マサルは頭を抱えて、真底悔しそうに呟いた。
マサルとウリボーは野球部のピッチャーとキャッチャーだ。
コユキとマサルは幼馴染みで、マサルとウリボーはリトルリーグで小学生の頃から知り合い。
ウリボーは紅子と小学校が一緒でずっと仲がいい。
そういうのがそれぞれの関係で、そのちょっとずつ重なり合った共通点で、四人でも一緒にいるようになった。
そして今は、この不安を共有できる仲間でもある。
「紅子は、うちは生まれついてのギャルだから、なんて言ってたけど、その日焼けはずっと陸上やってたからなんだよ」
写真を眺めながらウリボーはへへっと鼻を擦った。
ウリボーこと、瓜田つよしは、猪のような見た目と縞模様の剃り込みのため、そう呼ばれている。
キャッチャーには観察力、判断力どちらも大切らしく、鈍そうに見えてとても聡い。この、朝の思い出し作戦を提案してくれたのもウリボーだ。
ウリボーの小さな瞳が、潤んで見える。幼馴染の紅子のことが、ウリボーも心配なのだろう。
それでも、砂のように消えていく紅子の記憶を留めておくことが難しい。コユキは手首をギュッと握った。
教室に入る風が、カーテンを膨らます。
そのカーテンの下、窓際の一番後ろは紅子の席だった。だが今その空き机が何のために置かれているのか、気に留める生徒はコユキ達の他にはない。
マサルは、短髪の剥き出しのオデコ、眉根を寄せて、コユキを見た。
「コユキ、お前一人で突っ走ってないだろーな」
「うん……うん……大丈夫」
マサル達と、紅子のことを共有できるのは心強い。コユキは昨日のめいおう荘での出来事を話そうか迷った。
だがマサルは県内でも有名なピッチャーで、二人のチームは近々大きな大会への予選を控えている。
巻き込めない。
コユキはきゅっと唇を結んだ。
放課後、部活や委員会活動に勤しむ生徒達の声で、教室や廊下、あちこちが賑やかだ。
コユキはそっとスマホを取り出した。紅子のメモリーは消えている。画像のデータも。だが、たまには、とフィルムで撮った写真があった。何故かそれだけは残った。思い出し作戦に使っているのはそれだ。
吹奏楽部のトランペットの音が、風に乗って聞こえた。
校内を歩き回りながら、だんだんと薄らいでいく紅子との最後の通話を思い出していた。茜色に染まった渡り廊下へ向かう。
あの時紅子は何と言ったっけ……。考えながら歩くと、何か気になって足を止めた。
この学校もまた、何かが、どこかが、今までとは変わったような。不思議な違和感が、コユキを包む。
「逢魔が刻に入る。今人間には分が悪いぞ」
突然の声に、心臓が飛び上がりそうなのをなんとか押さえて、コユキは振り向いた。
「テトラ君……!」
テトラ君のてっぺんの髪の束は、梅雨の後の雑草のように元気よく伸びて、揺れている。まるでアンテナだ。
「なるほどなるほど、確かに興味深いなぁ」
校内を右、左、と見回しながら何に納得しているのか、ひとりでうんうんと頷く。昨日出会ったばかりのテトラ。この不思議な少年は、今どこから現れたのだろう。
暮れかけた光と影を浴びて、テトラの表情は、昨日と様子が違って見える。
今日のテトラの瞳は、赤く燃えていた。夕焼けのせいだろうか。尖った歯並びが怪しく光った。
赤い瞳、獲物を狙うような冷たく鋭い瞳。
(死神……)
コユキは思わずテトラを見てそう思った。その底冷えするような雰囲気に、肌が泡立つ。ふと、幼い頃聞いた『死神王子』の噂を思い出した。その瞳を見てはいけない。不幸を呼ぶ、死を呼ぶ。人の屍肉をあさる。
でも、そんな風に見えたのは光の角度のせいだろうか。次に見たときには、先ほどまでのゾッとする気配は消えていた。
「急に、どうしたの?」
「力になる、そう約束したろう。それに……」
「それに?」
「コユキから哀しみの気配が拭えない。これを貸してあげようと思って」
テトラはどこから取り出したのか、赤ん坊の形の人形を差し出した。赤い布とフリルのケープに包まれ、ケープと同じ布の服を着ている。
「哀しみをいやすよ」
人形は、骨董品のようでひび割れ、明らかに禍々しい。口や目が抱き加減によって動く仕様になっている。
「ひっ」
「幼児が抱けば、自分が抱かれているような安心を与え、子どもに関する未練のある大人が抱けば、その哀しみを少しずつ癒してくれる。そうでなくとも、落ち込んでいるものを慰めるよ。東北を旅しているときに見つけた。ほら、抱くといい。赤ん坊は嫌いかい?」
ぐぃっと差し出されてコユキは大きくのけぞった。
「赤ちゃんは好きだけど無理無理無理。なんか目血走ってるし、えっ今、口明らかに笑ったよね?こわいこわい」
「ふむ……。たくさんの人を笑顔にするはずの人形だったのだが、いろいろなものを見すぎたし、間違った使われ方をしたかな。呪いと祝いは、紙一重だしな」
「テトラ君、漢字詳しいね……」
コユキはあえて、その人形がどんな使われ方をしていたのか聞かないことにした。
「まぁ戯れはさておき」
「戯れだったんだ⁉︎」
「うん、君を慰めたかったのは本当だから。コユキ、学校の中案内してくれるかい」
「うん……」
気がつくと人形は手品のように消えている。二人は校舎内を歩きはじめた。
すると、廊下の奥から突然怒鳴り声が響く。コユキは身をすくめた。
「しらやまぁ!」
ツカツカと早足で男がやってくる。メガネをかけてぴっちりと前髪を7対3に分けている。だがその表情は、とても教育者とは思えない。生徒に深い恨みでもあるのか、怒りを隠さない。人を怯えさせる険しい顔をしていた。
「ま、松原先生……」
「お前は部活なんぞ何もやっていないだろうが!なぜ居残っている!それに……なんだその……」
コユキは、親以外の大人の、自分に対する冷たい酷い態度には慣れているつもりだった。だが、この松原という教師は異様だった。
以前から厳しすぎてコユキは苦手だったが、さすがにここまでではなかった。いつからだろう、より憎しみに燃え、まるで、人以外のものを心に住まわせたような……そんな変わりようであった。
ネチネチと追い詰めるようなやり方と、厳しい怒鳴り声にコユキは萎縮してしまう。
怯えるコユキを守るように、いつの間にかテトラがコユキの前に立つ。
「それに……なんだ……その……」
近寄る松原先生だが、立ちはだかるテトラを見て戸惑っているようだった。テトラは動じず、しっかりと松原先生を見つめる。だが松原先生の視線はテトラに合っていない。もう少し大きい人と話しているようなところを見ている。
「ご機嫌麗しゅう、先生。少し校内を見せていただく」
「はぁ……どうぞご自由に……」
「失礼!」
踵を返しテトラ君は、先生が来た方向とは反対に、歩いて行った。コユキも慌てて続いた。
去りながらコユキは、振り向いて松原先生の様子をチラッと見る。呆然と、しかしどこか嬉しそうに口元を緩めて立ちすくんでいた。
「変なの」
「何が」
「あの先生いつももっと怖くて、もっと嫌味言ってくるんだよ」
「ふぅん。僕は彼に用事がなかったから、都合のいい姿をみせておいたのさ」
「へぇ……?」
つくづく、テトラの不思議さにコユキは首を傾げた。
一階に降りて、昇降口から北校舎へ。右へ行くと技術室。工具や木材が壁沿いの棚に仕舞われている。左へ行くと二年A、B、Cと教室が続く。コユキはA組で立ち止まりテトラに中を覗かせた。
「ここが、私の教室2年A組」
じゃーんと言うようにコユキが腕を開く。
30ほど並んだ、生徒の机と椅子。そして黒板。黒板の上にはクラスの標語が飾られている「一人はみんなのために!みんなはひとりのために!」
突き当たりに行くと階段、生徒会室と多目的室がある。そこを左に曲がると体育館へ向かう連絡通路へと繋がる。
「体育館へ行く連絡通路は剥き出しだから夏は暑いし、冬は寒いよ。砂が入ってきちゃうから上履き汚れるんだよね」
ほら、とコユキが靴の裏をテトラにみせる。テトラはコユキの説明をうんうん、と穏やかに聞いていた。
体育館では剣道部とバスケットボール部が真ん中から分け合って練習していた。
西陽が、舞う埃さえキラキラと魅せる。テトラは校舎の中を、懐かしがるように、目を細めてゆっくりと眺めた。
(そういえばテトラ君っていくつなんだろう……学校行ってないのかなぁ)
コユキは、喪服のような白黒の衣類に包まれた、テトラの華奢な背中が気になった。
何故だかコユキは、テトラと初めて会うような気がしない。彼らの変わった行動を簡単に受け入れてしまうのも、以前どこかであったからだろうかと思った。
だがこんなファンタジーな少年を、会ったことがあるなら忘れるはずはないな、とも思う。
(昔読んだお話に似た子が出てたとか、そんな感じかな……)
二人はグラウンドに足を向ける。こちらではサッカー部と野球部が声を出しながら励んでいた。
テトラが唐突に聞く。
「コユキは、学校は好きかい?」
「前はね、好きじゃなかったの。でも……」
(あれ……)
コユキを孤独から救ったのは誰だっただろう。誰のおかげで、日々に光が差すようになったのだろうか。あの子の……あの手が……コユキの日々を変えたのに……。
心臓が重く、早くなる。呼吸が浅くて苦しい。
忘れてはいけないのに。大事な友達なのに。コユキはぎゅっと手首の紐を握った。すると、雲の切れ間から光刺すように記憶の曇りが晴れた。
「べにこ!」
悪い夢から唐突に覚めた時のように、まだ心臓がバクバクと言っている。忘れかけていた。
テトラ君がコユキの手首を優しく持ち、観察した。
「これは友人との縁が結ばれているね。大事にするといい。紐はいい!結ぶもよし、引くもよし!役に立つよ」
「……うん」
手首に結ばれているのは、紅子が作ってくれたミサンガだ。
『コユキのは特別、ハートのグラデだよ』
『すごーい!かわいい!紅子、器用だね……』
「ちゃんと思い出せるよ……」
コユキは手首の紐に、顔を擦り寄せる。自分が忘れてしまったら、大事な友人は一体どうなるのか。コユキは気持ちを強く持ち直した。
「コユキ!」
グラウンドの砂埃を浴びながら、練習用ユニフォーム姿のマサルが走り寄ってきた。顔にも砂をつけている。真剣にコユキを心配している様子だ。そしてテトラを見る。後にはウリボーも続いた。
「どうした、コイツ誰だ、なんかされたか」
マサルはしっかりとテトラと目線を合わせている。その迷いのない目に、コユキはあれ?と思った。マサルはザクザクとした短髪で、よく日焼けしている。表情がしっかりとわかるむき出しおでこだ。
色白のテトラ君は、ふわふわとした銀髪の隙間から瞳が覗く。
何だか対極にいるような二人だ。
「なんかされたかとか……失礼だよ。学校案内してただけ」
テトラはマサルに向けてにっこりと微笑む。
マサルはテトラを睨んだ。ウリボーはテトラ、マサル、コユキ、みんなの顔を小さい瞳で見やりながら困った様子だった。
今マサルの胸の内は忙しい。
