
父と娘とグローブと。
弟が生まれる前だったはずなので、わたしがまだ幼稚園児にもなってなかった頃の話。
天気のいい日曜日、父が散歩に誘ってくれた。これはきっと公園に行くんだろう、一緒に遊ぶに違いないと想像して二つ返事でワクワクと出発した。ブランコもすべり台も大好きだった。
目的地を教えてもらえないまま歩き出すと、方向的に公園に向かっている。
ほら、やっぱり!
が、公園に行くなら左に曲がるはずの場所で右に曲がった。初めて通る知らない道。手を引かれるままに知らない家の間を進む。
頭の中にはここはどこ?でいっぱい。
よくわからない思いを抱えてとりあえず進んでいくと、進んでいる方からカキーン!と空まで突き抜けそうな心地よい音がした。低くて太い大声が聞こえ始めて、いよいよわけがわからない。
そして到着。したらしい。
目的地は自宅から1番近い高校のグラウンド。そこでは大勢の野球部員が練習をしていた。
つまり父は自分が高校の野球部の練習を見たいがために、口実としていたいけなわたしを連れ出したのだった。
大人のわたしなら、幼い娘を相手に100%自分仕様のそのチョイスはどういうつもりなのかと言葉にできる。が、残念ながらこどものわたしには何故ここにいるのかと渦巻く疑問を言葉に変える技量がなかった。
しかし同時にとても素直だったわたしは、ニコニコと練習を見守る父にならっておとなしく高校球児達を見ていた。
投げる。打つ。走る。捕る。そして大声を出す。
ルールも専門用語もわからなかったがこれらの動作が行われているのは理解できた。
昨日の夜、家のテレビで見ていたプロ野球もこんな動きをしていたな。お父さんも応援している巨人ってチームとか。
そう時は20世紀、北海道を本拠地とするプロ野球チームはまだ存在していない。テレビも選択肢は多くない。そんな地方の事情から周りは読売ジャイアンツファンがとても多い時代だった。例に漏れずわたしの父もその一人でプロ野球をテレビで見るイコール巨人戦だったし、年に一度円山球場で開催される巨人戦も仕事を休んで見に行ったことがあったらしい。
らしい、なのは流石に学校を休ませてまで娘を連れて行ってはくれなかったからだ。あの頃は学校を休んで楽しいことを満喫するというのが今のように許されない時代だった。わたしはその後何度か札幌ドームにて野球観戦する機会に恵まれたが、結局円山球場とはいまだに縁がない。札幌麻生球場なら母校の全校応援で経験がある。
それはそれとして。
近所の高校の野球を満喫した父と生まれて初めての刺激的な経験を得たわたし。それまで以上に一緒にテレビで野球を見るようになった。ルールを教えてもらい、選手の名前を知って何チームもの存在を理解して、パ・リーグとセ・リーグというのがあることも聞いた。
ただし、残念ながら父と娘で応援するチームが違う。先述の通り父は巨人。わたしは広島を贔屓にするように。理由は帽子の色が赤色だから。当時のわたしは赤色が好きだったのだ。広島の真っ赤な野球帽を買ってもらいもした。
父と娘で応援するチームが違うことについて特に何かを言われた記憶がない。巨人対広島は二人の中で大いに盛り上がったことは覚えている。つくづく好き放題させてもらっていたと改めて思う。
そして野球を観る経験値をある程度増やした頃、わたしは子ども用のグローブを買ってもらった。
繰り返すが弟が生まれる前の話である。今よりももっとはっきりと男女差とか役割や好みがキッチリと性別で周囲から決められていた時代に、幼い娘にグローブを用意するとはなかなか先進的でよかった。我が父ながら尊敬する。
早速はめるといつもの左手よりずっと重くなった。まだなじんでいないグローブは硬くて思うように操れない。それでも手を広げたらグローブも広がるし、ボールを包むように動かせば狙った通りに閉じてくれた。
自分の手なのに自分の手じゃないみたい。
それが面白くて、何度も父にボールを放ってとせがんだ。小さな子どもでも簡単に取れる、力加減のコントロールされたボールがグローブの真ん中におさまり、ワンテンポ遅れて左手を動かして閉じ込める。熟達のプレーヤーが見たらさぞかし拙い動作だったろう。でもすごく楽しかった。
幼いわたしは自分のグローブが嬉しくて、父の仕事が休みの日はよくキャッチボールをした。飛んでくるボールを受け止めることも、それを相手に投げ返すことも小さな女の子には難しい。
ちゃんとキャッチできたら大いに褒められて、めちゃくちゃな方向にボールを投げたらボヤきながらも全部拾ってくれる。おかげさまでいつのまにか技術が向上した。と思う。学校生活でボールを投げたりグローブでキャッチしたりすることに何の恐れも苦手意識もなかったのだから。
その後弟が生まれ、大きくなると今度は三人でキャッチボールをするようになった。さらには三人いればピッチャーとキャッチャーとバッターの役割をそれぞれ担当することもできて、年々遊びの幅が広がった。
楽しい遊びではあった。でも同時に楽しいだけではなくて上手くなりたいとも思った。
とても負けず嫌いの小学生だったわたしはある時自分の技量に行き詰まりを感じた。何か打開策はないか。父と弟と対峙するにあたってとびきりの秘策は。
そしてテレビで見たプロ野球選手の姿に活路を見出した。アンダースロー投法である。見よう見まねの奇策に父は笑っていた。弟も真似して取り入れていた。そうやって創意工夫や試行錯誤を重ねて繰り返した日曜日は姉弟が大きくなるにつれて自然と回数が減り、誰が言い出したわけでもなく嫌気がさしたわけでもなく、気がついたら終わっていた。
結局わたしは選手として野球をやってない。野球の少年団は側にあったし中学校にはソフトボール部もあった。でもなぜか野球を選ばなかった。今にして思えば身近なものすぎて、好きすぎてなのかもしれないし、父と弟と存分に楽しんで満足してしまったのかもしれないし。
ただただ無邪気に遊んでいた野球は、振り返ってみると父と娘の大きなコミュニケーションツールだった。
毎週のように遊んだ日々が思春期でさえ父と娘が二人で出かけることを当然にしたし、実家暮らしの社会人だった頃タイミングが合えば一緒に帰宅することにためらいをもたらさなかったのかもしれない。
今でも実家を訪れると高確率で父は野球を、それも巨人戦を観ている。