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世界の入り口は100mlだった

    光は、生まれた日からずっと、匂いだけで世界を選んでいた。
    母乳もミルクも、哺乳瓶を近づける前に顔をそむけた。
    検診で「牛乳飲ませてくださいね」と言われるたび、胸の奥がひりついた。
    飲めるなら飲ませている。
    理由の分からないまま責められているような気がして、病院の帰り道はいつも少し長かった。

    幼稚園に入っても、光は背の順で一番前だった。
    小さな背中を見るたびに、飲めなかった日々とどこかでつながってしまう。
    給食で牛乳が配られると、光はそっと視線をそらした。
    触れようとしない。
    興味を示したことは一度もなかった。

    そんな光が、ある日テレビの前で立ち止まった。
    画面の中で、大好きなキャラクターが100mlの小さな紙パックを飲んでいた。
    光はその画面を指さして言った。

    「これ飲みたい」

    その声は小さかったけれど、迷いがなかった。

    近所のスーパーで同じ100mlを見つけたとき、棚の前で、立ち止まった。
    本当に飲むのか、ただの気まぐれなのか。
    期待と不安が、静かに混ざった。

    家に戻ると、光はすぐに手を伸ばした。
    両手で小さな箱を包み込むように持ち、ストローをくわえた。

    部屋が静かになった。
    空気が、薄い膜のように張りつめた。
    時計の音が、いつもより大きく聞こえた。
    光のまつげが、わずかに震えていた。
    その小さな揺れに、胸の奥がきゅっと縮んだ。

    光は、ゆっくり、ゆっくりと飲み始めた。
    一口飲むたびに、ほんの少しだけストローが沈む。
    その沈み方が、光の世界の狭さを教えてくれるようだった。
    50mlを飲み切るまでに、1時間かかった。
    それでも光は途中でやめなかった。

    飲み終えたストローをそっと抜いたとき、心が熱くなった。
    光が牛乳を飲んだという事実だけで、世界が少し変わったように感じた。

    ──でも、このときはまだ、なぜ飲めたのかなんて分かっていなかった。

    何年も経って、ようやく分かった。
    光は乳製品の匂いだけを、刺すように強く感じてしまう子だった。
    哺乳瓶に入れた瞬間、温度と一緒にふわっと立ち上がるあの匂いが、光には強すぎた。
    だから母乳も粉ミルクも、飲む前から拒否していた。

    100mlの紙パックは違った。
    ストローを刺すまで匂いが外に出ない。
    飲むときも、ほとんど鼻に届かない。
    光にとっては、哺乳瓶よりもずっと“静かな匂いの世界”だった。

    私はずっと“飲ませる側”の視点でしか見ていなかった。
    光の世界に触れようとしなかった。
    気づけなかった時間の重さが、今になって胸に沈む。
    あのとき光は、ただ飲んだんじゃない。
    自分の世界を守りながら、外へ出ようとしていた。

    光が選んだのは、キャラクターの真似でも、飲み切りサイズでもなく、
    匂いのしない飲み方だった。
    あの小さな100mlは、光が自分を守るために踏み出した、最初の一歩だった。


    光は、匂いのない100mlだけを、世界の入口に選んだ。




     
     
    月音(つきね)。 🌙『消えなかったもの』 🐸『月音のあのね』 ❄️『こころ箱』 🗺️『月音商店街』ショートショート絵本 を書いています。 創作では【月一音】名義。 CASIO公募で選出歴あり。 『月音商店街』を本にできたらと思っています。 出版・掲載のお声がけはDMへ

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