コユキはさっき泣いていた気がするとか、コイツなんか怪しいぞ、とか喉元に言葉がたくさん押し寄せているのだが、うまく言えない。
マサルがゔ〜と唸っていると、離れたところから、先輩の呼ぶ声がする。
「マサル!ウリ!何してる集合だ!」
「ほら、呼ばれてるよマサルダッシュ!」
コユキが手をパタパタと、急ぐようにと振る。納得できない顔だが、仕方なくマサルは走り始めた、が、もう一度振り向きテトラを牽制する。
「なんかわかんないけどお前、コユキに危ないことさせるなよ!」
マサルはテトラの、宇宙のような、呑まれそうな瞳にも怯まない。
スパイクが、カチャカチャと鎧を着た戦士の歩みのような音を立て、マサル達は行ってしまった。
テトラとコユキは、グラウンドに帰るユニフォーム姿の二人を見送った。爽やかな五月の風が吹き抜ける。艶々の緑の木々の樹影が、テトラの顔にまばらな影を作った。
「爽やかな酸味の果実を齧ったようだ」
「何それ」
「青春というのだろう」
「そういうのやめて〜」
「さて……僕はお先に失礼する。コユキを送りたいが、やることができたよ。それに君のナイトが五月蝿そうだ」
「だからぁ」
はっきりと言い返そうとしたが、風が揺らす木々の葉の中に紛れるように、テトラは気がつくといなくなっていた。元から誰もいなかったような自分の隣をぼんやりと見る。
(不思議な子……)
コユキは風で乱れた髪を手櫛で直した。紅子への不安、今起こっていることへの畏れ、それは変わらないのだが、テトラのおかげか、心が軽くなっている。
早く紅子を助けてやりたい。しかもそれができるような、強い気持ちが湧いてきていた。
テトラは、めいおう荘に戻るため、特別の空間を歩いた。洞窟のような暗闇。小さい生き物の気配があるが、テトラに悪さをするようなものではない。そこは、地の底にも海の底にも見える。
マグマのような赤がテトラの顔を照らす。彼は、岩場の一角で足を止めた。指でなぞって探すと、鍵穴がある。そこにポケットから出した鍵の束の一つを差し込むと、岩が動き、開いた。
奥は倉庫になっていた。
積まれた箱、一見すると使い道のわからないもの、額縁、天秤、鳥籠、壺、金の指輪、旅行カバン、そしてお土産品のキーホルダー。
全て、宝らしい宝があるわけではない。乱雑に積まれむしろゴミのようなものもある。
ここは懐かしい、テトラの故郷の品々がしまわれている。蔵のように使っているのだ。
その中に、テトラは人形用のベッドを拵えていた。柔らかなリネンが敷いてあり、コユキに見せた人形を寝かせる。険しい顔をしていた人形が、安らかに目を閉じた。テトラは優しく、その人形を撫でた。
本来とは間違った使い方で禍々しく変わってしまった魔具。これらにも、癒しが必要だ。
そして奥には大きな地球儀が鎮座していた。その地球儀は全方位周り、よく見ると、雲や海が実際に動いている。雷が落ちたり、雲からは雨が降ったり、飛行機も飛んでいるし、海上は船が走ったりしていた。
あらゆる国の都市部は、まぶしく光が集まっている。一部の国では、何が起こっているのか、火が上がってみえるところもあった。
そして日本という島国のある地点に、旗が一本立っている。ぴょんと真ん中の毛が飛び出た男の子の顔の旗である。おそらくテトラのマークなのだろう。そしてその旗の側に、大きなアルゴ船の黒い影が、上空から近づいていた。
他にも、黒いソリや黒いバイクが、地球儀上に見つけられた。自由に動いたり、止まったりしている。
学校には、テトラの探しているものの気配があった。
そしてそれに気がついているのは自分だけではない。
一筋縄でいかない相手のことを想像して、テトラはため息をついた。
(僕も簡単に手を引くわけにはいかないものな)
しなやかな曲線と赤い革張りの椅子。まるで王座のようなその椅子の埃を払い、腰掛ける。
憂鬱な考え事は頭からどかして、コユキと見た学校の景色を思い出した。そして、思い出し笑いをした。
(学校とは!何十年とあまり進歩のないものだな!金をかけたところはあるだろうが、西暦も二千年を超えて、あまりに情けないじゃないか)
クックックと笑いながら、しかし、この国の子どもたちが変わらず、安心して学び続けていることに安堵した。
(学校か……)
そしてやっぱり学校というところは、良くも悪くもエネルギーがある。
向上心、ねたみ、ひがみ、恋心、友情…。 その中でも特に強いエネルギーを放っていた子ども……。
自分の姿をしっかりと捉えたマサルのことを少し考えた。
軽く欺こうとしたが、上手くいかなかった。
生きている、自分の力で道を切り拓こうとする者の眼差しは強い。
(彼ともまたゆっくり話す機会がありそうだな……)
コンビニ前
コユキは学校からの帰り道、コンビニエンスストアで見覚えのある顔を見つけた。めいおう荘に住む、竹村である。仕事終わりなのか作業着姿で煙草を吸っていた。
「あの……」
「あっあー……コユキちゃんだっけか……ちょい待って今消すから」
「あ、ごめんなさい」
「いいって」
竹村はまだ長かった煙草を消すと、何か飲むかとコユキに尋ねた。遠慮したが、ミルクティーを買ってきてくれたので、それを受け取った。
コユキは彼が紅子の失踪事件の何かを知っているのではと思っていた。だが違った。
話を聞いてみると、確かに往生中には出入りをしていた。しかしそれは、仕事の依頼を受けてのことらしい。竹村は昼間の工事現場の仕事の他に、隙間時間で便利屋のような仕事も受けている。
「これ『ヤルッス』っていう」
竹村がスマホの画面をみせた。黄色いニッコリした顔から親指を立てた腕が生えている。そんなアイコンマークだ。
「別に怪しいことはしねぇよ。登録するとアプリから色んな仕事がみれんだよ。それで、受けられそうなのはやるっすーって選ぶわけ」
そう説明した。
確かに画面には、草むしりや引越しの手伝いなど、軽作業のようなものから、子守りや病院の付き添いなど、ニッチなものもある。様々な仕事がずらっと並んでいた。そこから、移動距離や報酬、拘束時間を確認し、自分にできそうなものを探すらしい。
あの日の依頼は、木の枝を落とすこと。
そして古い備品を回収して捨てること。それで、車を借りて行ったらしい。木に登るなどの危険作業を伴ったので金額ははずんだし、近場の仕事だったので竹村はよろこんで『やるっすー』したという。
女子生徒の声を聞いたり、姿は見たりは、しなかった。
「ごめんな、ガッカリしたろ」
「いえ……」
竹村は雑な男だが、テトラの言うように、悪い大人ではなさそうだ。
コユキは竹村が買ってくれたミルクティーをのんだ。
「往生中って結構自由な校風だよな。校長が変わってからって聞いたぞ。ほら髪色なんかも……」
それにはコユキは応えなかった。
「あの、もう少し聞きたいんですけど、竹村さんはあそこに住んでるんですよね。テトラ君って……何者なんですか」
「いやーよくわかんね。どっかのボンボンなんじゃないの。お家騒動みたいなことしてるっぽいけど」
「え!そんな程度の認識なんですか」
「だってしゃーねーだろ。俺は安い物件探してて、事故物件でもなんでもいーやって住み始めただけなの!」
前髪を掻き上げ、竹村はぶつぶつと言った。
「そんな考えが浅いからいつもお金ないんだ」
「んだとぉ」
年上なのに、なぜか竹村には冗談めかして嫌味も言えてしまう。わざと怒ったような仕草をする竹村にコユキはへへへ、と笑った。
なんとなく苦労の陰があるのでついおじさんなんて言ってしまったが、よく見たらまだまだ若そうだ。コユキの観察によると、竹村は二十代前半…もしくは5、6といったところであった。
「俺だって引っ越せるもんなら引っ越してーよ。俺はあそこで深く考えることをやめたの。事故物件どころじゃねぇよ。エブリディ現在進行形事故多発物件だよ。変なことばっかり起こりやがる」
「例えば?」
うーんと難しそうな顔をして竹村は話し始めた。
竹村の部屋は角部屋の105号室であるが、一つ手前の103号室の住民とは会ったことがない。
引っ越した時挨拶に行ったが応答がなかったらしい。
だが何者かは住んでいる。
夜ズル、ベチャ、ズル、ベチャと膨らんだ水死体が這うみたいな音がする。その音がいつも103で止まるから、そこの住民なのだろうと気がついた。
だが、困るのは、食欲が失せるようなその音ではない。その後、通路全てに蛞蝓が通ったように、ぬるっぬるに濡れているのだ。
ある日自室でその音を聞いた時、相手を見ようと、そして廊下のことを注意しようと、慌てて外へ飛び出した。
しかし姿を捉えたのはほんの一瞬で、竹村の気配を察知した相手は目にも止まらぬスピードで部屋の中へ入ってしまい、103の扉は閉ざされた。
なんとなく見えたシルエットは、明らかに人の形ではなかったという。
コユキはぬるぬるになったアパートの通路を想像して鳥肌がたった。
「ほんで俺はテトラに文句言ったのよ。でもアイツ、103号室の方はやっと見つけた勤め先がブラックで、帰りも夜遅い。頑張ってるんだから大目に見てやれとか言うんだよ。俺以外には妙に優しいよなぁ。でもそれ以来、朝にはちゃんと乾いてるからまぁいいんだけど」
「いいんですか」
コユキは笑った。その話は奇妙なのに、竹村の寛容さもおかしい。
いつもの日常が、いつも通りではなくなっている。
ふと裏返すと今まで気がつかなかった面を見つけた。そんな発見をした気分だ。すぐ隣り合わせにあった別の世界に、今まで気がつかなかっただけなのかもしれない。テトラはそう言っていた。必要がないから、みようとしないから。
「まぁでもアイツらのことあんまり信用しすぎるなよ」
「何でですか」
「アイツら、トラブルを嬉しそうにしてやがる。今回のことだって、人が一人いなくなってるんだぞ。真っ当じゃねぇよ」
それはコユキも感じていた。テトラは真摯に寄り添っているように見えて、これだ!とチャンスが来たようなキラリと光る目をしていた。バン爺も、ららもあくまでコユキの味方ではない。テトラ側なのだ。
だが今コユキには、そのテトラたちに縋るしか術がない。それをわかっていてきゅっと唇を結んだ。手首を握る。
竹村はコユキに、子どもが無茶をするなと言ってやりたい。だが、力になれない自分が口を挟むのもおかしいだろうかと、もどかしくて頭を掻いた。
「俺もなんとなく知っちゃったからにはほっとけねぇからよ、できることはやるよ。なんかあったら言えよ」
コユキは竹村に別れを告げ帰路を急いだ。坂をくだり、橋を渡る。
コユキ達の暮らすこの街、ほうらい町は、坂が多い。そして支流も多く、橋も多い。
坂を下ったり上ったり、そして太陽によって光も影も、色を変えるので、景色は常に様子を変えて飽きない。
そんな美しい街に、何かの気配を感じるようになった。
橋の途中で、リュックを何かに引かれた。だが振り向いて周りをよく見ても何もいない。橋の向こうにさっき竹村と雑談したコンビニが見える。
誰かの話し声が遠くに聞こえる。
見下ろすと、橋の下を流れる川が、大きな黒い塊の生き物のように見える。
見上げた夕焼け空の、茜色と紫色のグラデーションはこんなに不安になる色だっただろうか。街に長く伸びる影が、ぐにゃりと動いたような気がした。
コユキはまた走った。
「いつも」が変わって行く。いや、本当はいつも、それらはそこにいたのだろうか。
その不思議への扉を開けたのは、コユキ自身なのだ。
そういえば天気予報が伝えていた風の変化は起こらなかった。むしろ、まとわりつくようなぬるい風が漂っている。
隣の街で火事でも起こっているような、怖いような夕焼け空だった。
コユキの家の話
晩御飯はお母さん特製のポトフスープ。お母さんは心も身体も温める料理を作るのがすごく上手だ。元気のでなかったコユキの気持ちが、少し温まる。
「ソーセージにしっかり焼き目をつけるのがコツだよ」
元々お母さんは、代々続いていた山小屋の娘だった。おじいちゃんおばあちゃんも登山のお客さんに色々な料理を振る舞っていて、このスープもそこで教わったらしい。料理が美味しいと評判の山小屋で、登山のお客さんはそこでしっかりと休み、山に挑むエネルギーを充電させた。
でも近くで土砂崩れが続いて、もうここにはいられないと、山小屋をやめることになった。おじいちゃんおばあちゃんは山のそばに残った。そしてお母さんはどうしようか迷っていたところ、登山が好きでよく泊まりに来ていたお父さんが、それを聞きプロポーズしたらしい。そして、結婚して今に至る、らしい。それが二人の簡単な馴れ初めだ。
らしい、らしいと聞いた話ばかりになるのは、もうおじいちゃんとおばあちゃんもいないからだ。
そして、お母さんもあまり山にいた頃の話をしてくれない。
そしてコユキは都会というほどでもないが、山とは遠いこの街で産まれ、暮らしている。
それなのに、目を閉じておじいちゃんやおばあちゃんのことを考えると、見たことのない山の緑や、沢の音。そこで暮らす鳥達の声。爽やかな空気。そういうものが胸に広がる気がするのだ。
そういえばこれも、テトラ君のいう「見ようとしないものはみえない」の仲間のようなものだろうか。
「見たことがないのに見える」もしかしたらコユキに刻まれた、おじいちゃんおばあちゃん、もしかしたらもっと前の先祖、そういう人達の、記憶なのかもしれない。
お父さんは登山好きがこうじて、山の雑誌の編集者をしている。そして取材でしょっちゅう山に行ってしまう。
今も尾瀬の記事を書くために家を離れている。先日、雪解けの沢の写真と、さくらんぼが届いた。コユキはその写真を眺めながら、愛らしいその実をつまむ。甘酸っぱい。
忙しい父。でも、お母さんと弟だけのこの家が寂しいかというと、まったくそんなことはない。コユキにとって完璧な安全基地だ。
お風呂の支度ができてるよと呼ばれる。
家はどうしてこんなにホッとするんだろうと、コユキはのんびり湯船に浸かりながら考えた。いないことはあってもお父さんと、お母さんがしっかり守ってくれているからかもしれない。だから、二人に紅子のことを相談できないのは辛かった。話せれば、心強いしいい知恵をくれたかもしれない。
紅子の家だって、家族みんな仲がいい。だから早くこの状況をどうにかしてあげないといけない。
紅子、テトラ君、家、家族、不思議なアパート……。
コユキは今考えることがたくさんだ。
パジャマに着替えながら、気合いの正拳突きを空に向かって繰り出した。
「しゅっ、しゅっ」
リビングで、弟の岳がゲームをしている。岳は小学四年生だ。
「ねぇ、岳……橋渡ったコンビニのそばにね、古〜いアパートあるの、知ってた?」
「え、なに?」
「コンビニのそばのちょっと細い路地だよ。川の三角州みたいな感じでスペースがあって」
「ぜんっぜんわかんない」
「え?何にもわかんない?」
「うん、なんにも」
「はー……アンタってほんと……」
コユキは大きくため息をついて、岳にデコピンを喰らわせた。
「あ、なにす……あー死んだー!」
岳はこういうところがある。ゲームに集中してるから会話が適当だったのではなく、本当に鈍いのだ。めいおう荘のことも、絶対に気がついていないとコユキはこっそり思っていた。
(本当、なんでこんなに鈍いんだろ。お父さん似かな?)
悪夢
その夜コユキは夢を見た。
暗く、狭い、身動きが取れない部屋で紅子が怖がって泣いている。
(紅子!)
身動きが取れない苦しさがコユキにも伝わった。金縛りにあったようだ。どうにか動かないと、この苦しさから逃れられない──。なんとか、振り払うように腕が動くと、その瞬間目が覚めた。でもその苦しさの余韻が残っていて、荒い呼吸を繰り返す。
窓の外を見ると満月だった。月は異様に大きく、近い。
そして周囲は一切の物音が消えてしまったように静かだ。
コユキは、もしかしてまだ夢の中にいるのだろうかと錯覚した。頬をつねってみる。痛い。起きている。
世の中の全てが眠っている──いや、まるで何もかもが死んでしまったような静けさ。コユキは、言葉にできない恐ろしさ、何かの圧を感じながらも、動いた。お守りのある手首を握る。自分の熱い脈を感じた。
月の引力に導かれたのだろうか。暖かい寝床から、勇気を出して飛び出す。めいおう荘へ走った──。
待っていたよ
めいおう荘へ辿り着くと、待っていたよと言わんばかりにテトラが外へ出て風を浴びていた。台風が来る前のように、熱を帯びた風だった。
月は、今にもテトラにキスをしそうなくらい近い。その明るさのためか、街の影はいつもより重く黒く見えた。
何もかも死んでしまったような静けさの中、喪服に身を包んでいるようなテトラの佇まいは、コユキをますます緊張させた。
これから何が起ころうとしているんだろう。
そしてコユキは何故か、制服を着てきていた。
「制服にブランド感じてんのか、浅ましいメスだな!」
ららが毒を吐く。
「なんかわかんないけど着て来ちゃったの!」
「そのインスピレーションは正しいよ、コユキ。君の感覚も研ぎ澄まされて来たらしい」
外の音に気がついて竹村が部屋から飛び出して来た。風を浴びて前髪が乱れる。
「コラ!言ったろう……子どもが無茶すんなって。今何時だと思ってるんだ!」
竹村のいうことは優しいし、正しい。
だがコユキの夢の中で、紅子は膝を抱えて泣いていた。コユキは手首のミサンガをぎゅっと握る。
テトラ君はインスピレーションと言ったが、確かに、感じるのだ。紅子がいる場所にはコユキしか辿り着けない気がする。
「私が、私が紅子を助けるんです」
その声は震えていた。だがコユキには強い覚悟と勇気があった。
アパートの近くの街灯には、蛾が群がっている。その蛾は両掌を広げたより大きく、真ん中は人面でニヤニヤと笑っていた。見回すと、街も、夜も、いつの間にか、コユキの知らない夜へと変わっていた。
「よくぞ言った!」
テトラ君が仁王立ち、叫ぶ。喪服のような白黒の服で。しかしこれから行くのは葬式ではないのだ。鋭利な歯が光る。
気がつくと、テトラの足元から伸びている影が、ぐん、ぐん、と焦ったそうに暴れている。伸びたり、膨らんだり、どんな形を為そうか迷っているかのように……。
コユキが驚いて見ていたら、その影からピンと立った三角の耳、流れる立て髪、そして黒い宝石のような瞳──馬、とコユキが認識した時には、太い柱のような首、空中を駆る立派な四肢がさらに現れる。
そして、満月に鼻面を向け、巨大な馬は盛大に嘶いた。
コユキと竹村は口をあんぐりと、その神秘的な大きな馬が嘶く様子を見ていた。テトラは迷わず、美しい刺繍を下げた馬の鞍上に跨る。
「はいどう!」
テトラはその手綱を掴み、コユキと竹村の周りを駆ると、颯爽と二人を抱き、乗せた。
「クロードだ。いい馬だろう」
コユキは、太く熱い、馬の首を撫でた。指にザクザクとした美しい毛並みが当たる。その感触に何だか感動した。
「いやいやいや俺は馬は府中で見るだけでじゅうぶん……」
「バン爺も準備はできたか?」
「はい坊ちゃん……」
同じく影の中からぬうっと姿を現した老人は、コユキの記憶の中の姿とはまったく違った。
「バン爺……なんかバンプアップした?」
記憶の中ではふざけてピアニカを吹きならす、萎れた老人であった筈が、モヒカンの頭髪は武人の扇のように大きく拡がって、身体は筋骨隆々、逞しく膨らんでいる。
「はい……今宵の戦いに備えて精のつくものをたんと食べて、身体を作ってまいりました」
バン爺の大きくなった身体からは湯気がのぼっている。
テトラは一旦馬を落ち着かせ、めいおう荘の前に立つ、ららに近寄った。
「ららはすまないが留守番だ」
「分かってる。ららは留守番……」
そこにいつもの強気な顔はなく、目に見えて、しゅんと落ち込んでいる。ららはぐすん、と泣きそうに鼻を啜った。
「俺も留守番で……いいよぉ……」
何故か担がれた竹村が、頼りなく言う。
テトラ君は意外にも、左手で手綱を繰り、右手は軽い荷物のように難なく竹村を持っている。コユキはテトラ君の腰にしがみついた。
華奢とはいえ、男の子にこんなに近づくのは初めてで緊張した。自分より小さいと思っていたのに、肩や背中はしっかりと男の子である。柔らかい銀髪が顔に当たった。
そして、かいだことがあるような、甘く澄んだ、花の香りがする。
バン爺は鞍上ではなくクロードの臀部の方で、謎の安定感で胡座をかいている。
馬に乗るのは初めてだが、コユキはこの馬は私を落とさない、という安心感を覚えた。
テトラのてっぺんの毛が、アンテナのように強くそそり立つ。
「はいどう!」
テトラが合図をすると、クロードは一蹴りで満月に届きそうなほど跳ねる。人面の蛾が情けない顔であわあわと散った。
「馬はいいぞ!戦士を、その魂を呼ぶ戦さ場へと連れて行ってくれる」
その馬は、夜空を自在に駆る。コユキはなんて夜だろうと街を見下ろした。
着慣れた制服で、日常と、非日常が交錯する。
この下に拡がる屋根、屋根。その下で人々はどんな夜を過ごしているのだろう。
大きな満月からは、鱗粉のように金の粉が落ちてくるようだった。美しい。
美しくないものは白目を剥いている竹村ぐらいだった。テトラに抱えられているのがちらっと視界に入った。
「必要な燃料は勇気!それのみ!」
暗闇の中に見覚えのある校舎が、眠っているように静かに佇むのが見えた。コユキはミサンガを握った。
学校での戦い
校門の前で、クロードは入るのを躊躇った。まず竹村を降ろす。地面に落ち、小さくうっと声を出した。そしてバン爺とコユキも自分で降りた。
夜の学校は、昼間の姿とは全く違う。当然だが、誰の気配もなくどこか重苦しく見えた。
校舎に近づこうとすると、何か跳ね返す膜のようなものを感じた。
(……?)
目には見えないのだが、手を伸ばすと確かに手のひらに何か感じる。
「おぉ?何だこりゃ?」
竹村がパントマイムのように空気を触る。
「コユキ、すまないが先頭を頼む」
コユキが前に立つと、さっきは跳ね返すように感じた空気の抵抗が、よわまった。
「あ、入れる……」
テトラが言っていたのは、こういうことだったのだろうか。コユキが制服だから、校舎は拒否するのをやめたのかもしれない。
四人と一頭は、昇降口へ向けて立ち入った。すると対になっている校門の影が筍のようにぐんぐんと伸びる。
「きゃ……」
足元で起きた異変に、コユキはテトラのそばへ行く。そこから黒い三角の帽子、黒衣を纏った、見上げるような巨大な人物がテトラ君達の前に立ちはだかった。
「…⚪︎4a頤*ギ…」
何か喋っているのだが、その音声はチューニングの合っていないラジオのように聞き取れない。しかしよくよく聞くことに集中していると、だんだんにその雑音のような声は、意味が分かる言葉になっていく。
「ピ朦%喩ゴ…コヨイ コチラニ」
「ねぇこの黒い服の人たち、誰⁉︎」
「審判員の方々だ」
「しんぱん⁉︎」
『平等』
『公平』
『公正』
二人の黒衣の人物の声は揃っている。
『全てをフラットに見届けることをお約束します』
大きな三角帽子の頭を深々と下げた。そして黒衣の胸元を拡げると、幾重にも畳まれた羊皮紙が濁流のように現れる。
その紙には、コユキには読めないが難しい文面が綴られているようだった。
『これより先に、冥王ハデス様のご私物を確認しております』
『そして獲得に向けて名乗りを上げられました資格保持者様が二名』
『保持者様ブッキングの場合はご存知の通り、決闘にてその権利は争われます』
『書面にご納得いただけましたら承諾のサインを』
テトラ君はその膨大な羊皮紙を持ち、ふむふむと読み始める。
呆然と、展開に取り残されていた竹村は、サインという言葉に反応した。
「こらー!テトラやめろー!契約とか署名とか、簡単にするんじゃねー!」
その言葉は、この異様な状況には似つかわしくない小市民の生活の実がこもっていた。バン爺だけは落ち着いて事を見守っている。コユキは何が何だかわからない。そういえばバン爺は来る前から『今宵の戦い』と言っていた。何が起こるのか分かっているのだろうか。そして、羊皮紙は二人分ある。もう一枚は一体誰のために用意されているのだろう……。
そうコユキが考えた時、視界はふ、と暗くなった。満月が隠れたのだ。雲が隠したのだろうかと思い、見上げた。見上げてから分かった。
違う。雲ではない。
コユキと竹村は、茫然、なんてものではない。クロードがテトラの影から現れた時はあんぐりと口を開けた。今も同じように口を開けてしまう。だが今度は、絶望すら覚えた。
夜空には、満月を遮るような巨大な帆船が、雲の割れ目から少しずつ姿を現した。その船の先っぽに、獅子のような獣の頭がついている。コユキの船の知識でいうなら、祈ってるような人魚がついているところだ。だがその船の船首は眼光するどい獣で、しかも鼻を鳴らしたり首を捻らせたり、動く。まるで獲物を探しているようだ。そして下にいるテトラ達を見つけたようだ。瞳孔を開き一吠えする。そして船員に向かって何か告げているようだった。
船全体の姿が見えてくると、はっきりと一人一人視認できるわけではないが船の上にはかなりの人が乗っているのがわかる。ガヤガヤザワザワとした騒々しさが伝わってくる。昔の豪華客船のような、まるで動く宗教画のような、時代や国はそれぞれだけど貴族や僧侶のような人が乗っている。そんな厳かな空気をコユキは感じた。
そして次の瞬間、大地を震わすような声が天から降って来た。びりびりと響く鼓膜を抑える。
「私と一戦まみえる気でいるのか!」
テトラは天を見上げながらその地響きのような声に応じる。声の主は、影だけでわからない。ただ大きな、巨大な影からプレッシャーを感じる。あれが話している主かもしれない。
「はい。胸をお借りしたい。決闘の流儀です。兄上もご署名を」
「久しぶりに顔を見たと思ったら、愚弟よ……」
テトラは親指を自らの牙で傷をつけた。すると黒い煙のようなものが傷口から噴き出し紙へ向かい文字となった。もう一方の羊皮紙にもひとりでに、乱暴な勢いで太い筆のような文字が書かれていく。
黒衣の二人の腹の中に羊皮紙は巻き戻っていく。
『それでは』
『これより』
『王位継承順位第一位モノ・クロ様』
『王位継承順位第四位テトラ様』
『第百三十六戦目、両雄の決闘を開始致します!』
息のあった声でそう告げると黒衣の二人はまた門柱の影の中へ消えていった。
いつもの学校の校門だ。
朝コユキはチャイムが鳴る中ここを走った。だが今は夜空には巨大な帆船、一体何が始まるのかわからない異様なプレッシャー。
ただコユキは、怯えるよりもひたすら失望していた。竹村がコユキの方へ走り寄る。
「よくわからんがテトラの傍にいれば安心だ。そうなんだろ」
コユキは首を振り、身を固くしてテトラ君の傍へは行かなかった。その時、空気に重いダンベルでも投げつけられたような衝撃が走った。爆弾?いや違う。よく見ていると、空間に、どんどん殴られているようなヒビが入る。
「やだ、何これ……」
とうとうそれはヒビだけに留まらず、何かが割れた!そんな印象を受けた。
割れたところからはニュッと手が出てくる。それに伴い、身体が姿を現す。それは人間の大人くらいある鎧武者だった。その頭部はチェスの駒、歩兵だ。
茫然自失して眺めていたコユキは、歩兵が振り回す棒に気が付かなかった。棒の先には刺々した恐ろしい鉄球がついている。ぼんやりと、その鉄球が自分に振り下ろされるのを見ていた。
「コユキ!」
咄嗟に、テトラが押し倒すようにしてコユキを庇う。
容赦のないその一撃は、本当に、地面を割った。そこはさっきまでコユキが立っていたのだ。コユキは尻餅をつきながら、上がる土埃と砕けた地面を見ていた。立てない。
いつの間にか空気のヒビ割れは増え、次々歩兵の鎧武者が現れていた。次の一撃が、まだ身体を起こせないでいるテトラとコユキを襲う──
「はぁいいいい!」
強烈な気合と共に、バン爺が電光石火駆けつけ、拳を歩兵へ振り抜いた。その一撃は、鉄球よりも重く歩兵の胴体は砕け散った。
「行かれよ、兄上に遅れをとりまするな」
バン爺の瞳は力強かった。
「行くよコユキ」
テトラ君はコユキの手を引き走った。左右から襲いかかる歩兵の間を、低く走り抜けることで避ける。歩兵達は相打ちしながら散った。
飛び散る歩兵の破片を顔に受けながら、コユキは自分の気持ちを取り戻していった。そして校舎の中へ入った。竹村もなんとかそれに続いた。
校門前に残ったバン爺は、見事な体術で次々歩兵を破壊した。しかし後方からの一撃を受けよろめく。なんと言っても数が多い。
「バンヘルム……耄碌したな。貴様がついていながらまだあの愚弟を好きにさせているとは」
バンヘルムと呼ばれたバン爺は天の船に向かって話した。
「バンヘルム……懐かしいですな、その名で呼ばれた頃は父王と数多の戦さ場を駆けましたぞ」
よろめきながら、バン爺は歩兵の背中を取り、腰を抱くと、片腕だけでジャーマンスープレックスをキメた。
「今は孫のような坊っちゃまが可愛くてしょうがない、耄碌バン爺ですじゃ!」
気合いの咆哮と共に、また、力の乗った一撃を喰らわす。
しかしヒビ割れからは次々と、歩兵だけではない。ビショップ、クイーンと、様々な駒たちがそこへ飛び出そうと、身体の一部を覗かせた。
暗い昇降口の中に入り扉を閉めると、外のバン爺達の戦いは遠く感じる。校舎の中は、ただの夜とは違う、濃い、深い闇に満ちていた。
コユキはスカートについた砂埃を払うと、鈍い痛みを感じた。太ももに、大きな擦り傷ができていて血が滲んでいる。痛みを一度自覚すると、顔や掌の小さな傷も痛み出す。身体が震えた。
「理解が全然おいつかねぇ」
「テトラ君、決闘……ってどういうこと」
暗い校舎の中、失意のコユキの心は、より暗い。
「それを全て説明するには、長い長い夜が必要になるよコユキ」
「紅子……私の友達を助けるの、そんなことどうでもよかったんだ。そうだよね、こんな大きなことをしてるんなら、私の友達なんて、どうでもいいよね」
「それは違う、お友達は父上の魔具の影響に巻き込まれている。君の友達を助けたい、本当だよ」
コユキは、背を向けた。
竹村の言っていたことは正しかったのだ。コユキが持ち込んだ困り事などどうでもいい。別の、自分達の目的のために動いていて、コユキは校舎に楽に立ち入るために利用されたのだ。
校舎の窓にテトラが映っている。まだ明るい内もここをテトラと歩いた。その時テトラはここの生徒と変わらぬ、子どもらしい顔を見せていた。だが今はその時よりずっと大人びている。
彼の瞳の色が読めない。まるで、今の夜空のように暗く陰るような時もあれば、月光のように白くまばゆく見える時もある。テトラの瞳が揺れているのだ。
テトラはまっすぐにコユキを見てくれるのに、コユキはその視線に向き合うことができなかった。まだ、窓に映るテトラのことしか見られない。
コユキの肩越しに映り込むテトラ。
ついでに、竹村が壁に貼られた文化部達が作っている掲示物を呑気に眺めているのも見えた。校舎の中ってこんな感じだったかー。なんか懐かしいなぁという呑気な独り言が聞こえた。
たくさんのことが一遍に起こって、怖さもあり気持ちをどう落ち着けたらいいか分からない。
(テトラ君を信じていいの……?)
テトラが探しているのは紅子ではない。「マグ」と呼んでいるものだ。そのためだったら自分や紅子の無事などどうでもいいのかもしれない。いやそんなことはない。テトラから感じるのは、心からの寄り添う気持ちだった。テトラを信じたい。コユキは迷い、俯いた。
テトラ君のこと
テトラの故郷は、コユキ達が暮らす地上とは陸続きにない。ではどこかというと、いうなればめくった裏っ側のような、別次元にある。
冥府。彼はその、死を司る世界からやってきた。彼の父は冥府の王であった。
だが父王は長い統治でかなり老い、弱った。父王の力が衰え、今冥府は文字通り、天と地がよくひっくり返るほどめちゃくちゃになっている。
反省のない悪い死者がのさばり、地上で辛い思いをしてきた弱い魂がまた、ここ冥府で虐げられてしまう。混乱を極め、荒れ果てている。
父王が冥府を統べるのに使い、蓄えた豊かな財産も、奪われたり、または空間の歪から失われたりしてほとんど手元にはない。
たくさんいた子供達や従属も、今では数えるほどである。
父王の力が健在だったころの冥府は見事であった。
皆が役割を果たし、一つにまとめ上げられていた。死者は秩序を守り、悪き魂は自分の過ちと向き合い、反省の道を探す。死を司る国とはいえ、そこは地獄とはまた違う。平静さと穏やかさがあった。
今はその頃の面影はほとんどない。
地上での、肉体と生に別れを告げたもの達。あらゆる命が、今まで過ごした時間と向き合い、公平に次へ進む。そういう場所であるべきなのに。こうも乱れていては、次の形を落ち着いて為すことができない。
冥府に平穏を取り戻す。そのためには新しい王が必要だ。失われた財産も取り戻していかなければならない。
ただ王とは、誰でもいいからなれば良いのではなく、この混乱を統べる器と力が必要となる。
順当でいけば兄がそのまま王になる筈だった。だが、混乱を極めた冥府を統べるにはより『相応しい』王が必要らしい。
そうして、この継承争いが始まった。
地上と冥府、あちらとこちらの境目は昔から多々あり、たまに乱れることはあっても均衡を保ち、うまく共存もできていた。
冥府も地上もお互いに影響し合うのか、コユキ達が暮らすこちらの世界も、気候変動、災害、崩れる生態系、そして次々起こる戦争。荒む人々の心。
長い歴史の中で、どんどん不安な方へおかしくなっていく。冥府で居場所のなくなった不安定な死者が、裂け目からこちら側に落ちてしまうことも多い。
地上、海上、あらゆるところがゆっくりと、滅びの道へ傾こうとしているのかもしれない。
王の子供達が目指す統一の形はそれぞれ違っている。
テトラが知るのは数名のきょうだいのみであるが、テトラの思う彼らの印象はこうである。
兄上は、冥府が一番、である。地上の混乱のことなど気にかけていない。そちらは滅ぶなら勝手に滅べばいいとすら思っている。故郷である冥府を元の美しい死の国へ戻したい。その信念で動いている。
姉上の思いはよく分からないが、一応は参戦しているからには考えがあるのかもしれない。
小姉上は、とりあえず弟可愛いと言っている。
そしてテトラ自身にも目指す王の姿がある。だが統一の道は果てしない。そんな継承戦が長い年月続いている……。
暗い校舎の中
コユキたちは、聞き覚えのない金属音を聞いた。
ギ……ギィイイィ……
「何だこの音、俺の銀歯に響くぜ」
「離れよう」
テトラは、校内案内図を見て、目指す教室があるのか、北校舎へ向かおうとした。しかしその時、コユキの頭に閃きのようなものが走った。インスピレーションを信じろ、というテトラ君の言葉がよみがえる。
「待って!こっち!」
一瞬とどまり、コユキは反対方向、南校舎へ皆を誘導した。だがその一瞬の躊躇いが、さっきの金属音の主をより近づかせたようだった。嫌な音が、耳をつんざく。
三人はバタバタと廊下を走るが、その嫌な音が近づくのでテトラ君がどこかでやり過ごそうと教室の中へ入った。そこは生物学室だった。
「しっかり閉めたまえよ」
テトラに言われ、最後に滑り込んだ竹村はバシン、と強めに閉めた。
夜の生物室というのは不気味だ。ホルマリン漬けの標本がよりグロテスクに見える。
「さっきのはなんだったの?あれもお兄さんの仕業?」
「あれはね、肉屋だよ」
「に、に、にくや?」
お肉屋さんには悪いのだが、この不気味な空気で聞く『肉屋』というワードは、なんだかゾッとして聞こえた。
「通称だ。兄上の配下のものではない。その辺の魑魅魍魎の、類だよ。最近校舎のガードが緩かったうえに兄上にしっかり壊されてしまった。だからふらふらと入って来てしまったんだろう。安心しろ、しっかり戸締りさえしておけば、わざわざ扉を開けて探したりするほどの行動力や賢さはないんだ」
三人はしゃがんで、ガスの通っている実験用机の下に入って息を潜めた。テトラ君の銀色の髪や瞳は、こんな闇の深い夜でも鈍く月光のように光っている。
恐ろしい怪異でも、約束やルールを守れば回避できるトラブルも多いという。
そういうものとの渡り合い方をよく知っているテトラの存在は頼もしかった。少しホッとしたコユキの気持ちとは反対に、竹村はある疑念に捉われていた。
(俺……ちゃんと閉めただろうか……)
最後に生物室へ駆け込んだのは竹村だ。不安はだんだんと膨らみ、脂汗が滲む。
あの瞬間の事を思い返す。慌ててこの部屋へ逃げ込んだ。とりあえず閉めろと言われたから。テトラから言われたそのルールを聞いた後なら、冷静に確認しただろう。だが、とりあえず「強く」閉めた気がする。そうするとこういう横スライドの扉はどうなるか……。
(絶対開いてる気がする)
『絶対』と『気がする』は相反するのだが、ここに竹村の不安がよく表れている。その心配は、竹村の中で大きく、大きく膨らんできた。
コユキは膝に顎を乗せ、小休止するテトラ君に話しかけた。お泊まり会の時に秘密でするお喋りみたいに。
「ずっとお兄さんとこうして争ってるの?」
巨大な船で現れ、たくさんの勢力を抱えた強い圧の兄と、老人とパンキッシュな女の子と、慎ましいアパートに暮らすテトラ君とでは、まったく対抗する相手には思えない。そんな力関係では、家督争いというが、テトラ君はまったく期待されていないのでは、とさえ思う。だがテトラにそんなことは言えない。
「そうだよ」
パチリと開けたテトラの瞳は、いつもは花火や流れ星のようなものが見えるのに、今は砂嵐が舞っていて、灰色で霞んでいる。もしかして、テトラも不安なのだろうか。
「怖くないの?疲れないの?やめたらいいのに。こんな兄弟喧嘩みたいなこと」
「怖いよ、でも僕にも僕の目指す理想の王の姿がある。だから諦めきれないのさ」
ヒソヒソと話すコユキに、テトラ君もヒソヒソと答える。まるでこのお喋りが、誰かに聞かたら大事な夢が壊れてしまうみたいに。
テトラはやっと目を合わせてくれたコユキの瞳を見つめた。人間の瞳。コユキの瞬き。パチリと瞼を閉じ、また開く。人間の人生は儚い。その瞳が、最後の瞼を閉じる時──。
二人は全然違う世界に生きていた二人なのに、その時、少し心を通わせていた。
竹村一人、不安と心配で口の中がからからに乾いていた。確かめたい、確かめたい。扉の方に寄って、確認したい。でも今近づくのはやばいかもしれない。下痢のような顔色で、背筋を傾け、アゴを逸らし、黒目をギリギリの位置まで寄せ、扉の方を見た。
扉は……。
(あぁー!開いてるー!)
その瞬間その隙間から、不潔に黄色く汚れた長い爪、おぞましく曲がったり膨れたりした節々の指がにゅっと入り込んだ。
「おわぁー!」
叫び、ダッシュした竹村はその悍ましい指ごと、扉を思い切り閉めた。挟まった指は痛みに悶絶して見えた。
「うわあっあっあぁあぁ。きもいぃ」
泣きながら竹村はどうにか閉めようと力を込めた。挟まれた指は暴れ、逆にどうにか開けようとする。竹村はさらに押し返す。それを繰り返すと、指からはゲロかヘドロのような体液が漏れた。
「ぅえぷっかかったっかかったっ最悪だ」
汁を浴び竹村はパニックを起こす。
コユキとテトラも、竹村の元へ寄ろうとした時、空気にガラスの様なヒビが入る『肉屋』の指とは比べ物にならない鋭い紫色の爪、自然の爪ではない。爪まで鎧に覆われているのだ。そしてそれが両手首まで飛び出し、その裂け目を拡げようとこじ開ける。
拡がったところから太い腕が出、テトラ君の顔の肉を引き裂こうと伸びてきた。テトラはそれを見極め、紙一重で顔を逸らし、避けた。銀色の髪が二、三本切られ、空中に散った。
そのスピードは容赦がない。
肉屋の指は力なく引っ込んだ。その瞬間竹村は跳ね返ってまた開かないように丁寧に扉を閉じる。そして急いで身体を翻すと、生物室の椅子を掴み、現れたその腕目掛けて投げつけた。
「くぉの!おら!」
竹村は何度も何度も椅子でその裂け目から出ようとする身体を叩き続ける。
テトラのつむじの髪の束がピコン!と立ちきらず、ぐるぐると巻いた。
「竹村すまない、急ぐようだ。ここは任せてもいいか」
「うぉう、マジか」
伸びて来た腕に胸ぐらを掴まれた竹村は動くことができない。
「竹村さん!」
「大人がよ、任せろって言えねえのはダセェだろ!任せろ!」
コユキはミサンガの端を握る。コユキも焦っていた。このミサンガに紅子の命と繋がる何かがあるとしたら、異変を感じた。その命は冷え、今にも消えそうに小さくなっている。結ぶ、繋がる、そういうものが強みになるとテトラ君は言った。コユキはテトラの言葉を信じた。
「こっち!」
2階の踊り場の男子トイレ、女子トイレを横切り、増築でできた中階段をのぼる。のぼるが、上っても上っても先が見えない。おかしい、こんなに長いはずはない。不安になる。もうのぼれないと諦めたくなる。二人の息が乱れてきた。
この上には音楽室、倉庫、生徒指導室がある。ようやく階段の終わりが見える。汗が滴り、息が上がった。
廊下全体に、吹くはずのない嵐が吹き荒れていた。
窓から見渡すと、静かな旧校舎とグラウンド、大きな橿の木がある。
夜空は宇宙を感じるほど暗く、広かった。バン爺や竹村はどうしているだろうか。無事でいるだろうか。
怖い。そう意識すると走れなくなりそうだ。こんなに大変な思いをしても、紅子を諦めきれないのは何故だろう。
「どうしてそんなに走れるんだい」
廊下を駆けながら、テトラにコユキは尋ねられた。
産まれた時から一緒だったとか、何かを共に成し遂げたとか、紅子とコユキの間にそんな大きなきっかけはない。
ただ、紅子はコユキを肯定してくれた。
冥王の子として世継ぎ争いをしているわけでもない。
貧乏暮らしのために日銭を稼いで苦労しているわけでもない。
ただの平凡な中学二年生。それでも、誰にでも、学校や社会、人によっては安心できる筈の家ですら、大きかったり小さかったり、いろいろな闘いがある。
自分が辛い時寄り添ってくれた。哀しい時一緒に泣いてくれた。楽しい時一緒に喜んでくれた。
そんな友達。それは、光。
(紅子……)
「そんだけだよ、そんだけだけど、頑張ってみた。しょぼいかな」
「いや、素晴らしい希望だよ」
廊下は眩しかった。突き当たりの窓から大きく今夜の満月が大きく大きく見える。
それに照らされて道がはっきりと見えた。逆に闇はより濃くなる。コユキはあの時のことを思い出した。
あの時、紅子はまぶしい、と言っていた。あの夜、紅子はきっとこの廊下を歩いていたのだ。
コユキも、違和感にやっと気がついた。竹村が依頼されて落としたのは、あの樫の木の枝だったのだ。ここの景色が変わって、見えなかった筈の月が見えるようになった。この奥の生徒指導室、そこにきっと紅子はいる。コユキはテトラの手を取り、走った。
「なるほど、夜空からの魔力を欲したか」
校舎内に吹き荒れる嵐。強い風に押されながらなんとか生徒指導室の扉を開ける。
素晴らしい景色だった。この部屋は壁が全て窓になっている。
大きく煌々と照る月が、その部屋からもよく見える。
樫の木は、学校を守る存在でもあった。そういうものを大事にしないから、学校の結界が弱まっているらしい。そういう場所が、非常に増えたとテトラは言う。
コユキは部屋に入った途端紅子の気配を感じた。
どこだ。
部屋の中を右、左と見回す。
真ん中に配置された面談用のソファ、ローテーブル。壁沿いにはホワイトボード。コピー機にパソコン用デスク、ロッカー……。部屋中を見渡しながら、人間の背中を見つけたことに驚いた。誰かいる。強い月の光を浴びて、その背中はあまりにも黒い。
時計はカチリ、と深夜二時を指した。
スイッチが入ったように動き始めるその人物。
「だれだぁ まだ 校舎に
居残っているのはぁ あぁ
あ」
その人外じみた喋り方にコユキはゾッとした。震える指で口を押さえその名を呼ぶ。
「まつばら、先生……」
首を180度回しこちらを向く動き。いくら厳しいとはいえ、まともに人間であった教師の姿をほとんど残していない。怪物だ。
眼鏡の奥の眼球は、今にもこぼれ落ちそうにはみ出していた。
「哀れな、鏡の魔力にあてられたな」
テトラが顔をしかめる。
「コユキ、鏡だ。彼の足元の箱を見ろ」
見ると、松原先生の足元にも月の光が見える。それは月光を映す鏡であった。
コユキは足元目掛けて滑った。タケル達がよくやるヘッドスライディングを真似た。
箱を掴みそのまままたテトラ君のいるところまで戻ろうとしたが、松原先生に髪を引っ張られる。
「その かみのいろは しどうだ しらやまぁあ あぁ あ」
「いやっ」
強く掴まれ頭皮が剥がれそうなほどに痛んだ。
引っ張られたコユキの白い髪が月の光を浴びる。化け物じみた体になった松原先生に引っ張られる。床に、その様子が大きな影となって映った。
コユキの髪は白い。生まれつき白い。どこへ行っても目立った。どこへ行っても何か言われた。なので小学校はずっとフードを被って過ごした。帽子の中になるべくおさまるように髪を伸ばさなかった。
さらに中学に上がってから、生徒指導部の松原に目をつけられた。生まれつきのものだと説明しても、その態度は陰湿で、毎日髪を黒く染めろと追い回された。
せっかく楽しみに来た中学校だったのに……。
俯くコユキの顔を上げさせたのは紅子だった。
『何この髪っさらっさら!キレー!』
それから二人は急激に仲良くなり、紅子は松原先生からのいじめを知る。その次の日に金メッシュに染めてきた。
『いじめるんならこっちをいじめなよ』
その後紅子が起こした動きは学内を巻き込み、その年の春からやってきた、風変わりな校長先生に届いた。
『賑やかな髪色、土萌に沸く春の野山みたいで、いいんじゃない、いいんじゃない?』
恵比寿顔で笑う先生であった。
しかし、これで皆が皆、染めて風紀が乱れたわけではなく、染めたいものは染めるし、まだ十代の頭皮を傷めたくないと、それぞれに選択をした。
自由が生まれたおかげで生徒達の責任感が増す結果となり、往生中の空気はよりよくなった。
『お、俺だって野球部の規則がなきゃ虹色にしちゃったもんね……』
コユキの防波堤になれなかったタケルは悔しがった。それをコユキはよくわからない顔で眺め、紅子は口が耳に届きそうなほど満面ににやけていた。
コユキは生まれて初めて、堂々と髪を出し、伸ばし始めた。コユキはずっと髪を伸ばしたかったのだ。茶色も、金も、ピンクもいる。その中でコユキの真っ白な髪は目立たなくなった。
そうして、新たな選択肢を作り、インフルエンサーとしての知名度もあった紅子の人気は高まった。
『生まれつきのものを責めるなんて許せない』
『でも紅子は染めたじゃん』
『アタシは生まれつきギャルだから!』
『あはは……』
だが納得がいかなかった松原先生だけは、この流れを認めていなかった。何か見つける度理不尽に、ことあるごとに紅子を責めた。しかし紅子は挫けなかった。
紅子への指導が厳しくなったのも、コユキを思い遣った紅子の態度が、より先生との対立を強めたのかもしれない。
後ろから髪を掴まれ、アゴがのけ反る。このまま頭蓋骨ごと引き抜かれそうだ。息が止まりそうな程痛い。
だがコユキは、頭皮がはがれそうなのも恐れず、抱えている箱の中へ顔を埋めた。
「松原先生、あなたが冥府の裁きを受けるにはまだ早い!目を覚まされよ!」
テトラの掌から、青い炎が昇る。それを一度グッと握ってから開き、松原先生の方へ向けて放った。するとその炎は、異形の姿へ変わった教師の顔へ命中した。怯んだ瞬間、顔だけでなく全身が、青い炎に包まれた。
「コユキはお友達と話をしておいで」
紅子が孤独に震えている声がする。それに導かれて、コユキは鏡へ顔をつけた。
すると、顔は水につけたように鏡面の中へ。そしてそのまま体ごと、沈んでいった。
松原先生のこと
松原先生は教職に就いて五年目だ。初めて勤めた学校は、自分の指導で学校に来られなくなった生徒がいて、そこを辞めることになった。
だが彼は自分が間違っていたとは思わなかった。
その生徒はだらしなく制服を着崩し、遅刻も多かった。
先生を先生と思わず尊敬もしない。
自分は当たり前の指導をしただけだ。
ルールを破る時はその後のことを何も考えないくせに、間違いを指摘されると寝込むなんて、卑怯だ、軟弱だ。
なぜ正しい側が反省しなくてはいけないのか。生徒はルールを守るべきだ。未熟な者、考えの浅い者、そういう者を社会に参加させるには、ルールが必要なのだ。
子供の頃から、正しいことが好きだった。してはいけない寄り道をしたり、持ってきてはいけないものを持ってきたり、そういうクラスメイトはみんな、先生に報告した。当たり前だ。ルールを破ったのだから。罰を受けるべきだ。正義の反対は悪だろう。私が正しい。君たちが悪だ。それなのに……。
どうしてルールを破っている奴らの方が楽しそうなのだろう。どうして正しい自分から人は離れていくのだろう。
子供は未熟だ。規則を押し付けだと思う。でもそのルールが守るのは君たちの未来だ。目先の見栄えや楽だけ見ていればルールを煙たく思うだろう。服装の乱れは心の乱れ。よくない連中にも目をつけられてしまう。
外出先の制限や下校時間の規則は、犯罪に巻き込ませないため、目的があるのだ。君たちの未来を守るためなんだ。平和な街、安心できる社会はルールによって作られているのだ。
なぜ正しい側が苦しまなければならないんだ。何が行きすぎた指導だ。ルールも守らないくせに口答えだけは一丁前にしやがる。どうして私が追及されねばならなきゃならんのだ。排他されるべきは、規則を守らないやつらだろうが。罰は与えられるべきだろうが。
なぜ私が追い出されなくてはいけなかったんだ。しかたがない。往生中では絶対に君臨する。私がルールの王だ。指導指導指導だ。
新入生の「白山コユキ」アイツは酷すぎる。真っ白な髪だと。もし生まれつきだったとしてもそんなことは関係ないのだ。自分も生まれつきですと嘘をついたり真似をしたりするものが現れる。子どもは卑怯だから。ルールの抜け穴を探すことにばかりこざかしい。
そして大人を悪者にする。おかしいじゃないか何故取り締まる側にたてつけると思っているのか。子どもは締め付けられる側なのだ。
「甲田紅子」アイツは異常だ。うっかりやたまたまではない。わざわざ刃向かうために規則を破ってきやがった。あれはいっそ犯罪者だ。甲田、甲田はアイツに似ている。そうだ好き勝手していたくせに私に注意されると寝込みやがったアイツに。
「甲田」「白山」この二人は粛清だ。どうしてルールを破る者の話を聞くんだ。どうして、違反者が支持されるのだ。間違っている。規則があるから幸福があるのだ。
私は守ろうとしたのに。
生徒も、世間も、親も、他の教師も。何もかもが間違っている。
そうしてある日、松原先生は旧校舎で大きな鏡を見つけた。
鏡に映った自分を見返す。すると力が湧いてきた。鏡の自分がこう囁く。
お前は正しい。
彼は思った。
そうだ自分はやはり間違っていない!
鏡の中の自分は自信に溢れていた。独りよがりなどではない。自分はやはり正義のために戦うべきだ。
どんどん力が湧いてきた。
鏡の中の自分に励まされ、次々使命を与えられる。そうかこれは神から贈られたものなのだ。
自分もやはり、神にこの世の平定を任された者だったのだ。
ここに至るまでに苦労した。愚かなはみ出しもの達にずっと足を引っ張られてきた。
甲田、貴様はやはり糾弾されるべき犯罪者だ。
テトラは、哀れな松原先生と対峙した。青い炎は、いつのまにか松原先生の全身にまわっている。だがその炎は、激しく燃えるというより、優しい泡のように松原先生を包んでいる。人の心の弱さを感じ、テトラ君は胸を痛めた。
「あなたも希望に目を輝かせ教壇に立った日もある筈だ。負けないで」
人は、認められたいと僻み、褒められたいと拗ねる。今の自分に満足できていない心の欠けが、どんどん広がっていってしまったのだろう。それが決して悪いわけではない。だがその歪みに偏ると、身を滅ぼす。
(まだやり直せるだろう?)
テトラの青い炎は罪を咎める炎ではなく、自分の間違いや弱さと向き合えるかを問う、贖罪の炎であった。
コユキも、自分の行くべき場へ赴いた。テトラの呼びかけが、水の向こうからのように聞こえる。松原先生に届くだろうか。
その時、生徒指導室を強い地響きが襲う。空気中にヒビが入り、立っていられなくなりテトラは膝をついた。
テトラの青い炎が、黒色に塗り変わる。この炎は、なんの暇も与えない。魂ごと燃やし尽くそうとする、兄の業火の炎だ。
「兄上!」
空気が砕かれ、そこは次元の違う場所と繋ぐ入口となる。
テトラの兄が姿を現した。
人と同じ、華奢な姿をしているテトラ君に対し、兄の姿は禍々しかった。極太い角を頭から生やし、皮膚を持たない剥き出しの筋は紫色をしている。そして、その身体に相応しい甲冑と、高貴なマントを羽織っていた。
彼の鼻息はそれだけで頭髪を燃やしそうな程熱かった。教室は熱で歪む。
松原先生の姿は今にも焼け朽ちてしまいそうだった。テトラ君は先生の身体を抱き、身を挺してその火を消した。テトラの顔が苦痛で歪む。兄、モノ・クロは弟の焼ける匂いを嗅いだ。
「何故お前はそうなのだテトラ」
兄の情けか、炎の勢いが衰える。
「俺は鏡を回収したら帰る。お前も、取るに足らんことに心を砕くのはいい加減やめろ。人は愚かだ。弱い。魔具の魅力に取り憑かれ、せっかく与えられた魂を自ら歪めてしまう。こんな虫ケラの一つ一つ、手を煩わせるに及ばん」
「やめません」
地獄の炎に身体を焼かれたテトラはなんとか立ち上がり、何年かぶりに会う兄を見返した。兄も昔は、テトラに近い姿をしていた。だが今は鬼と変わらぬかたちを取っている。
「確かに人は一人一人、小さく愚かです。何かを為すには与えられた時間も短い。でも小さいなりに自分たちの戦いをしています。テトラは、その者らの行く末を見守りたい。彼らを守るためなら、何度でも立ち上がります」
兄もまた、弟を見返した。人間の暮らしを愛し、愚かで弱い人と同じ形をとろうとする、愚弟。
箱の中の鏡を持ち上げた。鏡は、後方の巨大な月を映して活き活きと輝いた。確かに、その中からは人の気配がする。だが兄からしたらそんなものは路傍の草に等しい。叩き割ってやろうかと、さらに上へあげると、傷ついた弟が兄へ飛びかかろうと構える。その本気の目つきに、兄は言葉にならない思いでため息を吐いた。
「破片だ。愚弟よ」
「?」
「これは父上の鏡の破片だ」
兄は、その破片を床に放った。
「これだけでは完璧ではない。こんな物のために争うなど……俺には恥だ」
テトラは兄がそっと鏡を下ろすのを、緊張の面持ちで見つめた。
「こんな面倒なものは貴様に任せる」
兄はまた、何もない空気に拳を入れた。凄まじい振動にテトラの身体は浮き、バリバリバリ、と空間は割れた。現れた次元の入り口に兄はマントを翻し身体を入れる。去り際兄は大きくため息をついた。その息は熱波で、近くにあったホワイトボードが歪んだ。
「取るに足らん」
現れた時とは反対に、実に静かにこの場を去っていく兄の背中を、テトラは見守った。
兄は移動用の異空間に入りながら、弟のことを考えた。弱い、甘い、愚かな弟。
それなのに、背を向ける時、巨大な自分の身体が小鳥の骨のような情けないものに感じる時がある。
二人は長い間争い、交錯する思いもある。それなのにお互いに向き合えない。兄弟間の複雑な思いがあった。
静かになった生徒指導室に、テトラと先生は取り残された。月の光の下、人の形に戻った松原先生を抱き抱える。テトラもボロボロであった。
すると、二つのロッカーから影が伸びる。対になるものを依代に、黒衣の審判員が再び姿を現した。
『モノ・クロ様は決闘の放棄を宣言いたしました』
『よってこの決闘』
『王位継承順位第四位』
『テトラ様の勝利とします!』
また現れでた羊皮紙に、この闘いの結果が自動で記されていく。終わるとまた勝手にそれは逆に巻かれ、審判員の腹の中へ戻っていく。
するとテトラの柔らかい頬に、白い星が平手打ちのように贈られた。勝利の白星だ。
なかなかの勢いに面食らい頬をさする。さすっているうちに、その星はしゅう…と消えていった。
テトラはやり切った顔で、審判員達がまた影に還るのを見届ける。そして、頭を下げた。
また静かに戻った教室。月の光は変わらずある。
「ふぅ、こわかったぁ……」
心から安堵のため息をついた。
テトラは、炭のように固まっている松原先生の胸に耳を当てる。心臓は、ゆっくりと動いていた。先生の顔の灰を払ってやると、いくらか力の抜けた顔で安らかに眠っているようだった。
人は弱く脆い。しかし彼らなりに闘っている。ふぅ、ともう一度、でもさっきよりは小さいため息を吐いた。
テトラはそっと先生を床に降ろした。次に鏡を持ち上げる。鏡には窓越しの大きな月とテトラの姿が映る。だが鏡面が水面のように揺れると、一瞬泳いでいるようなコユキの姿が見えた。
「コユキの闘いだね。頑張って」
鏡の中
コユキは、水の中に深く深く沈んでいくように、鏡の中へ潜った。紅子の声がする。しかしそれは右からもする。上からもする。下からもする。左からもする。
ここは水の中ではない。だが苦しいと自覚すると、本当に苦しいような気がしてくる。そういう気持ちに捉われないように、コユキは声に耳を澄ませた。この中は暗い。奥行きも深さも分からない。感覚を、研ぎ澄まさせる。掴めそうなビジョンがある。
(集中だ……集中……)
コユキは自分の手首をギュッと握った。暗闇の中で、見えるはずのない物を見た。垂れ下がる紐。それはミサンガの紐だった。でも紅子が編んで、コユキにくれたものよりボロボロになっている。
イメージの中のその紐を掴もうとする。すると実際そのミサンガに触れたので、コユキは急いで引き寄せた。
それは臍の緒のように紅子に繋がっている。ふわふわと無重力の中のように、紅子の身体が引っぱられ近づいてくる。紅子はお腹の中の赤ちゃんのように丸まっている。その身体をコユキはぎゅっと抱きしめた。
(やっと見つけたよ紅子……)
帰ろうと、コユキが鏡の中を、水を掻くように這いあがろうとした時、紅子の身体がずしんと重くなった。
(やだ、怖い……)
平凡な中学二年生の紅子とコユキ。それでも、学校でも社会でも、安心できるはずの家でも、種類は違えど様々な戦いがある。紅子は、コユキのためにたたかってくれた。抱きしめていると、紅子の強がりで見えにくかった、寂しさや悲しみが伝わってくる。
(自分が嫌い……嫌い……)
陸上を諦めた日。
好きなオシャレを笑われた日。
強気すぎて弾かれた日。
松原先生を変えてしまったのは自分だろうか。
コユキにも、紅子が夜中の学校で、鬼の形相の松原先生に鏡に閉じ込められた瞬間のビジョンが見えた。
鏡の中に漂っていれば、もうそんな思いをする必要はない。コユキもふっと、意識が重くなるのを感じた。頑張るのを手放してここに留まっていたくなる。
(分かるよ、でも私、紅子と笑い合っていたい……それだけなの……)
少しずつ、紅子の身体が軽くなる。自然と、紅子とコユキの身体は浮き上がっていった。夢から覚めるように、その身体と意識は浮いていく。コユキは必死で浮上しようとした。
「ぷはっ!」
二人は、月が照る生徒指導室にいた。
「コユキ…?ここ、なに、どうして……」
「紅子……よかった、よかったよぅ……」
汚れや悲しみが洗い流された無垢な魂のように、抱き合って、泣いた。
松原先生の身体をもう一度抱き直し、テトラは、そんな少女二人を実に愛おしく眺めた。
「テトラ君……」
「お帰り、コユキ、そして紅子。みんなで帰ろう」
テトラ君の影から、クロードが生えてくる。生徒指導室の窓を飛び出し、夜空を駆ける。大きな樫の木から、傷ついた校舎を撫でるような膜が流れ出る。戦いで割れ、壊された校内の隅々が癒えていく。地面も、昇降口のガラスも、何もかも撫でられるように直っていった。肉屋の他に寄ってきていた穢れも、追いやられるように校舎の外へ逃げて行く。
クロードはバン爺と竹村を拾うと、また空へ向かって嘶き、舞い上がった。
街は静かに暗い。だがよく見ると、コユキは『肉屋』のようなものが徘徊しているのを見つけた。うろうろとさまよっている。だが、どこの家もきちんと戸締りされていて、入れる家はないことに、ホッとした。
遠い夜空の彼方に、見たことのない鉄道が空の上を駆けているのが見えた。煙が、機体の後ろの方に流れていく。
屋根の上に駆け回るのはネズミだろうか?いや違う、両手がハンマーの小人が、石を砕いて花火のようなものを出している。なんて美しくて楽しい。今までコユキが見てこなかった色々なものが、夜の街で繰り広げられている。
そして懐かしい、古いアパートが見えてきた。その建物は帰りを待ち侘びるように仄かな光が灯されて見えた。
何故か当たり前のように105号室の竹村の部屋に集合する。
鼻水を撒き散らして泣くららに、竹村がティッシュを出してやる。
「松原先生どうするの?」
「ここの住民に医者がいる。診てもらおう。文字通り、闇医者だがな!」
アパートの二階のどこかの部屋からバン爺が連れて来たその男は、長髪に汚れた白衣を着ていた。布団に横になる松原先生を診るなりこう叫んだ。
「一番の救済は……死だ!」
「ねぇ、他のお医者さんいない?」
コユキはさすがにそれは困ると、瞬時に医者の言葉を遮った。
目を見開き「死」と連呼する医者に、竹村は容赦なくコブラツイストをかける。
テトラは部屋の隅で、今回手に入れた鏡(破片)を見つめている。
「それが今回の戦利品?」
「あぁ……だがこれは所詮破片だ。取るに足らんよ」
兄の言葉を真似てテトラが自虐的に言った。
「取るに足らん」
「そんなことないでしょ、飛び上がって喜んじゃおうよ、ヤッターって」
「ふっ……はは、はははっ!」
テトラが大きな口を開けて、牙を見せて笑った。
コユキはテトラが笑ってくれて嬉しかった。そして、大きな鏡を見つめる。
これは、父王の元にあった時、確かに巨大な鏡であった。
本当ならこの鏡は、映ったものの嘆きを汲み取り、安らかな顔にさせたうえで、眠りへと誘う。父王は冥府の王と恐れられながら、そういう穏やかな導きを行う偉大な王である。
だが紅子曰く、その中にいた間の気分は「最悪」らしい。
せっかく乗り越えたことや忘れかけた嫌な出来事を全てさらけ出させ、人を弱らせ気力を奪う。本来の鏡の役割とは違ってしまっている。
松原先生は歪んだ正義感を焚きつけられ、鏡の言うなりになっていた。
地上に散った魔具達はこうして人を脅かし、本来の仕事を忘れて惑わしている。
いよいよ起こっている彼方の世界の異変に、テトラの気持ちは晴れなかった。
(急がなくてはいけないのかもしれない)
ふと、コユキが心配そうにまだ自分の方を見つめていることに気がついた。
「君はいい匂いがするね、コユキ」
コユキは顔を赤くした。
「だからぁ、そういうこと言わない方がいいって……」
最後の方はもじょもじょと言葉にならない。紅子がらんらんと、目を輝かせそんな様子を見ている。
「えぇっうちの親とかも全部忘れてんの⁉︎うちのこと」
紅子が驚きの声をあげる。
「うん……」
どう説明したらいいか難しかったが、あっちへ行きこっちへ行きの、うまくはないコユキの話し方だが、なんとか紅子に説明した。
「それって……ウケんね」
「ウケない〜!」
さっきまで命を脅かすような闘いをしてきたのに、もう日常にかえりかけている。
テトラは、取るに足らない人間、そんな者達が前向きに生きる姿、ささやかに起こす奇跡、そういうものを愛していた。
「ぼっちゃま……ららは信じて待ちましだよぉお!」
涙と鼻水が止まらなくて、ららの顔はいつまでもびしょ濡れだ。
留守番の間、ららがいてもたってもいられず、握り続けたお結びの数は十、二十、三十…もっとあった。そしてもしかしたら、いつもよりしょっぱいかもしれない。
「みんな、お腹を満たしてから眠ろう」
「そうだ、食べろ。ららは……こういう時役に立てない。でも、お前らはお腹が空くと辛いだろう。ららはそれを満たしてやることはできる。だから食べろ。みんな、食べろ」
ぐすり、ぐすりと涙を啜りながら、ららはお結びをすすめる。コユキも紅子も目を合わせ、それを受け取った。
つつましいアパートの一室で、人間達と異界の者たちは楽しく、にぎやかに食事をした。(ちゃんと診てもらえた松原先生は、時間はかかるが、ちゃんと治るだろうとのこと)
「なぁ……俺はなんで駆り出されたんだ?なんか人類代表として重要な役割があったとか?実は俺に隠された秘密の力とか……」
むしゃむしゃお結びを頬張りながら竹村が聞いた。
「何も。ただ家で寝させておくよりは役に立つかと思っただけだ」
「何も⁉︎何もってなんだ!でもめっちゃくちゃ身体張ったろうが!」
「そうだ竹村よく頑張った」
「ほんと!めちゃくちゃ頼りになりました!ねぇ紅子、この人竹村さんっ。頑張ってくれたんだよ〜」
あんな悲惨な目に遭ったのに巻き込まれた理由が特になかったのは不憫だ。コユキは一生懸命フォローした。紅子からも何かフォローしてくれないかと話しかけた。しかし紅子はうつむいている。
「紅子……?」
コユキはハッとした。そうだ紅子はずっと怖い思いをしていて、さっきはふざけて強がっていたのかもしれない。そのうえにこんな変わった人達に囲まれたから動揺しているのかも。紅子の気持ちを考えなかったことを、コユキは反省した。だが
「やばい、しぶ〜〜」
紅子の目は身体中に湿布を貼っているバン爺に釘付けになっている。
「やばぁ、うちああいうフンイキあるオジに弱いのかも……」
紅子のメロついている視線に気がついて、バン爺は残ってる片目だけで、下手なウインクを寄越した。
「えー!ギャップやば!」
「もー。あの人はただのふざけたおじいちゃんだからぁ。ウリボーがさみしがるよ」
「ウリが?なんで?」
「え……えっとなんでだろ……」
コユキは何故そう思ったのかよくわからなかったが、目を泳がせた。
「てかお姉さんもかわいー。マジビジュつよ〜。じどろー。ってかうちのスマホどこ」
紅子は、やっと涙が乾いてきたららにも絡む。
「ギャルの適応力つよっ」
コユキは笑った。
ひと心地ついたコユキは、紅子に尋ねた。
「なんで夜の学校に忍び込んだの?取り返すって……何を取られちゃったの?」
紅子はスカートのポケットをごそごそと探る。切れた一本の紐を取り出した。
「これって……」
「ごめん、松原のやつに切られちゃって」
それはコユキが紅子のために編んだミサンガだった。紅子が編んだものよりずいぶん不器用な仕上がりだ。
「こんなもののために危ないことしないでよ〜……」
コユキは紅子によりかかり、涙をこぼす。
下手すぎて、紅子はつけてくれないだろうと思っていた。
「何言ってんの、ぶきっちょのコユキが作ってくれたんだよメチャ大事だし」
紅子もコユキに寄りかかる。
「ぶきっちょは余計だよぅ」
「でもうちもやっぱよくなかったかも。まっ先(松原先生)やりすぎでムカついてたし、こーちょーが味方してくれて、うちらが正しいみたいな感じで調子のったかも」
二人はまだ眠っている松原先生の方をみた。
「ただしーってむずかしいね。まっせんもさぁ、あんなに思い詰めることなかったんだよ…もっと楽しくさぁ…」
コユキは、紅子の肩にもたれた。紅子もそちら側に傾いた。怖かったし、頑張ったし、自分達が間違えて、反省することもたくさんあった。
テトラは肩を寄せ合いながら食事する、コユキと紅子、二人の少女を見た。
昔のことを少しと、テトラとバン爺
テトラが冥府に産まれた時、もう故郷は弱り傾いていた。
誰からも守られ、誰からも祝福される筈の、赤ん坊の時期もなかった。王の子として恵まれた暮らしをする間もなかった。世の中の何もわからないまま、継承者としての戦いの中に放り出された。
バン爺は、テトラが産まれた時のことをよく覚えている。
かつてバン爺は、父王の側近として使えた強靭な槍であった。だが父王と共に彼も老い、自分の衰えも知った。力がみなぎり、栄えていた時代を知るバン爺にとっても、衰えた冥府を見ているのは辛かった。
もはや自分にできることはないと、バン爺はここを去ることを決めていた。
しかし、もう一人、継承権のある子の誕生の予感に、バン爺は、その子の様子を見届けてから消えようと思った。
ところが、その生まれた子は、他の兄弟とは比べものにならないほど醜く弱い、芋虫のような姿で生まれた。呼吸すら貧弱。これでは王になるどころか、生きることすら、難しそうだった。
新たな王子の誕生に希望を見出しかけていたバン爺の心は折れた。
この子に期待できることは何もない。殺してしまおう。いくら醜い芋虫のようとはいえ、王子を手にかけるのは重罪だ。もちろん自分も死のう。
冥府と王に長年尽くした自分の、最後の仕事にしようと、バン爺は決めた。
だがその芋虫は、バン爺が捻り潰そうとしてもあがき、生きようとした。あってないような手足を必死に伸ばし、立ち上がり成長しようとした。
そしてその子はテトラと名を授かった。
バン爺はこの小さい王子から、勝手に諦めようとした己の愚かさを気付かされた。
そして、もうどんなことがあっても熱く燃えることはないと思っていたバン爺の、心と身体はもう一度奮い立った。
この気高く小さな王子に、自分の魂が真に燃え尽きるまで、尽くすことを決めた。
バン爺と、泣き虫で弱虫であったテトラの旅が始まった。
そして旅の途中、小さく死ぬはずだったトカゲに出会った。テトラはそのトカゲを助け、トカゲは彼の力になりたくて、魔具の力を借りて姿を変えた。それがトカゲの姫ららである。
そしてテトラは彼らと共に、微力ながら継承戦争いに奮闘する。その中で、世界中の美しい景色、たくさんの人々、その人達が作る幸福を見てきた。そうしていくことで、テトラの中で、王になろうという夢も固くなっていった。そして、どんな王になろうかという姿も、定まっていった。
テトラが見てきたものは美しいものだけではない。壊されていく景色もあった。幸福だった人々が犯してしまう過ちもある。
長い旅だ。戦争で瓦礫だらけになった街も歩いた。爆音を頭上で聞いたこともある。
疫病や飢餓で、積み重ねられた死骸のそばで眠ったこともある。
犯罪、飢餓、伝染病、戦争、テトラ達は、地上に起こるたくさんの困難も見てきた。
だが今テトラの空のような瞳には、紅子とコユキ、この少女達の何世代か前の魂の形が、思い出され見えている。
生まれかわり、姿や形が変わっても、絆の深い魂はまた出会うことがある。
あの頃も彼女達は、自分達ではどうしようもない苦難の時代に見舞われながら、手を取り、肩寄せ合い、生きていた。
そしてテトラも、辛い戦いの中で、そんな小さな人間達に励まされたのだった。
だからテトラは誓う。この小さな命達が最後の瞼を閉じる時、安心して迎えられる冥府をつくる。そんな王になるために、弱くとも諦めるわけにいかないのだと──。
お腹が満たされ、食後にはりんごもかじった。ららがいれてくれたお茶を飲むと、賑やかだった部屋の中はだんだんまどろんでいった。
だが竹村はこの部屋から女子中学生を朝帰りさせるわけにいかないと頭を下げた。
テトラも、コユキと紅子はそれぞれの家に帰るべきだと思った。眠っている二人を送ることにした。
表に出ると日がのぼっている。クロードをもう一度呼ぶと、静かに出てきて、テトラに鼻面を撫でてほしいと押し付けてきた。テトラも、この頼りになる黒馬の期待に答えた。たてがみに、朝の光がきらきらと当たる。
テトラはコユキを、後ろのバン爺には紅子を頼み、まばゆい朝日の空に向かって、馬は空を蹴った。
(完璧ではないとはいえ僕のリストはどのくらいになっただろうか……)
テトラは今回の戦いで得たもののことを振り返り、思案する。
圧倒的に先を行くのはモノクロ兄である。だが彼は、テトラを引き裂くことも容赦しないうえに、巻き込まれた人間のことも全く歯牙にかけない。
バン爺は、兄のことを立派な人物だと誉めるが、テトラは永く彼とは分かり合えないままである。勝てたであろう今回の戦いから手を引いた理由も、よくわからない。
またその強くて恐ろしい兄とも会わねばならない。それと、姉達ともきっと近いうち顔を合わせるだろう……。一つ終わったようで、まだまだ道のりは長いのだ。
だが今は、のぼりかけた美しい日の光の下、安心して眠るバラ色ほっぺのコユキの寝顔に浸っていたい。抱きかかえているその子を見下ろした。
(君は覚えていないんだものな……)
寒さに震え、紅くなった指を擦り合わせた、目を覆いたくなる悲惨な時代。昔にあった出来事を、テトラだけが、ふと思い出す。
まず紅子を、次にコユキを。無事に送りベッド寝かせた。それを見届け、二人は去ろうとした。
するとコユキがふと目を開ける。
「ねぇ……テトラくん」
テトラは驚き振り向いた。朝の光が、コユキの部屋に満ち、二人は真っ白な中にいた。
「また会えるよね、なんだかもうお別れみたいな、寂しい背中に見えたから」
「分からない……たくさん怖い思いをさせたよ。だから、忘れた方がいい」
「どうしてそんなこと言うの、私の友達も紹介したいし、テトラくんのことももっといっぱい聞かせてよ」
「君が…君が目を覚ました時また、めいおう荘のドアを叩いてくれるなら」
「なんだ、それなら簡単だよ。明日すぐいくから、放課後行くから、紅子も、ウリボーやマサルも誘っていっちゃうから……」
「……そうなったらどんなに楽しいことだろうね」
うとうとと夢現の顔のまま、コユキは眠りに落ちるのかと思うとがばっと起き上がり、無意識なのだろうが、ささっと着替えて、再び、ベッドに潜った。
その間テトラは両手で顔を隠して見ないようにする。
そっと指を広げ隙間から見ると、コユキが平和に毛布にくるまっていた。
「本当に……そうなったらどんなに楽しいことだろう」
朝日が街中に光を届けている。穏やかな一日を約束するような、爽やかな光だ。
「僕のやらなければいけないことを忘れて、のんびりすごしてしまいそうだ」
テトラは、少し夢をみる。コユキの言ってくれたように、めいおう荘に人が集う。ららの食事を、今日のようにみんなで喜びながら食べる。
学校で会った男の子二人、ウリボーとマサルというのが、野球を教えてくれるかもしれない。野球は昔からよく見ていた。テトラも、そういう一員のように過ごす……。
でも、とテトラは頭を振るう。そういう、普通の人々の営みを守るために自分はいるのだ。そういう人たちがのびのびと自分の生を全うし、あぁいい人生だったと最後の瞼を閉じる。その時、安心して旅立てる冥府を作るのだ──。
(辛くとも諦めたらただ虚しいだけだ)
空で、クロードとバン爺が待っていた。付き合わせたことにテトラは礼を言う。
「ありがとうバン爺」
「いえいえ、ぼっちゃま…また一つ逞しくなられましたな」
「そうかな……」
バン爺はまぶしさのためだけではなく、目を細め、テトラを見守った。
「はい、右肩上がりの一途!」
テトラは、姿も心も人に限りなく近い。心はともかく、そういう姿を自分で選んだ。テトラがそうしたいならと、ららもバン爺もそれに合わせる。
人に近いからこそ、痛みも弱さも理解してやれるのだろう。人と関わりたいという願いもあるのだろうか。バン爺は、テトラのその弱さと優しさに、胸を痛めた。
優しさは彼にとって諸刃の剣である。
だがテトラが、その優しさを持ち続けたまま王になれたら──。
滅びの一途と思われたこの世も冥府も救いの道があるのではないだろうか。バン爺はそんな淡い期待を持っているのであった。
エピローグ
今夜の激しい戦いのことを、眠っていた他の人々は何も知らない。
紅子とコユキも、もしかしたら起きたら忘れてしまっているかもしれない。テトラ達はそういう存在なのだ。
人間と彼らの時間は違う。気味悪がられないようにずっとそうしてきた。テトラはいつも、少しの温もりと思い出をもらい、それを支えに頑張っている。朝日がのぼって迎えた一日を、彼らが大切に過ごしてくれることを祈りながら。
まだ続くこれからの彼らの奮闘も、起こした奇跡も、色々な不思議な出来事、長い長い過去のこと。兄弟たちとのこと。とても語りきれそうにないのだが、それはまた別の機会に。
テトラは言う。この世に散らばってしまった魔具の影響ははかりしれない。
まるで争われることや見つかることを望むように、その動きが活発になってきた。だから紅子達のように
「君たちを巻き込んでしまうかもしれない」
長く停滞していた継承戦にも大きな動きが現れている。この世も、冥府も大きく変わろうとしているのかもしれない。
君たちの周りにも、たくさんのお話はあるだろう。
関わった人々の記憶に微かに残るのか、うっすらと、テトラの噂話が伝わっているようだ。その話はこの美しく優しい少年とは大きくかけ離れすぎているほど、おおげさに、不気味に伝わっているものもあるようだ。
怖いお話、奇妙な噂……。それらのほとんどはみんなの口から口へ伝わるうち、ネットの海を漂ううちに、すっかり形をかえたものもあるだろう。「死神王子」なんて噂は、特に疑って聞いてみてほしい。
何か不思議な困りごとに遭遇した時、それが人の力だけで解決できないことだとしたら。
彼の力が必要な事件かもしれない。そうしたらあなたも彼に出会えるだろうか。
勇気と覚悟を持って叩けば、その扉は開かれる。
怖がらなくていい。その子は、きっと優しく手を差し出してくれる。その子の名前は──。